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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第3回 15 - 16 A
   15

 秋山聡史は佐久間渚が挨拶してくれたことで、この上なく幸せな気分だった。あの子より可愛い女の子は世界に存在しない。いつの日がガールフレンドになってもらいたい。彼女に相応しいのはサッカー部の佐野隼人なんかじゃない、このオレなんだ。
 恋に落ちたのは中学一年の二学期で、席は隣同士だった。英語の授業が始まる前の休み時間だ。渚の「単語、調べてきた?」という一言で、宿題を忘れたことに聡史は気づく。ちぇっ。仕方ない、また叱られるんだと覚悟した。ところが彼女が、「あたしのノートを写してもいいよ」と助けてくれたのだ。
 女の子から、いや誰からもそんな親切を受けたことがなかった。
ノートは数分で写し終えたが、隣の席に座る佐久間渚の存在は依然とは全く別のモノとなった。
 確かに可愛い子だ。そういう女は特にオレに対して冷たく当たるのが常だった。だけど佐久間渚は違った。こんなに優しい妖精のような女の子の隣に座っていたんだ。まったく気づかなかったオレはバカか。
 本当に可愛い。毎日、オレに挨拶してくれる。学校へ行くのが楽しくなった。日増しに彼女への思いが強くなっていく。
 仲良くなりたい。だけど、どうアプローチすればいいのか分からなかった。出来ることは朝の挨拶ぐらいで、それも軽く会釈するだけだった。帰りの「さようなら」なんか声に出して言えない。佐久間渚が言ってくれた時に頭を下げて教室から出て行くだけだ。
 好きだ、大好きだ。仲良くなりたい。でも、どうすればいいのか分からない。
 土曜日、日曜日はもちろん、普段の日でも時々は彼女の家の周りを自転車で走った。遠くから家の様子を双眼鏡で観察もする。公園があって、そこが高台で絶好の場所になっていた。家から出てきた彼女の写真を撮ったりした。もはや佐久間渚が趣味と言ってもいいくらいになっていく。カメラは鶴岡政勝が新しいのを買ったので、古いのを安く譲ってもらう。
 なんとかして彼女に近づきたい。そう思い詰めてアイデアが浮かぶ。そうだ、自転車にパンクの細工をしよう。
 気に食わない板垣順平に仕掛けて上手くいった。いつもオレを馬鹿にしやがる。鶴岡も試合のことで、奴には頭にきていたらしい。二人で野郎の自転車に穴を開けて下校途中に転倒させた。怪我をして次の試合には出られなかった。自転車は壊れて徒歩での通学になった。いい気味だ。死んでもよかったのに。
 その週の土曜日に佐久間渚が赤い自転車に乗るのをずっと外で待ち続けた。今にも雨が降り出しそうな曇りの日で、そんなに期待はしていなかった。家の玄関に注意を払いながら、する事と言えばマイルドセブンを吸うだけだ。でも長く待った甲斐はあった。出掛けてくれたのは午後三時過ぎで、秋山聡史は気づかれないように後を付けた。行き先はルピタだった。渚が駐輪スペースに自転車を停めて店内に入って行くのを確認してから行動開始。聡史は隣に自分の自転車を停めると、しゃがんで横にある彼女の後輪タイヤに針を刺した。
 板垣の場合は前輪をパンクをさせてハンドルを利かなくさせた。佐久間渚には怪我をさせたくない。後輪なら大事に至ることはないはずだ。
 穴には小さくカットした黒いガムテープを貼り付けて、すぐに空気が抜けないように細工する。仕事が完了すると、その場から離れた。物陰に隠れて佐久間渚が店から出てくるのを待つ。買い物を終えた彼女が自転車に乗って家に帰るのを、距離を保ちながら追いかけた。
 渚がパンクに気づいて自転車から降りるのに五分と掛からなかった。作戦大成功。すぐにも助けに行きたい気持ちを秋山聡史は抑えて、三分してから偶然を装いながら憧れの佐久間渚に近づく。
 「あっ、秋山くん」
「どうしたの?」自転車を降りて聡史は訊いた。
「パンクしちゃったみたいなの。どうしよう、困ったわ。早く帰らないとアイスクリームが溶けちゃう」 
「見せてみな。直せるかもしれない」
「え、本当?」
「うん」
 赤い自転車の後輪を調べる振りをしながら貼り付けた黒いガムテープを探す。穴の位置をバルブからの距離で頭に入れる。佐久間渚の目の前でタイヤレバー、ゴムのり、パッチ、紙やすり、携帯の空気入れ、それら全てを路上に広げた。
 「いつも修理の道具を持って自転車に乗っているの?」
「そうだよ。いつパンクするか分からないから」ふん、そんなの嘘だよ。今日だけ特別さ。
「へえ。どう? 直せそう」
「やってみないと分からないな」直せるに決まってら。穴の位置は分かっているし。だって針を刺したのは、このオレなんだから。
「お願い」
「ああ」ひゃーっ。憧れの佐久間渚から頼られているって最高の気分。もう死んでもいいぜ。
 タイヤレバーを使ってチューブを取り出すと、はっきりと穴の位置が見えた。これなら簡単だ、空気を入れて探す必要もない。その部分を紙やすりで擦り始めた。すると突然−−。
 「秋山くんて凄い」佐久間渚から賞賛の声。
「……」口が痙攣して返事が出来ない。無表情を装いながら穴の部分にゴムのりを薄く塗りつけたが、気持ちはマッハのスピードで大気園外へと飛び上がった。
 ひょっとして次に『あたしの家で一緒にアイスクリームを食べない?』なんて言葉が聞こえてきたりして。聡史の期待は膨らむ。
 彼女の家に上がれば、きっと両親は大切な娘の窮地を救ったクラスメイトを大歓迎してくれるはずだ。VIP待遇は間違いない。母親は『良かったら夕飯を食べてって』と言ってくるだろう。ご馳走を振る舞ってもらった後は彼女の部屋でビデオ鑑賞といこうか。
 『ローマの休日』なんかを二人でソファに並んで見たら感激だ。グレゴリー・ペックの姿がオレとダブって彼女の目に見えてきたりして。そしたら帰り際に玄関の外に出たところで、両親に聞かれないように声をひそめて『秋山くん、あたしと付き合ってくれない』と交際を迫られちゃうかも。答えは決まっている、『いいよ。オレでよかったら』だ。だけど、ここは男として何も言わずにキスで応じるべきじゃないのか。映画のシーンみたいにな。きっと佐久間渚は驚く。秋山くんで見かけによらず大胆で男らしいと。
 聡史は自分の想像に酔った。初めてのキスだけど、上手く出来るんだろうか。すごく不安だ。ああ、でも楽しい。ずっとこうしていたかった。でも手早くパンクを直してカッコいいところを見せないと。チューブをタイヤの中に戻して後輪に空気を入れると、言いたくない言葉を口にした。「直ったよ」
「うわー。ありがとう、秋山くん。助かった」
「うん」さあ、アイスクリームのお誘いをお願いします。
「本当にありがとう。あたし、悪いけど急いでいるんだ。買ったアイスクリームが溶けちゃう。だから早く家に帰らないと。また月曜日に会おうね。じゃあ、さようなら。ありがとう、秋山くん」そう言い残して佐久間渚は走り去った。お誘いはない。振り返りもしなかった。ちぇっ。
 すっげえ、がっかり。
 一人になった聡史は路上に散らばったパンク修理の道具を見つめるだけだ。集めてケースに入れる気にならない。このまま捨てて帰ってしまおうか。 
 宇宙まで舞い上がっていた気持ちは、イチローのバットにジャストミートされたかの様に地球に逆戻り、そのまま地面に叩きつけられた。天国から奈落の底。今の、あの幸せに満ちた気分は何だったの? あの期待に満ちた想像は何だった? ああ、虚しい。
 額に雨粒が当たった。雨が降り始めて、やっと体が動く。道具を拾い集めて自転車に跨った。本降りになりそうな気配だ。走りながら色々と考えた。一緒にいられて楽しかった。さて、これからどうしよう。どうにかして自分を好きになってほしい。ペダルを強く踏んでスピードを上げると少しづつ前向きな気持ちになれた。  
 よし、分かった。パンク修理だけでは足りないのだ。何かもっと凄いことで彼女に強い印象を与えないとダメだ。すると思いつくのは火事から彼女を救い出す場面だった。
 秋山聡史の趣味にもう一つ、火遊びというのがあった。小学三年の時に、父親がゴキブリをティッシュで捕まえると、「聡史、面白いモノを見せてやろう」と言って、それに火をつけたのだ。丸めたティッシュが燃え上がると、焼き殺されるゴキブリのキィーという呻き声が中から聞こえた。見ていて異常な興奮を覚えた。メラメラとティッシュが燃えていく様にも我を忘れた。
