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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第10回 64 - 69
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 「ごめん、今日は一緒に行けそうにもないわ」土曜日の早朝だった、安藤先生から加納久美子に電話が掛かってきた。いつもと声が違う。
「どうしたの?」
「風邪を引いたらしい。喉が痛くて、頭痛もして少し目眩もするのよ」
「まあ、大丈夫?」
「一日、寝ているしかないみたい」
「わかった。じゃ、一人で行ってくる」久美子はがっかりだ。
「悪いけど、そうして」
「お大事に」
「ねえ」
「なに?」
「望月さんに、あたしの連絡先も教えた方がいいと思わない?」
「……」
「もし加納先生に何かあった場合に備えてよ。あなたの携帯電話が急に壊れてしまうことだって考えられるし。だから話を理解している別の人がいると、彼女に教えておくべきじゃないかしら」
 なるほど。「言えてる。わかった、そうする」
「じゃ、気をつけて行ってきて」
「うん、そうする。お大事に」
 
 加納久美子は待ち合わせのファミリー・レストランに、約束の二十分前には到着するつもりで家を出た。国道127号線を館山方向へ、フォルクス・ワーゲンのポロを走らせながら身体が緊張していくのを感じた。いつものドライブとは違う。
 え、嘘でしょう。どうして? いつもなら空いて飛ばせる道路が今日に限って渋滞していた。しばらくノロノロ運転を余儀なくされ
た。ある地点まで来ると前に繋がった自動車の先に、二台のパトカーが赤い点滅をさせたまま停車しているのが見えた。
 事故だった。これはマズい。約束の時間までに着けるか自信がなくなった。加納久美子はバッグから携帯電話を取り出すと、望月良子の番号を押した。
 「あ、加納です。すいません、事故で渋滞なんです。今、竹岡あたりを走っています。少し送れるかもしれません。それでも構いませんか? ああ、良かった。ありがとうございます。でしたら先にファミレスの中に入って、コーヒーでも飲んでいて頂けないでしょうか? ええ、そうして下さい。よろしくお願いします。では後ほど」 
 マホニーというファミレスの駐車場に着いたのは、約束の時間から十五分ほど送れてだった。スズキの白い軽自動車が目に入って、その横にポロを停めた。
 さあ、どの人が望月良子だろう。すぐに見つけられるだろうか。不安な気持ちで店内に入ってレジの前で立ち止まった。客が入店したチャイムに反応してウエイトレスが近づいてくる。その時、窓際の席で久美子に手を振る一人の女性が目に入った。笑っている。きっと、あの人だ。そう直感した。
 「お一人ですか?」ウエイトレス訊いてきた。
「いいえ。待ち合わせです」久美子は答えた。「あの人なんです」確信はなかったが、窓際に座る若い女性を指差した。
 「望月です。初めまして」半信半疑で久美子がテーブルに近づくと、プリントの白いブラウスに赤いカーディガンを羽織った若い女性が先に口を開いた。座ったままだった。
「加納です。初めまして。今日は本当に有難うございます」
「こちらこそ。こんな所まで来て頂いて感謝しています。で、お連れの方は?」
「あ、すいません。風邪で来られなくなりました」
「そうでしたか」
 小柄で笑顔の可愛い女性だった。はっきりとした大きな目が聡明な印象を強くしている。話し易そうな感じだ。良かった。たくさん色々なことを聞けそうな気がした。
 向かいの席に腰を下ろしてみると、窓の向こう側に自分のフォルクスワーゲンが停まっているのに気づく。なるほど。彼女は久美子が車から降りるところから見ていたらしい。
 「黒川拓磨の母親に会ってきました」さっそく加納久美子は話を切り出す。
「どうでした?」望月良子が応えて訊く。
 途中でウエイトレスが注文を取りにきて中断したが、加納久美子は相手に内容を全て話す。
 「母親は、とても息子のことを恐れている様子でした」そこを何度も強調した。
「やはり、そうでしたか」望月良子は頷く。「でも息子だけじゃありません。こちらへ母親が連絡してきた時は、夫にも恐れている様子でした」
「え、本当ですか?」
「夫と息子の二人から逃れたくて、こちらに助けを求めてきた感じです。しかし会って話しをしようとした直前でした、夫の方は学校で焼死したんです」
「そうでしたか」久美子は言った。
「黒川拓磨の担任教師と争って、二人とも亡くなったんです」
「まさか、……信じられない」
「教師の方がガソリンを教室に持ち込んだらしくて」
「確かなんですか?」
「いいえ、推量でしかありません。現場検証をして、警察が出した結論です」
「その現場に黒川拓磨はいたんですか?」
「わかりません。しかし教師が彼を焼き殺そうとしたところで、その父親が助けに入ったと考えられます」
「でも証拠はない?」
「その通りです」
「教師が人を殺そうとするなんて……、そんな」
「そうしなければならない状況に追い込まれたんだと思います」
「どうして、ですか? 黒川拓磨の平郡中学での様子を教えてください」さあ、ここからが本題だ。加納久美子は身構える気持ちになった。
「わかりました」そう言うと望月良子は座り直して口を開く。「単刀直入に言わせて頂きます。黒川拓磨は、……あいつは悪魔です」
「……」たじろいで返事ができない。こんな優しそうな女性から、そんな辛らつな言葉が聞かされるとは思ってもみなかった。
「彼に、どれほど学校をメチャクチャにされたか分かりません。今でも精神的に立ち直れない生徒がほとんどです」
「た、たとえば……」具体的に聞かせてほしい。久美子は促した。
「あいつは生徒たちの弱点を探り出して、悪の道、堕落の道へと誘い込んだのです。それは彼らの恋愛感情であったり、金銭欲であったり、虚栄心でもありました。そして誰一人、求めていたものが叶った者はいません。騙されたと気づいた時には手遅れでした。弱みを握られて、もう黒川拓磨の言いなりになるしかありません」
 注文したコーヒーを、ウエイトレスが持ってきたので望月良子は黙った。
「……」久美子は視線を相手から動かせない。テーブルの上にコーヒーが置かれても見もしなかった。確証はないが、うちの君津南中でも同じような事が起きていそうな気がしてならないのだ。
「見たかったビデオを黒川拓磨から借りた生徒なんですが、彼の視線の先のテレビには何も映っていませんでした」ウエイトレスが立ち去ると、望月良子は続けた。
「そうですか」うちの板垣順平と同じだ、久美子は思った。
「彼の母親が不審に思って声を掛けると、邪魔をするんじゃないと怒って激しく暴力を振るったそうです。両親は重傷を負って病院へ運ばれます。平和だった家庭が崩壊しました」
「……」
「女子生徒には女優にしてやるとか、その器量ならモデルになれそうだとか、甘い言葉で近づきます。黒川拓磨が君津の中学へ転校して行くと、彼女たちは中絶手術を受けなければなりませんでした」
