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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第6回 三章 食料難(前編)


 僕がVFシステム開発研究所の存在を知ったのは大学四年生の七月、夏休みが始まる少し前のことだった。
「野川君、ちょっといいかな?」
 声をかけてきたのは、僕が通う大学の教授。五十代後半、白髪まじりの男性だ。
「実は知り合いの研究者に、君が書いた論文に興味を持った人がいてね。ぜひ君を紹介してほしいと頼まれたんだが、どうだろう?」
「その方は、どのような研究をしているのですか?」
「人類の行き過ぎた経済活動から自然環境をいかにして守るかをテーマに研究しているようだ。具体的な活動内容はまだ公表できないそうだが、その人は未来に強い関心を持つ若者を探していてね。君なら興味を持つのではないかと思ったんだ」
 この教授は環境問題に関する研究に取り組んでおり、僕が未来のことを本気で考えるようになったのもこの人の講義がきっかけだ。いわば恩師と言える。
 活動内容がよくわからないという不安要素はあるが、この人の紹介なら受けてみる価値は充分にある。何より、就職先が見つからない僕にとって研究職に就けるチャンスは何物にも捨てがたい。
「お願いします。ぜひ紹介してください」
 そう返事をすると、教授は満足そうに頷いた。
「わかった、そのように伝えておこう。そのうち向こうから連絡があるはずだ。研究者の名は柳正道という。君の未来の上司になるかもしれん人だ。覚えておくといい」
 後日、柳正道氏から通知が届いた。
 その通知こそが、VFシステム適性試験の案内状だった。


 それから約三ヶ月後。季節が秋へと移り変わる十月の中旬。
 ここVFシステム開発研究所において、テスターの適性試験が行われた。
 候補者は約二百名。見たところ全員が日本人で男女比率は半々。年齢層は二十代を中心に、下は十代後半、上は三十代前半と幅広い。
 これほど多くの人が集まってきたことには正直驚いた。
 一般企業の募集欄にこの研究所の名前はない。インターネットで検索しても何一つ情報が出てこない。唯一の手がかりとなる案内状にも具体的な活動内容は記されておらず、第一次試験合格者にのみ伝えるとあった。
 こんな不思議な研究所にも関わらず、二百名もの候補者が集まった。
 皆、僕のように誰かの紹介で来たのだろうか。どんな方法で候補者を集めたのかはわからないが、未来のことに強い関心を持つ若者がこれだけいるというのは嬉しいものだ。
 まあ、僕のように就職に困っている人間が多いのも大きな要因だろうが……。
 内定のためなら怪しかろうがなんだろうが、とにかく飛び込んでみるしかない。そんな就職氷河期の世知辛さを物語っているともいえる。
 第一次試験は、午前中に学科と小論文、午後からは体力測定と脳波測定。
 そう案内状にはあった。
 学科試験はそれほど難しいものではなく、出題レベルは高校入試程度。ただし、選択問題は一つもなく、自分の意見を述べさせるような問題が多かった。
 次に小論文。
 テーマは『人類を長期に渡って繁栄させる方法』
 制限時間は四十五分、字数制限はなし。
 小論文は得意だ。
 テーマである人類繁栄についても、普段から考えていることを書けばいい。
 制限時間を考えるとあまり長々とは書けないので、四百字程度でまとめてみた。
 
 現在の世界情勢から見るに、多くの人は「経済的に豊かであること」が幸福の第一条件と考えているように思えます。国家の政策も経済成長を第一に進められています。
 しかし、現実には、便利で豊かになった社会にも幸福でない人が数多く存在します。反対に、不便であっても幸福な人はいます。豊かさや便利さが幸せに直結するとは限らないのです。それに薄々気付いていながらも、人々は未だ豊かさと便利さを追求し、その欲望は地球の生態系に異変をもたらすまでに膨れ上がっています。
 人間の欲望が地球を呑み込む前に、私たちは今ある幸福の条件を変えていかなければなりません。そのためには、「経済的に豊かであること」以外の幸せの形を作っていく必要があります。お金に頼らずとも幸せを感じることができる方法を考え、皆でその価値観を共有していくことこそが、環境破壊を抑制し、人類を長期に渡って存続させる有効な手段だと思います。

 我ながら理想論が過ぎることは自覚している。だが、人は心の中に理想を描くことで進歩するものだ。理想論なしに人は進歩しない。
 小論文の後は、昼休みを挟んで午後から体力測定。内容は学校で行う体力測定と同じようなものだった。
 そして、この日、最後に行われたのが脳波測定だ。
 体力測定が終わった者から順に別室に呼ばれ、椅子に座らされる。それから頭にヘルメットのようなものを被せられて、視界が真っ暗になった瞬間、ピッという電子音が鳴って測定終了。
 いったいなんのために測定したかは謎のままだった。


