小説&まんが投稿
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第11回 70 - 87

   70 
 
 「どう思いますか?」加納久美子は電話で、これまでの経緯と桜井氏から聞かされた話を、君津署の波多野刑事に説明した。内容は大まかで五十嵐香月の妊娠については伏せた。しかし双子を身篭るという事実は重要な意味を持っていると意識していた。
「信じられないですよね?」相手の反応を促した。
「……そうですねえ」波多野刑事は言い難そうに答えた。「ですけど話して下さったことには感謝しています。知っているのと知らないのでは大きく違いますから。もし何かが起きたとしても、素早く対応できます」
「じゃ、良かった」
「加納先生」
「はい」
「十三日の土曜日は、私も学校へ行って待機しましょうか? 丁度その日は非番なんです」
「……」有難い。でも……、もし何も起きなかったら。
「何時ごろに学校へ行かれますか?」
「たぶん十時前です。早めに行こうと思っています」
「どうしましょう、僕は?」
「そうですね……、お言葉は嬉しいのですが」
「一人で行動するのは勧められませんよ」
「安藤先生がいます。彼女も事情を知っている一人です」
「しかし、……女性ですよね」
「ええ。まあ、そうですけど」
「私が学校の中ではなくて、外で待機しているというのは、どうです?」
「いいえ、そこまで。もし何も起きなかったら……」気が引ける。
「用心の為ですよ」
「待ってください。孝行くんも学校に集まる約束をした一人じゃなかったですか?」
「そうです」
「では自宅で息子さんの様子を見ていて下さいませんか?」
「……」
「もし彼が学校へ向かう様子を見せたら連絡を下さい。後を付けるなりして、こちらへ向かってくれませんか」
「なるほど」
「その前に学校で何かが起きる様子がありましたら、すぐに波多野さんに電話をします」
「わかりました」
「ありがとうごさいます」
「でも加納先生、くれぐれも気をつけて下さい」
「わかりました」久美子は応えた。
 とても現実とは思えない、怪奇映画の脚本みたいな話なのに波多野刑事は聞いてくれた。馬鹿にした様子もない。本当に心配してくれているみたいだ。加納久美子は心強い味方を得た思いだった。

