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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第5回 19 - 24
   19

 君津南中学校で二学年の主任を務める西山明弘は悩んでいた。最近まではすべてが順調だった。何もかもが上手く行く感じだ。しかし、ここにきて人生における最大の決断を迫られていた。
 始まりは去年の春に学年主任になれたこと。就任が決まっていた人物が交通事故に遭って休職を余儀なくされて、自分に白羽の矢が立つ。周囲からは、君津南中学校で最年少の学年主任だと祝福された。卒業したのは二流の大学だったが、ここで一気に出世コースに乗れたんじゃないかと自信を得た。目標にしていた教頭を通り越して、上手く行けば校長という地位に就けそうな気がしてきた。これからはヘマをしないで、しっかり職務を全うすることだと自分に言い聞かせた。学校、とくに二学年において絶対に不祥事は許されない。何かが起きれば管理責任を問われてしまう立場だ。イジメや暴力に対しては常に目を光らせた。
 主任手当てとして毎月の給与に五千円がプラスされたことは嬉しい。学生時代からの借金があって生活は苦しかった。中古で買ったレガシィのローンだって残っている。今にしてスズキかダイハツの軽自動車にすべきだったと後悔していた。自動車税は高いし、燃費はリッターで10キロに届かない。それにハイオク仕様だった。遊び仲間が大学卒業と同時にフォルクスワーゲンのゴルフGTIを買って、それに対抗意識を燃やしたのが拙かった。車自体は運転していて楽しいのだが、今の自分には維持していくのが大変だ。
 家賃を削るしかなかった。三軒目に訪れた不動産屋が探し出してくれたのが築三十五年を過ぎた木造アパートだ。ここでレガシィのローンが終わるまでは我慢するしかないと諦めた。
 もちろん外観はそれなりで古い。住んでみても多くの場所で不具合が見つかった。歩くだけでミシミシと建物自体が揺れる感じだ。もし大きな地震がきたらどうなるのかと不安だった。ただし入居者が少ない。両隣は空室で静かだった。
 意外なことに家賃は銀行振り込みではなくて、月末に一階の最も日当たりの悪い部屋に住む大家が自ら取りに来た。今時そんなの有りかよってな感じだ。五十代の母親と年頃の娘の二人暮らしで家賃収入だけで生活しているらしい。
 二度目のときに娘が家賃を取りに来た。洒落っ気のない普通の女だった。魅力を探すとしたら若いことだけだ。財布から出した金を受け取りながら、「学校の先生をしていらっしゃるんですか」と訊くので、「そうです」と答えた。すると娘の顔が、目の前に神が現れたかのような畏敬の表情に変わった。教師をしていると言って、そこまで崇められたのは初めてだ。同時に、このアパートにはロクでもない奴しか住んでいなさそうだと思った。
 事実、ほかに住んでる連中は建築現場の作業員みたいな汚い格好で部屋から出て行くか、生活保護を受けて一日中ぶらぶらしている年寄りしか見なかった。オレが唯一まともな人間らしい。
 三度目も娘が家賃を取りに来た。今度は少し世間話をした。いい感触だったので来月分も娘が取りに来るなと思った。その通りで、試しに西山は娘を食事に誘ってみた。丁度、新聞の折り込みでファミレスの割引券を見つけていたし。
 娘は、びっくりした様子だった。急に黙りこくって恥ずかしそうに頷いてみせた。デートに誘われたのは初めてらしい。
 土曜日の夕方、レガシィの助手席に乗り込んできた女の格好には西山がたじろぐ。まるでこれから結婚式に行くみたいな姿だった。ウエストに大きなリボンをあしらったピンク色のパーティー・ドレスだ。それがまるっきり似合っていない。サイズも大き過ぎるような気がした。化粧は歌舞伎役者ように厚かった。西山自身は紺色のチノパンツにサン・サーフのアロハだ。これから畑沢にある中華のファミレスへ行こうとしていたのに気が滅入った。知り合いには会いたくない。会えば、あのとき一緒にいた女の人は誰ですかと訊かれるにきまっている。きっと心の中では、あんなセンスの悪い女とよく一緒に食事ができるもんだと笑っているくせに。仕方なく同じ割引券が使える市原の店まで足を伸ばすことにした。
 食事中の会話は悪くなかった。女が西山を崇拝していたからだ。何を言っても興味深く聞いてくれた。気分がいい。その日のうちにアパートで肉体関係を結んだ。予想した通りで、処女だった。
 翌日から女が夕飯を用意してくれるようになる。これには助かった。味は不味いが金が浮く。セックスも毎晩のようにした。どんどん女が積極的になっていく。もうオレなしでは生きていけないってな感じだ。
 やばい。
 西山は女と所帯を持つことなんて考えていない。これ以上は親密になってはいけないと危機感を持つ。が、距離を取ろうとしても肉体関係は続けたいので難しかった。
 本命の女が勤め先の君津南中学校にいる。美術教師をしている安藤紫だ。一目惚れだった。ルックス、香り、笑顔、優しい性格、すべてに心を奪われた。
 特に、桃みたいな丸い尻が素晴らしい。ウエストの細いくびれと長い脚が更に魅力的に見せている。去年の夏だった、落とした何かを拾おうとして上半身を屈めた時、西山は幸運にも彼女の真後ろにいたのだ。ワンレングスの艶のある髪、華奢な背中、白いブラウスにブラジャーのラインがうっすら、そして大きなヒップが目に飛び込む。西山明弘は安藤先生のセクシーな尻に、しゃぶりつきたい衝動に駆られた。なんとか理性で自分を抑えたが、絶対に二度目は無理だと思った。
 なんてケツだ! こんなムチムチしたケツは見たことがない。今にもスカートの布がはち切れそうじゃないか。
 後ろから彼女を押し倒し、紺色のスカートの裾を捲くって頭を中に潜り込ませる。パンティの上から安藤先生の尻に顔を押し付けたかった。あのセクシーな尻に埋もれてみたい。
 しかし公立中学校の職員室で、いきなり女教師の尻に抱きつくことは日本国憲法が許してなかった。蚊がとまっていました、そんな嘘もこの場合は通用しないだろう。残念。欲望のままに行動すれば懲戒免職に直結するのだ。法律を守りながら生きていくってことは本当に難しい。  
 ああ、ヤりたい。ヤりたい。ヤりたい。安藤紫先生とヤりまくりたい。その日からは、ずっと頭の中で魅力的な美術教師の裸の後ろ姿を想像し続けた。授業中であろうが、食事中であろうが欲望の火が消えることはない。もしかしたら彼女は素っ裸よりも、衣服を着ていた方が逆に色っぽいかもしれないと思ったりもした。
 職員室にいれば、自然に目が安藤先生へと向いてしまう。仕事に集中できなかった。小テストの採点をしながらも頭の中では、安藤先生を四つん這いにさせて、後ろから大きな尻を両手で抱えて、オレの強力なミサイルを突っ込んでいるところを想像した。
 なんとかして親密な関係になりたい。何度も食事に誘った。しかし未だにいい返事をくれない。オレが嫌いなのか? いや、それはないだろう。なぜなら、ときどき親しげに話し掛けてきたりするからだ。オレが言った冗談にも笑って応えてくれるし。
 もしかしてオレは彼女の好みのタイプじゃないのか? 恋愛の対象にならないとか? だとすると問題の解決は難しい。
 優しく接して彼女の気持ちが変わるのを待つしかない。これは時間が掛かるので気が滅入る。手っ取り早いのは、やっぱり、オレにヤらせてみろよ、だ。すぐにタイプの男になれるだろう。これまでがそうだった。どんな女もオレに背後からミサイルを打ち込まれたら我を失う。持っていた自尊心は粉々に崩れて快楽の奴隷に成り下がる。ヒーヒー、ハアハアと喘ぎ声を漏らして、その目は虚ろ。タイミングを見計らって、オレがミサイルの核弾頭を破裂させてやると、女は身体を弓なりにして歓喜に悶えた。
 しばらく余韻に浸って、声が出せるようになって最初の一言は決まって、「もう一度して」だ。もはやオレの虜だった。
 安藤先生にも同じことが起きるのは間違いない。オレのミサイルを味わった途端に後悔の念に襲われるのだ。ああ、もっと早く食事に付き合うべきだった、と。
 あの手この手で西山明弘が、美術教師からデートの約束を引き出そうと画策していた矢先だった。君津南中学校は何人かの新任教師を迎い入れて、そこで計画が大きく狂うことになる。
 加納久美子、英語教師として赴任してきた女が西山の集中力を乱す。一目見た瞬間に気持ちが舞い上がった。
 憧れていた安藤先生とは全く違うタイプの女だった。痩せてスレンダーな肢体は、何か運動で鍛えられたアスリートという印象が強い。オッパイやヒップが特に大きいわけではない。安藤先生みたいに女らしい身体じゃない。それでも、どこか凄くセクシー。目つきとか仕草とか、男を引き付ける魅力を待ち合わせていた。
