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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第16回 八章 末路(前編)


 しつこく続いていた夏の暑さが消え失せ、ようやく秋らしくなってきた十月の中旬。
 世間ではお盆明けくらいから残暑残暑って言い出すけど、実際は九月だって夏のように暑いし、十月に入ってすら日中はまだまだ暑い。
 要するに、残暑って二ヶ月間も続くんだよね。地域にもよるだろうけど。クリスマス商戦だって二ヶ月も前から始まるし、日本人って気が早いんだか長いんだか。
 単に気持ちの問題かな。残暑って言い方すれば、とりあえずピークは過ぎたんだから、これからはどんどん涼しくなってくよ、もうちょっとだから我慢しようね、っていう。
 実際は一年の六分の一にも相当する長い期間なんだけど……。
 まあなんにしても、そんなしつこい暑さが鳴りを潜めたおかげもあって最近は調子がよかったりする。
 柴波の代わりに八十年後にアクセスしたあの日以来、いよいよ本格的にテスターとして活動するようになったあたし。
 連続アクセスというあたしの特性を生かしたミッションを任せてもらえるようになって、ちゃんと仕事をしている実感ができるようになった。
 人間やっぱり働かなきゃね。
 それもお金を稼ぐためだけじゃなく、世のため人のためにね。
 もう一つ。いつもあたしのことを支えてくれる人がいる。
 高羽京次。キョウ。あたしの専属ナビゲーター。
 高身長、スマート体型で優しそうな顔をした四つ年下の男子(といっても、見た目も中身も完全に大人だけど)。
 あの時、あたしがブリーフィングルームを飛び出して以来、それまで要人待遇のお客様と接するようだったキョウの態度が変わった。エーステスターではなく、あたし自身を気にかけてくれるようになった。
 優しい言葉だけでなく、苦言も呈してくれる。ダメなものはダメと言ってくれる。
 何でもわがままを聞いてくれる召使ではなく、対等なパートナーになってくれたことが嬉しかった。
 ちょっと口うるさくなった部分もあるけど……。
 そんなこんなで、近頃は研究所に来るのが楽しみになってきた。もう人生で一番充実していると言っても過言じゃないかな。ほんとにテスターになってよかった。
 ここ最近は研究所で着替えるのが面倒だから、家で防弾スーツを着て出勤するようになった。これで見た目も気分も本物の社会人だ。
 あたしはもう、引きこもりでも看板娘でもない。れっきとした研究所の一員だ。
 さーて、今日もお仕事がんばるぞっと。
 もう午後二時だけどね。


 第二ブリーフィングルーム。
 夏仕様から冬仕様に変わった執事姿で、キョウがコーヒーを淹れてくれる。
 すっきりしたベストタイプもよかったけど、やっぱり執事姿といえばジャケットを着たタイプがスタンダードだね。
「どうぞ、本日のお飲み物はホットのソイラテです」
 普段淹れてもらうコーヒーとは少し違う香りがする。
 見た目はカフェラテと同じだけど……。
「これ何が入ってるの?」
「豆乳です。ミルクの代わりに豆乳を使いました。お豆腐が好きな海なら、きっとお口に合うと思いまして」
「へえー」
 一口飲んでみる。
「あ、おいしい」
 ちょっと癖があるから人によって合う合わないはあるだろうけど、あたしはこういうの好きだ。
 もう一口飲む。
「ふうー、温まるね。それになんだか身体によさそうな味」
「豆乳の元は大豆ですからね。タンパク質、ビタミン、鉄分を豊富に含んでいますし、疲労回復にも効果的ですので、今の海にはピッタリと思い用意しました」
 おいしさだけでなく健康にも気を遣ってくれるなんて優しいなぁ。
 あたしはゆっくり味わってソイラテを飲む。
 身体にいいものを飲むと、なんだかいいことした気分になるよね。
「ところで、海にお尋ねしたいことがあります」
 不意にキョウの顔色が変わった。心配そうな表情を向けてくる。
「どしたの?」
「海はいつも食事をどうしているのですか? 自炊はしていますか?」
 なんだろ、急に? 
