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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第9回 52 - 63
   52
 
 三月の十三日には学校で何の行事もないらしい。土曜日だ。それなら教職員の知らないところで、生徒たちは何か計画をしているのかもしれない。
 君津警察署の生活安全課に勤める波多野刑事は、頭の中で不安が大きくなっていくのを感じた。次々と何かが起きてる。
 放火事件は二度目が起きて、連続放火事件になった。しかし今度は放火殺人だ。足の不自由な祖母が逃げ遅れて焼死した。直ちに千葉県警の捜査一課から四人が派遣されて、彼らの仕切ることになった。波多野正樹はアシスタントに退き、これまでの捜査資料を渡した。
 目星をつけた君津南中学の二年B組の男子生徒が、第二の放火現場の写真にも写っていた。両方の場所にいたのは彼だけだった。これで決定的となった。しかし相手は未成年者なので、捜査は慎重に進めなければならない。少年の名前と住んでいる家は波多野が一人で調べ上げた。これから放火現場の近くに設置された監視カメラに残された映像を分析して、少年の容疑を固めていく。逮捕までは、もう少し時間が掛かりそうだ。
 君津南中学の二年B組の窓から転落した少年の捜査は、進展がない。このままでは自殺か、誤って転落したという線になりそうだった。しかし多くの疑問が残る。わざわざ窓から身を乗り出して、どうして転落したのか。最近は上手く行っていなかったらしいが、ガールフレンドが側にいたのは何故か。彼女は毒を盛られていて、視覚と聴覚が麻痺していた。警察の捜査に協力できない状態だ。少年のカバンから毒薬の白い粉が採取されたが、その入手経路が分からない。
 そして新たな心配が浮上した。息子の孝行だ。最近は頻りに何人かの友達に電話している様子が気になった。
 『三月の十三日に学校に来てほしい』と、訴えているのを何度が耳にした。夕飯のカレーを食べながら波多野正樹は向かいに座る息子に訊いた。
 「お前、三月の十三日に学校で何かあるのか?」
「……え、知らないけど」
「おい」
「なに?」
「さっきも電話で誰かと話しをしていて、三月の十三日に学校へ来てくれって頼んでいたじゃないか」
「してないよ」
「……」息子の返事に驚くしかなかった。「まさか覚えていないのか?」
「だって、してないもん」
「オレは聞いたぞ、お前が電話をしているのを」
「何かの間違いじゃないの」
「……」何も言えない。
 父親に嘘をつく息子ではなかった。ふざけている様子もない。本当に覚えていないらしい。理解できなかった。
 担任の加納先生に電話して、学校には何の予定がないことが分かった。そのことで波多野正樹は確信に近いモノを感じた。
 三月の十三日に学校で何かある。いい事じゃない。きっと何か悪い事に違いない。問題は自分に、それを阻止する手段と能力があるかどうかだ。得体の知れない不気味な存在に立ち向かうような気持ちだった。