 知的な顔立ちは意思の強さを醸し出す。この女を口説くのは大変だと思った。それが故に西山は自分のミサイルを突っ込みたい強い衝動に駆られてならない。難攻不落な女ほどミサイル攻撃をしてみたかった。
 職場に二人のターゲットだ。これは拙い。高校の時にクラスに付き合っていた女がいたにも関わらず、他の女に手を出したことがあった。上手く行っていたのは一ヶ月だけだ。すぐに、どっちの女に何を話したか、どっちの女に何を約束したか、頭の中で混乱してしまう。最後は両方の女に二股がバレて破局した。
 安藤紫と加納久美子、どっちかを選ぶべきなのか。食事に誘っても未だにいい返事をくれない安藤先生を諦めようか……。いいや、それはできない。あの魅力的な尻を忘れられるもんか。ミサイルを撃ち込んでもいないのに。オレが諦めれば誰か他の男がミサイルを撃ち込むことになるのだ。そんなこと絶対に許せるもんか。俺が目をつけた尻だ。誰にも渡したくなかった。
 じゃあ、加納久美子を忘れるべきか。ああ、それも難しい。あの女は安藤先生みたいな尻を持っているわけじゃない。だけど、あの痩せた女には何か新鮮な魅力があった。若々しく、活力に溢れていて、躍動感に満ちていた。
 乗っている車はエアバックやABSも付いていない、十年以上も前のフォルクスワーゲンでマニュアル仕様だったが、それをサングラスを掛けて運転するする姿が実にスポーティでカッコいい。絵になっている。乗っただけで古い色褪せた乗用車をスタイリッシュにしてしまう女なんて、オレは今までに知らない。
 西山明弘は悩み続けた。超いい女が二人も自分の職場にいる。この幸運が信じられない。もしかしてこれは、どんなにブスでもしっかり女の相手をしてきたオレに対する神様からのご褒美か? それとも神様がオレに与えた試練なんだろうか。ここで、どう対処するかでオレの今後が決まったりして。
 可能性は低いかもしれないが、上手く立ち回って安藤先生と加納先生の二人をモノにするという期待は捨てていない。まるっきり有り得ない話じゃない。「あたし、二股でも構わないわ。これからも抱いてくれるなら」なんていう言葉を両方の口から言わせたら、これは最高だ。大成功。きっと神様も喜んでくれるに違いない。オレは人生の勝利者と言っていい。
 その勢いに乗って一気に教頭に、そして校長へと上り詰める。その後は教育委員会に迎えられて、もはや地元の名士と言っていい存在になるだろう。
 しかし問題は金だった。それなりの女を口説くには、それなりに軍資金が必要なのは経験から知っている。今のオレには、それが全くない。超いい女が二人もいるのに総攻撃を仕掛けられないもどかしさ。ここは手堅く、どっちか一人をモノにするというスタンスで行くべきなのか。
 上手い具合に加納先生には、自分が頼りになる男だと証明するチャンスが巡ってきていた。
 放課後、職員室で加納先生が生徒の佐野隼人と話しをしている時に掛かってきた電話だ。相手は板垣順平の母親だった。加納先生の顔から何か問題が起きたらしいと悟ったオレは、すぐに受話器を置いた彼女に話し掛けた。「どうしました」
 「……」
「何があったんです?」話すべきか躊躇っている加納先生にオレは強く促した。
「生徒のことでした」
「聞かせて下さい」
「うちのクラスの手塚奈々なんですが……」
「彼女が?」脚が長くて魅力的な女生徒だ。もしかして性犯罪に巻き込まれたか。
「板垣くんのお母さんが言うには、彼女、お好み焼き屋さんでアルバイトをしているみたいなんです」
「本当ですか?」何だ、そんな事か。
「いえ。まだ本人から話を聞いていないので、ハッキリしたことは分かりません」
「しかし知らせてくれたのは板垣順平の母親でしょう?」
「そうでした」
「だったら間違いはない。父親は中古自動車の販売を手広くしていて、地元の商工会では副会長を務めたこともあるらしいです。君津の商店街については知らないことは無いはずです」
「明日、手塚奈々に聞いてみます」
「加納先生」
「はい」
「お好み焼き屋のアルバイトなんか今だけですよ。すぐに稼ぎのいいスナックやバーで働くようになるでしょう。行き着く先は風俗店です。早いうちに辞めさせた方がいい」
「そうですね」
「ここは僕に任せてくれませんか」
「西山先生が手塚奈々と話をするということですか?」
「そうです。ただ叱るだけでは逆に反感を募らせてしまう。上手く彼女を説得してアルバイトを辞めさせてみせます。まだ中学生なんだから仕事なんかよりも学業に精を出すべきでしょう」
「それは、……そうですけど」
「加納先生、ここは学年主任の自分に任せて下さい」
 二年B組の担任である加納先生は当然だが、まず自身で対処したい様子だった。そこで自分は学年主任だということを強調した。
「わかりました。結果は教えて下さい」
「もちろんです」
 西山明弘には考えがあった。手塚奈々を言い聞かせてアルバイトを辞めさせれば、加納先生に自分は頼りになる男だという印象を与えられることだ。オレに対する見方が変わるはずだ。
 それともう一つ。あの手塚奈々という女生徒と話がしてみたかった。
 長い魅力的な脚をしていて、成長と共に最近は非常に目立つ存在になった。急に背が高くなった為にスカートの丈が短くなってしまう。見たくなくても視線は、その長い脚に惹きつけられた。
 スタイルは抜群だ。今すでにイイ女と言えた。これが数年後、女らしく色気づいて、化粧を覚えて、髪を肩ぐらいまで伸ばしたら、もう目が飛び出るほどセクシーな女になるんじゃないかと期待できた。そう考えると自分と歳が離れ過ぎていることが、とても残念でならない。
 だけど将来に何が起きるかは誰にも分からない。年月が経てば二人の歳の差は、どんどん縮まっていく。この機会に言葉を交わして少しでも親しくなっておくことはいいことだと思った。
 お好み屋のアルバイトなんて大したことない。そのぐらいの校則違反は誰でもやることだ。西山自身も中学時代から新聞の配達、御歳暮や御中元の配達で小遣いを稼いできた。
 叱ったりはしない。その長く美しい脚で目の保養をさせてもらっている恩義がある。働いているところを、口うるさい板垣の母親なんかに見つかったのが拙かったんだ。運が悪かったと思ってバイトはしばらく止めろ、と説得するつもりだ。ほとぼりが冷めたら、また始めたらいい。オレは味方なんだ、という印象を手塚奈々に残したい。西山先生は物分かりがいい思ってもらいたい。
 歳の差なんか関係ない。魅力的な女生徒と親しくなることは、キツくて単調な教員生活を少しでもバラ色に変えてくれる。西山明弘は手塚奈々を呼び出して話をすることが今から楽しみだった。

   20

 「うっ」
 鼻血だ。小池和美は用意してあったティシュに急いで手を伸ばした。大好きなチョコレートを食べると、いつも鼻血が出た。
 久しぶりだったので大丈夫かなと思ったが、やはりダメだった。チョコレートと鼻血は切っても切れない縁になっているらしい。
 痩せたくて、しばらく嗜好品を口にするのは控えていたのだ。その間は欲求不満で気が狂う思いだった。チョコレートのことが、ずっと頭から離れない。
 小池和美は身長が百六十八センチで、体重は七十三キロと女子の中では大柄だった。背の高さを低くすることは不可能だが体重は落とせる。このままでは永久にボーイフレンドなんかできそうにないと考えて、ダイエットを始めた。十キロぐらい落とせば痩せた女というイメージを周囲に与えられるんじゃないかと期待した。
 二年B組には不思議なくらい綺麗な女の子が集まっていて、おのずと美意識を刺激された。五十嵐香月、佐久間渚、手塚奈々、篠原麗子、奥村真由美の五人だ。タイプは違うが、それぞれが魅力的だった。そして担任の加納久美子先生。こんなに知的で美しい人は見たことがなかった。
 当然だがクラスの中で自分の存在は薄い。男の子からは見向きもされない。大柄過ぎて恋愛の対象にならないのだろう。口には出さないが山岸くんたち不良グループが行った、『二年B組女子ベスト・オナペット』に選ばれた女の子たちが羨ましかった。
 小池和美は書記というクラスでの役にしがみついていた。三人いる役員の一人だというプライドだ。委員長の古賀千秋に寄り添うことで自分も彼女みたいに頭がいいのだという印象を作りたかった。
 彼女が学級委員長に立候補したときに、「あんたは書記をやりなよ」と誘われて和美も手を上げたのだ。
 「三年生になったら生徒会長に立候補するからね」が、古賀千秋の口癖だった。つまり、あんたも書記として付いてきなという意味だ。何度も聞かされて、和美もその気になっていく。