   71 

 あいつ、こんな所に住んでいたのか。 
 あまりに古いアパートを前にして高木教頭は驚く。
 西山明弘は乗っている車はスバルのレガシイだったし、お洒落っぽい服をそれなりに着こなしていたので、どっかのモダンなマンションにでも住んでいるのかと想像していた。安い給料で上手くやっているんだと羨ましく思った。
 しかし奴の住所欄に書かれた番地に建っていたのは、取り壊しが時間の問題であろう老朽化したアパートだった。これじゃ、きっと家賃は三万円もしそうにない。
 住むところを節約して世間体を良くしていたらしい。なんて見栄っ張りな男なんだ。呆れる。
 西山明弘が職場を無断欠勤してから一週間以上が経っていた。みんなが毎日、自分に頻りに訊いてくる。
 「西山先生から連絡はありましたか?」
「西山先生、どうしちゃったんですか?」
「西山先生、どこか具合でも悪かったんですか?」
 それらの問い掛けには、「いや、知らない。何度も電話しているけど応答がないんだ」と答えた。
 しかし心の中では、『ふざけんな。知るわけないだろう。そんなに親しくないんだから。オレは、今それどころじゃないんだ』と、怒鳴りたい気持ちだった。
 西山明弘が出勤しなくなって別に何とも思っていない。逆に、気取った目障りな奴がいなくなって清々してるくらいだ。
 たいした仕事も出来ないくせに、偉そうに威張ってやがる。たかが学年主任のくせに。
 安藤先生と加納先生の尻を追い掛け回しているだけの、薄っぺらい男だった。『とてもじゃないが、お前には無理だ。どんなに努力しても、あの二人は手が届かない高嶺の花だ』と、ハッキリと西山明弘に言ってやりたい思いに何度も駆られた。
 奴への嫌悪感は、高木自身が既婚者で、独身男性のように魅力的な女性の前でウキウキできないという不満からも強くなった。教頭としての立場もあるので、西山が安藤先生の前でする下心が丸出しの態度は絶対に取れない。
 もし結婚していなければ、自分は西山なんかよりも若い女性に対して、上手に接することが出来ると自信があった。確かに恋愛経験は少ない。いや、まったく無いと言ってもいいだろう。片思いの苦い思い出しかなかった。しかし男女の恋をテーマにした映画を観た回数は、そこらの連中には負けていないと思う。
 『男と女』、『ある愛の詩』、『愛と青春の旅立ち』、『ゴースト ニューヨークの幻』なんかだ。特に気に入っているのが、『小さな恋のメロディ』と『天国から来たチャンピオン』だった。
 将来あんな素敵な女性と恋がしたいと心を躍らせた。現実は悲惨そのものになってしまったが。
 もしも次のチャンスがあれば,その時は慎重に相手を選ぼう。誰からも紹介されたくない。自分自身で探す。その場の雰囲気に飲み込まれないで、どんな状況でも自分の好みのタイプを思い出そう。そして魅力的な女性を見つけて、デートを楽しみたかった。映画で観たシーンを自ら体験するのだ。
 西山の奴が安藤先生と付き合うのは許せない。そんな事になれば自分は落ち込んで立ち直れないだろう。世の中、そんな不公平があってはならない。 
 安藤先生から、「西山先生から食事に誘われましたけど、都合が悪くて断りました」と聞かされた時は嬉しかった。あいつがオレよりも幸せになるのは嫌だ。「彼は、いい加減なところがある。気をつけた方がいいよ」と安藤先生に忠告することは忘れなかった。
 「教頭先生、西山先生の様子を見に行かないんですか?」職員室で加納先生が訊いてきた。
「どうして?」訊き返してやった。みんなが、そう目でオレを見ていることは知っている。
「え、だって心配じゃないですか?」
「そりゃ心配している。しかし幼稚園児じゃないんだ。もう彼は立派な大人だろ。責任というものを自覚しなきゃいけない」
「でも、もし病気だったら……」
「うん、……まあな。だけど無断欠勤する前は元気そうだった。もし病気でも連絡ぐらいは出来るはずだ。わざわざ私が様子に見に行くことはないと思う」
「そうですか」
 言い方が強かった所為だろう、これで加納先生は引き下がってくれた。色々と忙しいんだ。奴の家なんかに行きたくない。時間が勿体なかった。
 思いとは反対に西山明弘のアパートまで足を運ばなくてはならなくなったのは、校長から言われたからだった。この野郎、クソ面倒な事は全部オレにやらせやがって。
 「校長、今日の午後に行こうと思っていたところですよ。帰ってきましたら、すぐに報告します」そう返事をした。
 住んでいる所は簡単に見つかった。番地を頼りに路地を車で低速にして走っていると、奴の青いレガシイが目に飛び込んできたからだ。いつも洗車してあって、新車のような輝きを放っていた。老朽化したアパートの駐車場では特に目立った。
 なんだ、あいつ家に居るんじゃないか。どうして連絡してこないんだ。わざわざオレに足を運ばせたりしやがって。
 高木は怒りを覚えながら自分の軽自動車から降りた。運転席のドアを閉めた瞬間、新たな考えが頭に浮かぶ。待てよ、ひょっとして奴は死んでいるのか? もし死んでいるとしたら、きっと自殺だろう。
 もう勘弁してくれ。そんな場面に立ち会うのは嫌だ。佐野隼人に続いて、これで二度目じゃないか。今度は第一発見者だぞ。えらい事になる。高木将人は同僚の死を心配するよりも、面倒に巻き込まれることが嫌だった。
 しかし、ここまで来たんだ。奴の部屋まで行ってみるしかない。諦めの心境で、錆ついた階段に足を掛けた。「おっと」慌てて手摺を掴んだ。三段目ぐらいのところで、グラッと揺れたのだ。どっかのボルトでも外れているんだ、きっと。
 ひえーっ。おっかねえ階段だ、これは。いつ倒れても不思議じゃない。とてもじゃないが、こんなところにオレは住めない。
 階段を上がった正面の部屋は204号室だった。奴の部屋は201で、つまり奥の角部屋がそうらしい。高木は一刻も早く立ち去りたい気分で足を進めた。歩くだけでミシミシと音をたてる建物だ。
 奴も結構、金には苦労してたんだな。高木の西山に対する嫌悪感が少し和らぐ。
 「西山くん」戸を叩きながら名前を呼んだ。
「西山くん」もう一度。応答を待つ。でも部屋の中から物音がしてこない。 
 留守か? 近所にタバコでも買いに行ったのかもしれない。それなら−−いや、違う。奴は喫煙しなかった。
「西山くん、高木だ」
 静寂。
 やっぱり死んでいるのか。ヤバいことになりそうな雰囲気だ。この扉の向こうで奴が首を吊っていたりして。そんなもの目にしたくなかった。ここから早く帰りたい。高木は無意識にドアノブに手を掛けた。しっかり施錠されていることを願いながら。そしたら学校に戻って、彼は留守でしたと校長に報告できる。
 「ああっ」意に反してドアノブが回った。そして力も入れていないのにドアが勝手に開く。なんてこった。「……」安堵。口の中に溜まった唾を飲み込む。ロープにぶら下がって息絶えた奴の姿はなかった。
 「西−−、あうっ」名前を呼ぼうとしたが最後まで言えない。中から強烈な異臭がしてきたからだ。高木は手で口と鼻を押さえた。
それに無数の黒い虫が飛んでいた。「ひゃーっ」
 驚きのあまり後ろに引っくり返った。恐怖が高木を襲う。金縛りに遭ったみたいに動けない。全身から流れる冷や汗。どきどきと心臓は大きな音を立てて鼓動した。上手く呼吸ができない。く、苦しい。
 ただの虫ではなかった。二十九年前、高木が中学二年の時に、仲間四人と一緒に忍び込んだ空き家で見た、あの虫だった。ハエのように黒く、目は悪意に満ちてギラギラと赤い。そして背中には黄色いラインが走っていた。
 その二日後に高木は高円寺から君津市へ引っ越す。仲間の四人とは、それっきり連絡が取れなくなった。一体、何が起きたのか分からない。でも良くない事が田口と寺島、それに菅原と市川の四人に起きたのは間違いなさそうだ。
 思い出したくない事実だった。忘れることは不可能なので、ずっと頭の隅に閉じ込めていた。この虫が再び現れたことで嫌な記憶が鮮明に蘇ってしまう。
 一刻も早く、この場から立ち去らないと。高木は這いつくばって階段まで辿り着く。手摺を掴んで、なんとか立ち上がる。腰が抜けたみたいだった。下半身がガクガクした。ゆっくり慎重に足を出して階段を降りていく。もう少しで地面というところだった、足がもつれて踏み外してしまう。
 丁度その時だ、片手にカップヌードルを持って階段を上がろうとする若い女が現れた。あまりに突然で避ける余裕なんかない。ほとんどラクビーのタックルみたいな感じでぶつかった。二人とも勢いよく地面に倒れこむ。鈍い音。カップヌードルが女の手から離れて転がっていく。
 普段だったら、深々と謝って落とした物を拾ってやったはずだろう。恐怖に怯えた高木将人は自分のことしか考えられなかった。乗ってきた軽自動車へ急ぐ。イグニッションを回してエンジンをオンにすると、何もなかったかのように車道へ出た。安全運転を心がけないと。こんな所で事故は起こしたくない。対向車を認めたので左側に寄らなければならなかった。早く学校へ戻りたい一心だ。落ちていたカップヌードルを前輪が踏み潰すのを知っていながらスピードは落とさなかった。
 一瞬、若い女がどうなっているか、それを確かめようと階段の方へ目を向けた。えっ、マジか? 落ちた状態のままで動いていなかった。やばい。でも軽自動車から降りることはしない。高木将人はアクセルを踏み込む。そうすれば抱え込んだ全てのトラブルから解放されるような気がして。
 ハンドルを持つ手の震えは収まらない。高木は今後のことを考えた。戻ったら校長には、こういうつもりだ。「彼は留守でした。また明日にでも行ってみます」と。安心して当分は何も言ってこないだろう。そのうち忘れてくれたら申し分ない。
 だけど二度と西山のアパートへ行くつもりはなかった。絶対にイヤだ。あんな恐ろしい目に遭うのは二度と御免だ。
 どうやら加納久美子の言った通りらしい。二十九年前に仲間と空き家に忍び込んで、自分が持ち去った鏡と、黒川拓磨は何か関係があるのだ。また今の君津南中学、二年B組で起きている不可解な出来事も同じように。
 高木将人は身が縮まる思いだった。自分に大きく責任がありそうだ。周囲から追及されて、槍玉に挙げられる可能性があった。
 あの時は、まだ十四歳の少年だ。遊び半分の気持ちで鏡を持ち帰っただけなのに。勘弁してほしい。
 こうなったら絶対に鏡には関与していないと言い張るしかない。認めたら身の破滅だ。ただでも問題を抱えて辛い思いをしているのに。
 三月十三日の土曜日が心配になってきた。何か大変なことが起きるんだろうか。起きてほしくないが。高木は自分も学校にいるべきだと考えた。何かが起きそうなら、それを阻止したい。これ以上、君津南中学に事件が起きてはならない。