「……」久美子は視線を望月良子から外した。五十嵐香月を妊娠させたのは、やはり黒川拓磨かもしれない。
「加納さんに、一つ訊きたいことがあります」
「え、はい。何でしょう?」久美子は視線を戻した。
「失礼ですが、お幾つですか?」
「二十八になります」自分の年齢が何かと関係があるのか。
「うちで黒川拓磨の担任をしていた教師は桜井優子といいます」
「え、女性だったんですか?」大胆な行動に出るからには、てっきり男性教師だと思った。
「そうです。それに加納さんと同じ年でもあります」
「えっ」
「彼女の出身は君津市でした」
「……」鳥肌が立ってきた。
「彼女の旧姓は木村でした。もしかして、ご存知ありませんか?」
「……」無意識に目が大きく開く。加納久美子は言葉が見つからない。
 木村優子。知っているどころじゃない、高校時代に仲が良かったクラスメイトの一人に同じ名前の女性がいる。「ま、まさか……」
「国際中学と高校を卒業しています」
「ま、待って下さい」もう話さないで。少し休ませて、そういう意味で右の手のひらを前に突き出す。胸が苦しかった。これ以上は一度に受け入れられない。
「……」望月良子は口を閉じた。
「し、知っています。彼女とは親しい仲でした。だけど信じられない、まさか」
「やはり、そうでしたか」
「木村優子さんは卒業と同時に、館山の方へ引っ越されたんです。何度が手紙のやり取りをしましたが、その後は疎遠になってしまいました。でも、あの子が……やはり信じられない」
「桜井先生は霊感の強い女性でした」
「ええ、そうでした。高校のときに、そんなことを聞かされたのを覚えています」
「では彼女が高木という教師から、ある鏡を預かったのは聞いていますか?」
「……」高木教頭のことだ。あっ、……そうだ、思い出した。
「その教師が処分に困っていた−−」
「はっきり覚えています」久美子は相手の言葉を遮った。「いつか木村優子は、あるモノを高木先生から引き取って神社へ預けに行くと話してくれました」
「その、あるモノが鏡なんです」
「そうだったんですか?」
「はい。でも、ただの鏡ではありません」
「どんな?」
「黒川拓磨の正体を暴く鏡です。そして彼が最も恐れるモノが、それなんです」
「どういう意味ですか?」
「不思議な力を宿しています。その鏡で太陽の光を反射させて黒川拓磨に当てれば、彼は力を失い、枯れ果てて滅びるんです。そして鏡は彼の姿を、我々の目で見ているのとは違う容姿で映します。悪魔の姿です」
「本当ですか?」
「信じられないでしょうけど、これは事実です」
「その鏡は今、どこにあるんですか?」
「桜井先生の御主人が持っています」
「えっ、彼女の御主人が?」
「はい。桜井先生は鏡を手にしたまま焼死しました。検死が終わって、警察は遺品として夫に引き渡したのです」
「その鏡があれば黒川拓磨の正体が分かるんですね?」久美子は期待を込めて訊いた。
「そうです」
「……」その鏡を借りたい、久美子は思った。
「そこで、……私からの提案なんですが」
「はい」
「桜井先生の御主人は、ここから車で数分の所に住んでいます。海沿いに建つ、シーサイドという名前のマンションです。黒川拓磨の正体を暴くために、少しの間だけでも鏡を貸してもらえないか頼んでみたらどうでしょう」
「ぜひ、そうしたい……、ですけど自分は彼女の御主人とは面識がありません。いきなり行って頼んでみても……」
「加納さん、ここは急ぐべきです。手間取れば、それだけ黒川拓磨の影響が大きくなっていくだけだと思います。いきなり訪問することになりますが、事情を説明すれば分かってくれるんじゃないでしょうか」
「実は今度の土曜日に、黒川拓磨は学校で何かを計画しているらしいのです、それが凄く気掛かりで……」久美子は打ち明けた。
「クラスメイトを集めてですか?」
「そうらしいです」
「儀式です」
「え?」
「それは悪魔の儀式です」
「あ、……悪魔の儀式?」
「そうです。生徒たちを集めて、彼らの思考を集中させて大きな悪事を働こうとしているのです。それは絶対に阻止しなければなりません。うちの中学でも同じような出来事があって、取り返しのつかない事態を招いてしまいました」
「……」
「阻止するためには鏡が必要です。鏡があれば黒川拓磨の化けの皮を剥ぐことが出来ます。あいつの正体が明らかになれば、多くの人たちが協力してくれると思いませんか」
「はい」
「折角ここまで来たんです。行って断られたのなら諦めがつきますが、行かないで帰れば後悔するでしょう?」
「おっしゃる通りです」
「ダメで元々じゃないですか。行ってみるべきです」
「そうですね」久美子は同意した。
「簡単ですが、地図を書いておきました。これです。一緒に行ってあげればいいのですが、すいません、体調がイマイチなんです」
「あ、大丈夫です。一人で行けます」久美子は渡されたメモ用紙に書かれた地図を見ながら応えた。そうだ。もし彼女が一緒に行ってくれるなら、話は早いのにと思った。でも仕方がない。
 「どうです? 分かりますか」
「……これって、国道沿いに建っていた大きな白いビルですか?」
「そうです」
「リゾート・マンションみたいに目立つ建物ですよね?」久美子は念を押す。
「ええ、それです」
「じゃあ、大丈夫です。分かります」本当だ、ここから近い。
「それで、うちの安部教頭なんですが」望月良子が話を変えた。
「はい」
「あの人は官僚主義というか、これだけの事が学校で起きたのに揉み消すのに一生懸命でした」
「……」わかります、というふうに久美子は首を縦に振る。そんな感じが電話でもしたからだ。
「世間体が悪くなるからと、問題を抱えた生徒たちの親を説得して黙らせました。警察には、不倫した女教師と保護者の一人が別れ話が拗れて焼身自殺を図ったらしいと、嘘の話をして捜査を真相から遠ざけたのです。張本人の黒川拓磨には、すべて不問にするから転校してくれと頼み込みました」
「まあ、……」呆れたと続けて言いたいところを、途中で久美子は言葉を飲み込んだ。
「転校先の中学校が大変なことになると知っていながら、うちの教頭は手続きを強引に進めたんです。君津の借家だって彼が探して手配しました。とにかく自分の経歴に傷がつくような、都合の悪いことは全て隠してしまおうという魂胆でした」
「……」久美子は頷きながら、自身も怒りで熱くなる思いだ。正義感に燃える望月良子に同調していた。
「これが教育者のすることですか? 真相を究明すべきなのに、事件を闇に葬ってしまうなんて。もう情けないやら、悔しくて悔しくて、腹が立って仕方ありませんでした。反対に教頭は何もなかったような顔をして仕事を続けています。信じられますか?」
「……」久美子は反射的に首を横に振った。
「ところがです、……」
「はい」怒りに満ちた相手の口調が急に静かになった。聞き漏らすまいとして久美子は身を僅かに前に屈めた。 
