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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第14回 七章 暴挙(前編)


 VFシステム開発研究所は、次世代の人々に住みよい環境を残すことを目標として活動している。もちろん、この場合の環境≠ニは便利で豊かな生活環境ではなく、ゴミや汚染物質に悩まされることのないクリーンな地球環境を指す。
 人類は、その過剰なまでの経済活動によって数十年後には自滅の危機を迎えようとしている。そんな危機的状況に陥った未来を仮想体験することで、人類がこの先歩むべき道を探し出すのが研究所の活動目的だ。
 当然の如く、そんな活動をする僕たち自身が浪費生活をしていては話にならない。
 研究所の所員は皆、誰に言われるでもなく自分の生活態度には気を配っている。
 電気、水、ガソリンの節約はもちろんのこと、高価なブランド品を見せびらかしたり、ギャンブルにはまったり、浴びるほど酒を飲むような所員は一人としていない。
 ストレスケアの観点から住居だけは高価な物件を与えてもらっているが、だからといって部屋が物で溢れかえるような生活はしていない。高額な契約金も、使うべき時は使い、余分な物は極力買わないよう心掛けている。
 そんなわけで、現在僕が住んでいるマンションの一室は非常に飾り気がなく、生活必需品以外の物はあまり置いていない。 
 あるものといったらパソコンとお気に入りの地球儀。
 それから本。本だけは勉強のために金を惜しまず買っている。
 実家から持ってきた本も合わせるとかなりの冊数になるので、今では2LDKの一部屋が書庫に近い状態になっている。もうそろそろ読まなくなった本を古本屋に持っていかないと入り切らなくなりそうだ。
 午前八時二十分。いつもどおりの時間に家を出る。
 天気は快晴。
 朝方はだいぶ涼しくなってきたが、日中はまだまだ夏のように暑い九月の中旬。
 VFシステムによるミッションが始まって早五ヶ月が経っていた。
 これまでに七十回以上のアクセスを行ってきたが、疲労はそれほど溜まっていない。
 柴波との一日交代制、それから優との二人アクセスによるダメージ軽減のおかげだ。
 もし、当初の予定どおり僕一人でミッションを進めていたら今頃どうなっていたか。
 想像しただけでもゾッとする。
 マンションから出た後は徒歩でバス停に向かう。
 車は持っていないので、移動手段は徒歩と公共交通機関だ。
 大学時代に取得した運転免許は無駄になってしまうが、できればこの先も車なしの生活をしたいと思っている。車があれば便利は便利だが、事故のリスクが怖いし排ガスも発生する。この地方なら都心ほど混雑しないので、公共交通機関の方が気楽でいい。
 徒歩数分とバス、合わせて二十分ほどで研究所に到着する。
 今日は優が来る日だ。先輩として恥ずかしくないよう、気を引き締めていこう。
 
 
 午前九時。
 地下一階の第一ブリーフィングルームに、アイシャ、優、僕の三人が集まった。
 僕は防弾スーツ、優は防弾制服をすでに着てきている。ただし、暑いのでジャケットやブレザーはミッションが始まるまでハンガーに掛かったままだ。
 アイシャは半袖のメイド姿だ。北欧出身のアイシャに日本の夏は堪(こた)えているはずだが、今日も笑顔で僕たちを迎えてくれた。
 研究所の方針で部屋にはエアコンの除湿機能だけを効かせてある。汗が垂れるほど暑くはないが、決して涼しいとは言えない。
 でもその分、アイシャが届けてくれるアイスティーが楽しみだ。
「どうぞ」
 僕には砂糖もミルクも入っていないストレートティー。
 優にはガムシロップとレモンが添えられている。
「ではお二人とも、しばらくの間くつろいでいてください。わたしは少し準備がありますので」
 アイシャはポニーテールをなびかせながらカウンターへ歩いていった。
 まずはアイスティーを一口。
 それから優に話しかける。
「優、体調はどう? この時期だと文化祭の準備とか忙しそうだし、疲れたりしてないかな?」
「ううん、全然」
 優は笑顔で答えてくれる。