 今の時点で彼女に対抗できる候補は他にいない。当選は確実だろう。学校の成績は抜群。見事に整理され、マーカーで色刷りされた学習ノートは見たことがなかった。ここまでしないとトップの成績には届かないのか。古賀千秋のノートは完璧すぎて逆に小池和美の学習意欲を削ぐ。あたしには、とても無理だ。
 こんな頭のいい子と仲良くなれて嬉しかった。それだけじゃなくて、彼女は均整の取れた身体をしていた。学校では学生服のサイズが合っていないのか、何となく野暮ったい感じがした。それが秀才っぽい雰囲気を醸し出しているけど。
 日曜日とかに二人で会うときのカジュアルな格好では、スタイルの良さが際立っていた。ファッションにも詳しい。何を着ても似合いそうだから当然かもしれない。顔立ちだって悪くない。それなりに可愛いかった。『二年B組女子ベスト・オナペット』で五人と争える容姿を持っていた。男子が気づいていないだけだ。それとも頭が良すぎて恋愛の対象としては敬遠してしまうのか。
 この子とずっと友達でいたい、そう小池和美は願った。友情を保つ為にと、マクドナルドなんかで食事した時は和美が二人分の代金を支払った。
 痩せたくてダイエットを始めたのも、少しでも容姿を彼女に近づけたいからだ。五十嵐香月と佐久間渚の美人二人と仲良くしている山田道子みたいにはなりたくなかった。あれは、ただの引き立て役じゃないの。すっごく惨め。女として生まれてきて、あまりにも情けない。本人は頭が悪いから気づいていないのだろうけど。
 二十キロぐらい体重を落としたかった。そうすれば斜め四十五度から鏡に映った自分の横顔を、髪を強風で乱れた感じにすればだけど、ぽっちゃりした藤原紀香に見えなくもないはずなのだ。身長だって、ほぼ同じだし。
 勉強は頑張って東高校か君商には合格したい。ファッション雑誌にも目を通して服のセンスを身に付けたかった。男の子が恋愛の対象としてくれるような女の子になりたい。
 ただし二つだけ問題があった。一つはチョコレートだ。食べないでいられるか自信がなかった。あたしからチョコレートを取ったら何も残らない、それが本音だ。痩せたい。でもチョコレートは食べ続けたい。量を減らそうとしたが上手くいかない。思い切って一切口にしないことにした。
 もう一つはプロレスだ。誰にも言っていないが不沈艦スタン・ハンセンに憧れていた。ラリアットを相手に見舞うところが凄くカッコいい。あたしも、あんなふうにやってみたいと密かに思ってしまう。
 父親がプロレスの大ファンでリビングのテレビで、しょっちゅう試合のビデオを見ていた。最初は大嫌いだった。格闘技なんて野蛮な人たちだけが見るもんだと思った。汗まみれで血を流しながら、男同士で取っ組み合うなんて不潔で嫌悪感しか覚えない。スポーツ観戦そのものに興味がなかった。ワールドカップ・フランス大会で日本が惨敗したときも全く悔しくない。終わって良かった、これで静かになるとしか考えなかった。
 それがリビングの床に寝っ転がって、何気なくテレビの画面に映るプロレスの試合を見て気持ちが変わる。スタン・ハンセンとジャイアント馬場のPWFヘビー級選手権だった。すごく面白かった。試合はスタン・ハンセンがスモール・パッケージ・ホールドで負けてタイトルを失ったけど、彼のファンになった。あの荒々しさに魅力を感じた。興奮して和美自身も汗をかいてしまう。シャワーを浴びようと浴室へ行って、脱衣場で鏡に映った自分の裸体に驚く。何となく体型がスタン・ハンセンと似ているのだ。男の子たちが好むような女らしい体じゃないけど、悪い気はしなかった。ラリアットを見舞う動作をしてみる。うわー、なんてカッコいいの。すごく様になっていた。ああ、誰かにやってみたい。誰か憎らしい奴に食らわせてやりたかった。いつかチャンスが来るかもしれない。風呂場で、ラリアットとエルボー・ドロップの真似をするのが習慣になった。
 でもダイエットは止めない。自分はプロレスラーになりたいわけじゃないから。男の子から女の子として認められたいのだ。ただし女の子らしくないけどプロレスの試合は見続けることにした。
 なかなか体重が落ちなかった。ちょっと落ちても直ぐに元に戻ってしまう。ああ、何なのこれって。あたしに対する嫌がらせ? ずっとチョコレートのことが頭から離れないし。もうノイローゼになりそう。学校では秋山聡史とか相馬太郎なんか小柄でバカな男子を見ると、正面からラリアットを見舞ってやりたい衝動に駆られる。
 男のくせにチビなんてバカじゃないのかしら?
 小池和美は自分よりも背が低い男子を人間として認めていなかった。奴らは消耗品だ。生きていく価値もない。掃除当番は順繰りではなくて、連中の義務にすべきじゃないだろうか。テストの点は二十点引きにして、それを背の高い女子生徒たちに振り分ける。こういう意見を、どうして誰も言い出さないのか不思議でしょうがなかった。
 もし古賀千秋が生徒会長に選ばれたら、書記のあたしが提案するしかないのだろうか。いくつか考えを持っている。まず、背の低い男子全員から生徒手帳を取り上げる。お前らは正規の生徒として認めてやらない。彼らの学校での言動と行動は制限する。胸元には目立つ黄色いバッヂを、そして腰のベルトには鈴を付けさせよう。いつ、どこにいても誰もが分かるようにする為だ。お喋りは不可。言葉は挨拶だけに限らせる。あいつらから笑顔を奪いたかった。将来の夢も希望も持たせない。背の高い女子と目を合わすことは禁止。廊下ですれ違う場合は一歩退いて、相手の通行を妨げないようにする。教室とか校庭、トイレも一般の生徒と別に設けよう。いずれは財産の没収も視野に入れて校則の強化を図りたかった。
 背が低い男子への暴力や略奪は校則違反にならない。ストレスの発散として黙視される。廊下ですれ違いさま、いきなりラリアットを食らわせてやろう。ああ、面白そうだ。後ろに引っくり返って気絶するかも。そしたら即座にエルボー・ドロップで止めをさす。このコンビネーションが、プロレス技では大切なのだ。
 チョコレート、チョコレート、チョコレート、チョコレート。食べていないのに体重は減らない。もうダメだ。この鬱憤を学校で誰に晴らさないと、こっちが死んでしまう。教室で自分の席に座ってラリアットを食らわせてやる獲物を選んでいた時のことだ。隣に座る転校生の黒川拓磨くんから話しかけられた。
 「小池さん、ダイエットしているんだって?」
「……」驚いた、突然で。何で知っているんだろう。
「増やすのは簡単だけど、減らすってのは本当に苦労するんだぜ」
「どうしてダイエットしているって知ってるのよ?」
「古賀さんから聞いた」
「えっ、本当?」あたし、千秋に言ったのかしら。ぜんぜん覚えていない。
「食べたいモノを控えただけじゃダイエットは成功しないぜ」
「……」今の言葉、聞き捨てならない。「どういうこと?」
「つまり心にイメージ作りをするんだ。いつも頭の中に自分の痩せた姿を思い浮かべながらダイエットすると効果があるらしい」
「へえ、そうなの。でも自分の痩せた姿なんか見たことないから想像できないけど」
「その通り」
「……」なに、こいつ。期待を持たせやがって。やっぱりチビだから馬鹿なのかしら。意味のない話なんかして。
「だけど、もし自分の痩せた姿を見る方法があったら、どうする?」
「え、どうやって? そんなの聞いたことないよ」
「それがあるんだ」
「マジで? どこに?」
「これなんだ」
「え」冗談かと思ったら、転校生はポケットに手を入れると取り出して見せてくれた。「なによ、それ? ただのメガネじゃない」
「うん。たけど普通のメガネじゃない」
「……」からかってんの、あたしのこと? レンズが丸く大きくて玩具みたいな白いメガネだった。確かに、そういう意味なら普通のメガネじゃなかった。ホームセンターにあるサービス・カウンターの横でレジャー用品として売られているようなやつだ。
「これを掛けて鏡に映った自分を見てみなよ。きっと驚く」
「……」
「次の休み時間にトイレに行って試してみるといい」
「あたしのこと、からかっているんでしょう?」
「まさか。そんなくだらない奴に見えるかい、このオレが?」
「……」チビだけど勉強が出来て真面目で静かな男子、それがこれまでの印象だ。女の子にイタズラをして喜ぶような生徒ではなかった。それなら騙されたと思って話に乗ってやるのも面白いかもしれない。失うモノは何もないんだし。「わかった。次の休み時間にトイレで試してみるよ。その代わり何もなかったら、あんたにラリアットを食らわすよ」
「え、なに? ラリアットだって?」
「いいの、こっちのこと。気にしないで。次の休み時間に試してみるから」