「まわりの教師たちはどんな思いでいるのか、わたしは探りを入れてみたんです。そしたら驚いたことに、教頭先生と同じ態度の人たちが少なくありませんでした。後で知ったのですが、彼らは生徒たちと同じように黒川拓磨に唆されて弱みを握られ、人生をズタズタにされていたんです。胃潰瘍に苦しむ教師には必ず治る漢方薬を知っているとか、賭け事で借金ができた教師には買えば絶対に儲かる株があるとか言って、その気にさせました。夫に不満を持っていた中年の女教師には、きれいに別れられる方法があるとか言って近づいたんです。つまり黒川拓磨によって、学校全体がメチャクチャされていました。もう私一人が声を上げても何も変わらない状態だったのです。我慢して黙るしかありませんでした。もし行動を起こせば教頭に睨まれて職場に居られなくされるのは明らかです。この不景気に仕事を失うわけにはいきません」
「そうでしたか」久美子は同情した。
「でも加納さんからの電話を受けた時、すぐに黒川拓磨の件だと分かりました。やっぱり、という感じです。うちの教頭とのやり取りを横で聞いていました。なかなか引き下がらない強い女性だな、と感心しました。もしかしたら、この人なら黒川拓磨の正体を暴いて公にしてくれるんじゃないかと直感したんです。それで電話をして全てをお話しようと決心しました」
「ありがとうございます」
「加納さん」
「はい」
「黒川拓磨は怪物です。正真正銘の悪魔です。正体を暴くのは簡単ではありません。鏡は絶対に必要です」
「これから桜井氏のマンションへ行ってみます」
「そうして下さい。ちゃんと説明すれば桜井氏は理解してくれると思います。でも、もし借りられたとしても、それだけで十分とは言えません。誰か協力してくれる人はいますか?」
「はい。一緒に来る予定だった〡〡そうだ、彼女の携帯の番号を言っておきます。もし自分の携帯電話がバッテリー切れになったり、何か不測の事態が起きた場合に備えて」
「言えてます。教えて下さい。これから何回か、お互いに連絡を取り合うことになるでしょうから」
「よろしくお願いします」 
 加納久美子は手帳の一ページを切り取ると、安藤紫の名前と携帯電話の番号を書いて渡した。ああ、良かった。もう少しで忘れてしまうところだった。
「わかりました。もし加納さんと連絡が取れない場合は、この方に電話します」
「そうして下さい。彼女は同僚で美術教師です。ずっと親しくしています」
「では、その方にも私の携帯の番号を伝えて下さい」
「そうします。ありがとうございます」
 望月良子は無言で頷くと、コーヒーを手に取って口をつけた。その顔からは憤りの表情は消えていた。すべてを話し終えた感じが伝わってきた。
「今日は来て良かったです」久美子は言った。
「そう言って頂けると嬉しいです」
「さっそく、これから桜井氏に会いに行きます」
「上手く行くことを願っています」
「結果は夕方にでも電話で報告させて下さい」
「待っています」
「じゃあ、これで失礼します。あっ、待って。ここは私に払わせて下さい」望月良子が白い伝票に手を伸ばしてきたので、久美子は素早く横取りした。
「いいえ、そんなこと出来ません。こちらまで来て頂いたんですから」
「いいえ、払わせてください。話して下さったことに本当に感謝しているんです」
「では、せめて割り勘にしましょう」
「いいえ、私に払わせて下さい。お願いします」久美子は頑として譲らなかった。結局、相手を承諾させてテーブルを立ち上がった。
 「あらっ」
「はい。そうなんです、実は」
「いつですか、予定日は?」望月良子の腹部が大きかった。
「来月です」母親になる喜びを満面の笑顔で表して答えた。
「まあ。すいませんでした。こんな大事な時に、わざわざ会って頂いて」体調が不安定なのも当然だ。
「いいえ、とんでもありません」
 立ち上がってみると、身長は久美子の方が高かった。相手を先にしてレジへ向かう。その途中で望月良子は足を止めて振り返った。顔は笑顔のままだ。大きな腹部に手を当てながら、何か言い残したことでもあるように口を開く。
「うふっ、双子なんです」
「……」その言葉を聞いて、加納久美子の顔から一瞬で笑みが消えた。数日前、五十嵐香月の口から同じ台詞を耳にしていた。黒川拓磨も双子で産まれてきたらしい。偶然の一致なんかじゃない、そんな気がした。

   65  

 「望月良子、……ですか?」
「はい」久美子は頷く。
「さあ、……知らない。初めて耳にする名前だ」
「え、そんなことは……。平郡中学で庶務をしている方ですけど」
「いいえ。その名前は妻の口から聞かされたことがない」しっかりとした口調で桜井氏は否定した。
「……」どうなっているんだろう? 狐につままれた思いで加納久美子は黙るしかなかった。
 国道沿いに建つ白いマンションに立ち寄ってみると、幸運にも桜井氏は在宅だった。インターフォンを通して、いきなり訪ねて来た理由を説明した。話している途中だった、加納久美子という名前に気づいてくれたらしい。
 「もしかして優子の高校時代に仲良しだった方ですか?」と訊かれた。「そうです」と答えると、すぐにドアが開いて部屋の中に迎えられた。木村優子が夫に学生時代の友達の話をしてくれていたので助かった。
 リビングに入ると一気に旧友の面影が蘇る。部屋のコーディネートが彼女そのものだった。パステルカラーで統一されて、所々に観葉植物が飾ってあった。高校時代に彼女の家に遊びに行った時のことが思い出される。それが今ここに再現されているのだ。なんて懐かしい。目の前のドアが開いて、高校生の木村優子が姿を現わしてくれるような気がしてならなかった。と同時に彼女と二度と会えない悲しみが込み上げてきた。胸が痛い。自然に涙が流れた。桜井氏に見られまいと顔を反対の方へ向けた。
 疎遠になってしまって御免なさい。あなたとは、ずっと友達でいたかったのに。
 同じ職業に就いていたなんて。もし付き合いが続いていたなら、お互いに悩みを打ち明けたり、色々と話し合えただろう。残念でならない。
 ううっ。急に罪悪感が込み上げて胸が痛くなった。もし友情が続いていたなら、彼女は死なずに済んだかもしれない。きっと、そうだ。優子は窮地に追い詰められる前に、自分に相談したはずだ。助けを求めたに違いない。そして自分は彼女を助ける為なら何でもしたと思う。優子の死は久美子自身にも責任があるように感じた。
 ああ、御免なさい。優子、大好きだったよ。
 こうなったら何としても、木村優子が命を落とした理由を突き止めたい。加納久美子は強い使命感を覚えた。 
 木村優子が夫に選んだ男性は、髪を短くカットした細面の顔で、白いポロシャツにブルージーンズを穿いていた。物静かでスタイリッシュだ。優子が恋に落ちたのも頷ける。似合いのカップルだったに違いない。まず久美子は仏壇に線香を上げさせてもらった。手を合わせながらも、彼女のことは考えまいと意識した。これ以上は悲しみに浸ることは出来ない。わざわざここまで来た理由を見失ってしまう。 
 リビングのソファに落ち着くと、君津南中学で起きていること、また平郡中学で起きたことを加納久美子は詳しく話した。ところが桜井氏が望月良子という人物は知らない、と言われて唖然としてしまう。どうなっているんだろう。言葉が続かない。
 「あそこの教頭には会いましたか?」気まずい沈黙を破って桜井氏が訊いてきた。