 それから二週間後、第一次試験の合格通知が届いた。
 謎だらけの研究所とはいえ、就職活動で初めて目にした合格≠フ二文字は素直に嬉しかった。
 通知は第二次試験の案内状でもあった。次は個別に面接を行うらしい。
 僕は指定された日時に研究所へと足を運ぶ。
 到着後、事務員の案内で控え室に向かった。
 わざわざ僕一人を案内してくれるのを不思議に思って尋ねてみると、第一次試験の合格者はわずか八人らしい。ついこの間、受験者の多さに驚かされたというのに、今度は合格者の少なさに驚かされた。
 さらにもう一つ驚くことがあった。
 控え室にいた二人の候補者のうちの一人が、セーラー服を着た中学生だったのだ。
 とても小柄で可愛らしい女の子だ。中学一年生だろうか。
 女の子は僕と目が合った途端、慌てて目を逸らした。緊張しているようだ。
 もう一人は身長一八〇センチ以上ありそうな大男だった。
 野生の狼のように鋭い目付き、ミリタリージャケットの上からでも容易に想像できる分厚い筋肉。まるで軍人のような雰囲気の男だ。
 男は特に緊張した様子もなく、腕を組んだまま視線だけこちらへ向けてきた。
 まるで正反対の性質の二人に加わり、僕は席に着く。
 しばらくして、控え室に若い女性スタッフがやってきた。
「お待たせしました。それでは、これより第二次試験を行います」
 どうやら八人が一斉に集まるわけではないらしい。待ち時間が短く済むので助かる。
「面接は別室にて一人ずつ行います。まずは野川明季さん、お願いします」
 僕は女性スタッフに続いて面接室へと向かった。
 そこで待っていたのはサングラスをかけたスーツ姿の中年男性だった。
 おそらく、この男性が柳正道氏だと直感的に思った。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
 女性スタッフに促され、僕は男性の正面に設置されたパイプ椅子に座る。
 それから、男性が口を開く。
「私がVFシステム開発研究所所長、柳正道だ。野川明季君、君のことは跡部教授から聞いているよ」
 跡部教授とは僕を研究所に紹介してくれた教授のことだ。
「君の論文についても聞かせてもらった。環境問題と人の心の問題を的確に結びつけた、大変興味深い内容だったよ」
 僕の論文に興味を持った研究者がいる言われた時は嬉しかったが、本人から直接言われるといっそう嬉しいものだ。
 ただ、聞かせてもらったという言い方が少し引っかかった。
 読んだわけじゃないのか?
 そんな疑問を余所に、柳所長は続ける。
「さて、君は第一次試験をトップの成績で通過した。未来に強い関心を持ち、知識も体力もある。しかも十年以上の武道経験があるようだな。能力面においては申し分ない。また、人格面においてはコミュニケーション能力にやや難があるものの、非常に真面目で誠実な人間であると報告を受けている。試験中の態度も良かったと聞いた」
 はっきり言う……。だが、総合的には好評価のようだ。
 柳所長は一呼吸置いた後、さらに続ける。
「率直に言わせてもらえば、研究所にとって君はぜひとも欲しい人材だ。故にこの面接は我々が君を採用するかどうかではなく、君が我々に力を貸してくれるかどうかを決めるためのものと考えてほしい」
 この不景気の時代に珍しい面接があったものだ。一九〇人以上落としておいて急にこの態度とは、いったいどういうつもりなのか。少し不安になってきた。
 なんにしても、それ決めるには聞いておかなければならないことがある。
「では聞かせてください。VFシステムとはいったいなんなのですか? 僕に何をさせるつもりですか?」
「ふむ」
 柳所長は小さく頷く。
「説明しよう。だがその前に約束してほしい。今から話すことは、君が研究所の一員になるならないに関わらず一切他言無用だ。いいね?」
「わかりました」
 そうして僕は、柳所長の口からVFシステムについて詳しい説明を聞いた。
 VFシステム――正式名称バーチャル・フューチャー・システムが、仮想未来を体験できる装置であること。
 仮想未来にアクセスできるのは、高い適性率を持つ人間だけであること。
 そして、仮想未来にアクセスする際に伴うリスクが現在未知数であることも。
「――要するに、僕に実験台になれということですね?」
 僕はあえて率直に聞いた。これでごまかすようなら彼らは信用できないと判断できる。
 柳所長の答えは――
「心苦しいが、そのとおりだ」
 彼もまた率直だった。
「しかし、それは断じて研究所のためではない。人類の未来のためだ。かつて、維新志士たちが命を懸けて新時代を築いたように、我々もまた変革の礎となる覚悟が必要なのだ。無茶を言っているのは百も承知だ。決して無理強いはしない。辞めたくなったらいつ辞めてもらってもかまわない。それでも、研究に力を貸してくれるのであれば、我々は全力で君をサポートする用意がある」
 柳所長がそこで言葉を切ると、それまで壁際に控えていた女性スタッフが一枚の用紙を渡してきた。
「こちらが、野川さんがテスターとなった時の待遇になります」
 僕は用紙に目を落とす。
 
 給与 年間一八〇〇万円
 住居 2LDKマンション 家賃・光熱費全額補助 交通費全額補助
 休日 土日 祝祭日
 勤務時間 午前九時〜正午
 
「そこにある条件はあくまでも最低限のものだ。他に希望があれば、可能な範囲で対応させてもらおう」
 柳所長はそう付け足した。
 とてつもない好待遇だ。当然、それだけリスクは高いということだろうが。
「ミッションを開始するのは今から半年後だ。返事はそれまでで構わない。いや、この研究所が存続している限りいつでもいい。こんなことを言うのはずるいかもしれないが、君の未来を想う心に期待させてもらうよ」


