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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第4回 16 B - 18
 芸能界へ入るのにもう一度オーディションを受けに行こうか、それとも男の人のアレを口に含むことを我慢してアダルト・ビデオに出演しようか、と悩む日々が続く。こんなこと、とても渚や道子には相談できなかった。彼らに秘密は守れない。とくに山田道子は信用ならない。香月は一人で思い苦しむ。そんな時だ、転校生の男子生徒に容姿を褒められたのは。
 その響きに気持ちは揺らいだ。綺麗だ、可愛いとか言われることは少なくない。だけど全ての褒め言葉が、五十嵐香月と付き合いたいという下心から生じたものだ。でも転校生のは違った。あたしのために言ってくれたと感じた。そして『プリティ・ウーマン』という大好きな映画まで口に出して褒めてくれたのだ。この人だったら相談できるかもしれないと、すぐに思った。
 「オーディションを受けに麻布まで行ったんだけど……あたし、怖くなって何もしないで帰ってきちゃったの」
 誰にも言わなかった事実を二年B組の教室で、転校してきたばかりの男子生徒に告げてしまう。自分でもビックリ。あたし、どうしちゃったの。
 「……」
 だけど相手は無言。ああ、言うんじゃなかった。きっと情けない女だと見下しているに違いない。他人に弱みを握られるなんて絶対にイヤ。うそ、うそよ。それは冗談です。と今から否定しても遅くはない。こんな男子に思わず口を滑らせてしまった自分がバカだった。取り繕うつもりで口を開きかけたが−−。
 「分かるよ」
「え?」
「その気持ち、分かるな」
「……」意外な言葉が返ってきた。なんか凄く嬉しい。
「無理もないよ。初めてだったんだろう、オーディションなんて」
「そう」
「五十嵐さん」
「なに」
「一度や二度の挫折なんて当たり前さ。それを乗り越えて成長していくんだから」
「本当?」なんか凄い説得力。
「初めっから上手く行く人なんて、ごく限られた人間さ。色々と苦労を乗り越えて、また様々な経験を積んでこそ、実力が付いて人間的にも魅力が増していくのさ」
「へえ」
「たかが一度のオーディションで逃げ出しちゃったとしても、五十嵐さんの美貌を棒に振ることはないよ。もったいない。いつか有名になった時、それが過去のエピソードとして笑い話になるんじゃないのかな」
「……」うわあ、勇気づけられる。
「実は、僕の父親が洋画に関係する仕事に携わっているんだ」
「え、それ本当?」うわっ、なんてこと。
「ああ。色々とハリウッドの面白い話を聞かせて−−」
「あ、待って」香月は、渚と道子が教室へ入ってくるのが見えて急いで相手の言葉を遮った。「ねえ、その話は後で詳しく教えてくれない。お願いだから」
 その週末、五十嵐香月は転校生を家に呼んだ。異性を自分の部屋に入れるなんて初めてのことだ。自分を勇気づけて欲しい、再び挑戦する新たな力を得たいという気持ちが強かった。
 父親は長期の出張中で、母親は必ず土曜日はオバアちゃんの所へ行く。自宅には香月と飼い犬のリボンが居るだけ。転校生に来てもらうには丁度いい。
 金曜日の夕方、ルピタへ行ってスナック菓子とドリンクを用意した。二千円も使った。もてなしは最上級だ。不思議なのは帰ってくるなり、飼い犬のリボンが自分に向って唸り声を上げたことだ。何か機嫌でも悪いのだろうか。
 二年前、近くの公園に捨てられていた子犬のリボンを家に連れて帰ったのは香月だ。すぐに懐いてくれた。今では香月の左脚を好んでマウンティングする。あまり気持ちのいいものではないけれど、あたしを愛している証拠なんだと思って我慢していた。ところが図書館へ行って犬の飼い方の本を読んで調べてみるとビックリ。犬は自分よりも下位の生き物に対してマウンティングすると書いてあったのだ。つまりリボンは保護してくれた恩人の香月を今では自分よりも下の地位として考えているらしい。一体、いつ立場が逆転したのよ。
 それ以来、リボンがマウンティングしてくると、なんだか風俗嬢にされたみたいな気分になってイヤだった。
 機嫌を直してもらおうと、お気に入りの左脚を出してマウンティングを促す。だけど見向きもしなかった。なにかヘン。土曜日、転校生が家の呼び鈴を鳴らしたところで、リボンの興奮は一層激しくなった。吼えて吼えて吼え捲くる。一階のリビングに閉じ込めるしかなかった。普段、お客さんが来ると好奇心いっぱいにして大はしゃぎでシッポを振るのに、この日は違った。
 「なるほど、な」部屋に入って椅子に腰を下ろすと転校生は言った。
「え、どういうこと?」自分の部屋に異性と二人だけなんて、なんだか恥かしくてぎこちない。テーブルの上にスナック菓子とコカ・コーラを用意しながら場をもたしていた。彼の言葉に戸惑う。意味が分からない。
「うふ。五十嵐さんらしい家だし、この部屋にしても五十嵐さんそのものって感じだ」
「そう?」どうしよう。お礼を言うべきなのか。ただ悪い気はしなかった。「ねえ、ハリウッドの面白い話ってどんなの?」
「今年のアカデミー主演女優賞候補になったグイネス・パルトローは、『恋におちたシェークスピア』での演技が認められた結果なんだ」
「うん」
「あの役のオファーは最初、ウィノナ・ライダーに来たんだって。だけど当時一緒に住んでいたグイネス・パルトローが台本を見つけて読んで、プロデューサーに自分を売り込んで役を横取りしたらしいよ」
「本当? つまり友情よりも自分キャリアを優先したってこと」あんなに綺麗な人が、なかなか凄いことをする。「じゃあ、その後の二人の仲は?」
「もちろん決別さ」
「ウィノナ・ライダーって、『シザーハンズ』に出た人でしょう。すごくキュートな女優だと思った。『若草物語』では主演女優賞にノミネートされたわ」
「そうだ。もし役を横取りされなかったら、今度こそ賞を獲れたかもしれない」
「悔しかったでしょうね」
「そりゃ、そうさ。アカデミー主演女優賞なんて獲れたら一気に仕事は増えて、ギャラも上がるからね」
「へえ」
「演技の上手な役者は沢山いるけど、なかなか世に出るのが難しくて大変なんだ。ほとんどがアルバイトをしながらの生活で、食べていくのが精一杯。華やかなのはトップに登り詰めた僅かな連中だけさ」
「厳しい世界だって聞くわ」
「多くが日の目を見ることなく終わっていく。当たり役に巡り合うことが出来るかどうかに掛かっているんだ。例えば『風と共に去りぬ』のビビアン・リー、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン。それと『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツ、『ショーシャンクの空に』のモーガン・フリーマンとか」
「実力の他に運が必要ってことね」
「その通り」
「あたしなんかが、やって行けるかしら」
「自分に半信半疑じゃ難しいだろうな。絶対になるっていう強い信念を持っていないと。その強い信念が幸運を引き寄せるんだから」
「……」ああ、自信がなくなる。
「どうした」
「不安だわ」
「五十嵐さんらしくないぜ」
「そうかしら」
「だって学校では、自信に満ちていて我が道を行くって感じだぜ」
「あんな田舎の中学校だからよ」
「あはは。麻布のオーディション会場だって、いつかそう思える日が来るさ」
「……」そんなふうに考えたことはなかった。でも言えてるかも。
「演技の勉強をしたりして、少しづつ自信をつけるといい」
「そうする」
「五十嵐さんが成功することを信じているよ」
「ありがとう」少し勇気が湧いてきた。
「五十嵐さんの美しさは、どこへ行っても通用するさ」
「そう言ってくれると凄く嬉しい。あたし、芸能界は無理だと諦めて、AV女優になろうかと考えたこともあったんだ」
 ああ、言っちゃった。この転校生の前だと無意識に自分を曝け出しちゃう。
 「どうして」
「だって、……お金が稼げそうだったから」
「いや、今は難しいみたいだぜ」
「そうなの」
「うん。AV女優になりたいっていう女の子が沢山いるらしい。当然だけど、反比例してギャラは安くなっていく。よっぽど綺麗でスタイルも良くて、その子ひとりでアダルト・ビデオが企画できるなら話は別だろうけど」
「へえ」この子って何でも詳しいみたい。すごい。
「やめた方がいいよ。寿命は短くて、すぐに飽きられていく。失うモノの方が多い。一度でも出演したら、元AV女優という肩書きが一生ついてくる。リタイアした後で、もし誰かに美しさを褒められても自慢できないぜ。子供だって諦めるしかない」
「え。どうして、子供が産めなくなるの?」
「母親が元AV女優だと知ったら悲しむさ」
「黙っていれば……」
「無理だな」
「なんで?」
「世の中には、おせっかいな連中が沢山いるぜ。どっかからか調べてきて子供に母親の素性を教えるさ。証拠として、しっかり裸の写真を持ってきてな。きっと学校中に知れ渡るようにするだろう。そうなったら引っ越すしかない。奴らは他人の家庭が崩壊していくのを見て楽しむのさ。それって悲しくないか?」
「言う通りだわ」
「でも……」
「でも、何?」
「ポルノ映画に出演したけど成功した俳優も何人かいるんだ」
「えっ。誰、それ」
「キャメロン・ディアス」
「えっ、あの『メリーに首ったけ』に出た女優?」
「そうだ。彼女が十九歳の時だった」
「信じられない。嘘みたい」
「ほかにはマリリン・モンローとかヘレン・ミレンとか、女優じゃないけど歌手のマドンナだって」
「へえ」
「ポルノ映画じゃないけど、『猿の惑星』でチャールストン・ヘストンの相手役を演じた女優は、あの役をもらう為にプロデューサーと寝たらしい。だけど台詞はもらえなかったんだ」
「そうだ、あの女優は映画の中で一言も喋らなかったわ」
「ほかにも『猿の惑星』にはエピソードがあるんだ」
「教えて」
「五十嵐さん、となりに座ってもいいかな」
「え」どういう意味? となりに座るって、こんなに近くに居るのに?