   72 三月十二日 金曜日の午後 1  
 
 加納久美子は、昼食を終えて少し経つと職員室から出た。今日は安藤先生が休みなので一人で食べた。なかなか風邪が治らないらしい。昨日は午前の授業が終わるとすぐに彼女は早退したのだ。
 誰もいない場所へ行ってポケットから携帯電話を取り出す。何時ごろに着くか桜井弘氏に伝えようと考えた。
 六時限目の授業はなかった。今日は早退しても問題はない。好都合だ。上手く行けば、帰宅のラッシュアワーを避けて君津に戻れるかもしれなかった。
 「もしもし」
「加納です。先日は失礼しました」
「いいえ。とんでもありません」
「五時限目の授業が終わり次第こちらを出発します。そちらへ着くのは−−」
「ええっ、ちょっと待って下さい」
「はい?」もしかして都合が悪くなったのか。
「どういう事ですか?」
「……」久美子は自分の耳を疑う。
「話が分からない」
「お約束した鏡のことです」当たり前のことなのに口にするしかない。
「それなら昨日の夜に、そちらの安藤先生が取りに来られましたけど」
「ええっ」全身に衝撃が走った。何も聞いていない。
「加納先生の都合が悪くなって、こちらまで来れなくなったと聞いたんですが。そうじゃなかったんですか?」
「……」どうして? 
「加納先生?」
「は、はい」
「どうなっているんですか?」
「申し訳ありません。こちらの手違いでした」そう言うしかなかった。
「もしかして安藤先生が勝手に取りに来たんですか?」
「い、いいえ。そういう事じゃなくて……」
「では、どういう事ですか?」
「これから彼女に会って受け取る約束でした。色々と忙しくて私が勘違いをしたようです」
「本当ですか?」
「はい。すいません」信じてくれないのは分かっている。嘘をついて、この場を取り繕うしか方法はない。
「……」
「申し訳ありませんでした。明日、どうなるか分かりませんが、チャンスを見つけて黒川拓磨に鏡を突きつけてみます」
「……」
「どうなるにせよ、すぐに結果は知らせます」
「わかりました。……では十分に気をつけて下さい」
「ありがとう御座います。これで失礼します」
 加納久美子は廊下の隅に携帯電話を持ったまま動けない。信じられなかった。どうして? 理解できない。
 一瞬で安藤紫という仲が良かった女性が、まったく知らない別の人物になった思いだった。何かの間違いであって欲しい。
 勇気を出して加納久美子は安藤紫と連絡を取ろうとした。呼び出し音が続く。出てくれない。諦めて携帯電話を閉じた。もし応答してくれても、どう話を切り出していいのか分からなかった。彼女からも納得のいく説明が聞けるとも期待できない。頼りにしていた味方を失った思いだ。この状態で明日の土曜日を迎えなければならないのか。
 加納久美子は不安でいっぱいだった。

   73 三月十二日 金曜日の午後 2

 とうとう明日になった。
 山岸涼太は自分の席に座りながら、心は穏やかではなかった。心配していた。絶対にヤバいことが、この二年B組の教室で起きると思う。みんな集まるべきじゃない。
 仲間の相馬太郎と前田良文は集会へ行く気だった。二人は黒川拓磨に洗脳されていた。奴の言いなりだ。オレは、そうじゃない。賛同するような態度は見せてるが、心の中では毛嫌いしていた。手を切りたい。だけどそれを口に出せば、とんでもない目に遭わされそうな気がしてならなかった。
 黒川拓磨は人間じゃない。何か悪魔みたいな存在だ。周りにいる連中を唆して破滅の道へと誘う。今、二年B組の生徒たちは多くが何か問題を抱えて悩んでいる感じだ。前と違って全員に活力がなかった。
 黒川の野郎は、明日みんなを教室に集めて一体何をやる気なんだ? 加納先生も来るんだろうか? 絶対に行くべきじゃない、と山岸涼太は考えていた。
 どうしよう。加納先生に忠告すべきか、このオレが? これまで山岸涼太は、ずっと君津南中学校の問題児として見られてきた。勉強はしないが悪いことは何でもやらかす。それが教師たちのイメージだ。まあ、その通りだから仕方ないが。
 そんなオレが加納先生を助けようと行動を起こして、信じてもらえるだろうか。不安だ。笑われて終わりかもしれない。
 「加納先生、黒川拓磨には近づかない方がいいです。絶対に何かを企んでいる。奴を無視して下さい」こう言ってあげたい。
 クラスは、最後のホームルームで担任の加納先生を待っていた。
終わったところで呼び止めて、忠告すべきだろうか。なんか恥ずかしい。
 山岸涼太は迷っていた。オレらしくない。正義の行動を起こすことに躊躇いを覚えた。
 視界に黒川拓磨の後ろ姿を認めた。大人しく席に座っていた。見る限りでは普通の中学生と変わらない。しかし山岸涼太の霊感が強く警告を鳴らす。奴とは一切関わるな、と。
 五十嵐香月が近づいて黒川に何か話しかけた。二人ともニヤッと笑う。えっ、マジかよ。あの二人、出来てんのか? すると黒川が左手で五十嵐の顔を撫で始めた。それを嫌がらないどころか、五十嵐香月は唇に触れると奴の指を、おどけて口に含んだ。見ていた山岸涼太は、びっくりだ。
 学校で、そんな事やっていいのかよ? なんか、すごくエッチな感じ。校則違反じゃねえのか。いや、待てよ。さすがに生徒手帳には、校内で女子生徒が男子生徒の指をしゃぶってはいけません、なんて書いてなかった。じゃあ、許される行為なんだろうか? 
 しかしだ、学校で最も綺麗な女の一人と評される、あの五十嵐香月を転校して来て何ヶ月も経っていないのに、モノにしてしまった黒川拓磨って奴は凄い。こんな調子でクラスの全員を言いなりにする気だろうか。それってヤバい。誰かが阻止しないと大変なことになりそう。でも誰がいる、そんな正義のヒーローみたいな生徒?
 うっ。
 一瞬で山岸涼太は恐怖に足が竦んでしまう。前方の別々の席に座っている相馬太郎と前田良文の二人が、わざわざ後ろを向いて自分を睨んでいるのに気づいたからだ。その視線は敵意を含み、はっきりとしたメッセージを送っていた。『お前、黒川拓磨の邪魔をするんじゃないぞ』、だった。
 オレがリーダー的存在だったはずだ。なのに、その力関係は崩れた。連中は黒川拓磨を後ろ盾にして態度がでかくなっていた。無力感が山岸涼太を襲う。
 やめた。加納先生に忠告はしない。自分の身が大事だ。山岸涼太は下を向いて何も考えないことにした。

