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作品名:黒いチューリップ 作者:castlehill

第1回 1
     CAST

 黒川 拓磨  14歳 君津南中学2年B組 転校生 小柄 
 
 黒川 剛史      拓磨の父 トビ職 
 
 黒川 佳代      拓磨の母 建設会社の一人娘だった

 加納 久美子 28歳 君津南中学 英語教師 2年B組担任  
         
 安藤 紫   29歳 美術教師 
  
 西山 明弘  30歳 学年主任 レガシイ・ワゴン所有
 
 高木 将人  42歳 教頭 株式投資 
 
 東条 朱里  28歳 保健室 代議士岩城三郎の愛人
 
 桜井 優子  28歳 平郡中学 英語教師 旧姓 木村優子    
 
 桜井 弘       優子の夫  
 
 望月 良子      平郡中学校 庶務係
 
 安部 進       平郡中学校 教頭 
 
    
板垣 順平  15歳 サッカー部のストライカー 長身

 佐野 隼人  14歳 サッカー部のキャプテン 

波多野 孝行  14歳 篠原麗子に好意

波多野 正樹  38歳 孝行の父 君津署 生活安全課 刑事 

 新田 茂男  14歳 波多野 孝行の親しい友人

 新田 京子      茂男の母 養護学校の園長  

 山岸 涼太  15歳 不良グループのリーダー 霊感強い

 関口 貴久  15歳 家が焼失 九州へ引っ越す

 相馬 太郎  14歳 小柄 不良グループ

 前田 良文  14歳 不良グループ 見張り役

 鶴岡 政勝  14歳 左のミッド・フィルダー カメラが趣味
    
 鮎川 信也  14歳 鶴岡のライバル
    
 秋山 聡史  14歳 小柄 夜尿症 佐久間渚に好意

 五十嵐 香月 15歳 映画同好会 女優になりたい 長身

 佐久間 渚  14歳 映画同好会 佐野隼人と交換日記 
 
 山田 道子  14歳 映画同好会 黒川拓磨に好意 

 篠原 麗子  15歳 早熟な女の子 

 手塚 奈々  14歳 脚が長くスタイル抜群 長身 
       
 古賀 千秋  15歳 学級委員 生徒会長への野心 

 小池 和美  14歳 書記 大柄なのを気にしている 

 奥村 真由美 14歳 サッカー部のマネージャー 

 土屋 恵子  15歳 山岸たちから金銭を要求

土屋 高志   17歳 恵子の兄 高校中退 無職
         
 森田 桃子 17歳 先輩 水商売
  
 
 
 鏡だった。
 女の祈祷師が取り出したのは、とても武器と言える代物ではなかった。しかし、それはただの鏡ではなくて虹色に輝いていた。瞬時に危険を感じた。逃げようとしたが、それを祈祷師が掲げて太陽の光を反射させる方が僅かに早い。光線は左の耳に当たって、強烈な痛みが頭に走った。
 肉が焼ける異様な臭いが鼻を突く。熱いというよりも身を切り刻まれる痛さだ。叫び声が無意識に出た。動けない。体から力が抜けていく。もうダメだ、と思った瞬間だった、光線が消えた。厚い雲が太陽を隠してくれたらしい。助かった。この場から急いで逃げようとしたが傷が大き過ぎた。意識を失ってしまう。
 気づくと棺の中に閉じ込められていた。呪縛を掛けられて身動きできない。自由を失う。そのまま長い歳月が過ぎた。自分が持つ力を過信して油断した結果だ。
 だが復讐の魂は滅びない。怒りと憎しみは消えずに残った。いつか蘇る日が来ると信じて待ち続けた。
 どんなに災いが悲惨で、どれほど秩序を取り戻すのが困難だったのか、年月が経てば人々の記憶は薄れていく。いずれ欲望が自戒の念を凌駕するだろう。彼らの心に邪悪な魂が入り込む余地が生まれるはずだ。
 棺は何人もの手に渡り、その度に場所を移した。蔵の奥に押しやられて埃をかぶった。厄介な物として扱われていく。今は多くが、この棺が存在する理由すら知らない。
 とうの昔に女の祈祷師は亡くなった。虹色に輝く鏡だけが残っていた。忌々しい。いずれ自由を取り戻したら、早々に始末しなければならない。
 おっ、人の声だ。
 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」
「そんなこと、どうでもいい」
「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」
「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」
 目を開けた。すでに視力はない。意識を棺の外に集中させる。久しぶりに聞く。声が若い。きっと子供らだ。好都合。この干乾びた身体を蘇らす為には、連中の瑞々しい肉体と新鮮な血が必要だ。何も知らずに近づいて来る。
 今度こそ、今度こそ自由を取り戻せるかもしれない。


   01  1985年 この年の暮れに日本で映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が公開された

 「畜生、せっかく−−」
まずいと知っていながら声が出てしまう。廊下を、こっちへ歩いてくる足音に気づいたからだ。これから始めようという時に−−。青い作業服姿の男は急いでカーテンの裏へと身を隠すしかなかった。一人じゃなさそうだ、やって来るのは二人だ。話し声も聞こえてきた。
 「だって前にも言ったでしょう。あんたにはショートが似合わないって」
「え、うそ。初めて聞いたけど、あたし」
「ううん、何度も言ってる。あんたが人の話を聞いてないだけよ」
 看護婦二人が新生児室の前を通り過ぎていく。前の日に美容院へ行った同僚のヘアスタイルを、もう一人の女が酷評していた。
 早くしろっ。そんな事は、どうだっていい。早く向こうへ行ってくれ。男の額に汗が流れる。
 産まれたばかりの赤ん坊が寝ている新生児室に一人でいた。母親ですら許可なく入っちゃいけない場所だ。姉ヶ崎の建設現場から直に来た。一目で不審者と分かる場違いな格好だった。
 やるべき事は何一つ終わっていない。今、見つかるわけにはいかなかった。二人の足音が遠ざかって行く。額の汗が床に落ちた。 
 産まれてきたのは、やはり双子の男子だった。あの老人が言った通りだ。男は、そのうちの一人を他人の赤ん坊と交換しなくてはいけなかった。だから妻が妊娠すると、いい加減な警備しか施されていない産婦人科医院を探した。誰も見ていない時に勝手に新生児室へ入れることが条件だった。
 隠れていたカーテンから首を出して廊下に誰もいないこと確かめると、さっさと行動に移った。取り替える赤ん坊はどれでもいい。どうせ直ぐに殺してしまうんだ。
 男は自分の息子である双子の前に立つと、一人を隣のカプセルに
寝ていた他人の赤ん坊と交換した。すぐに手首に付けられた両方の青い名札も取り替える。女の子は赤い名札で、隣にいたのが男の子でよかったと思う。幸い、血液型も同じだった。次は二人が着ている青いガウンだ。親の氏名がマジックで書かれているので交換しないわけにはいかない。これには手間取りそうだ。小さ過ぎて遣りづらい事はなはだしい。額に流れる汗の量が一気に増えていく。
 いいか、何としてでも遣り遂げるんだ、男は自分に言い聞かす。やっと老人との約束を果たす時がやってきた。失敗するわけにはいかない。すべてが……そうだ、すべてがここから始まるんだ。
 
