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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第8回 41 - 51
   41

 とっさに、いい考えが頭に浮かんだ。
 叫び声がして校庭に出てみると、二年B組の佐野隼人が倒れていた。みんなで声を掛けたが何の反応もない。目が死んだ魚のようだった。首は不自然な形で曲がっている。これは助かりそうもないと分かった。
 救急車を呼ぶと直ぐに、安藤紫は担任の加納先生に連絡した。そのことを西山主任と高木教頭に伝えると、ふと思いついて一人で三階の教室まで足を運んだ。本当に窓から落ちたのか確認しようと思ったのだ。
 暗い教室の隅で女生徒が倒れているのを見つけて、心臓が飛び出すぐらいに驚いた。近づいてみると、それが佐久間渚だと分かって更に驚く。まあ、なんてこと。
 声を掛けてみると、返事が出来ない状態だった。うわ言で何か言おうとしているが聞き取れない。
 ペナルティの白い粉を飲ませ過ぎた、と思った。これでは死んでしまう。生きたとしても廃人と同じだ。
 意識はハッキリしたまま、様変わりした自分の醜い姿に苦しみながら生き続けて欲しい。お前の母親と祖母の行いの代償だ。家族みんなが辛い思いに打ちのめされたらいい。それが安藤紫の目的だった。
 ベンツの男に結婚の意思がないと分かって、その腹いせに大目のペナルティを一度に飲ませた調子でやったしまった。
 きっと佐久間渚は病院に運ばれる。医者は毒を盛られたと診断するだろう。警察へ通報されたら、自分が疑われるのは間違いなかった。
 冗談じゃない。これは復讐だ。酷い目に合わされたから、それ相当の苦痛を相手に与えてやろうとしただけだ。何も悪いことはしていない。だから警察には捕まりたくない。自由のままでいたい。まだ素敵な男を見つけて幸せな家庭を築いていなかった。
 いい考えが浮かんだのは、その時だ。すぐに安藤紫は行動に移った。
 急いで職員室へ行って机の引き出しから、ペナルティの小さなビニール袋を取り出した。ハンカチで表面を丁寧に拭く。付着しているかもしれない自分の指紋を消すためだ。
 親指と人差し指にセロテープを貼ってから、ペナルティを持って二年B組の教室へ向かう。佐野隼人のカバンを見つける。その中にペナルティを入れる前に、ハサミでビニール袋に小さくカットを入れた。カバンの中に少しこぼれていた方がいいと判断したからだ。
 二人は交換日記をしていたが最近は上手くいっていなかったらしい。好都合だ。佐野隼人は佐久間渚に毒を飲ませた罪意識から自殺を図った、そういうストーリーを警察が描いてくれることを願う。死人に口なし。
 安藤紫は工作が終わると、佐野隼人が倒れている現場に戻った。
「すいません。気分が悪くなってトイレに行ってました」みんなに聞こえるように言った。少し間を置くと西山主任に声を掛けた。
 「あたし達で三階の二年B組の教室へ行ってみたらどうかしら。ここに何人も集まって救急車を待っていても意味ないもの」
「え、……そうだな。そうしようか」
 安藤紫は後ろから付いて校舎の階段を上がっていく。完全に男の西山先生に頼っているという態度を装った。彼には、倒れている佐久間渚の第一発見者になってもらいたかった。自分は表に出たくない。警察の事情聴取なんか受けたくなかった。
 刑務所なんか入れられたら人生は終わりだ。冗談じゃない。そんなこと絶対にイヤだ。素敵な男を見つけて幸せな家庭を築きたい。あたしには、そうなる権利があるんだから。

   42

 お姉ちゃん。
 お姉ちゃんっ。
 お姉ちゃんったら。
 夢の中で誰かが土屋恵子を呼んでいた。だんだん声が大きくなっていく。うるさい。もう黙ってほしい。
 あいつだ。あのバカだ。小学四年の弟に違いなかった。え、夢じゃない。現実だ。あの野郎、ふざけやがって。こっちはいい気持ちで寝ているのに……。もう一度呼びやがったら−−。
 「お姉ちゃんっ」
 畜生、もう頭にきた。部屋のドアまで叩き出しやがって。起きるしかない。ぶん殴ってやろう。え? 何かへん。
 あったか過ぎる。熱いぐらいだ。メラメラと何か燃える音が−−。ぎゃっ、火事だっ。や、やばいっ。
 「お姉ちゃん、起きてっ」
「わかった。起きた」土屋恵子は大声で返事した。
「早く逃げないと」
「今すぐ行く」
「早くっ」
「すぐ行くから。お前は一人で逃げて。お姉ちゃんも、すぐ逃げるから」
「本当?」
「待ってなくていい。お前は急いで逃げろ」
「わかった。お姉ちゃんも早く来てね」
「そうする」
 煙が凄い。だめだっ。電気が点かない。こうなったら手探りで探すしかない。
 山岸たちバカどもから、ふんだくった金は部屋の三箇所に隠してあった。兄貴と弟に見つかると盗まれるからだ。兄の高志は下着泥棒をして警察に捕まってから、袖ヶ浦で水道工事会社を経営する親戚の家に預けられていたが、ときどき帰って来やがる。
 多くの男が女の着ている衣服が好きなのには呆れるほどだ。恵子は手塚奈々の汗で濡れた体操着を盗むことで、A組の木畑耕介から金を受け取っていた。彼は木畑興業の一人息子で、たんまり小遣いを貰っているらしくて気前がいい。一回につき一万円をくれた。盗んだ翌日には見つからないように元に戻す、という面倒な仕事だったが引き受けた。
 手塚奈々の、あのバカ女の、汗まみれになった体操着を何に使うのか分からないが、そんなことは知りたくもない。どうせ、エッチなことだろう。しっかり金さえ払ってくれたら、それでいい。
 熱いっ。火の粉が舞っていた。こりゃ、やばい。早くしないと。枕の下の財布を掴んで、タンスの中から二万円を取り出すので精一杯だった。漫画本に挟んだ一万五千円は諦めるしかなかった。また理由をつけて山岸たちに請求すればいい。そうだ、見舞金という名目で、たんまり金を出させよう。
 ドアのロックを外して、二階の廊下に出ると黒い煙が充満していた。下から声がした。「恵子っ、大丈夫か?」父親だった。
 「大丈夫」
「早く降りて来いっ」
「今、行くっ」
 土屋恵子は息を止めて、目を閉じた。何年も住んだ家だ、見えなくたって階段を降りて玄関まで行ける。床は熱かったが我慢して進んだ。
 一万五千円が悔しい。燃えて無くなってしまうのだ。あの金でROXYのダウンコートを手に入れようかと迷っていたのだ。買っちまえばよかった。
 裸足のまま外に出た。「お姉ちゃん」、「恵子っ」と声を掛けられて家族に迎えられた。みんな着の身着のままだ。弟のパジャマが所々だけど黒い。焦げたんだ、きっと。大事そうに『少年ジャンプ』を脇に抱えていた。
 バカか、お前は。この状況で、どこで読むんだ、そんなモノ。やっぱり、こいつは救いようがない。そう土屋恵子は思った。
 「何やってたんだ。心配したぞ」父親だ。
「ご免なさい」
「恵子、良かったね」母親が抱いてくれた。泣いている。
 最後の一人娘が助かって家族はホッとした様子だ。だけど危なかった。もう少しで死ぬところだった。さっきまで住んでた家が目の前で激しく燃えている。風が強い。隣にも火が移りつつあった。もう大火事だ。土屋恵子は今になって体がブルブルと震えてきた。目から涙も溢れてくる。怖かった。 
 「ねえ、オバアちゃんはどこ?」
 弟の一言に両親と姉は凍りつく。