   74  三月十三日 土曜日

 加納久美子が学校に着いたのは朝の九時過ぎだ。心配で昨夜は何度も目を覚まし、寝不足で身体が少しだるかった。
 日曜日なので、サックスのポロシャツに紺色のチノスカートというカジュアルな服装にした。それにヘリー・ハンセンの黄色いウインド・ブレーカーを羽織る。いつもの休日と同じで白いコンバースは靴下なしで履く。
 運転中はブルース・スプリングスティーンを聞いた。彼の音楽から勇気を貰いたかった。最も好きなのが『ジャングルランド』だ。
 ドラマチックな曲で、クライマックスにはクラレンス・クレモンズのサックスが夜空を引き裂き、続いてB・スプリングスティーンが雄叫びを上げるのだ。3rdアルバム『明日なき暴走』の最後を飾るに相応しい。
 駐車場でフォルクス・ワーゲンから降りる時に、さすがにローデンストックのサングラスは外す。
 職員室には当直の教師とクラブ活動の顧問ら数人がいたが、教頭先生の姿もあった。みんなが普段とは違う久美子の格好に一瞬だが驚いた様子を見せた。
 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』と、あれほど言っておきながら教頭先生が学校に来ている。
 意外な感じはしなかった。これで重要な何か隠していると確信した。高校生だった木村優子に鏡を渡したのも違いないだろう。久美子の不安が増して行く。
 自宅に持ち帰って整理した書類の束を机の引き出しにしまって鍵を掛けると、すぐに二年B組の教室へと向かった。少し怖い。出来たら一人では行きたくなかった。安藤先生と一緒だったら良かったのにと思う。
 彼女とは連絡が取れないままだ。したがって加納久美子の手に鏡はない。黒川拓磨と対峙するのに唯一の武器だというのに。
 校舎は静まり返っていた。階段を上る久美子の上履きにしているパンプスの軽い足音しか聞こえない。何かが起こりそうな気配など全くなさそうだが、不気味だ。
 三階の教室すべてのドアが開いていた。ひとつ一つをチェックしていく。二年B組の教室にも誰一人いなかった。窓から入る日光が眩しくて、その明るさで少し不安が和らぐ。
 いつもと違うところは何もなさそうだ。ウソの情報を掴まされたのかもしれない。
 ホッとすると同時に精神的な疲れがドッと出てくる。心配して日曜日に学校へ足を運んだ自分がバカみたいだ。すぐにも自宅へ帰りたい。
 『ミスター・ムーンライト』
 慌てた。二階まで階段を降りているところで携帯電話の着信音が鳴る。静まり返ったところに、いきなりジョン・レノンの声だ。この着信音は良くない。早く変えよう。波多野刑事からだった。「もしもし」
 「加納先生、おはようございます。いま学校ですか」
「おはようございます。そうです」
「何か変わったことがありますか」
「いいえ、ないです。教室には誰もいませんでした」
「そうですか。それなら良かった。じゃあ、我々の思い過ごしだったのかな」
「そうかもしれません。ご心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、そんな事はありませんよ。用心に越したことはありませんから。加納先生、これからどうされますか」
「帰ろうと思っています。ところで孝行くんは家にいるんですか」
「ええ、居ます。風邪をひいたらしくて、ぐっすり寝てますよ」
「あら、それは〡〡」
「大丈夫ですよ、ご心配なく。たぶん月曜日には学校へ行けるでしょう」
「そうですか」
「もし何かありましたら、連絡して下さい。いつでも結構です」
「わかりました。ありがとうございます」
「それで、あの……加納先生」
「はい」
「……あ、いえ。すいません、何でもありません。失礼します」
「はい、失礼します」
 加納久美子は携帯電話を閉じると再び階段を下り始めた。波多野刑事には勇気づけられる。安藤先生と連絡が取れない今となっては彼しか頼れる人はいない。
 さて家に帰ったら何をすべきか。掃除に洗濯、それに買い物。休日といっても普段できない日常の雑務で半日は潰れてしまう。
 なんとか時間を作って、夜は久しぶりにレンタル・ビデオを借りて気分転換を図りたいと思った。『タイタニック』が見たかった。きっと泣くだろう。だから絶対に一人で見ようと決めていた。

   75

 何事もなさそうだ。波多野刑事は安心した。不安が無くなると加納先生に対する想いが蘇ってくる。素敵な女性だ。もっと長く話していたかった。
 とっさに何か他に話題を探そうとしたが見つからず、不自然な形で電話を切ることになった。なんてカッコ悪いことを……。
 どうにかして食事に誘えないかと考えてしまう。その反面、オレみたいな子持ちの刑事なんか相手にするもんかと、勝手に落ち込んだりする。その繰り返しだ。オレは非番で彼女も休み。しかし今日という日は、いくら何でもまずい。誘う勇気もないし、心の片隅には交通事故で亡くなった妻に対する罪意識もあった。
 じっとしていられなくて、息子の部屋へ行って様子を見てこようと立ち上がる。携帯電話は離さない。いつ署から呼び出しがあるか分からないからだ。
 孝行が羨ましい。あいつは毎日、加納先生に会えるんだ。もしオレが生徒だったら絶対に一日も学校を休むものか。一生懸命に英語を勉強して加納先生から褒めてもらいたい。
 女性に憧れるなんてことは、ここ数年なかった。もう二度とないと思っていた。それが今は恋する高校生の気分だ。恥かしくて、とても人には言えたもんじゃない。
 息子の部屋のドアを開けたところで自分の目を疑う。ベッドには誰も寝ていなかった。波多野正樹の浮いた思いが一瞬で消えて無くなった。
 トイレにでも行ったか。それならいいが。しかし刑事という職業で培ってきた危険に対する第六感が、激しく警告音を鳴らし始めていた。息子を探しにトイレには行かず、波多野は玄関へと急いだ。
 「おい、どうした」
 波多野は一瞬、躊躇う。玄関に立っていた息子の後ろ姿が別人に見えたからだ。いつもと違う。へんに肩がいかつい。レスラーかボクサーのような体つきになっている。ただし着ている服は、いつも身につけている白いトレーナーと黒のジーパンだった。「どこへ行くんだ? 寝てなくていいのか、お前」
「……」
 返事がない。振り返ろうともしない。「おい、孝行」  
 あまりの反応の無さに聞こえないのかと思い、近づいて息子の肩に手を掛けた。やっと振り向いてくれたその顔は、今まで見たことが無い表情をしていた。「……」波多野は言葉を失う。
 その目は赤く充血して頬と口は怒りに歪んでいた。
 どうしたんだ、と声を掛けようとしたところで、避ける間もなく拳が飛んできた。まさか息子に殴られるとは思ってもいない。不意を突かれた波多野の顔面を直撃した。「ぐうっ」
 目の前が真っ暗になり、足元はフラつく。体勢を整えようとするが、次の一撃を右の脇腹に食らう。息を吐き出し、後は呼吸が出来ない。その場に倒れこんだ。
 普段は弱々しく見えた息子に、これほどの力があるとは思わなかった。「た、たか……おいっ」
 立ち上がれそうにない。それでも相手の動きを読んだ。まだ攻撃してくる。波多野は身体を回転させて、踏みつけようとした息子の足をかわす。「やめろっ」
 空を切って床を蹴ったその大きな音から、このままでは殺されるかもしれないと悟った。応戦するしかない。でも相手は息子で、怪我はさせたくない。手加減しながらの戦いになる。簡単ではなさそうだ。
 「孝行っ」姿こそ息子だが、何かに取り憑かれたように凶暴になっていた。学校へ行こうとしているのは間違いなさそうだ。だが絶対に行かせてはならない。
 そうだっ。
 加納先生が危ない、と波多野は気づく。学校でも何かが起きているはずだ。助けに行きたいが、今は息子をなんとかしないと−−。

