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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第3回 一章 自然都市(後編)


 気が付いたら階段の踊り場に立っていた。
 周囲に人の気配はない。
『明季、何か問題はありますか?』
「問題ない。これよりミッションを遂行する」
 僕は階段を降り三階へ向かう。決して慌てず堂々と。
 この建物の中でスーツ姿なら不自然ということはないだろう。これまでのミッションでもスーツ姿の男性はよく見かけている。
 階段を降りきったところで館内地図を見つけた。
 確認すると、やはり市長室はこの階に。
 建物の端から端まで行かなければならないが、そんなに大きな建物ではないので、急がすとも一分足らずで着く。その程度のロスなら問題ない――と思ったのだが、廊下の向こうからスーツ姿の女性がやってくるのが見えた。ここの職員かどうかはわからないが、話しかけられては面倒だ。
 近くにあった男性トイレに入り、やり過ごす。
 再出発。
 そこからは誰ともすれ違うことなく、市長室の前までたどり着くことができた。
 僕は扉に近付く前に、小声で言う。
「アイシャ、今から爆発までの時間を一分ごとに教えてほしい」
『わかりました。今、ちょうど十八分を切りました』
 それまでに市長を説得して、ここを脱出しなくてはならない。
 軽く呼吸を整えながら、木製の扉の前に移動する。
 それから、コンコンと扉を叩いた。
「どうぞ」
 低い男性の声が返ってきた。
「失礼します」
 扉を開け、市長室に入る。
 部屋にいるのは一人、市長専用の席に座る男性のみ。
 その男性と目が合った瞬間、僕は驚き目を開いた。
「……!」
 向こうも同じ反応をした。
「……!」
 数秒間、まばたき一つせず互いに見つめ合う。
 おそらくアイシャも画面に映る彼の姿を見て驚いているだろう。
 なぜなら、似ているからだ。
 少しつり上がった目、小柄だが狭くはない肩幅、それに癖のないサラサラな髪質。
 年齢は三十代後半くらいだが、市長は僕自身によく似ていた。
 まるで十五年後の自分を見ているようだ。
 市長はこちらを見つめたままゆっくりと席を立ち、聞いてくる。
「ええと、どこかでお会いしましたっけ?」
「いえ、そんなはずは……」
 ないはずだが、目の前にいる男性が他人とは思えない。
「ではどちら様かな?」
 市長の問いに、ハッと我に返る。
 そうだ、今はミッション中だ。
「失礼しました。僕は野川という者です」
 動揺で声がうわずってしまった。
「奇遇だね。僕も野川というんだ」
 市長の声も少しうわずっている。が、僕よりは冷静なようだ。
「それで、要件は何かな?」

『あと十七分です』

 僕は入口のところから数歩、市長に歩み寄る。
「市長、落ち着いて聞いてください。実は、この部屋に爆弾が仕掛けられています」
「なんだって!?」
「爆発まであと十七分しかありません。速やかに避難指示を出してください!」
 ここが正念場だ。信用してもらえるか。
 市長は険しい表情をする。
「爆弾か……。それが本当なら大変なことだが、いきなりやってきて信用しろというのも無茶な話だ。せめて君がその情報をどこで手に入れたのか、それだけでも話してくれないかな?」
 当然といえば当然の反応だ。
 だが、こんな時のための返答は用意してある。
「申し訳ありませんが、情報元のことを話すわけにはいきません。ですが、爆弾が仕掛けられているという根拠はあります。これを見てください」
 僕は懐から二枚の写真を出し、市長に手渡した。
 初めてアクセスした時の映像から抜き出した静止画だ。
 一枚は爆発現場で遭遇した二人組の男、もう一枚には最後に現れた八人の男たちが写っている。
 二枚の写真を食い入るように見る市長に対し、僕は言う。
「その男たちが犯人です。何か心当たりはありませんか?」
 この男たちはどう見てもプロではなかった。服装はバラバラ、格闘技は素人、あまつさえターゲットの役職名を大声に出すような連中だ。
 おそらく金で雇われたそこらのゴロツキだろう。
 市長がこの男たちのことを知らなくてもいい。自分が狙われていることにわずかでも心当たりがあれば、この建物を背景にした目つきの悪い男たちの写真を見せることで信用度はグンと上昇するはずだ。

『あと十六分です』

 もう二分も経ったのか。時間の経過が異様に早く感じられる。
「う〜ん」
 市長が唸る。
 これだけ考え込むということは、全く心当たりがないわけではなさそうだ。
 僕は市長の背中を押すように訴える。
「市長、この建物にいる人たちを逃がすには、それなりに時間がかかるはずです。今はこれ以上詳しく説明している時間がありません。どうかご決断を!」
 強引ではあるが、今ならこれで押し通せる可能性は高い。
 たっぷり時間があるならともかく、残り十六分を切っているこの状況であれば。
「わかった。少し待ってくれ」
 市長は机の上にある電話を取り、内線を館内放送に切り替えた。
「こちら野川です。緊急事態が発生しました。この建物の三階に爆発物が仕掛けられている可能性があります。館内にいる全職員及び一般の来訪者の方々は、ただちに建物から脱出してください。それから、職員は付近にいる一般人にも退避を促すように」
 どうやら信じてもらえたようだ。
 放送を切ると同時に席から立ち、また別のところへ電話をかける。
「金城(かねしろ)君、十五分以内に表へ車を回せるか? ――そうか、頼んだぞ」
 通話しながら、最低限必要な物を鞄に詰め込む市長。