   43
 
 さすがだ。たいしたもんだ。やっぱり古賀千秋は只者じゃなかった。リーダーになるべくして生まれてきた人物だ。彼女にとっては君津南中学の生徒会長なんて、ひとつの小さな通過点でしかないだろう。いずれは代議士になって、たどり着く地位は日本国首相かもしれない。
 成績が優秀で二年B組の学級委員に選ばれて凄いと思ったが、それが彼女のすべてじゃなかった。山岸たちと一緒に万引きを始めると、もっと、もっと優れた一面を小池和美は見せられた。
 「前田、ただボケっと周りを見ているだけじゃダメだ。少しは動いて、常に店員の様子を把握しろ」
「相馬、むやみやたらに盗めばいいってもんじゃない。出来るだけ高価で、売りさばき易いモノを取るんだ。頭を使え」 
 万引きをして僅か二日目でリーダーシップを握った。的確な指示を二人に出す。本人は山岸涼太と恋人同士を装って、イチャイチャしながら店員の注意を引く。お互いの体を寄せ合うの当たり前で、ここっていう時にはキスまでして見せた。好きでもないのに、よくあんな態度が取れるもんだと感心してしまう。自分の仕事に徹しているんだろう。それでいて、しっかり高価な商品を誰にも見られずにポケットに忍ばせたりしてる。店員の目だけじゃない、仲間の目も誤魔化すほどの凄腕なのだった。さすがだ。
 小池和美は図体が大きいので、立っているだけで人目を集めた。
「あんたは、あんまり動かなくていい。商品を選んでいる振りをしながら、相馬太郎を店員から見えなくして。それから仕事の時だけは、その白いメガネを外して。目立ち過ぎちゃうから」古賀千秋からの指示は、それだけだった。
 もっと役に立ちたいと思った。それじゃ、アホの前田良文と変わりがない。不満だ。あたしは、もっとマシなのに。
 それと小柄な相馬太郎の後ろを歩いて階段を降りる時は、奴の背中を押して突き落としてやりたい衝動を抑えるのに苦労した。背の低い男を見ると攻撃的になる性格は、どんどんエスカレートしていく。
 万引きを手伝って、それなりの報酬を貰っても嬉しくない。古賀千秋みたいに生き生きとした表情になれなかった。
 それにしても彼女は凄い。勉強だけでなく、万引きも上手に出来た。何をやっても成功するタイプらしい。きっと初の女性総理大臣は小池百合子でも野田聖子でもなくて、古賀千秋で決まりだろう。
 え、待って。こりゃ、もしかして大変だ。
 彼女が総理なら、君津南中学で書記を務めてる自分は、このまま一緒に付いて行けば官房長官てことになりそう。何の取り柄もない自分が閣僚の一人になるなんて、これは大出世だ。でも人前で話すのは苦手。参った、なんとか克服しないと。
それから絶対に痩せないとマズい。二十キロ近くまで体重を落とせば、きっと藤原紀香に似た美人が官房長官に就任するので、マスコミは大騒ぎだ。古賀内閣の顔として世間の注目を集めるのは間違いない。しかし太ったままだと何かしくじりそうで不安だ。
 就任の記者会見では、「ただ今、官房長官の職を拝命いたしました小池和美です。よろしくお願いします」てなことを言わなきゃならない。すると「今後の抱負を聞かせて下さい」なんて、どっかの新聞記者が質問してくるんだ、きっと。そんな想定内の会見で終わってくれたら幸い。
 怖いのは、礼儀の知らない田舎者がこんなことを言ってきたときだ。「官房長官は、スタン・ハンセンに似ていませんか?」
 全国放送だぞ。ふざけんなっ。日本の国民に向かって、小池和美はスタン・ハンセンに似ているって公表しているようなもんじゃねえか。バカヤロー。
 「え? 誰ですか。さあ、そんな名前は聞いたことがありませんよ。プロレスは見ませんから」と、とぼけるしかない。
 え、……待って。これって嘘がバレバレじゃん。だってスタン・ハンセンがプロレスラーだって知っているって白状していのと同じだもの。ヤバいっ。
 こりゃ、いきなりスキャンダルになりそう。国会は税制改革みたいな重要法案を通すどころか、官房長官の就任記者会見での虚偽答弁を問題視して野党が審議を拒否。小池和美は閣僚としての資質に欠ける、の大合唱。マスコミは一斉に実家を直撃取材だろう。
 あの父親のことだからテレビに出られるとなったら、ポマードで髪を固めてダーバンのスーツに着替えてから、マイクの前に立つのは間違いない。もうスター気取りだ。しっかりサングラスも掛けているかもしれない。そして意気揚々とインタビューに答えながら娘を、マスコミに売り渡すに決まっている。
 「そうなんです。あの記者会見を見て、私もヘンだなと思いました。なぜなら娘は中学二年になると熱心なプロレス・ファンになって、いつもスタン・ハンセンを応援していたからです。ずいぶん憧れていたんでしょう。だって風呂場にある鏡の前に立って、ラリアットの練習を一人でしていたのを何度も見ています。まあ、父親の私が言うのも何ですが、なかなか様になっていましたよ。あれを食らったら普通の人なら気絶するなと思いました。お前は政治家なんかよりも女子プロレスラーになるべきだって、助言したこともありましたが耳を貸してくれませんでした。あいつは言い出したら聞かない性格で……あはは、私に似たんでしょうか」
「お父さん。確認しますが、小池官房長官が少女時代に風呂場の鏡の前で、ラリアットの練習をしていたっていうのは間違いないですか?」と、記者の一人が訊く。
「はい、そうです。私だけじゃありません、妻も何度か目にしています。なあ、お前?」
「ええ、そうですとも。ラリアットはスタン・ハンセンなんかよりも、ずっと和美の方が上手です」
 一人娘を褒めているつもりだろうが、実は逆に窮地へ追い詰めていると理解できない母親だ。政治はちんぷんかんぷん、興味があるのはスーパー・マルエツの特売チラシと韓国ドラマだけ。悲しくなるが、それが小池和美の母親だった。
 「ありがとう御座いました。いい取材ができました」