 自分でもやってみたい。それからはライターを使って色々なモノを燃やした。紙、木材、衣服、ブラスチック等だ。何度かボヤ騒ぎを起こして、その度に酷く叱られた。父親は何かあると皮のベルトで叩いて言う事を聞かせようとする。でも止めなかった。隠れて続けた。こんな楽しいこと止められるもんか。
 火をつけて燃やすことで気分は高揚した。自分が支配者になったような気になれた。そして、どう関係しているのか分からないが夜尿症が治った。それまでは、また布団を濡らすのではないかと寝るのが怖いほどだった。見つかれば父親の皮のベルトが待っている。あのバカは強く叩けば夜尿症が治ると信じているようで、一撃一撃と、どんどん力が増していく。母親は助けてくれるどころか完全に無視だ。横でテレビの芸能ニュースを夢中で見ていた。聡史は痛みで学校へ行けないことが何度もあった。そういう日は満足に食事もさせてもらえない。
 度々、両親は夜に息子の夜尿症を持ち出しては夫婦喧嘩をおっ始める。
 「いいか。こんな尻癖の悪いガキになったのは、お前の育て方が悪かったからだ」と酒に酔った父親が言う。
「冗談じゃないよ。聡史がバカなのは、あんたんところの遺伝に決まってるさ」
「何だと」
「そうだろ。あんたの父親はサラ金の借金で首が回らなくなって蒸発だし、母親は医者も見放すほどのアル中じゃないか」
「それは関係がない」
「あるさ。金に溺れた父親と酒に溺れた母親の因果が聡史なんだ」
「ふざけるなっ」
「ふざけちゃいないよ。大体あんたんとこの家族って異常じゃないかしら。妹にしたって風俗でしか働いたことのないバカ女だしさ」
「うるせい」
「恥かしくて、あたしは親に本当のことが言えない」
「もう黙れ」
「もし誰かにバレたらどうしようって、いつも心配している、あたしの身にもなってよ」
「この野郎っ」この言葉で父親は母親に平手打ちを食らわす。
「あ、殴ったな。畜生」叩かれて怯む母親じゃない。灰皿を持って立ち向かう。
 二人が取っ組み合いの喧嘩を始めて間もなくだ、「聡史、外で遊んで来い」という声が聞こえてくる。寒い夜であろうが、雪や雨が降っていようが家を出て行かなければならない。尻癖の悪い息子がいなくなると夫婦喧嘩はセックスへと昇華するのだ。聡史は近くの公園で一時間ぐらい過ごす。恥かしくて家の近くにはいられない。母親の喘ぎ声が嫌でも耳に届くからだ。
 こんな時間に自分たちの都合で子供を外に追い出す親が他にいるか。狭い借家なんだからセックスしたければ時間を選ぶとか、場所を変えてヤってくれ。両親に対する怒りは強い憎しみになり、いつか奴らをテッシュ・ペーパーに包んで焼き殺せたらいいなと思うようになっていく。
 普段の火遊びでは様々なモノを燃やしていくうちに、お気に入りが決まる。紙とマッチ棒を組み合わせて作った家の模型だ。平日に作成して、週末に貞元グランドの人気のない場所へ行って火をつける。
家の構造を複雑にすると燃え方もリアリティが増して面白い。設計にもこだわるようになった。次第に人が住んでいる民家を燃やしてみたくなる。
 だけど、これは火遊びじゃなくて完全に犯罪行為だ。警察には捕まりたくない。やりたい事はやりたいが、そこまでの勇気と決断は持てなかった。
 佐久間渚の家に放火して彼女を救い出す。
 いや、これはどう考えても問題外だ。自分がヒーローになるには最高の場面になるかもしれないが、彼女は住む家を失う。洋風のモダンな造りで燃やすにはもったいない。また、新しく住むところが近くとも限らない。転校して行く可能性が高い。これはマズい。ダメだ。
 じゃあ、どういう方法で彼女と親密になる切っ掛けを作ればいいのか。色々と考えたがパンク修理みたいにいいアイデアは浮かばなかった。難しい。ああ、もどかしい。どんどん佐久間渚への思いはエスカレートしていく。
 そんな時だ、衝撃的なニュースが教室で聡史の耳に届く。憧れの佐久間渚がサッカー部のキャプテンである佐野隼人と交換日記を始めたというのだ。
 何だと! 畜生っ、ふざけやがって。オレの女を横取りしやがった。てめえの家を燃やしてやろうか、このヤロー。よし、これで決まりだ。最初に放火するのは佐野隼人、お前の家だ。君津南中学から追い出してやるぜ。
 いつ、どうやってやるか計画を練り始めた。こんなことで警察には捕まりたくはない。いつか佐久間渚と恋人同士になるという将来が台無しなってしまう。慎重に考え続けた。学校では何度か佐野のバカが渚にピンク色のノートを渡すところを見せられた。もはや他人の目を憚ることもしない。お前ら公然の仲か、畜生。無性に腹が立った。
 渚も渚だ。パンクを直してやったオレを差し置いて、あんなバカと付き合い始めやがって。恩を仇で返すとはこういうことを言うんだ。いいか、交換日記までだぞ。キスはするな。キスは絶対に許さん。佐久間渚の身体には指一本触れさせたくない。聡史の悶々とした日々は続いた。
 いいアイデアというのはは平穏な時より逆境から生まれてくるらしい。いきなり閃いた。交換日記よりも、もっと佐久間渚と親密になれる方法を思いつく。下着を盗むことだ。
 彼女の家を観察していて、可愛らしいパンティとブラジャーが干してあるのを何度か見た。きっと渚のだ、と思った。
 佐野隼人には負けたくない。お前は交換日記までだが、オレは渚の下着を持っているんだという優越感が欲しかった。
 最初はハートがプリントしてある白いパンティを盗んだ。家に帰って誰もいないことを確かめてから机の上に広げた。物凄い興奮を覚えた。これを佐久間渚は穿いていたんだ。なんて愛おしい。手にとって頬ずりした。匂いを嗅ぐ。洗剤の臭いが強いが、微かに佐久間渚の匂いもしないでもない。嬉しかった。これは宝物だ。その後はパンティとブラジャーを一枚づつ盗んだ。大切なコレクションにした。
 家では厳重に保管しなければならない。父親に見つかれば、『どっから盗んできやがった、こんなモノ』と、怒鳴られて皮のベルトで叩かれる。母親に見つかれば取り上げられて、あの女のことだから自分で穿いてしまうかもしれない。冗談じゃない。あいつの汚いケツに使われたんじゃ、たまったもんじゃないぜ。
 あの女ときたら隣りの4号室から出て行ったババアになりすまして、二つ目の再春館のドモホルンリンクルの無料お試しセットをせしめたことがあった。呆れるぜ。そこまでするかよ。欲しかったら買え。その後も何度か4号室の郵便受けから小包を取り出す母親の姿を見た。
 佐久間渚の下着は自分しか分からない場所に隠した。家で一人になれた時は必ず机の上に広げた。頬ずりして匂いを嗅ぐのは必ずやる。これを身につけている佐久間渚の姿を想像しては股間を硬くした。
 ある日のことだ、ブラジャーとパンティを眺めていて思いつく。
秋山聡史は自分の衣服を脱いで全裸になると、佐久間渚の下着を手に取って身につけてみた。隣の部屋にある母親の鏡台の前に立つ。          
 「うわっ」誰もいない部屋で声が出てしまう。
 しばらく動けない。憧れ女性の下着を身につけた自分の姿にうっとり。似合っている。サイズはぴったりだし、これはもう間違いない。渚とオレは結ばれる運命じゃないのか。すごく嬉しい。もう脱ぐ気がしなかった。そのまま聡史は上からユニクロの白いポロシャツを着て、アディダスの紺色のジャージを穿いた。心地いい。大好きな女と一体になれた気がした。こんな幸せな気分は今までになかった。よし、明日はこれを着たまま学校へ行こう、そう決心した。
 佐久間渚の隣りに座って授業を受けながら、『オレ、今日はキミのブラジャーとパンティを身につけているんだぜ』と、心の中で何度も繰り返した。最高の一日だった。ときどきこうして学校に来ようと決めた。ところが、だ。
 B組にはゴロツキというか、居ない方が良かったと思えるバカ連中がいる。山崎涼太と関口貴久、それに相馬太郎と前田良文の四人だ。教室でバカ騒ぎを起こす。くだらない冗談を言って笑わせようとするが全く受けない。最近やったパフォーマンスは、『二年B組でAV女優として成功しそうな女子ランキング』だった。バカらしい。大人しくしているなら許せるが、四人が集まって騒ぐから迷惑は甚だしい。だから無視してきた。しかしそうできない事態になった。
 非常に不愉快なことだが秋山聡史と相馬太郎は背丈が似ていた。髪形も同じようで、何度が間違われたことがあった。それが、たまたま佐久間渚の下着を身につけて登校した日に起きてしまう。 
 聡史が廊下を歩いていた時だった、後ろから関口貴久に抱きつかれた。仲間の相馬太郎が目の前にいると勘違いしたらしい。くすぐってやろうとしたのだろう、奴の汚い手が聡史の学生服の中へと侵入した。