『あと十五分です』

 決断を下してからの行動は迷いがなく迅速だ。
 普段から非常事態に陥った際の心構えができているのだろう。
 ちなみに、電話の形状は全くと言っていいほど現代と変わっていない。携帯電話が主流となったため据置き型は進歩しなかったのだろうか。あるいはこの形状がすでに完成形なのか。
 通話を終え、受話器を置いた市長がこちらに顔を向けてきた。
「一つ確認しておきたいんだが、爆発までの時間は正確にわかるのかな?」
「はい。今、十五分を切ったところです」
「十五分か……」
 市長は左手の腕時計を見てから言う。
「じゃあ、君は先に脱出してくれ。僕はぎりぎりまで、館内に取り残されてる人がいないか確認して行くから」
「え……!」
 そうきたか。時間がないというのに。
「危険です! すぐに脱出しないと!」
 だが市長は聞かない。
「市長である僕が真っ先に逃げ出すわけにはいかないだろう。ひょっとしたら、自力では素早く動けないお年寄りや怪我人がどこかにいるかもしれない。この建物は十分あれば全部の部屋を一通り見て回ることができるから、充分間に合うよ」
 予想外の展開だ。三階建てのこの建物から脱出するだけなら二分もあれば可能だから、説得さえできれば余裕だと思っていたが、考えが甘かった。
 こうなったら仕方がない。
「それなら僕も手伝います。だいたい、もし動けない人がいたら一人では間に合わないでしょう?」
「あ、そうか! そうだね」
 市長はアハハッと笑ってごまかした。
 なんだかこの人、放っておけない感じがするな。
 
『あと十四分です』
 
「じゃあ、三階は僕が確認するから、君は二階を頼むよ」
「わかりました」
「終わったら一階で合流しよう」


 二階に降りた僕は、一つ一つ部屋を確認して回る。今のところ誰もいない。
 市長の言うとおり、この建物は市庁舎にしては小さい。おそらくは経費削減のために必要最低限の施設しか作られていないのだろう。ハコモノ行政時代にできた異様なまでに巨大な庁舎とは大違いだ。

『あと十一分です』

 三分かからず、残り一部屋というところまできた。
 一階はロビーになっており、一般職員もいる。確認しなければならない部屋はほとんどないだろう。これならあと四、五分で脱出できる。
 そう思って最後の部屋の扉を開けると――
「これでどうだ!」
「うわーん!」
「俺の勝ちー」
 八歳か九歳くらいの男の子が三人、床でカードゲームをして遊んでいた。
 保護者らしき大人はいない。
「君たち、なにしてるんだ? 放送が聞こえなかったのか? 早くここから出なさい」
 男の子たちは顔だけこちらに向けてくる。
「えー、なんでー?」
 遊びを邪魔されたのが不満そうな態度だ。
 だが、こっちはそんなことに構っていられない。
「この近くに爆弾が仕掛けられてるんだ。危ないから、早く一緒に逃げよう」
「えー、ウソだー」
「ウソじゃない! 早く! もう時間がないんだ」
「えー、無理だよー」
「知らない人に付いてっちゃダメって言われてるもん」
 男の子たちは頑なに動こうとしなかった。
 まずいな。一人なら抱き上げて無理矢理連れて行くこともできるが、三人では。保護者を探している時間はない。
 市長を呼ぶしかないか。もうそろそろ三階の確認も終わっているはず。最悪、一人は市長に抱えてもらって二人は僕が両脇に抱えれば……いや、さすがに二人は無理か。でも、二人連れていけば残り一人も付いてきてくれるだろう。いくらなんでも一人で残るほど強情ではないはず。
 考えながら部屋から顔を出すと、ちょうど市長が向こうの階段から降りてきたところだった。
 すぐにこちらの異変に気付き、駆け寄ってくれる。

『あと十分です』

「どうした?」
「実は子供が……。爆弾があるから危険だと言ったんですが、聞いてくれなくて」
 説明して、市長に部屋へ入ってもらう。
 すると、男の子たちは一斉に目を輝かせ、声を上げた。
「あ、市長だ!」
「市長だ!」
「市長だ!」
 僕の時とはまるで違う態度で、三人は立ち上がってわらわらと市長に歩み寄ってきた。
 市長は三人に目線を合わせるように膝を曲げ、姿勢を低くする。
「ごめんな、せっかくゲームいいとこなのに。でも、このお兄さんの言うことは本当なんだ。ここは危険だから、カード片付けて外に出ような」
「うん!」
 男の子たちは驚くほど素直に返事をして、素早くカードを片付け始めた。
 さすがだ。子供たちに対して決して上からモノを言わず、同じ目線でお願いする。それもこの緊急事態の中で。簡単なようで、実際にはなかなかできないことだ。
 僕の中の市長に対する期待が、また膨れ上がった。