   53

 篠原麗子は悩んでいた。
 大怪我をした義理の父親は君津中央病院に入院した。当分の間は退院できない。母親と二人だけの生活へ戻れた。
 憎らしいから奴のアソコを食い千切ってやろうと思った、と正直に話すと、娘の大胆な行動に驚いたのか母親はしばらく黙ったままだった。叱られるかもしれないと身構えた。でも耳に届いたのは慰めの言葉だった。
 「よく分かった。お母さんが後は引き受けるから、もう大丈夫だよ。悪いようにはしない。つらい思いをさせてしまったけど許してほしい」
 嬉しかった。義父と別れて再び二人でアパートに暮らせるんだと期待した。ところが、そうはならない。
 母親は駆け引きの達人だった。夜の仕事で培った酔った客の扱いの巧さが発揮されたのに違いない。娘への性的虐待を武器にして、義理の父親だった男に迫った。
 男は刑事告発を恐れた。何とかして示談で済ませたい一心だ。市役所の仕事を失うわけにはいかない。両親は老齢だが健在で、彼らにとっては自慢の一人息子らしい。もはや麗子の母親の言いなりだった。
 新築の家とグリーンのベンツ、それに高額の慰謝料を母親は手にした。男はアソコの機能を失っただけでなくて無一文になる。残っているのは住宅ローンの支払いと公務員の仕事だけだ。そして離婚届にも判子を押した。
 すべての事が片付いたとき、新たな生活は麗子の望んだのとは違った。母親が元に戻ってくれない。どんどん派手になっていく。若い女性が着るような服に身を包み、ルンルン気分でベンツに乗って出かけて行く。娘の麗子が見ていて恥ずかしくなるほどだ。近所に住む山田道子に知られたら大変だ、と気が気でなかった。
 最悪なのは、学校から帰ると頻繁に家で若い男と顔を合わすことだ。ほとんどが、いつも初めて見る人だった。お友達よ、と母親は言うけれど信じちゃいない。娘が学校へ行っている間に、二人が家の中で何をしているのか想像はつく。あたしだって、もう子供じゃないんだから。 
 塞ぎ込んだ顔を気づかれたのか、転校生の黒川くんが声を掛けてきた。義父のアソコを噛み切ったらいい、とアドバイスをしてくれたのは彼だ。計画は上手く運んだが、その結果は期待していたのと違う。それを話した。
 「もう祈るしかないかもしれない」彼は言った。
「え、どういう意味?」
「三月十三日の土曜日に、みんなで教室に集まって『祈りの会』を開く予定なんだ」
「何、それ?」
「みんな、それぞれ悩みや願望を抱えているらしい。それが解決したり、叶ったりするように祈るのさ」
「二年B組の生徒が全員?」
「いや。全員とまでは言えないが、ほとんどかな。まだ古賀千秋さんには声をかけてないけど」
「ふうむ」
「篠原さんには、ぜひ参加してほしいな」
「いいよ。あたしも行く」
「よかった。そこで頼みがあるんだ」
「なに?」
「同時に、ぼくと加納先生が仲良くなれるように祈ってくれないかな?」
「え、黒川くんと加納久美子先生が?」
「そうだ」
「歳が違い過ぎない?」
「わかってる。だけど全員の思いが集中すれば大きなパワーになるんだ。それを利用して一人ひとりの悩みや願望を解決するさ」
「へえ」
「もう一つ、お願いがあるんだ」
「なに?」
「ローソクを何本か用意してくれないか?」
「いいけど。でも何に使うの?」
「思いを集中させるのにローソクの火が必要なんだ」
「なるほど。何本ぐらいあればいいのかしら?」
「十本ぐらいでいいかな」
「え、十本も?」ドキッ。その本数を聞いて篠原麗子はDマーケットでの出来事を思い出す。形だって似ていた。
「うん」
「お、……大きさは?」声が上ずってしまう。
「普通でいいかな。細かったり小さかったりするのはマズい。炎が消えやすいと困るんだ」
「……」額に汗が滲む。つまり太くて長い方がいいらしい。
「や、……やっぱり硬い方がいいんでしょう?」
「え、どういうことかな?」
「あっ、な、何でもない。ごめんなさい」ローソクって、どれも硬さは同じだったことに篠原麗子は気づく。
「用意してくれるかい? お金は後で払うから」
「う、……うん」自信はなかった。でも出来ないとは言えない。
「ありがとう」
「古賀千秋は、あたしが誘ってみようか?」
「そうしてくれると助かるな」
「わかった」 
 その日の晩に、篠原麗子は古賀千秋に電話した。学校で面と向かって話したくはなかった。額の汗と火照った顔を見られたくないからだ。
 「千秋、いま話せる?」
「大丈夫だけど、なに?」
「三月十三日の土曜日に、黒川くんが学校で『祈りの会』を開くらしいの」
「何よ、それ? 『祈りの会』って」
「それぞれが持っている悩みや願望を、みんなで祈って解決するんだって」
「へえ、面白そう」
「一緒に参加して欲しいんだけど?」
「いいよ」
「それとローソクが必要なんだ。あたしが買いに行くように頼まれちゃったの。付き合ってくれない?」
「いつ?」
「明日でも。学校が終わってから」
「わかった」
「ありがとう」ああ、助かった。
 篠原麗子は一人で買いに行く自信がない。またエッチなオジさんが横から出てきて、お節介をされそうで怖かった。
『何をやってんだい、お姉ちゃん。そりゃダメだって。ローソクなんか、あんたの役に立つもんか。そういう事だったらサラミに限るんだ。見てごらん、この先端の丸み。ここが大切なんだから。硬過ぎることはなく、また柔らか過ぎることもない。使って滑らか。デリケートなところに触れさせた瞬間の心地良さが大きく違う。悪いことは言わないからサラミにしなさい。太さだって、お姉ちゃんの身体には丁度いいと思う。ローソクは細すぎて、満たされた感じがしないだろうから』
こう言われてしまったら終わりだ。もう逆らえない。ローソクを買いに行って、サラミを持って帰ることになったら、きっと黒川くんは激怒する。どうしたってサラミにローソクの代わりは務まらないもの。
 『ゴメンなさい。ローソクがサラミになっちゃったの』
 こんな謝罪を誰が受け入れてくれようか。みんなが馬鹿にした目で見るに決まっている。篠原麗子っていう女は早熟なくせに買い物は満足に出来ないらしい。そう思われてしまう。
 とても一人では買いに行けない。不安だ。気の強い古賀千秋の助けが必要だった。万引き事件を起こしたって平気な顔をして学校に来ていた。二年B組の学級委員長も、辞任する気持ちはなさそう。さすがだ。
 「ところでさ、麗子」
「なに?」
「まだ、あのサラミは残っている?」
「えっ、……」ドキッ。どうして、あたしがサラミで悩んでいるって分かったの? もう、恥ずかしい。「う、うん、……ま、まだあるけど。どうして?」
「もし良かったら、何本でもいいから少し譲って欲しいの。あれって、すごく使いやすいのよ」
「え、どういう意味?」
「あ、……つまり、すごく美味しいってことよ」
「そうなの」ああ、よかった。気づかれたんじゃないらしい。「それなら明日、学校に持っていくから」
「うれしい。この前は二本もらったけど、一本は古くなったから友達に上げちゃったのよ」
「そうなんだ」よく意味が分からないけど。
「じゃあ、明日」
「わかった」
 篠原麗子は持っているサラミすべてを、古賀千秋に渡してしまう気だった。もう用はない。あれを目にする度に、精肉コーナーにいたエッチなオジさんの言葉を思い出して嫌だった。『お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ』
 Dマーケットの近くを自転車で通ると、ここの精肉コーナーで働くエッチなオジさんが、あたしのことを待っているんだと意識してしまう。忘れたいけど忘れられない。その度に、背中から腰にかけてゾクゾクした感覚が走った。いやらしい。でも溶けてしまいそうになるほどヘンな気持ち。あたしって、こんなに淫らな女だったのかしら。あの母親の娘だから仕方ないのかもしれないけど。
 ある日曜日の午後だけど、もう身体がムズムズして堪えられなかった。自転車でDマーケットへ急ぐ。一階の食料品売り場をうろうろ回った。足が精肉コーナーに近づく度に、強烈な快感が身体を貫く。もう汗びっしょりだ。あのオジさんに見つかるかもしれないというスリルに痺れた。もし声を掛けられたらどうしよう。そしたら『また相談に来ました』と言うしかない。 
 きっとエッチなオジさん二人が、ニヤニヤしながら迎えてくれるだろう。この前みたいな、すごく恥ずかしい目に遭わされるのは間違いない。それは困る、……でも、もう一回ぐらいだったらいいかな、と思ってしまう最近の篠原麗子だ。これまでは、そんな考えを持ったこともなかったのに。どんどんセクシーに大人びていく身体に、心が追いついていけない。
 胸の膨らみについては、こんなに早く大きくなって欲しくなかった。みんなの注目を集めようとしているみたいで、すっごく恥ずかしい。
 いつだって男性たちが熱い視線を送ってきた。それが、もう小学生の男の子から中年のオヤジまでが。『あたしは見世物じゃありません。もう見ないで下さい』、そう叫びたかった。と同時に着ている服を脱いで、この女らしい身体を自慢したいという気持ちになったりもした。
 中学二年で、この状態だった。これから高校、大学へと続いていく。早熟な身体をコントロールしていけるか自信がない。どうなってしまうんだろう。すごく不安だった。
  