 あたしは首を少し捻る。
「う〜ん、実家からお米を送ってもらってるからご飯はたまに炊くけど、大抵はお店で買ってくるか、宅配頼むか、外に食べに行くかのどれかだね。でも、なんでそんなこと聞くの?」
「気を悪くしないでくださいね。どうも最近、お顔の肌荒れが目立つようになっていますので」
「ぅ……」
 化粧でごまかしたつもりがバレてる。
「もしや食生活に問題があるのではないかと心配しています」
「そ、そんなことないよ? ちゃんと野菜も食べてるし」
「本当ですか?」
 キョウがじーっと見つめてくる。
「うん、本当だよ」
 今、目を逸らしたら絶対疑われる。あたしはがんばってキョウの目を見続けた。
 嘘は言ってない。
 ちょこっとではあるけど、お弁当に付いている野菜は残さず食べている。ピザと一緒にサラダを頼むこともある。そもそも、ケチャップやソースに野菜が使われているのだから野菜は摂ってる。
 キョウは心配そうな表情を変えずに言う。
「前にも言いましたが、食事は健康管理の基本です。ミッションの負担が以前より増していますので、もっと自己管理に気を配っていただかなくては困ります」
「う、うん……」
 やっぱりバレてる。
「肌が荒れているということはビタミンが不足している証拠です。もう少し多めに野菜を摂るよう心掛けてください」
 またキョウの小言が始まった。最近多いなぁ。あたしを想ってのことだから嬉しくはあるんだけど……。
 なんにしても、ナビゲーターの至極まっとうな意見を突っぱねるわけにはいかないので、一応少しは譲歩する姿勢を見せてみる。
「じゃあ、ご飯はなるべく自分で炊いて、おかずはスーパーのお惣菜を買ってくるっていうのはどうかな? それなら野菜もいっぱい摂れるし」
 お惣菜コーナーになら、筑前煮とか、ひじき煮とか、かぼちゃ煮とか、けっこういろんな種類の野菜がある。メインにこれを足せばバッチリだね。
 と思ったんだけど、それでもキョウの顔色は変わらない。
「お言葉ですが、毎日お惣菜コーナーの野菜というのはお勧めできません。できる限り生のお野菜を買って、自分で調理することをお勧めします」
「えー、なんで?」
 理解しがたい忠告に、あたしは眉を寄せて反発する。
「すでに作ってあるものが売ってるのに、どうしてわざわざ作る必要があるの? 時間かかるし、手間かかるし、生ゴミも出るし、材料買って自分で料理するメリットがまるで見当たらないよ」
「確かに、自炊にも多少のデメリットはありますが、それを補って余りあるメリットがあります」
「それってどんな?」
 少し投げやり気味に聞くと、キョウはピンとした姿勢で説明を開始する。
「まず、食費の節約ができます。それから、添加物等の身体に悪い成分の摂取量を大幅に減らすことができます。調理済みの食品には大量の添加物が使われていたり、使用する油が粗悪であったりすることが多いのです。また、材料も新鮮なものでなく消費期限切れ寸前のものが使われていますし、冷めてもおいしくいただけるよう味付けが濃くなっています」
「そ、そうなんだ……」
 詳し過ぎる。料理が趣味とかいうレベルを超えてるな。
 講義は続く。
「それに対し、自炊であれば材料や調味料など身体に良いものを自分で選ぶことができます。加えて、自分で考え料理することが脳の活性化にもつながります。そしてなにより、料理ができるようになれば、大切な人に想いのこもったごちそうを振舞ってあげることができます。こんなに素晴らしいことはありません」
「そ、そうだね……」
 ううう、まぶし過ぎる。単に趣味というだけじゃなく、こんなに純粋な想いがあったなんて。こんなの反論できるはずがない。
「あ、あたし、がんばってみるよ」
 そう言うと、キョウはパァと目を輝かせてくれた。
「ご理解いただけて嬉しいです。もし一人で難しいのであれば、遠慮なくおっしゃってくださいね。私でよろしければお手伝いしますので」
「う、うん、ありがと。機会があったら相談するね」
 こうなると、まるっきり何もしないわけにはいかないし、なんとかしなきゃなぁ。
 でも、できるかな……。

 
「そろそろ時間ですね。ミッションの説明に移りましょう」
 料理の話をしているうちに、ティータイムは終わりを告げた。
 キョウはもう気持ちを切り替えているみたいだ。
 あたしも切り替えよう。
「まずはこちらの画面をご覧ください」
 キョウがリモコンを操作すると、壁に設置された大型モニターに、あたしより少し年上くらいの真面目そうな男性が映った。
「誰この人?」
「今回のターゲットである金城氏です」
「え、ターゲット!? それって、あたしがやっつけるの?」
 キョウは苦笑しながら首を横に振る。
「いえいえ、やっつけるのではなく尾行していただくのです」
「なんだ、尾行かぁ」
 また早とちりした。人の話は最後まで聞かなきゃダメだね。
「それで、この人を尾行してどうするの?」
「順を追って説明しますね。まず、今回アクセスしていただくのは四十年後の世界。目的は彼、金城氏から情報を引き出すことです。ですが、彼は政治家秘書として多忙な日々を送っているため、突然話しかけても応じてもらえるかどうかわかりません。そこで海には、彼と二人でじっくり会話ができる機会を探っていただきたいのです」
「なるほどね」
 いつ訪れるかわからない機会を見つけるには、何十回でもリトライできるあたしが適任だ。もし見つかったり怪しまれたりしてもリセットすればいいだけだから気楽だし、アクセスし直すことで場所や時間帯を変えることもできる。
 明季や柴波じゃ、運が悪いと一日中見張ってなきゃいけなくなるからね。
「それで、その秘書さんから何を聞き出せばいいの?」
 キョウは首を小さく横に振る。
「いえ、その役目は野川さんが担当しますので、海は会話をする必要はありません」
「それって、あたしじゃ荷が重いってこと?」
 だとしたら少し傷付く。
「そうではなく、そもそもこのミッション自体、野川さんからの依頼なのです」
「明季からの?」
