昴の西部に、海浜公園がある。その遊歩道に設置したベンチに腰かけ、凉は夜の海を眺めていた。街路灯に照らされる姿は凉ただ一人。 時刻は午後十時を五分ほど過ぎたところだ。辺りには一切、ひとけはない。これが、凉の呪術によるものであることは言をまたないであろう。 「ごめん、ちょっと遅くなったわ」 声のした方を見ると、そこにいたのは石動紗弥。紗弥は手土産に持参したであろう、紙パックの果汁百パーセントジュースを凉に手渡す。 「グレープフルーツでよかったわよね?」 「さんきゅ」 受け取り、ストローを挿すと、凉は紗弥を見た。 「仕事帰りかい?」 紗弥はビジネススーツのままだ。 「まあね。ところで、電話したことなんだけど」 「なんか、頼みがあるって?」 ジュースを一口飲んでから、凉は言った。 「実はね、ミハシラ・コーポの社長が引退を決意しちゃったのよ」 「へえ、あのおじさまが、ねえ」 たいして感慨深げでもなさそうに、凉は言う。実際、さほど驚くほどのことでもない。現社長はこのところ体調を崩し気味だというし、実務は次期社長候補と目される護代真吾を初めとする何人かの人物や古くからの「忠臣」とされる面々によって取り仕切られていたという。だから、衆目は「いつ」隠居して「誰」を後継に指名するか、ということに集まっていた。 「一部には同族による世襲を嫌う、っていう下馬評もあったけど、蓋を開けてみれば、最有力の候補は甥だものね。まあ、理事長は有能な人物だから、文句を言う人間も少ないでしょうけど。……と、まあ、そんなわけ。おそらく社長が『引退』を正式に発表するのは今期の中頃だと思うけど、そろそろいろんな動きも活発になってくると思う。だから、凉には私がやってた調査の続きをやって欲しいのよ」 そう言ってバッグから角0サイズの封筒を出す。 「なんだ、それ?」 「なんだと思う?」 凉の問いかけに、紗弥はイタズラっぽく笑う。紗弥に促され、受け取った封筒を開けると、凉は小さく唸った。 「砂堂麗亜の、所在、か」 「そ。深山幽谷に住んでるんじゃない限り、絶対、この俗社会に居を構えているはず。となると、一軒家か部屋を借りてるか、どこかに間借りしているか。間借りとなると、調べるのに時間がかかるから、まずは一軒家かどこかのマンションやアパートから手をつけたわ」 「なるほど、登記か」 得心したような凉の言葉に頷くと、紗弥は続けた。 「もちろん、未登記の家に住んでいたら、調べようがないけど、登記があれば、必ず住所と氏名が必要になる。その際、本名を書くとは思えない。そこで、鍵になるのがあの越田星一という学生の記憶にあった『謎の女』」 「あたしも、それは思ったよ。強制的に『読み出した』記憶だから、正確さには欠けるけど、感じとしては砂堂麗亜だろうな、って」 「そうだとすれば、砂堂麗亜とミハシラ・メディックスの志賀専務とは繋がっていることになる。今のところ、彼と砂堂麗亜との接点が全く見つからないけど、それは多分、彼女が何らかの呪術を施しているから」 「何企んでるんだかな、ミハシラ・メディックスは?」 「さあ? でも、『静観せよ』との『上』からの指示だから、こちらからアクションを起こすわけにもいかないしね」 「……で、本名を出せない砂堂麗亜としては、誰かの名義を借りた、と」 「そう。おそらくは志賀専務本人か、彼と同じ派閥の僚友、または部下か。人の名義を使わせる場合は『女を囲う』とでも言えば、簡単でしょうしね」 「それで、調べたのか、しらみつぶしに」 感心したような感嘆の溜息とともに、凉は封筒の中から書類を一、二枚出して眺める。 「まず調査対象をマンションに絞り込んで、登記を調べて、見つからなければ一軒家に当たるつもりだったわ。志賀専務の気心の知れた部下や仲間はわかっているから、その人物の名前が見つかったら、自宅かどうか照合して、自宅でなかったら実地に当たってみる」 正直、気の遠くなる作業だ。凉は、驚きの声を上げることしかできない。 「ま、半分は呪術の助けも借りたから、そんなでもなかったけどね」
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