 やばいっ、と思った時にはもう遅い。廊下に倒れ込むだけで逃れる隙もなかった。「やめろっ」聡は怒鳴った。それでもバカは人違いだと分からない。奴の手は背中を伝わってブラジャーのホックに辿り着く。違和感を覚えたのに違いない、それが何なのか確かめるように奴の指先が動く。そして静止。すっと手が引っ込められた。
 関口貴久は体を離して、くすぐろうとした男子生徒が誰なのか確認するように聡史を見た。その顔に驚いた表情が浮かぶ。やっと人違いだと分かったのか。そして何も言わずに立ち去った。
 どうする? 授業中ずっと秋山聡史は今後の対策を考え続けた。関口のバカはオレがブラジャーをしていたことに気づいたはずだ。だけど、その場でみんなに言いふらさなかった。奴らしくもない。何事もなかったことにして忘れてくれるのか。いや、それは無いと思う。すぐに聡史はトイレに駆け込んで、着ていたブラジャーを脱いだ。これで後から言いふらされても、そんなことはないと否定できる。黙っていろと自分から言うのもやめた。あの時はブラジャーをしていましたと認めてしまうようなものじゃないか。そんなバカじゃないぜ、オレは。  
 「おい、秋山。話がある」
 やっぱりだ。下校しようと教室から出て行くところで、関口貴久に呼び止められた。大人しく廊下の隅まで付いていった。近くに他の生徒はいない。二人だけだ。奴は切り出した。「お前、ブラジャーをしてただろう?」
「……」聡史は否定も肯定もしない。
「ブラジャーをしてたな? お前」
「……」言い方を変えても同じだ。バカと話すつもりはない。何を企んでいるのか知りたいから来ただけだ。
「まあ、いいさ。このことは、お前の為に黙っててやろうと思う」
「……」で、その代わりに何を要求する気だ、このバカが。
「それでだ、今週中に三万円を持って来い。そしたら永久に忘れてやる」
「……」そんなこと信じられるか、このバカ野郎。
「分かったか」
「……」
「おい、何とか言え」
「……」
「今週中に三万円を持って来ないと、クラスのみんなにバラすことになるからな。いいな」何も言ってこないのに不安を感じたのか、口調は荒くなった。
「……」聡史は沈黙を貫き通す。頷きもしない。そして踵を返して廊下を階段の方向へと歩き出した。
「忘れんなよ、秋山」
 関口貴久の最後の言葉は背中に浴びた。ふん、三万円だと、このクソ野郎。ふざけんな。持って来たら永久に忘れてやるだと? バカ野郎、そんな言葉をオレが信じるか。上手く行ったら何度でも金を要求してくるに決まってら。よくもオレから金をふんだくろうなんて考えられたな。その代償は高くつくぞ。お前の家が燃えるんだからな。犯罪だろうが関係ない。お前の家に火をつけて恐怖を味あわせてやろうじゃないか。
 佐野隼人の家に放火する計画をそのまま関口貴久の家に変更してやった。恐喝を受けた日の二日後、三万円を持って来いと言われた期限の一日前。その夜に計画を実行に移した。初めての放火だ。
 家の三箇所に灯油を撒いてライターで火をつけた。ボヤで終わらせない為だ。上手く行けば火が火を呼んで一気に家を炎で包む。これは本を読んで知った。
 火をつけた後、聡史は急いで現場を離れた。あまりの明るさにたじろぐ。やばい。これでは簡単に見つかってしまう。近くに停めた自転車まで走り、急いで跨った。ペダルを踏み始めて間もなくだ、けたたましいサイレンの音が夜空に響いた。ちょっと早過ぎるぞ。もしかしたら失敗だったかもしれない。チクショー。通り掛りを装いながら、ゆっくり現場に戻った。
 あ、いい感じに燃えている。こりゃ、悪くないぜ。
 すでに家の周りに人だかりが出来ていた。炎が上がって、遠くにいても熱が伝わってくる。聡史は自転車を電柱にワイヤー・ロックで固定すると、歩いて野次馬の中に入って最前列へと進む。特等席は当然の権利だろう。だって火をつけたのは、このオレ様なんだから。      
 あれ、余計なことをしやがって。
 近所の人たちだろう。バケツに水を汲んで一生懸命に火を消そうとしていた。バカ野郎、せっかくの全焼モードを台無しにするんじゃねえ。負けるなよ、火。
 しかし反面、慌てふためく大人たちを見て愉快に感じた。自分が放った火によって町内に大混乱をもたらしたのだ。オレは全能の神か。
 「すっげえ火事だな」
「こんなの初めてだ」
「一気に燃え上がったぜ」
 人だかりのあちこちで賞賛の声が上がる。気分がいい。『凄いでしょう。オレがやりました。初めてだったけど、なかなか上手く行ったと思います。みなさん、どうぞ楽しんで下さい』人だかりの前に出て、そう挨拶したいくらいだ。きっと拍手が沸き起こるに違いなかった。
 サイレンの音と共に消防車が着いた。防火服を着た消防士が素早く降りてきて、「危険ですから退いてください」と言いながら野次馬連中を強引に後ろへ下がらせる。そして何人かで黄色いテープ張っていく。ここから前へ入るなということか。ちょっと遅れてパトカーも到着。数人の警察官とツナギ服を着た男たちが降りてきた。記念撮影でもするのか、大きなカメラを持った奴もいた。
 『おい、大人たち。いいか、この火事の演出者はオレなんだぞ。退けとは失礼じゃないか』そう言いたいところを我慢して秋山聡史は指示に従う。
 と、その時だ。場所を移動する動きの中で自分と同じ中学生ぐらいの奴の姿を認めた。誰だろう? 見覚えが−−あっ、やっぱり関口の野郎じゃないか。ラッキー。
 そっと近づく。ふっ、思わず噴出しそうになった。バカはポケモンの黄色い寝巻き姿だった。袖のところが少し黒く焦げてる。中学にもなって、アニメ・キャラに執着か。サンダルは片方だけ、それも大人のサイズだ。大事そうに猿の縫いぐるみを抱えてる。まだガキか、お前は。寝癖か、それとも燃えたからか、髪の毛はクシャクシャ。まるでホームレスみたいじゃないか。辛うじて火事から逃げてきたって感じがありありだった。笑いを堪えて後ろから声を掛けた。「おい、関口」
 奴が振り向く。「……」放心状態だ。口は開いているが言葉が出てこない。よく見ると唇が震えていた。この前とは逆だ、オレが喋る番だな。
 「なあ。明日、いくら学校に持ってくればいいんだっけか? あっはは」ついでに滅多に人に見せない秋山聡史様の笑顔を拝ませてやった。
 この後は二度と関口貴久の姿を見ることはなかった。祖父がいる九州へと引っ越してしまった。
 ああ、でも火事は最高だった。あの燃え方、あの熱気、あの家が崩壊していく様、観衆の期待と興奮、すべてが素晴らしかった。またやりたい。やっぱり次は佐野隼人の家しかない。この君津からクソ野郎を追い出したい。九州でも、どこでもいい。佐久間渚の前から消えてくれ。あの女はオレのモノなんだ。その証拠に下着のサイズがぴったり一緒だろう。いずれオレたちは恋人同士になるんだ。
 それにしてもだ、気に入らないのは彼女が五十嵐香月と山田道子の二人と仲良しだっていう事実だ。ぜんぜん佐久間渚に相応しくない。
 五十嵐香月なんていう女は最も嫌いなタイプだ。お高くとまりやがって、お前は何様のつもりだ。いつだってオレのことを無視しやがる。いつか家が燃えても知らねえぞ。この女の性格の悪さが渚に伝染しないか不安で仕方ない。
 山田道子を一言で表すとすれば、それは『普通』という言葉しか見当たらない。美人であるわけではなく、また可愛いという形容詞は相応しくない。まあ、ブスでもなかった。全く印象のない女。記憶に残らない女。その他大勢の中の一人。居なくなっても誰もにも気づかれない女。究極の『普通』だ。
 どんなに高価な服を身につけても、安っぽい着こなししか出来ない女。いつも野暮ったい雰囲気を漂わせている。似合うのは、しまむらのバーゲン品かDマートのワゴン・セールで買った服だけだろう。
 もし誰かから『山田道子って、どんな女?』と訊かれたら、もちろん、『普通な女』としか答えられない。『それじゃあ、よく分からない』と言われたところで出てくる答えが、『足の臭そうな女』だった。実際に嗅いだわけではないが、そんな感じがした。
 憧れの佐久間渚が山田道子と一緒にいると、なんだか果汁100パーセントの美味しいオレンジ・ジュースに、不注意にも水道の水が注がれて、どんどん味が薄くなっていくみたいで嫌だった。
 交換日記をする相手に佐野隼人を選んだのも気に入らない。サッカー部のキャプテンだからか? それがどうした? 佐久間渚を本気で好きなのはオレだけなのに。何で、どうして、それが分からない?