「い、……いいえ」久美子は答えた。電話で話をしただけで顔を合わせたことはない。
「あの男は信用できない」
「……」相手の表情に怒りが宿るのが分かった。
「事件を闇に葬ったんだ。それだけじゃない、遺品として警察から返ってきた鏡を渡せと言ってきた」
「えっ、鏡をですか?」
「そうです」
「どうして?」
「黒川拓磨にとって脅威となっているからでしょう。あの安部とかいう教頭は黒川拓磨の言い成りだった」
「今、どこに鏡はあるんですか?」
「自分の実家にあります。木箱に入れて神社で祈祷しました。そうすることで邪悪な存在は手も足も出ない」
「その鏡は、優子さんが高校時代に高木先生から預かったモノですね?」
「そうです。その教師が、どういう経緯で鏡を入手したのかは知りません。でも処分に困っていたのは事実だ。そこで優子が引き取ったのです」
「その話は高校時代に、私は優子さんから聞きました」
「そうでしたか。では妻が異常に霊感が強い女性だったのは知っていますね?」
「ええ」
「産まれた時にベネチアン・ベールを被っていると、それが強くなるらしいです」
「え、ベネチアン・ベール?」
「はい。つまり羊膜のことです」
「そうなんですか」
「優子は黒川拓磨という邪悪な存在が、鏡を破壊しようと画策することを予期していたようです」
「桜井さん」お願いするなら今だ、そう久美子は思った。
「はい?」
「次の土曜日なんですが、黒川拓磨は学校で生徒たちを集めて何かを行おうとしています」
「それはマズい。絶対に止めさせるべきだ」
「そうなんです。それで−−」
「あの鏡が必要なんですね?」桜井氏は久美子の言葉を遮って言った。
「その通りです」なんて物分りのいい人だろう。
「……」
「お願いできますか?」
「……」桜井氏は黙ったままだ。
「ダメですか?」久美子は不安になっていく。
「僕の家内は亡くなりました。どういう状況でそういう結果になってまったのか、詳しくは分かりません。真相はうやむやにされてしまった。しかしです、すべての責任は黒川拓磨にあると考えています。あの鏡を持って自分が奴に立ち向かおうかと思ったりもしました。でも私は部外者なんです。味方になってくれそうな人はいません。それに第一、小柄な中学生を退治しようとする大人に、誰も協力しようとする気にはならないでしょう。もし一人で戦えば、優子の二の舞になりそうだ。それで諦めました。しかし鏡は、何があっても絶対に連中に渡さないと決めたんです。もしかしたら、黒川拓磨と対峙しようとする勇敢な人がいつか現れるかもしれない、という僅かな期待もありました」
「……」
「ところが現れたのが、……加納さん、あなただった」
「わたしではダメですか?」
「危険過ぎます。あなた一人では、とても……」
「待って下さい。わたしには協力者がいます。同僚で、安藤紫という者です。今日は体調を崩して一緒に来られませんでしたが」
「その方も女性じゃないですか。無理だ。とてもじゃないが黒川拓磨の悪事を止めるなんてことは出来ない」
「いいえ。男性もいます。警察官です。君津署で刑事をやっています。わたしの生徒の父親なんです」波多野孝行の父親なら、きっと強力な味方になってくれる。
「本当ですか?」
「はい」
「しかし非常に危険なことには間違いないです」
「わかっています」
「鏡を貸すのは構いません。しかし加納さんを危険に晒すのは気が進まない」
「慎重に行動します」
「逐一こちらに報告してくれますか?」
「もちろんです」
「お願いです。もし危険を感じたら直ちに行動を中止して下さい」
「そうします」
「わかりました。木曜日に実家に帰る予定があります。ですから金曜日の夕方ぐらいには取りに来て頂いて構いません」
「ありがとうございます。これは自分と同僚の安藤紫の携帯番号です。もし私と連絡が取れない場合は彼女に電話して下さい」そう言って久美子はメモを渡した。
「自分の携帯の番号を言います。控えて下さい」桜井氏が言った。
 久美子はペンを取り出して手帳に走り書きした。
「今日は本当に有難うございました。これで失礼します。いきなり訪問したことを御許し下さい」
「気をつけて、お帰りください」
「金曜日は電話をしてから参ります」
「お待ちしています」
 二人はリビングのソファから立ち上がった。桜井氏はエレベーターのところまで一緒に来てボタンを押してくれた。エレベーターが反応して一階から上がってくる。それを待つ間だった。
「加納さん」桜井氏の表情が重い。
「はい」どうしたんだろう。 
言い難そうに口を開く。「検死で分かったのですが、……妻は妊娠していました」
「えっ」
「でも自分の子ではありません。確信があります。私たちには計画があって、しっかり避妊はやっていましたから」
「……」じゃ、誰が? でも、それは自分の口からは訊けない。
「双子でした。優子は双子を身篭っていたのです」
 加納久美子は冷水を浴びせられたように全身が凍りつく。その事実は聞きたくなかった。これは自分の手に負えないかもしれない、そんな予感がしてきた。桜井氏を見つめるだけで何も言えない。
 帰宅を促すように、エレベーターの扉が静かに開いた。

   66 

 もうダメだ。このままでは悪化していくだけだろう。
 西山明弘は病院へ行く決心をした。虫に刺されてから十日ほど経つが症状は一向に良くならない。痒みは酷くなる一方で、全身に広がろうとしていた。
 咬まれたところから肌は赤黒く斑に変色して、触るとガサガサと荒れて、まるで爬虫類か何かの皮膚みたいだった。
 最初のうちは大家の娘が、献身的に痒み止めの薬を塗布してくれた。ところが症状が酷くなると、頼んでも拒否するようになる。最後は気味悪がって患部を見ようともしなかった。
 頼れる人間は大家の娘だった。不味くても食事の用意はしてくれた。しかし今では、カップ麺がドアの外に置かれているだけになった。部屋に入ってこようともしない。もう顔を合わせたくないらしい。もはや、あの程度の女にも見放された格好だ。なんて様だ、このオレが。信じられない。これほど惨めな気持ちになったのは今までになかった。
 医者に見てもらうしかない。薬局で買ってきた市販の薬では治せないと判断した。症状が少しでも良くなったら、一刻も早く黒川拓磨のバカに仕返ししたい。あの小僧、ぶっ殺してやる。
 何日かぶりにレガシイを運転した。4サイクル水平対向4気筒の振動が、ハンドルを通して伝わってきた。世界的に珍しい独特のエンジンだ。高い買い物だったが後悔はしていない。いい車だ。アトランテック・ブルーパールという、ボディ・カラーも気に入っていた。
 皮膚科の病院は五井の方まで行くことにした。地元近辺ではマズかった。知った顔に出会う恐れがあるのだ。以前に水虫の治療で近くの皮膚科に行ったところ、生徒の母親に会って、ヘンな噂を流されたことがあった。話が人から人へ伝わる途中で水虫が性病の治療に変わってしまう。否定したが、受け入れてくれたか自信がない。人は悪い方を信じたがるのだ。 
 国道127号線に出たところでカー・ステレオのスイッチを押した。レガシイを走らせて久しぶりに気分が少し良くなったからだ。音楽が聞きたくなった。