 二十分ほどで面接は終わり、来た道を女性スタッフと戻る。
 面接が済んだ者から順次帰ってよいとのことなので、僕は控え室の前を通り過ぎた。
「お待たせしました。次に紫波隆翔さん、お願いします」
 女性スタッフが次の候補者の名前を呼ぶ声が背後から届いた。
 気になって少しだけ振り返ってみると、控え室からあの大男が出てきた。
 どんな人だろう。見た目はちょっと怖そうだが、ここにいるということは未来に強い関心を持っているはず。
 再び前を向いて歩き出す。
すると、廊下の向こうからセーラー服の女の子がこちらへ歩いてくるのが目に入った。お手洗いにでも行った帰りなのだろう。
 どういった経緯で中学生がこの試験を受けることになったのかはわからないが、ここにいるということは相当な素質を持っているに違いない。
 でも、もし研究所の一員になったら学校はどうするのだろう? 
 休みの日限定で出勤するのだろうか。
 そんなことを考えながら、女の子とすれ違うその時――
「あ、あの」
 不意に声をかけられた。
「どうしたの?」
 僕は立ち止まり、女の子が怖がらないよう優しく聞き返した。
「面接、どうでしたか?」
「ん……そうだな、なかなか意外だったよ」
「意外? それは、どんなふうに意外だったんですか?」
「ごめん、内容については他言無用と言われてるんだ」
 女の子の表情が曇る。
「そうですか……。そうですよね。ごめんなさい、呼び止めたりして」
 女の子は深々と頭を下げた後、控え室に戻っていった。
 柳所長は、あの子にも変革の礎になれと言うのだろうか。


 研究所を出て駅へ向かう途中に本屋があったので、ちょっと寄り道をした。
 なかなか品揃えのいい中型店舗だった。研究所から歩いてすぐの位置にあるので、所員になればいつでも寄っていける。本が好きな僕にとってはありがたいことだ。
 帰りの電車で読むための小説を買い、店を出る。
 それから、駐車場を横切って歩道に戻ったところで、見知った顔に出くわした。
 僕と入れ違いに面接室に向かった紫波という男だ。
 彼もこちらに気付いたようで声をかけてきた。
「よう、また会ったな」
「そうですね」
 コミュニケーションが苦手な僕はこんな返し方しかできない。
 だが紫波は気を悪くした様子もなく、気さくに話かけてくる。
「駅に行くんだろ。ならせっかくだ。歩きながら意見交換でもしないか?」
「ええ、もちろん」
 見た目に反していい人かもしれない。少し安心した。
 二人並んで歩き出すと、さっそく紫波が尋ねてくる。
「それで、あんたはどうするつもりだ?」
「どうする、とは?」
「テスターってのになるかどうかだよ」
 率直な質問だ。すでにテスターのことを知っている彼に隠しても仕方ないので、正直に答える。
「やってみようと思います」
「ほう、やる気か」
「紫波さん、でしたね。そういうあなたはどうなんですか?」
「ああ、なんとしてもやってみたくなったよ。こんなおもしろそうなことは他にねえ」
 紫波の嬉々とした様子に、少しだけ気分が悪くなった。
「おもしろそうって……。遊びじゃないんですよ」
「遊びじゃないからおもしろいんだろ。自分の手で、この腐った社会構造をぶち壊せるかもしれない。そう思うとゾクゾクする」
 初対面の人間に対してよくそこまではっきり言える。
 それなら、と僕も率直に尋ねてみる。
「具体的に、どうやって社会構造を壊すつもりなんですか?」
「物理的に壊すんだよ」
 紫波は即答した。それが当然、それ以外の方法などありえないというくらい、はっきりとした口調で。
 物理的に――という言葉が何を意味するのかはわかる。しかし、なぜそうするのかまではわからないので聞いてみる。
「どうしてそんなことを?」
「わからねえか? 革命に闘争は付き物だ。闘争なくして変革はありえない。歴史がそれを証明しているのは知っているはずだ。ただし、今度起こすのは世界規模の革命だ。そのためには相当な血が流れることになるだろうが、それしか未来を変える方法はない。研究所の連中が何を考えているか知らないが、最終的にはその答えに行き着くだろうよ」
「そうは思えません」
 僕は立ち止まった。
 紫波も立ち止まる。
「なぜだ?」
 その声には微かに苛立ちが混じっていた。
 だが、苛立っているのは僕も同じだ。はっきり言う。
「旧人類と同じことをしていては世界に真の変革をもたらすことはできません。そういった歴史の必然性も含めて、人は変わらなければならないと僕は思っています」
「ハハッ」
 紫波は鼻で笑ってきた。
「あんた、理想主義者だったのか」
「あなたの考えは、孟子が言うところの覇道≠ナすね。覇者はいずれ別の覇者に駆逐される。歴史がそれを証明しているのはご存知のはずです」
 瞬間、空気に亀裂が走る。
 この男に対する敬意と仲間意識が吹き飛んだ。
「綺麗事で世界は変わらんよ」
 紫波が冷たく言い放つ。
「最初から決めつけていては何も変えられない」
 僕は毅然として言い返した。
 互いに目を合わせたまま、沈黙が続く。
 しばらくして、紫波がフッと笑った。
「あんたとは気が合いそうもないな」
「それについては同感だな」
 これ以上話すことはない。僕は再び駅に向かって歩き出した。
 紫波は付いてこなかった。
 
 
 その後、僕は一週間で家族を説得し、テスターになる意思を研究所に伝えた。
 そして、テスターとして正式に採用されたのが僕一人だと聞かされたのは、さらに一週間後のことだった。