   02

 老人と会ったのは5年前で、それが最初で最後だった。
 当時、男は鳶職の見習いとして地元の小さな会社で働いていた。高い所での作業がほとんどで、常に危険と背中合わせ。こき使われて辛いのに給料は少ない。いつ辞めてやろうかと思いながら出勤する毎日だった。面白くない。もっと金が稼げて楽な仕事を見つけて転職したい。
 中学二年の夏から付き合っていた女だけが唯一の心の拠り所だった。水泳部で一緒で、お互いが学校の代表選手だ。女は運動だけでなく頭も良かった。男が高校進学を諦めて働き出したのは、金を稼いで早く二人で所帯を持ちたいからだ。それが突然、「会社に好きな人ができたの」と言われて、あっさり捨てられる。相手は営業でトップの成績を叩き出す二十代後半の先輩だと言う。木更津駅前の分譲マンションに一人で住み、週末は新車で買った黒いセリカのコンバーチブルを乗り回しているらしい。マジかよ。そんな奴には逆立ちしたって勝てるわけがないぜ。「お前の好きにしてくれ」と言って立ち去るしかなかった。
 本気で愛していただけに酷く落ち込んだ。派手に遊んで気を紛らわしたいところだが、金がないからそれも出来ない。賭け事に手を出して一攫千金を夢見たが僅かな有り金を失ってしまう。友人から借金して負けた額を取り戻そうとしたが損失だけが増えた。何をしても上手くいかない。八方塞がり。不満は募り、世の中に嫌気がさして自暴自棄に陥る寸前だ。何の希望もなかった。このままで人生が終わるんだろうか。それなら何か大きな悪事を働いて社会に復讐したいという気持ちが強くなっていく。
 それしか自分の存在を示す方法がない。このままだと社会の小さな歯車として消耗させられて、無意味に一生が終わってしまう。だったら、そうなる前に世の中に対して衝撃を与えたい。
 八月の暑い日だった、男は親方に「久しぶりに実入りのいい仕事が見つかったんだ」と言われて東京の高円寺まで連れていかれた。うちの会社が扱う現場にしては遠すぎると、みんなが思う。雇い主の笑顔と社員の待遇は大抵が反比例だ。きっと大変な仕事に違いないと覚悟していた。が、古い一軒家の解体作業で別に難しい作業ではなかった。
 東京にしては家の土地が広く、道路に面した間口もそこそこあるが住居までの奥行きが長かった。敷地の回りには高い木々が立っていて、近所とは隔離された別の世界を作り上げていた。晴れていても、その場所だけは薄暗い。どこかに巣があるのだろうか、何羽もカラスがいて、その泣き声がうるさい。どことなく異様な雰囲気だった。
 いつもと違って同僚たちは無言で仕事を始めた。馬鹿な冗談、卑猥な言葉が全く飛び交わない。動きも鈍くて朝から疲労困憊しているみたいに見えた。すると、すぐに一人が何でもない作業で手を切った。続いて、また一人が急に気分が悪くなって座り込む。頻繁にカラスが奇妙な泣き声を立てた。昼までには残りの連中ほとんどが気味が悪い家だと言い出して仕事を拒んだ。親方は手当てを増やして社員を働かせるしかなかった。
 作業中に同僚たちが話している内容を耳にすると、この古い家の解体はどこの会社にも敬遠されて、とうとう千葉県の君津に住む親方に仕事の話が回ってきたらしかった。仕事を断られる度に、家を解体する提示額が上がっていったのだ。
 男は見習いで仕事を拒めるような立場になかった。不満を口にすれば殴られるだけで手当てなんか増えない。午後の休憩時も社員全員の飲み物を近くのスーパーまで買いに行くという雑役が待っていた。
 二十本近い缶ジュースを入れたビニール袋を抱えて現場まで戻ってきた時だ、敷地内の片隅で高い木と木の間に隠れるように中学生ぐらいの少年が立っていることに男は気づく。何だ、こいつ。手で左の耳を押さえているぜ。こんな所で何をしているんだ。「どうした?」声を掛けたが返事はなかった。よく見ると耳を押さえた手に血が付いていた。「ちょっと、待ってろ」
 男は同僚に缶ジュースを入れたビニール袋を渡すと、急いで少年のところへ戻った。「すぐそこにガキがいて、怪我をしているみたいなんだ」と言ったのに不思議なことに誰も関心を示さなかった。立ち上がって各自、自分の飲み物を取ると静かに元いた場所で休む。口すら利かなかった。何だよ、冷てえ連中だなあ。改めて、この会社が嫌になった。
 「お前、怪我しているんじゃないのか?」
 少年は同じ場所でしゃがんでいた。男は横に腰を下ろして傷の具合を見てやろうとした。ところが、それを待ち構えていたように少年が素早い動きで身を寄せ、男の肩に手を回してきた。とっさに逃げようとしたが体勢が悪かった。その場に、少年とは思えない強い力で押さえらてしまう。抵抗できなかった。恐怖で体が固まる。何をされるのかと恐る恐る少年の顔を窺うと、その目が一瞬だが赤く光った。こいつは人間じゃない。蛇に睨まれたカエルのように動けない。ダメだ、殺される。
 少年の口が開く。噛み付かれると思って反射的に顔を叛けた。ところが、そうじゃなかった。話し始めた。驚いたことに、しゃがれ声だった。まるで老人のような……。
 話し続けた。男は弱々しく頷くしかできない。しゃがれ声が発する言葉を黙って聞いた。少年なんかじゃない、かなり歳を取った老人だ。そう確信した。
 この場所に男が来るのを老人は何年も待っていたと言う。なぜ、どうして? 理解できない。意外なことに協力を求めていた。こ、このオレに? な、何を?
 何か恐ろしいモノに襲われたという恐怖感は薄れていく。だが言われたことには逆らえそうにない思いは強かった。最後は、外見こそ少年だが中身は老人である男への同意を示すために、彼の手に付着した血を舐めさせられた。
 うっ。
 強烈な痺れが舌先から全身に走った。ただの血じゃない。毒じゃないのか? 騙されたらしい。目の前が真っ暗になって、意識が遠のいて行く。なんとか気を失わないように必死に堪えた。
 しばらくすると遠くから声がした。「おい、大丈夫か?」次第に、その声が近づいてくる。「しっかりしろ」「おい!」「起きろ」激しく体を揺さぶられて男は目を開けた。地面に寝ていた。そばにいたのは会社の同僚たちだ。みんなが心配そうに自分を見ていた。どういうことなんだ? 首を回して少年の姿をした老人を捜したが、どこにもいなかった。「あの老人−−いや、違う。あの少年はどこ?」男は仲間に尋ねた。
 「お前、大丈夫か?」尋ねたことには誰も答えてくれず、逆に親方が訊いてくる。その声には本気で心配している響きがあった。
「……は、はい」真剣な表情に圧倒されて、そう答えた。
「意識が戻って良かったな」
「……」良くも悪くもない。ずっと意識はあった。何も変わっちゃいない。だが立ち上がろうとすると体に鈍い痛みが走った。えっ、何でだ?
「おい、無理するな」、「まだ寝ていろ」、「動くんじゃない」と病人に対して言うような言葉を次々に浴びる。
「……」連中の言う通りだ。痛みで動けそうになかった。老人の血を舐めただけで、こんな事になるのか?
「どこが痛い?」
「体が……、こ、腰のあたりが……」
「頭はどうだ、目眩はするか?」
「いいえ、しません」どうしてだ。なんで、そんな質問を次から次へとしてくるのか……。「あの老人、あっ、いや、少年は、どうしました?」一番、気掛かりなことを訊いた。
「……」みんなの顔が困惑している。
「あの少年は、どこにいるんです?」繰り返す。
「少年、て誰のことだ?」
「誰って、……耳を怪我した少年です」
「そんな奴はいないぜ」
「いや、そんなことは−−」
「俺たちの他には誰もいない。お前は頭を打って錯覚しているんだ」
「いえ、頭なんか−−」
「覚えていないのか? お前は屋根から落ちたんだ」
「え?」
「足を滑らせて屋根から落ちたんだよ、お前は」
「……」それで体が痛いのか。少し納得する。
「気を失っていたからな。それで頭が混乱しているんだろう。どうだ、医者に行かなくても大丈夫そうか?」
「は、はい……、大丈夫です」もし医者へ行けば面倒な事になる。金も掛かる。後で嫌味を言われるに決まってる。
「よし。お前は少し休んでいていい。動けるようになったら呼べ」
「わかりました」
 男は一人になりたかった。混乱している頭の中を整理したい。屋根から落ちたという記憶はなかった。でも仲間は、自分が屋根から落ちたと口を揃える。そして少年の姿は見当たらなかった。さっぱり分からない。夢だったのだろうか。確かに老人の話は突拍子も無いものだったが。『鏡を探し出して破壊しろ』、また、『双子の子供が産まれてくる』とか……。
 男は身体を恐る恐る動かしてみた。うっ。痛みは走るが、さっきよりは良くなっている。打撲だけで骨折はしてないようだ。軽傷で助かった。『休んでいていい』と言われて休んでいられるほど甘い会社じゃなかった。なんとか立ち上がれた。少しでも早く仕事に戻らないと。作業服に付着した土を払った。その手を無意識に口元に運んで唇を拭う。濡れているみたいな不快感があったからだ。戦慄が走った。戻した手に赤い血がついていた。頬、口元、口の中と切り傷を探してみたが、どこにもない。自分の血液ではなかった。もしかして……。うっ。舌で唇に触れてみると、痺れるような苦い味がした。やっぱりだ、あの老人の血だ。間違いない。
 うわっ。
 驚いて首を竦めた。真後ろでカラスが死の恐怖に怯えるような声で鳴いたのだ。