「その方が話し易いんだ」
そう言うなり、彼は椅子を持って真横に腰を下ろす。「じゃあ、いいよ」香月の承諾は後からで全く意味がなかった。
「ありがとう。実は、あの映画の猿は日本人がモデルかもしれないんだ」
「えっ」
「原作を書いたフランス人の作者は、第二次世界大戦の時に日本軍の捕虜にされて、フランス領インドシナで収容所生活を強いられたらしい」
「へえ。それで、あの物語のアイデアを思いついたの?」
「そうみたいだぜ」
「まあ」
「じゃあ、五十嵐さんが一番好きな映画を教えてよ」
「うーん、色々あるけど……やっぱり一番は『ショーシャンクの空に』だわ。あんなに感動した映画ってないもの」
「あれは素晴らしい作品だった。僕も大好きだ。スティーヴン・キングの原作よりも面白かった」
「え、小説も読んだの?」
「うん。最初に小説を読んでいたんだ。タイトルは確か〛刑務所のリタ・ヘイワース』っていう短編で、それほど面白いとは思わなかった。だから映画は二の足を踏んでしまったよ」
「へえ」なかなか知的な趣味を持つ少年なんだ、この子は。勉強が出来るのも頷けるかも。
「あの映画なんだけど……」
「うん。何?」
「ブラッド・ピットに出演をオファーしたけど、スケジュールの都合で叶わなかったんだって」
「へえ。じゃあ、あのアンディの役を、もしかしたらブラッド・ピットが演じたってこと? なんかイメージが浮かばないなあ。ティム・ロビンスで良かったよ」
「いや、違う。トミーの役さ」
「え、トミーって」
「アンディの妻を殺した奴を知っていると所長に話して、看守に銃で撃たれて殺された若い男だよ」
「あのイケメンの人?」
「そうだ」
「へえ」−−あっ。いきなり彼の手が伸びてきて、香月の左足に触れた。そのまま動かない。ど、どうして。今度は承諾を求めてもこなかった。こ、困るんだけど。
「小説よりも面白い映画っていうのは滅多にないんだ」
「そ……そうなの」返事を口から搾り出す。左の太股に乗ったままの彼の手が気になって何も考えられない。どうして退けてくれないのか。こんな時って、どう行動すればいいの? ジワジワと彼の体温が手を通して、香月の下半身に伝わってくる。不安。 
「例えばルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だな」
「……」頷くだけで精一杯。アラン・ドロンの出世作だと知っていたが相槌すら打てない。言葉が口から出てこなかった。心臓はドキドキ。彼の手が静かに太股を撫で始めている。
「原作はパトリシア・ハイスミスっていう人が書いたんだけど面白くなかった。がっかりしたよ」
「ふう……ん」か、か、身体が……熱い。何なの、この感覚は。
「五十嵐さんは小説を読むの?」
「……」ううん。急いで首を振った。質問に対する返事というより
も、身体に起きている異変を振り払うかのように。で、でも……ダメ。効果がない。なんだか身体が溶けていくような……。
「それは残念だ」
「は、はあ」ため息が口が漏れる。
「『スリーパーズ』という映画を覚えているかい?」
「……」え、スリーパーズ? あたしのこと? 目が虚ろになっているかもしれないけど、眠いわけじゃないのよ。
「ほら、ニューヨークに育った四人の少年たちが少年院に送られて看守に虐待される話だよ」
「あ、……ああ」それなら覚えている。なかなか面白かった映画だもの。確かブラッド・ピットが出演していて、他にも何人か有名な俳優が……。ああ、ダメだ。頭がボヤけてハッキリしない。
「あの映画そのものは悪くなかった。だけど原作となった小説の面白さには足元にも及ばないな」
「……」へえ、……そうなの。な、なんか映画の話なんか、どうでもいいような……もう興味がない。それよりも、こ、この……甘ったるい感じ……。
「『マジソン郡の橋』だって−−」
「あっ、……あう」
 もう彼の言葉は耳に入ってこなかった。無意識にも香月の首は後ろに仰け反った。腿を撫でられることに違和感を覚えていたが、それが今は消えた。続けて……もっと続けて。あたしを撫でて。こんなに気持ちがいいのって初めて。「は、は、はあ」
 彼の手が動く。スカートの裾から中へと、奥の方へ進んでいこうとしていた。これって……もしかして、いけない事じゃなかったかしら。「はあ、はあ」そうだったかもしれない。恥かしいところに届いちゃう。だけど香月に拒絶する力は残っていなかった。逆に彼の手がスカートの奥で動きやすいように太股を広げてみせた。身も心も甘く溶けてしまう直前、一階のリビングに閉じ込められた犬のリボンが激しく吼えるのが聞こえた。

 演技のレッスンって、気持ちが良くて楽しい。女優はラブシーンで真価が問われるって言う彼の意見は正しいと思う。二人で土曜日をレッスンの日に決めた。だけど今週は水曜日に母親が上手い具合に出掛けることになった。「香月、ごめん。ご飯の用意はして行くから。帰ってくるのは、早くても木曜日の夕方になりそうなの」
 「いいよ、仕方ないもの」と面倒くさそうに答えたものの、心は宇宙に飛び上がるぐらい舞い上がった。彼を家に呼べる。泊まってくれるかも。そしたら朝までずっと−−。想像するだけで下腹部がムズムズしてきた。顔はニヤけて火照りそう。そこをなんとか堪えて、難しそうな表情を保つ。頑張れ、香月。
 えっ、これってアカデミー賞級の演技じゃない、もしかして。『恋におちたシェークスピア』のグイネス・パルトローにも負けていないはず。
 きっとレッスンの成果が出ているんだ。それが実感できる。あたしって凄い。
 待ちに待った水曜日の下校時間だった。これから家に帰って、演技の先生を迎える用意を急いでしないといけない。ああ、嬉しくて死にそう。
 そうだ、明日は学校なんか休んじゃえばいいのよ。彼を朝まで帰したくない。香月は無断欠席にならない方法を思いつく。母親のマネをして学校に電話をすればいいのだ。加納先生は難しいかもしれないが、他の教師や事務員の女だったら絶対に騙せそう。これこそ、あたしの演技力が試される場面じゃないかしら。 
 やってみるべきだわ。頑張れ、香月。アカデミー主演女優賞を目指す、その第一歩だ。
 五十嵐香月が十四年の人生において、一番の生きがいを感じた瞬間だった。

    17

 ああ、どうしよう。困った。 
 学校が終わって家に帰ってみると、まず目に入ったのは駐車場に停まっている義父の軽自動車だった。色褪せた赤いスズキのアルトだ。何で、こんな時間に家にいるの?