 それから半年後の五月上旬。
 四月の間は微かに残っていた朝方の寒気も消え失せ、一日を通して暖かく陽気なこの季節。
 サイクルシティで市長から話を聞いたあのミッションから約三週間が経っていた。
 あれ以降、僕は都心に続いて地方都市を調査して回った。
 結果は予想どおり。
 どの都市も中心街は現状維持が精一杯。大通りや駅から少し離れると、建物や道路の老朽化が目立つ荒んだ街に変わってしまった。また、どこへ行ってもスラム街のような区画があった。
 そうして迎えた五月の連休。
 これまでに二十回あまりのミッションを行い疲労困憊の状態だったが、たっぷり休んだおかげで今は万全の状態だ。
 そして今日は連休最後の日。これ以上休んでいても退屈なだけなので、ミッション映像を見せてもらおうと研究所に電話してみた。すると――
『おはようございます、明季』
 電話に出たのはアイシャだった。
「アイシャか。おはよう。今日は出勤だったのか」
『はい。実は今日、柳所長の代わりにテスター候補の茅森(かやもり)さんを案内するよう頼まれまして』
「そうだったのか……。暇だからミッション映像を見に行こうと思ったんだけど、やめた方がいいかな?」
『いえ、来ていただいて構いませんよ。茅森さんにもミッション映像を見ていただく予定ですので、三人で一緒に見ましょう』
「わかった。すぐ行くよ」
『ではお待ちしてますね』
 通話が切れる。
「あ……」
 しまった。茅森さんとやらが誰なのか聞きそびれた。
 第一次試験を合格した八人の誰かだとは思うが……。
 しばらく頭を捻ってみるが思い出せない。
 まあいい、会えばわかる。


 現在、僕が勤めるVFシステム開発研究所は、その怪しげな名称とは裏腹に、とある地方都市のオフィス街の中にある普通のオフィスビルだ。
 その普通のオフィスビルに、普通の会社員のようにオフィススーツを着てバスで通勤している僕が、よもや仮想未来へ意識を飛ばしているとは思うまい。
 今日は祝日なのでオフィス街を歩く人は少ない。バスの乗客も少なく快適だった。スーツではかえって目立つので、今日は私服で来た。
 家を出てから二十分ほどで研究所に到着する。
 すると、建物の入口のところで、小柄な女の子が何やらそわそわしているのが目についた。建物に入ろうかどうか迷っているようだ。
 無視するわけにもいかないので、女の子に声をかける。
「君、そんなところでどうしたの?」
「え……あ、違うんです! わたし、怪しい者では……」
 女の子はこちらを向き、あたふたしながらもよく通る声で返してきた。
 身長一五〇センチにも満たない小柄な身体に、化粧気のない顔、可愛らしいミニのツインテール。服装は春らしい白のブラウスに桜色のキュロットスカート。
 一見したところ小学校の五、六年生にしか見えないが、この子の年齢がもう少し上だということを僕は知っている。
「知ってるよ。面接の時以来だね」
 女の子は意外そうに目を開いた。
「あ、覚えててくれたんですね」
 受験者の中でセーラー服を着ていたのはこの子だけだ。しかも成績上位となれば覚えていないはずがない。ただし、名前は知らなかったので尋ねてみる。
「名前、なんていったかな?」
「茅森優(ゆう)です。この春から高校生です」
 そうか、この子が茅森さんだったのか。しかも高校生とは……。あの時もう中学三年生だったのか。
「僕は野川明季。テスターの一人だ。よろしく、茅森さん」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
 茅森さんは丁寧にお辞儀をした。
「確か、今日はミッションの映像を見に来たんだったね?」
「はい。でも、一人では入りづらくて……」
 その気持ちはよくわかる。慣れない場所に一人で入っていくのは勇気がいることだ。  だから、僕は快く手を差し伸べる。
「じゃあ、一緒に入ろうか」
「はい!」
 茅森さんは伏し目がちだった顔をパッと輝かせた。


 茅森さんと二人で所長室に行くと、そこにいたのは柳所長ではなく、メイド姿のアイシャだった。
 アイシャは身体の前で両手を組み、丁寧にお辞儀をする。
「おはようございます」
「おはよう、アイシャ」
「お、おはようございます」
 僕があいさつを返したのに続き、茅森さんも慌ててあいさつとお辞儀を返した。
 いきなりメイド姿の西洋人がいたのでは焦るのも無理はない。
 アイシャが言う。
「茅森優さんですね。わたしは明季の専属ナビゲーターのアイシャと申します。優さんのことは柳所長から聞いています。所長は本日、急用にて不在となっておりますので、代わりにわたしが案内させていただきますね」
「は、はい、よろしくお願いします」
 茅森さんは、もう一度深くお辞儀をした。
 そんな茅森さんの緊張をほぐすように、アイシャは穏やかに微笑む。
「では、ブリーフィングルームに参りましょう。映像もそこでご覧いただけますので」
 三人で地下一階の第一ブリーフィングルームに移動する。
「紅茶を淹れますので、少しお待ちくださいね」
 僕と茅森さんを席に案内したアイシャは、そう言ってカウンターの方へ歩いて行った。 その後、茅森さんが小声で尋ねてくる。
「あの、アイシャさんはどうしてメイドの姿をしてるんですか?」
 もっともな疑問だ。
 僕はアイシャの方をチラッと見てから、茅森さんに合わせ小さな声で答える。
「あれには事情があって、テスターの心を和ませるのもナビゲーターの務めだってアイシャは言っていたよ」
「じゃあ野川さんは今、和んでるんですか?」
「え? ああ、それは……」
 意表を付く質問に、僕は言葉を詰まらせた。
 茅森さんが、じーとこちらを見つめてくる。
 あれ、もしかして僕が着せていると思われているのか?
「誤解がないよう言っておくけど、あれはアイシャが自主的に着ているのであって、決して僕の趣味ではないから」
「明季、嘘はいけませんよ、嘘は」
 突然、背後から声がかかる。
 驚いて振り向くと、そこにはアイシャが。
 まだ紅茶の用意はできていない。途中でこっちに来たようだ。
「嘘って……じゃあ……」
 茅森さんは若干引き気味になる。
「待て、嘘は言ってない! 僕は何も頼んでない!」
 慌てて主張するも、アイシャが即座に否定してくる。
「いいえ。わたしが自主的にやっているというのは本当ですが、『僕の趣味ではない』というのは嘘です。わたしはあらかじめ明季の趣味嗜好を調べ、過酷なミッションに挑む明季の心を癒すために、この服を着用しているのですから」
 く……余計なことを! 茅森さんが不審な目で見ているじゃないか。
「では、もうしばらくしましたら紅茶をお持ちしますので、待っていてくださいね」
 アイシャはポニーテールをなびかせながらカウンターに戻っていった。
 僕と茅森さんの間に気まずい空気が流れる。
 いったい何をしに来たんだ? ほとんど嫌がらせじゃないか。
 だいたい、僕の趣味嗜好については口外しないんじゃなかったのか? 
 アイシャは約束を破るような人間ではない。言葉の捉え方の違いか?
 どうやらアイシャの言う口外の『外』とは研究所の外のことであって、僕たち二人の間のことではないらしい。つまり研究所の仲間になら話しても良いということだ。
 もっとしっかり確認しておくべきだった。
 茅森さんはこちらを見ず、目を泳がせている。
 頼む、何か言ってくれ。僕の方からは何も言えない。今何を言っても弁明するだけになってしまうから。
 やがて僕の祈りが通じたのか、茅森さんは、そぉーとこちらに目を向けた。
「あの、わたしわかってますから。さっきのは、場の雰囲気を和ませるためのアイシャさんの気遣いだってこと……」
 急に肩の力が抜けた。
 そう言ってくれる君の気遣いに痛み入るよ。
 