 男の子たちを連れて一階へ降りると、すぐに母親らしき人たちが駆け寄ってきた。
「市長、本当にありがとうございました。このお礼は必ずいたしますので」
 深々とお辞儀をして、子供たちと手をつないで去っていった。
 
『あと七分です』
 
 その後、残っていた職員から一階にはもう誰もいないとの報告を受けた。
 これで心置きなく脱出できる。
 市長は、先に一般職員たちを表玄関から脱出させた。表玄関側にはすでに警察が到着しているので、職員や一般人に危害が加えられる可能性は低い。以前アクセスした時も被害者は一人も見かけなかった。
 しかし、標的である市長が姿を現せばテロリストたちはなりふり構わず攻撃を仕掛け、他の者を巻き込むかもしれない。
 市長と二人で話し合い、多少の危険は覚悟で裏口から出ることにした。
「ではすまないが、裏口に頼む」
 秘書への連絡を終えた市長が、こちらを向く。
「悪いね、こんなぎりぎりまで付き合わせちゃって」
「大丈夫です、まだ充分間に合います」
 建物から出て二十メートルほど離れれば安全圏だ。走れば一分もかからない。

『あと四分です』 

 僕と市長は裏口に向かって走り出す。
 市長の動きは軽快だ。普段から鍛えているのがわかる。
 この先の突き当たりを曲がれば、もう出口。
「よーし、もう少しだ」
 市長は得意気に言った。
 廊下の突き当たりを曲がる。
 そこで――
「な……!」 
 僕は反射的に足を止めた。市長も止まる。
 出口を防ぐように、五人の男たちが待ち構えていたからだ。
「やっぱり来やがった!」
「おかしいと思ったぜ。表から職員がぞろぞろ出て来るんだからな」
 男たちはこちらを見てニヤニヤと笑っている。
 派手な服装に派手な髪型。一人一人の顔を覚えているわけではないが、あの時の男たちに違いない。
 どうやら待ち伏せされていたようだ。
「一応聞くけどさぁ、この人たち、君の友達じゃあないよね?」
 こんな時だというのに、市長はユーモアの混じった聞き方をする。
「市長、下がって!」
 僕は市長を手でかばいながら一歩前に出た。
 五人、やれるか……やるしかない!
 先手必勝。
 僕は懐からすばやく鉄扇を取り出し、一番近くにいる男の喉を突いた。
「う――」
 男はうめき声を上げ、その場に崩れ落ちる。
 まず一人!
 
『あと三分です』
 
 仲間をやられて慌てふためいている間に、鉄扇でもう一人のこめかみを強打。
 これで二人! 
 このまま一気に――と勢いづいて三人目に攻撃しようとしたところで、別の男に背後からしがみつかれた。
「今だ! やれ!」
 さらに、別の男が正面から殴りかかってくる。
『明季、リセット――』
 アイシャの悲痛な声。
「いい!」
 僕はとっさに首をすくめ、相手の拳を額で受けた。
「ぐ……!」
 殴った男がうめき声を上げ、右手を押さえる。
 殴られたこちらのダメージは最小限。額と拳では、額の方が断然固いのだ。
 しかし男は怯まず、もう一方の手で殴りかかってくる。
 同じ手は二度通じない。背後の男を振りほどく時間もない。
 ――やられる。
 そう思った瞬間、正面の男が頭から弾け飛んだ。
 視線を横に移すと、そこには背の高いスーツ姿の青年が。
「おお、金城君!」
 市長が歓喜の声を上げる。
 さっき市長が電話をした時、口にした名だ。
 車を用意した後、駆けつけてくれたようだ。
 金城にやられた男は、たった一撃で失神していた。おそらく頭部への打撃だろう。
 またも仲間をやられた男たちは狼狽する。
 その隙に、僕は背後からしがみつく男の足を思い切り踏んだ。
 男がひるんだところで身体を振りほどき、そのまま流れるように半回転して、こめかみに鉄扇の一撃。
 男は力なく崩れ落ちた。
 あと一人!
 素早く振り向くと、すでに金城が残りの一人を仕留めたところだった。
 強い。
 ほとんど見ていないのでスタイルはわからないが、間違いなく格闘技の練達者だ。
金城が尋ねる。
「市長、ご無事ですか?」
「ああ、僕は何ともない」
 金城は安堵の表情を浮かべ、次に僕の方へ鋭い視線を向けてきた。
「君は?」
 君は大丈夫か? ではなく、君は何者か? という感じの口調だ。
「僕は――」
「待て」
 答えようとしたところを、市長が制してきた。
「金城君、話は後だ。まずはここを脱出しよう」
「わかりました」
 金城は即答した。
 僕たちは倒れている男たちをまたぎ、裏口から外へ脱出した。

