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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第13回 93 - 97
   93  

 はあ、はあ……あ、……。あうっ、……い、いや。
 いやらしい男の舌が太股からじわじわと上がってきて敏感な部分を舐めるたびに、篠原麗子の口からは甘い喘ぎ声が漏れた。
 はあ、はあ……いや、……お願い、許して。
 どんどん高まりへと追い詰められていく。お気に入りの赤いチューリップ柄のベッドシーツは、身をくねらしているうちにしわくちゃになっていた。左右に振っていた首が無意識に後ろに仰け反る。あ、……あう。
 また恥ずかしい狂態を義理の父親だった男に晒してしまうことになりそうだ。いや、あ、……あ、許し――。
 あ、いやっ。
 途端に愛撫が止まった。な、……なんで? 深い失望感が麗子を包む。
 「ねえ、一休みしようか」
 麗子の太股の間に顔を埋めていた中年男が布団から這い出てきて言った。夜の暗がりの中でも、そいつの太って弛んだ醜い体は隠しようがない。首から下は男なのか女なのか分からないほどだ。こんな不細工な奴に愛撫されて自分は感じている。いいや、それだけじゃない。こいつに女の喜びを教えられたんだ。そう思うと麗子は情けなかった。どうして波多野くんじゃないのよ。
 はあ、はあ、……はあ。
 しばらくは何も言えない。呼吸が整うまで時間が掛かる。返事をする代わりに麗子は布団をはいで片方の脚を高く上げると、その膝を大きく曲げた。こんな格好をすれば陰毛が生えた淫らなところが丸出しになるのは分かっている。思った通りで、男の視線が自分の下腹部に釘付けだ。その隙を突いて奴の肩を思いっきり蹴ってやった。
 半年前に母親と離婚した男はベッドから転げ落ちた。両手は後ろで固定されているので床に直撃だ。
 「い、痛いっ。な、何をするんだ」
 麗子は上体を起こすと床に転がった男を見下ろした。「誰が休んでいいって言ったの?」
「そ、そんな……麗子ちゃん」
「せっかく、いいところだったのに。早く上がってきて続けな」
「待ってくれ。もう、たっぷりサービスしたじゃないか。それに麗子ちゃんが、いや、いやって言う――」
「ばかっ。あたしの口癖じゃないの、知っているくせに。トボけるんじゃないよ、まったく。ほら、まだ二時間ぐらいしか経っていないじゃないの。あたしが満足するまでは休んじゃダメよ」
「勘弁してくれよ。もう前みたいな体力はオレにない。いくら土曜日の夜でも朝までなんて無理だ。それにノドがカラカラに渇いている。舌だってヒリヒリして痛いし、アゴもシビれて感覚が無くなってきているんだ。頼むから少しだけ休ませてくれ。そしたらまた続けるから、な?」
「だめ。早くしないと大声出して騒ぐわよ」
「そんな……」 
「また警察の厄介になりたい? 今度は前みたいに穏便に済ませたりしないからね。犯されそうになったって訴えてやる」
「そ、そんなのウソじゃないか。あの事件の後で、今度は麗子ちゃんの方から誘って――」
「あっはは。お前の言葉なんか誰が信じるかしら。あたしは警官の前で大泣きしてやるからね。夜中に忍び込まれてパンティを脱がされましたって」
「……本気じゃないだろう? そんな事をされたらオレは――、もう市役所で働けなくなる」
「その通り。だから言うことを聞くしかないのよ、お前は」
「もう十分に償ったじゃないか。家も土地も、あのグリーンのベンツも譲った。オレに残っているのは仕事だけなんだ」
「ばか言わないで。それは全部あたしの母親の名義じゃないの。あのスケベ女が全て自分のモノにしたの。あいつったら、最近は店の客だった若い兄ちゃんと付き合っているみたいよ。先週だった、その堅くて長いチンポコを一生懸命にしゃぶっているところを覗き見しちゃったもんね」
「ほ、本当か?」
「そうよ。あのスケベは男にハメてもらわないで十日も過ごしたことないの。お前と結婚してた時だって浮気は頻繁にしてた。そう、そう、集金に来た新聞配達のオジさんとも玄関で二度、三度ヤッてたんじゃないかしら」
「……信じられない」
「だけどさ、それが現実なのよ。お前は家や土地とか車を差し出すことなかったの。あの女にも弱みがあったんだからね。あたしと直に話をつけるべきだった」
「……」
「落ち込んでいる暇なんかないよ。早くベッドに上がってきて続けなさい。お前の務めは終わっていないの」
「……待ってくれ、麗子ちゃん」そう言うと男は首と肩を使って不自由な体を起こし、その場に正座した。
「だめよ。早くしないと大声出すわよ」
「なあ、勘弁してくれないか。こんな関係は止めたい。……もう疲れたよ。今の話を聞かされて生きる気力も無くなりそうだ」
「なに言ってんの、お前」
「また逢いたいって麗子ちゃんから電話があった時は……」男は派手な柄のトランクスに視線を落として続けた。「もしかしたらオレ
の能力が回復してくれるかもしれないと期待して承諾したんだ」
 しかし八ヶ月前に十四歳の少女によって激しく傷つけられた男の股間は二度と元に戻らなかった。性欲はあるが挿入できるように上手く勃起しないのだ。
 麗子は気にしていない。こんな不細工な中年男、――ましてやスケベな母親が散々使い古したボロ雑巾みたいな男じゃないか――その汚らしいチンポコを自分の大切なアソコに突っ込む気は更々なかった。こいつの舌がヌルヌルと動いてくれたら、それでいい。いつの日か波多野くんと結ばれる時が来るまでは処女のままでいるつもりだ。
 あたしが今度は主導権を握る。だから再び自分の部屋に入れてやる時は、暴力を振るう恐れを無くす為に、義理の父親だった男の両手は後ろで手錠を掛けることにした。
 「あら、そう。つまりオッ立たなくなったのは、あたしの所為だって言いたいのかしら」
「い、いや。……そうじゃないけど」
「じゃあ、聞くけど。あたしの身体をこんな風にしたのは誰よ?」
「……」
「今じゃ、頻繁に疼いちゃって勉強も手につかないの。高校受験は目の前だっていうのに」
「悪かった」
「言葉だけじゃダメ。舐めて。あたしのアソコをもっと舐めて。しっかり心を込めて舐めるの」
「麗子ちゃん、……遅くなったけど償わせてくれ」
「はあ?」
「出来ることなら何でもする。して欲しいことを教えてくれ」
「……」こいつって馬鹿なのかしら? さっきから言っているじゃないの。舐めろって。
「高価な服でもアクセサリーでも、海外旅行だって……そうだ、運転免許が取れたら好きな自動車を買って――」
「じゃあ、ここに寝てよ」
「え?」
「ベッドに横になれって言ってるのよ。あたしが今度は上になるから」
「……」男は途方に暮れた様子だ。
「早くしなさいよ、ばかっ」
 これから何をされるのかと、両手を後ろで縛られた中年男が怯えていた。その顔には以前に見せた好色な表情はない。なんて愉快なんだろう。相手に言うことを聞かすのに麗子は、ただ膝を曲げて足蹴にする格好をするだけでよかった。「さあ、上を向いて寝てよ」
 男がベッドに仰向けになると、麗子は大胆にもその顔を跨いだ。「そのまま動いちゃダメ」腰を沈めていく。「じっとしていなさい」
 あ、……う。
 鋭い快感が麗子の身体を下から貫いた。あ、……あう。こっちの方が全然気持ちイイじゃないの。何で気が付かなかったんだろう。お尻の穴に男の鼻が当たって身も心も溶けてしまいそう。腰を前後に動かすともっとイイ。ベッドで横になって股間を舐められるだけで満足していた今までの自分が馬鹿みたい。
 「れ、麗子ちゃん、ま、待――」
 聞こえない振りをして続けようとした。波多野くんに丸裸で抱かれているところを想像しようとしているところだ。
「お、お願いだから――ちょっと」
 仕方なく腰を少し持ち上げてやった。「何よっ、うるさい」
「くっ、苦しい。これじゃあ、息ができない」
 知らずに股間を男の顔に強く押しつけていたらしい。気持ち良すぎて、生きている人間の上に跨っているのを忘れてしまう。深呼吸
して大きく吐き出された男の息が麗子の熱く濡れた部分を冷ましてくれる。
 「やっぱり、オレが上に――」
「なに言ってんの、ばかっ。息が出来ないなんて、そのくらい我慢しなさいよ、男でしょっ」
 つまらないことで波多野くんとの愛の営みを途中で打ち壊されて腹が立つ。また初めから想像しないとダメじゃないの。頂上まで登りつめるには、そのプロセスが大切なのに。頭にきた麗子は豊かな腰を持ち上げると、全体重をかけて思いっきり尻餅を突いてやった。
 むぐっ。
 義理の父親だった男は返事すら出来ない。何か言おうとして息を吸い込んだところを、女子中学生の丸い尻に鼻と口を完全に塞がれてしまったからだ。歳こそ十五才だが、一年前から性の快楽を貪ってきた下半身は、すっかり女らしく成熟していた。息をする隙間を与えないほど相手の顔に密着するのだ。
 下敷きにしてやった男の頭が苦しそうに左右に逃れようとしていた。空気を求めて藻掻いているのだ。その必死な動きが女の敏感な部分に伝わってきて、すっごく気持ちイイ。
 「たっ、助け――」
 両方の太股を男の顔に強く押し当てて黙らせた。ざまあみろ。しばらく呼吸なんかさせてやるもんか。あたしの命令に素直に従わないと、どんな目に遭うか思い知らせてやる。波多野くんの人差し指が、疼く股間の奥へ侵入したところで想像を中断された。その御仕置きをしてやらないとね。
 うふっ、楽しい。
 両目を瞑り、キッスされながら優しくオッパイを揉まれる最初の場面を頭に描いていく。朝までたっぷり時間はある。篠原麗子のエッチで長い夜はこれからが始まりだった。