 それから僕たち三人は、ここ最近、海が行ったミッションの映像を見た。
 失敗ばかりで嘆いている海だったが、特に危険はないようだから安心した。
 それでいい。海に怖い思いはしてほしくない。危険なミッションは僕が引き受ければいいんだ。
 映像が終わると、アイシャはテーブルの上にある空になったカップを下げ、カウンターに片付けにいった。
 それから、茅森さんが言う。
「三波さんっておもしろい人ですね」
「そうだな。でもミッションは危険を伴うこともあるから、もう少し気を引き締めてほしいところかな」
「野川さんのミッションは危険だったんですか?」
「今までに二度、危険な目に遭ったよ。一度目は偶然巻き込まれただけだった。でも二度目はあえて危険に飛び込んでいった。結局失敗に終わったけどね」
「失敗って……大丈夫だったんですか?」
「負傷したわけじゃないから大丈夫だよ」
「でも、下手をすると廃人にもなりかねないって聞きました」
「仮想未来でひどいケガを負ったり精神的ショックを受けたりすれば、現実の身体にも悪影響を及ぼすのは確かだ」
 茅森さんの元々伏し目がちな表情が、さらに陰りを見せる。
「そんなに危険なのに、どうして野川さんはテスターになろうと思ったんですか?」
「それは、僕が負けず嫌いだからかな」
「え……」
 茅森さんは意外そうに顔を上げた。
「僕は昔からコミュニケーションが苦手で、いつも人の輪の中に入っていけない人間だった。たぶん普通の会社に勤めても、うまくやっていけなかったと思う。そのくせ自尊心だけは人一倍強くて、なんとかして社会の役に立つ人間だと認められたかった。そんな時、大学の先生が柳所長の知り合いだったおかげで研究所の存在を知ることができたんだ」
 茅森さんは黙ってこちらを見つめるだけだった。
 お世辞にも立派な理由とはいえないし、うまく言葉を返せなくても仕方がない。
「期待外れだったかな?」
 尋ねると、茅森さんはふるふると首を横に振った。
「そんなことありません。わたしもコミュニケーションが得意とはいえませんし、それに社会の役に立ちたいって思うのは立派だと思います」
「そっか、ありがとう。でも、それを言ったら君の方が立派だよ。僕が高校生の頃は人類の未来なんてろくに考えたこともなかったから。茅森さんは、どうして未来のことを考えるようになったの?」
「家庭環境のおかげだと思います。ものを大切にすること、余計なものをほしがらないこと、無駄遣いをしないこと、そういったことを小さい頃から教え込まれてきました。貧しいわけではありませんが、慎ましい生活をしている家なんです。そんな家庭で育ったからこそ、次から次へと新しいものを作っては捨てていく世の中に違和感を覚えたのかもしれません」
「じゃあ、この研究所のことを知ったきっかけは?」
「お父さんと柳所長が知り合いなんです。それで、たまたま二人が家で話しているのを聞きました」
「なるほど、そういうことだったのか。でも、家族は反対しなかったの? 高校に通いながら危険なテスターの仕事をするなんて」
「もちろん反対されました。でも、どうしてもってお願いしたら、試験を受けるのだけは許してくれたんです。きっと受かりっこないって思ったんでしょうね」
「でも受かってしまった、と」
「そうです。そしたら今度はお父さん、何かと理由を付けて保留にしてくれって裏で頼んだんです。そうに決まってます」
 茅森さんは少し苛立たしげに言った。
 その口調からは、興味本位でテスターをしたいのではなく、本気で未来を変えたいという意志が伝わってきた。
 この瞬間から、僕は茅森さんが他人とは思えなくなった。
「茅森さんは、なんだか僕と似ているな」
「え、似てる?」
 キョトンとする茅森さんに対し、続けて言う。
「君も僕も、人の役に立つことで自分の存在意義を証明しようとしている。それも自分の周囲ではなく、不特定多数の人々の役に立つことで、自分を人とは違ったところに位置付けようとしている。特別でありたいと思っている」
 茅森さんは微かに眉をひそめる。
「どうして、そこまでわかるんですか?」
「声が、はっきりしているから」
「声?」
「普段は内向的だけど、しゃべる時ははっきりしゃべる。僕も茅森さんも、そうだから」
「わ、わたしは……」
 茅森さんは急に恥ずかしそうな顔をして、うつむいてしまった。
「ごめん、気に障ったかな?」
 慌てて聞くと、茅森さんはうつむいたまま、またふるふると首を横に振った。
「いえ、嬉しいんです。わたしのことそこまで理解してくれた人、今までいなかったから」
「そっか」
 しばらくの沈黙。
 その後、茅森さんは意を決したように言う。
「あ、あの、わたしのことは優って呼んでください。その代わり野川さんのこと、明季さんって呼んでもいいですか?」
「いいよ。じゃあ、これからは優って呼ぶね」
「はい、明季さん」
 優は嬉しそうに微笑み、少しぎこちなく僕の名を呼んだ。