   03

 それ以後、男は老人の存在を日増しに強く感じるようになっていく。聞かされた話を信じたわけではなかったが、すべての事が都合よく回り出す。早く辞めたいと思いながら勤めていた会社では、ベテランの従業員が家の事情や病気、喧嘩などを理由に次々と辞めていった。おのずと親方は男を頼るしかなくなる。どんどん仕事を覚えさせて任せていく。一人前になるのに時間は掛からなかった。それなりに給料は上がり、専務という役職まで得た。そして婿養子として迎えられて親方の一人娘と結婚する。ハワイへの新婚旅行中だった、帰国する前日の早朝に親戚からシェラトン・ワイキキの部屋に国際電話が掛かってきた。親方夫婦が運転するベンツが東名高速で起きた多重衝突事故に巻き込まれたという知らせだ。自動車は飲酒運転をしていた大型トラックの下敷きになって大破。二人とも即死だった。男の肩書きは専務から代表取締役に変わった。
 ある日のこと、木更津にあるスーパーで従業員数人を連れて買い物をしていると、三年前に別れた女に出くわした。車椅子に乗る男と一緒だった。向こうも動きを止めたから、こっちに気づいたのは間違いない。でも、すぐに女は視線を逸らした。手にしていた洗剤を商品棚に返すと足早に通り過ぎて行く。慌てて車椅子の男が追いかける。驚いたことに女は、すっかり若さを失っていた。初々しかった色気は影も形もない。タイトなジーンズを好んで穿いて腰から太股のラインを強調していたのに、その日は身体の線が見えないジャージ姿だった。背中まで伸びた自慢のストレート・ヘアも普通のショート・ボブに変わっていた。連れて歩きたいと思わせる女ではなくなっていた。捨てられて悔しかった思いを長く引き摺っていたが、それが一変に消えてなくなる。帰りに駐車場で、また顔を合わす。車を停めた場所が近かったのだ。女は車椅子の男が助手席に座るのに手を貸しながら、もどかしいのか「もう、早くしてったら」と辛辣な言葉を吐いた。そして急いで運転席に座ると、逃げるように色褪せた赤い軽自動車で立ち去った。それを男は義父の保険金で購入した白いメルセデス・ベンツ230Eのウインドウから見ていた。女がターンしてスーパーの駐車場から出て行くとき、一瞬だが目が合ったような気がした。
 この時ほど老人の存在を強く意識したことはなかった。男は約束を果たす為に子作りに励んだ。妻が妊娠すると医者に超音波検査を急がせた。腹部と経膣の両方で子供が双子だと分かると、課せられた役目に気持ちが高ぶった。とうとう出番が回ってきた。産まれてきた子供にオレが『血の洗礼』という大切な儀式を行うのだ。
 その犠牲は大きい。精神の錯乱、または心神喪失を主張しても認められる可能性は低いだろう。殺人だから、まず執行猶予は期待できない。十年以上の懲役刑を食らうことになりそうだ。
 でも男に、それを老人への報いとして行うという気持ちは少しもなかった。確かに老人に会わなければ社長という地位につくことはなかったに違いない。メルセデス・ベンツという高級外車のハンドルを握ることも考えられない。こき使われ続けて惨めな人生を送っていたはずだ。だから感謝はしている。しかしそれが大きな代償を払う理由ではなかった。男は老人の魂を世に送り出す手助けが出来ることに大きな喜びを感じていた。
 忌々しい鏡によって老人は棺の中に閉じ込められたらしい。それが取り除かれた今、再び蘇ろうとしている。楽しみだ。出来ることなら男は鏡を探し出して永遠に葬り去りたかった。そうすれば老人が恐れるモノは存在しなくなる。
 産婦人科の新生児室で行う行為を考える時、決まって二つの鳥類の生態を思い起こす。イヌワシとカッコウだ。イヌワシは卵を二つ産むが孵化する日をずらす工夫をしている。最初に孵ったヒナは遅れて孵ったヒナの頭をクチバシで突いて殺す。母親は見て見ぬ振りだ。つまり遅れて孵ったヒナは、最初に孵ったヒナが上手く育たなかった場合のスペアに過ぎない。厳しい自然界で確実に子孫を残していこうとする術らしい。
 カッコウは托卵という習性を持つ。ホオジロ等の巣に卵を産み付けて育ててもらうのだ。カッコウのヒナは短期間で孵化するので、ホオジロの卵やヒナを巣の外へと押し出して殺してしまう。我が子を殺されながらカッコウのヒナにエサを与え続けるホオジロ。これらの事はテレビの番組を見て知った。こんなに残虐で犯罪的行為が自然界に存在するとは驚きだった。だから忘れなかった。まさかテレビの番組を見たとき、いずれ自分が同じような行為をするとは夢にも思わなかった。

    04

 手放す方の息子に、やっと青いガウンを着せるのが終わった。三つの小さなボタンには手こずった。一息つく。額の汗を作業服の袖で拭った。ごめんよ。他人に育てさせる我が子に心の中で謝った。
 ずっと今まで子供なんか好きじゃなかった。うるさく騒々しいだけの存在で、近所で遊ぶガキどもを怒鳴ったことが何度もある。それが、どうだ。自分の息子が産まれた途端に気持ちは逆転した。愛おしくて仕方がない。出来ることなら二人を手元に置いて育てたかった。
 お前を手放すことになるが、愛していないわけじゃない。もちろん、お前をスペアの息子とも考えていない。いつか会いに行くからな。お前の成長した姿が見たい。それまで精々、好きなだけ悪事を働いてくれ。
 えっ、ウソだろ?
 男は驚きに一瞬だが身を引く。赤ん坊が目を開けたのだ。それもハッキリと。まるで父親の謝罪を受け入れたかのように。その目つきは好奇心に溢れ、聡明さを窺わせるものがあった。こいつは賢くなりそうだ……。ああ、しまった。急に後悔の念に襲われる。こっちを手元に残すべきじゃないのか。そうだ、そうしよう。早く終わらせる事が最も大切なのは分かっているが、男は着せたばかりのガウンを脱がせ始めた。初めから遣り直しだ。時間はなかった。いつ見回りの看護婦がやっくるか分からないのだ。ラチェットでクランプを鉄パイプに取り付けて足場を作っていく作業とは勝手が違い過ぎる。ちっ。上手く行かない。手先は器用じゃなかった。デリケートな細かい仕事には向いていない。どんどん焦る。この三つの小さいボタンが憎い。額に流れた汗が目に入った。畜生っ、ダメだ。男は諦めた。優秀な子を手元に残すことよりも、誰にも見つからずに赤ん坊の取り替えをやり遂げることが大切なのだった。このままで行く。それしかない。
 雑念を振り払うかのように、取り替えた他人の赤ん坊に自分の息子のガウンを急いで着せようと身を屈ませた時だ。甲高い声を背中に浴びた。
 「何、してるんですか?」
 全身が凍りついた。絶体絶命。その声からして小太りの口うるさい婦長に違いなかった。嫌なヤツに見つかっちまったもんだ。この女もこの場で殺すか? 一人殺すも二人殺すも、こうなったら同じ事だ。ポケットには小型のナイフが忍ばせてあった。仕事で使うヤツで、持っていても不自然じゃないように仕事を終えたばかりの作業服姿で産婦人科病院へ来たのだ。
 「この部屋に入ってはいけませんよ」婦長が近づいてくる。「何をしてたんですか? 誰ですか、あなたは?」
「……」男は返事ができない。体を動かすこともできなかった。
 この状況をどう打開すべきかと必死で考えた。でもパニックで何も頭に浮かばない。汗すら止まった。もう寒いくらいだ。このクソ女も殺すしかなさそうだ。
 「警備員を呼びますよ」背が低いくせに、この時とばかりに高圧的な態度だ。
 そうか、なるほど。新生児室まで入ってくるまで気づかなかったのは、婦長がスニーカーを履いていたからだ。これじゃ、足音は聞こえてこない。男はポケットの小型ナイフを握った。
 「す、すいません。黒川と言います。子供のガウンが脱げていたので着せてやろうと思って−−」マジかよ。信じられねえ。自分でも驚きだ。こんな上手い嘘が咄嗟に口から出てくるなんて。
「え? あら、本当だ」婦長の厳しかった表情が少し和らぐ。男の手から赤ん坊の青いガウンを取り上げて、胸のところに書かれた名前を確認した。「お父さんですね。困りますよ、勝手に入ってこられては」
「すいません。風邪でもひかれたら大変なことになるかと−−」
「ここは冷暖房完備です。ご心配には及びません」言いながら婦長は手早く赤ん坊にガウンを着せていく。「後はやりますから、出て行ってください」
「わかりました」男は大人しく踵を返した。『血の洗礼』は日を変えてやれば……。
 え、……ちょっと、待てよ。
 ドアに向かって一歩を踏み出したところだった、ある考えが頭に浮かんだ。この新生児室に何か赤ん坊を殺す凶器になりそうな物はないか? 姿勢はそのままにして目だけで探す。近くにピンセットが置いてあった。これは使えそうだ。無意識にも口元が緩む。今日のオレは冴えてるな、そう思うとポケットに忍ばせてあった小型ナイフを取り出し、振り向いて一気に婦長に襲い掛かった。
「ぎゃーっ」