 家はセキスイハウスで建てた新築で、親子三人で暮らすには十分な広さがあった。でも、あの男と二人だけで家に居るのはイヤ。何をされるか分かったもんじゃない。
 「お母さん、再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど」
 そう言って、母親が国道沿いにあるデニーズで紹介してくれた男は、ハゲ頭の背が低い中年だった。
 がっかり。なんで、こんな男が母親と? 何も言えない。挨拶すら口から出てこない。結婚って、男と女がエッチなことをする約束みたいなもんなんでしょう。あたしのママが布団に入って、こんな汚らしい中年男と……。ああ、イヤだ。気持ち悪い。
 あたしが幼少の頃に別れた本当の父親は、写真で見る限りだけど、すっごく背が高くてハンサムな人だった。笑顔が優しそう。こんな素敵なパパと何で別れちゃったのか理解できない。会いたかった。一緒に歩いて友達に見せたい。
 写真を目にする度に母親に、「どうして?」と訊いた。いつも決まった答えが返ってくる。「あんたは子供だから知らなくていいの」、だ。
 きっと何か、子供には話せない、大変な理由が出来て、仕方なく離婚しなければならなくなったんだろう。でも二人は心の中で今でも愛し合っている。きっと、そうだ。だって、あたしのママとパハだもの。そう篠原麗子は、ずっと信じてきた。
 母親から再婚したい相手がいると伝えられた時は、信じていたものが崩れていく思いだった。じゃあ、あたしのパパのことはどうするの? と、訴えたかった。
 新しい父親を受け入れるのには強い抵抗があった。自分を納得させる為にも本当の父親に似た人であって欲しいと願った。
 デニーズに遅れてやって来て、テーブルの向かいの母親の隣に腰を下ろした男を見て、この人を好きになるのは、どんなに努力しても無理だと直感的に思う。
 ハゲ頭の中年男は、あたしの機嫌を取ろうと食事中よく喋った。学校のこと、将来のこと、友達のこと、興味もないくせに色々と訊いてくる。ああ、うざったい。つまらない冗談しか口にしない。今どき、そんなの子供にも受けないよ。大好きな和風ハンバーグが全然美味しくなかった。
 馴れ馴れしくママの肩や手に触ることも気に入らない。もう、腹が立つ。見ていられない。辛いのは、それを母親が嫌がらないことだ。どんどんママが自分から遠ざかっていると感じた。
 デニーズからの帰り、自動車に乗ってすぐに母親は訊いてきた。
中年のハゲはいない。二人だけだ。「どう? あの人。なかなかイイ人でしょう」
「……」え、どこ……がっ? 何も言えない。正直に言ったら、母親がどんな反応をするのか分からないし。
「あの人って見掛けは良くないけど優しいのよ。それに市役所に勤めているの」 
「……」娘の沈黙を拒否反応と悟ってくれたらしい。市役所、そうなの。それが再婚の決め手らしい、と麗子は理解した。
「結婚したら家を建てるって約束してくれたのよ。車も外車にするって言ったわ。麗子も色々なモノを買ってもらえるわよ」
「……」いらない。何も欲しくない。アパートでいいから、ママと二人だけの生活を続けたい。
「どう、嬉しくない?」
「……」全然。モノを買ってくれなくていいから、あの人とは一緒に住みたくない。
 娘の返事を待っている様子だ。でも何も言えなかった。間が空いて、次に口を開いた母親の口調は一変していた。「あんた、あの男のことをまだ想っているの?」
「……」そう。だって本当の父親だもの。頭から消し去るなんて無理。公園で楽しく遊んでくれたことを覚えてる。
「あの男は、あんたのことなんか何も気にしてないわよ」
「……」その言葉、麗子の胸に突き刺さる。そんなのウソだわ。
「だから会いに来ないのよ。娘のことを想っているなら、ちゃんと養育費とか払ってくれるはずでしょ」
「……」気分は奈落の底へ。悲しい。
「あんなダメな男はいないの。お金にはルーズで、女にもルーズだった。仕事は何をやっても中途半端で投げ出す始末だから。背が高くて見栄えはいいけど、それだけよ。無責任でだらしない男。お母さんが、あいつのお陰でどれだけ苦労−−」
「わかった。もういい」もうパパの悪口を言わないで。お願いだから。「あの人と結婚していいから」そう言うしかなかった。
「そう?」
「……うん」目から溢れた涙が頬を伝わって落ちてくる。
 (再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど)あの言葉って何だったの。
 「あんたの気持ちは分からないでもないのよ。あたしだって、あの人のことを心の底から好きとは言えないもの。理想の男性には程遠いわ。だけどね、現実を見なきゃダメよ。女手一つで、あたし達が二人で暮らしていくって本当に大変なんだから。この結婚は麗子の為を思って決断したとも言えるのよ。あんたも大人になれば、きっと分かる」
「わかった。ごめんなさい」自分の意に反した言葉を口にしなければならないことに涙が止まらなかった。
「いいのよ。わかってくれて嬉しいわ」
「……」
「すぐに家を建てるわよ。あたしの気が変わらなければ、今月中にも新昭和住宅と契約を交わすつもり。夢のマイホームよ。もうアパート暮らしじゃなくなるの。お母さん、車はBMWかベンツを考えているけど。麗子は、どっちがいいと思う?」
「どっちでもいい。ママが好きな方を選んで」
「わかった。そうする」母親の機嫌が直ってくれて安堵。「お前は、いつでも素直でいい子だから好きよ。お母さん、絶対に麗子のことを悲しませたりしないから。それだけは約束する」
「……」ああ、意味がわからない。これが悲しませることじゃないなら、もし母親が本気で娘を悲しませようとしたら、一体何をしてくるんだろうか。それを考えると怖かった。
 母親は再婚して姓が変わったが、あたしは篠原のままでいた。せめてもの抵抗だ。篠原麗子、この名前は好きだ。愛する人と結ばれるまでは変えたくない。
 義父は頼みもしないのに色々なモノを買ってくれた。母親とは初婚で、いつか誰かと結婚するつもりで給料のほとんどを貯金をしていたらしい。そのお金を今、母親が自由に使っている。お洒落な洋風の家を建てさせ、そしてグリーンのベンツを買わせた。義父は古い軽自動車のままだ。
 お父さんと呼んで欲しいのだろう、いつも義父は麗子の機嫌を伺っていた。無理、それは無理。パパとは呼べない。
 何も買ってくれないでいいから、馴れ馴れしくしないで。そう、はっきり言いたかった。
 新しい家に住み始めると、義父は母親にするのと同じ調子で麗子の身体にも触ってきた。嫌悪感。すぐに逃げた。でも笑っている。嫌がっているのが分からないみたい。鈍感な男。やめてくれるように母親に言おうかと考えた。だけど母親は新築のマイホームと新車のメルセデス・ベンツを手にして、ものすごく嬉しそうだ。衣服、靴、アクセサリーが高価なモノに変わった。こんなに生き生きしている姿は見たことがない。言い出せなかった。
 麗子は二階の日当たりのいい部屋をあてがわれた。嬉しかった。天井はモスグーン、壁紙はベージュにした。机と椅子、ベッドは木更津のニトリで気に入ったのを選んだ。値札を見ないで買い物をするなんて今までになかったことだ。
 ペットが欲しい。兄弟がいない寂しさを紛らわしてくれるだろうと期待した。隣の家ではイヌを三匹と二匹の猫を飼っていた。みんな人懐っこくて、すごく可愛かった。遊びに行くと麗子を大歓迎してくれた。
 言えば二つ返事でペットを飼わせてくれるのは分かっていたが、借りを作るのがイヤだった。義父の馴れ馴れしさは悩みの種だ。それが助長される恐れがあった。ただ自分の部屋に居れば何もない。学校から帰ってくれば直ぐに閉じこもった。お風呂と食事以外はリビングに降りていかない。
 三人家族になって二ヶ月ぐらいが経った晩、自分の部屋で寝ていると麗子は物音に気づいて目を覚ます。
 え、なに? 気の所為? 夢だったの?