「よかった。気に入ってくれたら嬉しいな」
 小池和美は転校生からメガネを受け取った。プラスチックで出来た安っぽい作りだった。ちょっと期待したが手にした途端に萎んでしまう。こりゃ、きっとダメだ。じゃあ、ラリアットか。
 授業終了のチャイムが鳴って、しばらくしてからトイレに向かった。誰も見ていないところでメガネを掛けるつもりだった。一人になるのを待つ。最後の女子がドアの外へ行くと、小池和美は鏡に向かった。ポケットからメガネを取り出し、そっと掛けてみる。
 「うわっ」思わず声が出て、反射的に後退りしてしまう。鏡には別人が映っていたのだ。だ、誰なの、この子? びっくりした。これってマジック? 綺麗な子だった。呼吸の乱れが治まってから、恐る恐る再び鏡の正面に立つ。この子の正体が知りたい。
「あれ?」何でだろう、あたしに似ている。あたしの面影があるじゃん。ま、まさか、……もしかして、これが自分の痩せた姿だったりして。でも、こんなに綺麗なはずが−−。
 試しに小池和美は首を振ったり、何度も口を開けたり閉じたりしてみた。鏡に映った美しい少女も同じ動きをする。驚いた。これで確信した。な、なんて綺麗なんだろう。自分の痩せた姿に見惚れてしまう。
 ちよ、ちょっと待ってよ。こ、これって見方によっちゃあ、もしかして……もしかしてよ、まさかだけど……藤原紀香に勝っていない? 驚きの発見に額が汗ばむ。呼吸も乱れる。はあ、はあ。息苦しい。やだーっ。勝ってるよ。マジで、勝ってる。信じられない。もう嬉しくて嬉しくてトイレの中で奇声を発したいくらいだった。ラリアットでトイレの全てのドアを破壊したい。この喜びを表現するには、それしかない。感動で涙も出てきた。もう絶対に痩せよう。断食してでも痩せて−−。あ、やばいっ。
 ドアが開く音がして女生徒がトイレに駆け込んできたのだ。小池和美は急いでメガネを外した。今、掛けている姿を見られちゃマズいと思った。
 手塚奈々だった。このメス猫野郎、人の邪魔をしやがって。バカだから、こんな時間になってオシッコをしに来るんだ。彼女が中に入って閉めたトイレのドアに向かって、小池和美は心の中で言い放った。「あんたが男の子たちに、ちやほやされなくなるのも時間の問題だよ。このあたしが次回の『二年B組女子ベスト・オナペット』で一位になるんだから」
 教室に戻って自分の席に座る前に転校生の黒川くんと目が合う。自然と笑みがこぼれた。それを見て相手が頷く。
 「どうだった?」
「これって、すっごい」
「だろう」
「あたし、買いたい。幾らなの?」ゆうちょの通帳に十万円の残高があった。
「いいよ、お金は。小池さんにあげるよ」
「うそっ」
「もう僕は使わないから」
「えっ、黒川くんも使っていたの? そんなに痩せているのに?」
「以前は太っていたんだ。ほら、証拠を見せよう」
 生徒手帳を取り出して、ページの間に挟んであった写真を見せてくれた。「ええっ」あたしよりも太っているじゃない。「こ、これが黒川くんだったの?」
「そうだよ」
「いつごろ? これって」
「半年ぐらい前かな」
「本当? たった半年で、こんなに痩せられるの?」
「そうなんだ。頭の中に自分の痩せた姿を常に思い浮かべていたからだと思う」
「イメージ・トレーニングが大切なのは聞いていたけど……、そこまで効果があるなんて」
「それにさ、食事なんかは同じ量を食べ続けていたんだぜ」
「え? ちょっと、待って」今の言葉もう一度、聞きたい。しっかり確認しないと。「つまり、食べたいモノを控えなくていいってこと?」
「うん」
「うわっ、信じられない」大好きなチョコレートが今まで通りに食べられるんだ。涙が出るほど感激。「黒川くん、本当にもらっちゃっていいの?」
「いいよ」
「ありがとう。すごく嬉しい」
「小池さん、そこで一つお願いがあるんだけど」
「何でも言って」あたしのヌードが見たいって思ってるなら、上半身は脱いでもいいわよ。下半身は自信がないけど、オッパイは両腕を使って寄せれば女らしいんだから。
「三月十三日の土曜日に『祈りの会』を開く予定なんだ。ぜひ出席して欲しい」
「なに、『祈りの会』って?」
「僕の願い事が成就するように、一緒に祈って協力して欲しいだけなんだ。たぶん一時間ぐらいで終わると思う」
「それだけ?」脱げとか触らせろ、を覚悟していただけに拍子抜けしてしまう。
「そうだ」
「出席するわ」本当にオッパイは見せなくていいのかしら?
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」気が変わったら、いつでも言って。もう覚悟はできてるから。
 こんな凄いメガネを貰ったのに、『祈りの会』に出席するだけでいいなんてウソみたい。黒川拓磨くんには感謝してもしきれない。いつか何か御返しをしたかった。チビでも立派な人物っているもんだ。古賀千秋が生徒会長になっても、彼が正規の生徒でいられるように守ってあげよう。
 小池和美は下校途中でルピタに寄って、どっさりチョコレートを買う。帰宅すると自分の部屋に閉じこもった。勉強机の上に鏡を置いて自分の痩せた姿を見ながら、チョコレートを頬張る。鼻血が出ようが構わない。食べられなかったこれまでの分を取り戻す勢いで食べ続けた。口の周り、両手、鏡、目の前に置いた白いタオルが真っ赤になっても止めなかった。
 血が交じり合ったチョコレートの味はなかなかだ。結構いけるじゃないの。病みつきになるかも。ただし鏡に映った少女は、まるで恐怖映画に出てくる吸血鬼みたいだった。ニヤッと笑うと血だらけの唇の間から白い歯が現れて、恐ろしさが増す。うふっ。愉快。この血まみれの顔で相馬太郎や秋山聡史に襲い掛かってやりたい。首に噛み付いてやろうかな。きっと腰を抜かすぐらい驚くはずだ。
 あ、ダメよ。そんなんじゃあ。いいこと思いついた。
 まず獲物にラリアットを食らわせて気絶さす。目が覚めたところを吸血鬼の顔で驚かせてやるんだ。そして首に噛み付く。チビで馬鹿な連中を恐怖のドン底へ突き落としてやろう。
 ああ、卒業するまでに一度でいいからやってみたい。神様、お願いです。この小池和美にチャンスを下さい。それまで良い子にしていますから。
  
   21   

 ずる休み。今学期に入って四回目だ。母親は知らない。ざまあみろ。もうアンタの言いなりにはなりたくない。
 古賀千秋の母親に対する怒りと憎しみは、とうとう我慢の限界を超えた。これからは悪い事に手を染めてやろう。勉強だって、もうやる気を失いつつあった。
 さあ、今日はどうやって一日を過ごそうか。もうテレクラ遊びは飽きた。
 電話してバカな男たちと話すのは初めは愉快だった。なんとかデートにもちこもうと言葉巧みに誘ってくる。
 「歳はいくつ?」
「十八だけど」まさか十四歳とは言えない。十八から二十一歳の間で答えていた。 
「じゃあ、まだ学生?」
「そう」
「今日、学校は?」
「休んじゃった。最近は何もかもがつまらなくて」ここでエサを撒く。話の流れで、「ボーイフレンドと別れたばっかりなんです」と言うこともあった。
「気晴らしにドライブでもしようよ?」か、それとも「どっかで一緒に飲まない?」と誘ってくる。
「いいよ」行きません、なんて返事したことない。
 時間と待ち合わせ場所を決めて電話を切る。ほとんどがそこで終わり。約束はすっぽかす。以前に二度ほど男の声と話し方が良さそうだったので、待ち合わせ場所まで自転車で行ってみたことがあった。でも本人を見てがっかり。そ知らぬ顔で通り過ぎてやった。会話でバカな男たちを手玉に取るのは面白い。
 話していて、馴染みのある声に驚いたことがあった。聞き覚えがあるけど、なかなか思い出せない。誰だろう。しばらく話していて急に、相手の口調で思いつく。やばいっ。学年主任の西山先生だ、間違いない。古賀千秋は急いで電話を切った。これを最後にしてテレクラ遊びは止めた。
 今日もテレビのワイド・ショーを見て過ごすことになりそうだ。読みたい本もなし。聞きたい音楽もない。見たいレンタル・ビデオもなかった。でも、じっとしていると母親への怒りは募るばかりだった。
 何点取っても母親は満足してくれない。難しいテストで学年でトップの八十点を取れた時でも、自分は嬉しくても、母親の言葉は「その程度で喜んでいちゃダメでしょう。あんたには小川先生という家庭教師を付けているんだから、もっと頑張ってくれないと困る」だった。やる気を失う。怒りと憎しみを覚えた。
 七十点なんか取ろうものなら、家に帰ってからの叱責は恐怖に近いものがあった。前の席に座る手塚奈々が四十五点で世界制覇したみたいに大喜びしているのとは正反対だ。