   05 

 「ねえ、ちょっと危なくない?」
 横を歩く高校三年生の女が訊いてきたので少年は答えた。「心配ない、大丈夫さ。ここには何度も来ているんだ」
 四つ年上の女が怖がっているのは当然だった。二人は夜の八時半を過ぎた富津岬の展望台にいた。人から無理やり借りた白いクラウンを駐車場に停めて、展望台の階段まで歩いて来る途中で何台かの若い男たちが乗るスポーツ・カーの前を通り過ぎた。好奇の目を注がれているのを強く感じた。若い女を連れた中学生くらいの男子が無免許で車を運転して来たのは誰の目にも明らかだ。暇を持て余した連中にとっては、ちょっかいを出す格好の獲物に違いなかった。
 「帰ろうよ」女が言う。
「どうして? せっかく、ここまで来たんだぜ」
「駐車場にいた連中ったら、あたしたちのことジロジロ見てたわよ」
「それが、どうしたのさ」
「何だか怖いわ」
「平気さ。ここからの夜景は綺麗だぜ。絶対に見て帰るべきだ」
「……」
「しっかりしてくれよ。いつもの潤子さんらくしないぞ」
「……わかった。じゃ、早くしよう」
「そうこなくっちゃ」
 高校三年生の潤子と二人だけで会うのは今日が三度目で、少年はモノにする気でいた。ただし今回は、いつもと違うやり方を用いるつもりだった。
 初めて潤子を見たのは君津にあるアピタのマクドナルドだ。数人の友人達と一緒にハンバーガーを食べていた。タンクトップにジーパン姿の男が隣にいて、そいつは態度から潤子に好意を持っているのが窺えた。でもボーイフレンドではなさそうだ。
 目鼻立ちがハッキリしている潤子はグループの中で特に目立っていた。本人も自覚しているようで、ワンレングスの黒髪を優雅に揺らして誰よりも大きな声で笑い、仲間のフレンチフライを勝手に取って口に運んだり、全く遠慮することがなかった。まさに笑いの中心。頭も良さそうで好みのタイプだ。大人の女になりつつある身体が発散させる初々しい色気にはそそられた。
 少年は潤子がアルバイトをしている地元のスーパー・マーケットを探り出して、そこで働くことにした。すぐに仲良くなった。映画に誘うと、ちょっと驚いた様子を見せた。当然だろう。少年は身長が百六十センチしかなくて、潤子よりも五センチも低かった。彼女としては可愛い弟みたいな存在として見ていたのに違いない。だけど中学生にしては自信に満ちた態度と、頭の回転の早さに不思議な魅力を感じていたはずだ。
 その日は白いクラウンで彼女の家まで迎えに行く。中学生なのに自動車を運転していることで、助手席に乗ることを最初は躊躇う。「大丈夫だよ。兄貴の免許を借りてきているんだ。警察には捕まるもんか」そう嘘を言って安心させた。映画『ドクター・ドリトル』を見た後はファミリー・レストランへ行ってお喋りを楽しんだ。
 私はお姉さんよ、という目上の接し方は少年が優しくエスコートすることで次第に対等な立場に変わった。会話の中で豊富な知識とユーモアを披露すると尊敬を得るまでになる。この子は普通の中学生じゃないという認識を彼女に植え付けた。
 そうさ、オレは潤子がこれまでに付き合ったことがない、また想像もしたことがない特別な男なんだぜ。
 食事が終わってクラウンに乗り込む時には少年が年上みたいな立場に逆転していた。お互いに楽しいひと時を過ごす。だけど潤子は貞操観念の堅い女で、身体には触れさせようとはしなかった。キスをしようとすると何か話を持ち出して雰囲気を変えた。
 ま、いいさ。この次があるんだ。
 大抵の女は、少年が赤い目で視線を注ぐだけで簡単にモノにできた。少年は女好きだ。ただ賢い潤子には、この手を使わないことにした。甘い言葉で口説いたりしないで、恐怖心で服従させることにしよう。
 しかし特別な女、つまり本命と目星をつけた、優れた女は自分だけの能力だけでは無理だった。仲間を募って全員の意識を集中せさて大きなパワーを得る必要があった。
 
