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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第12回 88 - 92
   88  一ヵ月後 1999年 4月 新学期
   
 「遅っせえな、こん畜生」少年は癇癪を起こしたいところを堪えて、小声で悪態をつくだけにした。「何をやってんだろう、あのバカは」
 人が行き交う五井駅西口の真ん前だった。知った人間が近くにいないとも限らない。しかめっ面で汚い言葉を使うのを見られて、誰からも好かれる優等生という評判にキズがついてはマズかった。せっかく順調に滑り出したビジネスがやり難くなる。
 素直で勉強が出来る少年という印象が人の心に植え付くように努力してきた。必ず目上の人には挨拶をする。無視されても続けた。扱い易い少年と思って誰もが気を許して接してくれたら、こっちの思う壺だ。
 あれっ、このガキ、なかなか狡賢いぞ。
 そう気づいた時は、もう手遅れ。弱みを握って、相手を意のままに操れる立場に立っている。こっちは一枚も二枚も上手だ。オレは誰にも指図されたりしない。指図するのは、このオレだ。 
 四十分も前から駅の西口ロータリーで父親の帰りを待っていた。
コンビニが店先で流し続ける『団子三兄弟』の曲が耳障りでならなかった。もう二度と食ってやるもんか、という団子に対する嫌悪感すら芽生えてくる。しつこいんだよ、同じ歌ばっかり聞かせやがってよ。
 携帯電話をポケットから出して見ると午後二時前だ。三時までは父親を絶対に家に入れることはできない。だから約一時間はカトーヨーカドーで買い物させたり、ラオックスでパソコンのカタログを貰いに付き合わせたりで、なんとしてでも時間を潰さなくてはならなかった。
 父親が会社から自宅に電話を掛けてきたのが昼前だ。少年が受話器を取った。もしかして約束した人物が予定を変更するのかな、と思ったからだ。
 「おい、オレだ。あれ、……お前か、学校はどうした?」
「あっ、お父さん」畜生、こんな時間に何で父親が電話してくるのか。何がマズいことになりそうな予感が走る。「うん。あのね、今日は緊急の職員会議があるとかで午前中で終わったんだよ。それよりさ、どうしたの?」
「だったら、母さんは居るか?」
「え、……どうして?」
「どうして、じゃない。母さんと話がしたい」
「今は、……無理だけど」
「何で?」
「だって……さ、出掛けてるもん」
「どこへ行った?」
「サンプラザのプール……」
「何時ごろ帰ってくる?」
「一時間ぐらい後じゃないかな。……何で?」
「急に出張が決まったんだ。明日の朝早くに新幹線に乗らなきゃならない。その用意があるから今から帰る」
「……」
「おい、聞いてんのか」
「今すぐに帰ってくるの?」
「これから簡単な打ち合わせをして、その後だ」
「だいたい何時ごろの電車で帰ってくるの?」
「たぶん一時半ごろかな、そっちに着くのは。母さんが帰ってきたら、そう伝えてくれ」
「わかった、そう言うよ」
「じゃあ、切るぞ」
「うん」
 やばい。間もなく今日の客がやって来るというのに。こっちからキャンセルしようか。少年にとっては前金で手にした七万円を返す義務が生じる。ところが、ほとんど使ってしまって幾らも残っていなかった。それとも予定通りにプレーさせてやろうか
 午後二時半までは客が家に居るだろう。つまりキャンセルしないならば一時間から一時間半は、どこかで父親を足止めさせないといけない。
 よりによって今日かよ。急に出張が決まるなんて。せっかく上手く行き始めた少年のビジネスが存続の危機に直面していた。
 どうしようか。
 しばらく考えて、お客には連絡しないことに決めた。前金で貰っている手前もある。父親を三時近くまで外で連れ廻してやるしかない。
 電話で言った事は全て嘘だ。学校で緊急の職員会議なんかなかった。仕事の段取りがあるからサボっただけ。母親もプールへは行っていない。ちゃんと家にいた。お客を迎えるために、その仕度をしているところだった。
 第一、今日は月曜日でサンプラザ自体が休みだ。慌てたので、つい簡単にバレるような嘘をついてしまった。まだ甘いな、オレも。
 客は父親が通う近所の床屋、そこの主人だった。中年太りで、いつも脂ぎった顔をニヤニヤさせている。愛想はいいけど頭の中ではスケベなことばかり想像しているに違いなかった。
 こいつは客になる、と少年は直感した。自分の母親の姿に、嘗め回すような視線を送っているのを何度も見ている。
 母親は三十三歳になるが若作りでスタイルも良く、人目を惹くほど色気があった。高校生の娘と中学生の息子がいると知らされると、誰もが驚きを隠さない。
 一ヶ月前だ、少年が散髪に行くと都合がいいことに他に客は誰もいなかった。床屋の椅子に座って髪をカットしてもらいながら、それとなく誘いを掛けてみた。
「僕の母さんがオジさんのことを、男らしくて素敵だって言ってたよ」
「……」ハサミを持つ床屋の手の動きが止まる。間を置いて笑い出した。「わっはは。ボク、冗談が上手いなあ。あはは」
 予想通りの反応だ。こいつは満更でもない。それが事実であって欲しいと願っている。常識的に考えれば、こんな不恰好なデブを素敵だなんて言う女がいるわけがなかった。だけど不思議なことに本人だけは、そう思わない。
 自分がブスだと思っている女は、まずいない。それと同じように、自分が不細工でバカだと思っている男もいないのが事実だ。どこかに、たとえば鼻とか口元に長所を見つけ出すか、それとも太鼓腹を恰幅の良さと解釈したりして、人並みだと愚かに信じている。このデブも例外じゃなかった。
 「冗談じゃないよ。本当だってば」
「キミのお母さんみたいな綺麗な人がそんなことを言うわけないだろう。あはは」
「男の人は外見で判断できないって言ってたよ。こういう店を一人で経営しているなんて立派だってさ。それにね、内緒だけど母さんは離婚したがっているんだ」
「……それって、本当かい」
「うん。ずいぶん前から父親とは別々の部屋で寝ているしね」
「へえ、信じられないなあ。仲が良さそうな夫婦に見えたけど」
「離婚は時間の問題じゃないかな。お母さんが寂しそうにしているから、早くボーイフレンドでもできたらいいなと思っているんだ」
「……」
 さっきとハサミを動かすリズムが全然違う。まるで素人の手付きになっている。「オジさん、その気ない?」
「ま、まさか……キミのお母さんは俺なんか相手にしてくれるもんか」
「そうかなあ。オジさんみたいな人が友達になってくれたら、きっと母さんは喜ぶだろうな」
「あはは。そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」
暑くもないのに奴が額の汗を袖口で何度も拭うのを見て少年は本題に入る。「どうする? ぼくが上手く話をまとめてみようか」