 そんなの初めてだ。そんなのありなんだ……。
 いや、ありか。別に禁止されてるわけでもないし。
 むしろ、どうして今まで気が付かなかったんだろう。場合によっては、あたしから明季や柴波に何かを依頼したっていいんだ。
 キョウが続ける。
「詳しい事情は聞いていませんが、アイシャさんの話から察するに、どうやら野川さんは彼と会ったことがあるようです。情報が引き出せると確信しているのも何か根拠があってのことでしょう」
「そっか……」
 画面に映った男の人をもう一度よく見てみる。
 なんとなく柴波を少しだけ柔らかくしたような雰囲気の人だ。この時代、これだけ背が高くてがっしりしている人はめったにいなし、一度でも関わったならそうそう忘れないと思うんだけど……。やっぱり見覚えがない。
「会ったことがあるなら記録に残ってるはずだよね。あたしこの人、見たことないんだけど。キョウは見覚えある?」
「いいえ、ありません。ですから、もし野川さんが彼と会っているとしたら、閲覧禁止になった例のミッションではないかと思われます」
「それかぁ……」
 あたしが明季と会えなくなるきっかけになったミッション。ろくに事情を説明してもらえなかったから、未だに真相を知らない。
 肝心なことは教えてくれないのに、こういうミッションはやらせるんだ。
 まあ仕事だからやるけど。
「で、具体的にどうすればいいの?」
「まずは彼の所属する選挙事務所を探し当てます。それから、彼が仕事を終えて事務所から出てくるまでひたすら見張ってください。その後、彼を尾行して会話ができそうな機会をうかがいましょう」
「うわぁ、地味につらそうだな」
 特にひたすら見張るところが。
「それは仕方ありません。どうか辛抱なさってください」
「うん。でもさ、事務所はどうやって探すの? 金城って人は秘書なんだから、候補者の名前がわからないと探せないよ?」
「いえ、候補者の名前はわかっています。姓だけですが」
「なんていうの?」
「野川です」
「……」
 ブリーフィングルームが沈黙に包まれる。
 野川ねぇ。なーんかキナ臭くなってきたぞ。
「まさか未来の明季じゃないよね?」
「さすがにそれはありません。ですが、関係者である可能性は高いと思います」
「だよねぇ」
 どういうつもりだろ、あたしにこんなミッションさせるなんて。下手すると明季の子孫に会っちゃうかもしれないのに。
 この金城って人が持ってる情報がそこまで重要なのかな。
 もしくは偶然同じ名字なだけ? 
 ワケわかんないな。……ま、いっか。
「それで、どうやって事務所を探すの? 交番で聞く?」
「いえ、タクシーに乗って行き先を告げれば連れていってくれますよ」
「あ、そっか」
「もちろん、料金支払いの際にトラブルが発生するといけないので、目的地に着いたら一度リセットします」
 四十年後の世界でも現代のお金が使えるのは今までのミッションで確認済だ。ただし、どの紙幣も肖像画の違う新札に変わっているので、店によっては旧札が使えないとか自動発券機が読み取ってくれないとかいうトラブルも多々発生した。
 何度でもアクセスできるあたしの場合、リセットした方が早い。
「でもそれだと、無賃乗車になっちゃうね」
「それは仕方がありません。どのみちリセットすればすべてなかったことになりますから、気に病むことはありませんよ」
 キョウは優しく言ってくれる。
「それはわかってるけど、なんとなく悪いなぁって気持ちになるんだよね。やっぱダメかな、もっと割り切らなきゃ」
「いいえ、そんなことはありません。それは海が優しい証拠です。その気持ち、いつまでも忘れないでくださいね」
「うん」
 データ世界の人間だからどうなってもいいなんて、少なくともあたしには考えられない。あの人たちはあの人たちで生きているのだから、できる限り迷惑をかけずにミッションを進めたい。
「説明は以上になりますが、何か質問はありますか?」
「ううん、大丈夫だよ」
「では、アクセスルームへ移動しましょう」 
 いつもながら狭くて無機質なアクセスルーム。
 ゆるいミッションをやっていた頃と違い、今はけっこう緊張する。でも遊びじゃないんだから、ある程度の緊張感はあって当然。その方が終わった時に達成感があっていいとまで最近は思えるようになってきた。あたしもすっかり大人だね。
「それではミッション開始します」


 アクセスポイントは駅近くの路地裏。時刻設定は午後五時。
 周囲に異常がないことを確認すると、あたしはさっそく駅のタクシー乗り場に向かった。
「今選挙に立候補してる野川って人の事務所までお願いできますか?」
「わかりました」
 特に怪しむ様子もなく答えてくれたのは、四十代くらいの女性運転手さん。
 タクシーの後部座席に乗り込み、シートベルトを着用する。
 その後、タクシーは音もなく発進。
 少し注意してないと、いつ発進したのかわからないくらい振動が小さかった。
 さすが四十年後の電気自動車だな。快適快適。
 あたしもハイブリットカーじゃなくて電気自動車にすればよかったよ。
 ……あ、無理か。マンション住まいじゃ充電するところがないな。早く設備を普及させてほしい。
 走行中の車内はとても静か。運転席と客席は透明な板みたいなもので仕切られているけど(たぶん防犯上の理由で)、会話に支障はない。
 というわけで、さっそく情報収集を開始する。
 運転手さんの話によると、今行われている選挙は都知事選で、野川候補の下の名前は春≠セという。
 野川春は今のところ最有力候補で、運転手さんも支持しているとか。
 特に若い世代からたいへんな支持を得ているらしい。
 約十五分の会話で得た情報はこんなところ。
 都心から少し離れた郊外でタクシーは止まる。
 到着したみたい。
 窓の外を見ると、オフィスビルの一階部分が選挙事務所になっていた。
 小さいけど野川春≠ニ書かれた看板がある。
 ここで間違いない。
「お客さん、お支払いはカードか現金のどちらになさいますか?」
 ギクッ! 