   94   

 加納久美子は本郷中学の駐車場に愛車フォルクスワーゲン・ポロを停めると、さっそく携帯電話のメールをチェックした。着信音が鳴ったのは運転中で、すぐに開いて読むことが出来なかったのだ。
 『おはよう。きっと素晴らしい一日になる』
 うふっ、やっぱりだ。思わず笑みがこぼれる。メールをくれたのは君津署の波多野正樹刑事だった。
 久美子は返信した。『メール、ありがとう。勇気もらった』
  
 あの事件から半年が過ぎて季節は秋になっていた。異様な出来事であると地区の教育委員会も判断して、加納久美子には特別に年内の休養を認めてくれた。と同時に君津南中学からの移動も決まる。本来ならば本郷中学には来年の三学期から赴任すれは良かった。二学期の途中から教職に戻らなければならなくなったのは、引き継ぐ予定だった三年Α組の担任教師が急に体調不良を起こして仕事を続けられなくなったからだ。
 外に出てフォルクスワーゲンのドアを閉めたところで、本郷中学の教頭先生が歩いて近づいて来るのに気づいた。白髪のオールバックが似合う初老の紳士だ。女子生徒に人気があると評判らしいが、まったく不思議じゃない。


   95

本郷中学の教頭は朝一番に学校に来て、教職員たちの当日のスケジュールを確認するのが常だった。校長に次ぐ地位に就いて初めて赴任した学校でもあり、この本郷中学を愛していた。
 海と山が近くにあって自然には恵まれている。ほのぼのとした教育をするなら、ここしかないと言えた。教師に反抗したりする生徒は一人もいない。イジメの報告もなかった。これまで大きな問題や事件は何も起きていない。平和な田舎の中学校といった感じだ。
 今日は新しく加納久美子先生が赴任してくる日だった。教育委員会が催す地域の会合で何度が彼女とは顔を合わせている。
 彼女に対する教頭の印象は良かった。知性的な美しさに惹かれていた。話し方や態度で独立心の強い女性であることも窺えた。新しい考え方を持っている人に違いない。きっと気が合いそうだ。同僚として迎えられることが嬉しかった。
 自分が若ければ彼女を恋愛の対象として見ただろう。だけど現実では歳は倍近くも違う。父親が娘を思う気持ちで接してやろうと思っていた。
 教頭は加納先生が使うことになっている机の前に立った。掃除が行き届いているか確かめたかった。本郷中学の第一印象が悪くなっては困る。
 無意識にも、この席を使っていた三年Α組の担当だった教師のことを思い出して、すぐに後悔した。あいつのことは早く忘れたい。
 あの男が職場を離れる表向きの理由は体調不良だったが、それは
教育委員会が決めたことで、問題を大きくしたくないという意図が
ありありとしていた。事実は言葉ひとつで言い表せるほど簡単なものではなかった。いろいろと世話をしてやった思いがあるだけに、教頭は裏切られたという気持ちが強かった。
 どうしてあんなことになったのだろう、と考える教頭を現実に引き戻したのは聞き慣れない自動車のエンジン音だ。駐車場にダークブルーの小型車が入ってくるのが窓越しに見えた。加納先生の車に違いなかった。左ハンドルのマニュアル車と聞いたが、そんな自動車をサングラスで運転する女性教師なんて初めてだ。イカしてる。年甲斐もなく心が浮き浮きしてきた。
 駐車場まで迎えに行こうか。だけど、こちらの好意を見透かされそうで恥かしいな。いいや、構うもんか。今日は初日だ。特別な日なんだ。
 職員室から出て行こうと体の向きを変えたところで、机の引き出しから白い紙が一枚はみだしているのに気づく。嫌な予感が過ぎった。まさか。教頭は手を伸ばして、その紙を取り出す。胃に痛みが走った。やっぱりだ。