『あと二分です』

 建物から出てすぐのところに、金城の用意した車が停めてあった。
「市長、早く!」
 金城は後部座席のドアを開け、市長を先に入れる。
 続いて僕も入ろうとしたところで、また別の男たちが現れた。
 今度は三人だ。
「逃がすな!」
 三人は車の前方にいるので、このままでは発進できない。
「まだいたのか!」
 金城は男たちの方を向き、ファイティングポーズをとる。
「よせ、敵は他にもいる! キリがない!」
 僕は金城に向かって叫ぶ。
 前回アクセスした時、敵は十人いた。最低でもあと二人いる。
 あの三人と闘っている間に他の仲間が駆けつけたら完全にタイムアウトだ。
 僕はとっさに持っている鉄扇を広げ、こちらに向かってくる男たち目がけてフリスビーのように投げつけた。
 鉄扇は先頭の男の喉元に当たり、くらった男は苦しそうに動きを止める。
 運良くその男の身体で後ろの二人がつっかえ、数秒間の動きを止めることができた。
 わずかな時間稼ぎだが、僕と金城が車に乗り込むには充分。
 電気自動車だから音がなく外からではわからなかったが、すぐに発進できるようエンジンはついたままだった。
「バックさせます!」
 金城はシートベルトを締める間も惜しみ、男たちのいない後方へ車を急発進させる。
 そして、後ろ向きのまま見事な車体制御で駐車場内を走り、男たちが追い付けないところまで来ると、ギアを前方に入れ換え、駐車場の出口へと向かった。

『あと一分です』

 なんとか間に合った。
 僕は後部座席でホッと胸を撫で下ろす。
 しかし、それも束の間。
 駐車場出口のところで一時停止した瞬間、新手の男たちが左右から飛び出してきた。
 左手から来た男が市長の座る席のドアに手を掛ける。
「ふん!」
 市長は勢いよくドアを開けることで、うまく男を吹き飛ばした。
 もう一人、右手から出て来た男がボンネットの上に飛び乗った。
 男は手に持ったハンマーでフロントガラスを叩く。
 ――が、ヒビ一つ入らない。防弾仕様になっているようだ。
「構わん、出せ!」
 市長が叫ぶと、金城は男を振り落とすように急発進で車を公道に出した。
 男は車体にしがみついて粘る。
「しつこい!」
 道が空いているのを幸いに、金城はハンドルを左右に振って車を蛇行させた。
 急な横揺れに、男はたまらず道路へ転げ落ちる。
 次の瞬間――