「お客さん?」
 運転手さんが怪訝な表情でこちらを見てくる。
「あ、ええと、その――」
『リセットします』
 キョウの声の後、あたしの意識は暗転した。


 事務所の位置が特定できたということで、再びアクセス。
 時刻設定はさっきと同じ午後五時。
 選挙事務所はなるべく近隣住民の迷惑にならないところに設置するのが原則とはいっても、人通りが全くないわけじゃない。
 この近辺を見て回ったけど、どこにも事務所を見張るのに適した場所がなかった。
 これどうやって見張れっていうの……。
『仕方ありません。とりあえず堂々と見張りをして、声をかけられたりしたら、その都度リセットしましょう』
 まさに、あたしならやってできないことはない苦肉の策だ。
 そうしてアクセスを繰り返すこと七回。
 見張りを初めてから二時間が経過し、時刻は夜七時を回っていた。
 空はもう暗い。
 何度か金城さんの姿がチラッと見えたから、事務所内にいることだけは確かだけど、出てくる気配は未だにない。
 ひょっとしたら深夜まで働くのかも……。
 それどころか事務所に寝泊りする可能性すらも……。
 いい加減うんざりしてきた。
「ねえ、キョウ。こんなところで見張ってるより、いっそのこと突撃した方がよくない? どうせいつ帰るかなんてわかんないんだし」
『ですが、突撃した後どうするのですか。何か策でも?』
「う〜ん、それは……」 
 考えてなかった。
「でも、とりあえず突撃しちゃえばなんとかなるよ。あ、そうだ、本人に直接聞けばいいんじゃない。何時に帰るんですかって」
『そんな無茶な……!』
「別にいいじゃん。どうせリセットすれば記憶に残らないんだし。それとも、あたしの記憶に残っちゃまずいことでもあるの?」
『それは……』
 そこまで無茶を言っているわけでもないのに、キョウは言葉を詰まらせてしまう。
 やっぱりね。こんな回りくどいことさせてるのは、きっとあたしを野川春に会わせないためなんだ。これで春が明季の関係者なの確定だね。
 まったく、会わせたくないなら初めからこんなミッションやらせなきゃいいのに。研究所もずいぶん綱渡りするんだなぁ。
 とにかく、これ以上じっと待つなんて我慢できない。
 ここは柴波を見習って突撃だ!
 そう思って動きだそうとした時、背後から声をかけらけた。
「君、ここで何をしてるのかな?」
 驚いて振り向くと、そこにはグレーのスーツ姿の小柄な男性が。
「もしかして、うちの事務所に用事かな?」
 え、あ、金髪?
 はじめに、穏やかで真面目そうな口調とは不釣合いのサラサラな金髪に目がいった。
 それから、少しつり上がった目。小柄な割に狭くない肩幅。
 明季――と一瞬思ったけど違った。明らかに四十歳近い中年男性だ。
 でも似てる。すごく明季に似てる。他人とは思えない。
 こ、この人だ! この人が野川春に違いない! 
 年代からすると明季の……子供? でもなんで金髪? 
 ビジュアル系政治家でも流行ってんの?
「あ、あ、あの!」
 あたしはとりあえずお辞儀をする。
「あたし、三波空(みなみそら)っていいます。実はあたし、金城さんに用事があるんです!」
空≠ヘ、あらかじめ考えておいたあたしの偽名。明季の関係者なら未来のあたしを知っている可能性もあるから本名は避けておいた。
「金城君なら事務所にいるよ。案内してあげるから付いておいで」
 ふわわわわ! 会っちゃった。野川春に会っちゃったよ。
 あと今さら気付いたけど、彼のそばにもう一人、スーツ姿のいかつい男性がいた。
 ボディーガード? それとも金城さんとは別の秘書さんかな?
 あたしはおろおろしながら彼らに付いていく。
 っていうか、リセットしないの?
「……キョウ」
 前を歩く春に聞こえないよう、小声で呼びかけてみる。
『海、落ち着いてください。ミッションはこのまま続行します』
「え、でもそれって命令違反じゃ?」
『海には真実を知る権利があると思います。それに、私も彼のことが気になりますので』
 決意のこもった口調だ。
 キョウ、あたしのために……。
 よーし、こうなったらとことん調べてやるぞ! 