 いずれ恋人同士になった時に教えてやろう。渚のブラジャーとパンティを身につけたオレの姿を見せてやるんだ。『キミのことが大
好きだから、キミの下着が欲しかった』という言葉を添えて。一目でサイズがピッタリなのは分かるだろう。秋山聡史こそ運命の人だと気づく瞬間だ。きっと渚は目に涙を浮かべて感動するはずだ。こんなにも自分を愛してくれた人がいたんだと。
 そこで、もう少し佐久間渚の下着をコレクションしたかった。三枚くらいじゃあ本気で好きだったと証明するには不十分に思えた。
 だけど彼女の家では、洗濯物を盗られないように警戒している様子が窺えるようになった。干しても数時間で部屋の中に入れてしまう。これでは盗みようがなかった。ただ眺めているしかない。向こうの気が緩むのを待つしかなかった。もどかしい日々が続く中、いきなり赤いチューリップ柄の下着のペアが目に飛び込んできた。
 えっ、何だ。うわっ、すげえ。一目で欲しくなる。あれを絶対にコレクションに入れたい。
 その下着を盗むことだけに秋山聡史は集中した。ほかのモノには目もくれない。隙を見つけて盗む。それ以外にない。しかしチャンスは訪れない。分かったことは滅多に渚は、その下着を着用しないということだ。だから洗濯する回数も少ない。タンスに仕舞い込んでいるらしい。洗っても外で干すのは一時間以内に限られていた。盗られないように細心の注意が払われているのだ。これじゃあ、手も足も出なかった。
 ミッション・インポッシブル、つまり不可能に近い作戦だ。これが成功したらトム・クルーズ主演で映画化されても、ぜんぜん不思議じゃない。もしかしたら永久に手に入らないかもしれなかった。その可能性は強い。諦めるべきなのか。でも忘れられそうになかった。そう考えると、より一層欲しくなっていく。あのチューリップ柄のブラジャーとパンティが手に入るなら何でもしてやろう、そんな心境だった。
 どうしよう、あいつに相談するか? いいや、それは最後の手段だ。本当に信用できる人間なのか、まだ分からない。出来ることなら自分の力でなんとかしたかった。
 週末のある日、いつものように遠くから双眼鏡で佐久間渚の家を観察していて気づく。他にも誰かが同じように彼女の家を双眼鏡を使って見ていたのだ。そいつは大胆にも路上で自転車に跨ったままの格好だった。
 一体、誰だ? 「あっ、……あいつだ」まさか。信じられない。何で、どうして? 
 あっ、やばい。と思った瞬間、もう手遅れ。突然そいつが双眼鏡を持ったまま回転を始めたのだ。聡史の方向を通り過ぎてから、不自然に動きが止まって少し戻った。畜生、見つかったらしい。双眼鏡を通して目が合った状態だ。二人とも動けない。聡史の全身から汗が噴出す。秘密を知られてしまった思いだ。どうしよう。ブラジャーをしているところを関口貴久に見つかった時よりも動揺している。動けない。呼吸すら満足に出来なかった。緊張して何も聞こえない。苦しい。双眼鏡を持つ両手が痛い。
 あ、あ……助かった。 
 幸いにも、そいつが先に行動を起こしてくれた。双眼鏡を下ろすと、何もなかったように自転車で走り去って行く。姿が見えなくなると、その場に聡史は腰を落とした。深呼吸。それを何度も繰り返す。疲れた。すべての体力を使い切った気分だった。もう今日は帰ろう、と立ち上がったところで、佐久間渚の家の物干さおにチューリップ柄の下着がペアでぶら下がっているのを目にする。ちっ、マジかよ。こんな時に限って……。ダメだ。そんな気力は残っていない。行動に出ればドジを踏むに決まっている。渚の家族に見つかれば取り返しのつかない事態を招く。間違いなく両親は下着を盗もうとした男と娘の交際を快くは思わないだろう。仕方ない。聡史は泣く泣く帰路についた。
 家に帰って考えたのは、あいつのことだ。これからどうなる?
これからどうしよう。秘密を知られたからには、家に火をつけて君津から追放してやるしかないのか。関口貴久の時みたいに金を要求してくるだろうか。だけど今回は前と違って自分も奴の秘密を知ったということだ。どう向こうが出てくるのか待つことにした方がいい。こっからは何も言わないと決めた。
 「秋山くん」月曜日の昼休み時間、教室に生徒の数が少ない時を見計らって奴は小声で話しかけてきた。「驚いたな、キミも佐久間渚に夢中だったのか」
「……」オレは否定も肯定もしない。
「あんなに可愛い子は他にいないぜ」
「……」ああ、その通り。
「キミもチューリップ柄の下着を狙っているのか?」
「……」えっ、マジかよ。こいつも渚のブラジャーとパンティに興味を持っていたらしい。やばいな。
「だったらオレは諦めようかな。キミと勝負して勝てる見込みはなさそうだ」
「……」本気で言っているのか、お前。まさか誘導尋問じゃないだろうな。
「しかし、あの下着をゲットするのは難しいだろうな。一人じゃ無理だと思う。良かったら、いつでも協力するぜ。いいアイデアあるんだ。考えてみてくれ」
 そう言い終ると奴は振り向いて、その場を離れた。オレは黙ったままだったが、なかなか内容のある話だった。佐久間渚のことは諦めてくれるらしい。ライバルが一人でも減ってくれるなら、それはいい事だ。チューリップ柄の下着を盗むことは一人では難しい、とも言った。それも同感だ。だけどオレは誰の助けも借りたくなかった。
 それから数週間が聡史の目的が達成されないまま過ぎた。苛立ちと焦り、募る欲求。次第に頭の中で協力を求めるという考えが大きくなっていく。悩み続けた。あのチューリップ柄の下着さえ手に入れば、佐久間渚の心を捉えたも同然という錯覚が秋山聡史を支配する。何が何でも早く欲しい。
 あいつに……、いや、人には頼みたくない。だけど、このままでは手に入れることは不可能だ。どうしよう。
 朝起きて、まずその事を考える。学校へ行きながら、その事を考え続ける。授業中もその事しか考えない。佐久間渚の近くにいる時は尚更だ。家に帰って夕飯を食べながらも、頭の中は渚のブラジャーとパンティでいっぱい。デレビを見てても、ずっとその事に思いを集中させている。
 今日、下校途中で佐久間渚と挨拶を交わした。嬉しかった。この問題を早く解決したいという気持ちは強くなった。あいつに……、「あ」と思わず口から声が漏れる。
 道の反対方向から同じクラスの篠原麗子が足早に通り過ぎて行ったのだ。何で、どうして。学校に忘れ物でもしたか。いや、そんなんじゃない。何か切迫した雰囲気があった。聡史と目も合わさなかった。彼女らしくない。
 あの女は嫌いじゃなかった。優しくて素直な性格で、それが顔立ちにも表れていた。誰からも好かれている。身長は百六十センチを超えていて、女らしい身体つきだった。ここ最近で、すごく色っぽくなった感じがした。制服を着ていなければ、もう大人の女性と変わらない。ボーイフレンドでも出来たんだろうか。そいつと喧嘩した直後だったりして……まあ、いいや。どうせ、オレには関係ない事だ。それより佐久間渚の下着の問題だった。もう待てない。一刻も早く解決したい。あいつが言う、いいアイデアというのを一度聞いてみたい気になっていた。それがオレを納得させられるものだったら、その時は協力を頼もう。それがいい。
 秋山聡史は久しぶりに気持ちが楽になった思いだ。さっそく明日の朝、あいつに声を声を掛けようそう決心した。

   16

 五十嵐香月は仲良し二人と別れて、自分の姿が彼らから見えなくなる場所まで来ると歩調を速めた。もう気兼ねすることはない。気分はウキウキ、ルンルンだった。スキップさえ踏みたい気持ちだ。今日これから受けるレッスンのことを考えると、身体が火照るのを抑えられなかった。
 親が雇った家庭教師というのはウソだ。両親が知らない家庭教師だった。今日、彼が家に来ることだって知らない。
 彼と親しくなったのは一ヶ月前で、場所は国道127号線沿いにあるレンタル・ビデオ店だ。その日、香月は『ディープ・インパクト』のVHSビデオを借りたくて来ていた。しかし新作コーナーの棚に並ぶケースすべてにレンタル中と書かれた青い札が掛けられていた。
 がっかり。
 あのモーガン・フリーマンが出演している新作だけに人気は高かった。期待はしていなかったけど……、もしラッキーだったらという思いだった。見落としはないかと、しばらく棚の前に佇む。ひょっとして店員がレンタル中の札を外しに来るかもしれない。
 準新作コーナーには『タイタニック』が並んでいて、ほとんどが借りられる状態になっていた。いい映画だった。あんなに感動した作品は他に『ショーシャンクの空に』しか思いつかない。