『時間です』
 
 後方で巨大な爆発音が鳴り響いた。


 もうもうと黒煙を巻き上げる建物から、車は遠ざかっていく。
 念のため後方を見張っていたが、追っ手はなさそうだった。
「ふうー、ほんとに爆発したよ。まるで昔の映画みたいだねえ」
 自分が狙われていたというのに、市長はお気楽な口調だ。
 さっきから思ってたが、この人ずいぶん陽気な性格だな。まるでどっかの誰かさんみたいだ。
 その陽気な市長が言う。
「彼らの狙いは僕一人みたいだし、とりあえずここから遠くに離れた方がよさそうだね。金城君、高速入って。東京方面へ走ってくれ」
「わかりました」
 金城はウインカーを出し、一般道から高速道路入口に車を入れる。
 料金所はETCレーンのみで一般レーンはなかった。料金がどのくらいかかるかはわからないが、四十年経っても高速道路の無料化は実現できていないようだ。
 合流車線から高速道路に入る。
 車の速度が上がるにつれ風切り音が大きくなっていく。
 とはいえガソリン車よりは遥かに静かだ。揺れも少なくシートの座り心地も良い。内装は質素だが、技術はある程度進歩しているようだ。
 金城がルームミラー越しにちらっと僕を見てから、市長に尋ねる。
「ところで市長。そちらは、ご親族の方ですか?」
「あっ、やっぱりそう見える?」
「は……?」
 市長の言葉に、金城は怪訝な声を返す。
「でも知らないんだな」
 市長がこちらを見てくる。
「そろそろ教えてもらおうかな。君はいったい何者なのか」
「わかりました。お話しします」
 ようやくこの時が来た。こうして話をするために市長を救出したのだ。
 ここからがミッション本番と言っても過言ではない。
 僕は一拍置いてから答える。
「信じられないかもしれませんが、僕は四十年前の世界からやってきました」
「え!?」
 市長が驚き声を上げた。
 普通ならこんな荒唐無稽な話を信じられるはずがない。
 だが、今の彼にとって僕は特別な存在だ。頭から否定はできないだろう。
 少しの沈黙の後、市長が口を開く。
「そ、それは驚きだね。タイムマシンか何かに乗ってやってきたのかな?」
 馬鹿にしたような口調ではない。計算通りの反応だ。
「いえ、時間を超越するのではなく、データの中に意識を飛ばす方法で来ました」
「データ?」
「そうです。この世界は人為的に作られたデータの世界なんです」
「う〜ん……」
 市長は顎に手を当てて考え込む。
「ここがデータの世界ってことは、僕たちもデータで作られた存在であって、でも僕にはずっと生きてきた記憶があるし、現実の世界と何が違うのかなぁ?」
 さすがに、すぐには呑み込めないようだ。
「金城君はどう思う?」
 市長の問いに、金城は前方を見据えたまま答える。
「信じ難い話ではありますが、その方は市長にとって命の恩人です。詳しい話を聞いてみる価値はあるかと」
「だよねぇ」
 市長は顎に当てた手を戻し、再びこちらを見る。
「さっき四十年前と言っていたね? 四十年後じゃなくて」
「そうです」
「じゃあなんで、あの爆発のこと知ってたの?」
「それは、ここに来るのが二度目だからです」
「二度目? じゃあ前に来た時、僕はどうなったの?」
「爆発に巻き込まれて死にました」
「へえ……」
 市長は引きつった笑みを浮かべた。
 本来なら死んでいるなんて言われれば当然だろう。
「それで、君は歴史を変えるために助けに来てくれたんだ?」
 僕は首を横に振る。
「いいえ、歴史は変わりません。これはあくまでもデータ内での出来事ですから。僕が戻ればすべてなかったことになります」
「すると、君が元の世界に戻ったら僕は死んじゃうってこと?」
「僕が元の世界で何もしなければそうなります。でも、そうはさせません。あなたはこんなところで死んでいい人じゃない」
「ハハハ、じゃあよろしく頼むよ。僕にはまだやり残したことがいっぱいあるからね」
 少し頬が引きつってはいるものの、こんな状況でも笑っていられるなんて前向きというか能天気というか。
 と思いきや、市長は市長らしく表情を引き締めた。
「でも、君はそのためにここに来たわけじゃないんだろ? 僕のこと知らなかったみたいだし。僕を助けてくれたのは、他に目的があってのことじゃないかな?」
「そのとおりです」
「じゃあ、それを教えてくれるかな?」
 信じているかどうかは別として、ちゃんと話を聞いてくれることに僕は安堵した。
 同時に、この人なら何か重要なヒントをくれるのではないかという期待に胸が膨らむ。
「僕の……いえ、僕たちの目的は、未来を調査することで人類をより良い方向へと導くためのヒントを得ることです。僕はあの都市を見て感動しました。世界中の人が、こんなふうに自然と共存できたらいいなと思いました。だから、あの都市の市長であるあなたから話を聞けば、有益な情報を得られるのではないかと思い、ここへ来たんです」
「なるほどね」
 市長は考え事をするように腕を組み、顔をうつむける。
「どうか、話を聞かせていただけないでしょうか?」
 懇願すると、市長は穏やかな笑顔をこちらに向けてくれた。
「難しいことはよくわからないけど、君のことを信用してみるよ。なんといっても命の恩人だしね。僕に答えられることならなんでも答えるから、遠慮なく聞いてほしい」
「ありがとうございます」
 僕は膝に手を置き、お辞儀をした。
「では聞かせていただきます。まず、あの都市の名称はなんというのでしょうか?」
「正式名称ではないんだけど、僕たちはサイクルシティ≠ニ呼んでいるよ。日本語にすると循環都市≠セね。石油のように限りある資源ではなく再生可能なエネルギーを使うことと、自然の自浄能力を超える汚染物質を出さないようにすることで、あらゆる物質を循環させて、人間が永続的に暮らしていける空間を目指した都市だ」
 機械制御によってエネルギーを極限まで効率的に使う現代のスマートシティとはまた違う発想だ。どれほど節約しようともやがて限界が訪れる省エネより、さらに一歩進んでいると言える。
 次の質問をする。
「サイクルシティができたのはいつ頃でしょうか?」
「いや、あの街は、まだ完成してないんだ」
「あれで未完成ですか?」
「そうだよ。建物にしても車にしても、未だ旧時代の物に頼ってるからね。まだまだ人類が目指すべき街づくりの手本としては未熟だよ」
「今も開発は進んでいるのですか?」
「ほんの少しずつね。開発が始まったのは、もう二十年以上も前なんだけど、反対の声が強くてなかなか進まないんだ」
「反対? それはいったい誰が?」
「そうだな、経済至上主義者≠ニでも言っておこうか」
 初めて聞く言葉だが、意味は容易にわかる。
「それは要するに、自然環境より経済発展を優先させる人たちですか?」
「そう。権力や財力を持っている人間には、未だにそういう昔ながらの考えの人が多いんだよ。経済はどこまでも成長するんだってね」
 そこでハッと気付く。
「じゃあ、もしかして、市長を狙ってきたのは……」
「おそらく、そういう連中の手下だろうね。環境保護は、目先の経済発展には足枷でしかないから、彼らからすれば僕みたいな人間は邪魔なんだよ。まさか爆弾まで使ってくるとは思わなかったけどね」
 市長は皮肉混じりの笑みを浮かべた。
 僕は笑ってなどいられなかった。
「信じられない話です。この日本でテロを起こしてまで経済発展を追求するなんて」
「そうだ。こんなことを続けていたら、いずれ地球は人の住めない星になってしまう。そうなったらお金なんていくら持ってても仕方ないのにね。だからこそ、僕はまだ死ぬわけにはいかないんだ。最低でもサイクルシティの開発を受け継いでくれる後継者を育てるまではね」
 性格は陽気でも決して楽観的ではなく、この社会の問題を深刻に捉えているようだ。
 やはりこの人には先見の明がある。
 僕はさらに聞く。
「そういえば、都市開発を始めたのが二十年も前ということは、構想を練ったのは市長ではありませんよね?」
「そうだね。当時、僕はまだ学生だったからね」
「ではどなたが?」
「僕の父親だよ。僕はそれを受け継いだに過ぎない。だから、君が求めている『人類をより良い方向へと導くためのヒント』をあげることなんて、僕にはできないんだ。ただ一つ僕が言えるのは、『答えは君の中にある』ってことくらいかな」
「僕の中に?」
 どういうことだ? 
「君、歳はいくつ?」
 市長が唐突に聞いてきた。
「二十二歳です」
「じゃあ、君がこの時代にまだ生きてるとしたら六十二歳。……うん、ぴったりだ」
「何のことですか?」
「君の名前、明季っていうんだろ?」
 突然言い当てられ、身体がビクンと跳ねた。
「どうして、わかったんですか? 名前は言ってないのに……」
「え、今の会話の流れでわからない? う〜ん、母さんが言ってたとおり、そういうところは抜けてるようだね」
「そう言われても……」
 わからないものはわからない。
 市長は、「やれやれ」と呆れ顔をする。
「しょうがないな、父さんは」
「……父さん?」
「そうだよ、野川明季は僕の父親だ」
 父親……! まさか、そんな偶然が。
 いや、でもそれなら、なんとなく似ているのも頷ける。
「失礼ですが、市長は今おいくつですか?」
「ん、僕は今、三十八歳だよ」
 この時代に僕が生きているとしたら六十二歳。その差は二十四。
 親子の年齢差としてはおかしくない。
 だとしたら、本当にこの市長が僕の息子だとしたら、このミッションはもう――
『明季、そろそろミッションを終了しましょう』
 アイシャも気付いたか。
 そう、ここに答えはない。
 市長の思想は、他でもない僕から受け継いだものなのだから。
 急激に肩から力が抜ける。どうやら勘は外れていたようだ。
「もしかして、もう帰っちゃうのかな?」
 市長は寂しげな表情をした。
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「勘だよ。なんとなくそんな気がするんだ」
「そっか……」
 勘の鋭さは僕に似ていないようだ。
「今回のミッションは失敗だな。さすがに、そう簡単に答えは見つからないか」
 僕は一人ごちる。すると――
「まあ元気出してよ。詳しいことはわからないけど、今回はダメでも次のミッションでがんばればいいんじゃないかな」
 市長が陽気に励ましてくれた。その雰囲気は、やっぱり誰かさんと似ている。
「そう……ですね」
「それに僕だって、また父さんに会えて嬉しかったんだから充分意味はあったんだよ」
 市長の目は微かに涙ぐんでいた。
 その言葉から察するに、四十年後の僕はもう……。
『明季、これ以上の会話は好ましくありません』
 アイシャからの警告。
 そうだ。あまり自分の未来を知ってしまってはまずい。
「もう行きます」
「そうかい。それじゃあ、母さんによろしくな」
 次の瞬間、僕の意識は暗転した。