 『カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。……』
  
 同じ文句が幾つも紙一面にぎっしりと書かれていた。あれほど処分したのにまだ残っていたのか。それとも誰かが保管していて、わざと一枚を机の引き出しに戻したのだろうか……。
 いいや。
 そんな悪戯をしそうな職員は一人もいなかった。いや、待てよ。新しく養護教員として赴任した東条朱里という女はどうだろう。なんとなく掴みどころのない人物だ。しかし彼女は事の経緯を知らないはずだった。
 わからない。何が、どうなっているのか。浮き浮きした気分は一変に吹き飛んだ。この学校に続く平穏無事な日々が崩壊していくような気がしてならなかった。
 三年Α組の担任だった男性教師は早稲田大学を卒業していて、将来は校長の椅子が約束されたようなものだった。性格は良く、誰からも好かれた。そんな男が、ある日突然だが別人になる。
 その朝、顔を合わせても挨拶がなかった。どこか具合でも悪いのか、と誰もが思う。ところが彼は自分の席に座ると一心不乱に何かを書き始めた。授業にも出ない、食事も取らない、声を掛けても返事をしない。夕方五時過ぎまでレポート用紙に向かっていた。
 何かが職員室で起きているらしい、と生徒たちが気づくのに時間は掛からなかった 一人の教師の奇行が職員室、いや、学校全体を異様な雰囲気に包んだ。
 夕方、男性教師が何も言わずに自宅に帰ると、すぐに同僚たちの視線が教頭に集まった。どうなっているんですか、全員が無言でそう問い掛けていた。ふざけんな、オレが知るわけないだろう、と言い返したいところを我慢して教頭は立ち上がり、恐る恐る彼の机を調べに行く。男性教師が一日を通して書き続けたレポート用紙数枚が散乱していた。文面を読もうとした教頭の背筋を悪寒が貫く。
 すべてのレポート用紙に同じ文句が連続して、ぎっしりと余白がないほど書かれていた。「狂っている」教頭は思わず口にした。
 男性教師の奇行は続く。職員室で机に向かって同じ文句を書き続けた。大声を出すわけでもなく、また凶器を振り回すわけでもなかった。表情のない蛇のような目が、もはや彼が別人であることを物語っていた。
 職員室にペンが紙面を滑る音が途切れなく続く。同僚たちは彼と目を合わせたくないので物音を立てまいとする。ストレスは大変なものだった。体調不良を訴える者が日を追うごとに増えていく。
 こういう事態に校長は全く役に立たなかった。普通の人間に対しては偉そうな言葉を並び立てるが、狂人を前にするとどう対応していいのか分からず、ただオロオロするばかりだった。教頭は一人で教育委員会と掛け合い、男性教師を自宅待機という形に落ち着かせたのだ。本郷中学に平和を取り戻したと同僚達からは感謝された。
 その甲斐あって素敵な女性教師を後任として迎えられる。今日がその日だった。教頭は気を取り直して職員室から外へ出て行く。
 ブルーの小型車から降りた加納久美子先生が、こちらに気づいて笑顔で会釈してくれた。
 「おはようございます、加納先生」
 白いブラウスに紺色のタイトなスカート姿だった。すごく似合っている。スタイルもいい。ああ、若い女性っていいな、と心から思ってしまう。これから毎日、出勤するのが楽しくなりそうだ。さっきまでの不安だった気持ちが、すっかり癒される。
 教頭は歩調を速めた。ところが何だろう。加納先生の顔から笑みが消え、懸念の表情へと一変する。どうかしたのか。
 「危ないっ、教頭先生」
 え? と思った瞬間、何かが自分の頭をかすめて勢いよく飛んでいった。ボールでも当たりそうになったのだろうか。その場に教頭は頭を抱えてしゃがみ込んだ。幸いにも痛みはなかったが。
「大丈夫ですか」加納先生が駆け寄ってきてくれた。
「ああ、何でもない。一体、何が飛んできたんだ?」
「カラスです」
「……」この言葉に教頭の身は竦んだ。
「いきなりカラスが教頭先生に向かって急降下してきたんです」
「……そ、そうか」
「気がつくとカラスが教頭先生の頭上を旋回――」
 教頭は急いで立ち上がった。「加納先生、もう大丈夫だ。もう、何でもない」声が大きくなってしまう。苛立ちが隠せない。早く彼女を黙らせたかった。その鳥の名前を口にしないでほしい。
 「だけど、あのカラスったら――」
「うるさいっ。もう、わかったから」
「……」
「もういい」
「そ、……そうですか」
 彼女の顔から親しみが消えた。態度の豹変に戸惑っているに違いない。すべてがぶち壊しになったと教頭は悟る。「怒鳴ってしまって悪かった。すまない。ちょっと驚いてしまったものだから」それでも、こう続けないではいられなかった。「加納先生、今の事はここだけの話にしてほしい。絶対に誰にも言わないでくれないか」
 ほかの教職員に知れたらどんな噂話が立つやら。それが怖い。 
 「わかりました」
 彼女の返事には意に逆らって従う不満の響きがあった。当然だろう。もはや加納先生と仲良くなることは難しいかもしれない。きっと自分との距離を置くはずだ。取り返しはつかない。本郷中学の教頭にとって最悪の朝になってしまった。
 
   96

 訳が分からない。あの教頭先生の態度は理解に苦しむ。あんなにも簡単に感情を露わにする人とは思わなかった。たかがカラスが飛んで来たぐらいで。それもだ、カラスと聞いた途端に震えだしたりして。
 これから三年Α組の生徒たちと初めて顔を合わすというのに、加納久美子は本郷中学に居心地の悪さを感じた。
 同僚の先生たちは普通に挨拶をしてくれて歓迎の言葉も添えてくれた。しかし何か腑に落ちない。何か大事なことを隠されているような気がしてならなかった。
 時間になって加納久美子は教頭先生に連れられて自分が担任を務める教室へと向かう。足取りは重かった。二人の間に会話はない。
 クラスは三階にあって窓からは校庭の隅々まで見渡せた。最初に教頭先生が紹介してくれたが言葉数は少なかった。この場から早く立ち去りたいという気持ちが窺えた。
 教頭先生が教室から出て行って教壇に一人になると少し気が楽になった。「みなさん、おはようございます。今日から三年Α組の担任になりました加納久美子です。よろしく」
 一呼吸して生徒たちの顔を見る。みんなが笑顔だ。このクラスはまとまりがあって教えやすいと聞いていたが、その通りらしい。「みなさんの顔と名前を一致させたいので、さっそく出欠を取ります」
 静かだ。意味のないジョークを飛ばして注意を引こうという生徒はいない。久美子は名簿を開き、あいうえお順になっている名前を読み始めた。「青木大輔」
「はい」
 久美子は声のした方向に目をやり、生徒の顔を確認する。「伊藤信行」
「はい」
「石橋涼」
「はい」
「植木哲也」
「はい」
 十五人いる男子生徒の名前が終わりに近づいたときだった、窓の外で物音がした。バサっという紙の束が地面に落下したみたいな響き――。「あっ」A組の生徒たちを前にして久美子は驚きの声を上げてしまう。
 見ると、窓の外側にある手すりに黒い鳥が一羽とまっていた。久美子は瞬時に思った。教頭先生を襲ったカラスに違いない、と。これって、どういうこと? まさか、――そんな。教頭先生に急降下したのは偶然じゃなかったの。
 次の瞬間、加納久美子の全身が凍りつく。
 生徒たちは笑顔のままだった。誰一人として窓に振り向いた者がいない。物音は聞こえたはずだ。ど、どうして? 何人かの女子生徒が軽い悲鳴を上げても不思議じゃないのに。全員が新しい担任教師に顔を向けて無言で先を促していた。
 これは、……どうして。久美子は次第に息苦しくなっていく。つらい。身体に力が入らない。無理そう。これが終わったら早退したい。せめて出欠だけは最後まで……。
 「渡辺」やっと次の男子生徒の苗字を口から搾り出す。が、すぐに声が出せなくなった。先が続けられない。まさか……、これも偶然じゃないのかもしれなかった。力を振り絞って名前を呼んだ。「拓磨」
「はい」
 不安は的中。声には聞き覚えがあった。悪寒に包まれながらも返事をした生徒を目で捜す。息苦しさと共に心臓の鼓動が早くなっていく。窓側の最後列、そこに半年前に加納久美子を犯そうとした少年の姿があった。取り逃がした獲物を再び見つけたような目で笑っていた。
 う、嘘でしょう? ……信じられない。