 富津岬の夜景は星が沢山見えて期待通りに綺麗だった。だけど潤子は早く帰りたがっていて十分に楽しんだ様子はない。
 「坊や、小学校の帰りに寄り道しちゃダメじゃいか」
 案の定だった。駐車所で男連中の前を通り過ぎると後ろから言葉を浴びた。体の大きそうな奴が黒いインプレッサのボンネットに腰掛けていた。キザな野郎だ。長髪で、サングラスを額に掛けて前髪が下りてこないようにしている。そいつの声に違いなかった。合図したように仲間が、ドッと笑う。四人だ。他には誰もいない。連中は夜の富津岬に刺激を求めに来ていて、未成年の男女が展望台から帰ってくるのを首を長くして待っていたのだ。梅雨に入る前の初夏みたいな陽気と適度な湿度は、愚か者が理性を失って取り返しのつかない行動に出るのを後押ししていた。潤子は少年が何も言わずに無視してくれると思っていたはず。なのに気持ちを裏切る言葉が富津岬の夜に響く。
 「バカヤロー、うるせいっ」唾を飛ばすような辛辣な言い方だった。相手を怒らせるには十分だろう。
 一瞬、静寂が流れた。
 連中は期待もしていなかった言葉が返ってきたので虚を突かれた様子だ。横で潤子が身を堅くするが分かった。一番驚いたのは彼女に違いない。恐怖に凍り付いたらしい。
 「てめえ。おいっ。今、何て言った?」
 体の大きいリーダー格の男が直ぐに近づいてきて、少年の襟首を掴んだ。そのままクラウンに押し付けられて爪先立ちを余儀なくされる。
 「謝って、黒−−」
「喋るなっ、潤子」少年は女の声を途中で遮った。
「小僧、女の前だからって粋がってんじゃねえぞ。おいっ」男は中学生みたいな子供から罵声を浴びて逆上している。どう落とし前をつけるのか仲間が後ろから見ていた。
「……」
「おい、何とか言えっ」 
「……」少年は返事をしない。
「御免なさい。許して下さい」潤子だ。残りの三人もやってきて回りを囲まれていた。絶体絶命の状況。
「黙っていろ」少年が声を出す。
「おい、小僧。よし、オレが目上の人に対する口の利き方を教えてやろうじゃないか」そう言うとリーダー格の男は襟首から手を離して、右手の拳を振りかざした。「むぐっ」
 それが狙っていた相手の頬に突き刺さるよりも早く、少年の左拳が脇腹に飛んできた。衝撃で身体が二つ折りになった。顔が歪む。肝臓が痙攣を起こし、苦い胃液が逆流して口の中に溢れているはずだ。呼吸困難。額には冷たい汗が広がる。そのまま腹を抱えて倒れこんだ。「うっ、うう」陸に打ち上げられた魚みたいに全身を波打たせて苦しみ始めた。
 「あっ」仲間の一人が声を出す。
「てめえ、ふざけた真似しやがって」他の一人が続いた。
 そして残った三人が一斉に少年に襲い掛かった。慎重に考えればリーダー格の男をボディブロー一発で倒されたのだから、目の前の相手は体こそ小さいが相当に喧嘩慣れしていると気づくはずだ。だけど馬鹿ほど理性よりも衝動が先に立つ。少年の思う壺だ。潤子が顔を押さえて震えているのが横目で見えた。今にも泣きそうだ。
 少年の動きは早かった。ステップは軽く、上半身を巧みにスイングさせて向かってくる一人ひとりの顔に、両方の人差し指と中指を突き出す。迎撃の全てが一瞬で連中の眼球を砕く。ほぼ同時に三人が顔を手で押さえて、その場に崩れ落ちた。視力を奪われた愚か者たちは途端に戦意を失う。強烈な痛みが追い討ちを掛ける。頭の中では恐怖が生まれているに違いなかった。押さえている手を濡らしているのは生暖かい血だ。これは涙じゃない。もしかしたら目が見えなくなるかもしれない、という。
 その通り。軽い気持ちで起こした馬鹿な行為が一生を闇の中で暮らす悲劇を生んだのさ、お前ら。おめでとう。
 リーダー格の男は苦しみながらも一部始終を見ていた。仲間全員が両目に手をやってしゃがみ込んでいる。
 「おい、江藤。どこにいるんだ?」
「ここだ、井口。目が、……目が見えねえ、助けてくれ」
「だめだ、オレも見えないんだ」
「痛え。すげえ、目が痛え」
 びっくりした様子で潤子が佇んでいた。さあ、ここからがショーの始まりだ。
 少年はリーダー格の男の前に立った。すると男は腹を抱えながらも地面を這って逃れようとする。そいつの痛がっている腹に横から強烈なキックを見舞ってやった。「ぐえっ」人間のものとは思えないような声が聞こえてきた。動かなくなる。少年は腰を落とすと、恐怖の表情を浮かべて苦痛に喘いでいる男の両目にも二本の指を突き刺した。卵が割れるみたいな感触が指先に伝わる。すぐに真っ赤な血が目があった場所から溢れてきた。「ぐえっ」そいつの片手が脇腹から顔面へと移る。その瞬間、立ち上がった少年が二度目の蹴りを脇腹に入れた。今度は呻き声すらない。意識を失ったか? まだ早いぞ。これで終わりじゃない。オレに牙を剥いた代償だ。無力で無防備の愚か者に向かって容赦なく蹴り続けた。
 「死んじゃう。もう止めて、黒川くん」潤子が見るに耐えかねて声を出す。
「黙れっ、喋るんじゃない」少年が叱りつける。名前は言ってほしくなかった。
 目が見えなくなったから、こいつらが自力で富津岬から帰ることは無理だ。ここに誰かがやって来るのを待つしかない。きっと救急車を呼ぶことになるだろう。警察が事件として扱うことになるはずだ。そこで何を言うかは知らないが、たまたま夜の駐車場で出合った少年と女子高校生を指差すことは不可能に近い。女が口にした名前は手掛かりになるかもしれないが決定的ではない。それに切っ掛けを作ったのは連中だ。新聞が記事にしないことを期待しよう。自分の父親に知れなければそれでいい。
 「よし、帰ろう」少年は言った。
 潤子は小さく頷いて従う。不良たちに襲われるという恐怖は今、この子は何をしでかすか分からないという少年への恐怖に変わっているはずだった。このままモーテル『オアシス』へ直行だ。行きたくなくても、怖くて嫌とは言えないだろう。久しぶりに清々しい気持ちでクラウンのハンドルを握れそうだ。うふっ。何度も繰り返して聞かされる父親の小言を思い出す。
 「いいか。出来るだけ大人しく、静かにしているんだ。絶対に目立つような振る舞いは止めろ。能力を見せびらかすような行為は、お前自身を滅ぼしかねないんだ」
 わかったよ、もう二度としないから。そう答えて父親を黙らせるのが常だった。だけど現実的にそれは無理だ。たまにはこうして愚か者たちに制裁を加えてストレスを発散させないと。上手く誰にも分からない方法でやれば大丈夫なんだから。暴力は大好きで、愚かな連中を苦しめるのは楽しかった。

 