 健康状態はもちろん、精神的にも問題はないようだ。初ミッションでいきなり深刻なトラブルに遭ってしまったので、その後どうなることかと心配していたが、それも杞憂だった。優はテスターとして立派にミッションをこなしてくれている。本当に強い子だ。
 続けて聞く。
「でも、平日は部活もあるんだろ? 大変じゃないか?」
「うちの稽古に比べたら部活は楽しいから、全然気にならないよ」
「そうなんだ。やっぱりお父さん、厳しいんだな」
「もう慣れたけどね」
 優は苦笑しつつ尋ねてくる。
「お兄ちゃんは部活とかやってたの?」
「いや、僕は合気道の道場に通ってたから、部活はやってなかったよ」
「そっか。合気道はいつ始めたの?」
「小学三年生の頃だな。それから大学卒業するまでずっと通ってた」
「ずいぶんやってたんだね」
 兄妹にしては不自然な会話だ。不幸にして生き別れにでもならない限り、妹が兄のやっている習い事を知らないはずがない。
 だが今は仕方がない。こうしてお互いを知ることで、より自然な会話ができるよう努めている最中なのだから。
 僕は頭の中で計算してから答える。
「そうだな、十二、三年はやってたことになるのか。でも、優だって剣道、そのくらいやってるんじゃないか?」
「そうだね。初めて竹刀を握ったのは四歳の頃だから」
「ずいぶん早いな」
「聞いた話だから覚えてはいないけどね」
「確か、小さい頃は嫌々やらされてたんだっけ?」
「ううん、嫌になったのは小学校に上がってからで、初めはすっごくはしゃいでたよ。竹刀をおもちゃ代わりにしてね」
「へえー。今の真面目な優からじゃ想像できないな」
「幼稚園の頃のわたしは、それはもう元気過ぎて手がつけられなかったみたいでね。でもある時、階段から落ちて腕を骨折して、入院して、手術までして。ケガは治ったんだけど、恐怖心が芽生えたせいか、それ以来すっかりおとなしくなっちゃって……」
「なるほど、ケガで性格が変わってしまったのか」
「うん……」
 優はほんの少しだけ表情を曇らせる。
「それにね、小学生になった頃から稽古が急に厳しくなってきたの。しかもお父さん、稽古の時だけじゃなくて普段まで厳しくするようになってきたから、そのうち嫌になってきて……」
 父親の威厳を保つためにあえて、だろうな。良い意味で古風な教育方針だ。優しさだけで人は育てられない。教育者たるもの、ある程度の畏れ≠ヘ必要だ。
 それを証明するように、優の表情は明るさを取り戻していく。
「でも中学生になってから団体戦に出場するようになって、わたしが勝たなきゃおしまいって場面が何度もあって。それがきっかけで、剣道は――ううん、武道は自分一人のためにあるんじゃないってことが少しずつわかってきたの。そしたらもう、剣道は嫌いじゃなくなったんだ」
「そっか、いろいろあったんだな」
 中学生で武道のなんたるかを理解するというのもすごいな。僕がそれに気付いたのは二十歳過ぎてからだった。
「それにしても元気過ぎる優かぁ。見てみたいな。映像とか写真とか残ってないのかな?」
「あ、あるにはあるけど……」
 優は恥ずかしそうに視線を逸らした。
 何気なく聞いたつもりだったが、そういう反応をされると俄然興味が湧いてくる。
 まともに頼んでも見せてくれそうもないので、ここはもっともらしいことを言う。
「決して興味本位とかじゃなくて、お互いの過去を知るのも兄妹設定を続けていく上で大事なことじゃないかなって思うんだ」
「えー、それでも恥ずかしいよ」
 ますます縮こまってしまう優。でも、はっきり拒絶はしていない。
「そういう恥ずかしい思い出を知ってるのが兄妹って間柄だろ?」
「それはそうだけどさ……。だったら、今度お兄ちゃんの昔の写真とかも見せてよ」
「いいよ。じゃあ来週、見せ合いっこしよう」
「う、うん。それなら」
 優はもじもじしながらも、笑顔で返事をしてくれた。
 ――と、唐突にその笑顔が凍り付いた。
 僕の顔ではなく、その斜め上辺りを凝視している。
 それを確かめる前に、背後から声がかかった。
「お話が弾んでいるようですね」
 振り向くとそこには――
「ア、アイシャ!」
 いつの間に! 話に夢中で気が付かなかった。
 アイシャはニコッと笑う。
「準備ができましたので、そろそろミッションの説明をしようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、ああ、もちろん」
 笑顔なのになんだ、この威圧感は?