 後で一緒に怒られようね。

 
「あ、お父さん、おかえりなさい」
「ただいま、マヤ」
 わ、何この可愛い子。
 事務所に入った途端、またまた驚いた。
 そこに西洋のお姫様みたいな女の子がいたからだ。
 緩いウェーブのかかったプラチナブロンドの長い髪。綺麗な色白の肌。年齢は十四、五歳で、選挙事務所にはちょっと合わないベージュのふわふわワンピースを着ている。
 春のことお父さんって呼んだけど全然似てない。西洋人のお母さん似なのかな。
「こんばんは」
 女の子が笑顔であいさつしてきた。
「こ、こんばんは」
 あたしは少し顔を引きつらせてしまった。
 たとえ子供でも外国人に声をかけられると気後れしてしまう悲しき習性……。
 春が言う。
「ここで座って待っててくれるかな。今、金城君を呼んでくるから」
「はい、お願いします」 
「マヤ、お客さんにお茶をお出しして」
「はーい」
 春が部屋を出ていって、あたしは女の子と二人きりになった。
 席に座り、お茶の用意をする女の子の後ろ姿を見て思う。
 なんとなくアイちゃんと似てるな。同じ金髪の白人だからそう見えるだけ……なわけないか。日本人の金髪お父さんに西洋人の金髪娘。
 いったいどうしてこうなったんだろう?
 いくらなんでも、政治家があんなふうに髪を染めるはずないよね。
 となるとあれは自毛。つまり、あの人の母親は――
 そんなの一人しか思いつかない。
 明季は、アイちゃんと……。
「どうぞ」
 柔らかな声の後、目の前に湯呑が置かれた。
 おっと、今はミッション中だ。気持ちを切り替えなきゃ。
「ありがとう」
 まずは温かいお茶を飲んでホッと一息つく。
「ええと、マヤちゃんだっけ。ここにはお父さんのお手伝いで来てるのかな?」
「はい、そうですよ。お姉さんは金城さんのお知り合いですか?」
「ええと、それはね……」
 
『友達に伝言を頼まれたことに』
 
 あたしが答えに詰まると、キョウが早口でフォローしてくれた。
「あたしが知り合いってわけじゃなくてね、あたしの友達から金城さんに聞いて欲しいことがあるって頼まれたの」
「そうだったんですか。よかったぁ、てっきりストーカーさんかと思いましたよ」
 無邪気だけど、はっきりとした物言いに心臓がドクンと跳ね上がる。
「え……あ、もしかしてさっきの、見てた?」
「はい、ここの二階から」
 は、恥ずかしい。端から見たらあたし、一人で騒いでるように見えたんだろうな。
 あたしはマヤちゃんに向かって手を合わせる。
「ごめんね、まぎらわしくて。その……事務所の前まで来たはいいんだけど、どうしたらいいかわかんなかったの」
「いえ、気にしないでください。ちょうどいいタイミングでお父さんが帰ってきてくれてよかったです」
 ほんとよかったと思う。深く追及してこなくて。
「ところでマヤちゃん、日本語上手なんだね。日本人と全然変わらないくらいだよ」
 するとマヤちゃんは、「いえいえ」と首を横に振る。
「上手も何も、わたしは日本語しか話せませんよ」
「え、そうなの?」
 どう見ても西洋人なのに。
「はい。わたし、見た目はこんなですが、れっきとした日本人なんです。マヤって名前にもちゃんと漢字がありますよ。真剣の真(しん)に、夜(よる)と書いて真夜です」
「へえー、そうなんだぁ」
 そう言われて、ちょっと親近感が湧いてきた。ただ日本語が話せるのと漢字を知っているのとではずいぶん印象が違う。
「お姉さんはお名前なんていうんですか?」
「あたしは三波空っていうの。空の字はお空の空ね」
「可愛い名前ですね。空さんって呼んでもいいですか?」
「うん」
 偽名だけどね……。
 マヤちゃんの純粋な笑顔が心に突き刺さる。
 その時、ガチャリと音を立てて事務所の奥のドアが開いた。
 春が戻ってきた。
「ごめんね。金城君、今は手が離せないんだ。もう少しだけ待ってくれるかな」
「はい、大丈夫ですよ」
 それから、春はマヤちゃんに言う。
「悪いけど、僕にもお茶を頼むよ」
「はーい」
 マヤちゃんはまたお茶を淹れにいった。
 そして春は――
「ふうー、今日も疲れたな」
 あたしの正面の席に座った。
 予想外のシチュエーションに心臓が跳ねる。
 野川春が、あたしと明季が会えなくなったきっかけになったかもしれない人物が今、目の前に。
 こ、これって、もしや大チャンスなのでは?
 な、何か聞かなきゃ。でも何を?