   76

 「加納先生」
 ドキッ。
 一階まで降りて職員室へ戻ろうとした加納久美子は後ろから声を掛けられた。びっくりして思わず身を竦めてしまう。振り向くと男子トイレの前に教頭先生が立っていた。恥かしい。「あ、は、はい」
「あ、ごめん。驚かせてしまった」
「いえ、大丈夫です」
「上で何か変わったことがあったかな?」
「いいえ」相手の言葉には、どうだ、オレの言ったとおりだろう、という勝ち誇ったニュアンスが窺えた。「帰ります」教頭先生が正しかったと認めるように久美子は言葉を続けた。
「もう?」
「はい。何事もなさそうなので」
「そうか。うん、それがいい。土曜日なんだから、ゆっくり休みなさい。あはは」
「失礼します」加納久美子は努めて相手の顔を見ないようにして言った。
 でも教頭先生の言った通りで良かったと思う。何も起こらなければ、それに越したことは無いのだ。
 職員室に入り、自分の机の引き出しからフォルクス・ワーゲンのキイを取る。ほかに持ち帰るモノはなかった。
 採点が途中の小テストの束が目に入った。そうだ、これだけでもむ終わらせてしまおう。月曜日には生徒に返せる。何分も掛からないだろう。
 久美子は椅子に座って作業を始めた。テストの採点では、何か気がつくとコメントを残すことにしている。『すごい』とか『よく頑張った』、または『もう少し』だ。褒め言葉しか書かない。これで生徒がやる気を起こしてくれたら嬉しい。
 手っ取り早く終わらせて席を立つ。帰ってから家事を片付けていく段取りを考えながら足早に職員室から出いく。上履き用のパンプスから白いコンバースに履き替えて校庭に出た。
 素足にスニーカーを履くのって気持ちがいい。天気がいい日は特にだ。自由を感じる。カジュアルでラフな格好が久美子は好きだった。
 右腕のベビー・Gに目をやると、そろそろ午前十時になる。途中で127号線にあるタワー・ビデオに寄って行ける、と思った。
 駐車場へ向かいながらも無意識に顔を上げて二年B組の教室を見上げた。
 えっ。足が止まる。ど、どうして。
 不安が加納久美子を襲う。教室の窓が全て黒い遮光性のカーテンで閉じられていた。それも二年B組の教室だけが。誰かが教室にいるらしい。
 ……どうしよう。
 このまま帰るわけにはいかなくなった。久美子が戻ろうとした時だ、カーテンが動いて隙間から人の顔が見えた。誰だかは分からない。でも久美子の方を見たのは確かだ。
 足早に戻る。校舎に入ったところで、トイレから出てきた教頭先生と鉢合わせした。
 「あれ、帰るんじゃなかったか?」
「……」教頭先生の言葉を無視した。久美子が階段を上がって教室へ向かおうとしているのに気づくと、彼は嫌悪感を露わにした顔を見せた。
 三階まで一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。さっきとは違い、ドアが閉じられている。中から鍵を掛けられているかもしれないと思いながらも、ドアに手を掛ける。恐怖心はなかった。動いた。
 中は薄暗かった。明かりは数本のローソクが火を揺らしているだけだ。かなりの数の生徒がいるみたいで、そのうちの何人かは顔が認識できた。二年B組の生徒だ。
 教室は様変わりしていた。全ての椅子と机は中心に作られたサークルを囲むように四隅へ動かされ、その上に生徒たちが腰掛けている。教室の真ん中に出来たスペースで行われている何かを見ている観客のように。
 「あ、あなた達……、何をしているの?」
「……」
 答えが返ってこない。身動きすらしない。みんなが座ったまま居眠りしているみたいだ。状況を把握しようとして久美子は教室の中へと入った。「はっ」目に映ったモノが信じられず、無意識に口を手で押さえた。うっ、嘘でしょう? 心の中で叫んだ。
 教室の中心では下半身を露わにした黒川拓磨が、全裸で横たわる女性の上に身体を重ねていた。性行為の最中だ。それを二年B組の生徒たちが放心状態で見つめている。「えっ、安藤先生?」
 黒川拓磨が上体を起こして久美子の方を向いたところで、その女性が呻くように顔を横に動かしたのだ。
 「加納先生、待ってたぜ。次は、あんたの番だ」
「……」えっ、どういう意味? あたしを待っていたって。わけが分からない。
 安藤先生の下腹部から勃起したペニスを引き抜きながら、黒川拓磨は笑顔を見せていた。みんなに見られて恥かしがる様子なんて全くなさそうだ。立ち上がろうとしている。
 逃げないと。他の職員たちに知らせないと。でも身体が硬直して動かなかった。このままだと危ない。そう分かっていても,脚に感覚がなかった。「あっ」横から誰かに右腕を掴まれた。力が強い。「いやっ」
 板垣順平だった。反対の手にはロウソクを持っていた。「痛い。やめて」ところが手を離そうとしない。いつもの彼じゃなかった。夢遊病者みたいな目をしている。
 「先生、何を言っても無駄さ。もう奴はオレの言うことしか聞かないんだ」
「……」そうらしい。黒川拓磨に操られているんだ。何を言っても無駄みたいだった。
 しかし掴まれている手が痛い。片手なのに凄い力だ。どうにかして彼の手を振り解けないかと思っていると、それを悟られたのか、左側の手も他の男子生徒に掴まれてしまう。両手の自由を奪われて絶望感が久美子を襲う。「やめてっ。いや、離して」
「先生、大人しくしなよ。どうせ、オレに抱かれるんだぜ」
「いやよっ」怒りを込めて言った。
 黒川拓磨は話しながらペニスをティッシュで拭いていた。まるで次の獲物をさばく包丁を研ぐように。逃げ出したい。
「言うことを聞かないと、痛い目に遭うぜ」
「それは、あんたにしても同じことよ」両方の腕を掴む、男子生徒二人の力が強くて痛かった。振り解くどころじゃなくて、耐えるだけで精一杯だ。こっちへ黒川拓磨がやってこようとしていた。
「はっはっ。そんな強気なところが好きだな。加納先生なら、しっかりした子供を産んでくれそうだ」
「ふざけないで。誰が、あんたみたいな悪魔の子を産むかしら」口だけは強がりを言い続けた。怒りが恐怖心を薄れさせ、少しづつ脚の感覚を取り戻そうとしていた。
「安藤先生もそう言っていたけど、今はこの通りさ。すっかり観念して、オレに股を開いてくれたんだぜ」
「嘘よ」
「仕方ないな。時間もないし、オレたち三人で先生のセンスのいい服を脱がしてやるか」
「……」裸にされる。再び恐怖が加納久美子を包み込もうとしていた。逃げたくて身体を揺すった。「い、痛い」掴んでいる生徒の力が増して、立っているのも辛くなる。ああ、もうダメだ、と思った瞬間だ。
 『ミスター・ムーンライト』携帯電話が鳴った。
 ジョン・レノンの叫び声に驚いたのか、二人の男子生徒の力が緩んだ。この瞬間を逃さない。掴んでいた手を振り解き、加納久美子は向きを変えて一目散に教室から出て行く。
 「おい、逃がすなっ」
 後ろで黒川拓磨の声がした。「どけっ、オレが捕まえる」振り向かない。階段へと急ぐ。「あっ」廊下を歩く教頭先生の姿があった。久美子の様子を見に来たに違いなかった。「先生、逃げて」
 「加納先生、どうした?」
「せ、生徒たちが−−」説明なんかしていられない。「いいから、早く逃げて」とても教頭先生一人で立ち向かえる状況ではなかった。 
 「あっ、お前。こらっ。何、やってんだっ」
 教頭先生のその声に久美子は思わず教室の方へ振り返った。「あっ」下半身を露出した黒川拓磨が追って来ていた。
 教頭先生が久美子を通り過ぎて彼に立ち向かおうとする。
 一人じゃ、とても無理。他の生徒たちも操られているんだし。そう思ったが、加納久美子は立ち止まって成り行きを見るしかなかった。