 両親の言葉が翌日の朝刊に一面トップで掲載されると、野党は追及の手を強める。古賀内閣は発足して早々に官房長官が辞任に追い込まれる事態になるのだ。それでも問題は収まらず、次に首相がマスコミと野党から任命責任を問われることになっていく。ああ、いやだ。こんな大切な時に古賀千秋の足を引っ張りそう。
 記者会見って難しい。あたしがもう少し頭が良くて、もう少し体が小さくて、もう少し痩せていたらいいのに。
 ダメな女だ、あたしは。太ったままでは自分は古賀千秋のお荷物でしかない。役に立ちたい、認めてもらいたいと願っても、その能力は皆無に等しい。
 ところが、だ。そんな小池和美の沈んだ気持ちを逆転させる場面が突然やってきた。
 場所は君津駅前にあるカトーヨーカ堂だ。二階で衣料品を万引きしようと全員が配置につく。この日は、先週が雨で仕事ができなかったので気合が入っていた。今日は稼いでやろう。口には出さないが、みんなが同じ気持ちだ。
 男三人は、家が全焼して土屋恵子が学校に来れなくなったことを喜んでいた。彼女は袖ヶ浦の親戚の家に身を寄せているらしい。
 「これからは稼いだ金はオレたちで好きに出来るんだぜ」と、相馬太郎が前田良文に言うのを耳にした。
 どういう意味だろう? あとで古賀千秋に訊いてみようと思ったが、そんな事がどうでもよくなるほどの事態が起きてしまう。
 次の店に移ろうとしたところだった。前田良文の声がした。
 「あ、あ……。は、はら、腹が減ったーっ」
 仲間に緊張が走った。『腹が減った』とか『お腹が空いた』は合言葉で、ヤバイから逃げろという意味だ。古賀千秋が提案したルールの一つだった。
 全員が同じ方向へ逃げてはいけない。これも決まり事だ。男連中はバカでも、やっぱり足は速い。一目散に、その場から消えた。
 小池和美は体が大きくて足は遅い。だけど慌てなかった。ただの見張り役で万引きには直接に加わっていない。もし店員に捕まったとしても、一人で買い物に来ていただけですと釈明すればいい。
 気掛かりは上司と言ってもいい、もう彼女はクラスメイト以上の存在だった、古賀千秋のことだ。無事に逃げてほしい。
 その姿を目で追った。その時、小池和美の視界に古賀千秋の後ろを走る制服姿の女が入った。えっ、まさか警備員かよ。そうだ、きっとそうだ。「待ちなさいっ」その女の声。
 こりゃ、ヤバいっ。
 反射的に足が前に出た。小池和美は警備員の女を走って追いかけた。この野郎、ふざけたマネしやがって。止めさせないと。頭の中では自分たちが正義で、警備員は悪者だった。
 「待ちなさい」女は大きな声で周囲の注意を引こうとしていた。
 ばか野郎、騒ぐんじゃねえ。警備員が古賀千秋との距離を、どんどん縮めていく。やっぱりプロだ。こいつは動きが違う。どこへ犯人が行くか知っているみたいだ。このままでは捕まってしまう。何とかしないと本当にヤバい。あたし達二人が描いている、二年B組の学級委員から君津南中学の生徒会長という出世コースから外れてしまうじゃないか。
 古賀千秋が階段を降りていく。そのすぐ後で警備員の女は踊り場から階段へ足を下ろそうとするところだった。小池和美は何も考えていなかった。ただ七十三キロの体が無意識に動く。いきなり飛び上がって、憎らしい警備員の女の背中に強烈なドロップ・キックを浴びせたのだ。
 「ぎゃっ」
 警備員は爆風に吹き飛ばされたみたいに体を浮かして、階段下の床に叩きつけられた。衝撃で近くにあったスタンド・タイプの灰皿が倒れた。大きな金属音。飛び散るタバコの灰と吸い殻。
 その音に、逃げようと必死だった古賀千秋が足を止めて振り返った。何事かと思ったに違いない。しかし一瞬で状況を理解したようだ。二階の踊り場で横たわっている小池和美に向かって、親指を立てて頷いて見せたのだ。顔には笑みが。そして走り去った。
 助けられた、と分かってくれて嬉しかった。小池和美は起き上がった。満足感でいっぱいだ。
 手柄を立てられた。上司を窮地から救ったのだ。これからはパシリじゃなくて対等に扱ってくれるかもしれない。
 それと無意識に、ドロップ・キックという難しいプロレス技が出せたことが驚きだった。何の練習もしていないのに、だ。風呂場の鏡の前で真似していた、ラリアットやエルボー・ドロップとは訳が違う。それに、あの場面ではドロップ・キックしかなかった。それも見事に命中だ。女の警備員は倒れたまま身動き一つしない。まさにKO勝利だった。あたしって何だか凄い。
 テレビで見ていただけなのに体は技を習得していた。才能があるのかしら、あたしって。
 人を階段から突き落とすって楽しい。何度でもやりたい。この場所から直ぐに立ち去るなんて、なんか勿体ない。ずっと勝利の余韻に浸っていたかった。カトーヨーカ堂の店長によるヒーロー・インタビューがあってもいいくらいだ。
 「見事なドロップ・キックでした。あの経験豊かな警備員を秒殺ですよ。今の気持ちを、お願いします」
「友達を助けられて嬉しいです」
「いつか決めてやろうと狙っていたんですか?」
「いいえ、無意識でした。だけどあの場面では、あれしかなかったと思います」
「今日の劇的な勝利は買い物客の目に焼きつきました。次の試合への意気込みを聞かせて下さい」
「今度は必ず得意のラリアットで決めたいです」
「期待しています」
「がんばります」 
 余計な空想に耽って、それが命取りになった。他の警備員たちが現場にやってくる時間を与えてしまう。
 小池和美は不意に男の警備員二人に体を押さえられた。あっ、何すんのよ? 力が強くて逃げられそうにない。もしかして捕まったんだ。こりゃ、マズい。
 何かドロップ・キックを浴びせた理由を、デっち上げなきゃならない。そう思ったが、すごく嬉しくて何も考えられなかった。プロレスって見るのも楽しいけど、やるのはもっと楽しいのがこれで分かった。店の事務所へ連れて行かれるというのに、小池和美の顔からは笑みが消えなかった。