   97  5年後 2004年 アテネ五輪 4月                       

板垣順平は来月で二十一歳になる。まだ若いが親が所有する中古車販売店『板垣モータース』の経営を一切任されていた。父親が体を壊して、ほとんど会社に出てこられないからだ。この商売に入って五年が経つ。体格が大きいので若造に見られてバカにされることもなく、最近では経営者としての風格さえ漂わせていた。仕事には好都合だ。
セールスをするのに学歴は関係ない。大切なことは頼りになりそうな外見と説得力ある話し方だ、そう確信していた。
 扱う車種は出来るだけ国産の人気車種に限った。利幅は小さくなるが商品の回転は早くなる。同じ車が長々と展示場に置いてあるのは客にいい印象を与えない。外車は極上モノが安く仕入れられるときだけ買い取る。現在、店にはブルーと紫のBMWが二台あった。
 板垣モータースのサービスとして、お客が買ってくれた自動車が車検になれば、午前中に勤務先まで取りに来て、夕方の終業時間前には全ての手続きを終えて,洗車までして返しに来るというのがある。これは順平のアイデアだった。別料金でエンジン・オイルやATFの交換もする。整備工場まで車を持って行く必要がないので好評だ。もう何人かの客が、なかなか融通の利く店だと言って親戚や友達を紹介してくれた。ほかに従業員二人とアルバイト一人を雇うだけの小さな会社だが、同業他社が厳しい経営を強いられる中でまずまずの売り上げをキープしていた。
 今日も近くの児童養護施設で働く保母さん――正確には保育士と言うらしいけど――の車検がきたスターレット・ターボをピックアップに行くところでスバルの軽自動車を走らせていた。
 このヴィヴィオはビニール・シートが早くダメになるところ以外は気に入っている。特にCVTがいい。この軽自動車が客の代車となる。当然だが常に満タンにしてあった。お客が代車を使おうとした時にガソリンが少ないと印象は悪くなってしまう。小さいことだが、ここが肝心。商売とは基本的に人と人の繋がりだ。愛想の良さと、細かいところに手が届くことを心掛けていた。
 中学時代の友達と顔を合わせば、みんなが同じことを何度も繰り返して言う。「お前、ずいぶん変わったなあ」
 無理もない。あの頃の自分はサッカー部のストライカーとして大威張りで、周りの連中を恐れさせていたほどだ。少しぐらい自分勝手な行動を取っても、試合でゴールを決めれば許される雰囲気すらあったのだ。気に入らない奴は徹底的にイジめてやった。
 ところが今は違う。お客に頭を下げて中古の自動車を買って貰わなければならない。その利益で愛する家族を養うことが出来る。この歳で順平は、妻の連れ子だけど一児の父親だった。
 結婚を決めたのは中学三年の一学期で早かった。クラス・メイトだった五十嵐香月からプロポーズされたのだ。「ねえ、あたしと結婚してくれない?」
 突然だった。場所は教室、時は放課後の掃除当番をしている最中だ。箒と塵取りを両手に持ったまま、しばらく動けなかった。しかも彼女には、その一年前に日本代表がワールド・カップでジャマイカに1―2で敗れた翌朝、一方的に捨てられていたのだ。散々、デートで小遣いを使わされた挙句の果てに。
 五十嵐香月と付き合って、たった二ヶ月間で八十万円近くあった貯金は全て消えた。小学生の頃から少しづつ、百万円を目標に貯めてきた金だった。何か欲しいモノを買ってやればヤらしてくれると信じたからだ。Tシャツから始まって、ポロシャツ、ワンピース、水着へと進んで、ブラジャーとパンティの代金まで支払わされた。
 売り場でセクシーな下着を身体に合わせて、「これって可愛くない? あたしに似合う?」と訊かれれば、それを身につけた姿を拝ませてくれると思って金を払ってしまう。
 香月にアダルト・ビデオを借りてきて欲しいと言われた時は、これでヤらせてくれるんだと確信した。オレとラブホテルへ行くのに何か起爆剤というか、背中を押してくれる刺激が必要なんだろうと思った。そのAV女優のビデオを何度も何度も繰り返し見た。実際にヤるときは、同じ行為を香月が期待すると考えたからだ。見終わっても一人、布団の上で体の動きを練習したりした。
 佐野隼人が佐久間渚とヤるよりも早く自分が香月とできるのが嬉しかった。「オレ、五十嵐香月とヤったぜ」と親友に報告するのが楽しみだった。ところがキスもしないまま、一方的に別れを告げられたのだ。
 女の気持ちっていうのは永遠に理解出来そうにないな、そう思った。
 それに結婚の申し込み方にしても、なんか、すっげえ素っ気なくないか? 人生に関わる大切な問題だろうが。なのに妻の香月ときたら、なんか、ちょっと其処のゴミを箒で掃いてくれない? なんて調子で言ってのけた。オレの両親ですら、富津岬の花火大会でオヤジの方から焼きトウモロコシをかじっていたオフクロに申し込んだって聞いた。火薬の爆発音がうるさくて、四、五回ほど慣れない台詞を言い直して舌を噛みそうになったらしいけど。
もう少し時間と場所を選んで欲しかったなあ、という香月に対する不満は今でも残っている。
 次の言葉が耳に届いて、ようやく金縛りから解放された。「やっぱり、あんたが一番すてき」順平は無意識に返事していた。「そうだろう、やっぱり」
 また付き合ってみたいじゃなくて、もう結婚したいだった。それも二人は、まだ中学三年生なのに。何でそんなに急ぐ必要があるのか?
 順平の疑問に香月は答えた。「あたし、妊娠しているの。来年の初めには産まれる予定なのよ」
 「ええっ」
「きっと男の子」
「だっ、誰なんだ、その相手は?」
だったら、もしかして、まさか……もう処女じゃないのかよ、お前は。順平はガッカリした。オレの方は、まだ童貞だぜ。でも、ここで不満を口には出すのは我慢した。
「そんな事どうでもいいの。もう別れた男なんだし、さ」
「じゃあ、いつ別れたんだ? そんな奴なら、その子供は堕胎した方が良くないのか?」
 ふざけた野郎じゃないか、オレのあとに香月と付き合って、しっかりセックスしてから別れたなんて。すげえ羨ましい。
「いやよ。あたし、絶対に産みたい。それに、もう手遅れなの」
「マジかよ。じゃあ、結婚したら法律的にオレが父親ってことになるのか?」
「もちろん、そうよ」
「……」セックスもしたことがないのに父親になってくれと頼まれて順平は戸惑う。
「どうしたのよ? あたしと結婚したくないの」
「いや、そ、そうじゃないけど……さ」
「いいわよ。だったら他の男子に当たってみるから」
「ま、待ってくれ」
 そんな冷たい言い方はないだろう。まるで小銭を貸してくれそうな奴を捜すみたいな口調じゃないか。「分かった、父親になるよ。だけどさ、オレの親に何て言えばいいのかなあ」
 処女でなくても構わない。子連れでもいい。五十嵐香月と結婚できるなら何でも受け入れられる。
 「バカねえ、そんなこと簡単じゃない」
「え、そうか?」
「うん。オレの子供だって言えばいいのよ。女を孕ましたから結婚しなきゃならない、って」
「なるほど」
 こいつは、なかなか頭がいいなあと感心した。美人でスタイルがいいだけじゃない。こんな女は他に見つけられないだろうな、きっと。
 「じゃあ、お前の方は大丈夫なのか? 香月の両親はオレとの結婚を許してくれるのかな」
「まったく問題はないわ」
「すっげえ自信だなあ」
「もう話をして、許しを貰ってあるもの」
「マジかよ?」えらく手回しの早い女だぜ、こりゃあ。
だけど一体どんな両親なんだろう? 一度も会ったことがないのにオレと一人娘との結婚を許可するなんて。それにオレ達まだ中学生だぜ。
「うん。それとね、言っておくけど子供は双子なのよ」
「えっ。……ふ、二人も?」いきなり四人家族かよ、まだセックスもしたことないのに。
「そう」
「どうして、そんなことが分かるんだ? まだ産まれてもいないじゃないか」
「あたしには分かるの、母親だから。だけど安心して。育てるのは一人だけよ」
「はあ? じゃあ、もう一人の子は」
「人に預けて育てて貰うの」
「誰に?」
「説明するから、よく聞いて」
香月の話は順平の理解を遥かに超えていた。ホラー映画か小説のストーリーを聞かされている思いだった。「そ、それをオレにやれって言うのか?」
「そうよ。あんたなら出来るわ、きっと」
「犯罪じゃないのか、……そんなことしたら」
「バレなきゃいいのよ。あんたなら上手くやれる」
「子供を取り替えるってのは何とか……。だけどさ、その他人の子を……」 
「何よ。したくないって言うの?」
「いや、そうじゃないけど。でも、どうしてもやらなきゃならないのか? そんなヒドイこと」
「そう」
「わからねえな」