 目は開けずに、じっとしていた。何もなければ再び眠りに落ちるだろうと−−、額に冷気を感じた。え? 部屋のドアが開けられていることに気づく。人の気配を感じた。きっとママだ。でも、どうして何も言ってこないのか。ヘン? そしてお酒のニオイが漂ってきて、全身に衝撃が走る。ママじゃない、義父だ。あの中年男があたしの部屋に黙って入ってきていた。
 何をしているの? 何かを盗もうとしているの? 
 理解できない。ここには何も高価なモノなんてないのに。義父の息遣いを感じた。何か興奮しているみたいな。怖かった。早く出て行ってほしい。
 完全に目は覚めた。でも恐怖で動けない。しばらくすると義父はいなくなったが、麗子は朝まで一睡もできなかった。
 翌日、部屋に鍵を掛けたいと母親に言ってみると、「どうして?」と訊かれた。
「……あのう、……その」答えはしどろもどろ。
「そんなの必要ない」と一蹴されてしまう。
 母親を納得させるだけの理由を用意していなかったのが間違いだった。何か悪い事を企てているんじゃないかと誤解されたらしい。  
 ああ、困った。どうしよう。
 その後は頻繁に義父は、お酒のニオイをプンプンさせながら部屋に入ってきた。ベッドに近づいて寝ている麗子の様子を窺う。義父の目的が分かった。この、あたしだ。あたしの身体に興味があって部屋に入って来るんだ。
 驚愕。いやらしい。どうして? こんなに歳が離れているのに。
 夜、寝るのが怖い。義父に何をされるか分からないからだ。睡眠不足の日が続く。
 この早熟な身体が原因らしい。中学二年になって急に大人びてきた。胸のふくらみ、ふくよかな腰まわり、もう二十歳過ぎの女性と変わらない。外で歩いていても男性の視線をすごく浴びる。お茶でも飲まない、と何度も声を掛けられた。まだ十四歳なのに、だ。
 麗子の理想は加納久美子先生だった。あんなスレンダーな体型に憧れた。アスリートみたい。知的な顔立ちも素敵。それなのに風呂場の鏡で見る自分の姿は、男性向けの雑誌を飾るピンナップガールみたいだった。
 麗子はクラス・メイトの手塚奈々みたいに、長い脚を自慢して露出する勇気はなかった。山岸くんたちが作った、『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』のランキングでは二位にされて恥ずかしい思いをした。だけど奈々ちゃんは嬉しそうに両手を挙げて男子の拍手を全身に浴びた。よくあんなことができる、と感心してしまう。
学校では何度も男子から手紙をもらって戸惑ってもいた。文面はどれもほぼ同じで、『ぼくと付き合って下さい』だ。何て返事していいのか分からなくて困った。
 意思に反して急速に大人っぽくなっていく身体が異性を惹きつけた。誰もが美味しそうな和風ハンバーグ・ステーキを見るような目で自分に視線を送ってくる。なんか怖い。それなのに家では危険な男と一緒に住んでいる状態だ。警戒は怠れなかった。
 ところが、ある日を境にして、よく眠れるようになる。寝不足の疲れが溜まっていたからだろうか。いつものようにホットミルクを飲んでベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。いつ義父が部屋に入ってこないか心配しなければならないのに、強い眠気には勝てなかった。
 朝までぐっすり。部屋のドアが開けられる音に目を覚ますこともない。これまでと違うのは毎晩のようにエッチな夢を見ること。誰かに身体を触られて気持ち良くなっている、自分の姿だ。朝、起きると汗びっしょり。下着にはシミ。ああ、恥かしい。
 これって思春期だから? 年頃になると、こんな夢を毎晩のように見るの? だったら二年B組の女子みんなが、こういう夢を見ているのかしら。もしそうなら学校で、よくあんな真顔でいられる。いつもと同じように友達同士で喋って笑って……。自分なんか恥かしくて、もう相手の目を見て話すことが出来なくなった。
 え、でも……もしかして、麗子の頭に別の考えが浮かぶ、これって病気だったりして。
 だったら大変。お医者さんへ行かなくちゃ。ガンじゃないけど早期に治療しないと、手遅れになって今より悪くなる可能性だってありそう。
 もし症状が悪化したらどうなるんだろう、これ? 夢だけじゃなくて、起きている時もずっとエッチなことを考えてる状態になるのかな。冗談じゃない。そんなのイヤだ。
 病院へ行くなら、これって何科になるの? 内科、違う。外科、違う。耳鼻咽喉科、ぜんぜん違う。産婦人科、いや、子供を産むわけじゃないし。あっ、精神科じゃないかしら。たぶん、そうだ。
 だけど病院へ行くのに母親に何て言う? 「あたし、毎晩のようにエッチな夢を見て困っているの」なんて口が裂けても言えない。  
 たとえもし病院へ行けても、多くの医者は男性だ。母親よりも言い難い。
 きっと若くてハンサムな独身の医者は、びっくりして目を丸くするはずだ。近くにいた超美人の看護婦は思わず手にしたカルテで顔を隠して、鼻で笑う。「きゃはっ」そしてナース・ステーションへ駆け込むのだ。滅多にない愉快な話を同僚たちに伝えるために。
 「ねえ、ねえ。ちょっと、みんな聞いてよ。今ね、〇X先生のところに、エッチな夢を見てばかりいる女子中学生が来ているんだ。うふっ。すっごく面白くなりそうよ。どう、見に来ない?」こんな調子だ。診察室は好奇心に満ちた看護婦たちで、ドアが閉められなくなるほど満員になるだろう。
 難しい手術をしていたドクターは、傍にいたはずの看護婦が一人残らず姿を消してしまったので、仕方なくセルフサービスで執刀を続けることになると思う、きっと。
 「診察しますから、シャツのボタンを外してくれるかな」、なんて若くてハンサムな独身の医者に言われたらどうしよう。え、精神科なのに服を脱ぐんですか? そんな疑問を持っても、中学生の自分は先生の言葉には逆らえない。思春期を迎えて女らしくなった身体が、好奇心に満ちた看護婦たちの視線の集中砲火を浴びるのだ。誰もが息を止めて、篠原麗子の指の動きを見守っている。張りつめる空気。彼女たちの唾を飲み込む音が耳に届いてきたりして。診察室では一言も口に出さないけど、きっとナース・ステーションへ戻った時は篠原麗子の話題で持ちきり。
 「あんなにマセた子は、あたしは知らない。エッチな夢を見るのは無理ないわよ、あんな大人びた身体をしているんだもの。一体いくつなの、あの娘?」
「驚かないで聞いて。十四歳になったばかりよ」
「えっ、まだ子供じゃない。信じられない。それで、あの色気?