   44

 古賀千秋は一階に降りると走るのを止めた。すぐに出口へは向かわないで店内を歩いて、買い物客の中に紛れ込んだ。慌てて逃げ出すほどバカじゃないさ。
 これで安心。上手く逃げられた。しかしヤバかったな。危うく優等生という評判にキズがつくところだった。
 今回は小池和美のお陰だ。間違いない。あいつが、あそこで警備員の女に飛び蹴りを食らわせてくれたから助かったのだ。
 その瞬間は見れなかったが、あの音と気絶した警備員の姿からして、相当な破壊力だったに違いない。あの子、なかなか使えそう。これからは、もう少し優しく接してやろうかと考え直した。パシリ卒業だ、おめでとう。
 危機が去って落ち着くと、お腹が空いてきた。食料品売り場の商品を目にして食欲をそそられたらしい。家に帰って何か食べようと考えた。
 小池和美がどうなったか気になったが、あの女のことだから心配ないだろうと、すぐに忘れた。
 カトーヨーカ堂の出口へと向かう。すっかり自信を取り戻していた。あたしは不死身だ。どんな時でも間一髪で窮地から脱出してみせる。女ジェームズ・ボンドと言えるかもしれない。この危機を乗り越えたことで自分が以前よりも賢くなったような気がする。これからはもっと用心して仕事しよう。
 出口の近くで女が一人、誰かを待っている様子で腕時計に目をやって時間を確認しているのが見えた。どことなく美術の安藤先生に似ているなと思った。しかし邪魔な奴だな、そんな所に立っているんじゃねえよ。そう思いながら横を通り過ぎようとしたところだった、突然、その女に片方の腕を力強く掴まれた。えっ、どういうこと? もしかして痴漢? あたしって魅力あるから。
 「自分がした事が分かっているでしょう? これから事務所へ行くから大人しくしなさい。あなた達は店に入ってきた時から目を付けられていたのよ。初めてじゃないことも、こっちは知っているから覚悟した方がいいわ」
 女の言葉に、古賀千秋は息が止まった。この女、店の警備員だ。
私服の警備員。あたしを待ち伏せしていたんだ。え、そんなのって反則じゃない? 天国から地獄。顔から血が引く。全身から力が抜けていく。大人しくしろと言われても、こっちは立っているだけで精一杯だ。捕まった。この、……あたしが捕まった。呆然。
 女は慣れた手つきで腰のホルダーから無線機を取り出すと、喋り始めた。「チーフ、聞こえますか? はい、村上です。今、もう一人の身柄を押さえました。これから事務所へ向かいます。え? 第二事務所ですか。分かりました、そちらへ連れて行きます」
 声が冷たい。何の温かみも感じられなかった。少しは親しみっていうのを示してくれてもいいのに。こっちは万引きで捕まって気が動転しているんだから。
 「身体は大丈夫なの? どこか怪我はしていない?」とか「怖かった?」、それとか「すぐに終わるから安心しなさい」、なんて優しい言葉を掛けて欲しかった。これじゃ、まるで凶悪犯罪者扱いだ。悲しくなってくる。人を殺したわけじゃないのに。
 小さな倉庫みたいな所へ連れて行かれた。空き箱みたいなのが積まれていて、散らかっている。ここが第二事務所っていう場所らしい。中では若い男が一人、机の向こうに腰を下ろしていた。三十歳前後か。もしかして、こいつがチーフ? ちょっと若過ぎない? それに少しだけど、イケメン。
 「そこに座って、盗んだ商品を机の上に出しなさい」すごく事務的な言い方。自己紹介もない。
 古賀千秋は警備員の女が手を離してくれると、言われた通りにした。左のポケットに入っていた安価の靴下を取り出して置く。右のポケットにあったワコールのパンティは、値が張るので隠したままにした。
 「それだけか? すべて出しなさい」
「これで全部です」ウソをついた。身体検査をされたら万事休すだけど。
「そうか」
 あれ、信じてくれちゃった。ラッキー。
 「チーフ、高橋さんの容態はどうなんですか?」女が心配そうに訊いた。
「救急車を呼んだ。意識は戻ったが朦朧としている。自分の名前さえ言えないくらいだ」
「まあ、大変。家族に知らせますか?」
「そうだな、そうしてくれるか」
「わかりました」
「あ、それと、第一事務所へ行ってほしい」
「わたしが、ですか?」
「そうなんだ。何も喋ろうとしない。ときどき笑ったりする。ふてぶてしいにもほどがある。田中が手を焼いているんだ。こっちはオレ一人で何とかするから」
「わかりました」
「頼む」
 殺風景な事務所に三十歳前後のチーフと二人だけになった。連中が話していたのは小池和美のことだと分かった。あの子も捕まったんだ。だけど黙秘しているらしい。
 自分は安い靴下一足を万引きしただけだけど、和美の方は警備員に重傷を負わせたようだ。
 「どうして、こんな事をしたんだ。悪いことだって分かっているだろう?」
「……」古賀千秋は考えに集中して言葉が出せなかった。この状況を、様々な角度から計算していた。なんとか少しでも自分に有利な方向へ持っていけないだろうか、と。 
「黙っていると、きみの立場はどんどん悪くなるぞ」
「あ、……あたし、脅されていたんです」古賀千秋の優秀な頭脳が最良と思える答えを出すのに、それほど時間は掛からなかった。
「え?」
「あの子に、その靴下を盗めって強要されました」
「何だって?」
「あたしは学校で学級委員長をしています。自分から万引きなんてするわけがありません」激しく首を振ってみせた。
「それは本当なのか?」
「あの子は書記なんです。でも体が大きくて腕力が強いから、いつも威張っています。何か気に入らないことがあると、あたしを殴ったり蹴ったりするんです。もう怖くて、怖くて学校へ行けない日は何度もありました」涙を拭いているように手で目を擦った。 
「それはひどいな」
「はい」鼻を啜ることだって忘れない。
「学校の先生には相談したのか?」
「そんなこと、とても出来ません。だって、もしバレたら……、どんな仕打ちをされるか怖くて」手応えを感じた。
「……」若い男は考えている様子だった。
 So far、so good・
 ここで畳み掛けるしかない、と古賀千秋は判断した。椅子から立ち上がるとチーフの男に抱きついた。
 「お願いです、あたしを助けて下さい。あの子に暴力を振るわれるのはもう嫌です」怯えているふうに体を震わせた。そして胸の膨らみを男の肩に押し付けてやった。
 良かった、拒否しない。うふっ。まんざらでもないらしい。男ってホモじゃない限り、若い女の肉体には弱いんだから。
 「わかった、わかったから。落ち着きなさい」
「あたしを助けてくれますか?」胸の膨らみが効いたらしい。
「何とかしよう」
「ありがとうごさいます」やったあ。バンカーからの見事なリカバリー・ショットだ。セベ・バレステロスだって、ここまでは出来まい。父親のゴルフ雑誌で見つけた憧れの人だった。このチーフ、ちょっと似ているところがあって、それで思い出した。
 若い男を手玉に取るのは、テレクラ遊びから習得した技術だ。スケベな男達をあしらうのは巧くなったと思う。
 連中をその気にさせて焦らしたり翻弄するのは、それなりのテクニックが必要だ。中学一年の夏ごろから始めたテレクラ遊びで身についた。やっていて本当に良かった。こんなところで役に立つとは思わなかった。
 テレクラ遊びは古賀千秋にとって、英語や数学と同じくらい大切な知識になった。すべての女の子が生きていく上で身につけておくべきだと思う。中学の必修科目にしてもいいくらいじゃないかしら? もしも自分が文部大臣だったら高校入試に『テレクラ』を加えよう。大蔵省ご用達の『ノーパンしゃぶしゃぶ』があったんだから、文部省が推薦するテレクラがあっても別に悪くないし。
 嘘を信じてくれて、この若いチーフには感謝しかない。『何とかしよう』と言ってくれた、その言葉を確実にさせる為に処女を差し出してもいいかも。
 「女の身体っていうのは、いつか出会う素敵な男性の為に大切にしておくモノなのよ」が、母親の言葉だった。しかし古賀千秋は「男の人って寝てみないと分からない」、と言った女優の杉本彩の言葉を信じていた。だったら処女なんて、そんなに価値があるもんじゃない。この若い肉体が取引のカードに使えるなら利用しない手はないだろう。
 これで何とかダメージは最小限に抑えられたと思う。でも万引きで捕まったのは事実だ。家に帰ってから、どれほど叱られるか想像がつく。きっと母親はヒステリックに取り乱すはず。
 「なんて事をしてくれたのよ」
「もう破滅だ。もう生きていけない」
「これまでの努力が、あんたの所為で全て水の泡だわ」
「どれほど母親を苦しめれば気が済むのよ」
「あんたなんか産むんじゃなかった」
 それらの言葉を繰り返し、繰り返し、延々と聞かされるのだ。うんざりするほど。くど過ぎて母親の説教は反省するどころか、反感しか覚えない。そうだ。だったら叱られる前に、こっちから一発かましてやろうか。
 「お母さん。あたし、もう処女じゃないんだ。木更津のセントラルに映画を見に行った帰りにナンパされて、名前も知らない中年のオジさんと公園のベンチでヤっちゃったのよ」
 こりゃ、いい。警備員のチーフに抱かれたと正直に言うよりも、こっちの方がインパクトが強い。うふっ。母親の失望する顔を想像すると古賀千秋は愉快で堪らなかった。あんたが「子育てに失敗した」って言うんだから、その通りに生きてやろうじゃないか。