  06 14年後の1998年 ワールド・カップ フランス大会が開催された年 12月 

 期末試験の最終日で午後になると、午前中の喧騒が嘘のように校舎は静かになる。平郡中学を我が物顔に支配しているのはカラスの泣き声だった。
 職員室にいる教員の誰もが校舎に残っている生徒は一人もいないと考えていた。三階にある二年一組の教室で女教師と男子生徒が対峙していることは誰も知らない。その場所だけは空気が張り詰めていた。
 「先生、どうする気だ?」左の耳たぶが欠損している生徒が訊いた。顔には笑みが浮かんでいる。
「もう、あんたの自由にはさせない」二年一組の担任で英語を担当する女教師は答えた。「ここで最後よ」表情は強張っている。
「馬鹿なことを考えるんじゃない。先生の身体には−−」
「うるさいっ。黙れ」こいつの言葉は、もう何も聞きたくない。女教師はポケットから、ゆっくり鏡を取り出す。
「……」生徒の顔から笑みが消えた。
「驚いた?」
「それをオレによこせっ」
 生徒が鏡を奪おうと向かってくると咄嗟に身を翻して窓際まで逃れた。パンプスでなくてスニーカーで来たのは素早い動きが出来るようにだった。捕まえようとして失敗した生徒が体勢を整える為に間ができる。その瞬間を逃さない。女教師は反対のポケットから、今度はシャンプーの容器を出して中の液体を生徒に噴射した。教室はガソリンの強い臭いで充満する。
 「うっ、畜生」可燃性の液体を浴びて染みが付いた学生服を見ながら生徒は言った。「オレを焼き殺そうっていう気か?」
「その通り」これからしようとする事を考えると震えが走るほど怖かったが、窓を通して背中に当たる太陽の日差しは暖かかった。
「無理だ、先生には出来ない」
「あら、そうかしら」強気を装った。
 生徒の言う通りだ。出来そうにない。相手は人間の姿をしているのだ。ガソリンをかけて火をつけるなんてことは、とても自分には無理だった。だけど、こいつを滅ぼさないと大変なことになることも分かっていた。
 転校してきてから僅か三ヶ月で、平郡中学の二年一組は崩壊したも同然だった。ほとんどの生徒が何かしらの問題を抱え、また精神的に病んでいた。このままでは学年が、次には学校全体がこいつに支配されてしまう。
 女教師は窓から差し込む太陽の光を鏡で反射させて生徒に当てようと試みた。神主から聞かされた話では、これで邪悪な存在を無力にさせられるらしい。
 「えっ」自分の目を疑う。鏡に映った生徒の姿が、自分の目で見ているのとは大きく違っていたのだ。映っているのは枯れ木のような老人の姿だった。やっぱりだ、こいつは悪魔に違いない。焼き殺さないと大変なことになる。女教師は覚悟を決めた。向かって来ようとする生徒に向けて太陽の光を反射させた。
 「あうっ」いきなり生徒が顔を押さえて苦しみだす。
「……」え、本当? 女教師は反射した光が相手に与える効果に驚く。 
 信じられない。鏡が反射した太陽の光が生徒に届いて、その部分を焼いていた。まさか、……こんな小さな鏡に、それほどの威力があるのか?
 相手の苦しみように怯んで、思わず鏡を持つ手を下げてしまう。光の反射が外れると生徒の苦痛も止まった。
 「ゲウウッ」人間の声ではなかった。獣の唸り声だ。
 生徒が手を顔から退けると、すっかり容姿も変わっていた。髪が真っ白で半分ぐらいが抜け落ちた。皮膚は死を迎える老人みたいに干からびて黒ずむ。女教師を憎しみに満ちた表情で睨むが、その目は赤く光ったと思うと直ぐに消えたりと点滅を繰り返す。弱っているのが明らかだ。
 ここで止めを刺すべきだ、と女教師は気を取り直した。鏡が反射した太陽の光で苦しむのは、相手が人間じゃない証拠だ。こいつは災いをもたらす呪われた存在なのだ。良かった。ガソリンを掛けて焼き殺す必要はなさそうだ。そこまで残酷には、とてもなれなかった。しかし滅ぼさなければならない。鏡で太陽の光を再び当ててやろと身構えた。
 ドスンッ。
 背後に大きな音がして注意を削がれた。教室の大きな窓に黒い布みたいなモノが張り付いている。その回りに飛び散る赤い液体も目に入った。血のようだ。うそっ、信じられない。外からカラスが勢いよく窓に追突したらしい。こんな事って有り得るの? でも急いで振り返った。止めを刺さなくてはいけないのだ。「だっ、誰?」
 目の前に知らない男が立っていた。そいつが両手を伸ばしてきて身体を押さえられた。「い、いやっ。だ、誰なの?」
「……」返事はない。
「は、離して。お願いっ」会ったこともない男だ。生徒に危害を加える女教師に気づいて止めに入ったのか?
 それなら勘違いもはなはだしい。こいつは生徒なんかじゃない。災いをもたらす呪われた−−。女教師は恐怖に凍りつく。
 知らない男は床に落ちていたシャンプーの容器を手にしていて、残ったガソリンの全部を女教師に掛けたのだ。
 「拓磨、大丈夫か?」
 男の声を聞いたとき、絶望感に襲われた。父親だ。間違いない。
「ガウッ」
「ここは任せろ。お前は逃げるんだ」
「……」躊躇を見せる。
「いいから早く。とっとと出て行けっ」 
 生徒は頷くと意を決したように足を引き摺りながら教室を後にした。逃げられた。もうダメだ。女教師の身体から力が抜けていく。
 男がポケットから何かを取り出すと同時にマイルド・セブンの箱が床に転がった。手にしたのはライターだ。親指がレバーに掛かるのが見えた。今度は逆に自分が焼き殺されてしまう。そう思った女教師は反射的に男の手首に噛みつく。「あうっ」悲鳴が男の口から漏れる。思い切り顎に力を入れた。こいつの手首を噛み切ってやろうという気持ちだ。
 「うっ、畜生。このくそアマっ」女教師は怯まない。自分の歯が相手の肉に深く食い込んでいくのが分かった。大量の血が溢れてきた。全身が返り血で真っ赤になっていく。
 苦しい。
 女教師の身体が酸素を求めていた。口から呼吸したくて、顎の力を緩めるしかなかった。男はチャンスを逃さない。相手の手首に力が入るのが顎を通して伝わってきた。あっ、大変。ライターが点火する音が耳に届く。
 女教師は激しい爆発の衝撃で身体を吹き飛ばされた。机の角で背中を打ち、床に叩きつけられた。男から解放されて自由の身だ。逃げられる。しかし炎が自身を包んでいた。熱くて目が開けていられない。全身をナイフの刃で切り刻まれるみたいに酷く痛い。髪が皮膚が肉が焼かれる強烈な臭いが鼻を突く。息も出来ない。燃え上がる炎が回りの酸素を全て奪っているのだった。