 スピーカーから流れてきたのは、おニャン子クラブが歌う、『セーラー服を脱がさないで』だった。西山が好きな曲の一つだ。
 初めて聞いた時は少なからず驚いた。こんな歌詞でよくON AIRできたなと思った。まるで全国の女子学生に、早く処女を失いなさいと奨励しているようなものじゃないか。
 一度で気に入った。特に好きなフレーズは、「友達より早くエッチをしたいけど」という下りだ。オレの脳下垂体をジーンと刺激してくれる。何度でも聞きたい。こういう歌詞を書いた奴は天才に違いないぞ。
 繰り返し繰り返し聞くうちに西山の頭には一つのアイデアが浮かぶ。それはバカでもいいから超セクシーな女をナンパして、そいつにセーラー服を着せてやろうという考えだった。
 成熟した身体にセーラー服だ。これは、きっと合う。最高にエロチック。でもセーラー服は脱がさない。着たままがいい。その格好で、オレの核弾頭を搭載したミサイルを何発も撃ち込んでやる。格納庫が空になるまで発射しよう。超セクシーな女を破壊して破壊しまくるのだ。攻撃が終わった後には何も残らない。女は意識も体力も無くなって廃墟と化す。
 色々と作戦を考えていく過程で想像は膨らむ。セーラー服の次は君津南中学の体操服を着せてやろうじゃないか。
 超セクシーな女に、あの小さな赤いブルマーを穿かせるのだ。こりゃ、セーラー服よりエロチックなのは間違いない。これまでは、手塚奈々が授業で校庭をランニングするのを横目で見て楽しむだけだった。
 きっと女は身の置き場もないほど恥ずかしがるだろう。そこでバッグに隠してあった高性能カメラを取り出して撮影を開始だ。お願い止めて、と女が泣き叫んでも無視。お前の恥ずかしい写真を職場の同僚に見せるぞ、と脅して更に恥ずかしい行為を強要する。
 赤いブルマー姿で……、そうだ、ついでに犬の首輪を身に付けさせて、図書館や郵便局の周りを歩かせよう。裸じゃないから法律には違反しない。だけど女は羞恥心で気が狂うほどだろう。その姿を一部始終ビデオに収めてやる。こういう事にかけてだったら西山明弘の想像力は誰にも負けなかった。
 どころが、……ところがだ。肝心の超セクシーな女が一人も見つからない。ずっと探し続けた。でもセーラー服やブルマーを穿かせたいと思う女は、テレビや成人向け雑誌でしか目にしなかった。
 大家の娘は、着ろと言えば素直に着たはずだ。だけど、あの女には似合わない。やっても意味がなかった。このオレが興奮するどころか逆に萎えてしまうのが分かっていたからだ。
 時間が掛かった。バカで少しぐらいブスでもいいかな、と条件を下げてみたりした。それでもいなかった。
 とうとう最初の一人を見つけたのは自分の職場で、驚いたことに想像もしなかったくらいに完璧な女だった。それが君津南中学で美術を教える安藤紫だ。
 長い脚と悩ましい曲線を描く太もも、桃みたいに丸い尻、くびれたウエストに女らしさを強調している胸の膨らみ。成人雑誌のグラビアを飾ってもいいスタイルだ。顔は小さく雛人形みたいに整っていて、艶のあるワンレングスの黒髪に包まれていた。
 なんて女だ。こんなに身近で、こんなに魅力的な女性に巡り合えるとは思わなかった。自分の幸運が信じられない。
 ピチピチした尻を左右に揺らして歩く後ろ姿を見たら、男は誰でもその場に釘付けだ。 仕事へ行くのが楽しくなった。何かにつけて安藤紫先生と話をする機会を作り出す。どれほど自分がいい男であるか、一生懸命にアピールした。
 職場にいても家にいても、西山明弘は安藤紫先生のヌードを頭に思い描く。ふくよかな胸はブラジャーを外した途端、ブルンと弾んで飛び出すじゃないだろうか。きっと乳首がツンと上を向いているに違いない。早く見てみたい。手で触れてみたい。そして口で吸ってみたかった。オレが巧みに舌を動かすと、安藤先生が上半身を仰け反らせて悶える姿を夢に見た。
 彼女のセーラー服を着た姿や、赤いブルマーを穿かされて恥ずかしそうに歩道を歩く様子を想像しては楽しんだ。
 こっちの好意が伝わるように優しく笑顔で常に接した。反応は悪くなかった。冗談にも笑ってくれた。ところが、いざ食事に誘おうとすると、何だかんだと理由を口にして、いい返事をくれない。プレゼントを買って渡したりもした。だけどデートの誘いは、のらりくらりとかわされる。それでも時々、オレに気があるような素振りを見せたりした。どうなってんだ。この女は一筋縄ではいきそうにない。西山明弘は悩んだ。これまで付き合ってきた連中とは違う。
 オレのミサイルを喰らえば、今までの女は一度で豹変した。
 「無理だわ。あたし、そんな恥ずかしい格好できない」なんて言っていたのに、すぐに同じ口から「お願い、もっとして」とか、「いや、まだ止めないで」なんて言葉が飛び出してくるのが常だった。
 最初の恥じらいは何だったのか? あの、「待って、まだ早いわ」とか言って焦らせたのは何だったのか? 女って生き物は理解するのに難しい。
 安藤先生だって一度でも身体を許せば、オレの凄さが分かるってもんだ。その時は、どうしてもっと早くデートの誘いに応じなかったのかと後悔するはずだ。
 時間は掛かりそうだ。しかし西山明弘は諦めなかった。こんな特上の獲物を他の男に奪われてたまるものか、そんな気持ちだ。オレが見つけた宝物だ、誰の手にも触れさせたくない。
 ところがだ、加納久美子先生の登場で固い決意が一気に揺らぐ。
西山明弘が何年も掛けて築いた、『自分が好む女性のタイプ』というイメージを根底から覆す容姿を持っていた。
 背は高いが、バストもヒップも大きくない。スレンダーな身体だった。女らしさよりもアスリートみたいな感じが強い。しかし喋り方とか、物腰や仕草が堪らなくセクシーなのだ。それに加えて全身から醸し出す知的な雰囲気。きりっとした目鼻立ちから、それは強く窺えた。
 新鮮な女だった。西山明弘の人生にとってニューヒロインの登場だ。知的が故に近寄り難さがある。バカな男じゃ相手にしてもらえないだろう。その点では有利だった。周りを見てもオレより賢そうな男はいない。
 知性に溢れた女性に赤いブルマーを穿かせて辱めるのは、それは一味違う興奮が期待できた。加納久美子が手に入るなら安藤紫は諦めてもいい、そんな気持ちになった。
 どっちかをモノにしたい。その為に努力してきた。思ったように事は上手く運ばなかったが。まだギブアップはしていない。いつか決定的なチャンスが来るのを待っていた。
 それが、ここにきて得体の知れない虫に刺されて状況は悪化。仕事すら失うかもしれない危機だった。異常な痒みに苦しみ、体は全身が内出血するように赤紫に変色していた。一日も早く、この症状から抜け出したい。
 完治したら真っ先にやることは黒川拓磨に仕返しすることだ。女どころじゃない。この西山明弘をコケにしたら、それなりの代償を払わす。やられて泣き寝入りするような情けない男じゃない。
 五井にある皮膚科の病院は小さいところを選んだ。どこでも同じだ。込み合っていなくて、早く診察してくれたらそれでいい。
 「どうしました」明らかに還暦は過ぎたと思われる医者は、診察室の椅子に腰掛けた西山明弘に訊いた。