 夜は赤川次郎の『三毛猫ホームズ』でも読んで過ごすしかなさそうだ、と諦めて帰ろうとしたところで誰かに呼び止められた。
 「五十嵐さん」
「あ」振り返ると同じクラスの男子生徒だった。その手には店の青いビニール・バッグが握られていた。何を借りたんだろう、と咄嗟に思った。
「見たい映画はあったかい?」
「……」香月は首を横に振って答えた。この男子とは口を利いたことがない。背は高くないし、顔つきも子供っぽくて、好きなタイプじゃなかった。
「それは残念だ」
 香月は背を向けた。話したくない。言い寄ってくる多くの男たちにはうんざりしていた。たいしてカッコ良くもないくせに、付き合ってくれないかと訊いてくる。いい加減にしてよ、あんたとあたしで釣り合いが取れると思っているの? そうハッキリ言ってやりたい場面は何度もあった。たまたまレンタル・ビデオ店で会っただけなのに、ナンパのチャンスと考えている愚かな男にしか思えなかった。
 「今、『ディープ・インパクト』を借りたんだけど、良かったら先に見るかい? でも映画同好会の五十嵐さんのことだから、もう見ちゃってるかな」
 香月を再度、振り返らすのに十分な言葉だった。
「これなんだけど」と言って青いビニール・バッグを差し出す。
「……」え、どうしよう。
「もう見ちゃったかい?」
「ううん」今度は言葉で答えた。
「それなら月曜日に学校で返してくれたらいいよ」
「え、見ないの?」
「いいや、それはない。親から頼まれていた用事を思い出して、今日は時間がなさそうなんだ。月曜日の夜にでも見ようかなと思っている」
「本当?」
「ああ。五十嵐さんが先に見ればいい」
「ありがとう」うわ、ラッキー。
 五十嵐香月は嬉しい気持ちで自宅に帰れた。あいつ、なかなかいい奴かもしれない。でも、もし付き合ってくれなんて言ってきたら即座に拒否。自惚れるじゃないわよ、たかがビデオを又貸ししてくれたぐらいでさ。口を利くぐらいならいいけど、それ以上は絶対にダメ。
 月曜日の朝、登校すると佐久間渚と山田道子の二人が近くにいない時を選んで、借りたビデオを彼に返した。もし見られたら、『どうしたの? 何があったの?』と徹底的に事情を聞かれる。きっと『ビデオを借りただけよ』と正直に答えても二人は信じない。あたしと彼が付き合っているらしいと、勘ぐるに決まっていた。山田道子に限っては香月の秘密を知ったと得意になるかもしれなかった。     
 映画はモーガン・フリーマンの出番が少ないことが不満に感じたが、内容は悪くはなかった。
 「これ、ありがとう」
「どうだった、この映画?」
「面白かった」
「それは良かった。今夜が楽しみだな」
「うん。ありがとう」そう言って、自分の席に戻ろうとした時だった。思いがけない言葉を背中に浴びた。
「五十嵐さんは本当に綺麗だなあ」
「……」え、どう応えていいのか分からない。そこまでハッキリと同級生から外見に対する賛辞を伝えられたことはなかった。
「やっぱり将来は芸能界へ進むつもりなんだろう?」
「え……」芸能界……うん、そう思っていた。……だけど。「わからない」なんとか五十嵐香月は声を絞り出す。
「わからないって、どういう意味だい? それだけ見栄えがいいのに、まさか無駄にするつもりなのかい」
「……」げっ。ずっと香月が悩み続けている問題の核心を、いきなり突かれた。
「五十嵐さんが、『プリティ・ウーマン』みたいな映画のヒロインを演じて、大スターになるのは想像に難しくないよ」
 え、ちょっと待って。お願い、待って。その言葉よ、まさしくその言葉だわ、あたしが期待していたのは。母親の口からは聞かれなかった、紛れもない、その言葉。
 ずっと自分は、そうなりたいと願っていた。そうなるのに相応しい美しさが、自分にはあると思っていた。君津のDマーケットで、もしくはルピタで、芸能界に関係した人からスカウトされないかしらと期待していた。しかし声を掛けてくるのは、ダサい格好の不細工な男たちだけだった。
 「お姉ちゃん、ドライブしない?」図書館からルピタへ歩いて行く途中で声を掛けられたことがある。お気に入りの青い水玉のワンピース姿だった。振り向くとサングラスをした長髪の男が黒いインプレッサを超スローで運転していた。明らかに自分で自分を凄く格好いい男と錯覚している超バカ者。もう、最悪。冗談じゃない。この服で、そんな暴走族みたいな車の助手席に座ると思ってんの? 家にあるのがフォルクス・ワーゲンの白いゴルフEなの。品のない自動車はお断り。
 おしゃれな格好をして出歩いても、それに反応して群がってくるのは田舎臭い阿呆連中だけなのが悔しかった。
誰にも言わなかったが芸能界への憧れは幼い頃からだ。最近は女優の中山エミリを強く意識していた。すごく可愛くて綺麗だ。彼女が写真週刊誌フライデーに、西麻布での路上キスをスクープされた記事を見たときは驚いた。なかなかやるな、と思った。女優たるもの常に注目を集めるために、話題を提供し続けなければならない。さしあたり自分だったら、と考えてみた。体育館の裏でキスを見つかったり……いや、ダメだ。男子の喧嘩じゃあるまいし、あそこはナメクジが多くてロマンチックじゃない。なら、保健室だったらどうだろう。西麻布には負けるが、ベッドは置いてあるし、みんなの想像をかき立てるには学校の中では最高の場所かもしれない。だけど……、どこにもキスするに相応しい相手がいなかった。ここは田舎すぎる。
このままではダメだ。この君津で、このまま埋もれて一生が終わってしまいそう。たぶん袖ヶ浦か天羽の高校を卒業して、ちっぽけな地元の建設会社の事務員になるのが関の山だろう。イヤだ、そんな人生。
 中学二年に上がって危機感を抱いた五十嵐香月は決断する。もはや自ら行動に出るしかない。母親に相談して芸能界に進みたいことを初めて伝えた。
 「お前の熱意は分からないでもない。だけど、かなり厳しい世界らしいよ。きっと辛い事は沢山あるよ。テレビに出られる人なんて僅かだろう。ほとんどが途中で挫折して辞めていくんだ。それでも挑戦してみたいのかい」
 散々否定的な意見を聞かされた。それでも香月が頷くと、ため息をつきながらも母親は出来る限り協力してくれると言ってくれた。
 その日のうちに杉浦書店へ行って、それに関係した雑誌を買う。エントリー用紙が付いていたので、それに必要事項を記入した。 
 週末は自宅のリビングで上半身と全身の写真を、父親のデジタル・カメラを使って撮った。気に入った服すべてで何度もシャッターを切る。朝から夕方まで、ほぼ一日を費やす。ベストの写真は、やはり青い水玉模様のワンピースだった。大人っぽくてセクシー。スタイルの良さも分かってもらえそうだ。二枚の写真をエントリー用紙に添えて港区の芸能プロダクションへ送った。
 返事は、すぐに来た。学校から帰ると、笑顔で母親が午前中に電話があったと教えてくれた。来月に行なわれるオーディションへ来てくれと言う。つまり書類選考に通過したということだ。すごく嬉しかった。『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツに近づいた思いだ。
 だが嬉しい思いはオーディションの日が近づくにつれて小さくなり、どんどん不安が大きくなる。会場は港区の事務所が入るビルの5階だった。青い水玉模様のワンピースで行くことにした。この服しかない。
 その前日だった。親戚に不幸があって、母親が一緒に行けそうにないと言い出す。じゃあ、一人で行くしかない。気持ちは沈んだ。
 君津駅から内房線に乗って蘇我駅まで行く。そこで京葉線に乗り換えた。次の電車が出発するまで時間があったので、駅ホームの自動販売機でシャキッと元気に行きたい思いでリアルゴールドを飲んだ。うまい。だけど喉の渇きを癒すには量が少なかった。香月は続けて自販機にコインを投入すると、次はドクター・ペッパーを選んだ。これも美味しかった。
 地元から遠ざかることで不安が増大していく。東京メトロの麻布十番駅に降りた時には、なんだか自分がアメリカのニューヨーク五番街に辿り着いたような思いだった。言葉は通じるかしら。
 何人かの人に道を聞いて会場を探し当てた。ガラス張りのエレガントな十二階建てのビルで、エレベーターに乗って5階へ上がる。降りた廊下には近くにデスクが置かれていて、ストレートの黒髪が綺麗な三十歳ぐらいの素敵な女性が立っていた。白いブラウスにグレーのタイトなスカート姿で、いかにも仕事が出来そうな感じだ。ベルトはブラックでゴールドの大きな丸いバックルが引き立っている。うわ、お洒落。そこが受付けだった。オーディションの順番を表す、番号札を渡された。二十五番だ。え、そんなにいるの? 