 54

 起死回生のチャンスが到来だ。西山明弘は意気込む。今度は失敗するものか。強い自信があった。相手は気難しい思春期の女じゃなくて、たかが十四歳のガキだ。勉強はできるかもしれないが、考えていることは単純そのものだろう。
 『黒川拓磨が、あたしの手に余る』と、加納先生から助けを求められた時は飛び上がりたいほど嬉しかった。手塚奈々を上手く説得できなかったことで、オレへの信頼は失墜したと思った。これでターゲットは安藤紫先生一人に絞るしかないと諦めていたのだ。
 悔しさから、二年B組で次々に起きる不祥事に担任の加納先生に対して辛く当たってしまった。お前に指導力がないから、こんな事が続くんだろう。そんな感じだ。ところが、まだオレを頼りになる男として認めてくれていたらしい。しっかり成果を挙げて、彼女にとっての憧れの存在へと登りつめたかった。
 黒川拓磨なら手塚奈々と比べれば赤子の手を捻るようなもんだ。まさか時給三千円でアルバイトもしていないだろうし。外見も子供そのもので、男としての魅力なんかあったもんじゃない。
 学年主任である西山明弘は、すぐに問題点に気づく。黒川拓磨は
担任の加納先生を教師ではなくて、異性として意識しているのだ。注目してもらいたくて何かしら事を起こす。手っ取り早いのが、悪さをして加納先生を困らせることだろう。
 やり方が稚拙だ。まあ、中学二年程度の知識と経験じゃ、それぐらいが精一杯かもしれない。
 年上の女性に憧れる年頃でもある。まして担任教師が魅力的な女性だから尚更だ。無理もない。そんな時期が自分の過去にもあったから良く分かる。
 『いいか、加納先生を困らせるんじゃない。今、お前にとって大切なのは勉強だ。このままいけば木更津高校に間違いなく合格できる。頑張れ。オレが応援してやるから』
 このぐらいの言葉を掛けてやれば、きっと奴は態度を改めるに違いない。一件落着だ。そして、これを切っ掛けにしてオレと加納先生が急接近する。
 『西山先生、ありがとう御座います。彼と上手くコミュニケーションが取れるようになりました。さすが主任です。お礼と言っては何ですが、今度いつか食事を御馳走させて下さい』
 こんな言葉が加納先生の口から聞けたら大成功だ。オレのレガシィで迎えにいって、ディナーの後は夜のドライブと洒落込みたい。鹿野山に上って、二人で君津の夜景でも見に行こうか。考えると、どんどん気持ちがウキウキしてくる。西山明弘は、やる気満々だった。
 「黒川、そこに座りなさい」
「何ですか?」
「まあ、いいから。体育の森山先生には許可はもらってある。少しぐらい授業に遅れても文句は言われない。安心しろ」
 体育の授業が始まる前の休み時間だった。二年B組の教室には西山と黒川拓磨の二人だけだ。手塚奈々と話した時と同じ所で、机を間に挟んで向かい合って椅子に腰を下ろした。
 今度は時間が掛からない。すぐに終わる。生徒に向かって話し出そうとしたところだった、ブーンと一匹の虫が西山の目の前を飛んで横切った。「なんだ、ハエか?」
 それにしては少し大きいみたいだ。黒いが、そいつの背中に黄色いラインが走っている。見たこともない、コスタリカにでも生息していそうな虫だった。この寒い季節に、ちょっと信じられない。
 「ハエじゃありません」と、黒川拓磨。
「何ていう虫か知っているのか? お前は」知ったような生徒の答えが意外だった。
「説明すれば長くなります。放っておきましょう」
「何だと」人を小馬鹿にしたような口振りにムッときた。オレを誰だと思っているんだ。「あっ」
 再び、あの虫が優雅に目の前を横切った。今度は顔に近すぎて、思わず後ろに仰け反った。その慌てた教師の様を見て、黒川拓磨の顔に笑みが浮かんだ。てめえっ。怒りが込み上げた。その態度は何だ。どうしてやろうか?
 空中に浮かぶ、あの黒い虫が目に入った。また、こっちへ飛んでこようとしていた。オレを、おちょくっているのか。
 「西山先生、手を出さないほうがいい。大変なことになりますから」
「うるさいっ。黙ってろ」
 虫が近づいてきて射程距離に入ったところで、西山は右手を勢いよく振り下ろした。命中。叩かれて虫は床に落ちた。寒いから動きが鈍いのだろう、簡単に殺せた。
 「ああ、やっちゃった」
「どうってことない、ただのハエだ」
「ハエじゃありません」
「うるさい。そんな事はどうでもいい。お前に話があるんだ」
「オレに?」
「そうだ、お前にだ」寛容な気持ちは消え失せた。このクソ生意気な小僧を、どう懲らしめてやろうかという思いしかない。手塚奈々の時と同じような結果になりそうだと考えたが、怒りが理性を凌駕した。
 「体育の授業に遅れたくないんで、手っ取り早く頼むぜ」
「なに」この野郎、このオレに向かってタメ口を利きやがった。
「落ち着けって、西山」
「くっ、……」今度は呼び捨てにしやがった。怒りで身体が震えてきた。
「西山、身の程を考えなきゃダメだろう。お前なんかには加納先生も安藤先生も無理だぜ。所詮は高嶺の花なのさ」
「なんだとっ」
「分からねえのかな、その歳にもなって。お前は大家の娘を相手にしてりゃ、それでいいのさ。お似合いのカップルだぜ。あっはは」
「どっ、どうして−−」何で、このガキがそれを知っているんだ。
「まったく、お前には呆れるぜ。バーミヤンの割引券なんかで女を誘い出すんだからな。せこいったらありゃしねえぜ。まあ、そんな誘いに乗る女の方もそれなりだから丁度いいのかな」
「この野郎っ、もう許さん。懲らしめてやる」
 西山明弘は湯気が立ちそうなくらいに全身が熱くなった。このガキを虫と同じ目に遭わせてやる。叩き潰す。泣いて土下座して謝るまでボコボコにしてやろう。
 『失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。これからは西山先生様と呼ばせて頂きます。許して下さい』
このぐらいの謝罪の言葉が、クソ小僧の口から出てくるまで殴り続けてやろう。
 もう殺したって構わないかもしれない。こいつがオレ様に向かって生意気な口を利いたのが悪いんだ。殺した口実は後から考えればいい。オレ様の偉大さを分からせてやりたい。
 すでに佐野隼人が死んでいるんだ。もう一人ぐらい増えたって大したことはない。『きっと後追い自殺じゃないですか』、それで説明がつく。
 「お前、覚悟しろ。しっかり後悔させてやるからな」
 一発目のパンチを浴びせてやろうと、右の拳を高く掲げたところだった。左足の脛に違和感を覚えた。何かに針を刺された感じだ。
 「うぐっ」それが直ぐに、強力なドリルで足に穴を開けられるような痛みに変わった。ど、どうした?
 目の前に座る生徒を殴るどころじゃなくなった。その場に西山は屈むと、急いでズボンの裾を捲り上げた。「ああっ」
 自分の目を疑う。殺したはずの虫が灰色のソックスの上に止まっていたのだ。こ、こいつに刺されたらしい。
 手で掃おうとしたが今度は素早く飛び立ってしまう。畜生っ。ソックスを下ろすと皮膚が赤く爛れていた。「おい、あれに刺されたみたいだ」
 黒川拓磨を見ると、椅子に座ったまま窓を通して校庭の様子を眺めながら、左手の人差し指を鼻の穴に突っ込んでいた。こっちを向いてもいなかった。ふざけた態度だ。少しは教師を心配−−。「げえっ。げ、げ……」
 刺されたところから激痛が全身に広がろうとしていた。どっ、毒だ。吐き気。ひどい悪寒。冷や汗。めまい。耳鳴り。全身の震え。すべてが一気に襲ってきた。声を出したくても、口が麻痺して喋れない。「あう、あ、ああ……」
 誰かを呼んでくれ。助けてくれ。生徒に言いたかったが舌が回らない。その場に倒れこんだ。息が満足に出来ない。苦しい。意識が朦朧してきた。目の前が真っ暗になる直前に黒川拓磨の言葉が耳に届く。
 「体育の授業が始まってるんで、そろそろオレは行こうかな」