   45 

 黒川拓磨と話すべきだ。そう思っても加納久美子はタイミングを掴めないでいた。
 どう切り出せばいいのかも分からなかった。何を話すの? 何を問い質すの? 
 転校してきたばかりの時は、優秀な生徒が来てくれたと喜んだ。気持ちに変化が起き始めたのは、彼が描いた絵を安藤先生が見せてくれてからだった。理解できないほど暗い絵に言葉が出てこなかった。
 自殺した佐野隼人は、「あいつ、怪しいです」と言った。板垣順平は彼が貸したゲームソフトで、何も映っていないテレビに夢中になっているらしい。娘を妊娠させた相手は黒川拓磨じゃないかと、五十嵐香月の母親は疑っていた。
 その他にも君津南中学二年B組には様々なことが起きた。篠原麗子の家では家庭内の揉め事で義理の父親が大怪我を負う。鮎川信也は下校途中で軽トラックに轢かれた。佐野隼人が三階の窓から飛び降りて自殺。交際していた佐久間渚は毒を盛られて廃人と同じような体にされた。土屋恵子の家は火事で全焼だった。そして学級委員長の古賀千秋と書記の小池和美が、万引きで逮捕されるという信じられない事件が起きてしまう。
 どうして、こうも立て続けに。去年は関口貴久の家が火事で焼けて転校して行っただけだった。言いたくないが、黒川拓磨が転校してきてから、何か歯車が狂ったような感じで次々と事件が起きている。これで終わってくれるんだろうか。
 「一体、二年B組はどうなっているんだ?」
 高木教頭と主任の西山先生からは何度か文句を言われた。その度に「すみません」と謝るしかない。まるで全ての責任が担任をしている加納久美子にあるような、教頭先生の口振りには腹が立つ。
 親身に心配してくれたのは、やはり安藤先生だけだった。
 「何か変よ。そう思わない?」
「ええ、確かに。だけど何が、どうなっているのか想像もつかないわ」久美子は正直に答えた。
「すべてが黒川拓磨が転校して来てからよ」
「その通りだけど。でも、まさか彼がすべてに関係しているとは思えない。証拠だってないし」加納久美子は安藤先生に、板垣順平と五十嵐香月のことを口にしていなかった。
 「あの子は不気味な感じがする。何を考えているのか分からないっていうか……。もしかして何かを企てているみたいな」
「え、何を?」安藤先生らしくない辛辣な言い方に驚いた。
「わからない。だけど、そんな気がして仕方がないの」
「……」口にはしないが久美子も同じ思いだった。
「黒川拓磨と話をしてみたら?」
「何を、どう話せばいいの?」
「何でもいいじゃない。少しでも本人と話をして探りを入れるべきよ」
「……」なんか刑事みたい。初めから彼を疑って掛かろうとしているのが気に入らない。
「あのさ……」回りに人がいないか確認すると安藤先生は小声で続けた。「これは誰にも話していないんだけど」
「なに?」
「佐野くんが自殺した時、あたしと西山先生で二年B組の教室まで上がって行くと、倒れている佐久間渚を発見したって言ったでしょう?」
「うん」それは聞いた。
「彼女は意識を失っていた」
「そう」
「だけど、そうなる前に一言だけ口を開いたのよ」
「え?」
「聞いたのは、あたしだけだった。すぐに西山先生は下へ教頭先生を呼びに行ったから」
「なんて言ったの?」
「彼女は『黒川くんが……』って言ったのよ」
「まさか」
「何とも言えない。あそこで黒川拓磨の姿は見なかったし、彼が佐野隼人の自殺と関係しているとは決めつけられないわ」
「……」
「だけど怪しい。あの状況で彼の名前を口にするなんて」
「わかった。彼と話をしてみるわ」もうそうするしかないと、加納久美子は思った。
「黒川拓磨って前の学校では、どんな生徒だったのかしら」
「……」
「彼の書類が見たいわ」
「待って」加納久美子は腰を屈めて、引き出しから厚いバインダーを取り出すと机の上に置いた。二年B組の生徒全員の書類が閉じてある。
 安藤先生が身を乗り出して表紙を開く。ページを捲り始めた手が止まって、しばらく目を通すと口を開いた。「これって、ちょっとヘンじゃない?」
「どうして? 何が」
「ただ記録だけじゃないの。生年月日と、いつ小学校を卒業したとかだけよ。担任をしていた教師のコメントが何一つ書いてない」
「そう言えば、そうなの」
「ヘンに思わなかった?」
「気になったけど、すぐに忘れたわ」
「あれだけ成績が優秀な生徒だもの、何も書いてないのは理解できない」
「確かに」
「前の学校に連絡して聞いてみたら」
「……」
「あたしがしようか?」
「待って。まず黒川拓磨と話をしてみる。それから考えるわ」黒川拓磨の正体を暴こうとしているみたいな、安藤先生の強い意志には違和感すら覚えた。
「わかった。じゃあ、話したら教えて」
「もちろん」加納久美子は言った。

   46

 「三月十三日は、どんな具合になっている?」女が黒川拓磨に訊いた。
「順調さ。きっと上手くいく」
「そうかい、それならいいけど。ところで鏡は、どうするつもりだい。そのまま放っておく気なのかい?」
「まさか。オレなりに考えているさ」
「失敗は二度と許されないよ。去年の暮れに平郡中学で死に掛けたのを忘れちゃダメだ」
「そんなの当たり前だろう」黒川拓磨は鼻で笑った。