 受付けの横が待合室だと教えられて、そのままドアを引いて中へ入った。話し声が止む。一瞬の静寂。広さは学校の教室の半分ぐらいか。二十人近い人が四隅に備え付けられたソファに座っていた。全員の視線が五十嵐香月に集中。
 みんなが母親を連れて来ていた。友達同士で来ている子たちも何人かいる。やっばり、一人で来たのは香月だけらしい。
 視線に耐えられない。空いているスペースを見つけて、急いで腰を下ろした。バッグを開けて中から何か探す振りをして誰かと目が合うのを避けた。
 横目で周囲を観察する。若い綺麗な女の子たちばかりで、男の子は一人だけだ。痩せっぽちで、太った母親の横に大人しく座っていた。こんな女だらけのところに、よく居られる。どんな神経をしているのか。
 女の子たちの美しさは目を見張るほどだった。服のセンスは抜群で、これからステージに上がっても可笑しくない格好の子もいる。
タイトな服を着て身体の曲線を強調した超セクシーな子は特に目立った。悔しいけど凄く似合っていた。
 君津南中学校では美貌を誇れた五十嵐香月だったが、ここでは普通の女の子に成り下がってしまう。まるで二年B組の山田道子になった気分だ。最悪。どうしよう。
 斜め向かいには肩を寄せ合って座る女の子二人がいて、少し話しては何度もケラケラとよく笑う。こんなところで一体、何を話しているんだか。バカじゃないの。
 いきなりドアが開くと受付にいた女性が現れて、「二十番の人」と声を掛けた。長身でスタイルがいい、まるでモデルみたいな女の子が立ち上がって部屋から出て行く。あと五人もいるのか、と自分の順番が来るまでを数えてうんざりした。
 香月は、バッグの中から何も書いていないノートを取り出して読む振りをした。みんなの視線を集めたくないので、出来るだけ身体
を動かさない。
 時間が経つのが遅かった。まだかしら。少しでも早く、ここから立ち去り……。
 うっ、……しまった。ああ、どうして? オシッコがしたい。急に尿意を催す。蘇我駅のホームで二本も缶ジュースを飲んだのがいけなかった。このビルのエレベーターに乗り込む前にトイレに行くべきだった。後悔の念に駆られる。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。  
 トイレに立てば部屋にいる全員の視線を集める。いやだ。恥かしい。我慢できるか、……いや、出来そうにない。
 斜め向かいに座る二人が、またケラケラと口を押さえて笑った。
むっ。く、悔しい。あたしの事を笑っているに違いなかった。千葉県の君津から出てきて、オーディション会場でオシッコがしたくて我慢している、あたしを笑っているのだ。
 もし、こんな場所でオシッコを漏らしたら……。大好きなチューリップ柄のパンティを穿いていた。濡らしたくない。
 もうダメだ、限界。五十嵐香月は意を決して立ち上がった。ケラケラ笑っていた二人が驚いて顔を上げる。唾を吐きかけてやりたいと思ったが、そうしないで早足で部屋から出て行く。受付けの女性が、どうしたのというような表情を見せたが、無視してエレベーターへ急いだ。案の定、その近くにトイレがあった。
 もう、あの部屋には戻りたくない。みんなが、あたしを軽蔑して敵視しているんだ。用を足しながら香月は、そう思った。トイレを出ると、そのままエレベーターで下まで降りた。外に出て麻布十番の駅まで歩く。足取りは重かった。
 君津へ戻る電車の中で気分は最悪だ。もうダメだ、あたしは。人生が終わった。『うん、そうらしいね』と、他の乗客たちも心の中で思っているみたいな気がした。
 「どうだった?」玄関の扉を開けて、家の中に入った途端に母親が訊く。
「わからない」用意していた言葉で答えた。それしか言いようがない。色々と訊きたがる母親に、「すごく疲れた」と言って自分の部屋へ逃げた。一人になりたかった。
 なのに母親は一緒に二階まで上がってくる。無下にも出来ない。「三十人ぐらい、女の子がいたわ」
「まあ、そんなに。それで何て訊かれたの」
「色々と。趣味とか、やっているスポーツとか」
「へえ。でも、香月が一番きれいだったでしょう?」
「……、さあ、わからない」親ばか、そのもの。世間知らずなんだから、まったく。
 まあ、そう言う自分も今日、芸能プロダクションの事務所へ足を運ぶまでは不安もあったが、かなりの自信も持っていた。それが全て打ち砕かれてしまった。
 「疲れたから、もう寝るわ」
「え、夕飯は? 香月の大好きなスパゲッティにしたのよ」
「ありがとう。でも明日にするわ」
「そう」
 娘の沈んだ様子から空気を読み取って欲しかったが、そうは行かないのがうちの母親だ。そのあと何度も、それも毎日のように、うんざりするほどオーディションの話を持ち出す。「結果の知らせが遅くない? どうだったのかしら」とか。そもそも受けていないのだから、結果の知らせが届くわけがない。
 「さっき電話があったの。オーディションは受からなかったみたいだわ」次の日曜日、母親が買い物から帰って来たときに、そう言って嘘をついた。これで終わってほしい思いだった。
「え、どうして? 変じゃない、香月が落ちるなんて。どういう訳なのか、お母さんが電話してみようか」
「いい。いいから、お母さんは黙ってて。お願い」
「お前、そんなこと言ったって……。ここで引き下がっちゃダメなのよ。世の中、押しが大切っていう事もあるんだから」
「いいの、自分で何とかするから。ほかの芸能プロダクションを当たってみるわ」
「お前がそう言っても、お母さんは納得できない。失礼にもほどがある、うちの娘を落とすなんて。文句を言ってやらないと」
「止めて、お母さん。お願いだから」
「いい子で素直だから、お前は何を言われてもそのまま受け入れてしまう。だけど、それは時と場合によるの。理屈に合わないことをされて黙っていれば、相手を付け上がらせるだけなのよ。さあ、電話番号を教えて。お母さんがガツンと言ってやるから」
「違うの、お母さん。よく聞いて。まだ落ちたと決まったわけじゃないのよ」こう言うしか母親を止める方法はない。
「え、どういうこと?」
「最初の企画には通らなかったけど、他にも企画があるから、そっちで選考するから待ってほしい、って言うことだったの」
「……じゃあ、完全に落ちたわけじゃないのね」
「そ、そうなの」
「なあんだ。はっきり香月が説明しないから、お母さん、勘違いしちゃったじゃないの」
「御免なさい」
「でも良かった。まだ可能性はあるわけね」
「うん」
「期待できるわよ。香月ほど綺麗な子なんて滅多にいないんだからさ」
「……」
 この場は何とか収まった。だけど母親に協力を求めたことを強く後悔した。これからどうなるのか。
 芸能界には入れそうにない。だけど母親は頻りにオーディションの話を持ち出す。ノイローゼになりそうだった。これからの人生は長いのに目標がなくなった。何もする気が起きない。毎日だらだらと過ごしていくだけの自分。
 少し元気になったのは、日本代表がフランス・ワールドカップ出場を決めた時。最後は延長戦での岡野のゴールデン・ゴールだ。現実から逃避する思いでサッカー熱に酔った。
 初めて見た試合が四年前のドーハの悲劇で香月は小学三年生だった。その頃は父親が大好きで一緒にソファに座って観戦した。プレーを見ながら分かり易くルールや試合の運び方を説明してもらう。楽しかった。ロスタイムで同点にされた時は何が起きたのか理解できない。ただ父親の失望する姿から、すごく悪いことが起きたんだと感じた。その通りで、ワールドカップには出場できなかった。アメリカ大会では日本代表の代わりとして、サッカーの神様と言われるペレが推した、アスプリージャを擁するコロンビア代表を応援したが、初戦のルーマニアに続いて米国にも負けて,一次リーグ突破も叶わなかった。
 今では父親とは距離を置いて、ほとんど話をしない。
 「お父さんに、いつでもべったりなんだから」小学四年生の頃だったと思う、いきなり母親から言われた。そうしちゃ悪いみたいな言い方をされて戸惑う。
 「お父さんと仲良くしたらいけないの?」香月は訊いた。
「そんな事は言ってないわよ」と母親の答え。理解できない。
「だって、そんなふうな言い方だったじゃない」
「言ってません。お父さんと仲良くしたければ、すればいいのよ。あなたの勝手よ」突き放すような言葉を返されて、どうしていいのか香月は分からない。仕方なく父親とは口を利かないようにした。
 しばらくすると、「お父さんと仲良くしなさいよ。いい子なんだから、香月は」と母親。態度は一変して口調も優しい。一体、どうなっているのか。
「お父さんと何かあったの、お母さん?」
「何もないわよ」
 そう言われても香月は納得できない。しつこく何度も訊くと別の答えが返ってきた。「香月は子供だから知らなくていいの」
 やっぱり何かあったんだ。子供だから知らなくていいと言うけれど、お使いには「もうお姉ちゃんなんだから、このぐらいのお手伝いが出来なくてどうするの」と言われて行かされる。
 都合のいい時はお姉ちゃん扱いで、都合の悪い時は子供扱いらしい。