もう世も末だ」
「びっくりよ。見た? あの尻の丸み」
「もちろん。もう男を咥えたくてウズウズしてるって感じだったじゃないの」
「いやらしい。親の顔が見てみたい」
「きっと母親は亭主の目を盗んで、ラクビー部の男子高校生なんかと朝から夕方までズッコンバッコンさ。じゃなかったら娘が、あんなふうに育つわけがないもの」
「そりゃ、言えてる」
「うちなんか年頃の息子が二人もいるだろ。あんな小娘が丸い尻をプリプリさせながら街中を自由気ままに歩くと思うと、心配で心配で仕事に集中できやしない。医療ミスでも起こしたら大変なことになるっていうのにさ。それから来年は次男が受験なんだよ。もし志望校に入れなかったら、あの女の所為だ」
「将来が恐ろしいよ。どこまで淫らな女になるんだろう」
「男なしでは生きられないってな感じじゃない。あの歳であの身体だもの、どスケベな母親を超えるのは間違いないよ」
「君津警察に通報してやろうかしら。刑事に知り合いがいるんだけど」
「何て?」
「重大な性犯罪を誘発させそうな淫らな小娘がいますって言うつもり。あの女は公然わいせつ罪と同じだよ」
「でも素っ裸で歩くわけじゃないから難しいかもよ。どんな対策をして欲しいの? あんた」
「あの子の腰の回りにモザイク処理を施してくれと頼みたい」
「そりゃ無理じゃない。写真とかじゃないし、聞いたことないよ」
「だけど放っておけば絶対に何かが起きるよ。これだけは言っておく。あの小娘の丸い尻で、きっと誰かが命を落とすことになるだろう」
「あんた、そこまで言う?」
「あたしには分かるんだ。この病院で嫌というぐらいに沢山の人たちを見てきたから」
 そんな会話が聞こえてきそう。ああ、耐えられない。病院へ行くのは無理だ。自分で治すしかない。篠原麗子は悩み続けた。
 エッチな夢を見る原因のヒントを見つけたのは、加納先生の英語の授業中だった。
 席を立って古賀千秋が教科書を朗読していた。流暢な英語で、しっかり勉強しているのか窺えた。その前が手塚奈々の番で、英語なのか韓国語なのか分からないような読み方だったので尚更だ。
 麗子は教科書のセンテンスを目で追っていたが、突然だった、寝る前に飲むホットミルクのことが頭の中に浮かぶ。
 幼稚園の頃からの習慣だった。家族が三人になると、「いいね。オレも欲しいな」と言って義父も飲み始めた。今では義父が先に用意してくれて、それを二階の寝室まで持って行く。
 「あっ」思わず声が出た。何事かと古賀千秋が朗読をやめる。二年B組全員の視線が麗子に集まった。た、大変なことをした。
 「篠原さん、どうしたの?」と、加納先生の声。
「す、すいません。何でもありません」そう言葉を搾り出す。下を向く。恥かしくて顔を上げていられない。みんなの注意が早く授業に戻って欲しかった。
「大丈夫?」
「はい」顔を上げて加納先生を見ながら答えた。大きく頷いて安心させないと。
 しかし精神状態は大丈夫からは程遠かった。心臓はドキドキで、胸から飛び出しそう。
 睡眠薬。
 篠原麗子の頭の中にホットミルクの次に浮かんだ言葉がそれだ。認めたくないけど辻褄が合う。
 睡眠薬を混ぜたホットミルクを飲まされていたらしい。夜中に部屋に入ってきて、あの中年男は好き勝手に熟睡している自分の身体を弄っていたんだ。間違いない。きっとそうだ。
 卑劣。なんていやらしい。最低の人間がすることだ。いや、人間じゃない、あんな奴。
 そんな男に触られて、仕組まれたとは言え、気持ち良くなっていた自分が情けない。悔しくて涙が溢れ出た。下を向いて回りの生徒たちに悟られないようにしないと。身体が震えてくる。汚された身体から義父の手垢と指紋を取り除きたい。涙が膝の上に置いた手に落ちてきた。
 「篠原さん、これ使って」
「……」え?
 声を掛けてくれたのは隣に座る転校生の黒川くんだった。差し出されたのはポケット・ティッシュ。ありがたかった。頷いて受け取った。そのまま何も言わない優しさが嬉しかった。麗子は一人で静かに泣き続けた。
 英語の授業が終わると、すぐにトイレに向った。誰とも喋りたくない。一人でいたかった。また泣いた。休み時間が終わって教室へ戻った麗子は、もう自分が回りにいる生徒たちとは違う存在になった気がした。前みたいに一緒に喋って、ゲラゲラ笑うことは出来ない。あたしは汚れた女なんだから。すごく悲しかった。
 「篠原さん。もし何か悩みがあるなら、僕で良ければ相談に乗るよ」また黒川くんが声を掛けてくれた。
「うん」続く有難うと言う言葉は口から出てこなかった。でも感謝はしている。泣いているのを、みんなから隠してくれたから。
 義父から渡されたホットミルクは二度と飲まない。隠れて流しに捨てた。強い眠気は襲ってこなくなった。
 思った通りだ。夜中に義父は麗子の部屋に入ってきた。心臓が破裂するぐらにドキドキ。そして布団の中に手が差し込まれる。背中に触れた時、「いやっ」と声を上げて反対側へ逃げた。義父が手を引く。そのまま動きが止まった。驚いているらしい。
 静寂。
 窓の外からスクーターが通り過ぎる音が聞こえてきた。しばらくして義父は部屋から出て行った。
 朝だ。ほとんど麗子は寝ていない。これからどうなるの、とずっと考え続けた。今日は休みたい。窓から見下ろすと駐車場に義父の赤い軽自動車がなかった。恐る恐る、足音を立てないでリビングへ降りていく。義父はいつもより早く市役所へ出勤したと母親から聞かされた。少し、ホッとした。でも夜には顔を合わさなくてはならない。嫌だ、あんな奴と。母親に言うべきか。どう母親が反応するのか、それも怖かった。
 とにかく学校へ行くことにした。
 次々と否定的なことが思い浮かぶ。もうボーイフレンドができて楽しくデートすることも、結婚して幸せな家庭を築くことも不可能だ。ハゲで中年のデブに汚された女を誰が相手にしてくれる?
 母親に言ったとしても、あの卑劣な男はきっと否定するだろう。
証拠は何もないのだから。その後で、どんな仕返しをしてくるか分かったもんじゃない。怖い。母親から新築の家とグリーンのベンツを奪ってしまうかもしれない。
 誰かに相談したい。最初に頭に浮かんだのが加納先生だ。次に美術の安藤先生。二人ともタイプは違うが美人で優しい憧れの先生だった。
 安藤先生とは最近になって急に親しくなる。切っ掛けは、「篠原さん。あなた、美術部に入る気はない?」という誘いだ。
 え、あたしが? びっくり。どうして? 絵は下手で芸術のセンスなんか全くないと思っていたのに。
 「下手とか上手とかは別にいいのよ。あなたの絵には何かインスピレーションを感じるの。描いていて楽しく思えることが大切なんだから。どう? 美術部に入って一緒に楽しく絵を描いてみない」
 褒められて嬉しかった。「考えてみます」と答えたが気持ちは決まっていた。
 幼なじみの山田道子に誘われて映画同好会に入っていた篠原麗子だったが、何でも仕切りたがる五十嵐香月の性格が嫌で、集まりには行かなくなっていたのだ。 
 美術部に入って正解だった。安藤先生は優しくしてくれる。すごく気が合った。
 家庭のこと、将来の夢、趣味、好きな食べ物、とか色々と聞いてくれた。気に掛けてくれているのか分かった。そんな話の流れで、ある時、安藤先生は「あなたのお母さんの結婚する前の名前は何ていうの?」と訊いてきた。
 え、何で?