   47 

 黒川拓磨と話をする機会は,あえて探す必要がなかった。
 翌日、加納久美子が英語の授業で二年B組の教室に入ると、教壇の上に青いチューリップがあった。「まあ、素敵。誰かしら? 持って来てくれたのは」
「僕です」
 黒川拓磨だった。加納久美子の胃が重くなった。「ありがとう」何とか感謝の言葉を搾り出す。授業中、生徒たちに付加疑問文を教えながら、このチャンス活かすしかないと自分に言い聞かせた。
 休み時間を知らせるチャイムが鳴ると、黒川拓磨の方から近づいてきた。「黒川くん、ありがとう」加納久美子は声を掛けた。
「どういたしまして。先生、チューリップは好きですか?」
「もちろん。嫌いな人なんているかしら」
「その通りだ」
「どうしたの?」
「近所の花屋で見つけました」
「こんな時期だから、さぞかし高かったでしょう?」
「はい、安くはありませんでした。でも大昔のオランダでは、チューリップの球根で家が買えたらしいですよ。あはっ。そこまでは高くありませんでしたから、ご心配なく」
「チューリップ・バブル」
「そうです。この花の球根が、そこまで高価になったなんて信じられますか?」
「いいえ。その当時のオランダ人て、どうしちゃったのかしら」
「あの頃に取引されていたチューリップは、これほど色や形が管理されたモノじゃなかったんです。すべてがウイルスに感染した奇形の花でした。色合いや形が病気に左右されて、球根が急に綺麗な花を咲かせたんです。それに病気なので長持ちしません。そんなんで希少価値が高くなってバブルに発展していったんです」
「まあ、詳しいのね」
「歴史は好きです。バブルに踊って、それが弾けて多くの人々が苦しむところなんか。チューリップ・バブルの後では長い年月に渡って、オランダは不況に苦しんだそうです」
「……」人が苦しむ姿が面白いなんて、嫌な性格。この話題は続けたくなかった。「黒川くん、ちょっと訊きたいんだけど」加納久美子は言った。
「はい、何ですか」
「あなた、板垣くんにゲーム・ソフトを貸したの?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい。僕はテレビ・ゲームに興味はありませんから」
「そう」本人が否定するなら仕方ない。これ以上は追求できなかった。「もう一つ、訊きたいことがあるんだけど」
「なんなりと」
「五十嵐香月さんと交際している?」
「いいえ」
「そう。わかった。もう、いいわ」
「彼女は素敵な女の子ですけど、ちょっと好みじゃありません。僕の理想は知的な女性です。たとえば加納先生みたいな」
「……」最後の言葉にびっくり。
「先生はブルーが似合う。だから迷わずに青いチューリップを選びました」
「ありがとう」小さな声で感謝の言葉を口にした。生徒との会話に居心地の悪さを覚えつつあった。
「青や赤、黄色と様々な色のチューリップがありますが、どうしても作れない色があるのを知っていますか?」
「い、いいえ」
「黒です。黒いチューリップは絶対に出来ないらしい」
「そうなの」
「それとバレンタイ・ディですが、女性が好きな男性にチョコレートを送るのが一般的です。でも欧米では男性が好きな女性に花を送るという風習もあります」
「ごめんなさい。次の授業の用意があるから、もう行くわ」もう居た堪れない。ぼくと付き合ってくれませんか、なんて言葉が次に聞こえてきそうな雰囲気だ。加納久美子は、テキスト類をまとめると足早に二年B組の教室を後にした。

   48 

 「どうすりゃいいんだろう? オレは」秋山聡史は頭を抱えながら独り言を口にした。
「まさか死人が出るとは……、な」黒川拓磨が言った。
「足の悪いバアさんが一緒に住んでいるなんて知らなかったんだ」
「仕方ないさ」
「取り返しがつかないことをしちまった」
「死ぬのを少し早くしただけじゃないか、気にするな」
「お前は当事者じゃないから、そう簡単に言えるのさ」
「あの女の家に火をつけるとは思わなかったぜ」
「あの紙には、『土屋恵子が学校から居なくなってほしい』と書いてあったんだ」
「それで放火か?」
「そうだ。関口貴久の時は上手くいったからな。あの野郎、オレから金をふんだくろうとしたんだぜ」
「じゃ、これで二度目だな」
「もうしない。頼まれても絶対にするもんか」
「やり過ぎたな、今回は」
「言えてら。灯油を家の回りにハデに撒きすぎた。欲しかった佐久間渚の下着が手に入って、テンションが上がっちまった」
「放火すると教えてくれていたら、いくつかアドバイスしてやれたんだが……」
「どんな?」
「警察に捕まらないように、気をつけなきゃならない事がいくつかあるさ」
「マジかよ。だけど火をつける時は誰にも見られなかったぜ。心配はしていない」
「何を言ってる。それでも警察は放火犯を逮捕するんだ」
「どうやって?」
「すこしづつ容疑者を絞り込んでいくらしい」
「オ、オレが容疑者になっているって言うのか?」
「わからない」
「脅かすんじゃねえぜ。やめてくれ」
「お前、放火してからも現場に残っていたか?」
「うん。どこまで家が燃えるか確かめたかったからな」
「そりゃ、マズいぜ」
「どうしてだ?」
「警察の鑑識なんかがカメラを持って、現場の写真を撮っていただろう? 気づかなかったか?」
「た、たしかに……そうだけど」
「お前、写真に撮られたか?」
「わからない。覚えていない」
「写真に写っていたら容疑者の一人だぜ」
「火事の現場にいただけで、か? そんなの大勢いたんだぜ」
「そうさ。ほとんどの放火犯が、現場に残って火事に見惚れるらしいからな。気が遠くなる作業だけど、警察は写真に写っている野次馬の一人ひとりを調べていくさ」
「……」
「つまりだ、関口貴久の現場と土屋恵子の現場の両方に写っていたら、もう致命的だぜ」
「げっ。……ヤバい。どうしよう」
「自業自得だ」
「おい、黒川。待ってくれ、何とか助かる方法はないか? 警察なんかに捕まりたくない」
「……」
「おい。黙ってないで何とか言ってくれよ」
「祈るしかないだろうな」
「え、祈るだって?」
「そうだ。警察が捜査ミスを犯して、お前を見逃すことを祈るしかない」
「そんなことで大丈夫かな?」
「お前には、もうそれしかないぜ」
「……」
「三月十三日は参加してくれるよな?」
「約束したから、それは行くさ」
「そこで僕と加納先生が仲良くなれるように本気で祈ってくれ」
「関係があるのか? オレが逮捕されないで済むのと」
「もちろんだ。ぼくの為に祈ってくれたら、廻り回って秋山聡史の利益に繋がっていくんだ」
「……」
「放火殺人だぜ。ただの放火じゃない、重い犯罪だ。捕まったら始めは少年院かもしれないが、二十歳になる頃は刑務所へ移されるだろう。きっと懲役十年以上は食らうな」
「そんなのイヤだ。入院している佐久間渚の見舞いに行けないじゃないか」
「そうだ。それに、いくら心の優しい彼女でも前科者とは付き合わないだろうからな」
「わかった。祈るよ。お前の為に一生懸命に祈るさ」
「それがいい。見舞いに来てくれたら、きっと佐久間渚は大喜びするんじゃないか。感動して、お前しか頼る人がいないと思うに違いないぜ。一気に彼女と親密な関係になれるチャンスかもしれない」
「言う通りだ。オレは絶対に警察に捕まるわけにはいくもんか」
 不安の中に一縷の希望を見つけた。久しぶりに秋山聡史の顔に笑みが浮かんだ瞬間だった。