   55

 「先生」
「西山先生っ」
「どうしたんですか?」
 誰かが自分を呼んでいた。女子生徒の声だった。西山は目を覚ました。頭痛はするが周りが見えた。どのくらい意識を失っていたんだろうか。焦点が合うと声の主は手塚奈々だと分かった。いつもと変わらず綺麗な顔だ。良かった、助かった。
 「あわ、……わう、う、う」
「え?」
「あう、……あい、い、い」駄目だ、喋れない。舌に感覚が戻っていなかった。
「なんですか?」
「あう、あひ、あひひ……」職員室へ行って誰かを呼んでほしい、と伝えたいのだが上手くいかない。
「先生、笑っているんですか?」
「あふ、ひひ、……ひふ」ちっ、違う。この状況で笑っていられるか、バカ。
 言葉を出そうと必死になるほど、口の中に唾が溢れた。悲しい。こっちの要求を、なんとか女子生徒が悟ってくれないだろうか。
 涎を床に落とそうと顔を横に向けた時だった。手塚奈々の悩ましい太股と白いパンティに包まれた股間が、間近で西山の目に飛び込んできた。ひやっ。倒れていた教師を心配して反射的に、スカートが短いにも関わらず腰を屈めた結果だった。
 なんてラッキーなんだ。しかし……、残念なことに、まったく性的な興奮を覚えなかった。毒虫に刺されて感覚が麻痺していた。体が衰弱して、そんな気持ちにならない。も、もったいない。
 「西山先生っ」
「あうっ」あっ、まずい。こっちの視線に気づかれたらしい。女子生徒は急に立ち上がってスカートを両手で押さえた。 
「先生のエッチ」
「はっ、はう」違う、違うんだ。
「仮病まで使って、あたしのスカートの中を見たかったんだ」
「ひい、ひ、……ひい」誤解だ。本当に体調が悪くて苦しんでいるんだから。
「お金を払わないでタダで見ようとしたなんて、信じられない」
「う、……うう」必死で首を振って否定した。
「加納先生に言いつけます。本当に男の人って、みんながエッチで困っちゃう」
「あっ、あう」ま、待ってくれ。
 手塚奈々は踝を返すと、さっさと立ち去っていく。振り向きもしない。助けてもらえなかった。絶望感が全身を包む。西山明弘は力が抜けていくのが分かった。疲労困憊だ。また目を閉じるしかなかった。
 
   56

 「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。
 周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。
 良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。
 それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。
 覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。
 西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。
 一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。
 西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。
 体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。
 あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。
 最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。
 痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。
 顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。
 「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」
「え、この時期にですか?」
「はい」
「どこを刺されました? 見せて下さい」
「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。
「あら、本当だ。痛みますか?」
「ええ。少しズキズキしてます」
「頭痛や眩暈とかは?」
「ちょっとしているかな」
 この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。
 「もしかしてアナフィラキシーかしら」
「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」
「アナフィラキシーですっ」
「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。
「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」
「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。
「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」
「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には−−」
「え、……もしかして黄色いラインですか?」
「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。
「……」
 ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。
 「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。
「いいえ」
「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?
「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」
「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。
「偶然です。たまたま口に出してみたら、当たっただけのことですから」
「そ、そんな……」こんな時に意地悪しないで欲しい。こっちは不安で、不安で困っているんだ。
「とにかく消毒しましょう」
「……」東条朱里は振り返ると薬剤を取りに行った。西山は左足を出したまま待つしかない。
「かなり沁みると思います。目を閉じて横を向いてて下さい」
「わかりました」言われた通りに従う。痛みには弱い西山明弘だった。歯医者は大嫌い。顎を閉じて少し力を入れた。「うっ」患部に液体が落ちるのを感じた。
「終わりました」
「え?」ウソだろ。「待って下さい。まったく痛くありませんでしたけど」
「それは良かった」
「そんな……。かなり沁みるって言ったじゃないですか」
「個人差がありますから。西山先生の場合は消毒液と相性が合ったのかもしれません」
「……」消毒液と相性が合ったから痛みがない、なんて聞いたことがないぞ。この女、本当に養護教諭としての資格を持っているんだろうか。
「これで少し様子を見ましょう。痛みが続くようでしたら、また何か治療方法を考えますから」
「東条先生」さっさと保健室から出て行くように促しているんだろうが、これで引き下がるつもりは西山になかった。
「なんですか」
「あの虫のことを知っているんでしょう?」
「まったく知りません。何度、訊かれても答えは同じです」
「そう言われても信じられない。さっきは知っているような口振りだった」
「西山先生。ご存知かと思いますが、来月には入学式に続いて身体検査が行われます。その準備で忙しいのです。これで失礼させて下さい」言い終わると東条朱里という女は、椅子に腰を下ろして机に向かう。ボールペンを手にして書類を捲り始めた。完全に西山を無視だ。
「おい、お前な……」もう頭にきた。学年主任のオレに向かって、その態度はないだろう。ここでしっかり、どっちが偉いのか白黒つけないと後々つけ上がらせることになると思った。こてんぱに、こき下ろしてやるしかない。
 「ふざけてんじゃねえぞっ、このアマ」
「……」驚いた様子だった。真顔で西山を見ている。怒鳴ってやったのが効いたようだ。さあ、これから人生のレッスンをしてやろうじゃないか。
「いいか、オレに嘘をつくな。オレを刺した虫の説明を今ここでしないと、素っ裸にして校庭に放り出すぞ。お前のスケベなオマンコを生徒たちに見せてやることになるんだ。そうする前に犯してやってもいい。丁度ここにベッドもあるしな。代議士の愛人だろうと、そんなのオレには関係ない。む、……ど、どうした? なにが可笑しい」怯えさせようとしているのに、相手がニヤニヤし始めた。この女、やっぱりバカか。
「西山先生」東条朱里は言いながら、ゆっくりと西山明弘の股間を指差す。「あははっ」
「うっ」促されて視線を落とすと、ズボンのチャックのところが円を描くように濡れていた。や、やばいっ。二年B組の教室で倒れていた時に、小便を漏らしてしまったらしい。
 西山はベッドから立ち上がると、急いで保健室を出た。後ろから東条朱里の声が聞こえた。
 「どういたしまして。西山先生」

   57

 「はい。波多野です」君津警察署の波多野刑事は受話器を取って応えた。古物商許可証の申請書類に目を通していた時だった。
「君津南中学の加納です。お仕事中に、すいません」
「いいえ、構いません。どうしました?」
 構わないどころか、魅力的な女性と電話で話せて嬉しいくらいだった。生徒が自殺した事件で初めて会った時に、その知的な美しさに波多野は心を奪われてしまう。こんな素敵な女性と毎日のように顔を合わせられる息子が羨ましかった。
「三月十三日の土曜日の件なんです」
「……」今の一言で波多野の浮かれた気持ちは一気に沈んだ。嫌な予感。また何か深刻な問題が持ち上がったんじゃないだろうか。無意識だったが椅子に座り直して身構えた。「はい」続きを促す。
「どうして先日、学校で三月十三日に何か行事があるのかと問い合わされたのか、その理由を知りたくて電話しました」 
「わかりました」君津南中学でも何かあったらしい、波多野は思った。「しかし自分も加納先生が何故、その理由を知りたいのか教えて欲しいです」
「当然です。今さっき、ほかの父兄からも同じ問い合わせを受けました」
「……」やっぱりだ。波多野は確信を強くした。三月十三日の土曜日には何かある。「そうですか」
「その父兄の息子さんですが、家でクラスのみんなに三月十三日に学校に集まるように、電話で誘っているらしいです」
「うちの孝行もそうでした。ところが学校で何の行事があるのかと問い質すと、まったく知らないとしか答えません。ふざけている様子はない。本当に記憶にないみたいだった」
「その男子生徒も同じです。でも彼の場合は、両親が問い詰めようとすると暴力を振って暴れたらしくて」
「それはヒドい」
「はい」
「加納先生。わたしの意見ですが、二年B組の生徒たちで三月十三日の土曜日に、学校で何かを計画していると考えています」
「わたしも同じ考えです」
「だけど、それはいい事じゃない。たぶん何か悪いことだと思います。それを我々は阻止しなければならない。問題は、それが出来るかどうかです」
「そう思います」
「お互い、これから連絡を取り合いましょう。どんなに小さなことでも知らせて下さい」
「分かりました。お世話になります」
「こちらこそ」
 今のところ、これ以上の話はないと二人は判断した。「では失礼します」と言って波多野は受話器を置いたが名残惜しかった。
 二年B組の連中は何を計画しているんだろうか。まったく想像がつかなかった。しかし波多野の第六感が頻りに警告音を鳴らしていた。お前の手に負えない大変なことが迫っている、そう訴えているような気がしてならなかった。