「別に順平に理解して貰いたいと思っていないわ。ただ実行してくれたらいいの」
「……」
「怖気づいたの、あんた」
「だって、きっと警察が黙っていないぜ」
「まあね。事情聴取は当然でしょう。だけど、そこが頑張りどころじゃないの」
「どう頑張ればいいのさ? 警察なんかを相手にして。オレ、まだ中学生なんだぜ」
「歳なんて関係ないでしょう。上手く事故を装うのよ。しっかり計画を立てれば警察なんて誤魔化せるわ。悲しみに打ちのめされた父親を演じてしどろもどろに答えていれば、きっと向こうだって深くは追求してこない。もしも最悪の場合に刑務所へ行くことになっても、あたしはずっと順平を待っているから安心して」
「……」なんか恐ろしいことを言う女だなあ。
「あっ、動いた」
「えっ」
「お腹の子よ。ほら、触ってみて」
 香月は立ち上がると横に身体を密着させるように座り直した。そして順平の手を取ってセーラー服の中へと導き、下着の上から自分の下腹部へ当てた。分かり易いようにと思ってか、スカートのフックさえも緩めてくれる。うわあ、なんて柔らけえ。初めて触る憧れの異性の肉体だった。それも、もう少しで彼女のエッチな部分に届きそうなところ。女の甘酸っぱい香りにも包まれて目の前がクラクラしてきた。
 「どお? 分かる、動いているの」
「う、……うん」そんな事どうでもよかった。順平の関心は、ただ香月の身体に一秒でも長く接していたいだけ。
「あんたの子よ」
「うん」でも実感は全然ない。
「やってくれるわね?」
「わかったよ」逆上せてしまっていて他に答えようがない。
「もう離して」
「どうして。まだいいじゃないか」
「なに言ってんの。結婚したら好きなだけ触っていられるじゃないの。だから今はお預け」
「ちぇっ」
 ところが、あれから五年経った今でもお預けは続いている。
 中学三年の冬休みから順平の家で同棲を始めたが、そうなる前には予想した通り両親との間で一悶着あった。
 「オレ、結婚したいんだけど」
 この言葉が宣戦布告になった。オヤジが応援する中日ドラゴンズが十一年ぶりにセ・リーグの優勝を決めた日を選んだのだが効果はなかった。
 「何だって? バカ言ってんじゃないよ、お前は」と母親。
「いくつだと思ってんだ、お前。そんな言葉を口にするのはなあ、十年は早いぞ」父親が続く。
「実は子供が産まれるんだよ。それも来年の初めぐらいに」香月に入れ知恵された通りに言ってみた。
「……」
「……」
 これは効果があったみたいだ。おい、今の聞いたか? そんな感じでオヤジとオフクロが顔を見合した。「だから責任を取らなきゃならない。お願いだよ」
「相手は誰なの?」母親だ。
「五十嵐香月。クラス・メイトなんだ」
「えっ、同じ年の女か? どっかの薄汚い商売女かと思った」と、父親。
「そんなんじゃないよ、父ちゃん」
「いつ、ヤッたんだい? お前」
 この母親の質問にはたじろぐ。何も考えていなかった。「せ、先週だったかな……よく覚えて――」
「バッカだねえ、お前は。騙されているんだよ。そんなに早く妊娠が分かるわけないじゃないか。来年には産まれそうだって? それは絶対に、お前の子なんかじゃない」 
「じゃ、じゃあ、もっと前だったかもしれない」
「いつだ?」親父の口調は強い。
「よく覚え――」
「馬鹿野郎。そんなこと忘れる奴がいるか? 父ちゃんだって、しっかり初体験は覚えて――」
「プレイ・ガールとかいう風俗店を無断欠勤でクビになった年増のデブだろ」透かさず母ちゃんが口を挟んだ。
「……な、なんで、お前,そんな事まで――」
「うちでアルバイトしていた磯貝洋平が教えてくれたよ。あれは、おだてれば何でもペラペラ喋ってくれたからね」
「あ、あの野郎。……畜生、信じていたのに」
「そんな話は、どうでもいいよ」母親は父親に勝ち誇ったような表情を見せてから順平の方へ向き直った。「五十嵐香月だって? あの見掛けだけのアホ娘だろ」
「お前、知ってんのか?」気を取り直して父親が母親に訊く。
「うん。授業参観とかで何度か見たことがある。背が高いから目立つ子だけど、性格は意地汚さそうだった」
「そうだろうな。うちの息子を金が目当てで誘惑するくらいなんだから」
「見るからに、ふしだらな娘だよ。男だったら誰でもいい。すぐに自分から股を開きそうな、セックスすることしか頭にないって感じの子さ」
「母ちゃん、そんな酷い言い方はないだろう。よく知りもしないでさ」
「いいか、順平。お前はそのアバズレに騙されているんだ」父親は母親の言葉で完全に五十嵐香月という人間を理解したようだった。
「違うよ。本当に結婚したいんだ」
「何を言ってる。まだ十五歳だろ。これから幾らでもイイ女は見つかる。お前は板垣モータースの後継ぎ息子なんだ、それなりのしっかりした娘じゃないと困る。そんなスケベで、男にだらしない売女のことは忘れろ」
「だけど、もう約束しちゃったし」
「よし。だったら、そのアバズレをここに連れて来い。俺が話をつけてやるから」
「そうだ。お前の手に余るんだったら、お父さんに任せなさい。その方が母さんも安心だよ」
「……」
 順平の力では両親を説得できそうにない。翌日、とてもじゃないが結婚は難しいと香月に打ち明けるしかなかった。
 「あ、そう。じゃあ、いつ?」
「えっ」
「いつ、順平の家へ行けばいいのよ?」
「ほ、本気なのか?」
「そうよ。あんたの父親と話をつければいいんでしょう」
「お前、そう簡単に言うけどなあ。うちのオヤジとオフクロを知らないから――」
「だったら今週の日曜日に伺います、って伝えてくれない」
「マジかよ? どうなってもオレは知らないぜ。お前が傷ついて泣く姿だけは見たくないんだ」
「いいから、あたしに任せて」
 香月は、順平が心配だから迎えに行くと言うのを聞かず、たった一人で板垣家まで歩いて来た。長い髪をアップにして、タイトな水玉模様のワンピースに白のハイヒールという大人びた姿だった。これが同じ人物かよ? 玄関のドアを開けた順平は言葉を失う。それに、こんなにセクシーで綺麗な女は今まで見たことがなかった。
 居間のソファに座って待ち構えていた両親も戦意を殺がれてしまった様子だ。「初めまして、五十嵐香月です。どうぞ、よろしくお願いします」と、言われるまで固まったまま動かない。
 ぎこちない挨拶が済むと母親だけは気を取り直して、あんたの話は辻褄が合わないとか言って攻撃を始めた。しかし父親の援護射撃がない。順平と同じで、ソファに腰掛けて露わになった瑞々しい色気を発散する十五歳の太股に目が釘付けだった。
香月の方は、まるで聞こえなかったみたいに天気の話から始めて中日ドラゴンズと福岡ダイエー・ホークスで戦う日本シリーズへ話題を飛ばす。「どっちが優勝するかしら?」
 「そりゃあ、もちろん中日ドラ――」横から母親に肘で突かれて父親は途中で黙り込む。
「お母さま、その黄色いポロシャツが素敵だわ。すごく似合ってらっしゃる」
「あ、これかい? うふ、これはねえ、去年グアムへ行った時に免税店で見つけたんだ。あたしの大好きなラルフ・ローレンが空港で三割引なん――あっ、バカ。そんな話してんじゃないだろ。あんたのお腹の中の子供だけど――」
「わたし達、冬休みから一緒に住むつもりなんです。婚姻届は順平くんが十八歳になるまで待たなければなりませけど」
 香月は都合の悪い話はのらりくらりとかわし、言いたい事は問答無用という感じでハッキリ口にした。一時間ぐらい家に居ただろうか、その間ずっと両親を手玉に取った。冬休みから同居するなんて順平だって、たった今聞かされたところだ。
 「そんなに思ったほど悪い娘じゃなさそうだ。なかなか、しっかりしてる」
 香月が帰ったあと、すぐに父親は順平の方を向いて言った。横で母親が裏切り者でも見るような目で睨みつけるが顔を合わそうとしない。これで決まりだった。
 母親が反対するのを押し切って、クリスマスの日から同棲を始めた。順平は期待に胸をふくらませて初夜を迎えたが、香月に妊娠中なのでセックスが出来ないと、ダブル・ベッドに入ろうとして初めて言われて深く失望する。そんな事ぜんぜん知らなかった。直前じゃなくて、もう少し早く教えてくれたら良かったのに。堅くなった下半身をどうすりゃいいのさ。さらに、就寝中にお腹の子供を蹴る恐れがあるので、あんたは床に布団を敷いて寝てくれとも言ってきた。ところがだ、無事に男の子が生まれても、産後の日経ちが悪いとかで相変わらず身体に触れることを拒み続ける。
 何の為に結婚したのか分からねえ。これじゃあ、新婚からセックスレス夫婦と同じじゃねえか。不思議なことに丁度その頃から母親の健康が日を追って悪くなっていく。入退院を繰り返した。順平は看病で忙しくなって、夫婦間の問題を話し合って解決するという時間がなかなか見つけられない。