 そこからはトントン拍子だ。友達になるための御膳立てから、売春の斡旋に話が変わっても床屋のオヤジは何も言わなかった。ヤりたくて、ヤりたくて堪らないらしい。ただ何度か念を押すように訊いてきた。「本当に出来るのかな、そんなことが。大丈夫なんだろうね。君を本当に信用していいのか」
その度に、こう答えてやった。「任せてよ、上手くやるから。ただし幾らかの手数料は欲しいなあ」と。
 手数料と聞くと床屋のオヤジは僅かに首を立てに振って見せた。タダでは出来ないことは承知しているが、子供に小遣いを渡す程度で済ませようとしているのは見え見えだ。
 奴の休みは月曜日だ。その日の午後に家まで来てもらうところまで話を煮詰めてから、やっと金を要求した。七万円という金額に、さすがに床屋のオヤジは身を引く。
 「そ、そりゃあ、高いよ。相場っていうモノがあるだろう。千葉に栄町っていう遊ぶところがあるんだが、そこの方がずっと安い。それにだ、キミの母さんよりもずっと若い子が相手をしてくれるんだから」文句を並べ始めた。「そんな大金を何に使うんだ。君みたいな中学生が小遣いにする金額じゃないぞ。もう少し、まともな数字を出しなさい」
「……」少年は反論しない。相手に好きなだけ言わせて、ただ黙って聞いていた。
 ソープランドの女なんて、いくら若くても所詮は商売女じゃないか。近所に住む美貌の人妻を相手に遊ぶ方がどれほどスリルがあるか想像してみろってんだ、このバカ。そう思っても少年は口には出さない。
 「いや、勘違いするなって。金を出さないと言っているわけじゃないんだ。どうだろう、三万円ぐらいで……。すぐに払うから」
 無言に不安を覚えたらしく、直ぐに奴は譲歩してきた。「ほら、三万円だ。受け取りなさい」
「……」床屋のオヤジが財布から取り出した札に少年は目もくれない。その代わりに用意してあった台詞を口にした。素直に床屋のオヤジが七万円を出すとは最初から想定していないぜ。「わかった。それじゃあ、いいよ。この話は無かったことにするから」
「……え」
「オジさん、時間を無駄にして悪かったね。忘れて下さい」
「ま、待てよ。そ、そんな気の短い――。そしたら一銭も手に入らないことになるぞ。せっかく、ここまで話は進んだのに。すべてが水の泡になってしまうじゃないか」
「いや。そんなことはないと思う」
「どうして。オレは一銭も払わないぞ」
「別にオジさんに払ってもらわなくてもいいから」
「どういう意味だ」
「駅前にあるスーパーの店長にも話しをしてみるさ」
「何だって?」
「ほかにも何人か母さんと仲良くなりたがっていそうな人がいるんだよ」
「……」
「どうする、オジさん」
「おっ、お前ってガキは……、そいつらにも同じ話を持ち掛けてたのか?」
「違うよ。オジさんに断られたら、そっちに話を持って行こうかなって考えただけさ。だって、母さんのお気に入りはオジさんだったからね。でも、あのスーパーの店長も四十歳を過ぎてるけど独身らしいよ。買い物に行く度にさ、ニヤニヤしながらオレの母さんに声を掛けてくるんだぜ」
「……」
「じゃあ、失礼しました。そろそろ帰ります」
「ま……待て」
「え?」
「待てと言っているんだ。帰らなくていい」
 
 そこで見せた床屋の表情は今でも忘れられない。顔いっぱいに苦々しさが浮かんでいた。たかが中学生の小僧に手玉に取られた悔しさだ。やっとオレの狡賢さに気づいたみたいだった。
 
 「話はオレがつけた。月曜日に床屋のオヤジに抱かれろ」 
 こう告げた時、母親は何も言わなかった。ただ食器を洗う手の動きが僅かに止まっただけだった。何を言われても素直に従うしかない、そう観念しているらしい。
 母親が自分の息子に違和感を覚えたのは、産んで間もなくだったようだ。まだ産婦人科病院から退院もしていなかった。
 小学校六年の二学期が終わるころ、私立の有名中学校から特待生として受けると通知が届いた時に、父親が洩らした。
 「お前は自慢の息子だ。素晴らしい。だけどな、お母さんは産婦人科病院で起きた事件のショックからだと思うけど、お前を自分の子供じゃないと言い出した時があったんだ。あっはは。今じゃ笑い話だ」そこで父親は真剣な表情になった。「もう中学生になるんだから話してもいいだろう。実はな、お前が産まれた病院で悲惨な事件があったんだ。気が狂った看護婦が、お前が寝ていた隣の赤ん坊をピンセットで刺して殺してしまったのさ。たまたま近くに父親がいて止めたから、それ以上の犠牲は出なかった。その看護婦は我が子を殺されて逆上した父親に殺されたけどな。俺は病院に着いたところだった。新生児室へ行ってみると、お前は血まみれで殺されたのかと思ったぐらいだ。大変な事件だった。バカな看護婦を殺してくれた、その父親に感謝したい。そうしなかったら、お前も殺されたかもしれないんだ。学校の成績は優秀だし、スポーツは万能で絵の才能もある。俺にとって宝のような息子なのに」
 言われてみると頭の片隅にそんな記憶が残っているのに気づく。しかし聞かされた話とは少し違う。その父親は最初に看護婦を殺したんじゃなかったか。それから隣に寝ていた赤ん坊を抱き上げて、その首に何かを突き刺した。真っ赤な血がほとばしった。少年は血を浴びせられ続けた。生暖かくて心地良かった。 

 息子が能力を発揮すればするほど父親は溺愛するようになった。
「お前はオレの全てだ。お前は間違いなく成功する。お前ならオレが出来なかった夢を実現できる。そのための援助は惜しまないからな」
 小学校六年になるころには、はっきりと息子中心の家庭になった。 
少年は家でしたい放題だ。まず三つ年上の姉に手をつけた。思春期を迎えて色気を帯びてきたところを頂いた。初めっから無抵抗。弟には逆らえない、そんな気持ちがあったようだ。彼女には中学校から付き合っていたボーイフレンドがいたが、結局それまで。高校二年の姉は、たちまち少年の性欲の虜になった。
 日中に姉弟が裸で抱き合う姿を母親が目にするのは時間の問題だった。父親の方は姉弟の仲がいいと喜んでいただけかもしれないが、女だけに何か怪しい雰囲気があると気づいていたのは確かだ。もちろん姉は性行為を秘密にしたがっていたが、少年の方は逆にバレることを期待していた。
 その日、いつも通りに学校へ行く振りをして家を出た姉弟は、母親が自転車でカトーヨーカドーへ買い物に出かける時間を待って、こっそり戻ってきた。
 誰も居ないはずなのに姉の部屋から物音が聞こえる。家に帰った母親が不審に思ってドアを開けた時は、まさに自分の娘が全裸で跪いて、弟の勃起したペニスを美味しそうに頬張っているところだった。
 少年が意図した通り、強烈なショックを与えた。金縛りにあったように母親は動かない。何秒かすると、その場に腰を落として手をついた。呼吸が荒い。
 少年は姉から離れると、苦しそうにしている母親の横に立った。放心状態で何の気力も体力も残っていないことを確かめてから、おもむろに膝を突き、勃起したままのペニスを今度は母親の口に捻じ込んでいった。

 「亭主を失望させたいのか? 家庭を打ち壊したいのか? お前が黙って我慢している限り、うちの家は平和なんだ」
 この言葉で母親を服従させた。しばらくの間、高校生の瑞々しい女体と三十代の成熟した女体を交代で犯す日々が続く。そのうち母親の方を他の男に抱かせて、小遣いを稼いでやろうと考えた。
 最初の客は父親が通う床屋のオヤジ、二人目は駅前にあるスーパーの店長だ。どんどん、お得意を増やしていくつもりだった。田所とかいう金払いのいい、君津に住む米屋を紹介してくれたスーパーの店長は、次回は割引き料金でプレーさせてやってもいいだろう。
 但し、あの床屋のオヤジには追加料金を請求したかった。少年も呆れるぐらいの性欲の持ち主なのだ。
 約束した二時間は、休むことなしに母親の裸体を弄ぶ。手錠とロープを使って自由を奪い、あらゆる手段で女を辱めるのが趣味らしい。母親の消耗が激しすぎた。
 「あの人だけは許して。とても体が持たないわ」二度目のプレーが終わると母親は訴えた。
「もう少しだけ我慢しろ。他に楽な客を見つけたら、あいつは断ってやるから」そう言って少年は宥めた。
 しかし女っていうのは不思議な生き物だ。あれほど嫌がっていたのにプレーが七度目を越えるころには、すっかり母親は床屋のオヤジに順応して喜びを覚えるまでになってしまう。
 客との性行為は隠しカメラで記録してあるので少年には母親の変化が一目瞭然だ。「どうしたんだよ、お前? 今では床屋のオヤジに抱かれるのが楽しいみたいじゃないか」
「……」母親は恥ずかしそうに下を向いたままで、否定はしなかった。
 