   58 
 
 「これからは連絡を取り合うことにしたわ」加納久美子は美術室にいた。波多野刑事とのやり取りを安藤紫に伝えたところだ。
「三月十三日の土曜日っていうのは確か?」
「うん。そう板垣順平の母親も言っていたから」
「あたし、黒川拓磨から訊かれたのよ」
「えっ、なんて?」
「三月十三日の土曜日は空いているか、って」
「ど、どういう意味?」
「わからない」安藤先生は強く首を振った。
「それで、どう答えたの?」ビックリだ。初めて聞く。
「もちろん、空いていないって言ってやったわ。もし空いていたとしても、絶対に正直には答えない。あの子は何を考えているのか分からないもの」
「正解だわ。つまり三月十三日にB組の生徒達が集まって何かやるのは、やっぱり彼が首謀者なんだ」
「そう考えて間違いないと思う。ところで西山先生は、どうなっちゃったのかしら?」
「すごく心配してる」加納久美子は責任を感じていた。
「連絡は?」
「ない。電話は繋がらないし」
「最後に話をしたのが黒川拓磨なんでしょう?」
「たぶん、そう。あたしが西山先生に彼と話をしてくれるように頼んだから。でも黒川拓磨は否定しているの。会っていないって。だけど体育の森山先生から話を聞くと、彼は嘘をついているとしか思えない。手塚奈々は、西山先生がB組の教室で倒れていたって言うし」
「黒川拓磨と殴り合いでもしたのかしら?」
「違う。東条先生が教えてくれたんだけど、西山先生はハチに刺されたって言ってたって」
「え、ハチに? この寒い時期に?」
「うん」
「保健室で東条先生に手当てをしてもらって、そのまま学校から姿を消したってこと?」
「そう」
「何があったんだろう」
「わからない」
「どうするつもり、これから?」
「黒川拓磨が通っていた前の学校に電話してみようと思う。彼の担任をしていた教師と話がしてみたい」
 今年に入って君津南中学で起きてる、ほとんどの事件に黒川拓磨が関係していると考えられた。前の学校での彼の様子が知りたかった。
「あたしが近くにいた方がいいかしら?」
「ありがとう。でも一人で大丈夫よ」
「わかった」

   59

 携帯電話を持つ右手が汗ばむ。結局、加納久美子は昼休みに美術室から平郡中学へ電話をすることにした。横には安藤先生がいてくれた。やっぱり心強い。しばらく呼び出し音が鳴り続く。カチッ、と音がして繋がったのが分かった。
 「はい。平郡中学です」女性の声。
「もしもし」加納久美子は喉がカラカラだった。 
「平郡中学です。もしもし」
「加納久美子と申します。君津南中学で教師をしています。実は、そちらから転校してきた男子生徒のことについて、聞きたいことがあるんです」
「……」無言だ。
「もしもし、自分は−−」もう一度、繰り返そうと思った。
「うちからそちらの中学へ転校して行った生徒ですか?」
「そうです」よかった。一度で話を理解してもらえた。
「いつの事でしょう?」
「今年です。一月になります。三学期の始めに転校してきた男子生徒です」
「……」また無言。
「彼の名前は−−」言う必要がなかった。
「黒川拓磨ですか?」
「そうです」
「どんなことを、知りたいのでしょうか?」相手の声は事務的なままだった。
「は、はい。それは、そちらから送られてきた書類に幾つかの空欄がありまして……。できましたら、彼の担任をしていた先生と話をさせて頂きたいのですが」
「……」また黙った。
「……」加納久美子は返事を待った。安藤先生の方を向く。目が合った。
「お待ち下さい。教頭先生と変わります」
「は、はい」担任だった教師は不在なんだろうか?
 保留のメロディが流れてきた。
 「教頭先生と変わってくれるって」加納久美子は早口で横にいる安藤先生に伝えた。
「どうして、担任教師じゃないの?」
安藤先生の問いに無言で首を振って、わからないと答えた。静かに待つ二人。しばらく保留のメロディが続いた。
「まだなの?」ずいぶん待たすじゃない、と文句を口にする安藤先生。
「……」それに加納久美子は顔をしかめて応えた。
「教頭先生なんかじゃ−−」
 手で合図して安藤先生を黙らせた。保留のメロディが止まったのだ。咳をする音が耳に届いた。「もしもし」平郡中学校の教頭先生と思われる相手に声を掛けた。
「教頭の安部です」
「君津南中学の加納と申します。お忙しいところを申し訳ありません」相手の声と話し方から五十代の男性を想像した。
「どういった用件でしょうか?」その声には親しみが感じられなかった。
「そちらから転校してきた黒川拓磨という生徒について聞きたいことがありまして、電話させて頂きました」
「こっちから書類を送ったはずです。それを読んでもらえば、分かることじゃないですか」
「幾つか空欄ありまして、それで−−」
「そんなことは珍しくもないでしょう」この電話を明らかに迷惑がっている口調だ。
「そうかもしれません。ですけど黒川拓磨という生徒が、そちらの中学ではどんな生活態度だったのか知りたいのです」
「どうして?」
「……」その問いに加納久美子は答えられなかった。
「普通の生徒ですよ。特に変わったところはなかった」
「そうですか」教頭は嘘をついている、と加納久美子は直感した。この会話を早く終わらせたくて、当たり障りのないことを言ってるだけだ。「では彼が転校した理由は、なにか分かりますか?」
「それは親の仕事の関係とか、いろいろ−−」
「彼の父親は、去年の暮れに亡くなっていると書いてありました」久美子は相手の言葉を遮って言った。
「そ、そうだった。私は例えばの話をしただけだ。こちらでは、ハッキリした理由は把握していない」
「彼の担任をしていた教師と話をさせて下さい」
「その必要はないだろう。もう転校して行った生徒なんだから、そちらで好きなように対応したらいい」
「どうしても彼の担任をしていた教師と話がしたいのです」
「……」大きく息を吸って吐く音が聞こえた。
「お願いします」加納久美子は続けた。
「無理だな」
「何故です?」
「死んだよ」そう言うと平郡中学校の教頭は、一方的に電話を切った。