 ええと、ええと――
「あ、あの、その髪って染めてるわけじゃないですよね?」
「うん、これは生まれつきだよ」
「じゃあ、ご両親は国際結婚を?」
「うん」
「もしかしてお父さん、明季って名前じゃないですか?」
「ん? そのとおりだけど……」
 春は少し表情を固くした。
 やっぱり、この人は明季の……。
「でもどうして、父の名前を?」
 春が不思議そうに尋ねてくる。
「あ、ちょっとした知り合いなもので」
「そうなんだ。そういえば昔、父の知り合いに三波って人がいたんだけど、もしかして君が……」
「はい、それです! あたしその子孫です!」
「え、子孫?」
 春はあっけらかんとした。
 あ、しまった。子孫なんて言い方はおかしいか。この場合、孫とか娘でしょ。
 いや、それよりこの話が続いちゃまずい。なんとかごまかさないと。
 春は目を開いたまま、じっとこちらを見つめてくる。
 まずい、バレたかな?
 ――コトン。
 静寂を破ったのは、テーブルに湯飲みが置かれた音だった。
「お父さん、どうしたの? そんな顔して」
 お茶を運んできたマヤちゃんが春の顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもない」
 春はお茶を一口飲む。
 マヤちゃんはキョトンとした後、テーブルから離れていった。
「君はおもしろい子だね」
 春が苦笑する。
「よ、よく言われます」
 あたしは恥ずかしくて、椅子の上で縮こまった。
 でもおもしろい子で済んでよかったぁ。
 よーし、こうなったら恥ずかしいついでだ。
「あの、もう一つ聞いていいですか?」
「ん、いいよ」
「お母さんのお名前はなんていうんですか?」
 すると、春の笑顔が少し訝しげな表情に変わる。
「ずいぶんと僕の両親のことを気にするんだね。何かワケありなのかな?」
 う、怪しまれてる。
 そりゃそうだ。金城さんに用があると言っておいて、春の両親のことばかり聞いていたら怪しいに決まってる。
 でも退かない。
「はい。とっても深いワケが」
「よかったら、そのワケとやらを聞かせてくれないかな?」
 く、負けないぞ。
 いくら大人になってるからって明季の子供に負けるなんて屈辱だ。
「そ、それは、お母さんの名前を教えてくれたら」
「じゃあ、母の名前を教えたら、僕の質問にも答えてくれる?」
「わかりました」
「それならお答えしよう」
 あたしはゴクリと固唾を飲んだ。
 ついに真実が明らかになる。
 研究所があのミッションを秘匿したのは、きっと明季の将来の相手がアイちゃんだとわかってしまったからだ。それで、あたしが嫉妬して暴れ出さないよう隠したとしか考えられない。この人の母親がアイちゃんなら、それで決まりだ。
 アイシャなら――
 
「アルメリア・ベルナドッテ。それが僕の母親の名前だよ」
 
 …………あれ? アイシャじゃない? どういうこと?
 明季はアイちゃん以外の西洋人と結婚したっていうの? 
 誰よ、アルメリアって?
「おや、期待はずれだったかな?」
 思いっきり期待はずれだよ! 
 なんて言えるはずもないので、あたしは言葉を濁す。
「あ、いえ、そんなことないですよ」
「それじゃあ、今度はこっちが質問する番だね」
 ワケがわからないうちに向こうのターンになってしまった。
「君はいったい何を調査してるのかな? どう見ても他陣営のスパイってわけじゃなさそうだし、今回の選挙戦とは全く別のことを探っているようだね。もっと重大な何かを」
 鋭い。だからといって正直に答えるわけにはいかない。
「いえ、そんな大げさな話じゃないですよ。あたし、友達に頼まれて金城さんに聞きたいことがあるだけなんです」
「わざわざ直接? その友達が電話で聞けばいいのに」
「はい。どうしても、あたしに聞いてきてほしいって頼まれたんです」
 ダメかな? 嘘はついてないんだけど。
 春は穏やかな顔でじっとあたしを見てくる。
 疑っているというより、まるで全部見透かしているような表情。
 いくら明季の子供とはいえ、やっぱり年の功が違う。
 もう限界かな……。
 仕方ない。キョウにリセットしてもらって再挑戦しよう。
 そう思った時――
「お父さん、ダメでしょ! そんなにしつこく聞いちゃ」
 少し離れたところにいたマヤちゃんが頬を膨らませてやってきた。
「もう、相変わらずお父さんは鈍いんだから。いーい、よく聞いて。空さんはね、金城さんのことが……」
 マヤちゃんは春に何か耳打ちした。
 あ、もしかしてこの子、あたしが金城さんのこと好きで、友達を口実に会いに来たと勘違いしてる?