 その床屋のオヤジが今日の客だ。この時間、あのデブは様々な道具を使って母親を悶えさせているはずだった。
 少年は追加料金として幾ら請求してやろうかと考え始めた。トータルで十万円ぐらいは貰いたい。ただ、あのケチのことだから素直に支払いに応じることは絶対にない。納得させられるだけの何か言い訳を作り出さなくてはならなかった。
 何がいいだろうか。父親が現れるまでにアイデアが浮か−−。
 「うへっ」少年は吹き出した。
 いきなりだ。思考も中断するほど野暮ったい格好をした中年女の姿が目に飛び込んできた。
 女は数十メートル先の駅の階段の入り口に立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのか、そこから動こうとはしていない。
 なんて派手な服装だよ、あのババア。恥ずかしくねえのか。
 ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツだ。ここは駅前だぞ。お前ん家の自宅の居間じゃねえ。さらに人目を引いて滑稽なのは頭に巻いた大きな白い包帯だ。階段から転げ落ちるみたいな、よっぽど酷い怪我でもしたらしい。通り過ぎる誰もが一目見るなり、汚いモノを避けるようにババアから距離を取ろうとした。
 いつからそこに突っ立ってんだろうか。つい、さっきまではいなかったのに。階段から降りてくる一人ひとりに注意してたはずなんだが気づかなかった。まったく幽霊みたいに――。
 ……おい、嘘だろ。
 戦慄を覚えた。その中年の女が、じっとこっちを見ていることに気づいたからだ。何で? どうして? 失礼なババアだな。お前とオレとじゃ身分が――。や、やばい。鳥肌が立ってきた。中年女の視線を浴びて少年は不安に駆られ始めた。
 友達の母親にあんなのがいたか? いや、覚えがない。それに、もしそうだとしても、あんな表情でオレを見たりするもんか。こんなことは生まれて始めてだ。オレを見るなっ、見るんじゃない。
 逆に睨み付けてやった。この野郎、オレ様から視線を外――。でも中年の女は見るのを止めない。
 呼吸が荒くなっていく。怖い。頼むから、オレを見るのを止めてくれないか。少年も中年女から目が離せない。あっ。その女の口元が僅かに動く。な、何か言う。
 「拓磨っ」女が呼んだ。
 えっ、なに。……タクマ、だって? バカヤロー。オレは、そんな名前じゃないぜ。人違いじゃ――いや、女は確かにオレに声を掛けた。このオレが誰なのか、ハッキリと知っている自信が窺える。なぜだ。
 「行くよ」
 それだけ言うと女は振り返り、改札口へと続く駅の階段を上がっていく。すぐに姿が見えなくなった。
 少年は汗びっしょりだ。もう中年女はいない。助かった思いだった。
 あっ、……そうだ。
 去年の十月ごろだった、同じようなことが起きたじゃないか。そのときは、これほど慌てはしなかったけど……。
 久しぶりにドクター・ペッパーでも飲もうかと、家の近くにある自動販売機の前で自転車を降りたところだった。「ねえ、君」そこで父親と同じ年ぐらいの男に声を掛けられたのだ。
 「五井駅の近くにあるラオックスに行きたいんだけど、道が分からないんだ。教えてくれるかい?」
 ウソだろ、おじさん。オレと話をする口実にすぎない、と分かっていた。なぜなら、その男の姿はすでに二回ほど見ていたからだ。学校からの帰り道と公園で友達とサッカーをしている時だった。距離を取って遠くからオレを観察している様子が窺えた。この日は、とうとう話し掛けてきた。案の定だ、こっちが道順を説明しても上の空でしか聞いていない。
 それどころか、「この辺にキミは住んでいるのかい?」とか「今は何年生なんだい?」、「どこの学校に行っているのかな?」とか全くラオックスに関係のない事ばかり聞いてくる。
 変なオヤジだなあ、と思ったが付き合ってやることにした。態度からオレと仲良くしたがっていることが明らかに分かるからだ。悪いヤツじゃなさそうだし。
 「実はさ、お昼を食べていなくて、お腹を空かしているんだ。良かったら、どうだろう。一緒に食事をしてくれないか?」と言われると素直に応じた。どうしてだか分からないが強い親近感を覚えていた。この人と一緒にいたいと感じていた。 
 「いいよ。だったら、この近くにデニーズがあるんだけど、そこへ行かない?」と言うと、知らないオジさんは満面の笑みを浮かべた。
 しかし、この人の言う事は全部がウソみたいだ。『お腹を空かしているんだ』って言わなかったっけ? スパゲッティを注文したくせに、ほとんど食べない。反対に「もっとフルーツ・パフェは欲しくないかい? アイスクリームはどうだい?」とか、どんどんオレに食べさせようとする。
 時々コーヒーを飲みながら、ずっとこっちを見ていた。不思議なのは左の耳の傷を嬉しそうに見ていることだ。ほとんどの人たちが意識的に見ることを避けるのに。
 そして気になる一言を口にする、「そっくりだ」と。すぐにオレは反応した。「え? どういうこと」
「あっ、すまなかった。忘れてくれ、別に何でもないんだ。ごめんよ」
「……」その否定の仕方は、何か意味があるというふうにしか受け取れなかった。
 ひょっとしたら、この人はオレの正体を知っているのかもしれない、と思い始めた。『そっくりだ』って、一体このオレが誰にそっくりなんだ? 教えてくれ。両親と姉に全く似ていないのは、どうしてなんだ。それに、ずっと周囲の人間と自分は何か違うと感じていた。それらの疑問に答えてくれそうな気がした。バナナ・パフェを食べながら待った。でも世間話をするだけで、聞きたい事は何も教えてくれなかった。一時間ほどしてデニーズを出たが、苦しいぐらいに腹いっぱいになっただけだった。
 「オジさん,ありがとう。すごく美味しかったよ」お礼を言って自転車に跨った。返事はない。愛情に溢れた笑顔を見せて頷くだけだった。
 少年は相手の名残惜しそうな態度から、この人とは二度と会えないことを悟った。交差点を曲がる時に後ろを振り返ったが、もう姿はない。オジさんが帰りにラオックスに寄ったとも思えなかった。
 それから半年が経って、今度は野暮ったい中年女が現れてオレを惑わす。
 だけど……だけど、行くよって、どういう意味だ。勝手に行けって。さっさと行ってくれ。オレに構うな。まったく、わけが分からない。呼吸を整えようと深く息を吸う。早く落ち着きたかった。
 父親が帰ってくるのを待たないと。
 どうする、……どうしよう。何事もなかったように、また父親の姿が現れるのを待ち続けていいものか、疑問が浮かぶ。
 オレってタクマなのか? いや、……まさか。
 えっ、もしかして――。
 その時、不意に気がつく。半年前にデニーズで一緒に食事をしたオジさんは、産まれたばかりの新生児室で隣に寝ていた赤ん坊を殺した父親と同じ人物じゃないのか? 「ああーっ」 
 人が行き交う五井駅の前なのに無意識に声が出てしまう。きっとそうだ。十四年も経って会いに来たんだ。この事実に少年は背筋が震えるほど衝撃を覚えた。どうしてなんだ? 赤ん坊を殺した理由はオレに関係があるのか? たぶん、……いや、きっと、そうらしい。何かの運命に導かれていると確信した。
 無視できそうにない。
 あの野暮ったい中年女に声を掛けられたことで、少年の中で何かが崩れ去った。生まれてから今まで築き上げた様々な事が無意味に感じてきた。学校の成績も、周囲の評判も、始めたばかりのビジネスですらどうでもよくなった。
 オレはオレじゃなかったらしい。ずっと自分は周囲の連中とは違うと不思議に感じてきたが、その答えが見つかろうとしているようだ。 
 父親を引き止めないで、まっすぐ家に帰せば大変なことになる。自分の愛する女房が床屋のオヤジに裸を縛られて弄ばれているのを目にすることになるんだから。息が止まるほど父親は驚くはずだ。明日の出張はキャンセルかもしれないな。期待を掛けた息子が黙って姿を消したら、もう立ち直れない可能性が強い。それに追い討ちを掛けるように、たぶん一ヶ月もしないで愛娘の妊娠が明らかになる。姉は双子を身籠っているんだった。
 出来ることなら家庭の崩壊を自分の目で見て楽しみたい。絶望に打ちひしがれて、苦悩する父親の姿を知らずに立ち去るのは辛かった。問い詰められ、責められて母親が苦しむ様子も見たかった。
 決心した。
 少年は見ず知らずの中年女の後を追って五井駅西口の階段を上り始めた。コンビニの店先では,相変わらず『団子三兄弟』の歌が流れていた。