 僕も自然と顔がほころんだ。
 まさかあの時の女の子と、こんなに親しくなれるとはな。しかも、アイシャや海のように気苦労をさせられそうもないおとなしい子だ。素直に嬉しい。
 と、その時。
「お話が弾んでいるようですね」
 振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにアイシャが立っていた。
 それまで和やかだった空気がたちまち緊張する。
 数秒の間を置いてから、アイシャは僕と優を交互に見て言う。
「明季、優さん、念のため今のうちに釘を刺しておきます。いいですか、テスター同士の恋愛は禁止です」 
「え、どうしてですか?」
 優が質問すると、アイシャは即答した。
「子供ができてしまったら、ミッションができなくなってしまうからです」
「ぇ……」
 全身をフリーズさせる優。 
 僕も唖然とした。しかし、優よりは早く立ち直る。
 考えてみれば、それは僕のせいでできたルールだ。偶然とはいえ、未来の息子と出会ってしまったから。異性である以上、同じことが起きないとは言い切れない。
 しかし、だからといって――
「アイシャ、そんなストレートな言い方しなくても。相手は高校生だぞ」
「そうです、優さんは高校生、もう十五歳です。社会的には子供でも身体的にはほとんど大人。いつ過ちが起きてもおかしくはありません」
「そういう問題じゃないだろう」
「そういう問題です。貴重な人材を万が一にも失うわけにはいきませんから」
 アイシャは一ミリも意見を曲げようとしない。一ヶ月、共にミッションをこなして、彼女の性格は把握したつもりだったが、ここまで遠慮のない発言は予想外だった。
「いったい僕をどういう目で見てるんだ?」
「男性です。明季、あなたは社会人である前に、テスターである前に、男性です。生物学的に見て、男性とは自分の遺伝子を持った子孫をより多く残すため、複数の女性とのつながりを求める傾向があります。あなたも男性なら心当たりがあるでしょう?」
「な……」
 開いた口が塞がらないとはこのことだった。優はまだフリーズしている。
 そこまで言うか……。
「アイシャ、それはいくらなんでも飛躍し過ぎじゃないのか? それじゃあ男はみんな見境ないって言ってるみたいなものじゃないか」
「わたしは生物学的に見て、と言いました」
「それはそうだが……。でも、ちょっと話しただけでそこまで言わなくても」
「ですから、念のためと言いました。わたしはあくまでも、テスターとして遵守すべき規則を述べたまでです」
 納得はいかないがすべて正論だ。こうなるともう返す言葉がない。
「待ってください!」 
 すると、それまで固まっていた優が口を出した。
「なんでしょう?」
「その理屈だと、テスター同士じゃなくたって恋愛はいけないんじゃないですか? 結局、その……できちゃったらまずいんでしょう? だったら、相手が誰であっても同じじゃないですか?」
 優は途中顔を赤らめながらも、はっきり言い切った。
 途端、アイシャの表情が固くなる。
「……そうなりますね」
「だったら、どうしてはじめからそう言わなかったんですか?」
「それは……」
 なんだ、アイシャが押し負けている……?
 優は勢いに乗って続ける。
「さっきからアイシャさんの言ってることはおかしいです。論理が破綻しています」
「おかしくなどありません。わたしは当然の真理を語ったまでです」
 言い返すアイシャに、優は口をわなわなとさせてから高らかに言い放つ。
「わ、わ、わたしにはわかってるんですよ! そうやって何かと都合のいい規則を作って、アイシャさんは、じ、自分が明季さんの恋人になろうとしてるんじゃないですか!」
 な、何を言い出すんだ、この子は……! 
 しかし、アイシャも負けじと言い返す。
「そ、そんなつもりはありません! わたしは、状況から考えてテスター同士がそうなる可能性が高いと思っただけです!」
「根拠はあるんですか? だいたい、その規則は誰が作ったんですか?」
「ぅぅ……」
「どうせアイシャさんが今作ったんでしょう? そんなの職権濫用です!」
「……」
 ついに言い返せなくなったアイシャに、優はとどめの一言を告げる。
「それにアイシャさん、大事なことを忘れてませんか? わたしはまだ、正式にはテスターじゃないんですよ。今のわたしに命令する権限はないはずです」
最強のカードだ。まだテスターではない。そう言われてしまえばおしまいだ。
 アイシャは平静を装ってはいるが、悔しそうな表情が隠せない様子だ。
「……わかりました。先ほどの発言は取り消します。ですが、テスターである明季と関わる以上、ミッションに支障をきたすような行動を慎んでいただくことに変わりはありません。どうか、その点はご理解ください」
 震える声でそう言った後、お辞儀をして、カウンターに退避していった。
 茅森優。普段はおとなしいが、言う時は言う子なんだな。