 募る欲求不満を解消してくれたのは、中学で香月の仲間だった山田道子だ。順平にとっても彼女は幼馴染みで話し易い相手でもあった。ちょくちょく家に遊びに来てくれたので、思い切って相談してみた。「なあ、聞いてくれ。香月の奴ったら、オレに一度もセックスさせてくれないんだぜ」
「あら。……やっぱり、そう」
「それ、どういう意味だ?」何か知っているような口振りだな。
「香月の性格じゃないかしら。セックスに対しては淡白だと思った」
「どうして」
「あたしらと佐久間渚の三人でセックスの話をする時だけど、いつも香月ったら興味なさそうにしてたから」
「へえ」
「ああいう子って結構多いらしいわよ」
「ああいう子って、どんな?」
「つまり外見は凄くセクシーで魅力的なんだけど、実際に抱いてみると手応えがなくてガッカリさせられるっていうのかな」
「お前、なかなか詳しいな」
「うん。それなりに本を読んで知識を得ているからね」
「どんな本だよ?」
「主に『女性セブン』かな」
「えっ、……それって週刊誌じゃねえの?」
「そうよ。だけど記事の内容は濃くてシッカリしている。ほかには兄貴がたまに買ってくる『週刊宝石』なんかも読んでいるし」
「……」お前が言う本は、その程度かよ。「だったら、その反対の女も存在するってことなのかな?」こいつに相談するんじゃなかったと後悔し始めたが、ふと疑問に思ったので訊いてみた。
「その通りよ、もちろん」と、言うと山田道子は片手を腰に当て、横を向いた意味あり気なポーズを取って見せた。さらにウインクまでして、「どう、あたしを試してみる?」ときた。
 断る理由はない。しかし驚いたことに、その大胆な誘い方とは裏腹に山田道子は処女だった。
 ラブホテルまでは自分のマウンテン・バイクに荷台が無いので、オフクロの買い物カゴ付き自転車を借りて二人乗りして行った。だけど、いざ部屋に入って行為に及ぼうとすると道子は身体を震わせて、怖い、怖いと言いながら泣き出しそうになる。勃起した先端が彼女の股間に接触するだけで、いやっ、いやっと叫んだ。仕方なく身を引くと今度は、止めないで、止めないで、だった。それを何度も繰り返す。わけの分からない女だな、こいつ。結局、一回目は裸を見せ合っただけで終わる。挿入しようとすると順平の背中に爪を立ててしがみつくからだった。血は流れてくるし、痛くて、それどころじゃなくなった。
 やっと一週間後の二回目で結ばれたが、その後は会うたびにセックスするのが苦痛になっていく。もっとイイ女とヤりたい。逆に山田道子の方は頻りに順平の体を求めるようになる。 
 成り行き上、無下に断ることも出来ないのでホテルには行くが、順平は目を瞑り、頭の中では妻である香月のヌードを想像しながら行為に及んだ。そうでもしないと勃起しなかった。香月が脱いだ下着に顔を密着させて一人でエッチしていた方がどんなに楽しいだろうか。
 数ヶ月も経つと、いつ別れ話を持ち出そうかと考えるようになった。出来るだけ相手を傷つけることはしたくない。女房に気づかれそうなので友達の関係に戻ろうぜ、と言うつもりでいた。そのセリフを口に出す覚悟で、いつものラブホテルで二人だけになった。今日が最後だ。
 だけど、その日に限って山田道子の服の脱ぎ方が違った。隆起の少ない身体をくねらせながら、見せびらかすようにスカートを下ろす。少しでもセクシーに振る舞って雰囲気を出そうという気らしいが。止めろ、無理だ。反対に萎えてくるぜ、こっちは。
 ところが、「お、お前、どうしたんだ? そ、それ……」ぶったまげた。
 「うふっ」
 驚いたことに、山田道子は妻の香月と同じチューリップ柄の下着を身に着けていた。その姿は見たことがないが、洗濯物として干してあるのを順平は何度も見ていた。周りに誰も居ないことを確かめてから、そっと顔を近づけて匂いを嗅いだことも少なくない。洗剤の香りしかしなくてガッカリしたが。  
 「香月が貸してくれたの。今さっきまで彼女が身に着けていたモノよ。まだ温かいし、匂いだってついているの。さあ、あたしを香月だと思って抱いて」
 どうなっているんだ、一体。しかし訊くのは後でも構わない。とにかく匂いが消えていかないうちに、という思いで順平は山田道子の体に飛びついた。
 燃えた。射精しても香月の下着の匂いを嗅ぐだけで、また強くすぐに勃起する。目を瞑り、想像力を働かせながら続けて五発。六度目になると匂いが山田道子の汗でほとんど消されてしまい、さすがに自分の行為が空しく感じ始めた。
 「なあ、どういう事なんだよ」
 ベッドの横で山田道子は、はあ、はあ、とまだ腹部を波打たせていたが順平は訊いた。性欲が満たされて、疑問を解き明かしたいという欲求が強くなった。
「え、なに? もうダメよ……あたし、もう出来ない。ヘトヘトなの」
「そうじゃない。どうして、お前が香月の下着を身に付けているんだよ?」
「順平くん、すごかったあ。これ、またヤろうね」
「おい、教えてくれ。どうして香月の下着なんか――」
「またしてくれるって約束するなら言うわ」
「……」
「どうするの」
「分かったよ」こんなのが続くのかよ、これからも。気が重くなっていく。
「これ着てみたらって香月の方から言ってきたのよ」
「どっ、どうして」意外な答えだった。思わず上半身をベッドから起こした。「何で、あいつが知っているんだよ? お前とオレのことを」
「あたしが言ったから。順平くんたら、香月のことを想像しながらエッチしていたでしょう」
「ばっ、馬鹿野郎。なんでバラしたんだ? そんな事まで」
「だって事実じゃないの。それに親友だもの、あたしたち」 
「親友?」
「そうよ」
「……」いや。香月の方は、お前のことを全然そう思っていない。それだけは確信が持てた。
 香月はオレの浮気を知っていたのか。それなのに怒るどころか山田道子に自分が着ていた下着まで渡したとは……。
 いつかはセックスさせてもらえると期待していたが、これでその可能性も消えたようだ。なんて女だろう。セックスする気もないのにオレと結婚したのか、あいつ。
 「ねえ、今度いつ会える?」
 山田道子が起き上がって甘えるように順平の体にもたれ掛かる。 
「……」自分が置かれた状況を考えると、答えてやるどころじゃなかった。
「ねえ、順平ちゃん、たら」
「お前、香月を孕ました男が誰か知っているか?」
 親友と言うくらいなら、もしかして付き合っていた男の話をしているかもしれない。そう思って訊いてみた。
 「うん」
「誰だ? 上級生かよ」
「ううん。クラス・メイトよ、二年生の時だった」
「えっ、じゃあB組の男子なのか、もしかして?」そ、そんな香月の気を引くようなイカす奴がいたか?
「そう」
「誰なんだ」
「黒川くん」
「えっ、誰だって?」
「黒川拓磨よ」
「し、知らねえ。そんな奴いたか、B組に?」
「うん。でも一月に転校してきて、もう三月には学校に来なくなったから印象は薄いかもね」
「どんな奴だった?」
「普通の男子よ」
「なんで、そんな奴と香月は寝たんだろう?」
「その時の勢いじゃないかしら。気がついたらセックスしていたって感じかな」
「……ふうむ」それが何でオレと付き合っていた時には起きてくれなかったんだ。「で、そいつは転校して行ったのか?」
「あたしは詳しいこと知らないけど、多分そうじゃないかしら。順平くん、本当に覚えていないの?」
「うん。どうしてだか分からないけど、中学二年の三学期のことは何も思い出せないんだ。気がついたら三年生になっていたっていう感じさ」
「でも順平くんは、教室の前の廊下で転んで病院に運ばれたじゃない。それも覚えていないの?」
「オレが?」
「そうよ。たしか土曜日なんだけど、二年B組の生徒のほとんどが教室に集まっていたらしいの」
「土曜日なんかに、どうして?」
「知らない」
「お前もいたのか?」
「……いたかも」
「どういう意味だ、それ」
「そこまで覚えちゃいないわ。一年近くも前の土曜日に何してたなんて。日記を付けているわけじゃないし」
「……」
「あんた、大丈夫?」
「ああ。だけどオレが病院に運ばれたなんて初めて知ったよ」
「そう……」
寄り添っていた山田道子が身体を離し、まじまじと順平の頭部を見る。何と思っているのか明らかだ。この人、中学二年のときの転倒で脳に障害が残っているんじゃないかしら、と疑っているのだ。見下すような目つきだった。
もしかして、これがチャンスになるか。わざと馬鹿を装えば、こいつは呆れて別れてくれるかもしれない。
しばらく二人はベッドの上で黙っていた。痺れを切らして口を開いたのは彼女だった。「ねえ、今度いつにする?」
「……」やっぱりか。しつこい女だ。さっきから、そればっかり訊いてくる。
 