 違和感を覚えた。そんなこと訊く必要もないのにと思った。答えると安藤先生は驚いた様子を見せながらも、何も言わずに立ち去って行く。その後は麗子の生活に関して何も訊ねてこなくなる。不思議だった。
 美術部は絵を描くことよりも、コーヒーを飲みながら安藤先生と会話する方が楽しかった。何度か佐久間渚を誘った。そのうち彼女は映画同好会と美術部を掛け持ちするようになる。
 美術部の活動は麗子に家庭での嫌なことを忘れさせてくれた。家に帰りたくない、という気持ちすら芽生えていた。
 近ごろでは、母親と義父が言い争う声が二階の自分の部屋まで届く。
 「オレたち夫婦じゃなかったのか?」
「すごく疲れているの。何度も言わせないでよ」
「お前なあ。疲れている、疲れているって、もう一ヶ月にもなるじゃないか。一体いつになったら元気になるんだ」
「医者に行って診てもらうわ」
「何だと。まだ行っていなかったのか?」
「忙しかったのよ」
「ふざけんな。じゃあ、夜の仕事を辞めればいいだろう。贅沢しなければオレの給料で十分にやっていけるんだから」
「そう言うけど、これから色々とお金が掛かることが続くのよ。麗子の高校受験だってあるし。もし公立に受からなかったら私立よ。幾ら掛かるか分かったもんじゃない」
「だったらベンツを売れ。あんなモノ、家庭の主婦が乗るもんじゃない」
「イヤよ。あれは絶対に手放さないから」
 こんな調子だった。二人の言い争いが始まると、ステレオのボリュームを大きくして聞こえないようにした。でも、もし義父が母親に暴力を振るうことがあったらと気が気でなかった。
 数日後、麗子は用事があって昼休みに佐久間渚と一緒に美術室へ行く。コーヒーを御馳走になって教室へ戻ったが、授業が始まる直前になって気分が悪くなる。学校を早退した。
 家に近づいた時だ、玄関から母親と長身の若い男が出てきて、グリーンのベンツに乗り込むのを目撃してしまう。
 あ、パパだ。と最初は思った。写真で見る実の父親と似ていたからだ。しかし直ぐに違うと気づく。あれは自分が幼稚園の頃に撮られたはずだ。容姿がそのままとは考えられない。若過ぎる。母親と一緒だった男は知らない人だ。誰だろう。自宅に呼ぶなんて、よっぽど親しい仲に違いなかった。もしかして母親は浮気をしているの? その考えが麗子の頭を過ぎる。母親との距離感が更に遠くなった。

 義父の赤い軽自動車が玄関の横に停まっているのを見て、慌てて家路を逆戻りした日、麗子は美術の安藤先生に相談する気でいた。
こんな情況、もう一人では耐えられない。そんな思いだった。しかしどこを探しても見つからない。仕方なく街中をブラブラして時間を潰すしかないと考えた。校門を出たところで転校生の黒川くんと出会う。
 「どうした?」すぐに彼が心配そうに訊いてきた。よっぽど心の不安が顔に現れていたに違いない。
「……」でも何も言えない。
 返事を待っていたが麗子が答えられないでいるのを見て彼は言った。「ルピタのフード・コートへ行こう。一緒にジュースでも飲もうよ」
 その言葉に篠原麗子は首を縦に振った。うれしかった。
 安藤先生に相談したかったことを、すべて彼に話す。涙が止まらなかった。話すことで気持ちが少しづつ楽になっていく。そして彼は問題を解決する方法としてアドバイスをくれた。
 え、そんなことできない。
 とても無理だと思った。そんな勇気は自分にない。「分かった。考えておく」とだけ言って、ルピタのフード・コートを二人で出た。家に帰っても安全な時間になっていた。
 事情が変わる出来事が起きたのは数日後だ。
 幼なじみで近所に住む山田道子が泊まりに来てくれた時のことだった。義父は親睦会の旅行に行っていた。夕食を終えて、リビングで母親を交えて三人でデザートを食べていた。義父がいないと家は楽しい。そこで新居に合わせて買ったサンヨーの大型テレビが衝撃的なニュースを流す。
 再婚した妻の連れ子である義理の娘に、性的な虐待を繰り返していた父親が警察に逮捕されたという内容だった。麗子は身体が固まる思いだ。
 「酷いっ、酷すぎる。許せない、こんな奴は絶対に許せない」と声を張り上げて非難する山田道子。強く同意を求めていた。だけど麗子は弱々しく頷くことしか出来ない。早く次のニュースに変わって欲しいと願うだけだった。無意識に横目で母親の様子を窺う。
 えっ。
 麗子と同じように身を固くしているのだ。無表情でテレビを見つめている。デザートを乗せたスプーンは宙に浮いて止まったまま。山田道子の言葉に反応できない。娘の視線に気づくと何も言わずにリビングから出て行った。
 この瞬間、母親は自分の娘が義父から性的虐待を受けていることを知っているんだと確信した。頭のてっぺんから足の爪先へと百万ボルトの電流が一気に突き抜けた感じ。
 麗子もリビングから出て自分の部屋へと急いだ。そこで心の動揺が顔に現れなくなるまで待つ。少し落ち着くとリビングへ戻って、「どうしたの?」と訝る山田道子に、急に気分が悪くなったと言って帰ってもらう。一人になりたかった。
 悲しい。自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになって泣いた。
 どうしてっ、どうして? どうして、助けてくれないの? どうして、何もしてくれないの? 
 あたしよりも新築の家やグリーンのベンツの方が大切だったらしい。ずっと愛してきた母親は、そんな人間だったのか。ズタズタに傷ついた。もう絶対に回復しそうにない。麗子は心を閉ざした。
 これからどうしよう。これから、どう生きていけばいいのか。
 翌日から母親は罪の意識を感じたのか、びっくりするほと優しくなった。いつも声を掛けてくれて、何でも買ってくれようとする。だけど逆に、それが麗子の怒りに油を注ぐ。もう大嫌い。上辺だけの優しさだ。肝心なことを話そうともしない。ウヤムヤにする気らしい。決心した。あのアドバイスを実行するしかない。今ならできる。それだけの勇気があった。
 篠原麗子は計画を練り始めた。  

   18

 佐野隼人は悩んでいた。すべてが上手く行かない。サッカー部のキャプテンであったが、その務めすらどうでもよくなっていた。
 あいつの所為だ。それは強い霊感の所為で理解できた。しかし、どう対処すればいいのか分からなかった。
 霊感の強さを知ったのは小学校へ上がる前だ。山に囲まれた父親の実家へ行った時のこと。日が暮れてから祖母に連れられて何軒か先の家へ用事があって出かけた。帰り道だ、祖母は急に立ち止まって孫の手を強く握ると言った。
 「隼人」いつもの優しい声じゃなかった。
「なに、オバアちゃん」手を通して緊張感が伝わってくる。
「お前、あの人たちが見えるか?」
「うん」
 道路を境にして山沿いの片側は民家で反対側は田んぼが広がっていた。そこで、この暗さにも関わらず農作業をしている人たちがいるのだ。全く言葉を話さず黙々と仕事を続けている。声だけじゃなくて何の音も聞こえてこない。異様な雰囲気が漂う。
「見えるのか、お前?」と、念を押す祖母。
「うん、見えるよ。どうして?」
「そうか」がっかりしたような声だった。「お前な、あの人たちとは絶対に目を合わすな。もし話し掛けられても返事はするな」
「どうして?」
「なにも訊くな。ただババが言った通りにしろ。分かったか」
「うん。じゃあ−−」
「じゃあ、何だ?」何も訊くなと言ったばかりじゃないか、そう咎める響きが言葉にあった。
「オバアちゃんの横に立って、血を流している人とも話しちゃいけないんでしょう?」
「ひえっ」
 悲鳴に近い声を上げると、その場に祖母は腰を落としてしまう。慌てて立ち上がると孫の手を引っ張って逃げるように家に帰った。
 「この子は霊感が強い。あたしの比じゃないよ。まわりが気をつけてやらないとダメだ」
 両親に向かって、そう言ったのを覚えている。警告するような感じだ。その晩から祖母は体調を崩して床に伏す。亡くなったのは一週間後だった。
 霊感が強いのは災いの元らしい。「隼人。もし変な人たちが見えたら、すぐに言いなさい」両親は心配した。
 幸いにも、その後は異様な体験をすることはなくなった。祖母が絶対に目を合わすなと言った人たちを見る回数が、次第に少なくなっていく。霊感というのが自分から消えていく感じがした。
 去年の十二月、期末テストが終わって家で開放感に浸りながらネスカフェのゴールドブレンドを飲んでいる時だ。心臓を鷲づかみされるような感覚に襲われる。病気じゃない、すぐに霊感が蘇ったんだと分かった。これまでで最も強い。どうして? 今になって。