   89
 
 君津南中学校の三年A組の生徒全員が、体育の授業で校庭に集まっていた。男子も女子もサッカーの予定だったが、担当する森山先生が職員室からなかなか出てこない。生徒たちは暇を持て余し、お喋りをしたり、ふざけ合ったりしていた。こりゃ、いい。休み時間の延長だ、そんな気分だった。
 しばらくして校舎の方から体育の教師が、二人の灰色のスーツを着た男を連れて歩いて来るのを認めると、生徒たちの喋り声は次第に消えた。明らかに場違いな感じのする男二人だ。いつも朗らかな森山先生の顔に浮かぶ緊張した表情。生徒たちは異様な雰囲気を感じ取った。
 側まで来ると体育教師は立ち止まって、一人の男子生徒を指差した。二人の男が、その生徒に近づく。体操着姿ではなくて学生服のままの秋山聡史だった。体調不良を訴えて見学者リストに入っていた。回りにいた生徒が自分は関係ないという感じで一斉に身を引くと、そこに黒いスーツの男二人と秋山聡史だけの空間が出来上がった。何が始まるのか生徒たちは固唾を呑んで見守る。いい事じゃないことは間違いなさそうだった。何か大それた悪いことであって欲しいという期待感。その目撃者になれるかもしれないという幸運。他のクラスにいる友達に自慢気に話せるという優越感。全員が一言も発しないでショーが始まるのを待った。
 「秋山聡史くんだね」
「……」声を掛けられた生徒は訝しげに頷く。
「警察の者だけど――」
「い、いやだっ」
 背広の内ポケットから黒い手帳を出して、男が口にした警察という言葉が耳に届くと生徒たちに衝撃が走った。一瞬の静寂。「え、何だって?」聞こえなかった生徒が他の生徒に問う声が上がる。
 「警察だってさ」
「え、マジで?」
「うん、そう聞こえた」
「警察だって」
「警察だってよ」
「警察らしいぜ」あちこちで同じ言葉が繰り返される。当事者の秋山聡史にしては、相手に最後まで言わせない。後退りして拒否の言葉を張り上げた。
「ちょっと、話を聞かせ――」警察官が続ける。
「いやだっ、いやだっ」
「落ち着こう、秋山く――」
「火、火はつけたけど……、く、黒川くんに言われて﹃祈りの会﹄には出ました。そこで、ちゃんと祈りました。だ、だから……、警察には捕まりません。警察には行かない、絶対に。いやだーっ」そう言うなり逃げ出した。
 慌てて追いかける警察官二人。「待ちなさい」
 秋山聡史は大声で怒鳴りながら校舎の中へと消えた。「いやだーっ」体調不良のはずなのに足は速く、小柄ですばしっこい。姿を隠してしまう。自殺する可能性も否定できない。すぐに身柄を確保する必要があった。教職員も総出で逮捕に協力するしかない。警察官は署に応援を求めた。突然すべての授業が中止。全校生徒は教室で待機、各自で自習することに。トイレに行くのも制限された。何人もの警察官が廊下を駆けて行く。一体何が起きているのか。騒々しくて教科書なんか、とても手につかない。外に首を出して校庭に集まっている三年A組の連中から何かを聞き出そうとする生徒。窓を閉めなさいと手振りで指示を出す体育教師を完全に無視。こういう状況では情報を持っている者が人気者になれる。
 「誰かが警察に逮捕されるらしいぜ」三年A組に仲のいい友達がいたB組の男子生徒が、経緯を聞いて教室で待機する生徒たちに告げた。
「え、何で?」クラスでリーダー的存在の生徒が訊く。
「たぶん万引きじゃねえの」
「万引きした程度で何人もの警察官が学校に押し寄せるかな」
「そうだな。じゃあ、テロか」
「生徒の中にアルカイダの戦闘員がいたってことかよ、まさか」
「きっとイスラム原理主義者が三年A組の中に潜んでいたんだぜ」
「あのクラスにアラビア系の顔つきっていたか? 待てよ、北朝鮮の工作員ていう可能性は考えられなくないか」
「有り得るな。だけどさ、こんなところで破壊活動って何かしょぼくねえか? たかが田舎の中学校だぜ」
「そこが狙い目なのさ。盲点を突いているっていうか」
「なるほど」
「ところで逃げてるのは誰なんだ?」他の生徒が訊いてくる。
「山岸じゃないかな。あのグループの誰かだぜ、きっと」
「違う。奴らは校庭にいるぜ。よく見ろよ」
「あ、本当だ。じゃあ、分からねえな。誰だろう、テロを計画してた奴なんて」
「ひょっとして高木教頭だったりして」
「え、あのハゲが? がっはは。笑えるぜ。だから好きだよ、お前って」
 君津南中学校は大混乱になった。
 秋山聡史が一人で家に戻ることも考えられたので、自宅の前には一台のパトカーが派遣された。
 父親は夜勤明けの休日で朝から酒を飲んでいた。ここ数日間はクレーンの重心が取れていないまま荷を吊ったとか、フォークリフトの爪が狭いまま長尺物の荷を運んだとか、口うるさいリーダーから注意されることが多くて気分は最悪だった。今朝は今朝で女房がスーパー富分のパートを休んでパチンコの新装開店に行った結果として、今月分の家賃が払えそうにないことを知って苛立ちは更に募った。これ以上はサラ金から借りられそうもない。浴びるように酒を飲んで現実から逃避することしか思いつかなかった。そこへ二人の警察官が現れて、息子が中学校で何か大変なことをしでかしたと伝えられると、とうとう堪忍袋の緒は切れた。おもむろに皮のベルトを手に取ると、横にいた女房に向けて勢いよく振り下ろす。
 「いいか。てめえの教育の仕方が間違っているから、こんなことになるんだ」
「い、痛いっ」妻は腰を落とし、肩を手で押さえた。
「あっ、ご主人。止めて下さい。暴力は――」慌てる警察官。
「畜生っ、やりやがったな。このヘボ亭主」妻は立ち上がった。
 父親の暴力を止めようとした警察官だったが、反撃に出た妻が投げた灰皿を側頭部に受けてしまう。「あっ」耳が裂傷を負って鮮血が噴出す。痛みに屈みこむと、そこに皮のベルトが飛んでくる。もはや泥酔いした父親は相手の判別がつかないらしい。目の前にいる者すべてが敵だった。真っ赤な返り血に興奮して我を忘れる。無我夢中で皮のベルトを叩きつけた。「いいか、よく聞け。指紋認証の時間が一分、二分早くてガタガタ言うんじゃねえ。そもそも終業ベルとタイム・レコーダーの時間が一致してないからダメなんだろうが。お前ら、みんなしてオレを悪者にしようって気なんだ」意味不明な言葉を口にしながら皮のベルトを振り回し続けた。「あれ、この虫は何だ? おい、見ろ。部屋が虫だらけじゃねえか。畜生っ。お前が掃除しねえから、こんな――」
 もう一人の警察官がパトカーの無線を使って君津署に応援を求めた。家の前には近所の人たちが集まって、中から聞こえてくる騒ぎの音に耳をそばだてていた。窓ガラスが割れる音、家具が壊れる音、罵倒と悲鳴。「ご主人、落ち着いて下さい。どこにも虫なんかいないでしょう。これ以上騒ぐと逮捕しますよ」
 「うるせいっ。今月の家賃をどうすりゃいいんだ、バカ野郎」
「奥さん、お願いですから何か服を着て下さい。今は、そんな事をする場合じゃ――う、痛てっ」
 耳に飛び込んできた警察官の最後の言葉に集まった人たちは思わず、お互いの顔を見てしまう。ねえ、今の聞いた? 一体、何が起きているのかしら。ああ、見てみたい。想像するだけなんてもどかしい。
 ここも君津南中学校に負けないぐらい大混乱になりつつあった。
 三時間後、逃げ回るのに精根尽きた秋山聡史が見つかったのは二階の女子トイレの中だ。よっほど暑かったのか、学生服を床に脱ぎ捨て、チューリップがプリントされた女性の下着姿だった。 