 山田道子との関係は中学三年の三学期から始まり、五年経った今でも、どんなに順平が別れたいと願っていても続いていた。
 妻の香月とは形だけの夫婦だ。しかし彼女の美貌とスタイルの良さは板垣モータースという会社に箔を付けた。商売が上手く行っているのは順平の頑張りだけでなく、彼女の存在も大きかった。
 「きれいな奥様ですね」と誰からも順平は羨ましがられる。悪い気はしなかった。そこで香月には、中学校でクラスメイトだった篠原麗子の母親から買い取ったグリーンのベンツ E320 アバンギャルドを使わせることにした。妻の美しさに一層、磨きがかかった。
 産まれた子供はやっぱり男の子で、香月が一方的に拓也と名付けた。自分の子ではないから、もちろん似てはいない。
必ずやってくれと強要された『血の儀式』は、頭の弱い小僧を探し出して実行した。従業員として雇って、前後不覚になるほど酒を飲ませてから産婦人科病院へ連れて行く。新生児室で酔いつぶれて、目を覚ました時には殺人犯だった。
 父親に似ていないので、順平の両親も初めは、なかなか孫として認めようとはしなかった。しかし子供は驚くほど賢く、表情が豊かで愛嬌があった。板垣家が孫中心の生活に変わるのに時間は掛からなかった。
 理性で考えれば順平の精子で賢い子が産まれるわけがない。子供は言葉を覚えるのが早かった。絵も稚拙ながらも見事に描いて才能を窺わせるものがあった。板垣家の血筋では芸術に秀でた者は皆無だ。目鼻立ちも父親とは違う。それなのに順平の両親は孫を溺愛した。人に自慢できるということが不都合な事実を全て無視させてしまうのだ。
 「拓也は必ず立派な人物になるぞ。あの幼さで、もうすでに強い意識を持っているような感じがしてならない。きっと出世する。俺は協力を惜しまないからな」
 そこまで父親に言われてしまうと、「本当は自分の子じゃないんだ」と順平は告白できなかった。
 両親は家や土地の権利書を妻である香月の名義に変えてしまう。そんな大事なことを手続きが終わってから知らされる。更には、会社の代表取締役も香月にさせたいようだった。それら全てが孫の拓也の為と思っての行動だ。
 板垣家の一人息子という存在感がどんどん薄れていく。不安を覚えた順平は、セックスした後で山田道子にさり気なく言ってみた。こういう大切な問題を話す相手が自分の身近には、『女性セブン』と『週刊宝石』で得た知識がすべてだと信じている女しかいないと実感したときは辛いものがあった。友達や仕事の仲間はいるが、どいもこいつも人に言い触らしそうな奴ばかりだ。最も親しく付き合っているのは、うちの会社で働いていた磯貝洋平だったが、こういう場合こそ最も信用してはいけない男だっだ。弱みを見せたら最後、そこからどんどん甘い汁を吸おうとしてくるのだ。
 別に大したことじゃないという態度を装って言ったつもりだが相手の反応は大きかった。
 「えっ、嘘でしょう。あんた、それってヤバいよ。もし香月に捨てられたらどうするの? あの家から出て行かなきゃならなくなるよ。へたすりゃ、会社にもいられないから」
「まさか、そんなことには……」反射的に言葉が出てきただけで自信はなかった。
「バカ言ってんじゃないよ。あんたたちの間にはセックスがないんだよ。つまり愛情っていうものがないんだ。もし香月に好きな男ができたらそれまでだよ……、きっと」
「……」
 その通りだった。