 幼少の時に怯えた母親の言葉は、「ダメでしょう」と「早くしなさい」だ。小学校に入るとそれが、「何やってんの、あんた」と「いい加減にしなさい」、それと「何度言ったら分かるのよ、あんたは」の三つに変わる。
 三年生の時の作文で、ほとんど父親は家に居ないと事実を書いたところ、母親に怖い顔をされて叱られた。みっともないことは書かなくていいと言うが、どういう事がみっともないのか説明はなかった。
 生理が始まったときは、母親がどんな態度を取るのか分からなくて怖かったので伝えられなかった。一ヶ月近くも経ってから言ってみると、案の定で聞こえない振りをされた。娘が成長して女らしくなっていくことを快く思っていないことは明らかだった。胸が膨らみだして、「あたし、ブラジャーをした方がいいと思うんだけど」と控えめに言ってみると、返ってきた答えは「そんなの必要ない」だった。
 仕方なくクラスメイトの篠原麗子に付き合ってもらって、アピタで適当なサイズを選んで小遣いから買った。
 中学生になると勉強とクラブ活動で忙しくて、母親の話を聞いていられる時間が少なくなる。すると「こんなに苦しんでいるのに愚痴の一つも聞いてくれないの」という言葉を浴びせられた。
 もう子供じゃない。話の内容が理解できるようになって、母親にも非があることが分かる。ところがそこを突くと、「あなたに何が分かるの」と「あたしがどんなに大変だったか知らないくせに」と激しく反撃してきた。
 クラブ活動で疲れて帰ってきたところを、成績のことで文句を言われて、とうとう不満が破裂する。「お母さんが中学生だった時よりも、あたしはいい点を取っているんだから黙っててくれない」と言い返した。母親はやっと君津商業へ進学できるぐらいの成績だったと、父親から聞かされていた。ショックだったのか、しばらく沈黙が続いた。母親は静かに部屋を出て行った。
 その後の母親は人に会う度に、「あたしは子育てに失敗した」と本人を前にして言いふらす始末。あの女ならではの仕返しだ。自分を否定されているようで酷く辛い思いをさせられた。
 もう許さない。絶対に許してやらない。
 良い子でいること、いい成績を取ることを強く求められ続けて、もう疲れた。それは娘である千秋の為ではなかった。すべてが世間体の為だ。もうイヤだ。母親の操り人形でいることに耐えられなかった。
 「あんたの為だから」という言葉にもうんざり。そう言っては娘の行動に干渉してきて自由を束縛するのだ。
 これからは自分のやりたいように生きていく。服も着たい服を着る。肌の露出が大きいセクシーなのが好き。ミニスカートが穿きたかった。脚には自信がある。あのバカな手塚奈々にも負けていないと思う。
 ルピタとかで女らしくて大人っぽい服を選ぶと、母親は顔をしかめてこう言う。「千秋には似合わない。そんな服を着て歩いているところを人に見られたら、何て思われるかしら。ダメよ、ほかのを選んで」
 ずっと地味で野暮ったい服ばかりを着せられ続けた。まだ中学生なのにオバさんみたいな格好だった。このままだと母親みたいな大人になってしまう。そんな危機感を覚えた。
 オシャレな服が着たい。母親は買ってくれないから自分の小遣いで買うしかない。
 幸いにも山岸涼太と相馬太郎、それに前田良文の三人が、千秋が指定した商品を万引きして安く譲ってくれた。連中から切れ者の関口貴久が転校して抜けたことは心配の種だったが、ビジネスは今のところは順調に行っている。
 ここにきて古賀千秋は新たなアイデアを思いつく。山岸たちの万引きグループに加わることだ。欲しい物を自分で盗めばリスクはあるが金を払う必要がなくなる。それと母親を失望させる行為をしているという満足感が得られるのだ。
 「ねえ、あたし達も仲間に入れてよ。今度、一緒に行きたい」古賀千秋はリーダー格の山岸涼太に言った。
「ちょっと、待ってくれ。仲間って、どういう意味だよ」
「万引きグループに決まってるでしょう。あんた達が万引きした品物を学校で安く売っているのは、誰もが知っているわよ」
「古賀さん、声が大きいよ。今は、もうやっていないってことになっているんだから」
「あら、そうなの」
「そうさ。相馬が駅前のコンビニで捕まってからは、足を洗ったってことにしてあるんだ」
「でも、色々と売っているじゃない」
「どうしても金が必要なんだ。それで仕方なく」
「あたし達もやりたいの。一緒に連れてってよ」
「マジかよ、学級委員の古賀さんが……」
「本気よ」
「女には無理だぜ。ヤバい仕事なんだ、やらないほうが−−」
「そんなこと分かっている。でもやりたいの」
「困ったな」
「あたし達のこと、足手まといだと思っているんでしょう」
「当たり前だろ」
「そんなことは絶対にない」
「どうして」
「あんた達が最も多く売る商品って、ほとんどが女物じゃないのかしら」
「そうだけど。可愛い下着なんかは女子が必ず買ってくれるんだ」
「女連れの方が商品に近づいても不審に思われないわよ。あたしと山岸くんで恋人同士みたいにいちゃついて、店員の注意を引くこともできるじゃない。仲間の仕事をし易くするのよ。どう?」
「なるほど」
「切れ者の関口くんが抜けた穴を、あたし達二人が埋める」
「分かった。古賀さんの言う通りかもしれない。一応、仲間に相談してみるよ。ところで、もう一人の女って誰なんだい?」
「小池和美よ。あの子は、あたしの言いなりだから」
「やっぱりそうか」
 これで決まりだった。次の土曜日が初仕事だ。その日のために古賀千秋はスニーカーや目立たない地味な服を選びながら、期待に胸を膨らませた。 


 22

 日本経済は長く低迷を続けていた。馬鹿な橋本内閣が消費増税前の駆け込み需要を、景気回復と判断を誤って緊縮財政を断行してしまう。経済が良くなっていないということは一般の誰もが実感していたことなのにだ。1997年の11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻する。その年の初めにニュースステーションで久米宏の隣に座る高成田解説者が、政府の予算案に「これは酷い」と言っていた通りの結果を招く。不良債権という問題が新たにクローズアップされて、もはや日本経済はデフレ・スパイラルという、脱出不可能な泥沼の中だった。
 村山内閣は住専へ6千億円になる公的資金を投入した。その決定に対して、これほど国民が怒るとは思わなかったと後になって談話を残す。
 政治家たちは全く国民のこと、その生活ぶりを理解していない。だから間違った政策しか打ち出せないのだ。『地域振興券』とかいうものを出すらしいが、その効果は期待できそうにない。
 当然だが東証の株価もさえなかった。1万4千円前後をうろうろしていた。伴って君津南中学の教頭を務める高木将人の運用成績も芳しくなかった。ニューヨーク・ダウは1万ドルを突破する勢いなのとは対照的だった。
 こりゃ、まずい。何とかしないと。
 小渕内閣になって大蔵大臣に宮沢喜一が就任したが、その経済政策は従来の公共事業を柱とした目新しいものではなかった。「横浜ベイスターズの佐々木を登板させたのと同じだ」と意気込みを表わしたがインパクトは弱い。その後に、「この国の財政はやや破綻している」と口にした言葉の方は実感があった。これから日経平均株価が上昇していくとは思えない。つまり下げ相場で利益を出さなければならないのだ。カラ売りするほど相場感と勇気もない。株価が下げ過ぎたところのリバウンド狙いで行くしかなさそうだ。
 高木将人は金が必要だった。自分の生活基盤を築くための資金を作って妻と離婚したいと願っていた。
 一生懸命に勉強してきて六大学の一つに現役で合格できた。教員免許を取得して君津市の中学校に勤務する。数年後には、そこの校長の紹介で同じ歳の女性と見合いをした。
 異性と付き合う経験がなかった高木は、相手のふくよかな身体つきに惹かれた。口数は少なくて大人しそうな人だと感じた。この人と結婚したいと思った。
 高木将人の理想の女性像はラクエル・ウェルチだった。中学の時に新宿ピカデリーで見た映画、『恐竜100万年』に出演していた女優だ。ティラノサウルスの迫力ある映像を期待して映画館まで足を運んだ。しかし目に焼きついたのはボロ布を纏っただけのラクエル・ウェルチの肢体だった。なんてセクシーな女性なんだ、と見惚れた。
 それまでのアイドルはハニー・レーヌだ。秋山庄太郎が撮ったヌード写真は部屋の壁に飾られていたが、家に居ない時はその上に映画『イージーライダー』のポスターを縦に貼って見えないように隠した。
 二つのポスターの見ながら、グランド・ファンク・レイルロードの『ハートブレイカー』を聞くのが楽しかった。