 突如勃発した女性同士の論争は、優の優勢勝ちに終わった。
 かといって優は勝ち誇るでもなく、逃げるようにそそくさと帰っていった。
 また来週の休みにミッション映像を見に来るらしい。
 今度は二人とも仲良くしてくれるといいのだが……。
 時刻は十一時過ぎ。
 そろそろお腹も空いてきた。昼食はどうしようかな。
 考えていたところへ、アイシャがおそるおそる声をかけてきた。
「あ、あの、明季、先ほどはお見苦しいところを……」
 顔をうつむき加減にして、チラチラとこちらを見てくる。
 こんなにしおらしいアイシャは初めてだ。
「気にしなくていいよ」
「ですが、優さんの言ったことは……」
 さっきの「そうやって何かと都合のいい規則を作って――」という問題発言のことだろう。
「わかってるよ、アイシャにそんな下心がないことくらい。あれは優がムキになって言っただけだ」
「ごめんなさい。わたしもつい感情的になってしまって……」
 アイシャはしょんぼりとうなだれた。
「感情の浮き沈みは誰にでもある。でも、次に会った時は仲良くしてやってほしいな」
 そう言ってあげると、アイシャの表情は少しだけ明るくなった。
 これでひとまず安心かな。優も一週間すれば頭が冷えるだろう。
 その後、アイシャはピンと姿勢を正して言う。
「では改めまして。明季、これから昼食をご一緒にいかがでしょうか?」
「え……」
 突然のお誘いに胸が高鳴る。
「もちろん、明季の都合が良ければで構いませんが」
 遠慮がちに言うアイシャに、僕は快く返す。
「いいよ。何が食べたい?」
「明季のお好きなもので構いませんよ」
「じゃあ、イタリアンでどうかな? 駅前のお店ならバスで行けるから」
「わかりました。では、わたしは着替えてから行きますので、玄関の辺りで待っていてください」