 母親に嫌われたくないし、両親の仲を窺いながらも面倒なので、いっそのこと香月は父親と距離を置くようになっていく。だからジョホールバルの試合は自分の部屋で一人で見た。
 日本代表がフランス大会の出場を決めたことで、君津南中学のサッカー部も注目を集めるようになった。特にストライカーの板垣順平は女子の憧れの的だ。回りが、キャー、キャー言うものだから香月も彼を意識するようになった。
 確かに背は高い。顔も悪くない。運動神経は抜群だ。女の子に人気があるのも頷ける。だけど……うむ、しかしだ、彼の家は中古車屋だった。新車のディーラーではない。それに彼の言動からは知性というものが感じられなかった。本を読んだり、洋楽を聴いたり、洋画を鑑賞したりするとは思えない。結論として自分のボーイ・フレンドには相応しくなかった。
 理想のタイプは痩せていて背が高く、ハンサムな男。運動が出来て知性に溢れている。そして青年実業家であったら最高。グリーンのベンツEクラスを所有していたりすれば尚うれしい。まあ、BMWの3シリーズでもいいけど。あ、でもベンツのCクラスは嫌い。だって小ベンツなんて名前で呼ばれてよばれいるから。
 当たり前だけど、この君津南中には一人も該当者はいなかった。将来そうなりそうな人物も見当たらない。こんな田舎じゃ無理なのか……。
 それでも友達に誘われてサッカーの試合には応援に行くようになる。何もする事がなかったし、少しでも外に出れば自分が元気になれるかなと思ったからだ。
 観戦していて不思議なことに何度も板垣順平と目が合う。その理由を教えてくれたのは佐久間渚だ。彼女はサッカー部のキャプテンである佐野隼人と仲がいい。
 「板垣くんたら、香月のことが好きらしいわよ」
 あ、そうなの。最初は、その程度の反応だった。言い寄ってくる大勢の男達の一人としてとしか意識できない。恋愛感情は持てなかった。
 だが、それが噂となり広まっていくと、板垣順平を憧れる多くの女子を失望させた。香月は気分がいい。あたしは、みんなと違う。優越感に浸れた。オーディションで味わった悔しさを八つ当たり出来るチャンスかもしれない。もっとガッカリさせてやりたくて、みんなが見ている前で板垣順平に馴れ馴れしく声を掛けたりした。効果はてきめんだ。
 香月も好意を持っていると思った板垣順平は行動に出る。ちょくちょく用事もないのに電話してくるようになった。佐野隼人と佐久間渚と一緒に四人で出掛けようと誘ってきた。
 そんな気はさらさらない香月は、のらりくらりと生半可な返事を繰り返した。突然のプレゼントが気持ちを変えるまで。
 放課後、掃除当番をしていた香月に板垣順平が近づいてきて包みを手渡した。ソニー製のミニ・ディスク・ウォークマンだった。録音も出来るやつ。すぐに佐久間渚が教えたんだと悟った。
 その数日前だ、香月は小雨の中で飼い犬のリボンの散歩途中に、手に持っていたミニ・ディスク・プレーヤーを水溜りに落としてしまった。仲良しの犬に気づいたリボンが走り出そうと、いきなりリードを引っ張ったからだ。すぐに拾ったが内部に雨水が入ったらしく二度と再生はしなかった。買ってから半年も経っていなくて、ずっと大事に使ってきたのに。泣きたいほど悔しい。翌朝、佐久間渚と顔を合わせると一番にその話をした。「渚、ちょっと聞いてよ。昨日、リボンの散歩をしてたら……」
 それが板垣順平の耳に伝わって、突然のプレゼントという結果をもたらす。うれしかった。「うわっ、ありがとう」 
 と、同時に心の隅で理性が働く。同級生から、ましてや付き合ってもいないのに、こんな高価な品物を受け取っていいのだろうか。返す気は少しもなかったが、口からは礼儀をわきまえた言葉が出てきた。「本当に貰ってもいいの? こんな高いモノ」
 五十嵐香月の最大の弱点は、百円程度のモノでもプレゼントされると相手に好意を持ってしまうことだ。とにかくモノを貰うことが大好きだった。後になって、そんな安価なモノで自分が心を動かしたことに気づいて情けなく思うことが少なくなかった。
 今回はソニー製のミニディスク・ウォークマンだ。アイワ製じゃない。とても百円では買えない。お返しとして、四人で映画﹃タイタニック﹄を見に行くことを承諾した。彼は電車賃からファミレスでの食事代まで全てを支払ってくれた。お金を更に使わせることになってしまったが、そうすることで彼は喜んでいた。
 うん、なかなか紳士じゃない。そんなに中古車屋って儲かるのかしら。一人息子は親から小遣いをたっぷり貰っているようだ。ちょっと付き合っていいかも。そんな思いから二人だけのデートが始まった。ララポート船橋には何度も行く。いつも何か買ってくれた。ロキシーのロゴが入ったTシャツから始まり、ポロシャツ、青い水玉のワンピース、ハイレグ水着へと進み、とうとうブラジャーとパンティまで買わせた。それが当たり前になった。
「香月ったら、一体いくら板垣くんに使わせたのよ」と、見かねた渚が注意してきた時に、ちょっとだけ良心の呵責を感じた。しかし週末に立ち寄ったマツキヨでは、順平がエアーサロンパスを入れた買い物カゴをレジまで持って行く途中で、生理用ナプキンを忍ばせてしまう。
 板垣順平はモノを買うことで二人の関係を深くしようと考えていたらしい。しかし香月は身体には指一本触れさせない気だった。手を何度か握られたが、直ぐに払い除けた。
 とうとう「キスさせてくれ」と迫ってきた時は、「あたしたち、まだ中学生だから」と言って拒否した。すると思いも寄らない情報が耳に飛び込んできた。
 「何、言ってんだ。もう佐野と佐久間だってしてるんだぜ」
 えっ、マジで? 驚いて順平の顔を見ると、﹙しまった、言っちゃった﹚というような表情で口元を手で押さえていた。「おい、今の聞かなかったことにしてくれ。頼む」
「……」驚きは顔に出さない。しっかり無表情を保つ。
「お願いだから、聞かなかったことにしてくれ」
「……」無言のまま。こういう場合、出来るだけ長引かせることが肝心。交渉術には長けているつもりだ。
「香月、頼むよ」
「……いいよ。わかった」不満たらたらという感じで頷くが、心ははニンマリ。香月にとっては好都合。これで当分の間は順平がキスを迫ることはないだろう。このタイミングで、ミスティウーマンのショート・ブーツをねだれば買ってくれるかも。それに渚の秘密を知った。
 あの女、可愛い子ぶっていながら隅に置けない。あたしに黙って佐野隼人なんかとキスして。お互いの口の中に舌を入れて絡ませ合ったんだろうか。うわっ、気持ち悪い。あたしだったら絶対にしない、そんな不潔なこと。まあ、グリーンのベンツを運転する理想の彼氏が求めてきたら別かもしれないけど
 それにしても未だに報告がないのはどういうことか。ずっと黙っているつもりなのかしら。腹が立つ。異性との関係で自分より早く一歩前に踏み出したことも気に入らない。
 初潮のときはあたしが一番で、その二週間後が道子だった。渚はなかなか来なくて、「あたし、ダメかもしれない」と嘆いて心配するのを、「大丈夫、きっと来るから」と言って慰めて励ましたのだ。
 どこで調べたのか知らないが道子の方は安心させるどころか、「もしかしたらロキタンスキー症候群じゃないかしら」と、不安を煽る始末。生まれつき子宮がない女性のことだと説明を聞くと渚は泣き出した。「余計なことを言わないで」と、得意げに知識を披露する道子を嗜めてやったのは、このあたしじゃなかったか。それなのに、この仕打ち。仲間に対する裏切り行為に他ならない。絶対に許せなかった。
 あの可愛い顔で、よくもそんな大胆な行動に出たもんだ。だったらあの二人、もしかしてセックスするのは時間の問題じゃないかしら。きっと両親や兄弟がいない時に、渚か佐野隼人のどちらかの家にしけ込んで、アソコとアソコを丸出しにして裸で抱き合うんだ。まあ、いやらしい。でも、もしそうなったら、どうヤッたのか全てを知りたい。その知識で自分もセックスが出来る女になれる可能性がありそうだ。
 気持ちの整理がつかない。しばらく渚とは少し距離を置いて、道子と仲良くするようにした。時には彼女の家を訪れた。渚と佐野隼人とのキスの一件を教えてやろうかと迷い続けたが、タダで言うにはもったいない情報なので止めた。映画『シックス・センス』の大事なネタを見る前にバラされて、面白味が半減した恨みも消えていなかったし。
 芸能界へ進むという夢は砕けたままだったが、山田道子の家で別の世界への道が一つ見つかる。それは彼女の兄が捨てるために山積みした古い週刊誌の一冊を、たまたま手に取って開いた記事からだった。
 内容は、あるAV女優が税金を逃れる為に所属していた会社に預けた三千万円と、未払い金の二千万円を踏み倒されたということだった。合計で五千万円。げっ。そんなに稼げるの、AV女優って。
 香月の頭の中は五千万円という金額でいっぱいになった。す、凄い。すご過ぎる。五千万円て、いったい一万円札が何枚になるのかしら。さっぱり見当がつかなかった。セックスするところを見せるだけで、そんな大金がもらえるなら、……ぜひやりたい。こうなったら、なんとしてでもセックスが出来る女にならないと。