   60 

 加納久美子は携帯電話を持ったまま動けない。
「どうしたの?」と安藤先生。
「……」ショックで返事が出来なかった。ただ安藤先生を見つめ返すだけだ。
「加納先生」
「死んだって」声は小さい。やっと言葉を口から搾り出した感じだった。
「え?」
「黒川拓磨の担任をしていた教師は亡くなったらしい」
「まさか」
「そう言うと電話を切ったのよ」
「信じられない」
「あたしだって……」
 加納久美子と安藤紫の二人の教師は、それぞれの椅子に座ったまま黙り込んだ。聞かされた事実を必死に頭の中で整理した。
 「担任をしていた教師の死と黒川拓磨が関係していると思う?」最初に口を開いたのは安藤紫だった。
「……」問われると加納久美子は顔を起こして、無言のまま小さく頷く。
「あたしも」
「平郡中学校の教頭先生は間違いなく電話を迷惑がっていた」
「……」
「きっと平郡中学校で何か大変な事が起きたんだわ」
「そして、それを隠したがっている」
「そう」
「何だと思う?」
「わからない」
「これから、どうする」
「わからない」加納久美子は返事を繰り返すだけだ。
 二人は再び黙り込む。考えていることは間違いなく同じだ。平郡中学校で起きた事が知りたい。それを知れば黒川拓磨に対して何か対応が取れるはずだろう。しかし知る方法は、これで閉ざされてしまった。
 「君津署の波多野刑事に連絡したらどうかしら」沈黙を破ったのは加納久美子だ。
「そうだ、それがいい」
「もし平郡中学校で起きた事が警察沙汰になっていたら、調べてもらえるかもしれない」
「早く電話して」
「待って」
「どうしたの?」
「そうしたら、これまでに君津南中学で起きた不可解な出来事を、すべて言わないと」
「もちろん」
「それらに自分たちが、黒川拓磨が事件に関係していると疑っているとも伝えなきゃならない」
「それが悪いことなの?」
「しっかりした証拠がない。本人は否定しているし」
「構わないと思うけど」
「気が引ける」五十嵐香月の妊娠については、口が裂けても誰にも言えなかった。それに、もし自分たちが間違っていたら……。そう思うと行動を躊躇ってしまう。
「そんなこと言わないで。一刻も早く黒川拓磨の正体を暴くべきだわ」
「ちょっと考えさせて」
「三月十三日の土曜日まで、そんなに時間がないのよ」
「わかってるけど」
 加納久美子は、安藤先生の黒川拓磨に対する態度に違和感を覚えた。彼の正体を知ろうと不思議なくらい一生懸命のは何故なんだろう。

   61 

 大変なことになった。これは、ただの虫刺されじゃないらしい。
 西山明弘は君津南中学の保健室から出て行くと、そのまま自宅のアパートへ無断で帰ってしまう。一時間もしないうちに携帯電話が鳴り出した。相手が高木教頭なのは明らかだ。黙って学校から姿を消した同僚を訝って連絡を取ろうとしているのだ。無視した。それどころじゃない。
 ズボンを濡らしたままで職員室へ戻れるもんか。誰とも顔を合わせたくなかった。すべて持ち物は机の上に残してきた。
 きっと保健室の東条朱里が、西山は失禁していたと言い触らすことだろう。あの女の意地悪そうな笑みが頭に浮かぶ。悔しい。
 二年B組の手塚奈々は、西山先生はスカートの中を覗きたくて、仮病まで使ったと加納先生に報告してるはずだ。最悪。失態が全校生徒に広まっていくのは時間の問題。もはや君津南中学に自分の居場所は無くなったと思って間違いない。セクシーな安藤先生と知的な加納先生との永遠の決別だった。
 これからどうする。それを考えなければいけないことは、十分に承知している。しかし、……だ。
 虫に刺されたところが完治しないのだ。直後は強烈な痛みに気を失ったほどだった。それが二日もすると痒みに変わった。治りつつあるのかと思っていたら、そうじゃなかった。今では強烈な痒みに夜も眠れない。
 刺されたところは紫色で、それが太股の方まで広がろうとしていた。なんかヤバい状態だった。
 頼れるのは大家の娘だけだ。事情を話すと献身的に助けようとしてくれた。三度の食事はもちろん、何も言わなくても薬局へ行って色々な薬を買ってきた。その中にイボが付いたコンドームも含まれていたが、西山は酷い痒みに悩まされてセックスどころじゃなかった。性欲はなくなり女の要求に応えることができない。男として情けなかった。
 痒みに苦しみながらも、黒川拓磨に対する怒りを燃やす。絶対に許さん。こんな目にオレを遭わせやがって。もう一生が台無しだ。あいつは虫を操っていた。オレが刺されるように仕組んだのだ。数日後に電話までしてきやがった。
 「もしもし」
「オレだ、黒川だよ」
「……」マ、マジか。どこでオレの電話番号を調べやがった。
「西山、どんな具合だ?」
「……」
「痒いだろ? うふっ」
「……」
「せいぜい苦しむがいいぜ。あはは」
「ふざけんなっ、バカヤロー。覚えてろっ」西山は電話を切った。
 一日も早く完治して仕返しがしたい。黒川拓磨は邪悪の根源みたいな奴だ。尋常な方法じゃ始末は出来ないと悟った。何か方法を考え出さなきゃならない。
 西山明弘は復讐心を募らせた。