 レストランにはバスに乗って十五分ほどで到着した。
 建物の外観、内装ともにクラシックなイメージの本格的なイタリアンレストランだ。
 料理の値段もそれなりにするので、祝日ではあるものの満席にはほど遠い。どちらかというとディナータイムの方が混雑しそうな趣の店だ。
 それにしても、ここに来るまでの間に受けた人々の視線にはまいった。あの無機質なオフィス街でブロンドヘアの白人女性を連れて歩けば注目度は抜群だ。
 しかもアイシャの私服姿、これがまたメイド姿に負けず劣らず可愛らしい。
 カシミヤイエローのふんわりとしたワンピースは、それまで大人の女性だったアイシャを少女のような雰囲気に変身させた。年齢は二十歳くらいと聞いていたので、彼女の大人びた態度からして二十歳を過ぎているかと思っていたが、この姿を見てまだ十八か十九ではないかと思えてきた。西洋人は大人びて見えるというから充分ありうる。
 なんにせよ、店内でまた注目されるのはごめんだ。
 なるべく目立たない奥の窓際を選び、席に着いた。


 食事が済み、食後の紅茶が届くと、アイシャはそのタイミングを待っていたかのように話を切り出した。
「明季、実は今日食事にお誘いしたのは、明季にお話しておきたいことがあるからなんです。聞いてもらえますか?」
「もちろん。でも、この場所でいいのかな?」
「ミッションの話ではありませんから構いません。お話するのはわたしのことです。わたしのこと、まだ詳しく話していませんでしたから……。ただし、ご存知のとおり、わたしは過去の記憶を失っていますので、知っている限りのことになってしまいますが、それでもよろしいでしょうか?」
 僕は黙って頷く。
 一緒に仕事をするようになって約一ヶ月、アイシャの素性については未だに聞いていなかった。デリケートな問題なのでこちらからは切り出さず黙っていたが、ずっと気になっていたのは確かだ。
 アイシャはゆったりとした動作で紅茶に口を付けた後、話を始める。
「わたしが記憶を失ったのは今から三年ほど前のことです。場所は北欧のとある街。詳しい地名は覚えていませんが、そこがわたしの出身国なのは間違いありません」
 色素の薄い外見から北国出身だろうとは思っていたが、北欧だったのか。
「事の発端は誘拐未遂事件です。もちろん、誘拐されそうになったのはわたしです。その時の状況は後になってから聞いた話ですので、わたし自身は覚えていませんが、誘拐犯からわたしを救ってくれたのが柳所長でした。あ、当時はまだ、柳所長は視力を失っていませんでした。今のようになってしまったのは一年くらい前のことですので……」
 アイシャは一息つき、表情を曇らせる。
「ほんの一瞬の出来事だったそうです。道を歩いていたわたしのすぐ近くに車が止まった瞬間、中から飛び出してきた男性が二人がかりでわたしを車内に引っ張り込もうとしたらしいのです。その時、偶然居合わせた柳所長のおかげで、なんとか窮地から抜け出すことができました。ですが、すぐに誘拐犯の仲間らしき車が何台かやってきて、彼らから逃げる途中でわたしは交通事故に遭ってしまいました。その時になってようやく警察が駆けつけてくれたため、誘拐犯からは逃れることができたらしいのですが、事故で頭を強く打ったのが原因でわたしは記憶の一部を失いました。犯人は欧米人であることと英語を話すことくらいしかわからず、結局一人も捕まらなかったそうです」
 ヨーロッパでは英語を話せる人が多いので、それだけではヒントにならない。犯人もそれがわかっていて英語を使ったのだろうが。
 僕は紅茶を口に含む。
 アイシャも紅茶を口にし、それから話を続ける。
「ここまでが人から聞いた話で、わたし自身の記憶は病院で目を覚ましたところから始まります。不幸中の幸いにも外傷はたいしたことがありませんでしたので、身体の方は数日で回復ました。それから、わたしが入院している間に柳所長が手を尽くしてくださったおかげで身元も判明しました。その時、柳所長が言ったのです。このまま退院しても、この国にいてはまた狙われる可能性が高いから、一緒に日本に来ないかと。わたしの家族もそれを望んでいるということで、わたしは祖国を離れ、日本で匿ってもらうことになったのです」
「そんなことがあったのか……。それにしても、身元はわかってたんだな」
「はい。でなければ、日本に入国することはできませんしね」
 アイシャは微かに笑みを浮かべる。言われてみればそうだ。
「でも、アイシャは自分の本名を知らないんだろう? どうして教えてもらわなかったの?」
「どのみち祖国にいられない以上、記憶を失っている方が、気が楽でしたので……。記憶を取り戻すきっかけになるような情報はあえて遮断しました。家族にも結局会わずに出国してきました」
「そうか……」
 アイシャが自分で決断したことだ。僕が口を挟むことではない。
「じゃあ、もう一つ聞きたいんだけど、どうして仮の名前がアイシャなのかな? それってヨーロッパ系の名前じゃないだろう?」
 前に気になって調べてみたがアイシャ≠ヘ中東やインド辺りの名前だった。
「ですから、北欧出身と思わせないためです。わたしを誘拐しようとした何者かが日本にまでやって来る可能性もありましたので、そうなった時に少しでも彼らの情報網を撹乱できればと」
「なるほど。じゃあ言葉は? 祖国の言葉はわかるのかな?」
「はい、わかります。それに英語とドイツ語とフランス語も」
「すごいな、五ヵ国語も話せるのか」
 僕が驚くと、アイシャは首を横に振って謙遜する。
「いえ、ヨーロッパの言語は共通点が多くて習得しやすいですから、明季が思っているほどではありません」
「でも、日本語だって上手いじゃないか。日本人の僕が聞いてもほとんど違和感ないくらいだ」
 アイシャは嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとうございます。わたし、柳所長に連れてこられて、日本が好きになってしまったんです。だから早く覚えられたのもしれませんね」
 日本が好き。こんなことを言ってもらえるのは日本人としてとても誇らしい。
 同時に、そんな日本にも悪いところがたくさんあるのを悔しく思う。
 次の質問をする。
「日本に来て住む場所は?」
「柳所長の家に置いていただきました。記憶のない状態での生活にはじめは戸惑いましたが、柳所長と奥様が本当の家族のように接してくれたおかげで早く馴染むことができました。今のわたしにとって、お二人は親同然の存在なんです」
「そっか、柳所長が……。じゃあ、普段はどうやって過ごしてた? 学校は?」
「学校には通わず、奥様からいろんなことを教わりました。日本語や日本文化、家事や料理もみんな奥様から学びました」
 柳所長の奥さん、和香(わか)さんは柳所長より十歳以上若く、和風美人といった感じの人だ。目が見えない柳所長をサポートするために研究所へ頻繁に出入りしているから何度か会って話したことがある。
 言われてみれば、話し方や考え方がアイシャと似ているな。
 いや、アイシャが和香さんに似たのか。
「この髪を最初に結ってくださったのも奥様なんですよ」
 アイシャは後頭部のポニーテールをそっと撫でた。
「和服が似合いそうな髪型だね」
「はい。和服はとっても好きです。まだ一人では着られませんが、いつか明季にも見せてあげたいです」
 アイシャは嬉しそうに微笑んだ。
 僕も嬉しい。こうして積極的に自分のことを話してくれるのは、僕もアイシャの世界の住人の一人として認めてもらえたという証拠だから。
「日本に来てから、わたしは幸せでした。今はナビゲーターという大事な役目もあります。だからもう、昔のことは思い出せなくてもいいかな、と思ってるんです。昔のことが全く気にならないわけではありませんが、わたしにとっては今が崩れてしまう方が怖いんです」
 記憶が戻るというのは考えようによっては恐ろしい。もしかしたら人格が変わってしまうかもしれない。記憶を失ってから今までのことを忘れてしまうかもしれない。そして、誘拐されそうになった時の恐怖を思い出してしまうのもつらいはずだ。
だから僕はこう言う。
「アイシャがそれでいいと思うなら、無理に思い出さなくてもいいと思う。僕は、アイシャには今のままでいてほしいな」
「ありがとうございます。そう言ってくれると安心します」
 アイシャは穏やかな笑顔で返してくれた。
 今はこれでいい。今は。
 だが、いつまでもこのままというわけにはいかない。祖国にはアイシャに会いたがっている家族や友人がいるはずだ。その人たちのためにも、アイシャ自身のためにも、いつかは解決しなければならないことだ。
 そうなった時、僕は全力でアイシャの力になる。そう決意した。


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