 その日から毎日、何か悪いことが近づいているという思いに悩まされることになる。訳が分からなかった。どうすればいいのかも分からない。ただ目の前に何かが現れるのを待つだけだった。
 気になって勉強が手につかない。成績は落ち始める。ぎくしゃくし始めた佐久間渚との仲も、なかなか元に戻らない。
 キスまでは早かったが、そこから先が進まなかった。肩から背中を触って、ゆっくり手を彼女の腰の方へ近づけると、「もう、やめて」と強く拒絶されてしまう。「いいじゃないか。もう少しだけ」そう頼んでも首を横に振るだけだった。
 何だよ、オレたち恋人同士じゃないのかよ。オレのことが嫌いになったのか。交換日記なんて面倒くさいことがやめたくなる。
 たまに板垣順平の奴が訊いてくる。「隼人、どこまでいった?」
「順調さ。オレは焦っていないから」と、誤魔化すしかなかった。反対に、「お前と香月はどこまでいったんだ?」と訊いてやる。するとその話は、そこで終わりになる。あいつら二人はキスまでいかないで別れたことが明らかだった。
 順平は相当な金を五十嵐香月に貢いだ。初めのころは、「デートに三万円も使ったぜ」と笑っていたが、そのうち何も言わなくなる。渚から聞いた話しだと、水玉のワンピースから始まって、スカートやシューズ、下着、更には生理用品まで買わされたらしい。中学生の交際レベルじゃなかった。奴は香月と親密な関係になりたくて、どんどん金を使ったのだ。隼人が「佐久間渚とキスしたぜ」と秘密を打ち明けたことが切っ掛けに違いない。つまり順平の奴は金の力で女をものにしようとしたのだ。バカな奴だ。
 金で自由になるような女は手塚奈々ぐらいなもんだろう。スタイルのいい長い脚だけが取柄で、頭の中は空っぽだから。佐久間渚にしても五十嵐香月にしても、そう簡単に身体を許すような女じゃなかった。
五十嵐香月は順平に多額の金を使わせておきながらキスもさせずに、一方的に理由も言わないで別れたんだから、ある意味で凄い女だ。
 いつかオレも渚に捨てられるんだろうか。そんな不安が頭を過ぎった。なんとかして交換日記を始めたばかりの、ときめいた頃に戻りたかった。金でものにするつもりはないが、何かプレゼントをして渚を喜ばせるべきかもしれない。そう気づいた。
 さて、どこで何を買おうか。
 佐久間渚の嬉しそうな顔を想像しながら、色々と頭の中で品物を選んでいた。ところが今は、そんなことを考える気持ちになれなかった。
 何か悪いことが近づいているという感覚は年が明けて、ますます強くなっていった。すべてが明らかになったのは三学期の初日だ。転校生。こいつが恐怖の原因だった。
 加納先生に連れられて二年B組の教室に入ってくるなりだ、隼人と目が合う。驚いたことに笑みすら浮かべて見せた。休み時間になると向こうから接してきた。
 「待たせたな」
「……」ど、どういう意味だ。
「オレが来たからには、お前は邪魔者だ。すぐに消えてもらうからな」
「お、おい、……なにを」
 こっちの返事を聞こうともしないで自分の席へ戻っていく。隼人は呆気に取られるだけだ。
 あいつは君津南中学に佐野隼人が通っていることを知っていたような口振りだった。会ったこともないのに。まったく理解できなかった。どうして、オレを敵視するんだ。
 佐野隼人はキリスト教徒だった。小学校の四年生ぐらいまでは、いつも日曜日のミサに行っていた。最近は足が遠のいて熱心な信者とは言えなかった。転校生から酷い言葉を浴びせられると、何だか知らないが無性に教会へ行きたくなった。
 日曜日、久しぶりにミサに出る。よかった。教会の荘厳な雰囲気の中に身を置くと、心が清められる思いがした。参列者全員で聖歌を歌うと、自分は神と共にあるんだという安心感を得られた。来週も来ようと決めた。
 月曜日、登校すると下駄箱のところで転校生が待ち構えていた。
 「お前が昨日どこへ行ったか知っているぞ」
「……」いきなり何だ。顔を見るのも嫌な奴なのに、朝から。すぐに教会のことを言っているのは理解できた。
「二度と行くな。わかったか」
「どうしてだ? お前には関係ないだろう」
「あるのさ」
「……え」ど、どういう意味だ。
「あの場所へ通うバカ者が近くにいると、オレの力が削がれてしまうんだ」
 それだけ言うと転校生は、その場から去って行く。佐野隼人は下駄箱の前に残された。耳にした今の言葉を頭の中で反芻する。二年B組の教室に入って自分の席に座っても考え続けた。
 あいつはオレが教会へ行くのを嫌がっている。つまりキリスト教が弱点なんだ。これで邪悪な存在であることがハッキリした。それなら懲らしめる為に毎日でも教会へ行ってやろうかという気になった 隼人は決心した。みんなの前に奴の正体を暴いてやろうじゃないか。−−あっ。
 うれしい。もう少しで声が口から出そうになった。その姿を目にしただけで気持ちが楽しくなる。開いた教室のドアの向こうに佐久間渚が見えたのだ。なんて可愛い女だろう。今日こそは優しい言葉を掛けてやろうと思う。彼女の横には五十嵐香月がいて、廊下で誰かと立ち話をしていた。山田道子かな? いや、違う。男子生徒らしい。黒い制服の一部が見えて分かった。少し不安になる。
 相手は誰なんだ。すごく気になっていく。それは渚の顔が嬉しそうな表情をしていたからだ。まるで恋人と喋っているみたいに見えた。不安が嫉妬心へと変わる。
 男子生徒の全身が見えたとき、佐野隼人は鋸山の展望台から背中を蹴られて突き落とされた気分になった。マ、……マジかよ。
 転校生の黒川拓磨だった。よりによって、あいつだ。あんな奴と何で楽しそうに喋っていられるんだ。
 渚の奴、オレからあいつに乗り換えようとしているのか? こっちが、せっかくプレゼントでもして喜ばせてやろうとしていたところなのに……。なんて女だ。
 もしかしたら自分の思い過ごしで、これからも佐久間渚は自分のガールフレンドでいてくれる。そんな心の片隅に僅かに残っていた期待が、彼女が次に取った行動で完全に打ち砕かれてしまう。
 手紙を、あいつに手渡したのだ。ラブレターに違いなかった。それも教室の横の廊下でだ。大胆過ぎるぜ。もう誰に見られても構わないってことらしい。畜生っ。オレにはラブレターなんかくれなかったのに。嫉妬心は憎しみへと変わった。ふざけた女だ。オレをコケにしやがって。絶対に許してやるもんか。自分の席に座りながら悶々とした気持ちだった。
 「佐野くん」
こんな時に呼ぶんじゃねえ、バカ野郎が。「……」声で小池和美だと分かったが無視した。
「ちょっと、佐野くんたら」
「何だよ」近くにこられて返事をするしかなかった。大柄な女で目立つのに、最近はレンズの大きな玩具みたいなメガネを掛けて余計に注目を集めてる。それ似合っていないから外したら、と誰か言ってやる奴がいないのかよ。 
 不思議なことに、そのメガネを掛け始めてから小池和美の態度が自信に溢れた感じに変わった。理解できない。本人はカッコいいとでも思っているらしい。
 「ボランティアの件だけど」
「それが?」
「どっちに行くか今日中に決めて知らせないといけないの」
「あ、そう」
 そんなことオレが知ったことかよ。委員長の古賀千秋と書記の小池和美、お前ら二人が勝手に決めたことだろう。高校受験で内申書を良くしたいが為だ。
「佐野くん、だから前に出てクラスの意見をまとめて」
「なんでオレが?」ふざけんな。オレは関係ないだろう。
「千秋が休みなのよ」
「……え」
「風邪らしいの」
「ウソだろ」冗談じゃない。今はそんな面倒なことをする気分じゃなかった。
「早く」
「お前がやってくれよ」
「いやよ。あたしは書記だもん」 
「じゃあ、明日でもいいだろう」
「ダメ。今日中に、って言ってるでしょう」
 この強情な女。言い出したら絶対に妥協しない。隼人が嫌がっているのを知っていて、心の中では面白がっているんだ。
「ちっ」佐野隼人は渋々だが立ち上がった。小池和美の声が大きくて周りの注目を集めていたからだ。早く終わらせて席に戻ろうと考えた。
「おい、佐野。ちょっと、いいかな?」
「何だ」教壇に立とうとしたところで、山岸涼太と相馬太郎の二人に呼び止められた。こいつらか、という思いだ。また何か、くだらないことをしようとしているのが、連中のニヤニヤした表情から明らかだ。
「アンケートの結果が出たんだ。発表させてくれ」と、相馬太郎。
 すぐに数人の男子生徒から声が上がる。そっちが先だ。山岸と相馬の話が聞きたい。そうだ、先にやらせろ。
 ここは引き下がるべきだと佐野隼人は判断した。「分かった。早くしろよ」そう言って自分の席に戻った。