   49 

 「黒川拓磨と話したわ」お昼休みに美術室まで足を運んで、加納久美子は安藤先生に報告した。
「どうだった?」
「……わからない。言えるのは、あの子は普通の生徒とは違うということだけ」
「あなたのことを担任教師じゃなくて、異性として見ていたでしょう?」
「え、どうして知っているの?」加納久美子は安藤先生の言葉に驚いた。
「やっぱり」
「何で知っているのよ?」
「あたしのことも、そうだったから。間違いなく性的な目で見ていたわ」安藤紫は答えた。
「黒川拓磨と話をしたの?」
「探りを入れようとしたわけじゃないのよ。あの暗い絵を返す時に彼の方から話しかけてきたの。すごく居心地が悪かった」
「あたしも、そうだった」
「彼は何かを企んでいると思う。何か、すごく自信ありげだった。あたしなんか簡単にモノに出来そうな態度なのよ。信じられる?」
「あの子は手に余りそう」
「主任の西山先生に相談したら?」
「この前だけど手塚奈々がアルバイトをしていることで、あたしに代わって彼女と話をしてもらったの。任せてほしいなんて言ったけど、上手く行かなかったみたい」
「でも主任という肩書きを持っているから、相談はしておいた方がいいと思う。もし何かあった時に、報告をしていなかったとなったら問題になるわ」
「わかった。そうする」
「ところで黒川拓磨が転校して来た理由は何だったの?」
「聞いていないわ」
「父親が去年の暮れに亡くなったから?」
「そうかもしれない」
「前の学校に電話してみたら? 無駄かもしれないけど、もしかしたら何か情報が得られるかもしれないし」
「うん。黒川拓磨の担任をしていた教師と話がしてみたい」加納久美子は言った。
「いい考えだわ」安藤紫が応えた。
 
   50

 「おい、板垣。何を持って来たんだ、お前?」サッカー部員の一人が訊いた。
「ビデオだよ。あいつが退屈してると思ってな」
「どんな?」
「バカ、聞くだけ無駄だぜ。板垣のことだから、エロビデオに決まってんだろう」別のサッカー部員が横から口を出す。
「そうだな、訊いたオレがバカだった。また光月夜也のビデオに違いないぜ。あはは」
「いや、これは別モノさ」と板垣順平。
「お前、AV女優の好みが変わったのか?」
「そうじゃない。これは裏ビデオなんだ」
「えっ、マジかよ」
「先輩から借りてダビングしたのさ。『洗濯屋ケンちゃん』ていう有名なビデオらしい」
「見たのか?」
「当たり前だろう」
「どうだった?」
「モロだぜ。内容も悪くない」
「見てえ。オレにもタビングしてくれないか」
「いいぜ」板垣順平は応えながら、同じクラスの鶴岡政勝が黙っていることに気づく。こういう話題には、いつもなら真っ先に飛びつくはずなのに。「おい、どうした? 元気がないな」
「……」
「おい、鶴岡」
「え?」
「何を考えている? お前らしくないぞ」
「悪かった。なんだかオレ、ちょっと風邪をひいたみたいなんだ」
「しっかりしろ。今週中に治せよ。日曜日には富津中学とのリベンジ・マッチなんだからな」
「わかってる」鶴岡政勝の返事には、早く風邪を治したいという意思が微塵も感じられなかった。

 君津南中学のサッカー部員全員で、交通事故で入院している鮎川信也を見舞いに行くところだった。
 鶴岡政勝は良心の呵責に苛まれて、仲間の会話に入れない。鮎川信也が乗っていた自転車の前輪に細工したのは自分で、それが原因で奴は道路で転倒して、後ろを走っていた軽トラックに轢かれてしまう。
 左足の踵を複雑骨折して、二度とサッカー部には戻れそうにないと顧問をする体育教師の森山先生から聞かされたのだ。ショックだった。ちょっとした怪我をして次の試合を休んでくれたら、それでよかったのに。大変な事をしてしまった。
 「もう今までと同じようには歩けないんじゃないか。もしかしたら松葉杖が手放せなくなるかもな」、と言った板垣順平の言葉が胸に深く突き刺さる。
 軽トラックを運転していた老人は避けようとして、反対車線に飛び出すと対向車と正面衝突して亡くなった。つまり鮎川信也の自転車にパンクを細工したことで人が死んで、友達を障害者にしたのだった。もう取り返しがつかない。
 次の富津中学との試合に出場して、マネージャーの奥村真由美に活躍する姿を見せたかった。その思いが大変な事態を招く。
 皮肉なことに鮎川信也が事故に遭った晩に、奥村真由美から電話があった。「一緒に『メリーに首ったけ』を観に行かない?」という誘いだった。うれしかった。でも同時に罪悪感が込み上げてきた。
 あり得ない。信じられない。なんてこった。
 デートの約束をして携帯電話を置いた後は、鮎川信也の自転車に細工したことを後悔した。そんな事をする必要はなかったのだ。彼女は自分に好意を持ってくれていた。
 鮎川信也がパンクに気づいて、何事もなく家に帰ってくれることを願う。しかし夜の十時過ぎに板垣順平から電話があった。着信音が鳴った瞬間にイヤな思いが脳裏を過ぎる。最悪の結果を知らされた。
 「学校の帰りに鮎川が事故に遭ったらしいぜ」
「……」なんてこった、マジかよ。うな垂れて目を閉じた。
「おい、鶴岡」
「……な、何だ?」
「お前、聞いてんのか?」
「うん」
「鮎川が交通事故に遭ったみたいなんだ。今さっき親父のところに学校から連絡があった」
「そうか」小さい声でしか返事ができない。
「どうしたんだ、お前? 驚いていないみたいだな」
「い、いや……そんなことはない。驚いているさ」
「本当か?」
「当たり前だろう。ちょっとショックが強すぎて……。まさか、重傷じゃないよな?」
「そこまでは、まだ分からない。これから親父から詳しく聞く。明日の朝に学校で話すから。部室に集まってくれ。いいな?」
「わかった」