 でもナイス勘違い! 助かったぁ。
「すまなかったね。これ以上詮索するのはやめておくよ」
 春はそう言って苦笑した。
 都知事選最有力候補も可愛い娘には頭が上がらないみたいね。
 ガチャリと音がして、また事務所の奥のドアが開く。
「お待たせしてすみません」
 スーツ姿の背の高い男性が入ってきた。金城さんだ。
「ご苦労だったね、金城君」
「すぐお弁当の用意をしますね」
 春とマヤちゃんが声をかける。
「こ、こんばんは」
 あたしは席から立ち上がり、お辞儀をした。
 ちょっと緊張する。
「こんばんは。三波さんでしたね。ご用件を伺いましょう」
 突然知らない人が訪ねてきたというのに、金城さんは落ち着いた様子だ。
 あたしも落ち着かなきゃ。
 当初の目的、当初の目的。
「あたし、金城さんにお聞きしたいことがあってきました」
「なんでしょう?」
「今日、何時に帰りますか?」
「え、帰る時間ですか?」
 金城さんは意外そうな表情で壁時計を見る。
 あたしも見た。
 午後七時三十五分。
「……そうですね。仕事はもう済みましたので、ここで夕食のお弁当をいただいてから帰るつもりです。食事のあと少し休憩して、ここを出るのは八時半くらいでしょうか」
 よし、時間がわかった。 
 それなら少し余裕をもって八時二十分くらいから見張ってれば充分だ。
「わかりました。ありがとうございます!」
 あたしは金城さんに対し深々とお辞儀をした。
 これで情報ゲット。後は帰るところを尾行して話ができそうなタイミングを見つければミッション成功だ。
 嬉しくて、顔を上げてからもニヤニヤが止まらない。
 数秒間の沈黙を挟み、金城さんが聞いてきた。
「え、それだけですか?」
「はい、それだけです」
 金城さんはもちろん、横に座っている春もお弁当を抱えてきたマヤちゃんもポカンとしていた。
 そりゃそうだよね。でも当初の目的だと、本当にそれだけなんだよね。
 さて、そろそろリセットされるかな。
『海、この際ですから、もっといろいろ聞いてみてください』
 えー、今さら? あたし、すでに変な目で見られてるんだけど。
『情報が多ければ、それだけ野川さんのミッションが円滑になりますので、お願いします』
 心読まれてるし……。仕方ない。
「あ、ごめんなさい、それだけじゃなかったです。あたし緊張して目的忘れてました」
 すると、いち早く冷静になったマヤちゃんが、
「まあ座って座って」
 と金城さんを促してくれた。
 勘違いはまだ続いてるみたいね。
 あたしは席に座わり、金城さんと向かい合った。
 それから、マヤちゃんが聞いてくる。
「よかったら、空さんもお弁当食べますか?」
「え、いいの?」
「はい、ちょうど一個余ってますから」
「じゃあ、もらおっかな。ありがとう」
 そろそろ小腹が空いてきたことだしちょうどいい。
 ここでいくら食べても現実の体には影響ないしね。
 マヤちゃんは四人分のお弁当とお茶を配り、あたしの隣の席に座った。
「いただきます」
 全員が手を合わせ、食前のあいさつをする。
 そうして食事をしながら、今度は何を聞き出そうかなと思ったところ……。
 とても話ができる雰囲気じゃなかった。
 三人ともピンと背筋を張り、黙って食べることだけに集中している。
 これ、明季と同じだ。しっかり教育されてるなぁ。
『仕方ありません。とりあえず海も食事に集中してください。話を聞くのはそれからということで』
 ま、せっかくだから未来のお弁当を堪能させてもらおうかな。
 弁当箱は竹製で大人の夕食にしては小さめだ。これも食料難の影響だろうか。
 フタを開ける。
 お弁当には秋の食材がふんだんに使われていた。
 まず主食は、舞茸としめじの炊き込みご飯。
 副菜は、レンコンと里芋の煮物と金平ごぼう。それと銀杏(ぎんなん)。
 そして主菜は驚くことに、割と大きめのハンバーグだった。
 うわ、確かこの時代ってお肉は贅沢品だったよね。やっぱり政治家だからお金持ちなのかな? いや、でも明季がそんな教育するわけ……。
 一口食べてみると、油気のないパサパサな食感だった。
 なんだ、大豆のハンバーグか。そんなことだと思ったよ。
 まあ、これはこれでおいしいけどね。
 それにしても最近やたら大豆と縁があるな。
 
 
 午後八時過ぎ。
 全員の食事と片付けが済んだ後、食後のお茶を飲みながら話を始める。
「金城さん、お名前はなんていうんですか。あたし、名字しか知らなくて」
「時矢です。金城時矢といいます」
「じゃあ年齢は?」
「二十五歳です」
 あたしは視線を横にずらす。
「ついでに春さんの年齢は?」
「え、僕? 三十八歳だよ」
「マヤちゃんは?」
「わたしは十五歳です。高校一年生ですよ」
 よーし、こっちも情報ゲット。
「ええと、金城さんの職業は春さんの……側近?」
 春とマヤちゃんが吹き出した。
 え、違うの?