 こんな、よぼよぼの年寄りで大丈夫だろうか。受付にいた中年の女は、こいつの女房だろうと察した。夫婦二人だけでやっている皮膚科の病院らしい。寂れた感じだ。ちゃんと診察してしてくれるのか、少し不安になってきた。
 「強い毒を持った虫に刺されまして……」西山は答えた。
「えっ、この寒い時期に? 一体どんな?」
「それが分からないのです。見たこともないやつでした」
「本当に虫なのかな?」
「そうです」 
「じゃあ、刺されたところを見せて下さい」
「これです」西山はジャージ・パンツの裾を捲り上げた。
「えっ。……こりゃ、ひどいな」 
「そうなんです。どんどん悪くなる一方で……」
「こんなに強い毒を持つ虫なんて、日本に生息しているのかな。私は知らない。で、刺されたのはいつですか」
「一週間ほど前です」
「ここまで酷くなるまで放っておいたんですか。そりゃ拙いな」
「いいえ、そういうわけじゃなくて……。市販の薬を使っていました。ところが一向に良くならなくて」
「症状が悪化してからでしょう? それじゃあ、意味がない。手遅れですよ。刺されたら、すぐに消毒しないと」
「えっ? し、しましたけど……」
「うふっ。していませんよ。見れば分かります」
「そんな、……医務室で消毒をしたつもりなんですが」
「勘違いでしょう。してたら、こんなに症状が悪くなるはずがありません」
「……」西山は怒りで顔が真っ赤になるのが分かった。しかし抑えられない。
 あの東条朱里のメス豚め、オレを騙しやがった。沁みます、とか言ってオレに目を瞑らせて、消毒薬とは違う別の液体を落としたんだ。許せねえ。間違いない、あの女は黒川拓磨とグルだった。二人してオレをハメやがって。チクショウー。仕返ししなきゃならないバカ野郎が一人増えた。ぶっ殺してやりたい。
 「どうしました?」
「あ、……い、いいえ、何でもありません」医者の言葉で我に返った。「で、どのくらいで治りますか?」
「……」
「先生?」
「何とも言えないよ」
「どういう意味です?」
「ここまで悪くなったら、……もう元通りには」
「刺された痕が残るっていうことですか?」
「だろうな」
「痒みが酷いんです。それは治りますか?」
「痒み? 痛みじゃなくて?」
「はい。刺された直後は物凄い痛みに襲われましたが、今は痒くて夜も眠れ−−」
「あれっ」医者は西山の言葉を遮った。「ちょっと待って」おもむろにトレーからピンセットを手にすると、それを患部に近づけた。見ている前で荒れた皮膚の一片を取り除いた。
 そのまま医者はピンセットの先を正面に持ってくると、反対の手で老眼鏡を調節しながら凝視する。「うわっ。こりゃ、凄い」
「……」そんなモノを見て何を驚いているんだ、この年老いた医者は? この病院を選んだのは間違いだったかもしれない、と西山は思った。
「見てごらんなさい」ピンセットの先を西山の顔に近づける。
「はあ?」そんなモノ、見たくない。
「よく見て」
 何の意味があるのか分からない。それよりも、この痒みを早く何とか−−。「げっ」
 自分の皮膚だった一片に何かが動いていた。よく見ると糸状の小さな虫だった。何匹かいる。なんて気持ち悪い。「これは……、これは一体なんですか?」
「幼虫だな」
「ど、どうして、……こんなところに」
「どうやら、キミの体の中で生息しているらしい」
「そ、そんなバカなっ」
「刺されたところを見てごらん」
「え?」信じられない気持ちだったが、医者の言葉に従った。「うわっ」その通りだった。刺されて化膿した回りに糸状の虫が蠢いていた。
「痒みの原因は、それだな」
「え、これが?」
「そうだ。つまり、その幼虫たちがキミの皮下組織の中を動き回ることによって、痒みが生じるということさ」
「……」
「キミが興奮したり、激しく体を動かしたりすると強い痒みが襲ってこなかったかな?」
「……」
「どうだ?」
「……確かに。言われて見れば、そうです」
「やっぱりな」医者は自分で納得するように大きく頷く。「血行が活発になれば、同時に幼虫たちも刺激を受けて活動が激しくなるということだ」
「……」
「痒みを抑えるには静かにしているしかない」
「そんな」
「キミを刺した虫は毒を注入したんじゃない。キミの体の中に卵を産み付けたらしい」
「そんな事ってあるんですか?」
「あるよ。聞いた話なんだが……」医者は前屈みの姿勢に疲れたのか、椅子に座り直すと続けた。「私の父親は太平洋戦争でニューギニアの密林地帯まで連れて行かれたんだ。そこでは人間の目を狙って卵を産み付けようとする虫がいたらしい。刺されたら次第に視力が落ちて、いずれは失明する」
「……」
「キミを刺したのも同じような種類じゃないかな。どんな虫だった?」
「ハエみたいに黒くて小さくて、……そいつの背中には黄色いラインがありました」
「え、黄色いラインだって?」
「はい」
「ふうむ。そういうのは聞いたことがないぞ」
「……」
「珍しい。もしかして新種かな?」
「どうしたら殺せますか? この虫は」
「蚊は血を吸って栄養分を奪うけど、この虫は人間の体に寄生するなんて……」
「もう痒くて、痒くて我慢できないんです」
「古い映画になるが、リドリー・スコット監督の『エリアン』を観たことがあるかな?」
「は、……はい」いきなり何だよ。どう、それが痒みと関係しているんだ。「宇宙船の中で怪物に襲われるやつでしょう」
「その通り。素晴らしい映画だった。わたしが面白いと思う作品の一つだ。まあ、しかしだな、シルビア・クリステルの『プライベート・レッスン』には及ばないが。彼女の代表作と言えば『エマニエル婦人』かもしれないが、わたし個人としては−−」
「わかりました、わかりました。それで痒みを、なんとかしてくれませんか。すぐに」
「あの映画を思い出してほしい」
「どっちの映画を? なんで?」西山は声を荒げた。しつこい。映画の話をしに五井まで来たんじゃない。オレは治療に来たんだ。
「もちろん『エリアン』の方だ」
「何か関係があるんですか、治療と?」
「どこでエリアンは成長したんだい?」
「え」
「初めからモンスターだったわけじゃない」
「……」
「卵から飛び出して乗組員の顔面に張り付き、彼の体内に寄生したんじゃなかったか?」
「……」それと、これと……。まさか。
「同じことが、キミの体の中で起きていると考えて間違いないと思う」
「そんなバカなっ」
「否定したいキミの気持ちは分かる。だけど現実に向き合わないとダメだ」
「この虫がオレの体を食い尽くすって言うんですか?」
「かもしれない。しかしだ、この小ささから考えると、そうはならないだろうな」
「どうなるって言うんです?」
「キミの体の中に棲みついて養分を吸収しながら成長する。やがてサナギとなり、時期が来れば成虫になって飛び立って行くんじゃないかな」
「ふざけんなっ。こ、殺して下さい、早く」
「待ちなさい。この虫の正体が分からないんだ。治療したくても方法が分からない」
「何か殺虫剤がないんですか?」
「あるにはあるが、……しかし」
「お願いです、それを使って下さい」
「でもな、キミも死ぬことになる危険性があるんだ」
「え、……」どうして?