   90

 いつ、映画『メリーに首ったけ』を観に行くんだろうか?
 その後は奥村真由美から何の連絡もなかった。早くしないと上映が終わっちまうんじゃないのか。そんな不安が鶴岡政勝の心に芽生えていた。
 誘われた直後は鮎川の交通事故あって、罪悪感から積極的な行動が取れなかった。それと、のぼせ上がった姿を曝け出して自分が安っぽい男と見られるのが嫌だった。
 鶴岡政勝は頻繁に女の子から電話がある男子生徒という印象を、奥村真由美には持ってもらいたい。舞い上がった気持ちを知られたくないので、こっちから電話をすることは避けた。彼女から連絡が来るのを辛抱強く待つ作戦だ。
 鮎川の交通事故で富津中学との試合は出場できたが、内容は散々だった。0-5のスコアで大敗。一方的だった。ボールを支配されて、シュートを打たれ放題だ。鶴岡政勝だけじゃない、チームの全員が精彩を欠く。不思議だったのは、惨めな試合が終わっても誰も悔しがっていなかった。帰りのワンボックス・カーの中で口を利く奴はいない。ボーッと景色を見ているか、携帯のゲームに集中しているかだった。付き添いの森山先生だけが、「お前ら、どうしちまったんだ」と一人で息巻いていた。
 救いは、奥村真由美がサッカー部のマネージャーを辞めていたことだ。無様なプレーを見られなくて済んだ。オレに対する好意に傷がつくことはなかった。翌日の朝に彼女から試合の結果を訊かれた時は、「ダメだった。やっぱり佐野隼人がいないと、チームの連係が上手く行かない。板垣じゃ代わりは務まらないよ」と、敗戦の責任は板垣順平にあるように仄めかした。
 もうサッカーなんて、どうでもいい感じになっていた。写真の撮影の方が楽しい。綺麗に撮ってあげて、女の子から喜ばれるのが嬉しかった。カメラを構えて美人に見える絶妙な角度を探す。そして光を調節して影を巧みに使う。本人よりも美しく写真に収めるのは高度なテクニックが必要だ。難しいだけに遣り甲斐があった。
 奥村真由美ガールフレンドになってくれたら、絶対にモデルになってもらう。あのスタイルの良さだ。セクシーな水着の写真を撮りたい。早く一緒に映画を観に行きたかった。
 日時の打診が来たら、ちょっと間を置いて、手帳なんかを調べる様子を装いながら、「あー、良かった。丁度その日は空いてる」と答えるつもりだった。
 しかし彼女から二度目の電話はなかなか来なかった。とうとう痺れを切らした。鶴岡政勝は自分から電話をすることにした。
 「今さっき思い出したんだけど、一緒に映画を観に行く約束はどうなった?」こう切り出そう。
 携帯電話を開くと、不思議なことに彼女から着信履歴が消えていた。間違って消してしまったか? まさか、あり得ないぜ。不思議に思ったが、仕方なくサッカー部の連絡表を見ながら彼女の電話番号を押した。緊張で体が震えそう。
 「もしもし」奥村真由美の美しい声。
「鶴岡だけど」もう喉がカラカラ。だけど悟られてはならない。
「え、鶴岡くん? あら、どうしたの?」
「あのさ……」ちぇっ。奥村の奴、すっかりデートのことを忘れているみたいな感じだ。すっげえ、がっかり。
 (あっ、ゴメンなさい。いろいろと忙しくて、いつ映画に行こうか決められなかったの)
 こんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。失望を声に表さないようにして鶴岡政勝は考えていたセリフを口にした。
「え、……どういうこと?」困惑気味の奥村真由美だった。
「どういうことって? 一緒に映画を観に行く約束をしたじゃないか?」なんか話が噛み合っていない。すっげえ、焦る。
「あたしが?」
「そうだよ。電話で『メリーに首ったけ』を観に行こうって誘ってくれたじゃないか」どうなってんだよ。一から説明しなきゃならないなんて。悲しくなってくるぜ。
「それって、あたしじゃないよ。だって『メリーに首ったけ』は、先週だけど鮎川くんと行ったもん。退院したら一緒に映画でも観ようって約束したのよ。すごく面白かった」
「……」もはや死刑宣告に等しい言葉。もう絶望的だ。最悪のシナリオ。「なあ、その鮎川が交通事故に遭った日だよ、電話してくれたじゃないか?」ここまで詳しく説明すれば思い出してくれるか。
「知らない。あたし、電話なんかしていないから」
「マジかよ」そこまでシラを切る奥村真由美という女が信じられなかった。そんな奴じゃないと思っていた。「でもな、黒川だって知っているんだぜ」仕方なく証人の名前を出した。こっちは第三者が証言くれるんだから。もし法廷に立てば損害賠償だって請求できるはずだ。オレの精神的苦痛を考えたら十万円でも足りないぜ。畜生。せめて、いきなり電話した正当性だけは認めさせたい。
「え、誰? 黒川って」
「おい、おい。黒川拓磨は……、あのさ……」
「うん。誰よ、その人」
「……ちょっと、待って」……お、思い出せない。
「どうしたの?」
「いや、……」どうなってんだ?
「え?」
「わからない」
「どうしちゃったのよ、鶴岡くん?」
「す、すまない……」
「なによ。もう切るよ、忙しいから」
「う、うん」
 一方的に通話を切られても、鶴岡政勝は携帯電話を持ったまま動けなかった。奥村真由美とは恋人同士にはなれそうにない。それが明らかになった。しかし衝撃を受けているのは、黒川拓磨という生徒を名前のほかは全く何も思い出せないことだった。顔や体型も分からない。そいつがいつから二年B組の生徒になったか、そして何で今は存在しないのか、それらの理由がハッキリしない。黒川拓磨って一体誰なんだ? 鶴岡政勝の方が訊きたいぐらいだった。

   91  1999年 10月

 「しくじったのは、あんただけだよ。どうするのさ。アバズレの五十嵐香月だって、ちゃんと双子を産んだのにさ」
「……」
「やっぱり、あんは呪われた女らしいね。妊娠したことが間違いだったんだ」
 東条朱里は産婦人科病院に見舞いに来て、産まれた双子の一人が死産だったことを初めて知った。失望と怒りに駆られて、同僚だった美術教師に辛辣な言葉を浴びせ続けた。「子供が一人じゃ意味ないでしょうが。ろくでもない普通の子にしか育たないわ、きっと」
「ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないよ」
「……」
「せっかく、こうして――」
「なんとかする」相手は言葉を搾り出すように言った。
「え?」
「なんとかするわ」
「なんとかするって、……どうすんの」東条朱里は疑いの目を隠さない。
「考えたの」
「あんたが?」
「ええ」
「……ふうむ」どれほど相手の決心が強いか推し量ろうとして、しばらく東条朱里は何も言わなかった。「きっと大変なことになるでしょうね」
「わかっている」
「覚悟は出来ているの?」
「……」元同僚は無言で頷く。
「あんたに出来るの? 誰も助けてくれないよ」
「大丈夫」
「じゃあ、任せていいの? でも失敗は絶対に許されないよ」
「ええ」
「そう。それなら安心したわ」不安がなくなると東条朱里は態度を一変させた。「よかった。あんたなら、きっと上手くやれる。あたしね、信じているから」
「……」
「ねえ、聞いてくれる」本来の、お喋り好きな女に戻っていく。「あたし、本郷中学に転勤することが出来たんだけどさ。それが傑作なのよ。教頭の高木に頼みにいったんだけど、それがバカみたいに、『あのなあ、転勤は地区の教育委員会が決めることなんだ。キミが行きたいからと言っても自由にはならん。それに第一、そんな権限は私にはないから』、なんて真面目くさって言うのよ。だから、あたし言い返してやったんだ。『もちろん、そんな事は知っています。でも、どうしても本郷中学へ転勤しないと困るんです。何が何でも教頭先生には協力してもらいますから』って。あたしもこの時とばかりに、思いっきり強気に出てやったんだ。『この件については、あたしの指示に従ってもらいます』って傲慢な態度で付け加えたの。そしたら、さすがに怒り出したわ。『何だって? おい、言葉に気をつけないか。立場を考えなさい』だって。あたしの思う壺よ。そこでポケットから、あの虫の死骸を幾つか出して机の上にバラ撒いてやったの。高木のバカったら椅子から飛び上がって後退りしたわ。あははっ。笑えるでしょう? そのあとは子供みたいに身体を震わせて泣いてんのよ。ざまあみろって」
「……」
「あんた、ねえ、人の話を聞いてんの?」相手が期待した反応を見せないので、東条朱里は居心地の悪さを感じ始めた。
「……」
「いいわ。そろそろ帰るから」
 東条朱里は椅子から立ち上がった。「そうだ。あんたの決心が揺るがないように、これを置いていくわ」そう言うと、バッグの中から白いチューリップを取り出し、飲み水が入ったコップに差した。「きっと二度と会うことはないかも、あたしたち。うふっ」