   77

 まったく、なんてこった。
 畜生っ。どいつも、こいつも。高木教頭には恐怖心など全く無かった。ただ怒りだけだ。何年か前に何かと面倒を見てやった後輩に裏切られた苦い思い出が蘇ってきた。
 隣の町で女子中学生の制服を盗んで、何を思ったか、それを着込み、スカート姿で自動車を運転して警察に捕まった馬鹿野郎だ。
 飲酒取締りの検問に気づいて急いでUターンをしたところが、逆に注意を引いてしまう。当たり前だろう、バカ。近くにあった空き地に車を停めて、着ていたセーラー服を脱ごうとするが、きつ過ぎてなかなか脱げない。飲酒運転だと思って追ってきた警察官は、どれほど目にした光景に驚いたことか。いい大人が女子中学生の制服を着たまま夜のドライブと洒落込んでいたのだから。
 いとも簡単にバカは白状したらしい。翌朝、学校に電話を掛けて、「警察に捕まったので休みます」と告げる。その後の職員室は大騒ぎだった。電話を取った女の事務員と女教師たちが、あれやこれやと、どんどん話を勝手に大きくしていく。仲が良かったと見なされた自分は質問攻めだ。何も悪い事はしていないのに、本人がいないから犯人扱いだった。
 罪状が明らかになると、自分も同じような趣味があるんじゃないかと、多くの人達から疑われた。とくに警察からの追求は厳しかった。干してある女性の下着や服を盗む破廉恥な連中と同類と見なされたのだ。
 「彼には親切にはしてやったが、そんな事をやっているなんて、まさか知らなかった。自分は無関係だ」
 しかし何を言っても信じてもらえず、こっちが必死に弁明するほど刑事は確信を強めていく。辛くて涙が出た。
 証拠が無いので警察からは釈放されたが世間の目は冷たかった。疑われただけなのに、もはや性犯罪者扱いだ。後輩に親切にしたばっかりに、恥かしくて悔しい思いを何年も味わった。なかなか教頭にさせてもらえなかったのは、きっとその所為に違いなかった。
 やっと事件の記憶が薄れた今、今度は生徒だ。君津南中学に、また汚点が一つ増えてしまう。
 黒川拓磨、こいつは優秀な生徒だ。もう意外とは思わない。セーラー服を盗んだ奴も国立の千葉大学を卒業していた。
 ふざけんなっ。性犯罪者は人間なんかじゃない。オレが懲らしめてやる。生徒だろうが何だろうが関係ない。それにだ、この小僧には株で大損させられていた。叩きのめしてやる。オレが味わった恥かしい思いと、大金を無くした喪失感の鬱憤を、ここで晴らしてやろう。
 高木の血液中のアドレナリン濃度が、今や最高値に達しようとしていた。
 いいか、このクソ小僧。このオレをただの教師と思ったら、大きな代償を支払うことになるぞ。そこらのひ弱な連中とは違うんだ。
 杉八小学校六年の頃に流行ったプロレスごっこでは、いつだって鉄人ルー・テーズの役だった。誰にも文句は言わせなかった。キーロックから四の字固め、スリーパーホールドやコブラツイストなど多彩な技を持ち、その掛け方は仲間で一番早かったのだ。その輝かしいテクニシャンぶりは今でも健在だ。
 だが、このクソ生意気な黒川拓磨にプロレス技をお見舞いする気はなかった。まどろっこしい。こいつには5階級制覇を成し遂げた脅威のボクサー、シュガー・レイ・レナードがするような、スーパー・エクスプレスと呼ばれた集中連打を浴びせてやりたい。ボコボコにしてやろう。
 「犯されそうになった加納先生を守るために必死でした」
 教師が生徒を袋叩きにすれば当然だが非難の声が上がる。釈明の言葉はこれだ。
 この野郎、股間をオッ立てたまま平然と歩いて来やがる。やはりバカなのか、お前も。いいだろう。まず、その顔面に必殺の右ストレートを食らわせてやる。
 上手いことに、オレの方を全く見ていなかった。完全に油断している。その視線は加納先生に注がれたままだ。彼女は、お前なんかが手の届く存在じゃない。ませたガキだ。
 射程距離に入った。下半身を露出した生徒は、まさか学校の教師が暴力を振るうとは思ってもいない様子だ。加納先生と一発ヤることしか頭にないのか、この色狂いの中学生が。よしっ。オレが目を覚まさせてやろうじゃないか。 
 高木教頭は身構えた。上半身の筋肉に力が入った。
 
   78

 「……」加納先生、早く出てくれ。
 片手で携帯電話を持ちながらも、波多野刑事は馬乗りになって凶暴になった息子を押さえつけていた。しかし殴られたり、蹴られたり、噛み付かれたりして、こっちの方がダメージは酷い。着ていたアメリカン・イーグルのポロシャツはボロボロで、あちこち血が滲んでいた。防御するだけで攻撃は出来ない戦いだが、やってられるのは警察に入って習得した格闘技のおかげだ。だが苦しい。左の肩がズキンズキンと痛む。もう、いつまで耐えられるか分からなくなってきていた。若いだけに息子の力は無尽蔵だ。こっちは限界を感じ始めていた。
 今は片手しか自由に使えない。息子が息を切らしているので少しの間はあるはずだ。加納先生と連絡が取りたかった。
 学校で何かが起きているか、それとも起きようとしているのか。彼女の身が心配だった。
 呼び出し音は鳴り続けている。でも応答がない。
 波多野は学校で何かが重大な事が起きていると確信した。すぐにでも駆けつけたいが−−。「あっ」
 息子の孝行が勢いよく身を翻したのだ。こんな力が、まだ残っていたのかと驚かされる。と、同時に強烈なパンチも飛んできた。かわすことは出来たが、波多野は手にしていた携帯電話を落としてしまう。 
 しまった。加納先生と連絡が取れなくなった。もう息子の相手だけで精一杯だ。きっと彼女も学校で窮地に立たされているに違いない。
 「うっ」
 息子の両手が横から波多野の首に回る。まずいっ。転がっていく携帯電話を目で追っていた僅かな隙を突かれてしまう。締め上げてくる。その力の入れ方に躊躇いがない。
 こいつは自分が父親の息の根を止めようとしていることに気づいていない。誰かに操られて、目の前にいる敵と無意識に戦っているのだ。 
 苦しい。呼吸が出来ない。目の前が真っ暗になってきた。