「キミに害を与えずに、寄生した虫だけを殺そうとするところに問題があるのさ」
「……」
「強い塩酸をかけたり、火で焼いてしまえば、きっと虫は死滅するだろう。しかしキミも命を落とすことになる」
「つまり今のところ、治療の方法がないってことですか?」
「そうだ。この虫はキミの体の中の奥深くにまで侵入しているみたいだしな」
「……」こりゃ、もう絶望的だ。
「そこでキミに提案なんだが……」
「はい」
「この幼虫が成虫になるまで待てないか?」
「待つ? どうして」
「成虫になれば、それを研究して殺す方法が分かるというもんだ」
「そ、それまでオレは痒みに耐えなきゃならないんですか?」
「仕方がないだろう。こんな不気味な虫に刺されてしまったのが悪いんだよ」
「……」
「わたしが全ての治療費を負担しよう。痒みは少しでも症状が軽くなるように手をつくす。その代わり、この虫が新種だったら学会で発表させてほしい」
「いやだ」こんなクソ虫に自分の大切な体を蝕まれるのを、ただ見ているなんて。
「しかし他に何か方法があるだろうか。ここは冷静に考えた方がいい。別の見方をするんだ。こんな珍しい虫に卵を産みつけられて幸運だった、と。だってキミが最初の一人かもしれないんだから。成虫になった姿を見てみたいと思わないかい? 学会で発表することになれば、もちろんキミの名前も大きく出ることになるだろう。その為なら少しぐらい痒くたって我慢できるはずじゃないか。どうだろう?」
「いやだ、絶対にいやだ」
「まあ、待ちなさい。そう早く結論を出すことはない。気持ちを落ち着けてからでも遅く−−」
「帰る」
「なに?」
「もう帰ると言ったんだ」
「待ちなさい。早まっちゃいかんよ、キミ」
「うるさいっ」
 西山明弘は立ち上がると、医者の制止を振り払って診察室を飛び出した。金は払わない、保険証もそのままだ。駐車場でレガシイを急発進させた時、病院から医者が追いかけて来て危うく轢きそうになった。
 エンジンをONにさせたと同時に、ステレオのプレー・モードにスイッチが入った。おニャン子クラブの曲が入ったテープが運転席にチャラチャラした音楽を流す。『かたつむりサンバ』だった。耳障りだ。今は、そんな気分じゃない。最初の信号待ちで西山はイジェクト・ボタンを押すと、出てきたミュージック・テープを窓の外へ投げ捨てた。『セーラー服を脱がさないで』を二度と聞くことはないと思った。

  67 

 「お話があります」職員室で二人だけになれる時間を見つけて、加納久美子は高木教頭に詰め寄った。
「何だ?」高木教頭は身構えた。女教師の普段とは違う真剣な雰囲気に気づいたのだろう。
「先生が国際中学で教えた生徒の中に、木村優子という女の子を覚えていらっしゃいますか?」
「……」驚いた顔を見せると、その表情を読み取られまいとして教頭は視線を外した。
「わたしのクラスメイトでもありました」
「よく覚えていない。そんな名前の子がいたか?」
「そんなはずはありません」加納久美子は言い切った。
「どうして、そう断言できるんだ? きみは」
「わたしはハッキリと覚えているからです」
「きみと私とでは事情が違う。これまで何人の生徒に教えてきたと思っているんだ」
「彼女は普通の女子生徒ではありません」
「……」
「霊感の強い女の子でした。教頭先生が処分に困っていた鏡に気づいたのは彼女でしょう?」
「そ、そんなことがあったか……?」
「ある品物を高木先生から引き取ることになったと、木村さんが話してくれたのを覚えています。彼女の表情は、いつもと違っていました」
「よく覚えていないが、どうして今頃そんなつまらない話を−−」
「つまらない話では決してありません」
「しかし昔の事じゃないか」
「そんなふうに片付けられなくなりました。その鏡を、どうやって教頭先生が入手したのか教えてほしいのです」
「……」高木教頭が息苦しそうに呼吸をし始めた。額に汗も浮かんでいる。苦悩しているのが明らかだ。
「お願いします。教えてください」
「頼む。……よく覚えていないんだ」声が小さい。下を向いて、まるで母親に叱られた少年みたいだ。
「思い出してくれないと困ります」久美子は容赦しない。
「きみは私を、そんなに苦しめたいのか」
「違います。教えてくれないと大変なことになりそうだからです」
「何だって」
「あの鏡で木村優子は命を落としました」
「えっ」
「黒川拓磨と関係がありそうなんです」
「なんで知っているんだ? そんなことまで」
「土曜日に木村さんの御主人と話をしてきました。彼女は平郡中学で英語教師をしていて、黒川拓磨の担任だったんです」
「まさか」
「十三日の土曜日に、この君津南中学でも何か事件が起こるかもしれません」
「十三日の土曜日だって?」
「はい」
「これ以上は、……もう」
「そうです」もう手に負えないほど沢山あり過ぎた。
「……」
「教頭先生、教えてください。その鏡はどこから手に入れたんですか?」
「加納先生」
「はい」
「今日は勘弁してくれ。気分が悪いんだ」
「では、いつなら?」
「一日、二日でいいから、待ってくれ。連絡を取らなければならない奴もいるんだ。なんとか思い出すから」
「どうして?」
「こっちにも事情がある」
「急いで下さらないと」
「わかってる、わかったから」
「……」
 加納久美子は半信半疑だった。待ったとして、教頭先生が本当のことを話してくれるとは信じ難い。すごく怯えていた。なぜ? 
 あの調子なら時間を掛けて、話を誤魔化す口実を考え出すかもしれない。その鏡が相当な曰く付きだということだけは分かった。果たして桜井弘氏が言った通りに、それを手にすれば黒川拓磨の正体を暴くことができるのだろうか。

   68
     
 「ところで、お前」女が黒川拓磨に訊いた。「どうなっているんだい、あの忌々しい鏡は?」
「心配ない。今のところ思った通りに事が進んでいる。三月十三日までには片づくと思う」
「そりゃいい。あたしも少しは役に立ったのかい?」
「もちろん」
「よかった。あれが無くなりゃ、お前が恐れるモノは何もない」
「手に入ったら、すぐにオレが自分で始末する」
「そうしな。平郡中学じゃ、そのまま残して失敗したんだから」
「まさか熱で割れずに残ったなんて……。信じられなかった」
「それだけ厄介な代物なのさ」
「今度は間違いなく、この手で破壊してやるぜ」
「そしたら誰も、もう黒川拓磨を止めることは出来ない。あはは」
「もう、やりたい放題さ。三月十三日が楽しみだ」
「その日は、あたしも後から行くよ。上手く行ったかどうか見届けたいから」
「大丈夫さ。でも好きにしてくれたらいい」黒川拓磨は笑みを浮かべながら言った。

   69 

 高木将人は加納久美子にウソをついた。連絡を取らなければならない奴なんて一人もいなかった。もう誰もいないんだ。あの女に本当のことなんか口が裂けても言えるか。なにも知らないくせに。
 中学二年の頃、高木将人は東京の高円寺に住んでいた。初夏を感じさせる暑い日曜日だった、仲間四人と一緒に胆試しの目的で薄気味悪い空き家に入って行く。好奇心いっぱいで、何の恐れもなかった。真鍮みたいにスクラップ屋に売れる金属があれば、盗んでやろうという気だ。敷地内には、背中に黄色い線の入った見たこともない、ハエみたいな黒い虫が何匹も飛んでいた。
 「なんか気持ち悪いな」仲間の一人が言った。みんな同じ思いだったはずだ。だけど、引き返そうぜと弱気を口にする奴はいない。五人いれば怖いもの知らず。さっさと金目のモノを見つけて、ずらかろうという気だ。
 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」
「そんなこと、どうでもいい」
「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」
「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」
 家の横に小さな蔵みたいなのがあって、そこで虹色に輝く鏡を見つけた。日本語じゃない不思議な文字が所々に書かれていて、異様な感じがした。珍しくて価値がありそうだ。みんなが欲しがった。しかし高木が二日後には千葉県の君津市へ引っ越すことになっていたので、餞別という意味合いで仲間が諦めてくれたのだ。嬉しかった、その時は……。
 空き家というより廃墟に近い。人が住んでいないと思っていたのが、そうじゃなかった。仲間はパニックになって逃げ出す。それ以来、お互いに連絡がつかなくなっていく。虹色に輝く鏡だけが残った。