   92

 万引きから始まって窃盗、詐欺、恐喝、傷害と多くの犯罪を犯してきた十七歳の少女が女子少年院に送られてきた。一ヶ月の考査期間を終えて単独室から集団室へと移り、一週間が過ぎた。新入りだったが先輩たちに頭を下げることはしない。挨拶も教官が見ていなければしなかった。いずれ近いうちに前から集団生活をしていた十一人を支配する気でいた。当然だろう。犯してきた犯罪の数では誰にも負けていない。暴力団との繋がりを仄めかす為に左肩には刺青が彫ってあった。無口で態度は大きく、周囲を恐れさせようとしていた。ここを仕切るのは自分だからな、と宣言するのも時間の問題だった。
 三度目の点呼が終わり、部屋の鍵が外から閉められて数十分は経っていた。これから長い夜の始まりだ。
 「起きな。お前に話があるんだ」と枕元で十七歳の少女は呼ばれた。明かりは消されて部屋は薄暗い。馴れ馴れしい言葉遣いにムカッときて、勢いよく布団から上半身を起こした。「おい。てめえ、誰に向って口を利いて――」
 少女は最後まで言葉を終わらせることが出来なかった。いきなりタオルで後ろから顔を巻かれてしまったからだ。咄嗟に逃げようとしたが、多くの手に抑えられて身動きは取れなかった。「うむっ、うう」息が出来ない。苦しい。
 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」
 その言葉に十七歳の少女は抵抗を止めた。「あっ」罠だった。相手はタオルで巻かれた頭の上にビニールを被せてきた。完全に空気が遮断される。頭の中が真っ暗。どんどん意識が遠くなっていく。下半身が漏れた尿で生暖かく感じたのが最後だった。
 「うっ」頬を引っ叩かれて少女は意識を取り戻す。先輩たち十一人に取り囲まれていた。その場に正座するように言われた。後ろにいる何人かは顎まで下げられたビニールの端を手にしていて、いつでも少女を窒息させる準備ができているのが分かった。恐怖が身体を包む。あんなに苦しい思いは二度としたくない。
 「お前、どうしてこんな仕打ちをされるのか分かっているだろ?」
 少女は素直に頷く。「すいません」謝罪の言葉が口から出た。
「あたしたちを甘く見るんじゃないよ」
「……」部屋の連中は、何も出来なくて大人しくしていたわけじゃなかったらしい。自分に制裁を加える機会を窺っていたのだ。
「ここには、ここのルールってもんがあるんだ。それを今から教えてやろうじゃないか」
「……」
「起床から消灯時間までは施設のルールに従う。一番偉いのが所長で二番目は教官、その次が部屋のリーダーだ。分かるな?」
「はい」
「消灯時間からは部屋のルールに変る。つまり、あたしが一番偉くなるのさ。それを忘れるんじゃないよ」
 十七歳の少女は目の前に立つ、あどけない顔をした大柄な女を見つめた。
 意外だった。体こそ大きいが年下のはずだ。数日前に教官から、入所して三ヶ月も経たない新人だと紹介してくれた女じゃなかったか。へんてこな眼鏡を掛けているので気持ち悪い奴だと完全に無視していたのだ。それがどうして一番偉く……。名前は……えーと、確か……小池? そうだ、小池和美とか言った。十四歳だ。思い出した途端だ、その年下の女が飛び掛ってきた。正座の姿勢だったので避けられずに攻撃をまともに食らう。「ぐうっ」彼女の太い左腕が顎に当たると、十七歳の少女は再び気を失った。