 お見合いの席での妻の姿は女らしくて、ラクエル・ウェルチを彷彿させるものがあった。駅前にあるホテル千成のレストランでの会食だった。だが二度目に会った時には、あまりの背の低さに少し失望した。ハイヒールを履いてこなかったからだ。そんなにスタイルは良くなさそうだ。喋り方も、慣れてくるにつれて口調の強さが目立った。会う度に少しづつ幻滅を覚えていく。ところが高木将人の気持ちとは反対に、どんどん結婚の話は進んでいく。紹介してくれた校長からは、「僕の顔を立ててくれて有難う」とまで言われてしまった。自分からは後に引けなくなる。なんとか女の方から断ってくれないかと、それだけを願う。
 性格の弱さを呪った。勢いに流されるような感じで結婚してしまう。婿養子だ。悪夢の始まりだった。妻となった女は年齢を偽っていて、本当は八歳も年上だった。唯一、向こうが譲歩したのが高木という姓を名乗り続けられるということだけだ。
 初夜ではラクエル・ウェルチとまではいかなくても、せめてハニー・レーヌみたいな瑞々しい女体を期待した。しかし考えが甘かった。ただ太っているだけで、どこも女らしいところがないのだ。
 そのくせ、セックスのテクニックには驚くほど詳しい。四つん這いの姿勢で後ろから挿入しろとか、いきなりペニスを口に銜えてきたりと高木を圧倒した。なんとか性交したが、もう二度目は無理だった。性欲はあっても、妻の裸体を見ると急に萎えてしまう。
 高校時代にチューリップの『心の旅』を聞きながら、自分の初体験を期待を込めながらイメージしたものだ。なんか凄く初々しい感じだった。歌詞の『あー、今夜だけは君を抱いていたい』に心を躍らす。髪が長くて痩身の、恥ずかしがる彼女を両手に包み込む自分を想像した。
 ところがだ、現実は全然違った。相手には羞恥心の欠片もなかった。性欲の塊と言っていいくらいの女だった。平気で毛深い股を開く。何度も何度も求めてきた。大食いという形容詞がピッタリ。こっちの体が持たない。少し休ませてくれと頼んだか容赦してくれない。やっと務めを果たしたと思うと、今度は激しいイビキで一睡もさせてくれなかった。幻滅した。
 女を見る目がなかった。恋愛経験がないので、女が化粧とかハイヒールやコルセットで別人になれることを知らなかった。
 夫とは名ばかりで実際は妻の家族の奴隷と同じ。給料が振り込まれる預金通帳は取り上げられて、高木将人が手にできるのは小遣いとして月に一万円だけだった。忘年会とか同僚との付き合いがある時なんかは、頼めば金を出してくれるが渋々だ。へそくりをして自分の貯金を作るしかなかった。悲惨な結婚生活だ。一日でも早く独身に戻りたい。
 婿として入った家は一族の本家で何よりも世間体が大事。絶対に離婚は認めてくれないだろう。高木将人は密かにアパートを借りて夜逃げするしかなかった。少なくとも百万円ぐらいの金を持って姿を消したい。へそくりを株式で上手く運用して増やしていくしかないと考えた。
 『新日本製鉄』の株を百七十円で買って二百五十円で売った。八万円ほど利益を得た。次に六百円で買った『富士重工業』の株を七百円で売って十万円を稼ぐ。
 2戦して2勝、無敗だ。幸先がいい。少ない限られた資金で十八万円も儲けた。もしかして俺って株の天才じゃないのか。そんな思いが頭を過ぎった。自然と夢が膨らむ。
 あの年増のブスとは絶対に別れてやるんだ。アパートを借りて家に帰らなければ嫌でも離婚に応じるしかないだろう。自由を取り戻したい。四十三歳だ。やり直しは利く。今度こそ理想に近い女と一緒になりたい。
 最初の結婚に失敗して憧れの女性はラクウェル・ウェルチから、二人のボンド・ガールズへと変わった。たまたま立ち寄った近所のレンタルビデオ店で、旧作百円キャンペーンをやっていて、何本か007シリーズを借りたのが切っ掛けだ。学生の頃に見たときは、ただ綺麗な女性だなと思っただけだったが、二度目は彼女たちの美しさに心を奪われた。
 一人は『ロシアより愛をこめて』に出演したダニエラ・ビアンキだ。プロポーションよりも清楚で知的な美しさが印象に残った。ライトグリーンのスカートにイエローのブラウス、そして金髪をアップにした姿が醸し出す品の良さ。その格好で床に倒れて拳銃を構えたところなんか、もう最高。
 マット・モンローが歌うサウンドトラックのジャケットは、ショーン・コネリーとのラブ・シーンのカットだった。曲を聴きながらスクリーンでのダニエラ・ビアンキを何度も思い出す。
 ところが、その後は作品に恵まれなかった。この映画でしか彼女に逢えないのだ。願わくは『サンダーボール作戦』でカムバックさせて水着姿を披露して欲しかった。
 もう一人が、『ダイヤモンドは永遠に』のジル・セント・ジョンだった。ビキニのショーツにカセット・テープを入れられてびっくりするシーンは目に焼きつく。彼女はIQが162と高くて十四歳で大学の入学を許された才女だ。しかしセクシーなボディしか注目されなくて、映画に登場するのは多くがお色気シーンだった。
 高木将人は髪の毛が薄く小太りにも関わらず、これらの背が高くてナイス・ボディの女性が好みだ。大金を掴んで理想に近い女と仲良くなりたかった。その思いは強い。
 どう角度を変えて鏡に映った自分の姿を見ても、体形は中年そのものだった。見掛けは良くない。これからどんどん体力も衰えていくだろう。時間は少ない。早く株で成功したかった。
 まだ教師になったばかりの頃に、私立国際高校で自分の教え子だった加納久美子が今は同僚だ。それを考えると歳を取ったなと、つくづく実感させられる。四十五歳までにはなんとかしたい。
 しかしだ、三百四十円で買った『横河ブリッジ』の株が期待に反して上昇しなかった。買値を下回ったままの辛い毎日が続く。
 ビギナーズ・ラックで調子に乗って、安易な気持ちで『横河ブリッジ』の株に手を出したのが拙かったのだ。
 真剣に株のことを勉強しなければいけないと思う。日本経済新聞を学校に配達してもらうことにした。株式欄を表にして常に持ち歩く。暇があれば目を通して知識を得ようとした。
 「教頭先生は株をやっているんですか?」 
 廊下を歩いて二年B組の横を通り過ぎようとした時のことだ。一人の男子生徒から声を掛けられた。転校生の黒川拓磨だった。
 「いいや、やっていない。世の中の出来事を知りたくて読んでるだけなんだ」やっているなんて勤め先の中学校で正直に言えるわけないだろう。
「そうですか」
「君は株に興味があるのかい?」
「あります。父親が証券会社に勤めていて色々な情報を聞かされますから」
「何だって?」聞き捨てならない。
「貯金があるので投資してみようかなって思っています」
「どこの証券会社に、お父さんは勤めているんだい?」
「野中証券です」
「……」業界で最大手だ。なんてこった。こんな身近に情報源があったとは。
「先週だけど『宇部興産』がいいなんて薦めてました。連結での純利益が急回復してるそうです」
「え、どこだって?」
「化学の『宇部興産』です」
「……そ、そうか」やっと口から言葉を搾り出す。頭に生徒が口にした会社名を焼き付けた。急いで職員室へ戻って会社四季報で調べたかった。高木将人は足早に転校生の前から姿を消した。
 『宇部興産』の株価は、三年前に四百五十二円という高値を付けた後は一貫して下げ続けた。今年になって百四十円から百七十一円まで上昇したが、その後は百五十円前後まで値を戻す。会社四季報には増益と書かれていたが、これから更に再び上がって行くんだろうか。高木将人は半信半疑だった。証券会社に勤める父親が漏らした言葉を、たまたま生徒から又聞きした情報だ。迂闊に信じて大切な自己資金を投じるわけにはいかない。しばらくの間は様子を見ることにした。
 すぐに『宇部興産』の株価が再び百七十三円まで上がると、高木将人は百四十円が底値だったと確信する。しかしどこまで上昇するのか分からない。今から買えば高値掴みになる恐れがあった。
 その判断が間違いだったと思い知らされたのは株価が二百円を超えた時だ。買っとけば良かった。やはり野中証券の社員が言う言葉は信頼できる。
 「おはよう、黒川くん。あの会社の株が上がったじゃないか。さすが野中証券に勤めるお父さんの情報だけはあるな」朝、高木将人は転校生の姿を見つけると言葉を掛けた。
「そうなんです。僕も十万円ほど儲けました」
「えっ。あの株を買ったのか、きみは?」
「はい」
「……」なんてこった。中学生の小僧に出し抜かれた思いだ。悔しい。「よく、そんな勇気があったなあ」
「株は決断ですよ、教頭先生」
「……」ちっ。今度は説教か、こんなガキから。
「昨日ですが父親が僕に次の株を薦めてくれました」
「本当か」思わず心が躍る。「その会社を先生にも教えてくれないかな」