   62 

 「吉川ひなのとイザムが結婚したけど、すぐに離婚しそうじゃない?」お弁当箱を片付けながら安藤紫が言った。
「言えてる」お茶のカップを口元からテーブルに置くと、加納久美子は応えた。
「誰もが、そう思っていそう」
「そう思っていないのは当事者の二人だけよ」
「あはっ」
 加納久美子と安藤紫は、いつも通りに昼食を美術室で取った。話題は、全豪テニスでヒギンズと対決した女ランボーことアメリ・モレスモから始まって、ペンティアムU搭載のノート・パソコンを買おうか迷っている、と様々だった。
 安藤先生は黒川拓磨の話に触れようともしない。これからどうするのか知りたいはずなのに、あえて訊いてこなかった。加納久美子の判断に任せようという気らしい。うれしかった。
 「波多野刑事に電話するわ」加納久美子は言った。
「うん」安藤先生は大きく頷いて賛成した。
「生徒のプライバシーがあるから詳しく話せない事だらけだけど、大まかに事情を伝えるわ」
「それがいいと思う」
「もし何かがあった時に後悔したくないし」
「言う通りだわ。可能な限り手を打つべきよ」
 その時だった、加納久美子のバッグの中からジョン・レノンの叫び声がした。『ミスター・ムーンライト』
 「ごめん」苦笑いして久美子はバッグから携帯電話を取り出す。
この着信音は五十嵐香月の家で気まずい思いをしてから、変えなきゃならないと分かっていながら通話が終わると、すっかり忘れてしまう。
 「誰かしら」知らない番号だった。「もしもし」
「……」
「もしもし」もう一度。反応がなかった。イタズラかしら。
「もしもし。わたし、望月と申します」女性だ。同じ年ぐらいか。
「は、はい」聞き覚えのある声だった。でも思い出せない。
「平郡中学校で庶務をしています。昨日の電話を最初に−−」
「わ、わかります」久美子は相手に最後まで言わせなかった。思い出した。血液中のアドレナリン濃度が一気に上がった。「お電話、ありがとうございます」
 もしかしたら突破口になるかもしれない。期待が高まる。目を大きくして安藤先生に驚いた表情をして見せた。会話を一緒に聞いてもらいたいくらいだ。
 「うちの安部教頭が昨日は失礼しました」
「いいえ、構いません。こちらこそ突然に電話したりして……」
「今、お話を続けても丈夫ですか?」
「もちろんです」
「黒川拓磨について、お話したいことがあります」
「ぜひ聞かせて下さい」
「うちの学校で大変なことが起こりました。担任教師の死は彼と関係があります。そちらの学校で何が起きているか、想像に難しくありません」
「……」加納久美子の額に汗が浮かんできた。
「すべてを説明するのは電話では無理があります。いつか、どこかで会えないでしょうか」
「わかりました。今週の土曜日では?」最も早い休みが、それだった。すべて予定はキャンセルしよう。
「大丈夫です。ただ自分の体調が不安定で遠くまで行けません。それでも〡〡」
「私が平郡中学校の近くまで行きます。場所と時間は、そちらの都合に合わせますので」
「そうして頂けると助かります」
「どこがいいですか?」
「国道から平郡中学へ向かう県道へ左折する交差点は御存知ですか?」
「わかります」確かではないが、たぶん行けば分かると思った。
「その近くにマホニーというファミリー・レストランがあります。そこの駐車場に午前十時に待ち合わせでは如何でしょうか」
「大丈夫です」
「スズキの白い軽自動車で行きます」
「私の車はフォルクス・ワーゲ−−、いえ、2ドアの紺色の自動車です」車種を言っても一般の人には馴染みのない車だった。
 お互いにフル・ネームを言い合って通話を終えた。加納久美子は手帳を開いて、三月六日の欄の空白に待ち合わせの時間と望月良子という名前を書いた。そして好奇心に満ちた顔を見せる安藤先生に会話のすべてを教えた。
 「あたしも行きたい」安藤先生が言った。
「え、本当?」
「連れて行って」
「待って。望月さんに電話して了解を取るから」
「そうして。いきなり二人で現れるより、事前に話しておいた方がいいわ」
 久美子としても安藤先生と一緒に行きたい。携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。
 「あ、加納久美子です。さっそくで、すいません。土曜日の件なんですが、私の同僚で安藤という女性と一緒に行ってもいいですか?」
「こちらは構いません。ええ、お二人で来られた方がいいと思います」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます。それでは−−」
「待ってください」
「はい?」
「言い忘れたことがあって、電話しようと思っていたところなんです」
「何でしょう」緊張する。
「黒川拓磨の母親と話をしたことがありますか?」
「い、いいえ」会ったこともないし、電話で言葉を交わしたこともなかった。
「こちらでは、家での黒川拓磨の様子を聞こうと日時まで約束したのですが、あの事件が起きて出来なくなったのです」
「そうでしたか」
「何か強く伝えたい事があるような印象だったのですが……」
「……」
「もし可能でしたら、そちらで−−」
「わかりました。彼の母親と連絡を取ってみます」
「もし話ができたら、こちらへ来たときに結果を教えて下さい」
「もちろんです」
「それだけです」
「では、土曜日に」
「はい。失礼します」
 加納久美子は携帯電話を畳むと、安藤先生に言った。「黒川拓磨の母親と話をしてみてくれって」
「会ったこと、あるの?」
「ない」
「黒川拓磨の家まで行くつもり?」
「そう。午後は空いているから電話してみる」
「がんばって」