   07 

 霊感が強いとは知らなかった。それを隠して我々を油断させたわけだ。なんて女だ。危ないところだった。息子が次からは気をつけてくれることを期待する。
 この裏切り者の女教師と一緒に焼死だ。同時に女が手にしている忌々しい鏡も焼けて割れてしまえだろう。もう使いものにはならないはずだ。そして息子は生き延びる。老人との約束がすべて果たせたことになる。オレの役目は終わりだ。好きなだけ贅沢もさせてもらった。もう悔いはない。
 他人に預けた息子にも二ヶ月前に会って話をすることが出来た。素晴らしい子供になっていた。左の耳たぶが無かったのは、老人の魂を受け継いでいる証拠だ。   
 十四年前に、この子を手元に置くべきじゃないかと思ったが、それは正しかったようだ。礼儀正しさの中に隠れた狡猾さ、頭の回転の早さ、レストランで食事をしていて随所に現れた。このオレが電気屋へ行く道順なんか訊いていないことは初めから見破っていたにも関わらず一言も触れない。つまらない世間話に、ずっと付き合ってくれた。なかなかだ。『私がキミの本当の父親なんだ』と告白して強く抱きしめたい誘惑を抑えるのが大変だった。
 うっかり一言、「そっくりだ」と口にしてしまう。それほど十九年前に会った老人の姿に容貌から仕種まで似ていたのだ。瓜二つと言っていいくらいに。この息子の反応は早かった。何一つ聞き逃さない注意力を持っていた。すぐに「何でもない。忘れてくれ」と否定したが信じてないのは明らかだった。用心しながら喋らないと大変なことになりそうなほど賢い奴だ。
 だかららと言って、教室から出て行った息子を見限っているわけじゃない。あれも大変な能力を秘めた子だ。愛しているし、期待もしている。ただ自分の力を過信したり、見せびらかしたりすることに不安を覚えた。
 小学校の低学年で因数分解を解いてみせたり、流暢な英語を披露したりして周りを驚かせたことがあった。注目を集めて気を良くしていたのを強く叱りつけた。中学に上がると喧嘩沙汰を度々起こすようになる。生意気な態度が気に入らないと上級生たちから目を付けられるからだ。体の大きな連中を倒して、クラスメイトから賞賛を浴びているのを嗜めた。虚栄心は弱点になる。つまり油断に繋がるのだ。
 炎に包まれた男の意識が遠退いていく。生きたまま体を焼かれる激痛にも関わらず、その表情は安らかだった。

 
  08 1999年 ノストラダムスが世界の終わりを予言した年 1月 

 へえ、なかなかやるじゃない。英語教師の加納久美子は、職員室で小テストの採点をしていて嬉しい驚きを覚えた。自分が担任を務める二年B組の転校生が満点を取ったのだ。完璧な回答だった。この子は一般動詞とBe動詞の区別を、しっかり理解していると感じた。中学二年生で、これはなかなかだ。
  クラスの副委員長である佐野隼人の点数が今回も悪くて、心配していたところだったので、沈んだ気持ちを少し回復させてくれた。成績が急に落ちていることで佐野隼人とは早急に話をしなければならなかった。
 三時限目は授業がなくて空き時間だ。職員室には加納久美子の他は高木教頭がいるだけだった。何かと話しかけてくる学年主任の西山先生がいなくて幸いだ。
 一月の半ばで天気は良く、窓からの日差しが加納久美子の背中を容赦なく照らしていた。椅子に座った時は心地良い暖かさを感じたのが、今では焼けるように熱かった。
 もう限界。席を立ち、カーテンを閉めようと窓際に近づく。校庭では体育の授業中で二年A組とB組でサッカーの試合が行われていた。加納久美子の頭に、去年のワールド・カップ フランス大会で日本代表が三連敗した苦い記憶が蘇る。アルゼンチンとクロアチア戦は仕方がないとしても、ジャマイカ戦はがっかりさせられた。
 サッカー好きで知られるタレントのジェイ・カビラは、日本代表がアルゼンチンに勝つかもしれないと試合前にニュース・ステーションでコメントしていたが、それには驚いた。ワールド・カップ初戦で、『マイアミの奇跡』の再現か? まさか、それは有り得なかった。
 あら、……まあ。校庭で行われていたのは、あまりにも一方的な試合だった。加納久美子のB組がA組を完璧に翻弄していた。あ、そうか。うちのクラスには4人もサッカー部のレギュラーがいることを思い出す。司令塔の佐野隼人、エース・ストライカーの板垣順平、ミッド・フィルダーの鶴岡正勝と鮎川信也だ。四人の連係プレーは巧みだった。ほとんどA組の生徒はボールを持たせてもらえない。動きも緩慢で、やる気すらなさそうにも見える。4-0と表示されたスコア・ボードを見て、その理由も分かった。 
 英語の小テストで満点を取った転校生の姿が目に入った。ハーフライン近くにポジションを取っていたが、ゲームに関わるようなプレーはしていなかった。チーム・メイトからボールのパスもなく、もっぱらこぼれ玉を追っている感じだった。勉強の成績はいいけど運動神経の方はイマイチっていうタイプかしらと加納久美子は思った。大きな事故にでも遭ったらしく、額に数センチの傷と左耳には怪我の痕があった。からかわれたりしていないだろうか、と心配もした。
 味方のゴール・キーパーからボールを受けた鶴岡が少し間をためて、敵のフォワード二人が近づいてきたところで鮎川にパスを出した。スペースに余裕が出来てボールをもらった鮎川は逆サイドにいた板垣に精度の高いロング・パスを送る。板垣は早いドリブルで敵陣内へと走り込む。その時、加納久美子の目にも相手ゴール前で待つ佐野隼人の姿が入った。左サイド奥まで切り込んだ板垣はバックスを引き付けると敵ゴール正面にクロスを上げた。フリーになった佐野隼人のヘッディング・シュートに期待したキックだ。しかし相手ゴール・キーパーは大柄で動きも早かった。完全に一対一だ。難しいシュートになりそうだ、と加納久美子は思った。どうなるか、と誰もが動きを止めて見ていた。そこに、いきなりB組の一人が走り込んできた。そしてボールが佐野隼人の頭に届く途中で、ハイジャンプすると強烈なヘッディング・シュートを放った。キーパーは反応できない。皆が呆気に取られた。ボールはゴールの隅に突き刺さり、5点目を決めた生徒はそのままネットに倒れこんだ。
 すごいっ! だれ?
 静寂。驚き過ぎて誰も声を上げない。遅れて体育教師のゴールを告げる笛が鳴った。倒れた生徒が、ゆっくり立ち上がる。小柄だ。え、うそっ。ゴールを決めたのは転校生の黒川拓磨だった。我に返ったB組のチーム・メイトが歓声を上げながら走って彼に詰め寄っていく。加納久美子も校庭へ飛んで行きたい気分になった。でも相手ゴール前で一人、まるで主役の座を降ろされた役者みたいに佐野隼人が佇んでいるのに気づいて気持ちは冷えた。
 「すごいじゃない」
 うわっ、びっくり。いきなり背後から声を掛けられて慌てた。そのハスキーボイスは、美術の安藤紫(ゆかり)先生に違いない。職員室へ入ってきたのは知らなかった。「やだ、驚かさないで」
「あ、ごめん。ごめん」
「見てたの?」相変わらずセクシーな姿の安藤先生だった。華奢な身体つきなのにバストとヒップは女らしく存在感を強調している。肩まで伸びる髪は少しだけウェーブがかかっていて、清楚な顔立ちと共に優しそうな雰囲気を醸し出していた。今日はチャコール・グレイのスカートに、キャメルのジャケットで決めている。中のポロシャツはライムカラーだ。完璧なファッション。どうして、こんな人が教師でいるの? 場違いも甚だしい。もっと華やかな場所で輝いているべき女性だ、と加納久美子は常に思っている。この君津南中学で知り合って、それ以来ずっと仲良しだ。
「見てたわよ。すごいヘッディング・シュートだった」
「見事としか言いようがないわ」
「勉強の成績はどうなの?」安藤先生が訊いた。
「優秀よ。英語に関して言えば先週に行った小テストで一人だけ満点だったわ。ほかの教科の先生たちも、これまでのところ黒川君のことはベタ褒めって感じだもの」
「ふうむ」
「いい転校生が来てくれたと思っている」
「良かったわね」
「……」それだけ? 当然、安藤先生が担当している美術での評価が返ってくるものと思っていた。それじゃ、優秀ではないってことなのかしら。「あなたの教科では?」加納久美子は訊いた。
「……」
「ねえ?」返事を促す。
「……彼って、すごく絵も上手なのよ」
「へえ」やっぱりか。だけど安藤先生が答えをもったいぶるところが腑に落ちなかった。どうしてなのよ、彼女らしくもない。
「中学生とは思えない」
「え」
「上手なんだけど……、すごく暗くて重い絵なのよ」
「どういうこと?」
「今にも嵐がやって来そうな荒れた海を、少女が一人で高台に立って眺めている絵よ。ほとんど色を使わなくて黒を基調にして描かれているの」
「……」加納久美子は黒川拓磨の父親が去年の暮れに亡くなっていることを思い出した。母親が学校に提出した書類を、教頭の高木先生から渡されたとき指摘された。まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないと驚いたのだった。きっと心に深い傷を負っているに違いない。
「どう、見たい?」
「え?」
「黒川君が描いた絵を見てみたくない?」
「う、うん」加納久美子は頷いた。「見せて」 
 あと数分で休み時間のチャイムが鳴るところだった。二人は三階の美術室へと急いだ。