 気が付いたら暗闇の中に座っていた。
 この感覚も六度目だ。状況把握は早い。
 だが頭ではわかっていても、身体の感覚がすぐにはついてこない。
 まだ車のシートに座っている感じがする。
「明季、ミッション終了です」
 アイシャがヘルメットを外してくれる。
 毎度のことだが、この瞬間はまぶしさに目がくらむ。
「具合はいかがですか?」
「熱を出した時みたいに身体が重い。それから、乗り物酔いみたいな感覚も今までよりひどい」
「おそらく極度の緊張下で激しく動き回ったからでしょう」
「そういうものなのか?」
「そういうものだと今わかりました」
 アイシャは真顔で答えた。
「それも実験のうちか……」
 どうやら、アクセス後に掛かる負担はアクセス中に掛かった負担に比例するようだ。
「しばらくそのままでいてください。時間が経てば回復していくはずですから」
 そう願いたい。命を投げ出す覚悟はできていたものの、こういう地味につらい状況は想定していなかった。かえってつらい。ミッションを繰り返すうちに身体が慣れてくれればいいのだが。
「それにしても、まさかあの街の市長が未来の息子だったとはな。それに自分の未来を知ってしまった。こういう場合どうなる……いや、どうすればいいんだ?」
「それは、未来を忠実に再現すべきか、それとも未来を変えていくべきかという質問ですか?」
「……そうなるな」
 アイシャは言いにくいこともはっきり言う。ごまかしたり取り繕ったりしてはいけないと言ったのは彼女の方なのだから当然か。
 アイシャは一呼吸置いてから尋ねてきた。
「明季、わたしたちがなんのためにミッションを行っているか、お忘れですか?」
「未来を変えるためだ」
 即答する。
「でしたら、おわかりですね?」
「……」
「あなたと海さんは、結ばれてはならないのです」
「……」
 しばらくの間、アクセスルームが静寂に包まれる。
 アイシャは黙ったままこちらを見ている。
 僕は視線を外し、シートに首を預け天井を仰いだ。
 やはり海か……。
 あの陽気な性格からしてそうじゃないかと思っていたが、アイシャもそう思っているのなら間違いなさそうだ。
「どうして、市長の母親が海だとわかったんだ?」
「市長の性格や口調が、どこか海さんと似ていたので」
 アイシャは、僕が思ったのと同じことを口にしてきた。
 確かにあれはわかりやすい。
 アイシャが続ける。
「それに決定的なのは彼の年齢です。四十年後に三十八歳なら、彼が誕生するまであと二年しかありません。その間に恋仲になり、婚姻し、出産にまでいたるなんて、海さん以外に考えられますか?」
「まあ、ないだろうな」
 絶対ではないが、僕の交友関係から考えればほぼありえない。僕にとって同年代で親しい女性は海以外にいない。女性を紹介してもらえるようなつてもない。
 本当によく調べてある。
「とにかく、このことはすぐに所長に報告しますので、返答があるまでは誰にも話さないでください」
「……わかった」