 家に帰って、おもむろに父親に訊く。「お父さん、この家って幾らしたの?」
「土地と建物で三千万円ぐらいだったな。でも、あの頃はバブルが弾けて値段が下がり……」
 へえ、三千万円だって。その後に続く父親の説明は、もう聞いていなかった。五千万で二千万円もお釣りがくる。こんな家がキャッシュで買えるんだ。父親は三十年ローンを組んだらしいけど。やっぱり、五千万円で凄い。こうなったら行動開始。
 翌日、休み時間に板垣順平を捕まえて頼みごとをした。そのAV女優が出演しているビデオを借りてきて欲しいと伝えた。仕事の内容を詳しく知りたい。
 「えっ。オレが、かよ」
「そうよ。女のあたしが借りるのは恥ずかしいもの。あんなカーテンがしてあって仕切られているのに、その奥に入って行く勇気はないわ。お願いだから。だって順平は借りたことあるんでしょう」
「な、ないよ。そんなの借りるか、このオレが。バカ言うなって」
「嘘、言わないで。この前、学校に持ってきて鮎川くんに渡したじゃないの。光月夜也の『スチュワーデス暴虐レイプ』とかいうやつよ。あんた達がイヤらしそうにニヤニヤしてたもんだから、昼休みに道子が黙って鮎川くんのリュックを開けて見たんだから」
「マジかよ、それ」
「道子ったら、勝手に家に持って帰って、奈々と一緒に見たらしいわよ」
「そうだったのか。あれには参ったぜ。鮎川の野郎がビデオが無くなっている、なんて言ってきやがって慌てたんだ。加納先生に見つかったのかもしれないと心配してたら、翌日には机の中に戻っていたから安心した。一日分の延滞料金を支払うだけで済んだ。だけど山田道子って女は何をしでかすか分からない奴だな」
「そうよ。学校にアダルト・ビデオを持ってきても、みんなの前に出しちゃダメよ。道子は詮索好きで、勝手に人のカバンの中を覗いたりするんだから」
「……」
「だから、お願いだから借りてきて」
「わかった。だったら、そんな名前も知られていないAV女優よりも、やっぱり光月夜也のビデオを推薦するな。うふっ。お前に似ているんだよ。あ、いや、ごめん。お前の方がずっと綺麗だった。その女優の『令嬢教師強制登校』とか、『夫の目の前で犯されて』なんかは良かったぜ」
「それじゃダメなの。このAV女優のビデオが見たいのよ」
 この男には呆れる。その光月夜也とかいうAV女優のセックス・シーンを見ながら、あたしのヌードを想像しているらしい。まあ、いやらしい。お前に似ているんだ、と言ったところでニヤけながら目付きがギラギラと変わる。すごく美味しそうなケーキを目の前にして、今にも涎を垂らしそうな表情だった。
 「じゃあ、探してくるよ。でも見たことないぜ、そんな名前は」
「鮎川くんとかに訊いてみたらどうかしら」
「いや、オレが知らないんだから他の連中に訊いても無駄だろう」
「あら、そう」
 この男って本当に信用できない。アダルト・ビデオなんか借りたこともないって初めは言いながら、結局は相当に詳しいみたいな口振りに変わった。
 探すのが難しそうな言い方をした順平だったが、次の日には学校に持ってきた。えらい。なかなか使えるじゃない。信用は出来ないが、ここは評価しよう。当然、山田道子と佐久間渚がいないところで手渡してくれた。借りてきてくれたのは二本で、タイトルは『スチュワーデス ぐしょ濡れ直行便』と『愛と腰使いの果てに』だった。うわ、なんか凄そう。
 「参ったぜ」
「どうしたのよ」
「君津になくてさ、木更津まで行って借りてきた」
「本当に?」
「ビデオ屋を何軒も回ったぜ。もう疲れた。これって古すぎるんだよ。どっから見つけてきたんだ、この名前。どうして、このAV女優にこだわるのか分からない。ミス東京か何か知らないけど、光月夜也だって負けちゃいないぜ。ロシア人との混血なんだ。ビデオの内容にしたら、オレは光月夜也の方がいいと思う。お前に似ているのは、こっちの方だ。犯され方はリアルっぽいし、画質だって全然いい。アダルト・ビデオっていうのはな、もちろん女優の見栄えは大切なんだが、画質とかシーンの撮影の仕方で違ってくるんだ。いかに女優を綺麗に……」
 板垣順平、この男はアダルト・ビデオを語らせたら止まらないって感じ。得意な分野はサッカーだけじゃないらしい。「見たの?」香月は訊いた。
「え」
「この二本のビデオを見たってことなの?」
「う、うん。……まあな。オレも見ておくべきだと思ったんだ」
「どうして?」
「ど、どうしてって……そう、言われても」
「なんで見ておくべきなのよ、順平が」
「それは……なかなか綺麗な女優だったし、少しは香月に似ているなと思ったからだよ」
「へえ。順平がアダルト・ビデオを選ぶ基準ていうのは、どれだけ女優があたしに似ているかなの?」
「う、うん……そうだな」
 男ってヤることしか考えていないって、いつか先輩の山崎桃子から聞いたけど本当らしい。もし自分がAV女優になった場合、確実にファンは一人いるってことか。でもやるからには絶対に五千万円は稼いでやろう。
 あたしが出演するアダルト・ビデオを順平が見て楽しむのは、それはそれでOK。でもヤるのは絶対にイヤ。モノを買ってくれるのでデートはするが、身体には指一本触れさせたくなかった。
家に帰って、さっそく借りてきてくれた二本のビデオを自分の部屋でマックロードにセットした。母親には宿題をするからと言って、二階に上がってこないように釘を刺す。音量はギリギリまで落とした。
 生まれて初めてアダルト・ビデオを見る。なんか、大人の世界に一歩足を踏み出すみたいでゾクゾクした。心臓がドキドキ。あっ、すっごく綺麗な女の人が画面に映りだされた。うわっ、スタイルも抜群じゃない。この人がこれから裸になって男の人とセックスするの? 信じられない、こんな素敵な女性が……。
 えっ、……うわ。す、凄い。見ていて身体が火照ってくる。これほど綺麗な女性が、あんなに恥かしいことをするなんてと驚く。やっぱり五千万円を稼ぐのって大変そうだ。ただしアダルト・ビデオを見てもセックスの仕方は良く分からなかった。モザイクが掛かっていて肝心のところが見えないのだ。
 山田道子は正しかった。男の人って白い液体を出す。だけど女優が男の人のアレを口に含むのには参った。そんな下品なこと自分に出来るかしら。五千万円を稼いだ綺麗な女の人は白い液体を口の中に出されたり、顔に発射させられたりしていた。
 どうしよう。ちょっと自分に出来るかどうか自信をなくす。やっぱり地元の建設会社の事務員ぐらいしかなる道はないのか。将来への不安に再び襲われる。
 そして日本代表がワールドカップ・フランス大会でジャマイカに負けた時、大きな失望と共に、順平と一緒に出歩く気持ちも失せてしまう。趣味が合わなくて、好きでもない男と仲良くするのは、もうイヤだ。苦痛しかなかった。いくらモノを買ってくれても、もう限界。自分にウソはつけない。その晩に順平から電話が掛かってくると、開口一番に「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」と言ってやった。
「え?」
「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」もう一度繰り返す。
「え、どうしたんだ。何があった? 分かった、あのアダルト・ビデオがいけなかったんだろう。やっぱり、古すぎるんだよ。だったら光月夜也のビデオを見て欲しい。きっと−−」
「アダルト・ビデオは関係ない。何もないの。今、言った通り。ただ、それだけ」
「おい、ちょっと待ってくれよ。何があったのか教えて−−」
「何もないって言ってるでしょう。もう一緒に出掛けたくないの、ただそれだけよ。もう電話を切るから、さようなら」
「おい、待ってくれ」
 長々と話したくないので電話を切った。その後は何度電話が鳴っても受話器は取らなかった。具合が悪いので誰とも話したくない、と母親に言って電話を取り次がないようにしてもらう。
 翌日、学校へ行くと真っ先に佐久間渚が「香月、どうしちゃったの?」と真剣な表情で聞きに来た。順平から仲を取り持つように頼まれたのは間違いない。正直に答えた。最初から好きではなかったこと、一緒に出歩くことが耐え難い苦痛になっていることなど。
 渚が、「じゃあ、どうしてあんなに沢山のモノを買わせたの?」と痛いところを突いてきた時は黙って聞き流して、すぐに自分の主張を繰り返した。趣味が合わない、タイプの男じゃないと言葉を並べて彼女から順平に、しばらくそっとしてあげた方がいいと言ってくれるように頼んだ。
 それでも回数は減ったが、順平からの電話は続いた。ああ、しつこい。「何かプレゼントしたい」と言ってきても、はっきり「いらない」と拒否した。
 よりを戻したいからだろうが、学校で声を掛けてきたり、帰り道に偶然を装って待ち伏せをされたりするのが、うざったくて仕方ない。どんどん嫌いになっていく。憎しみを覚えるほどだ。


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