 どこから聞いていたのか気になるところではあるが、尋ねる勇気はなかった。
「では、竹刀をおもちゃ代わりにする優の姿を見るのは来週のお楽しみとしまして、たった今から気を引き締めてくださいね、明季」
 そんなところから聞いていたのか!
 アイシャは僕の背後から、三人で三角形になる位置へと移動した。
 それから、優を見る。
「優、ミッション前のリラックスタイムは大切ですが、あまり気を緩め過ぎてはいけませんよ。ミッションはスポーツと違い安全の保証はありません。竹刀ではなく真剣で試合に臨む覚悟を忘れないでください」
「は、はい」
 優はカタカタと震えながら返事をした。
 アイシャの言うとおり、ミッションは真剣勝負と同じだ。
 そろそろ気持ちを切り換えなければなるまい。
「では、本日のミッションの説明を始めます。まずはこちらの画面をご覧ください」
 アイシャがリモコンを操作すると、壁に設置された大型モニターに白黒の地図が映し出された。
「この地図は八十年後の都心部を表したものです。海さんに上空撮影してもらった映像を元に作成しました」
 前に海が空中アクセスを行ったとは聞いたが、あれから何回もやらされているようだ。
 アイシャは続ける。
「中央で地図を二分する黒い線、それがホワイトエリアとグレーエリアの境界線です。ホワイトエリアは富裕層、グレーエリアは貧困層の住む区域です。そして、その境界は大きな壁によって隔絶されています。ここまではよろしいですね?」
 僕と優はコクッと頷いた。
「次に、同じ地点の四十年後の地図です」
 アイシャがリモコンを操作し、画面が切り替わる。
 さっきの地図と似ているが、中央にあった太い線がない。
「ご覧のとおり、この時点では壁はまだ存在しません。境界線の部分には国道が通っています。今回お二人に調査していただくのは、この国道を境にどのような変化が見受けられるのかという点です。現代のこの地区を解析班の方々に調査してもらったところ、特に目立った相違点はありませんでした。ですが、四十年後の世界であれば、なんらかの違いが見つかるかもしれません」
 以前、優と二人でさまよっていた時に気になっていたことだ。その時は非常事態の最中だったので近付かなかったが、システムの不具合が解消された今なら問題ない。
「説明は以上ですが、何か質問はありますか?」
「いや、大丈夫だ」
「わたしもです」
「では、アクセスルームに移動しましょう」
 僕は席を立ち、ハンガーに掛けてあったジャケットを着る。
 優もブレザーを着た。
 そして、それぞれ護身用の武器を持つ。僕は鉄扇、優はカーボン竹刀だ。
 すでに十回目となる優とのアクセス。
 通信不能になるような事態はあれ以来起きていないが、絶対に異変が起きないという保証はない。不安でないといえば嘘になる。
 でも、それは決して表に出してはならない。
 僕たちテスターを支えてくれる研究所のみんなのためにも。
 ツインテールをほどいた優に、アイシャがヘルメットを被せる。
 その後、僕も被せてもらう。
「時間帯は夕方の五時に設定します。お二人とも、準備はよろしいですね?」
 アイシャの声に、僕と優は同時に返事をする。
「それではミッション開始します」


 気が付いたら路地裏に立っていた。
 優も隣にいる。
 周囲に人の気配はない。
『明季、優、異常はありませんか?』
「特にない」
「こっちもです」
『では、行動を開始してください』
 路地裏から出ると、雑然とした都会の住宅街が視界に広がった。
 なんとなく見覚えのある街並みだ。以前さまよった時に通った道かもしれない。