 小池和美はジャストでの万引きで警察に補導された。友達の古賀千秋が捕まりそうになって、後ろから女の警備員を階段の下へ突き落とす。仲間が上手く逃げてくれるのを見届けようとして、自分が逃走するチャンスを失った結果だ。
 男の警備員に押さえられて店の事務所に連れて行かれた。名前や学校を聞かれたが何も言わない。警察署での取調べでも一貫して黙秘を続けた。証拠はない。盗った物は何も持っていない。黙っていれば家に帰れると考えたからだ。
 口を閉ざしながら和美は勝利感に酔っていた。古賀千秋を助けられたことが本当に嬉しかった。
 突き飛ばした女の警備員が階段の踊り場に頭を強く打った音に、千秋は気づいて振り返った。一瞬で何が起きたのか理解すると、和美に向って笑顔で頷く。同時に右手の親指を立てて見せた。(ありがとう)という合図だ。
 やった。
 古賀千秋に恩を売ることが出来た。あたしの存在価値を認めてくれたはずだ。これからは対等な立場で接してくれるかもしれない、そう小池和美は期待した。
 勝利の喜びは、取調べで古賀千秋も捕まったことを知らされると一変に消えた。それでも黙秘は続く。義務感からだ。何か喋れば千秋に不利に働く、と思った。
 女の警備員は重傷を負ったらしい。意識が朦朧としたまま救急車で病院へ運ばれたと聞かされた。悪いことをしたという思いは和美の頭に浮かばなかった。友達を捕まえようとした警備員の方が悪いんだ。余計なことをしやがって。
 警察から鑑別所へ送られて、長期少年院送致が決まる。えっ、マジで? ああ、早く家に帰りたい。一体いつまで掛かるのかしら、と思っていたら最悪の結果だ。黙秘を続けたことが反抗的と見なされる。決定的だったのは突き落とした警備員が半身不随の障害者になったことだったらしい。
 僅か数日だけど誕生日が過ぎていたことも悪い結果に繋がった。十四歳未満だったら、児童自立支援施設とかいう、もっと楽な場所へ行けたのだ。畜生、もう何もかもが最悪。
 この世の終わりだ、という気持ちで女子少年院に送られたが、自分の担任になった若い教官は、それまでとは違うタイプだった。黙っていても頭ごなしに怒鳴ったりはしない。いきなり机を強く叩いて威嚇したりもしなかった。ジャストでの万引き事件についても無理に触れることはしない。あたしを犯人扱いしないところが嬉しかった。
 そりゃ、そうだ。自分は古賀千秋が店の商品を盗むのを見張りしたり、大きな身体を利用して死角を作ってやったりしただけなんだし。半身不随になった警備員にしたって、ちょっと後ろから押しただけじゃないか。階段から転げ落ちて首の骨を折ったからといって、自分に責任を追及されても困る。上手に落ちなかった警備員の過失なんだ。ざまあみろ。あたしの人生をぶち壊しやがって。
 女子少年院の若い教官は綺麗で優しかった。頭の回転も早くて、動作も優雅だ。君津南中学の加納久美子先生に似ているところがあった。一緒に過ごす時間が長くなるほど、その魅力に引き込まれていく。ああ、こんな女性になりたい、と思わせてくれた。
 閉ざしていた口が次第に開いていく。この人なら何を話してもいいかもしれない。味方になってくれると信じた。小池和美の大きな体に激震が走ったのは、万引き事件のことを話し出してすぐだ。それは、「どこの女子少年院に古賀千秋は入っているんですか」という問い掛けに対する答えだった。
 「彼女は君津南中学の三年生になって、今まで通りの生活を送っているわよ」
 若くて美しい教官の言葉に、和美は頭をハンマーで横殴りされたような衝撃を覚えた。「えっ、ど、ど、……どうひって」気が動転して舌を噛みそうになった。理解できない。そんな不公平な処分が何で下されたのか?
 教官は話してくれた。古賀千秋は捕まると警察署で、涙ながらに
万引きは初めてで、小池和美にそそのかされてやったと白状したらしい。
 そんなバカな。ウソだ。なんて女だろう。助けてやろうとしたのに。信じていたものが崩れていく思いに、全身から力が抜けた。ああ、悔しい。あたしは裏切られたんだ。
 黙秘を続けた自分が、知らない間に主犯にされてしまう。家庭裁判所の判断は、学校での成績の良し悪しも大きく影響したらしい。それを考えたら、あの女は学級委員長で自分は書記だ。不利は否めない。
 「それは違います。すべてウソです」と教官に訴えたが、返ってきた言葉は「もう遅いわ。今となっては家裁の判断は覆らない」だった。失望と後悔。再び小池和美は口と心を閉ざした。身体の中で古賀千秋に対する怒りがメラメラと燃え上がった。
 数日後には事実を確かめたくてクラスメイトだった、奥村真由美に電話を掛けた。特に仲が良かったわけではないが、彼女ぐらいしか思いつかない。やはり教官の言葉に違いはなかった。あたしを裏切った女は自由の身だった。美味い娑婆の空気を吸っている。
 「あいつ、生徒会長になったの?」最後に訊いた。入学した時から古賀千秋は、三年生になったら絶対やりたいと言っていた。二年生の三学期までは誰もが認める最有力候補だった。
「みそぎ選挙にするとか言って立候補したわ」
「やっぱり」万引きで捕まっても生徒会長に立候補するなんて、あの女らしい。あつかましさは称賛に値する。「それで?」
「落選したの。六人の中で最下位の得票だった」
「そりゃ、良かった」君津南中学にも、それだけの良識が存在するということだ。嬉しかった。
「かなりショックだったみたい。体育館で当選した子に殴りかかったのよ。教室に戻ってからも窓から飛び降りようとしたりして」
「へえ」
「みんなで止めたの。その後は学校に来なくなって、久しぶりに登校したら茶髪だった」
「やけになって、グレだしたんじゃないかしら」ざまあみやがれ。落胆した古賀千秋の様子を、この目で見たかった。「で、誰が生徒会長になったの?」どんな奴がなろうが、もう関心はなかったが、話の流れで訊く気になった。まさか受話器を落としそうになるほど驚かされるとは思わなかった。
 「手塚奈々」
「えっ。だ、誰?」聞き間違いに決まってる。そんな……。
「あの脚の長い奈々ちゃんよ。ほら、二年B組で一緒だった」
「うそっ」
「本当よ」
「し、……信じられない」
「男子の応援が凄かったの。学校にファン・クラブまで出来ちゃってさ。鶴岡くんが撮影した水着の写真集を――」
 もう最後まで聞く気になれなかった。バカらしい。将来はAV女優にしかなれそうにないバカ女が生徒会長だなんて。オナペット・ランキング一位の勢いが、そのまま選挙結果に反映されたということらしい。君津南中学の良識なんて、やっぱりそんな程度か。オナペットを選ぶ基準で生徒会長を選んじゃいけないのに。それが理解できない連中の集まりだった。さようならも言わずに小池和美は電話を切った。 
 長い女子少年院生活を続けるしか選択肢はなかった。もう死にたい。だけど死んだら古賀千秋に復讐するチャンスがなくなる。口うるさい教官に耐えながら、退屈な毎日を送り続ける気力を支えたのは自分を裏切った女に対する怒りだ。いつか絶対に仕返ししてやろう。
 体は大きく、無口で無愛想。集団室で前から生活している十人にしてみれば、態度がデかいクソ生意気な新人としか思えなかったようだ。
 「起きな。お前に話があるんだ」と夜中に枕元で呼ばれた時も、怒りで目は覚めていた。上半身を起こしたところで、後ろから顔をタオルで巻かれた。抵抗しなかった。多くの手で体を押さえられてしまう。息が出来なくて、だんだん苦しくなっていく。
 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」
 何だと、この野郎。ふざけやがって。あたしに命令する気かよ。その言葉に小池和美の怒りは一気に爆発した。何人かの手に体を押さえられたままだったが、後ろでタオルを握っていた女の横面に、上半身を捻ってエルボー・ドロップを放つ。「ぐうっ」命中。気を失って布団の上に倒れるのが見えた。驚いて連中が身を引く。
 これで自由だ。残りは九人、全員が和美にとって憎き古賀千秋に見えた。目の前に立つリーダー格の女に飛び掛った。先手必勝。相手の出方を待つなんてことはしない。身体が勝手に動く。そして無意識にも、スタン・ハンセンのラリアットを見舞っていた。女が後ろに仰け反って倒れ込む。そのまま身動き一つしない。まさに秒殺だった。目にした光景に残りの八人が凍りつく。
 父親が見ていたプロレスのビデオのお陰だ。知らずにプロレスの技が身についていた。小池和美は次々と女たちにラリアットを浴びせた。四番目のデブが反動で柱に頭をぶつけて血を流すと、興奮に油を注ぐ結果をもたらした。
 お前ら、全員を血祭りに上げてやる。こうなったら、もう皆殺しだ。一人も生かしておくもんか。
 小池和美は残りの連中にドロップ・キックを浴びせた。逃げようとした奴には後ろから。そいつは前のめりになって机の角に顔面から突っ込んだ。ざまあみろ。
 布団に倒れたままの女たちには、その場で飛び上がってニー・ドロップで止めを刺す。落下する勢いで和美の膝頭には100キロ近い重さが集中しているはずだった。骨が折れるような音と感触を味わった。意識を取り戻して起き上がった奴らには、また強烈なラリアットを食らわせた。
 ああ、楽しい。こんなに自分が強いとは気づかなかった。もう楽し過ぎて気が狂いそう。気分はスタン・ハンセン。あたしは最強。もっと、もっと、暴れ捲くってやろうじゃないか。
 無抵抗の連中に次々と襲い掛かる。やりたい放題。プロレス技を思い出しては、身体が覚えるまで何度も練習。今夜たった一晩でズブの素人から世界タイトルを狙えるぐらいの立派なプロレスラーになってやろう、という意気込みだ。様々な状況の中で反射的に手足が動いて、プロレス技が出てくるようにならなきゃダメだ。時間を忘れて無我夢中。窓の外が明るくなるまで続く。全員を叩きのめして一息つこうかと思ったところだった、部屋の隅で小柄な女が身を潜めているのに気づく。朝日のお陰だった。
 ブルブルと震えていた。獰猛なライオンでも見るような目で和美を警戒している。動物園に来て、何かの間違いか、飢えたライオンの檻に一緒に閉じ込められてしまった小学生みたいだ。
 あはっ。こりゃ、愉快。 