 小柄な相馬太郎が山岸涼太を従えて教壇に立つ。右手に紙を持っていた。「前回の『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』は、当然ですが投票権は男子に限られました。それで今回は『AV女優になりそうな二年B組女子生徒』のアンケートを行って全員に協力してもらいました」
 相馬太郎は生徒全員の反応を確かめながら話す。得意げだ。こういう場面では輝いていた。
 「では発表します。第三位は篠原麗子さんでした」一斉に拍手が起きる。『ベスト・オナペット』では二位でしたが、今回は順位を一つ落としました。でもさすがですね。おめでとうございます」
 拍手は続いた。視線が篠原麗子に注がれる。本人は恥ずかしそうに下を向く。その顔が次第に赤くなっていくと、逆に拍手は大きくなった。おめでとう、という声も上がって、はやし立てた。
 「第二位は五十嵐香月さんです。ベスト・オナペット第三位から一つランクを上げました。映画鑑賞で演技に対する感性が身についていると判断されたのでしょう。おめでとうございます」
 同じように拍手が起きたが、本人は注がれる視線に軽く笑っただけだった。
 「第一位は−−」と相馬太郎が言い出すと、大きな拍手と共にクラス全員の視線が手塚奈々に集まった。「そうです。手塚奈々さんです。『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』に続いての連覇を達成しました。おめでとうございます。みなさん、盛大な拍手をお願いします」
 相馬太郎の言葉に応えて手塚奈々が席を立つ。両手を挙げて勝利の喜びを表現した。「ありがとうございます。AVデビューしましたら、ぜひ応援して下さい」そして挙げた手を頭の後ろで交差させると身体を捻ってセクシーポーズを取って見せた。
 それが男子に受けて拍手が大きくなった。会釈して彼女が席に腰を下ろすまで続く。どんなに冷やかしても手塚奈々は期待を裏切らない。軽率な女に扱われて嫌がるどころか、反対に調子を合わせておどけて見せるので男子から絶大な人気があった。
 しかし今回のアンケートの結果発表は前回ほどの盛り上がりはなかった。ランキングに入る女子生徒に代わり映えがなかったからだろう。三度目は無いなと思った。相馬太郎と山岸涼太から、終わったと合図を送られてオバア佐野隼人は席を立って教壇へと進んだ。
 「ボランティアの件なんだ」その一言で教室は静まり返った。まったく関心がないという証拠だ。隼人は続けた。「南子安にある老人ホームか坂田の福祉施設のどっちへ行くか決めたいと思います。これから票決を取りますから手を上げてください」
 ……。 
 何の反応もない。山田道子が隣に座っている奥村真由美に話し掛けるのが見えた。ボランティのことで何か言うのかと思ったら、英語の宿題どこまでだった、という声が聞こえてきた。隼人は一気に進めて早く終わりにしようという気持ちを強くした。「老人ホームでいいと思う人?」
 誰も手を上げない。どころか誰も、こっちを見ていない。嫌な予感が脳裏に走った。「じゃあ、坂田の福祉施設?」
 ……。
 やはり誰も手を上げなかった。完全に無視されていた。畜生、古賀千秋の奴が休んだりするから……。「おい、どっちかに決めなきゃならないんだ」言葉に怒りが滲んでしまう。「どっちかに手を上げてくれないと困るだろう」
 ……。
 教室は静かなままだ。これは大変なことになった。きっと長引きそうだ。佐野隼人に対して残りのクラス全員が対峙するという図式が教室に出来上がった。どうやって連中を説得させて、どっちに行くか決めさせるか。この状況から早く脱出したかった。 
 「ちょっと、いいかな?」やっと誰かが反応してくれたかと思ったら、それは黒川拓磨だった。
「何だよ。お前は関係ない」反射的に喧嘩腰の言葉が口から出てきた。心の中では、お前が転校してくる前に決まったことなんだよ、口出ししないで大人しく座っていろ、と怒鳴っていた。オレの彼女だった佐久間渚を横取りした憎い奴だ。
「そんなことはないと思うな。オレだって二年B組の生徒の一人なんだぜ」
 確かにその通りだ。苦々しい思いで隼人は応えた。「じゃあ、何だよ。言ってみろ」
「どちらにも行かないという選択肢はないのかな?」
「ふ、ふざけんな。どっちかに行くってことは決まってるんだよ」
「そう言うけど、みんなは行きたくないみたいだぜ」
「……」何も言えなかった。クラスの全員が興味深く二人のやり取りを見守る。佐野隼人は明らかに劣勢に立たされていた。教室の空気が張り詰めて時間だけが流れた。
 静寂。
 小池和美が立ち上がった。「黒川くんの言う通りだわ。どちらにも行かないという選択肢もあっていいと思う」
 隼人は自分の耳を疑った。こっ、このやろう。なんて女だろう。どっちかに決めろ、と指示を出したのはお前じゃないのか。全身が怒りで震えた。「おい、小池。お前と古賀の二人が勝手にボランティア活動を−−」ことの経緯を明らかにしようとしたが、最後まで言わせてもらえない。
「そんなことは、もうどうでもいいの。どちらにも行かないという選択肢も加えて、全員の意見を聞くべきよ。ねえ、みんな」
 そうだ、そうだ、そうだ、という声があちこちから上がった。佐野隼人は一人、悪者にされた気分だ。無意識に親友の板垣順平の方を見て助けを求めた。ところがだ、奴は顔を下に向けて無関心を装っていた。いつもだったら、みんなに手を上げろよ、とか助け舟を出してくれてるはずなのに。今の奴の態度が信じられない。もはや孤立無援だった。「……じゃあ、どちらにも行きたくないと思う人は?」黒川拓磨の意見に従うしかなかった。当たり前だが、か細い声になっていた。
 ほぼ全員が手を上げた。それを見て佐野隼人は黙って自分の席に戻った。
 なんてこった。最悪の月曜日の朝だ。今日一日、誰とも話したくない。そう思った佐野隼人に声を掛けてきた女子生徒がいた。佐久間渚だった。
 「佐野くん、これ」
 オレを裏切った女だ。その手には交換日記帳を持っていて、差し出す。ムッときた。黒川拓磨にはラブレターで、オレにはこんな面倒くさいモノを持ってくるのかよ。もう続けていられるか、馬鹿野郎。怒りが爆発した。「うるせえっ」佐野隼人は彼女の手から交換日記帳を引ったくるように奪うと、思いっきり床に叩きつけた。
 教室が静まり返った。
 どうした? 何があった? 離れたところに席があって事情を知らない連中から声が上がる。
 佐野くんが渚に怒鳴ったのよ。渚のノートを床に投げつけたわ。問い掛けに答える声も聞こえてきた。二人が付き合っていることは周知の事実だった。二年B組において大スキャンダルと言ってもいい。もし君津南中学校で女性週刊誌が刊行されていたら、次号の表紙を飾る言葉はこれで決まりだろう。『二年B組の佐野隼人と佐久間渚が破局。本誌だけが知る赤裸々な事実』だ。そしてメディアの取材攻勢が始まるのだ。
 佐野さん、今のお気持ちは? 去年ですが二人だけになった放課後の教室でキスまでいったというのは事実ですか? もし傷心の彼女に声を掛けるとしたら、どんな言葉が浮かびますか? 別れた理由の一つに新たな男子生徒の存在があると聞きましたが本当なんですか? 佐久間渚が妊娠しているという噂がありますが、それについて一言お願いします。彼女のパンティとかブラジャーが頻繁に盗まれていますが、破局と関係がありますか? 
 ふざけんな。絶対に誰にも何も喋ってやるもんか。そして佐久間渚が静かに床に落ちた交換日記帳を拾って自分の席に戻っていくのが音で分かった。
 可哀想なことをしたな、という思いはなかった。ざまあみろとしか思わなかった。
 渚、大丈夫? と問いかける五十嵐香月の声が教室の後ろから聞こえてきた。それに続いて、佐野くんて酷い、という誰かの言葉が耳に届く。女の子に八つ当たりするなんて最低じゃない? 佐野くんて男らしくない。非難の言葉が二年B組の教室に飛び交う。
 佐野隼人は自分の席に座ったまま、何一つ身動きできない状況に追い込まれてしまう。何もかもがイヤになった。このまま家に帰りたい。仮病を使って早退しようか。
 しばらくして、ほとぼりが冷めたころを見計らって、顔を上げて正面を向いた。目だけで回りを見ると、ほとんどが佐野隼人と顔を合わそうとしていなかった。……たった二人を除いて。
 一人は黒川拓磨で、薄笑いを浮かべたので直ぐに目を逸らした。オレがこんな目になって愉快なのが明らかだ。畜生。いつか殺してやるからな、覚えていろ。もう一人は意外なことに、根暗の秋山聡史だった。こっちを見てニヤニヤした表情をしていた。何やってんだ、馬鹿野郎。こいつには睨みつけてやった。


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