   79
 
 高木教頭の肩に力が入った瞬間だ。
 「むぐっ」これから凄まじい強烈な右ストレートを生徒の顔面に浴びせようとしたところで、いきなり左の脇腹に強烈な痛みが走った。「うっ」腹部を押さえる。
 何が起きたのか分からない。気がつくと、黒川拓磨がこちらを向いていた。まさか、お前の仕業か? 
 奴の両手が拳骨になっていた。ボディ・ブローを食らったのかもしれない。信じられない。まったく目に見えなかった。
 やや前屈みの姿勢で苦痛に耐えていた。そこに生徒の膝が跳ねるようにして顎に命中した。勢いで頭が起き上がる。次は風を切る音がしたかと思うと拳が飛んできた。早過ぎて、かわすことも出来ない。左の頬と鼻面に二発のパンチが突き刺さった。「ぐうっ」
 高木は腰を落とす。そして自覚した。もはや小学校でルー・テーズのように無敵だった頃の自分はいない。あれから三十年という月日が経ち、胴回りが三十センチも増えていたことを考慮すべきだったのだ。
 気を失う直前、うつろな目に映ったのはビンビンに立つ黒川拓磨のペニスだ。それに向かって倒れ込む。自分の唇が触れそうになるところを、それだけは何とか体を捻って避けた。

   80
 
 「教頭先生っ」加納久美子は叫んだ。
 目の前で高木教頭が膝蹴りと二発のパンチを浴びてなす術も無く倒されてしまう。まさに秒殺だった。慌てて助けに向かおうとしたが思い止まった。自分もやられてしまう。ここは逃げるしかない。職員室まで行けば助けを呼べる。久美子は身体を翻して階段へと急いだ。「えっ」
 足音がする。また誰かが二階から上がってきた。
 「あっ、お母さん」黒川拓磨の母親だった。家庭訪問の時と同じで、緑のトレーナーにピンクのスエット・パンツ姿だった。何で、こんな時に、こんな所へ? 「早く逃げてっ」
 「こらっ、拓磨。何やってんだいっ」母親が叱る。
 息子が怖いと言っていたにも関わらず、その口調は強かった。「逃げて、お母さん」いくら母親でも無理だと思った。息子はオオカミのように野獣と化している。もう性欲しか頭にないのだ。加納久美子は母親の手を取って一緒に逃げようとした。
 違和感を覚えた。え、どうして? 同時に母親も久美子の手を取ったが、その力が強すぎる。これじゃあ、自由が利かなくて逃げにくい。「お母さん?」
 ところが母親は久美子の方を見ようともしない。息子に向けて放った次の言葉に背筋が凍りついた。
 「拓磨、この程度のアバズレなんかに手間取ってんじゃないよ。早く、ヤっちまいなったら」
「お、お母さん」
「黙れっ。手こずらせやがって、このアマ。パンティを脱いで、拓磨に向って股を広げるんだよ」
 乱暴な言葉と同時に平手打ちも飛んできた。「いやっ」親からも殴られた事がない久美子だった。身体から力が抜けていく。
「いや、じゃないよ。すぐに気持ちが良くなるさ。さあ、拓磨。捕まえててやるから、この女の下着を脱がしな」
 もう目の前に黒川拓磨が立っている。「ああ、お願い。許して」絶望感が久美子を包んでいく。
「大人しく拓磨に抱いてもらいな、このアバズレが」
 チノ・スカートの裾に黒川拓磨の手が掛かった。腹部まで引き上げられて下着姿の下半身が露わになる。久美子は目を瞑るしかなかった。生徒に犯される、それも学校で。身体は震え出し、もはや抵抗する気力は失せていた。
 「お前のお陰で忌々しい鏡は手に入った。もう処分したよ。これで拓磨が怖がるモノは何もなくなった」
「え、……あたしのお陰って?」どういうこと? わからない。
「そうさ。お前は踊らされていたんだよ。鏡を手に入れるのに利用したのさ。お前が思い通りに動いてくれたんで大いに助かった。ありがとうよ。お礼に拓磨の子供を妊娠させてやろうじゃないか。あはは」
「……そんな」絶望感が久美子を襲う。生徒の手がパンティを掴んで、腰から剥ぎ取ろうとしていた。唇を噛んだ。覚悟した。少しでも早く苦痛が過ぎ去ってくれることを願うしかない。
 「ぎゃあっ」 
 ボコッ、という何かがぶつかる音と共に母親の叫び声がした。久美子は驚いて目を開けた。何が起きたのか分からない。死んだ魚が放つような腐敗臭が鼻を突く。自分を捕まえていた母親の手が離れた。久美子の後ろに誰かいるらしく。そっちに向かって黒川拓磨が身構えていた。今なら、自由だ。慌てて身体を回転させて、この場から廊下の隅に逃げた。「あっ」

   81

 波多野は気を失う一歩手前で反撃を試みる。相手を息子と考えずに最後の力を振り絞って膝蹴りを食らわせた。「許せっ」孝行の急所に命中したらしく、首を絞めていた手の力が緩んだ。
 そのチャンスを逃さない。波多野は首と息子の手の間に自分の指を滑り込ませた。これで少しは抵抗できる。だが息子の力が緩んだのは一瞬だけで、まだジワジワと波多野の首を締め上げてきた。恐ろしいほどの力だ。くっ、苦しい。いつまで耐えられるか分からない。加納先生のことを心配する余裕もなかった。
 
   82

 いつ現れたのだろう。黒川拓磨と母親の他に、もう一人、バットを手に持った人物がいた。汚れたトレンチコートに身を包み、顔と両手は血が滲む包帯に巻かれていた。髪は伸び放題。異様な姿だ。強烈な腐敗臭を全身から放っていた。骨格から男性だと判断できるだけで、誰なのかは分からない。
 少なくとも久美子に危害を加える存在ではないらしい。黒川拓磨と対峙し、その母親をバットで殴りつけたのだから。
 母親は両手で頭を押さえた格好で廊下の端に倒れていた。今にも階段から落ちそうだ。完全に気を失っている。
 黒川拓磨が前へ一歩踏み出そうとすると、男が動いた。バットを投げつけて、相手の動きを止めた。そしてコートのポケットからシャンプーの容器らしきモノを取り出し、そのキャップを外す。また新たに強い臭いが加わった。えっ、ガソリンだ。
 男は躊躇わない。一気に中の液体を黒川拓磨に浴びせた。容器を捨てると、すぐにポケットに手を入れ、ライターを出す。焼き殺すつもりだ。
 黒川拓磨は男が点火する前に飛び掛かった。二人が取っ組み合う格好で横倒れになる。その動きに押し出されて母親は階段から落ちていった。
 男からライターを奪おうと、その腕を激しく殴りつける。やはり腕力では黒川拓磨の方が上だった。だが男はライターを離さない。もう二人ともガソリンまみれだ。
 「ぎゃっ」腕に噛み付かれると、男は初めて声を上げた。聞き覚えがある、と久美子は思った。でも、……まさか。あまりの変わり果てた姿に確信が持てない。
 うわっ、助けて。目の前で凄惨な行為が始まった。黒川拓磨が頭を上下させながら、男の腕の肉を噛み千切り出したのだ。まるでオオカミ。見たくもないものを見せられて、ブルブルと久美子の身体が震えだす。