『その通りを真っ直ぐ行けば、三百メートルほどで例の国道に着きます』
 穏やかな夕暮れ時の太陽を背に、僕たちは歩き出す。
 歩道には学校帰りの学生や買物袋を抱えた女性が歩いている。
 暴動が起きるなんて嘘みたいな、ありふれた光景だ。
 でも、それは表面上の話でしかない。人々の心の中には、ちょっとしたことが引き金になって爆発するだけの不満が確実に存在する。
 その一つ、移民者との摩擦による暴動はこの目で見た。
 だが、それだけではない。
 所得格差、世代間格差、エネルギー、資源、ゴミ、放射能。
 我々現代人が先送りにしたありとあらゆる問題が、この時代の人たちを苦しめている。
 それらの問題を解決するヒントを見つけることが、今回のミッションの目的だ。
 国道に到達。
 帰宅ラッシュが始まったこの時間帯はさすがに多少渋滞しているようだが、現代と比べれば交通量は明らかに少ない。所得と資源の減少により、自動車保有台数が大幅に減っているからだ。
 道を走る自動車は、わずかに残るレトロな車を除き電気自動車ばかり。
 おかげで騒音も排ガスのにおいもない。
 この点はうらやましいところだ。現代では少し交通量の多いところになると、排ガスを吸わずに道を歩くこともできない。
 ただ普通に空気を吸って歩く。
 よほどの田舎でない限り、たったそれだけのことも難しい世の中なのだ。
 横断歩道から少し離れたところに歩道橋があった。
『あの上から二つの地区を見比べてください』
 アイシャの指示に従い、歩道橋の階段を昇る。
 立派な造りをした橋だが、昇り降りが面倒だからか利用者は少ない。もったいない。
 まあ今はその方が好都合なわけだが。
 橋の中央で立ち止まり、左右の街を見比べる。
 どちらもオフィスビルが立ち並ぶ、似たような光景だ。
 一分ほど観察し続けたが、これといった発見はなかった。
「ここから見た感じでは特に違いはないな」
 優にも確認するが、ふるふると首を横に振った。
『では、歩道橋を降りて向こう側の街を散策してください』
 また指示通りに動く。
 オフィスビルが立ち並ぶのは国道沿いだけで、少し進んだら再び住宅街に入った。
 怪しまれないよう、あまり首を大きく動かさずに周囲を観察して歩く。
 やはり、それほど大きな違いはない気がする。向こう側どころか現代と比べてもだ。
 それから二十分ほど歩き続けても、特に気になるような点は見当たらなかった。
 この時点では、まだ兆候は現れていないということか。
 そもそも、あるかどうかもわからないヒントを探すのは難しいものだ。毎度のことながら、僕たちのミッションは当てがなさ過ぎる。大半のミッションは街や村を歩くだけで終わってしまうのだ。
 今はまだ日本国内しかアクセスできないVFシステムだが、この先開発が進んで海外にも行けるようになったとしたら、テスターが四人では到底足りない。いつか柳所長が言っていたように、海外からもテスターを募って人員を増やしていくのだろうか。
 だとしても、それはいつの話だ。今こうしている間にも地球は汚染されているというのに、こんなことで果たして間に合うのか……。
「あ!」
 突然、優が声を上げて立ち止まった。
「どうした、優?」
 僕も立ち止まる。
『何かわかったのですか?』
「電線、それに電柱も、確かあっちにはなかったよ!」
 僕はハッとして周囲を見回す。
「言われてみれば……!」
 電線のある風景を見慣れているせいで気が付かなかった。