 嫌な思い出の品となった。君津には持って行ったが押入れの奥に仕舞ってそのままにした。いつか捨てようと思っていたが、すぐに存在を忘れてしまう。
しかし何年も経って異変が起き始める。夜中に押入れから物音がするのだ。ネズミでも潜んでいるのかと思ったが、そうじゃなかった。中に入っている物を全て取り出して調べる途中で思い出す。原因は、この鏡だと直感した。早く処分した方がいい、と考えた。不気味過ぎる。持っているべきじゃない。
 盗んだモノなので、両親には知られたくない。君津高校へ通う通学路の途中で、ゴミ置き場へ黙って捨てた。これで安心。
 ところが数日して、また押入れから物音がする。原因は鏡じゃなかったらしい。もう一度、中の物を取り出して詳しく調べるしかない。その作業をしている途中で、無いはずの鏡を目にした時は心臓が飛び出すくらいに驚く。捨てたのに押入れの中に戻っていた。理解できなかった。
 もう一度、捨てに行こうかと考えたが止めた。戻ってきているのに、その逆の行為をすることはバチが当たりそうで怖かった。逆らわない方がいい。高木将人は保管し続けることにした。夜中に押入れから物音がするのは我慢するしかなかった。
 成人して教員になり、国際中学に就職した。そこで助けられた。
授業が終わって教室から出て行こうとすると、一人の女子生徒に呼び止められた。勉強のことで何か質問するのかと思ったが違った。
 「先生、処分に困っている物を持っていませんか?」
「え、なんだって」何のことが分からなかった。
「手放したいのに手放せない物を持っているでしょう?」
「さあ、……分からないけど」
「……そうですか」
「何のことだろう。あはは」
「わかりました。でも、もし心当たりがあるのでしたら、いつでも相談に乗ります」
「……」
 冗談を言われたのだろうと思って、その場を後にした。しかし女子生徒の真剣な表情が頭に残った。
 気がついたのは数日後だ。彼女は、あの虹色に輝く鏡のことを言っていたのかもしれない。どうして分かったのだろう。不思議だ、怖いくらいに。それ以後は授業中、その女子生徒の視線が耐え難いほど気になった。とうとう高木将人は自分から声を掛けた。
 「この前のことなんだけど。どういう意味で言ったのか教えてくれるかな」
「あたし霊感が強いんです。持つべきじゃない物を所持していて、高木先生が困っているのが分かります」
「……」そのとおりだった。
「助けてあげられます」
「どうやって?」白状したも同じ。
「わたしが引き取りましょう」
「ほ、本当か?」有難い。
「感じるんです。持っていれば、いずれ高木先生に大変なことが起きるんじゃないかと」
「……まさか」
「何か悪い存在が、それを奪い取ろうと追いかけて来るみたいなんです」
「悪い存在? なんだい、それは」
「わかりません。でも強い霊気を感じます」
「……」鳥肌が立ってきた。夜中に押入れから物音がするのも頷ける。「きみが何とかしてくれるのか?」
「はい。知り合いの神主さんに相談してみようと思います。そこの神社で預かってもらえるといいのですが……。とにかく、どこか神聖な場所に保管すべきだと思います」
「わかった」渡りに船だ。この話に高木は乗るしかないと思った。「明日、学校へ持ってくるから受け取ってくれ」
「わかりました」
「ありがとう」高木は心から感謝した。
 その女子生徒の名前は今でもハッキリと覚えている。木村優子だった。忘れるものか。
 口数が少ない賢そうな生徒で、成績も優秀だった。肩まで伸びたストレートの黒髪と色白の顔が調和していた。細身でしなやか。霊感が強いと言われれば、なるほどなと無理なく頷けてしまうような雰囲気を持っていた。
 あの鏡を職員室の外で彼女に渡した時は、重い荷物を肩から下ろしたような安堵感に包まれた。これからは自由に生きていける。長い刑期を終えて釈放された感じだ。
 それが……、あれから何年も経ったというのに、再び悪夢が蒸し返されようとしていた。
 あの鏡が原因で木村優子は亡くなったらしい。本当だろうか。信じられない。だが加納久美子が嘘を言うとも思えない。
 高木将人としては二度と、あの鏡を手にしたくなかった。見たくもない。入手した経緯なんかを明かしてみろ、きっと引き取ってくれと言ってくるに決まっている。嫌だ。絶対にイヤだ。加納先生には当然だが、本当のことは言えない。知らぬ存ぜぬ、を貫き通すしかないのだ。
 こんな大変な時に何でだ、という苦々しい思いも強い。高木将人は、まだ家族に株の損失を告白していなかった。カードローンからの多額の借金はそのままで、月末には口座から利息が引き落とされ続けていた。残高が底を突くのは時間の問題だ。一刻も早く助けてもらわないとデフォルトという事態になってしまう。
 女房の機嫌がいいタイミングを見計らっていた。しかし、パチンコで損をしたとか背中が痛いとか、ジャイアンツが負けたとか愚痴ばかりが口から出てくる毎日で、なかなか告白するチャンスは巡ってこなかった。焦るばかりだ。
 もしタイミングを間違って告白すれば、家での待遇は奴隷以下に成り下がるだろう。今ですら、飼い犬のリボンに負けているのだから。それを実感したのは、たまたま冷蔵庫にあったアイスクリームのカップを食べた後だった。リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ながら寛いでいた。そこへ凄い形相で女房がドアを開けて入ってきた。
 「あんた、何て事してくれたのよ。アイスクリーム、食べたでしょう?」
「う、うん」
「あれはリボンのデザートだったのに。二度と勝手なことはしないで」
「わかった。すまない」 
「まったく、もう」女房は吐き捨てるように言うと、リビングから出て行った。
 テレビでは、和歌山市の夏祭りで起きた食中毒事件の続報を伝えていたが、もう高木将人の目と耳に届かない。頭の中で、自分は食べさせてもらったことがないのに、犬のリボンにはデザートが与えられているという事実を噛み締めていた。
 働き手はオレなのに、この冷たい待遇はないだろう。人生をやり直したい気持ちを強くした。
 この家から出て行きたい。自由になりたかった。しかし自分は無一文だ。あるのは中学校の教頭という職業だけだ。
 人生に絶望していた。すっかり髪の毛も薄くなって、実際の年齢よりも老けて見える。鏡の前に立つのが嫌だった。影で生徒たちが自分のことをハゲと呼んでいるのも知っている。腹の回りは、たっふりと脂肪が付いて中年の体形そのものだ。運動をしなくなって何年も経つ。これでは、もし魅力的な女性に出会っても恋愛を楽しむなんて夢物語だ。悲しい。
 但し、……但しだ、もし金があれば、……話は別だろう。それなりに財力があれば、きっと女性が自分を見る目も変わってくるはずだ。アルマーニのジャケットに身を包めば、この身体だって見栄えは少し良くなる。
 なんとか再起を図りたい。とりあえずは株の損失を鬼の女房に告白して助けてもらう。早急にカードローンの借金を帳消しにしなければならなかった。たぶん通帳とキャッシュカードは取り上げられて、二度と京葉銀行から金を借りられなくなるだろう。
 だけど高木将人にはアイデアがあった。目を付けたのは、給食費とか修学旅行費として生徒たちから集めた金だ。手付かずで学校の金庫に眠っていた。旅行代理店への最初の支払いが生じるのは、まだ一ヶ月も先だった。それまでの間に、もし確実に儲かりそうな株が見つかったら……。
 リスクを冒さなければ大きな利益は手にできない。男は一生に何度が勝負しなければならない時を迎える。それが高木将人の信念だった。もし上手く行ったらと思うと、頭にはダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの美しい姿が浮かんだ。
 詳しく株式新聞を読む毎日が続く。安易に行動を起こす気持ちはない。犯罪行為なのだ。失敗したら身の破滅。絶対と確信が得られるまで金庫の金には手を出さない。儲かりそうな株が見つからなければ諦めよう、そんな気持ちだった。
 こんな事情だから、手放した鏡のことなんか考えている余裕はない。今は、それどころじゃないんだ。加納久美子には、やっぱり思い出せないと突っ撥ねてやろうと結論を出した。
 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』、と決めつけるしかない。


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