    09   
 
 「えっ、……こ、これ、彼が描いたの?」
「そう」
「……」
 中学生が描いたとは思えない重苦しい絵を前にして、加納先生は言葉を失った様子だった。
「どう思う?」安藤紫は訊いた。彼女の意見が聞きたい。
「……」聞こえてないみたいに黙っている。
「ねえ?」
「……、すごい」
「でしょう」
「中学生で……こんな」
「彼、絵の才能を持っているわ」
「この女の子って誰なのかしら」加納先生は独り言のように言う。
「……」描いたのは自分ではない。だから答えようがなかった。
「きっと誰か特別な子なんでしょうね。だって彼女の肩には傷があるもの」
「そうだと思う」安藤紫は相槌を打つ。
「兄妹っていうことはないわ、彼は一人っ子だもの」
「あら、そう」安藤紫は嘘をつく。その事実は、とっくに知っていた。
「ええ」
「……」もっと何か加納先生が言ってくれるのを待った。ところが三時間目の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。
 「そろそろ職員室へ戻るわ」
「うん」会話が続けられなくなっていて、加納先生はホッとしたみたいだった。安藤紫は彼女を促すように応えた。「じゃ、またね」

   10

 転校生の黒川拓磨が描いた絵を前にして安藤紫は美術室に一人だけになってしまった。おのずと過去の苦々しい記憶が蘇ってくる。こんな状態に陥る自分を止められない。
 黒川拓磨の絵に対する加納先生の意見を聞こうとしたが時間の無駄に終わった。絵を見せたいがために、あえて会話をその方向へ持っていったのだ。聡明な女性で芯の強さを持っているから僅かでも期待を抱いていたのだが、やはり彼女には霊的なインスピレーションはなさそうだ。
 きっと描いた絵に父親を亡くした影響が現れているのだろう、と加納先生は思っているに違いなかった。でも、そうじゃない。けっして、そうじゃない。安藤紫は断言できた。
 なぜなら重苦しい絵に描かれた、左肩に傷のある少女は間違いなく中学二年のころの自分だからだ。
 空には黒い雲、風は強く、今にも大雨が振り出しそうだった。夏の蒸し暑い日で、肩の傷が露わになろうが構わずにタンクトップを着ていた。痛々しい痕が残って、その所為で自分は醜い女になってしまったと感じた。自暴自棄だ。誰かに見られて何と思われようが気にしない。もう、どうでもよかった。
 台風の接近で海は大荒れだった。千葉県の富浦にある祖父の家を、こっそり一人で飛び出して海岸までやってきた。死にたかった。これからどうなるのか、という不安に耐え切れなくなっていたのだ。
 物心ついたころから、ずっと母親は父親の女癖に悩んでいた。家庭に諍いは絶えなかった。母親が泣きながら父親に物を投げつける場面を何度も見せられてきた。それでも二人が離婚しなかったのは一人娘の存在だった。
 両親は紫を愛してくれた。父親と母親、どちらも大好きだった。それが故に二人が言い争うのは酷く心が痛んだ。
 父親はスーツが良く似合う細身の体に、白髪交じりで苦み走った鋭い顔をしていた。多くの女性が憧れるのも無理もないと思った。母親は何度も泣かされ、その度に謝罪を受け入れて許してきた。
 会社の上司だった父親の見栄えに一目惚れした事務員の母親だったが、それが彼女の人生を不幸に変えてしまう。
 安藤紫が中学一年の三学期を迎えたころ、クラスに転校生が入ってきた。背が高くて綺麗な子だった。母子家庭で、両親は父親の暴力が原因で離婚したらしい。彼女の母親と安藤紫の母親とは同じ年だった。父母会の役員をしていた母親は色々と相談を受けることになる。すぐに二人は仲良くなり、可哀そうと感じた母親は何かと世話を焼くようになった。親同士が親しいので次第に紫と転校生も仲良くなり、親友と呼べるようにまでなった。二つの家族が自宅で一緒に夕食を食べることも何度かあった。
 転校生の母親と自分の父親が不倫していることが発覚したのは中学二年の一学期だ。学校に来ていた母親の軽自動車のワイパーに誰かがメモを挟んで教えてくれた。これは今までとは違って、紫の母親を徹底的に打ちのめした。とうとう離婚を決意する。最後の話し合いをする為に、三人が自宅に集まった。安藤紫は二階にある自分の部屋にいて待つ。何をする気にもなれない。大好きな父親が家からいなくなる話し合いだ。気まずくて親友とは口を利かなくなっていた。ただ辛くて悲しい。アイワのミニコンポにプリンスの最新アルバムをセットしたが一曲目の『レッツ・ゴー・クレイジー』の途中で止めた。読みかけだった『アンネの日記』を開いてみたが内容が頭に入っていかなかった。
 居間から叫び声がした。人が争っているような物音が続けて聞こえてきた。母親のことが心配になって急いで階段を降りた。
 信じられなかった。母親と転校生の母親が掴みあっている姿が目に飛び込んできた。お互いに血まみれだ。父親は側で横たわり両手で自分の首を押さえている。何がどうなっているのか分からない。でも争っている二人の母親のどちらかの手に包丁が握られているのに気づく。お母さんが殺されてしまう。慌てて二人の母親の間に入って止めようとした。体当たり。三人が食器戸棚にぶつかり床に倒れ込む。安藤紫の肩の傷は、その時に出来たものだ。包丁を振り回していたのは自分の母親の方だった。わが子を切りつけたことを知って、やっと我に返る。父親の方は出血が酷くて意識がなかった。 
 母親は話し合っているうちに怒りが込み上げてきたらしい。席を立ち、台所から包丁を掴むと愛人へ襲い掛かった。しかし咄嗟に気づいて転校生の母親を守ろうとした父親を刺してしまう。それでも母親は怯まなかった。血を流して床に崩れる夫には目もくれず、愛人の方へ包丁を振りかざしたのだ。
 父親は搬送された病院で息を引き取り、転校生の母親は身体に何ヶ所も切り傷を負う。安藤紫の母親は逮捕された。裁判では過度のストレスによる心神喪失を訴えたが認められなくて服役することになる。安藤紫は祖父の家に引き取られた。一度に二人の親を失った思いだ。何度か刑務所に面会に行ったが母親は人が変わったみたいに何も喋らない。一人娘と目を合わそうともしなかった。拒絶されていると安藤紫は感じた。
 将来に対する夢や希望もなくなり、死にたいという気持ちが日増しに強くなっていく。その思いが、近づく台風の影響で荒れた海を一望できる高台へと安藤紫を歩かせたのだ。
 ジャンプすれば死ねる。ジャンプするだけで死ねるんだ。その考えが頭の中をグルグル回った。背中を押し続ける強い風に身を委ねるタイミングを計っていた。
 え、どこから? 
 子猫の鳴き声に気づいたのは、そんな時だ。 辺りを見回すと足元の側にダンボール箱が置かれていた。ミャー、ミャーという声はそこからだ。急いで歩み寄り、蓋を開けると中には汚れたタオルに包まれた黒い子猫がいた。差し伸べた安藤紫の手に頬を摺り寄せてくる。   
 うわっ、可愛い。きっと誰かが捨てたんだ。こんなところで可哀そう。このままでは飢えて死んでしまう。安藤紫の頭の中にあった『死にたい』という気持ちは『この子猫を助けてあげたい』という思いに変わった。
 子猫を飼いたい、と言うと祖父母は快く承諾してくれた。少しでも孫娘が元気になってくれるなら、という思いからだろう。事実、子猫の世話をすることで新しい生活環境に慣れて物事を前向きに考えられるようになっていく。
 黒川拓磨の絵には、黒い子猫が入れられていたダンボール箱までしっかり描かれていた。背筋がゾクゾクするほど怖い。どうして、そこまで知っているのか? 
 理解できない事はまだあった。美術の授業で生徒たちに絵を描かせるとき、安藤紫は教室内を歩き回って彼らに色々と感想や助言を与え続ける。やる気を促すためにだ。だから生徒たちがどんな絵を描いているのか最初から把握している。ところが黒川拓磨の絵に限っては、回収して一枚一枚に評価を付ける段階まで何も知らなかった。つまり授業中に彼の席を素通りしていたことになる。有り得なかった。どうして? 
 黒川拓磨。一体、お前は何者なの? 会って、直に話しを訊くべきだろうか? いや、怖い。まだ、とてもそんな勇気はなかった。
 あの計画はどうする? 続けていけるだろうか。
 ずっと安藤紫は一人の生徒を探していた。君津南中学二年生の中にいることまでは分かっている。一年八ヶ月前に行われた彼らの入学式で、あの女を見たのだ。校舎から体育館へ行く通路で出くわした。安藤紫が職員室へ戻ろうと逆方向に歩いていたとき、数メートル先で急に立ち止まる父兄に気づいた。不自然な動き。反射的に顔が向く。目が合った。
 背が高くて綺麗という印象は変わりがなかった。さらに磨きがかかっている。色気があって大人の女の魅力に溢れていた。見ただけでは不十分だったろうが、相手の挙動が安藤紫に確信を持たせた。
 立ち止まったのは一瞬で、すぐに女は気を取り直して足早に横を通り過ぎて行く。もちろん挨拶はない。会釈すらしなかった。体育館の方へと向かった。
 その日、あの女の姿を二度と見ることはなかった。つまり入学式が始まる前に帰ったということだ。
 偶然にも再会して、あの女の子供が自分が美術を教える生徒の中にいるという事実を知って安藤紫の心に怒りが蘇った。
 あいつの母親の性衝動が原因で自分の人生は大きく狂った。死にたくなるほど苦しんだ。なのに、あの女は結婚して子供を産んでいる。反対に安藤紫自身は、いい男すら見つけられていない。ずっと幸せな家庭を持つことを夢みているにも関わらずにだ。
 これは不公平だ。いけない。是正されなければならない。これまで安藤紫の肢体で快楽を貪りながら、性欲が満たされた後に不誠実な行動を見せた男達は全員が罰を受けている。あの親子が何事もなく生きていていいはずがない。
 多くの男たちが結婚の話を持ち出した途端に態度を変えた。そして、いつも同じような台詞を聞かされた。
 『今は経済的に難しい』だったらベッドに誘う前に言ってよ、バカ!
『結婚生活を続けていく自信がない』あら、ベッドに入る前は自信満々におっ立たせていたじゃない!
『まだ結婚は早いって、親が反対しているんだ』いきなり親の話を出してきて、あんた小学生だったの!
 腹が立っても頭に浮かんだ言葉は一言も口にしない。『いいわ、わかった。だけど、それでもあなたが好きなの。こんなふうに時々逢ってくれたら、それだけで嬉しい』これが見切りをつけた時の台詞だ。都合のいい尻軽女を演じてやる。男は女の身体だけを目的に連絡してきた。逢うたびに安藤紫はペナルティと名づけた毒薬を男の飲み物に混ぜた。 
 殺しはしない。身体に障害を負わすのが目的だ。死んでしまったら面白くもない。       
 『最近になって急に視力が落ちてきたんだ』
『近ごろ疲れが酷くて』
 それらの言葉が聞かれたら毒薬の効果が出てきた証拠だ。負った障害は決して回復しない。ここで尻軽女の演技は終わる。
 『残念だけど、もう逢えないわ。あなたほど素敵な人じゃないけど、あたしを好いてくれる人がいるの。その人と結婚しようと思っている』これが別れの言葉だ。中には厚かましい男がいて、最後に一発やろうとせがんでくるのがいる。
 『だめよ。だって、お腹に赤ちゃんがいるの』そう言って身体には指一本触れさせない。
 失望させた男は全員が健常者でなくなる。残りの人生を障害を負って生きるのだ。安藤紫は浮気を繰り返す夫を何度も許した母親とは違う。受けた苦痛は何倍にもして相手に返してやる。あの親子にも同じ罰を受けさせてやりたい。ターゲットは奴らの孫であり子供である、この君津南中学に通う生徒だ。
 母親を確認できた生徒の名前を名簿から一人ひとり消していく作業が続いた。あの女の子供だ、きっとそれなりの顔立ちをしているに違いなかった。また、成績が良くない生徒、だらしなさそうな生徒は始めから除外した。一年半ほど掛かったが、その数を十人ぐらいに絞れた。見つけ出したら失明させてやりたい。生徒に罪はないが、これがあの親子に大きな苦しみを与えられる唯一の方法だから仕方がない。愛する孫、愛する子供が障害児になって、そこで美術教師の安藤紫が何かしたんじゃないかと、少しでも疑いを持ってくれたら大成功。だけど安藤紫は逮捕はされない。証拠は何一つ残すものか。怒りに我を忘れて刑務所に入れられた母親みたいな真似はしない。疑わしきは罰せず、だ。奴らには、あたしの恐ろしさを死ぬまで感じて生きてほしい。美術室にある机の引き出しには、その生徒のために用意したペナルティの白い粉末が用意されていた。
 だけど計画は思ったようには捗らず時間は残り少なくなりつつあった。一日でも早く生徒を捜し出して、一緒にインスタント・コーヒーを飲めるぐらいに手懐けないといけないのに、だ。黒川拓磨という転校生が現れたのは、新年を迎えて見直した計画を急いで進めようとしていた矢先だった。


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