 今思い出してみれば、都会の中心部ならともかく住宅街にまで電線がない光景に、はじめの頃は驚いていたものだ。ミッションを重ねるうちに、どちらの光景も見慣れてしまったせいか見逃していた。
「よく気が付いたな、優」
「エヘヘ、たまたまだよ」
 優が笑顔で照れ隠しをする。
『今、録画映像を確認しました。間違いありません』
 僕と優は再び歩き出す。
 こうして並んで歩いていれば会話をしても周囲に怪しまれることはない。これも二人でアクセスした時の利点だ。
「要するに、いち早く再生エネルギーを取り入れた地区と、旧態システムに依存し続けた地区とで徐々に差がついてしまったんだな」
『そうですね。太陽光発電なら一度作ってしまえば維持費は安く済みますから』
 僕とアイシャに続き、優が発言する。
「でもそれならどうして、もっと再生エネルギーの開発に取り組まなかったのかな? 全部太陽光発電とかにすれば、いいことばかりだと思うんだけど」
 もっとも意見だ。しかし現実は甘くない。
「初期コストの問題だな。太陽光発電システムで火力発電や原子力発電と同じだけの電力を生み出そうとすると、相当な費用がかかる」
「でも、将来的には安く済むんでしょ?」と優。
「その将来というのが難しいんだ。一年や二年ならともかく、十年後二十年後のための投資を決断できる人間は少ない。政治家はもっと露骨だ。自分が退任した後に成果が出るような政策では票がとれないからな」
「票って、そんな……」 
 優は言葉を失う。
 夢も希望もある高校生にこんなことは言いたくないが、それが資本主義社会と民主政治の実態だ。
「政治家は四十代でも若手と呼ばれるくらい平均年齢が高い。さらに有権者も高齢者が多い。これでは政策が短期志向になるのも当然だ。大抵の人は自分が死んだ後のことなんて考えないからな。若者がもっと投票に行けば――なんて言う人もいるが、年功序列が根付いたこの国では微々たる変化しかもたらさないだろう。それがわかっているから無関心な若者がさらに増える。まさに悪循環だ」
 個人レベルであれば短期志向は悪くない。目に見える成果はモチベーション維持に不可欠だ。しかし、目先の利益のみを追及して子孫に莫大な負債を残すような経済政策は確実に間違っている。
 ともあれ、境界線の向こうとこちらの違いが一つわかった。
 無論、電力システムだけが富裕層と貧困層を隔絶する原因ではなかろう。おそらく、のちにホワイトエリアとなる地区は都心に近いこともあって、あらゆる面で優先的に開発が進められたに違いない。
 そんなことを考えながら歩いているうちに、駅前の広場に人が大勢集まっているのを見かけた。
 僕は反射的に立ち止まる。優もだ。
 また厄介事かもしれないが、だからこそ何かヒントが見つかる可能性もある。
「少し様子を見てみよう」
 群衆が注目する先には選挙カーがあった。ワンボックスの屋根が演説をするステージになっている改造車だ。候補者の名前は群衆の頭に隠れて見えない。
「選挙の街頭演説か」
『未来の情勢を知るよい機会です。聞いていきましょう』
 僕と優は群衆から少し離れたところに身を置き、選挙カーに注目する。
 まだステージには誰も乗っていない。準備中のようだ。
 しばらく様子を見ていると、ステージに見覚えのある若い男が姿を現した。
 年齢は二十代半ば、短髪で背が高くがっしりした体型。政治家ではなく、ボディーガードのような雰囲気を持つ鋭い眼付きの男。
「あの男、どこかで……」
 記憶の糸をたどる。が、思い出す前にアイシャが言った。
『明季、あの男性は野川市長の秘書を務めていた方です』
 そうだ、確か金城(かねしろ)といったか。なぜあの男がここに?