 もし香月に捨てられたらオレはどうなるんだろう。この家から追い出されてしまうのか。
 ほとんど愛情を感じない、飾りだけの存在である妻の香月に家の財産を握られていると知ると、さすがに不安を感じ始めた。
 人生なんて何が起きるか分からない。
 最近、切実にそう思える。中学時代にクラスメイトだった連中が殺人事件を二つも起こしてからは、順平は将来に対して楽観的ではなくなった。
 君津南中学校二年B組から二つの殺人事件だ。
 一人は篠原麗子で、母親と別れた義理の父親を正当防衛という理由で殺している。
 事件を知ったときは信じられなかった。野良猫にエサをやったりする優しい娘という印象しかなかったからだ。大人の男を殺すほどの腕力の持ち主とは、とても見えない。 
 聞いた話では――順平は仕事柄いろいろな人との付き合いがあって沢山の情報が入ってくる――彼女は中学二年の頃に義父から性的虐待を受けていたらしい。毎晩のように寝ているベッドの中に手を入れられて体を触られ続けた。思春期の女子中学生にとって悪夢の毎日だったに違いない。とうとう耐え切れなくなって反撃に出る。義父は股間に大怪我を負い病院に運ばれた。治療した医者が通報して警察沙汰となり母親は離婚した。
 ところが義父だった男は、それで初々しい処女の肉体を諦めるような奴じゃなかった。一年も経たずに、夜の仕事をしている麗子の母親の目を盗んで、再び彼女の部屋へ忍び込んだのだ。
 パジャマを脱がされた篠原麗子は抱きつかれて無我夢中で抵抗した。もみ合いになって、気がついたら義父だった男は窒息死していたという。
 現場には証言とは辻褄が合わない不自然なところも少なくなかったらしい。死んだ男の手首には手錠が掛けられていた痕があったりと。警察が問い詰めると彼女は涙声で、「ものすごく怖かったので何も覚えていません」と答えるだけだった。 
 なかなか事件の検証が終わらない。過剰防衛を疑われ始めた娘を守るために母親は弁護士を雇うことを決めた。その費用を捻出しようと、男と離婚する際に譲り受けたグリーンのベンツを板垣モータースに売却したのだった。
 もう一つは山岸たち三人が起こした事件で、殺されたのは中学時代にクラスメイトだった土屋恵子だ。実は彼らは二年B組のときから彼女に恐喝されていたらしい。家が全焼して彼女が袖ヶ浦市へ引っ越すまで続いた。これで解放されたと山岸たちは安心する。ところが木更津市にある私立中央学園高校に進学して再び同じクラスで顔を合わせてしまう。土屋恵子は途切れた一年前までさかのぼり、それに利息まで付けて一括請求した。とても高校生三人が支払える金額ではなかった。また悪夢の日々が始まる。もはや彼女を殺すしか自分達は自由になれないと結論した。
 日曜日の夕方、袖ヶ浦公園に誘い出した土屋恵子を、三人は金を支払う代わりにバットで殴りつけた。積もった鬱憤を晴らすかのように痛めつけて息の根を止める。死体の身元を分からなくする為に彼女の顔に灯油をまいて火をつけた。ところがだ、まだ死んではいなかった。気を失っていただけだ。土屋恵子は激しく身体を回転させ、燃える顔面を押さえながら断末魔の叫び声を上げる。山岸たちはパニックになり、結局その場で三人が駆けつけた警官に逮捕された。
 考えてみると二年B組に在籍していた生徒に、いい話はほとんどなかった。
 これから自動車を引き取りに行く、その相手もクラスメイトの一人で、学級委員長をしていたほどの頭のいい女子生徒だった。ところが中学二年の三学期に富津のジャストでワコールの下着を万引きして補導されてしまう。警察では一緒にいた友達の小池和美に唆されたと涙ながらに供述した。小池和美の方は警備員を突き飛ばして大怪我を負わせた上に取調べでは一貫して黙秘を続けた。
 警察から連絡を受けた両親は慌てた。何とか穏便に済ませたい。
同じ二年B組にいる新田茂男の母親とは家族付き合いで、彼女は養護施設の園長をしている関係で、教育委員会や警察に知り合いが多くいた。家の恥を忍んで助けを求めた。
 結局、補導歴は残さないという形で落ち着いたが、噂は学校中に広まった。それを境に、将来を期待されていた女子生徒の成績が落ちていく。委員長も辞めた。三年生になって生徒会長を決める選挙に立候補してカムバックを計ったが、結果は惨敗だった。勉強はしなくなり、ボーイフレンドを作っては遊びまくる生活になった。卒業すると商業高校へ進み、その後は、新田茂男の母親の計らいで養護施設で勤務しながら保育士の免許を取得した。
 中学の時あれほど子供は大キライだと公言していた女、その古賀千秋が保母をしている。人生なんて分からねえな、と順平はしみじみ思う。
 「あれっ」
 養護施設に着くと、すでに門のところで古賀千秋が待っていてくれた。幼い子供と手をつないでいる。車検の白いスターレット・ターボも横に停めてあった。
 順平が思わず驚きの声を漏らしたのは、その子供の姿を目にしてだ。
 どうして、ここに拓也がいるんだ?
 おかしい。息子は妻の香月と一緒に家にいたはずだ。今日は千葉の三越へ買い物に行くとか言っていたのに。
 順平は軽自動車のヴィヴィオを停めてドアから降りるところで声が出なくなった。お前、こんなところで何をしている、と息子に言うつもりだったのが――。
 「板垣くん、おはよう。今日は、どうも有難う」
「……」
「おはよう。板垣くん、どうかしたの」
「い、いや。な、何でもない……おはよう」
「あら、元気ないじゃないの。板垣くんらしくない」
「ちょっと……、その、……風邪気味なんだ」
 息子じゃなかった。そっくりだが息子の拓也ではない。どこかが違う。
 幼い子供であるはずなのに順平を睨みつけていた。威圧するような鋭い視線。お前は何も言うな、そんなメッセージが伝わってきそうだった。
 姿こそ人間だが、何か違う存在に思えた。不気味な力を持ていそうだ。それが敵意を剥き出しにしている。順平の防衛本能が警告を発した。その子供に近づくな、危険だ。
 「へえ、めずらしい。早く治しな。ところで、昨日なんだけど、小池和美から電話があったのよ。びっくりしちゃった」
「え、あの、……少年院送りになった?」
「そう。その、小池和美よ。やっと出所したらしいの。あたしと話がしたい、だって」
「へえ。やっと出られたのか。で、どうするんだ?」
「会ってやるつもりよ。あの子って、なかなか使い道があるんだ。何でも言う事は聞くし、あたしには絶対に逆らわないから。ダサい女だけど、パシリとして付き合ってやるには申し分ないの」
 え、でも……ちょっとヤバくないか、それって。お前ら二人が中学二年の時に万引きで補導されたのは、同窓生なら誰でも知っている事実だ。だけど古賀千秋は自由の身なのに、小池和美の方は主犯格として長期少年院へ送られた。その結果に彼女は納得しているんだろうか。また以前と同じように付き合うなんて、普通じゃ考えられない。会わない方がいいと思うけどな。しかし順平の口から出てきた言葉は逆だった。「そうだな。それがいい」
 自分の気持ちを正直に伝える余裕はなかった。この場から早く立ち去りたい。「悪いけど、ちょっと急いでいるんだ」車検の代金と彼女の車の鍵を受け取る。なんとか手が震え出すのを堪えた。
 「三時過ぎには戻って来られると思う。じゃあ、失礼します」言葉は事務的で、いつもの愛想の良さはなかった。
 お客の車に乗り込んでエンジンを掛ける。アクセルを踏む前にウンドウを下げて古賀千秋に会釈したが、努めて幼い子供を見ないようにした。
 養護施設から遠ざかり国道へ出るまで落ち着かなかった。気がつくと汗びっしょりだ。このスターレット・ターボを返しに来るのはイヤだ。あの子供に二度と会いたくない。従業員の誰かに行かせよう。
 このことは妻の香月には黙っているべきだと思った。息子の拓也とそっくりな子供が養護施設にいたなんて言ってみろ、きっと見に行きたいと言い出すに決まっている。何か面倒なことが起きるに違いないのだ。
 そうなると従業員を養護施設へ行かせるのはマズかった。拓也くんにそっくりな子供を見ましたよ、なんて得意になって香月に報告する様子が目に浮かぶ。しかし誰かに車検を取ったスターレット・ターボを返しに来させないといけない。
 運転をしながら、身の周りにいる仲間で仕事を手伝ってくれそうな奴を頭で探す。最初に浮かんだのは磯貝洋平だが、すぐに排除した。一緒に遊ぶには楽しいが、弱みを握られたら面倒なことになりそうだ。
 他に何人かの名前が挙がったが、よく考えると、すべてが妻の香月に媚を売ろうとする連中だった。安心して任せられるのは一人もいない。
 携帯電話が鳴った。うわさをすれば何とやら。磯貝からだった。「もしもし」
「おい。今日、どうする」いきなり訊いてくる。あいつらしい。
「え、どうするって?」
「決まってんだろ。『ショー・ガール』だよ」
「ウソだろ。金曜日に行ったばっかりじゃないか」
「それがさ、マリアンから電話があって、また会いに来てくれって言うんだ」
「そんなの当たり前だろ。向こうは商売なんだから」
「いや、オレに気がありそうな雰囲気だったぜ。分かるんだ、なんとなく、彼女の口調でさ。うふ。で、お前、どうする」
「行かない。今日はダメだ。ほかに用事があるんだ。売り上げの伝票とかも整理しなきゃならないし」
 本当のところは、見たいテレビ番組が二つ同じ時間帯で放送するのだ。『渡る世間は鬼ばかり』をビデオで録画して、『世にも数奇な女の人生 愛と憎しみの芸能界 女の羅朱場SP』の方は見るつもりでいた。こういうゾクゾクするタイトルは見逃せない。
 「そうか」
「誰か他の奴を当たってくれ。オレは行けない」
「わかった。そうする。でも考えが変わったら電話してくれ」
「うん。だけど期待はしないでくれよ」
 呆れた奴だ。携帯電話を閉じるなり順平は思った。ちょっとポロシャツの上からオッパイを触らせてくれただけなのに、もうフィリピンの女に夢中になっていやがる。『オレに気がありそうだ』って、バッカじゃねえのか、あいつ。
 いや、……待てよ。付き合ってやる代わりに、仕事を手伝ってもらうってのも悪くない考えかもしれない。
 恩を売った形にすれば、もし息子とそっくりな子供を見たとしても、真っ直ぐ香月のところへ行ったりしないはずだ。まずはオレに言ってくるだろう。また、その子供と顔を合わせない可能性だってある。それを期待したいが。
 コンビニに寄ったりして少し時間を潰す。直ぐに電話を掛け直したりすれば、あいつはヘンだなと思って疑う。そういう奴だ。
 会社に着くまで待った。駐車場にスターレット・ターボを停めると助手席のシートから携帯電話を取り上げ、順平は着信履歴の一番上のところを押した。


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