 メディカルチェックを受けた後、僕はブリーフィングルームに戻った。
 今回のミッションの扱いについて、柳所長からの返答を聞くためだ。
 部屋にはアイシャがメイド姿のままで待っていてくれた。
「明季、よければ紅茶をお淹れしますよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「少し待っててくださいね」
 アイシャは微笑みながらカウンターの方へ歩いていった。
 やっぱり、この場所は落ち着く。
 それに心なしかアイシャの態度も柔らかくなった気がする。さっきまでのアイシャはなんだか冷たかった。ミッション中に気を張るのは当然だから仕方ないが。
 席に座り、紅茶を淹れるアイシャの献身的な姿を見つめる。
 そして、さっき彼女が言ったことを思い出す。

『あなたと海さんは、結ばれてはならないのです』
 
 よく考えてみれば、おかしな話だ。
 確かにあの市長は重要人物だが、だからといって人類の命運を左右するほどか? 
 僕と海が結ばれたくらいで世界が変わるものか?  
 現段階でそんなことはわからないはずだ。
 僕が知らない何かを知っているのか。それとも単なる嫉妬――いや、さすがにそれはないか。僕じゃなくて海を中心に考えてみたら……。
 もしかして、海がいなくなってはまずいのか?
 しばらくしてアイシャが戻ってきた。
 コトっと、ほのかに湯気の立つ紅茶を僕の前に置く。
「どうぞ」
「この香りはカモミールティーかな?」
「はい。カモミールには気持ちをリラックスさせる効能がありますので、今の明季にはちょうど良いかと」
 僕が平常心でないのもお見通しか。
 紅茶をゆっくり口に含む。
 ティーバッグ入りの安物と違い苦味が少ない。ホッと温まる落ち着いた口当たりだ。
「アイシャ、一つ聞きたい」
「なんでしょう?」
「海はテスターとしてどうなんだ?」
「逸材です」
 少し不明瞭な質問にも関わらず、アイシャは即答した。
 同時に、僕も確信を得る。
「やはりそうか。あんなことを言ったのは、海を手放したくないからなんだな?」
「そうです」
 また即答。隠し事をしないという約束はちゃんと守っている。
 もし予定どおり僕と海が結ばれるなら、海がテスターとして活動できるのは、あと一年程度になってしまう。市長が生まれてこなくなることより、テスターとしての海の活動が制限されてしまう方が痛手なのだろう。
 カモミールティーをもう一口含む。
 さっき心を落ち着かせる効用があると言っていたが、今の僕には無効果だった。
 胸の奥に苦々しさが込み上げてくる。 
 またか、ここでもそうなのか。
 小学校の時も、中学校の時も、高校の時も、大学の時も、みんな海を欲しがる。
 海の才能を欲しがる。
 でも、本人はそんなこと望んではいない。
 海は、ただ――
 いや、僕に海の気持ちを語る資格など……。
 頭に浮かんだ言葉を打ち消し、本題に入る。
「それで、柳所長からの返答は?」
「先ほどのミッションのことは、わたしと柳所長、それから映像を所長の代わりに確認した秘書以外には一切漏らさないでください。もちろん、ミッション映像は閲覧禁止です。それから……」
 アイシャは一呼吸置いてから、意を決したように言う。
「今後、海さんとは接触しないようにしてください」
「せっ……」
 言いかけて、口を紡いだ。
 結ばれてはならないどころか、会うことさえ禁止なのか。
 海とは、もう……。
 とてつもなく理不尽な話ではあるが、人類の未来がかかっている以上、僕個人の感情で反論などできはしない。
「……わかった」
 たっぷり間を置いた後、返事をした。
 それからテーブルに肘をつき、背中を丸め、下を向いたまま声を出す。
「アイシャ、もう一つ聞きたい。なんというか、その……僕のテスターとしての役割というのは、いったいなんなんだ?」
 昨日までは僕がテスターだった。僕だけが。
 しかし、海が参入してきた今、早くも状況が変わってきている。僕の立場も。
 しばらくの沈黙の後、アイシャは淡々と答えた。
「明季、あなたの役割は尖兵です。海さんがミッションを円滑に進めるための先駆けになってください」
 尖兵と言えば聞こえはいいが、要するに捨て石になれということか。
 だが悪くない。はっきり言ってくれたおかげで、かえって迷いがなくなった。
 そうだ、僕は最初からそのつもりでミッションに臨んでいたはずだ。
 海の才能を生かすことが人類の未来を変える最短距離だというなら、僕は――