 金城はステージの上でマイクの準備をしている。
 当然、選挙演説をする人物のためだ。
 まさか――
 群衆から小さく歓声が上がった。
 ステージに鮮やかなプラチナブロンドの髪が見え始める。
「あ、あれは……!」
 僕は大きく目を開いた。遠目だが見間違えるはずもない。
 備え付けの階段を昇りステージに立ったのは、あの野川市長だった。
 ただし、金髪の。
『ここまでです。リセットします』
 唐突にアイシャが告げた。
「待てアイシャ、せめて彼の演説だけでも!」
『いけません』
 次の瞬間、僕の意識は暗転した。


 気が付いたら暗闇の中で座っていた。
「ミッション終了です。お二人ともお疲れ様でした」
 アイシャがヘルメットを外してくれる。
「お身体の具合はいかがですか?」
 いつもどおりの優しい声。
「なんともない。吐き気も、だるさもない」
 ミッション中のことを言及するのは後にして、まずは応じた。
「わたしもです」
 僕と優の二人でダメージが分散されたおかげだ。
 あの症状がないというのは本当に助かる。
「ではお二人とも、慌てずゆっくりと立ち上がってください。実感はなくとも目に見えないところに疲労は蓄積されていますから、くれぐれも無理はしないでくださいね」
 アイシャはなんとなく嬉しそうだった。
 
 
 その後、僕と優はメディカルチェックを受けた。
 正直、毎回毎回わずらわしいとは思うが、アイシャの言うとおり、どこにどんな異常が潜んでいるかわからない以上仕方がない。
 今日も異常がなかったことに一安心する。
 メディカルルームから廊下に出ると、優が深刻そうな面持ちで尋ねてきた。
「ねえ、お兄ちゃんは、あのステージに立った人のこと知ってたの?」
「僕が四十年後のサイクルシティで会った人物……かもしれない」
 確証はないのでそう答える。
 優はあの映像を見ていない。あれを見たのは当事者である僕とアイシャの他は、柳所長と和香さんと秘書だけだ。
「あの人、お兄ちゃんにそっくりだったよ? それにあの髪の色。あれって……」
「優」
 僕は優の言葉をさえぎった。
「ごめん、詳しいことは話せないんだ。口止めされてて」
「そっか……」
 優はそれ以上何も言わなかった。
 
 
 優が帰った後、僕は一人でブリーフィングルームに戻った。
 アイシャがメイド姿のままで残っていた。
「明季、冷たいお飲み物などいかがですか?」
「いや、今はいい。それよりアイシャ、さっきはどうして話を聞いてくれなかった? 彼が何者なのか確かめておくべきだったんじゃないか?」
 アイシャは険しい表情をする。
「明季、彼が爆破テロの標的だったことをお忘れですか? あの瞬間、爆発に巻き込まれていてもおかしくなかったんですよ」
 そうきたか。確かに言われてみれば、可能性はゼロではないが。
「あの時とは状況が違う。それに、どう見たって彼はあの野川市長と同一人物じゃないだろう。いくら四十年後でも政治家があんなふうに髪を染めるわけがない。あれは元々の色だ。だから……」
 そこで僕は口を紡いだ。
 アイシャがすぐ目の前まで迫ってきたからだ。
「アイシャ?」
 僕とアイシャの、靴のつま先同士が触れ合う。
 鼓動が急速に高鳴ってきた。
「明季のおっしゃるとおり、あの方は以前サイクルシティで出会ったあなたと海さんの子ではありません。ですが――」
 アイシャは急に踵を返すと、テーブルの上のリモコンを取り、壁に設置された大型モニターの電源を入れた。
 画面に、あのブロンドヘアの男性がアップで映る。
「見てください、明季にそっくりですよ! それにあの男性秘書もそばにいます。いくらなんでも他人の空似なんてありえません」
 アイシャは満面の笑み。
「明季、あの方は間違いなくあなたの子です。ただ、母親が海さんではなくなったというだけです」
「未来が、変わったというのか……」
 声が震えた。
 はっきり言われたことで、微かに残っていた疑念が確信に変わった。
「はい。そしてこの変化は、わたしたちの力で未来を変えられるという証拠なのです」
 未来は変えられる。
 そうだ、それが僕の望みだったはずだ。
 今、目の前に明らかな変化がある。僕たちの活動によって生じた変化が。
 なのになんだ、このモヤモヤとした気持ちは? 
 自分のことだからか? 