「いいですよ」
「頼む」
「二部上場の『京葉電気』です」
「え、二部上場だって?」
「はい」
「大丈夫なのか?」
「ええ。発行株式数が少ないですから値動きは激しいと思います。でも上がり出したら一気に行くっていう感じですよ」
「ふうむ、……そうか分かった。調べてみよう。どうも有難う」
「どういたしまして」
 二部上場と聞いて高木将人は怯む。馴染みがなくて、これまでは素人が手を出すような健全なマーケットじゃないと考えていた。生徒の言った通りで、値動きの激しいギャンブルに近い投資になりそうだった。ただ一つだけ期待できるのは、市場に出回っている株式数が少ないので動けば一気に上昇するところだ。
 そして『京葉電気』を買うには、持ち株の『横河ブリッジ』を損切りして資金を作らなければならなかった。一円でも金は失いたくない。だけど『京葉電気』で一儲けしたかった。その儲けが『横河ブリッジ』で出る損をカバーしてくれることを願うだけだ。
 どうしよう。悩んだ。「株は決断ですよ」と言った生徒の言葉が頭に過ぎった。同時にダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの二人がセクシーに微笑む姿が目に浮かんだ。
 次の休み時間、高木将人は職員室から出ると、人気のない駐車場から携帯電話で中原証券の担当を呼び出した。「山口さんを、お願いします。高木です」

   23
 
 どうしても次の富津中学との試合にスタメンで出場したい。
 サッカー部の鶴岡政勝は鮎川信也と左のミッド・フィルダーというポジションを争っていた。ライバル意識を燃やして競い合わせようと、顧問の森山先生も二人を交互に試合で使った。順番からいえば次は鮎川信也の番だ。
 前の試合では鶴岡政勝のミスプレーから失点して逆転で負けた。でも誰も咎めてきたりしなかった。板垣を除いて、みんなが「気にするな」と声を掛けてくれた。マネージャーの奥村真由美しては、「元気を出して、鶴岡くん。あなたなら失敗をバネにして次の試合で、きっと活躍してくれるはずよ」とまで言ってくれた。なんて、いい女なんだと思った。
 これまでは高嶺の花で、背の低い自分なんか相手にしてくれないと考えていた。去年に買ったキャノンのデジタル・カメラ PowerShot A5で密かに写真を撮り続けるだけだ。手塚奈々と並んで、お気に入りの被写体だった。
 手塚奈々には軽々しく水着の写真を撮らせてくれと言えたが、しっかりした性格の奥村真由美には無理だった。教室での様子とか体操服姿を隠れて撮影するのが限界だ。
 スレンダーな身体つきで手足が長く、顔は細面、ショートカットのヘアスタイルが抜群に似合っていた。スポーツは万能、どんな競技でもスター選手になれそう。泥臭いサッカー部のマネージャーなんかをさせてるには勿体ないくらいだ。付き合っている女がいない部員にとっては憧れの存在だった。
 やさしい言葉を掛けられて一気に親近感が増す。左のミッド・フィルダーという難しいポジションを任される自分の苦労を分かってくれているらしい。司令塔なのにフォワードの板垣順平は全く言う事を聞いてくれないのだ。これまではライバルである鮎川信也と二人で、試合運びの難しさを語り合って、板垣に対する愚痴を言うだけだった。 
 もしかしたら奥村真由美はオレに気があるんじゃないだろうか。あの優しい言葉には、そんなニュアンスが含まれていると思えた。彼女がオレのガールフレンドになってくれたら、どんなに嬉しいことか。 
 これはチャンスかもしれない。見逃しては駄目だ。男なら告白すべきじゃないか。
 だけど彼女には背が高くてカッコいいボーイフレンドがいたりして。それとも好きな奴がいるのかもしれない。もし、いなくても交際を断られる可能性だってある。不安だった。どうすべきだろう。しかし日々、奥村真由美に対する想い強くなって行く。鶴岡政勝は計画を練った。
 今日、明日に気持ちを伝えても効果は薄い。出来る事なら次の試合に出て、彼女が言った通りにオレの活躍で君津南中に勝利をもたらした直後の方が絶対にいい。その状況では、きっとオレの背の低さは問題にならない。感動で奥村真由美の心は高揚している。試合のヒーローから告白されてノーと言う女なんているもんか。
 これだ。これしかない。これなら、きっと上手くいく。
 問題は、どうやって次の試合にスタメンで出場するかだ。出れば富津中には必ず勝てる。連中の弱点は分かった。汚い富津弁さえ気にしなければオレたちが負けるはずがない。
 鮎川信也にオレを次の試合に出させてくれと言っても、拒否されるのは明らかだ。続けて二試合もゲームから遠ざかれば、実戦の感覚は鈍って取り戻すのに苦労する。左のミッド・フィルダーというポジションを完全に失うことを意味した。ましてや理由が女の子に好意を告白する為だと言ったら、ふざけんなと怒り出すのは目に見えている。
 悩んだ末に、板垣順平に怪我をさせた同じ方法を取ることに決めた。秋山聡史と二人で実行した仕返しは完璧なほど上手く行く。一試合だけ出場できなくなれば、それでいいのだ。そんなことを仲良しの鮎川にするのは気が引けたが、これが唯一の手段だと思った。
決断に踏み切ったのは転校生の助言が大きかった。 
 「素晴らしいヘッディング・シュートだったぜ」
 体育の授業が終わって真っ先に、そう声を掛けないではいられなかった。
「ありがとう。だけど二度と起きない。あれはまぐれさ」
「あっはは。そうは見えなかったな。かなり練習を積んでいるって感じだ」
「ミッド・フィルダーの司令塔に褒められて悪い気はしないな」
「サッカーは好きなんだろう?」
「ああ。だけどプレーするよりも試合を見る方が好きだ」
「じゃあ、ヨーロッパのサッカーだよな?」
「もちろん」
「好きな選手は?」
「アズーリの至宝、ファンタジ−−」
「もう言わなくていい。ロベルト・バッジョだろ?」
「そうだ」
「オレはジダンだな。マルセイユ・ルーレットには惚れ惚れしている」
「まさに神業としか言いようがない」
「そのとおり」
 こんな調子で奴とはヨーロッパのサッカーの話で盛り上がった。授業を挿んで次の休み時間になっても続く。これまで回りには外国の事情に詳しい奴なんて一人もいなかった。やっと話し相手を見つけたっていう、そんな気分だ。次の日韓共同開催のワールドカップでの優勝争いを予想したりで楽しかった。
 どうしても次の富津中学との試合には出たいんだ、と悩みを打ち明けるのに時間は掛からない。
 「そういう気持ちなら、どんな手段を使ってでも試合に出る努力をすべきだな」と、転校生。
「……」当事者じゃないから簡単に言えるんだ。
「運を天に任すなんて態度じゃダメだぜ」
「そう言うけどな、なかなか思い通りにならない事だって……」
「セリエAなんかで活躍するストライカーは、いいパスが来るのを待っちゃいないぜ。自分から取りに行くんだ。たとえ相手が味方であろうと、オレがシュートするんだという気持ちで奪いに行く」
「すげえな」
「自分よりもチーム・プレーが大事という日本的な考えだと、本当の意味でのストライカーは育たない。Jリーグの試合ではキーパーと一対一なのに、パスの相手を探そうとするフォワードの選手をよく見る」
「オレも、そう思う」
「試合に出たいなら出来るだけのことはやれ」
「もし、……」
「何だ?」
「もし、それが汚い方法でもか?」
「見つからなければいいのさ」
「……」言えてる。
「上手くやるんだ。きっと成功する」
「わかった」
 放課後のクラブ活動が終わって、トイレに行く振りをして鶴岡政勝は駐輪場へ急いだ。いつもの場所に鮎川信也の白い自転車を見つけた。周りを伺う。誰もいないことを確かめて近づく。針で前輪に小さく穴を開けて、黒いビニールテープを貼った。完了。目立たないように、ゆっくり校舎へと戻った。板垣順平の時みたいに上手く行くことを願いながら。
 カバンと学生服を取りに二年B組の教室に寄ったが、部室へは行かなかった。鮎川信也と顔を合わせたくなかったからだ。後ろめたい気持ちは、これが最初で最後だからという思いで紛らわす。
 帰り道、もし上手く行かなかったらと考えた。ただの自転車のパンクで終わったとしたら。
 それは、それでいい。そしたら次の試合に出場することは潔く諦めよう。出来るだけの事はやったんだ、と自分を納得させられた。後悔はない。また、いつかチャンスが来るのを待つだけだ。
 家路を歩きながら想いが膨らむ。出場できた次の試合で大活躍してチームに勝利をもたらす。その勢いに乗って奥村真由美に告白すると、彼女の方からも前から好きだったと知らされて大感激。板垣順平を除くサッカー部の仲間たちに祝福されて、オレたちはボーイフレンドとガールフレンドの仲になるんだ。
 