「いえいえ、秘書ですよ。野川先生の第一秘書を務めています。それとボディーガードも兼任しています」
 あ、そっか、秘書だった。うっかり忘れてた。
 でも金城さんは笑わずにちゃんと答えてくれた。真面目な人だ。
 続けて聞く。
「ボディーガードってことは、やっぱり武道とか格闘技をやってるんですか?」
「もちろんです」
「それは、どんな?」
「総合格闘技ですね。打・投・極は一通り身につけています。それから武器術と射撃、爆弾の解体訓練も受けました。ありとあらゆる状況に対応できるようにしてあります」
「すごい! プロなんですね」
「そういう三波さんも、かなりの遣い手とお見受けしますが」
「え、わかるんですか?」
 あたしは驚き目を開いた。
 春とマヤちゃんも驚いていた。
 金城さんは言い当てたことを喜ぶでもなく、真顔のまま言う。
「はい。こうして座っているところを見るだけでも、三波さんの姿勢が非常に良いことがわかります。正しい姿勢を維持することは日本武道の基本です。拳だこや竹刀だこがないところからすると、合気道かそれに近い武道をやってらっしゃるのではないでしょうか?」
「あ、当たりです! 合気道です。でもどうして? いくらなんでも姿勢がいいってだけでわかるとは思えないんですけど」
 すると、金城さんはフッと穏やかに笑う。
「勘ですよ。なんとなくそう思ったので鎌をかけてみただけです。ですが、人を守る仕事には、その勘が大事なのです。目には見えなくとも、根拠がなくとも、勘だけで危険を察知する能力が」
「ま、外れることも多いんだけどね」
 春が苦笑しながら言うと、金城さんは少しムッとして返した。
「外れたなら外れたでいいんです。結果的に無事であることが大事なのですから。恥を恐れてためらっていたのでは手遅れになりかねません。何かが起きてから対処するのはあくまでも最終手段です。何も起こさないことが、ボディーガードにとって一番大事な仕事なのです」
「ごめんごめん、それはもちろん理解しているよ。僕だって武道経験者だしね」
「え、春さんも何かやってたんですか?」
「合気道だよ。父さんから習ってたんだ」
 そっか、明季が……。
 そうだよね。明季なら、自分の身は自分で守る方法くらい教えて当然だよね。
「それとね、昔何度か三波さんって人から教えてもらったこともあるんだ。あ、もちろん君じゃなくて父の知り合いの三波さんね」
 そ、それもしかして――
「その人、三波先生は僕が知る限りじゃ最高の遣い手だったよ。なにせ名人と呼ばれた父ですら歯が立たなかったくらいだ。ただ、人に教えるのは苦手みたいで、指導内容はいまいち要領を得なかったけどね。名前は確か、海さんだったかな」
 やっぱり!
 あたしは椅子の上で仰け反った。
 すると、春が得意気に言う。
「ふふ、その様子だと、やっぱり君は三波先生のお孫さんのようだね」
 いや、違うんだけどね。本人なんだけどね。
 でも、この時代の人が導き出せる答えとしてはほとんど正解だ。
「さ、最初から気付いてたんですか?」
「もちろん。じゃなきゃ事務所に入れたりしないよ」
 春はそう言ってにんまり笑った。
「うう……」
 はめられたわけじゃないけど、はめられた気分だ。
 でも、考えてみれば当然のことだ。治安の悪化したこの時代で、政治家みたいに大勢の人々の生活を左右する人が、その程度の危険意識を持っていないはずがない。
 この事務所が外から見張りづらい位置にあるのも偶然じゃなかった。いつの間にかいなくなっていたけど、春が外から戻ってきた時ボディーガードらしき人もいた。
 それに今の今になって気付くなんて、未熟だな、あたし。
「ところで、三波先生――おばあさんは元気にしてるかな?」
 春は真面目な表情で聞いてきた。
「はい。元気ですよ」
「それはよかった。まあ元気じゃないあの人なんて想像できないけどね。空さんは会社に勤めてるのかな? それとも就活中の大学生?」
「大学生です」
「今住んでる家はここから近いのかな?」
「ええと、まあ近いです」
「そっか。三波先生のお孫さんが近くにいたなんて、これも何かの縁かもしれないな」
 春は一度マヤちゃんの方を見てから言う。
「空さん、もしよければ時間に余裕のある時だけでいいから、この子に合気道を教えてやってくれないかな?」
「え……」
 あたしはとっさに返事ができず、声を詰まらせた。
「僕が教えてあげられればいいんだけど、なかなか時間がなくてね。もちろんタダでとは言わないよ。アルバイト代は出すから」
「ぜひお願いします! わたし、練習がんばりますから」
 春に続いて、マヤちゃんもお願いしてきた。
「あ……ぅ……」
 何この展開……。
 ほんとだったら喜んで引き受けたいのに、そんなことできるはずない。
 どうすればいいの……?
『海、ここは引き受けると言ってください』
 キョウのフォローが入る。
 そうだ、この場は嘘を言ってやり過ごすしかない。
 でも……言いたくない!
「ご、ごめんなさい。あたし、そういうのは……無理です」
 あたしはうつむき視線を落とした。
 春とマヤちゃんが残念がる顔は見たくなかった。
 それでも、声だけは聞こえてくる。
「そっか、無理なら仕方ないな」
 あたしを傷付けないよう、優しく言ってくれる春。
「合気道の練習は無理でも、今度空さんの家に遊びに行ってもいいですか?」
 何一つ悪気のないマヤちゃんの言葉が、あたしの胸に深く突き刺さった。
 なにこれ、苦しいよ。
 あたし、せっかくこの人たちと……。
『海、もう充分です。リセットします』
 キョウの声に、あたしは大きく目を開く。
 ウソ、これでお別れなの?
「わたし、空さんと――」
 次の瞬間、あたしの意識は暗転した。
 マヤちゃんの言葉は最後まで聞き取れなかった。
 


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