 でも、いきなり世界が大きく変わるはずはない。まずは身近なところから変化していくのが当然の成り行きだ。何もおかしなことじゃない。何も……。
 不意に、バニラのような優しい香りがした。
 気が付くとアイシャが目の前にいた。
 今度はもっと近く、スカートの裾と僕のズボンが触れ合うくらいに。
「ぁ……」
 トクンと心臓が鳴る。
 アイシャは、うっとりとした表情でこちらを見上げてきた。
「明季、わたし嬉しいです。明季がわたしを選んでくれて」
「は……?」
「だって、どう見てもあの方はわたしたちの――」
「ま、待て!」
 僕は両手でアイシャの肩をつかみ、発言を制止した。
 なぜかはわからないが、この先の言葉は聞いてはいけない気がした。
「まだそうと決まったわけじゃないだろう?」
 アイシャはキョトンとした後、ムッとする。
「ではお聞きしますが、明季はわたしの他に西洋人の女性に知り合いはいますか?」
「いや……」
「でしたら、他に可能性はないでしょう?」 
 それはそうだが……。そうだが……。
「それとも、明季はこの変化が嫌だったんですか?」
 急に表情を曇らせるアイシャ。
「そ、そんなわけないだろう!」
 すぐに否定すると、アイシャの表情はパッと元に戻った。
 そうだ、嫌なわけがない。むしろ……。
 でもいいのか、こんな形で? 何かおかしくないか? 
 いや、おかしいだろう。海の子に会ってしまった時は即接触を禁止したのに、自分の子に変わった途端この態度は。いくら自分が海と違って僕と接触禁止にされることがないからって、こんな……。
 僕はアイシャの肩からそっと手を離す。
「明季は照れているんですね?」 
 アイシャは僕の顔を見てにんまり笑った。
 こんなに表情変化が豊かなアイシャは初めてだ。
 僕の一言一言でコロコロ変わる。
 やっぱり変だ。こんな形でアイシャと結ばれるのは――
「ごめん、アイシャ。今日はもう帰るよ」
 ゆっくりと後退し、アイシャから離れる。
 ――本当は離れたくない。
 そんな感情を抑えながら、素早く踵を返す。
「明季? どうしましたか?」
 アイシャの呼び掛けにも応えず、僕はブリーフィングルームから脱出した。


 逃げてどうする……。
 マンションの自室に戻ったところで、ようやく気が付いた。
 逃げたって何の解決にもならない。アイシャとは、また明日も明後日も、この先ずっと一緒にやっていかなければならないパートナーなのだから。
 でも怖かった。
 もちろんアイシャがではない。未来が変わってしまったことでもない。
 我を失ってしまうことが、何より怖かった。
 もう少しあの場にいたら、僕は衝動的にアイシャを抱き締めていただろう。
 そうなったらもう止まらない。もうアイシャに夢中になってしまい、ミッションに集中できなくなるに違いない。
 そう思うと、とりあえず逃げておいて正解だったかもしれない。現に今はこうして考える時間がある。
「ハァ……」
 大きくため息を付く。
 ずっと玄関に立っていても仕方がないので、靴を脱ぎ、部屋に上がる。
 しまった、お昼ごはん買ってくるのを忘れてた。
 時刻は午前十一時半。今日はアクセスによるダメージがないぶん食欲があるので、だいぶお腹が空いてきたのだが……。まあいいか、後で。
 僕はリビングのソファにドサッと腰を下ろした。
 そして、改めて考察してみる。
 アイシャ。
 本名はわからない。本人も知らない。
 年齢は十八歳から二十一歳。
 出身地は北欧のどこか。国名も地域もわかっていない。
 プロフィールについて知っているのは、たったそれだけだ。
 でも、大事なのはそういった記録上のことじゃなくて、アイシャは――
 真面目で、気が利いて。
 けれど用意周到で、強引で。
 とても素直な性格で、決してごまかしたり取り繕ったりはしない。
 柳所長によれば、優しくて繊細な子らしい。
 和香さんによれば、嘘を付かれるのが何より嫌いという話。
 そんなアイシャに、僕は惹かれている。
 アイシャとは初めて会ってから五ヶ月くらいだが、もう何年も一緒に仕事をしている気がする。それだけ濃密な時間を過ごしてきたということか。今となってはアイシャがいない日々なんて考えられない。
 きっと、この先も……。
 その時、ポケットにあるスマートフォンからメッセージの着信が鳴った。
 見ると、アイシャだ!