   24 
 
 『ぼくと付き合って下さい』
 波多野孝行は書いた文を何度も読み返す。うん、ストレートで何か凄くいい感じだ。これなら上手く行きそうだ、きっと。
 相手は同じクラスの篠原麗子だった。彼女の女らしい、ふくよかな容姿に強く惹かれた。長い黒髪と、それに合った優しそうな顔立ちも大好きだ。そのうち誰とでも寝るようになるに違いない手塚奈々や、男に対して見栄えしか求めない五十嵐香月の虚栄心とは対照的な女性。穢れない美しさ、純真無垢、それが篠原麗子だ。
 中学二年に上がってクラスが一緒になる。彼女の身体が丸みを帯びていくに従って目が離せなくなった。なんて女らしくて美しい。ほかの女生徒とは別格の存在だ。憧れた。でも気持ちを伝える勇気はなかった。片思いだ。
 波多野孝行は父親こそ君津署の刑事だが、本人は痩せていて存在感のない男子生徒でしかない。彼女とは挨拶をするぐらいでしか言葉を交わしたことはなかった。
驚いたのは、机に向かって自分の気持ちを文に表わそうとしていると、ドアを叩く音に続いて父親が部屋に入ってきたことだ。もう、びっくり。慌てた。女の子に手紙なんか書いていないで勉強しろ、と叱られるんじゃないかと思った。
 「孝行」だけど声は怒っていなかった。
「……ん?」心臓ドキドキ。不審に思われないように、ゆっくりパソコンのカタログで机の上にあった紙を隠す。
「お前、去年だけど校外学習に行ったよな?」
「うん」
「その時にクラス全員で写真を撮ったか?」
「と思うけど」
「見せてくれないか」
「え、どうして」
「いいじゃないか。見たいんだ」
「今、どこにあるか分からない。探して持っていくよ」
「よし、そうしてくれ。急いでな」
「うん」
 一体、何なんだよ。今になって去年の校外学習の写真が見たいだなんて。息子に対する嫌がらせか。あ、それとも……加納先生の写真が見たいのかな? すっげえ美人だな、なんて前に褒めてたからな。理解できない、うちの親父。
 しかし関係ない話で本当によかった。もしかしてバレたのかなと一瞬だけど身が縮まる思いだった。
 気を取り直して書いたを文章を眺めた。ボーイフレンド、ガールフレンドの仲になれますようにと願った。
 初めて心から好きになった女の子だ。何とかして仲良くなりたいと、ずっと考えていた。
 以前に篠原麗子への強い想いを、友達の新田茂男に話して、何かアドバイスをもらおうとしたが直前で気が変わった。よくよく考えてみると奴は女に全く興味がない感じなのだ。男らしいのは名前だけで、容姿は自分と同じように痩せて、なよなよしていた。
 初めて相談した相手は転校生の黒川拓磨だった。下校途中で、お互いに好きな人がいるなら告白しようということになったのだ。
 彼の口から加納久美子先生の名前が出てきたのには驚いた。「ええっ、それは難しいんじゃないのか。相手は歳の離れた教師だぜ。綺麗なのは分かるけど、中学生の男子なんか相手にするわけがないだろう」そう応えるしかなかった。
 「きみが協力してくれるなら何とかなるんだ」
「え、オレが?」びっくりするような事を言ってくる。
「そうだ」
「オレなんか何も出来ないぜ。クラスの女の子とさえ、よく話したことがないんだから」
「わかってる」
「だったら、何で?」
「三月の十三日、その土曜日に『祈りの会』を開くんだ。それに出席して欲しい」
「『祈りの会』だって? 何だい、それって」
「ぼくの願いが叶うように皆で祈るのさ」
「皆って?」
「もちろん二年B組の生徒たちだ」
「全員が了解済みなのか?」そういう話がクラスで進行しているとは知らなかった。新田茂男は知っていたのかな、オレに話さなかっただけで。
「いいや、一人ひとりを説得している最中だ」
「……」じゃあ、無理だろう。わざわざ休みの日に、そんな馬鹿らしいことで学校に出て来る奴なんかいないぜ。
「どうだろう、出席してくれるかい?」
「来月の話じゃ、今から約束はできないな。ほかに予定が入っちゃうかもしれないし」馬鹿馬鹿しい。そんなものに付き合っていられるか。
「なるほど」
「がっかりさせて悪いな」
「いや、構わない。でも残念だな。ひとつ提案があったんだが、それは言わないでおこう」
「提案?」
「そうだ」
「え、どんな?」こいつ、興味を誘う言い方をするじゃないか。
「お互いの思いが叶うように協力し合うことさ」
「協力し合うだって?」
「うん」
「どうやって?」
 すると転校生は答える代わりにポケットから折り畳んだ一枚の紙を取り出して見せた。「何だよ、それは?」
 「触ってみろよ」
 言われるがままに波多野孝行は差し出された紙を手にした。「へ
え、なんか凄い紙だな」高価な和紙らしい。表面はザラザラしていて重々しい感じがした。
 「だろう」
「うん。だけど協力し合う事と関係があるのかい、この紙が?」
「ある」
「どんな?」もったいぶってるぜ、こいつ。
「その紙に願い事を書くと叶うんだ」
「えっ、何だって?」
「聞こえただろ。今、言った通りさ」
「待ってくれ。もう一度、言って欲しい」
「願い事が叶うんだ、その紙に書けば」
「マ、マジかよ?」
「ああ」
「そんなこと信じられ−−」
「信じられなければ、それでいいさ。そういう気持ちなら願い事を書いても叶うことはない」
「……」
「信じるってことが大事なんだ」
「つ、つまり、その紙に願い事を書いて信じれば、叶うってことなのか?」
「その通り」
「……」マジかよ。にわかには信じられない話だが、この重厚な紙の手触り感が信憑性を醸し出していた。無視できない。
「どうする?」
「この紙を貰うために、オレは何をすればいいんだ?」
「祈りの会に出席して欲しい」
「それだけか?」
「そうだ。ただし……」
「ただし、何だ?」きっと金だ。世の中、すべてが金で動いてる。
「自分の願いが叶うように強く信じるのと同じように、僕の願いが叶うように強く信じてくれないとダメなんだ」
「……」何だって? そりゃ、簡単じゃない。なにしろ、お前の相手は学校の教師なん−−。
「難しいのは分かっている」
「おい、相当に難しいぜ」
「じゃ、止めるか」
「いや、待ってくれ」篠原麗子と恋人同士になるチャンスかもしれない。ダメで元々だし、見逃すわけには行くもんか。
「やるのか」
「ああ」波多野孝行は決断した。
「出来るのか?」
「もちろんだ」
「もし同じように信じられないと大変なことが起きるぜ」
「え、……例えば?」
「きみの気持ちが、思ってもいなかった相手に伝わってしまう場合もあるんだ」
「別の女に、っていう可能性が出てくるのか?」
「そうだな」
「いやだ。オレは篠原麗子じゃない女には興味がない」
「だったら自分の為に、そして同じように僕の為に強く信じてくれないと困る」
「わかった、任せてくれ」
「大丈夫か?」
「心配しなくていい」
 そう返事して転校生と別れた。魔法の紙が欲しくて、出来そうにもないなんて言えなかった。すぐに相当に難しいことだと、ひしひしと感じた。自分が篠原麗子と恋仲になりたいという気持ちは強くて、絶対になれると信じることはそんなに難しくもない。しかし奴の相手は加納先生だ。とてもじゃないが、二人が恋人同士になるなんて想像できるもんか。身長だって奴の方が5センチぐらいは低くないか。見た目にも釣り合いの取れないカップルだ。だけど、ここは努力しないと。自分の恋を成就させる為にも、あいつの思いが叶うように信じてやらないといけない。
 波多野孝行は最後に、魔法の紙に書いた文の横に自分の名前を付け加えた。黒川拓磨の指示が、その紙を篠原麗子のではなくて、転校した関口貴久が使っていた空の下駄箱に入れろというものだったからだ。何でだろう? 不思議に思ったが言われた通りに実行することが大事だと考えた。そこで一応、念のために波多野孝行と署名を入れた。彼女が誰から思われているか、ハッキリと分かるようにだ。これなら間違いない。
 明日の朝、下駄箱の中に魔法の紙を入れるつもりだった。篠原麗子がガールフレンドになってくれたら、二人でディズニーランドへ行きたい。どんなに楽しいだろう。そうだ、カメラが必要だ。どれを買えばいいのか、鶴岡政勝にアドバイスをしてもらおう。
 映画も見に行きたい。ピクニックもいい。ショッピングも一緒にしたい。夏には海へ行こう。彼女の水着姿が見てみたい。きっと超セクシーだろうな。うきうきしてくる。波多野孝行の頭の中は、恋人同士で過ごす週末のプランでいっぱいになった。そこには一抹の不安も入る余地はない。


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