   63

 意外だった。加納久美子はフォルクス・ワーゲンのポロを、外壁のトタンが所々に赤く錆びた家々が並ぶ一画の前に停めて唖然とした。低所得者向けの集合住宅だった。
 この中に黒川拓磨が母親と二人で住む家がある。何軒かは人が住んでいなくて、もはや廃墟に近い。五十嵐香月が住む家みたいな建物を頭に描いて、住所と地図と頼りに探したのだが当てが外れた。
 生徒の学力は家庭の経済力と比例する。収入が高いほど子供の成績はいい。それが定説だった。しかし今、唯一の例外を目の前にしていた。
 加納久美子は自動車から出て、道路に面した手前の建物の前に立った。「あれ?」表札がなかった。
 その隣の家にも同じようにない。何号とかいう建物の番号すらなかった。
 書類に目を落としたが、やっぱり黒川拓磨の住所の欄にも番地までしか書かれていない。母親は何も言ってくれなかった。久美子は午後、お昼休みが終わるとすぐに電話を掛けた。母親は家に居てくれた。
 「息子さんの担任教師をしています、君津南中学の加納という者です。失礼ですが、お母さんでいらっしゃいますか?」
「……はい」
「拓磨くんのことで、お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……」
「時間は掛かりません。すぐに終わります」久美子自身も時間がなかった。
「また拓磨が学校で何かやらかしたんですか?」
「……」また、という言葉が久美子の頭に残った。「いいえ、そういう事じゃありません。家庭訪問みたいなものです。こちらに転校されて、まだお会いしていなかったので」
「そうですか」
「何分も掛かりません。すぐに帰ります。今から行ってもよろしいですか?」
「わかりました。お待ちしています」
 それだけだった。家が判りづらいとは一言も口にしてくれない。探すしかない。ここまで来て引き返すことはできなかった。加納久美子は勇気を出して、目の前に建つ家のドアを叩く。「ごめんください」
 人が住んでいる気配があるのに反応がなかった。間合いを保ってドアを叩き続けた。声は次第に大きくなっていく。家の中から物音が聞こえたので止めた。 
 鈍い音を立てながら中から引き戸を開けてくれたのは、汚れた白いトレーナーの上下に薄手の黒いジャンパーを羽織った、七十代と思われる痩せた老人だった。
 「……」何も言わないで加納久美子を見てるだけだ。
「失礼します。実は黒川さんのお宅を探しています。ご存知ないでしょうか?」
「えっ、なんだって?」耳が遠いらしい。久美子は声を大きくして繰り返した。
「知らねえ」ぶっきらぼうな言い方だった。誰とも関わりたくないという態度が明らか。老人の開いた口の中には歯が数えるほどしかなかった。
「わかりました。失礼しました」久美子は頭を下げて、その場から身を引く。
 別の家に当たったみるしかない。どうしよう。ここは近所付き合いが、まったくない場所らしい。辺りを歩き回って自分で探すしか方法はないのか。すごく居心地が悪かった。家から出てきてくれた老人が、そのまま中に戻らずに久美子の様子を眺めていた。まるで不審者を見るような目で。
 これは苦労しそうだ。時間の許す限り一軒、一軒を調べるしかないと覚悟した。
 「加納先生ですか?」
 いきなり後ろから声を掛けられた。ヒヤっとした。振り返ると、ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツ姿の中年女性がいた。きっと黒川拓磨の母親だ。助かった。
 「そうです。拓磨くんのお母さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「初めまして。担任をしています、加納久美子です。よろしく」
「黒川です。こちらへ」
 久美子は母親の後ろに付いて行く。通路が狭くてプロパンガスのボンベと何度か接触しそうになった。気をつけないと、無造作に置いてあるバケツや鉢植えに躓きそうだった。黒川拓磨が住む家は最も奥に位置していた。
 居間に通された。座布団に腰を下ろすと、壁に掛けられた派手なワインカラーのワンピースに目が引き付けられた。母親は夜の仕事をしている、と理解した。「お構いなく。時間がないので、すぐに帰りますから」母親がお茶を煎れようとしたので遠慮した。
 「拓磨くんの家での様子は、どんな感じなんですか?」久美子は訊いた。当たり障りのない質問をしながら、何かを読み取りたかった。
「……」どう答えていいのか母親は分からない様子だ。
「どんな事でも構いません」
「普通じゃないかしら」声が小さい。
「お母さんとは話しをしますか?」もっと具体的に訊くことにした。
「はい。少しは……」
「どんな話をしますか? 例えば」
「え、……そう、天気とか」
「……」これでは埒が明かない。母親は事実を言っていない、と思った。隠したがっている感じだ。「息子さんの学校での成績を知っていますか?」
「い、いいえ」
「どのくらい彼が勉強しているか興味はありますか?」
「はい」
「でも彼と成績のことで話をしたことがないのですか?」久美子は決め付けるように言ってみた。
「……そうかもしれません」
 信じられなかった。ここまで親が勉強に無関心なのに、息子の成績はトップクラスだ。
「拓磨くんは、とても勉強ができます」
「そうですか」
「このまま行けば、どこでも高校は入学できると思います」
「はい」息子を褒められても嬉しそうでもない。
「息子さんについて何か困っている事はありますか?」
「ないです」
「……」話が続かない。
「……」母親は目を合わそうとしない。自宅に担任教師が来たのが迷惑らしい。
「わかりました。これで失礼します。お時間を割いて頂いて感謝します」
 この母親と話を続けても何も得られるものは無さそうだ、と判断した。自信がなくて、いつも何かに怯えている感じだ。あの自信に満ちた黒川拓磨とは似ても似つかない。座布団から立ち上がろうとしたところだった。
 「加納先生」
「はい」
「ここに先生が来たことは、息子に言わなくてもいいですか?」
「どちらでも構いません」黒川拓磨に知られても別にいい、と思った。
「そうですか。では内緒にしてくれますか」
「どうしてですか?」興味が湧いた。親子の間で都合が悪いということなのか。
「拓磨には言いたくありません」
「なぜです、お母さん?」
「……」
「お母さん、教えて下さい」
「怒るんです、あたしが勝手な事をすると」
「暴力を振るうとかですか?」
「いいえ、そこまでは……」
「わかりました」久美子は了解した。
「あたし、とにかく拓磨が怖くて……」言いながら一瞬だが、母親は恐怖に体を震わせた。
「お母さん」加納久美子は看過できない何か異常なものを感じた。
「……」
「どうして、そんなに息子さんを怖がるんですか?」
「あ、あの子は……」首を振って何かを否定しようとしていた。
「お母さん、説明して下さい」
「先生。あたし、拓磨から逃げ出したくて」
「……」母親から聞く言葉じゃなかった。驚いて久美子は何も言えない。
「助けて欲しいんです」
「待って下さい。突然そう言われても困ります。事情を詳しく説明してください」
「話せば助けてくれますか?」
「……」聞きたい。しかし助けると安易に約束はできなかった。
「先生」答えを促していた。
「すべて話を聞いてみないと何とも言えません。約束できるのは、お母さんの力になれるように努力するということだけです」
「……」
「話して頂けますか?」久美子は訊いた。
「わかりました、それで結構です。あの子は、最初から自分の子とは思えなかった」
「どういう意味でしょう?」
「あたしが産んだのは事実なんですが、……何か、どうも不思議な気がしてならない」
「なぜ?」
「普通の子供とは違うような気がしました。……どう言えばいいのか、子供なのに何か強い意志と目的を持っているみたいでした」
「……」
「賢くて、あたしの子らしくなかった。すごく悩みました。ところが主人は違います。期待していた通りに、男の子が産まれて非常に喜んでいました。だから相談できなかった」
「そうでしたか」
「それに、あの子は双子で産まれてきたんです」
「えっ」兄弟がいるのか? 今どこに?
「もう一人は殺されました」
「何ですって」
「産まれてすぐです。それも病院の新生児室で」
「信じられない」久美子は思わず手で口を押さえた。「だ、誰が?」
「病院の婦長です」
「ま、……まさか」
「だけど腑に落ちない事ばかりでした」
「聞かせて下さい」
「これは主人の話ですが……」そう言うと母親は視線を逸らす。言いたくない事を、これから口にしなければならないという気持ちが伝わってきた。
「はい」久美子は促した。
「あたしを見舞いに来て新生児室の前を通りかかると、婦長がピンセットで自分の息子に危害を加えているところを見たそうです。急いで中に入りましたが、もう息子は死んでいました。主人はポケットにあった小型カッターを取り出して、怒りから婦長を刺し殺したのです」
「どうして? そんなことを」
「わかりません」
「……」あまりにも悲惨な話で、なんて言葉を掛けていいのか分からない。
「その後が大変です。主人は殺人罪で逮捕されました。少しでも刑を軽くしてもらいたくて、東京の有名な弁護士を雇ったんです。うちの実家は小さくても建設会社を経営していたんですが、多額の出費が続いて倒産しました」
「そうでしたか」
「主人は婿養子です。中学を卒業すると見習いとして入社してきました。期待はしていなかったのですが、ベテランの従業員が次々と辞めていって、それで会社の重要なポストを任されるようになります。あたしは一人娘です。新婚旅行中のことでした、両親が交通事故に遭って亡くなりました。それで主人は会社を継いだんです」
「……」なんか凄い話を聞かされている、そんな気分だった。
「五年で主人は仮釈放になります。知り合いを頼って建設作業員として働き出しました。ただ、不思議なのは……」
「なんです?」
「主人は殺された息子のことを全く悲しみませんでした。墓参りすら行きません。怒りから婦長に襲い掛かったのに、ですよ」
「どうしてでしょう?」理解できない。
「わかりません。理由を訊こうとすると話をはぐらかすんです。今は忙しい、とか言って」
「ご主人は去年の暮れに亡くなられたんですか?」確認するように久美子は言った。できたら、その理由も知りたい。
「そうです」
「ご病気ですか?」
「いいえ」母親は首を振った。
「……」それ以上は言いたくないのか。
「焼死でした」
「……」久美子は息を飲み込んだ。それなら自殺だと思った。
 これ以上はプライベート過ぎて訊けないと感じた。カシオのGショックに目をやると、学校へ戻らなければならない時間になっていた。
 「すいません、お母さん。授業があるので、もう帰らなければなりません。時間を作って、お話の続きを聞けるようにします。もし何かありましたら、遠慮せずに学校に電話して下さい。今日は、これで失礼します」
 玄関を出ようとしたところだ、母親は吐き出すように言った。
 「主人は平郡中学で死にました」
「……」加納久美子は凍りつく。「あ……、あとで電話します」それしか言えなかった。
 君津南中学へ戻るフォルクス・ワーゲンの中で、ハンドルを握る久美子の手は小刻みに震えていた。なんて悲惨な話だろう。産まれたばかりの赤ん坊が新生児室で殺され、その父親は息子が通う中学校で命を断つ。理解に苦しむことばかりだ。
 陸橋を下って君津市役所の交差点を右折したところで気づく。母親は息子の黒川拓磨を恐れる理由を何ひとつ言わなかった。時間がなくて、そこまで話が辿り着かなかったのか。授業が終わったら、電話しようと思った。まだ話は終わっていない。


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