 鮎川信也の病室には一番後ろから入った。奴と顔を合わせたくない。左足は白い石膏で固めてあって、それが痛々しい。みんなを代表する形で板垣順平が話す。持ってきたビデオを渡すのが見えた。事故に至った詳しい経緯を本人から訊く。鶴岡が、「女の子の自転車を追い越そうとしたところで、前輪のパンクに気づいたんだ」と、みんなに聞こえるように説明し始める。
 聞きたくない。鶴岡は一刻も早く帰りたかった。誰かが、「そろそろ行くか?」と言い出すのを待った。
 「おい、鶴岡」板垣の声。
「……」ちっ、呼ばれちまったか。
「鮎川が話したがっているぜ。前に来い」
 促されて仕方なくベッドの側に立ったが、出来るだけ目を合わさないようにした。「早く治ればいいな」なんとか言葉を口にする。
「しばらく掛かりそうだ。もうサッカーは無理かもな」
「……」何も言えない。オレの所為だ。
「鶴岡、今度の試合は頑張ってくれよ。絶対に勝ってほしい。お前が自分のプレーをすれば絶対に大丈夫だから」
「うん」
 つらい。こんな励ましを受ける資格なんてないのに。本当に鮎川に悪いことをしたと思った。と同時に奴が凄くいい友達だと分かった。
 立ち直れそうにない。病院を後にして家に帰ってからも、罪悪感
に押し潰されそうだった。その夜だ、黒川拓磨から電話があった。
 「どうだった、鮎川の容態は?」
「最悪だ。二度とサッカーは出来ないらしい」
「マジか」
「畜生、大変なことをしちまった」
「仕方ないぜ」
「もう取り返しがつかない」
「そうだな。でも運が悪かったんだ。お前だけの所為じゃない」
「そうかな」
「軽トラックを運転していた年寄りが、運転操作を誤ったから事故になったんだろう」
「それもあるけど」
「いや、それがすべてさ」
「そうは思えない」
「もし鮎川が転倒しなかったら、軽トラックは女の子を轢いていたかもしれないぜ」
「まさか」
「その可能性が高いと思う。目の前で転倒した鮎川を避けられないぐらいだから、かなり反射神経は鈍いな。年寄りの運転なんて、気違いに刃物と同じだぜ。お前は自転車に細工して女の子を救ったと言えるんじゃないかな」
「……」
「もし女の子が轢かれたら足の怪我ぐらいじゃ済まないぜ」
「そうかもな」
「鮎川はサッカーが出来なくなったかもしれないが、死んだわけじゃない」
「……」
「お前は女の子を助けたのさ。くよくよしながら生きて行く事はないだろう。若いんだから、前向きに生きろ」
「それは言えてるな」
「祈ってやれ」
「え?」
「鮎川の怪我が一日も早く完治するように祈るんだ」
「どうやって?」
「三月の十三日に学校に集まってくれ。みんなと一緒に、まずはオレと加納先生が仲良くなれるように祈ってほしい」
「それとこれが関係あるのか?」お前と加納先生が仲良くって、それ本気かよ。ちょっと無理があるんじゃないのか。
「もちろん。オレの為に祈ってくれたら廻り回って、お前の願いだって叶うのさ」
「そういうもんかな?」
「そうだ」
「わかったよ」
「前向きに考えろ。過去を引き摺って生きたって、いいことは何もないぜ。奥村真由美と一緒に映画を見に行くことに集中しろ。きっと楽しいぜ」
「え? ああ、そうだな。お前の言う通りだ」そのことを何で知っているんだろう。
「前から思っていたんだけど」
「何を?」
「お前と奥村真由美なら、お似合いのカップルになるんじゃないのかな」
「マジでか?」
「嘘じゃないぜ」
「身長が彼女の方が少し高くて気になっていたんだけどな」実は5センチ近くも鶴岡は低かった。
「心配するな。そんなことを気にする奥村真由美じゃないぜ。いい性格だ」
「オレも、そう思う」
「せいぜいデートを楽しんでくれ」
「ありがとう。元気になった感じがするよ。三月の十三日は必ず学校へ行く」
「頼む」
 黒川拓磨から電話をもらって、鶴岡政勝は元気を取り戻した気分だった。ただ一つ、腑に落ちない。どうして黒川の奴が、オレが奥村真由美と映画に行くことを知っているのか不思議に思う。もしかして彼女が言ったのかもしれない。
 黒川が内藤に『メリーに首ったけ』を一緒に観に行かないか、なんて誘ったのかな。そこで彼女が「ごめんなさい、もう鶴岡くんと一緒に見に行く約束をしちゃったの」なんて答えたりして。それなら納得だ。
 『お似合いのカップルになりそうだ』という言葉を掛けられて有頂天の気分だった。ほかの事は別にどうでもいい。
 どんな服で行こうか? どこで食事しようか? 今は、生まれて初めてするデート以外のことは何も考えたくなかった。

   51

 「加納先生」
 お昼休み、加納久美子は美術室から職員室へ戻ると西山主任から声を掛けられた。「はい」
「今さっきですが、波多野くんの父親から電話がありました。ここに折り返し電話してくれますか」そう言ってメモを渡された。電話番号が書いてあった。
「わかりました」
 波多野孝行の父親は君津警察署に勤務する刑事だ。佐野隼人が教室の窓から転落した件だろうか、と思った。それとも息子のことで何か話があるのだろうか。
 加納久美子は美術室で安藤先生と一緒に、二人で昼食をとるのが習慣だった。きっと波多野孝行の父親は、昼休みに担任教師は職員室にいるだろうと考えて電話してきたのだ。久美子はデスクの前に座ると受話器を取って、メモを見ながら番号を押した。
 「もしもし」
「君津南中学の加納です。お電話を頂いたそうで。席を外してまして、すいません」
「いいえ。こちらこそ、いきなり電話して申し訳ありません」
「どんな御用でしょうか」
「大した事じゃありません。ちょっと加納先生に訊きたいことがあって電話しました」
「はい」
「三月の十三日なんですが、学校で何が行事がありますか?」
「え、……ちょっと待って下さい」思い当たる節がない。
 久美子は小物入れケースの横に貼ったスケジュール表に目をやった。土曜日だった。「いいえ、何もありませんけど」
「そうですか」
「三月の十三日が、どうかしましたか?」
「いいえ、別に……。わかりました。お手数を掛けしました。どうも、ありがとうございました。これで失礼します」
「はい。失礼します」へんな電話だった。
「加納先生、どんな用件でした?」学年主任の西山先生が近くまで来ていた。
「別に大した事ではありませんでした」加納久美子は答えた。
「佐野隼人の事件についてじゃなかったんですか?」
「違います」
「本当ですか?」
「はい」疑っているらしい。
「じゃ、どんな件でした?」
「三月の十三日の土曜日に、学校で何か行事があるのか訊かれました」
「はあ?」
「ありません、て答えました」
「それだけ?」
「そうです」
「わかりました。もし佐野隼人の事件に関しての事だったら、僕にも知らせて下さい」
「もちろんです」
 期待外れだった様子だ。背中を向けて自分の机に戻ろうとしたところで、加納久美子が声を掛けた。「西山先生」
即座に振り返った。「え、何でしょう?」
「……黒川拓磨のことなんですが」ついでだ。ここで言ってしまおうと思った。
「黒川が、どうしました?」
「成績は問題はありません。でも何か、彼は不思議なんです。理解できないところがあって、わたしの手に余るというか……」
 どう言っていいのか分からない。本人が否定している以上、板垣順平に貸したゲーム・ソフトのことや、五十嵐香月と親密な関係にあったかもしれないことは口に出せない。
「じゃあ、僕が彼と話をしてみましょう」
「そうしてくれますか。先生となら男同士ですし、何か違った面が見えてくるかもしれません」
「任せて下さい。手塚奈々のときは、あまりにも彼女が反抗的なので、やむを得ず厳しい対応になってしまいました。今度は大丈夫です。世間話でもすれば、彼が何を考えているか言ってくるんじゃないかな」
「よろしくお願いします」加納久美子は頭を下げた。


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