 僕が着替えるために、アイシャは先にブリーフィングルームから出て行った。
 そして、着替えてから気付く。
 毎日スーツからスーツに着替えるのも面倒だ。これからは防弾スーツを着て出勤することしよう。夏はジャケットだけ置いていけばいい。
 柳所長は私服でもいいと言っていたが、ここはオフィス街だ。スーツを着ていた方が目立たなくて済む。
 時刻は十一時五十分。
 昼食の時間だが食欲もないし、帰ろう。
 僕は畳んだ防弾スーツを入れたビジネスバッグを手に、ブリーフィングルームから出る。
 それから、すぐ隣にある第二ブリーフィングルームの扉に目を向けた。
 今日から海が使うことになる部屋だ。
 今そこに海はいるだろうか。それとも食堂か?
 研究所は僕が海と接触することを禁止した。ならば、今後は研究所の中で偶然会ってしまうことがないよう時間調整をするはずだ。
 でも、それができるのは早くとも明日からだ。今日海は午前に出勤しているはずだから、今から研究所を出るまでの間なら偶然会ってしまう可能性はある。
 そしたら、なんて言おう。海はまだ何も知らないはず。普段通りでいいのか? 
 そうだ、何も僕の口から言う必要なんて……。
 少しの間佇んでいるうちに、第二ブリーフィングルームの扉が開いた。
「あ、明季」
 出てきたのは、海だった。
 やはり何も知らないような笑顔で駆け寄ってくる。
「明季、もうミッション終わったの?」
「うん」
「じゃあ、一緒にお昼食べに行こ?」
「ごめん、食欲がないんだ」
「そっか、残念」
 前にファミレスへ行った時と違い、海はあっさりと引き下がった。ミッションの説明を聞いて事情を理解したのだろう。
 地下一階から地上一階に着くまで一緒に歩く。
 それから、海は少しだけ寂しそうな表情で言った。
「じゃあ、無理せずしっかり休んでね。お腹空いたらちゃんと食べるんだよ?」
「わかってる」
「ほんとにわかってる?」
「ほんとだよ」
「そ。じゃあ、また明日ね」
 小さく手を振る海。
「うん。また明日」
 胸が締め付けられるような感覚を抑えながら、僕は別れの言葉を告げた。
 おそらくは、これが最後の……。
 やがて、海の後ろ姿が見えなくなる。
 今朝ここに入る時は、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。
 これも定めか。
 今生の別れというわけでもない。今はミッションに集中しよう。今は……。
 僕は迷いを振り切り、玄関に向かって歩き出した。
「明季、待ってください」
 不意に、背後からの高く柔らかな声がした。
 振り返ると、私服姿のアイシャが追いかけてきた。
 花柄の白いワンピースの上にベージュのカーディガンを羽織っている。
「アイシャ、お昼ご飯食べてたんじゃなかったのか?」
「いえ、まだです。ですから、もしよければこれからご一緒にいかがですか?」
 とても魅力的なお誘いだ。今でなければの話だが。
「ごめん、食欲がないんだ。家に帰って休むよ」
「そうですか……」
 アイシャは残念そうに視線を落とした。
 僕だって残念だ。それでも、今は一人になりたかった。
「じゃあ、また明日」
 そう言って踵を返す。
「待ってください」
 アイシャが僕の袖をつかんできた。
 トクンと心臓が跳ねる。
「すぐに済みますので、少しだけお話をさせてください」
 よほど大事な話なのだろうか。そう言われては断れない。
 僕とアイシャは玄関を出て、通行の邪魔にならないところでまっすぐ向き合った。
 アイシャは微かに表情を曇らせる。
「先ほどのミッション中のアクシデントについては、わたしにも責任があります。ごめんなさい。わたしがもっと早くリセットしていれば、こんなことには……」
 僕は首を横に振る。
「アイシャの責任じゃない。あれだけ苦労して、ようやく市長と話ができるところまで漕ぎ着けたんだ。リセットするのをためらってもおかしくはないよ」
 アイシャの表情が少しだけ明るくなる。
「そう言っていただけると助かります。でも、今回のアクシデントが明季に精神的な負担を掛けてしまうことに違いはありません。ですから、わたしにできることがあればなんでもおっしゃってください。ミッションに関係のないことでも構いません。なんでもしますので」
 なんでも――
 一瞬、邪な考えが脳裏をよぎるが、すぐに振り払った。
 馬鹿か、彼女は真面目に言っているんだ。
 僕は平静を装う。
「わかった、ありがとう。何かあった時は相談するよ」
「はい、いつでもおっしゃってくださいね」
 アイシャはそう言って穏やかに微笑んだ。
 その献身的な姿勢に、心の隙間が埋まっていくのを感じた。


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