   83

 高木教頭は気を失っていたが、黒川拓磨との戦いが夢の中では続いていた。そこではワン・ツーとパンチを食らったが、反射的に伸ばした左の拳がクロス・カウンターとなって相手の顎に命中していた。一進一退だ。
 負けてなるもんか。俺は勝つ。足だ。足を使って奴を翻弄してやる。 
 高木教頭は、柳済斗にリターン・マッチでKO勝利した輪島功一と自分をダブらせていた。
 根拠のない自信が湧き上がってきて目を覚ます。やられたら、やり返すのがオレの主義だ。クソ小僧はどこへ行きやがった。今度こそ叩きのめしてやる。「畜生、よく見えない」頭から床に倒れ込んだらしい。こめかみのところが酷く痛む。くらくらして目の焦点が定まらない。ぼんやりとしか周りが見えなかった。

   84

 犯される。口を男の血で真っ赤にした黒川拓磨が加納久美子の前に立っていた。下半身は裸でペニスは大きく勃起していた。怖い。身体の震えが止まらない。
 腐敗臭を放つ男は骨が露わになった右腕を痛々しそうに抱えて横たわっていた。筋肉も腱も噛み千切られて、辛うじて手が腕に繋がっているという状態だ。全身が血まみれ。もう、どこにもライターは見当たらない。
 黒川拓磨は教室の前にいた何人かの男子生徒たちに顎をしゃくって見せると、その顎を次に久美子へ向かって突き出す。担任教師を担いで教室へ連れて行けという合図らしい。「早くしろ」
 数人の男子生徒が向かってくる。先頭は片手にロウソクを持った板垣順平だった。黒川拓磨の言葉に反応して走り出した。
 逃げないと。そう分かっていても久美子が出来たのは、その場に弱々しく立ち上がることだけだった。
 
   85
 
 「くそっ。め、目が−−」高木教頭の視界はハッキリしない。その時だ、自分の前を走り過ぎようとする何者かに気づく。あの黒川の小僧じゃないのか? その足に高木教頭は咄嗟に飛びついた。だが、逆に膝蹴りを顔面に食らってしまう。勢いで首は曲がり、また床に頭から落ちた。気を失う。高木教頭のリターン・マッチは輪島功一のようにはならなかった。 

   86

 教頭に飛びつかれた板垣順平は前のめりに勢い良く倒れた。強く床に手をついた衝撃で右手に持っていたロウソクが二つに折れる。火のついた部分が床を転がり、黒川拓磨の足元まで届く。こぼれたガソリンに引火して、一気に炎が立ち上がった。
 目の前で黒川拓磨が炎に包まれる。「きゃーっ」加納久美子は叫び声を上げた。と、同時に廊下の壁に退いた。
 近くにあった消火器に手を伸ばそうとしたが、黒川拓磨が動いて立ちはだかる。
 どうして? 逃げようとしているんじゃなくて、火を消そうとしているのに。
 相変わらず生徒はペニスを向けたままだ。まだ勃起している。「そんな……」こんな状況でも性欲を失わない異常さに驚愕。
 まわりが一気に熱くなった。
 えっ。笑っている。いやっ、違う。炎に焼かれて顔が変形しているのだった。すぐ横でトレンチコートの男も燃えていたが、黒川拓磨の燃え方は異常なほど激しい。紙細工の人形だったのかと思えるほどだ。その目も鼻も口も形が崩れて顔から表情が消えた。どんどん炎が彼の身体を黒く蝕んでいく。恐ろしかった。
 断末魔なのか、黒川拓磨の体が小刻みに震え出す。だが勃起したペニスは萎むどころか逆に大きさを増す。一体、どういうこと。驚きの目で見ていると、いきなり白い精液が噴き出した。避ける間もなかった。大半が久美子のスカートまで飛んできた。
 男の体液で汚れた自分の衣服に注意が向く。目を離した瞬間だ、砂の袋が落ちるような音がした。正面に立っていた黒川拓磨の姿が消えた。
 久美子は首を左右に振って、辺りを窺う。燃えているトレンチコートの男の他には誰もいなかった。黒川拓磨がいた場所に、小さな黒い灰の山が出来ていた。まさか、あいつの燃え尽きた姿がこれなの。
 加納久美子は急いで非常ベルを押し、そして消火器を取った。レバーを握って白い泡を噴射させた。まずトレンチコートの男の火を消す。それから回りを消火させていった。
 黒川拓磨、あれは人間じゃなかった。一体、何者なの。
 火が消えて回りが白い薬剤だらけになると、一気に身体から力が抜けていく。これは後の掃除が大変だ。自分がしなきゃならないのかしら。ああ、気が重い。
 疲れた。もう動けない。非常ベルの音だけが、けたたましく校舎中に鳴り響いていた。うるさくてかなわない。早く誰かに来て欲しいが、一刻も早く静かになって欲しかった。その場に加納久美子は腰を落とそうとした。えっ、何これ?
 自分のスカートから蒸気みたいな煙が立ち上がっていることに気づく。「あ、あっ」黒川拓磨の精液だった。あいつの体液が驚いたことにスカートの生地を溶かして移動している。久美子の下腹部を目指しているんだった。
 急いでスカートを脱いだ。廊下の向こうへ投げ捨ててやった。露わになった下半身にはヘリー・ハンセンのウインド・ブレーカーを巻き付けた。なんて奴なの、あいつは。なんて恐ろしい。
 何故だが分からないが、また身体が震え始める。途端に悲しみが込み上げてきた。加納久美子は廊下の壁に寄りかかり、口を手で押さえながら嗚咽を洩らした。

   87  

「う……」意識が戻ると波多野は激しく咳き込んだ。「ごほっ、ごほっ」
 家の玄関にいた。どうして、こんなところに? 自分の身に何が起きたのか分からなかった。息子の孝行が真横で倒れていた。思わず声を掛ける。「おい」
 返事はなかった。寝息を立てながら眠っていた。
 体全体が酷く痛む。特に首の回りがヒリヒリと痛んだ。そこに手をやった時、やっと状況が理解できた。
 助かったらしい。死ななかった。操られていた息子は呪縛が解けたのに違いなかった。いつもの見慣れた寝顔だ。起こして部屋まで連れて行ってやりたいと思ったが、体に力が入らない。酷く疲れていた。せめて毛布でも掛けてやりたいが……。
 強い眠気が襲ってきた。だめだ。しなければならない事がたくさんある。まず立ち上がって−−。くそっ、体を動かせない。波多野は逆らえずに目を閉じるしかなかった。一瞬、加納先生のことを思い出す。大変だ、連絡しないと−−。そこで意識を失った。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 255