 和美の視線に気づくと、もうこれ以上は小さく出来ないというところまで身体を縮こます。首を激しく横に振って、こっちに来ないでと合図を送ってきた。無傷のままで、ひっそりと隠れていたらしい。ただし一部始終を見ていて小池和美の凶暴さは目に焼きついている。
 獲物だ。まだピンピンしてる。たっぷり遊べそう。
 女は恐怖で泣いていた。目で慈悲を訴えてる。無理に怖がらせたりはしない。ゆっくり小池和美は笑顔で近づく。「お願い、許して」その言葉に優しく頷いてみせた。と、急に身体を反転させて、勢いよくローリング・ソバットを女の左脇腹に炸裂させた。「ぎゃっ」
 痛みに身を屈めて倒れそうになる女を、パジャマの襟を掴んでリングの中央まで引っ張ってきた。抵抗しなかった。もう、されるがままだ。そいつの首根っこを掴むと、腰を支えながら身体全体を空中に垂直になるまで持ち上げた。効果を高めるために滞空時間を長くする。そして豪快にブレーン・バスターを見舞う。小柄な女は布団の上に頭から落ちて気を失ったようだった。それを無理に立ち上がらせる。うしろに回り、痩せた背中を抱えて、次はジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。ジョー樋口の代わりを務めてくれるような気の利いた奴がいないので、カウント3はなし。どこまでやるかは和美の気持ち次第だ。もう乗りに乗っていた。真っ赤なGOサインしか見えない。とことんやってやろうじゃないか。
 小柄な女は体重が軽いのでプロレス技の掛け放題だ。練習するにはうってつけ。倒れたまま動かなくなると、ジャンピング・エルボー・ドロップを何度も何度も何度も連打で浴びせてやった。咳をしながら口から真っ赤な血を吐き出しても容赦はしない。こいつが死のうが構うもんかい。あたしが一人前になることの方が大切なんだから。この時の小池和美は元NWA世界ヘビー級チャンピオン、テキサス・ブロンコこと、あのドリー・ファンク・ジュニアになりきっていた。
 その小柄な女は出所が間近で、和美に制裁を加えることには強く反対した一人だったと後になって聞かされる。これでもかと色々なプロレス技を掛けられて、二度と自宅には帰れない体になってしまう。
 ストレート・ヘアで細面だった顔は、陰毛が生えたジャガイモみたいになった。変わり果てた姿に、病院に駆けつけた八度目の離婚調停中の母親も、「うちの娘じゃありません。知らない子です」と言い張る始末だ。おぞましい異様な姿に、近づいて良く見て確かめようともしない。
 女は流動食しか受けつけず、呼吸は酸素ボンベの助けが必要だった。顎の骨が砕けて泣くことも満足に喋ることもできない。しばらくして病院から障害者施設へと移って行く。
 この乱闘で小池和美は自信と勇気を得た。やってみたかったプロレスの技をすべて試す。ジャイアント・スイング、四の字固め、コブラツイスト、パイル・ドライバー、アルゼンチン・バックブリーカー、ダブルアーム・スープレックス、ランニング・ネックブリーカー・ドロップ等だ。どの技が自分にしっくりくるか、少しでも意識のある女を無理やり起こして、プロレスレごっこを続けた。結果として十八番技と言えるのが、やはりラリアットとエルボー・ドロップだった。
 翌朝、女子少年院は大騒ぎとなった。小池和美を除いて部屋の全員が重傷を負っていたからだ。自力で起き上がれるのは一人も居ない。内出血で全身が紫色の斑点だらけ。骨折、内臓破裂、重度の打撲と酷い裂傷。ほとんどが人間としての原型を留めていない。首や手足は考えられない方向へ曲がっている。何台もの救急車が駆けつける事態となった。
 施設は県や家庭裁判所への報告義務があった。しかし真相が明らかにならない。多くが口を閉ざす。説得すると何人かは口を開いたが、「あたし達が仲間割れを起こして、夜中には大喧嘩になったんです。小池和美さんは関係ありません」という腑に落ちないものだった。
 若くて美しい教官が無傷の和美を個室に呼んで問い質すことになった。
 「夜中に何があったのか教えて」
「知りません。あたしは疲れて寝ていましたから」いつもと違って教官の口調はきつかった。和美は身構えて話すことにした。
「嘘だわ。みんながあれほどの大怪我をしたっていうのに眠っていたなんて」
「あたし、熟睡するとなかなか目が覚めないんです」
「……」教官は信じていない。和美のことを見つめながら核心を突いてきた。「あなた一人で皆に大怪我を負わせたの?」
 小池和美も真剣に見つめ返して、ゆっくり落ち着いて答えた。「いいえ、違います」そのとき、ラリアットで連中を叩きのめした感触を思い出して、僅かに笑みがこぼれた。
「……」それで十分だったらしい。教官は事実を理解したみたいだった。一瞬だが机から身を引く。その目に畏敬の念が宿ったのを和美は見逃さない。この子って凄い、そう読み取れた。
 嬉しかった。初めて人から認められた気分だ。教官みたいな素敵な女性になりたいという気持ちは消え失せた。あたしはあたしだ。これからは女スタン・ハンセンとして生きて行く。
 女子少年院は居心地のいい場所になった。歳は関係なく誰もが小池和美を恐れて、媚を売るようになった。ここでは女王だ。あたしが一番偉い。
 よく同じことを訊かれた。「和美さん、あの凄い技は何て言うんですか?」いつも答えは決まっている。「カズミ・ラリアットって言うのさ。あたしが考え出したんだよ」そして相手から賞賛の言葉を全身に浴びるのだ。
 この施設にずっと居てもいい。そんな気持ちにもなったが、やはり復讐という大きな仕事が頭から離れない。それなら早く娑婆に出ないと。
 じゃあ、どんな方法で実行するか。
 殺しはしない。古賀千秋は生かしておく。死んだら、それで御仕舞いだ。それじゃ面白くない。ただし苦痛を伴って、だ。
 娑婆に出たら、まず格闘技を本格的に習う。女子プロレスに入門しよう。あたしのラリアットに磨きを掛けたかった。
 きっとプロレスラーとして世界チャンピオンになれるだろう。もしかしたら女子プロレスに限らないで、男の団体でも十分にやっていけるかもしれない。あのスタン・ハンセンと互角に戦える自信があった。
 リング・ネームはどうする。小池和美じゃ、迫力がない。アントニオ猪木の由来はアントニオ・ロッカだ。じゃあ、プロレスの神様と称えられるカール・ゴッチにちなんでカール小池なんてどうだろう。
 ……いや、ダメだな。どこかのスナック菓子と間違えられそう。           
これは、じっくり考えるべきだ。下手なリング・ネームをつければ笑い者になる恐れがあった。時間をかけて慎重に選ばないといけない。
 goodなリング・ネームが決まれば実力はあるのだから、きっと人気者だ。雑誌の取材、インタビュー、テレビのコマーシャル、どんどん高収入のオファーがやってくる。セレブだ。テレビ朝日の﹃徹子の部屋﹄に呼ばれちゃったりして、超有名人の仲間入り。君津南中学校からも講演依頼が来て地元に凱旋。女子少年院へ送られた生徒が、その後の努力で大成功を掴む。あたしの話に誰もが拍手喝采。そうだ、その時はサングラスをして真っ赤なメルセデス・ベンツで行ってやろう。
 準備が整ったところで古賀千秋に連絡する。再会しても、女子少年院に入れられた恨みは一切口にしない。これまで通り下手に出てやるつもりだ。近況を聞きながら、いつどこで待ち伏せすればいいかを探る。夜に人気のない通りで後ろから襲う計画だ。警察に捕まりたくないし、千秋にも顔を見られたくなかった。付き合いは続けたい。
 まずラリアットで気を失わせよう。そしてカミソリを二枚刃にして、あの女の顔にCKのイニシャルを描いてやる。二枚刃にするのは病院で皮膚の縫い合わせを難しくさせる為だ。顔の傷は太く、ハッキリと残したい。みんなが目を背けるように不気味に仕上げる。誰もが古賀千秋と目を合わせて話をしなくなるのだ。
 CKは、あいつの名前とは別の意味がある。
 中学二年の夏休みだった。古賀千秋はカルバン・クラインのTシャツを着て待ち合わせ場所に現れた。「これって、あたしと同じイニシャルなんだ」と言う。その後も何度も「今,流行っているの」と自慢するので、こっちも相槌を打つつもりで「カッコいいね」と言葉を返す。すると透かさず、「じゃあ、売ってあげてもいい。あたしには少し大きめだから」と、無理やり四千円で買わされた。
 数日後にルピタで同じTシャツを着た山田道子と遭遇する。「しまむらで二千円で見つけた」と聞かされた時はショックだった。お前が、売った金で白と黒の二枚のTシャツを手に入れたと知ったのも間もなくだ。でも何も言えない。文句を言えば友達でなくなる恐れがあった。自分の居場所、自分の存在が脅かされるのだ。
 奢らされるのは毎度のこと。一緒にマクドナルドへ行けば支払いは、いつも自分だ。嫌われたくないから金を出す。でも有難うの言葉は聞かない。あいつがしてくれた事と言ったら、篠原麗子から貰ったサラミを食べきれないからと一つ分けてくれただけだ。それも賞味期限の切れたやつを。何かに何度も何度も擦られたみたいで、包装してあるビニールの色は褪せて商品名すら消えかかっていた。どうしてだろう。太くて固くて長いから食べ難いし、全然おいしくなかった。
 その積もり積もったツケを支払わせてやろうじゃないか。
 お前の顔にCKの文字を刻み込む。それでカルバン・クラインのTシャツを着て君津の街を歩いてもらいたい。顔にも胸にもCKの文字だ。これって究極のお洒落じゃないだろうか。
 もう満足な仕事には就けないのは明らか。そこで付き人として、あたしが雇ってやるんだ。散々こき使ってやるよ。『徹子の部屋』では、生活苦の同窓生を雇って世話していると美談を披露しよう。それで人気はウナギ登りだ。女スタン・ハンセンとして、小池和美の想像は果てしなく膨らんでいく。君津南中学では書記でしかなかった少女が、地位と名声そして富を得るのだ。サクセス・ストーリー。
 あ、そうだ。気が変わった。転校生に貰ったメガネは掛けることにしなきゃ。知らない奴は、見てバカする。そこが狙い目だ。ラリアットで思い知らせてやる。身につけたプロレス技が出所するまで錆びないように時々は使わないといけないことに気づく。
 待ってなよ、古賀千秋。


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