 あいしゃです。
 あきがとつぜんかえってしまったので、しんぱいしています。
 おからだのぐあいわわるくありませんか。
 もし、わたしのせいで、きぶんをがいされたのなら、あやまります。
 ごめんなさい。
 わたし、まいあがっていました。
 おへんじくださいね。

 ……全部ひらがな。しかも「ぐあいわ」の「わ」が間違っている。
 今までアイシャからの連絡はすべて電話で、文字によるメッセージをもらうのは初めてだった。
 なるほど、それでか……。
 話すのと違って、日本語の文章はうまく書けなかったんだな。
 ひらがなだけの文章を、もう一度読み返す。
「ふふ……」
 なんだか可愛らしくて、笑いが込み上げてきた。
 それに、アイシャのことがまた一つわかって嬉しかった。
 アイシャが心配してる。早く返事をしよう。
 漢字が読めないかもしれないから、僕も全部ひらがなにしておこう。
 
 ぼくならだいじょうぶだよ。しんぱいかけてごめん。
 とつぜんのことにおどろいただけで、きぶんをがいしてはいないよ。
 きょうのことはおたがいさまということで、またあしたからいっしょにがんばろう。
 それと、もしよければ、あいしゃのこといろいろおしえてほしい。


 翌日、いつもどおり午前九時に研究所へと出勤する。
 出勤といっても今日ミッションを行うのは柴波なので、ミッション映像を見に行くのだ。
 疲れている時はもちろん休むが、余裕のある時はなるべく多くの映像を見ておくことにしている。自分のミッションはもちろん、海と柴波のミッションを精査しておくのも大事な仕事のうちだ。
 服装は防弾スーツではなく半袖のカッターシャツなので身体が軽い。
 でも、昨日あんなことがあったせいで、少しだけアイシャとは顔を合わせづらい。
 メッセージの内容からすれば、冷静さを取り戻してはいるはずだが……。
 扉の前でついたたずんでしまうが、迷っていても仕方がない。とにかく、慌てずいつもどおりでいこう。
 ブリーフィングルームの扉を開ける。
「おはようございます、明季」
 今日もメイド姿のアイシャが笑顔で迎えてくれた。
 内心ホッとする。
「おはよう、アイシャ」
「明季、体調はいかがですか? どこか具合の悪いところはありませんか?」
「問題ないよ。今日は疲労も残ってない」
「ではアイスティーをお持ちしますので、席で待っていてくださいね」
 カウンターに向かうアイシャの後ろ姿を見つめながら、席に着く。
 よかった、いつものアイシャだ。もしかしたらギクシャクするのではないかと心配していたが、杞憂だったようだ。
 アイスティーを飲みながら軽く談笑した後、ミッション映像の閲覧を始める。
 まずは八十年後を調査する柴波の映像。それから、八十年後、四十年後を中心に、その時の状況や必要に応じて様々な時代にアクセスする海の映像を見た。
 このところ、海は連続アクセスの特性を生かして、僕や柴波では調査が困難なミッションをこなしている。
 例えば、四十年後に日本各地で出現したというテロ組織の調査だ。数十回に及ぶアクセスによってリスクを分散することで、組織の出現ポイントや行動目的を探り出すことに成功している。組織の実態がわかれば、突然テロに巻き込まれる可能性が激減する。
 僕が尖兵となって海を援護するという方針は、今や逆転していた。
 また、五十年後や六十年後などの調査も海が行っていた。
 何か心境の変化でもあったのか、海は本当によく働いてくれるようになった。
 けれど何より安心したのは、海が相変わらず元気にやっていることだ。時々ミッションにはあまりふさわしくない、お間抜けな声が入っているからわかる。どんな時も前向きな性格は変わっていないようだ。
 そうして映像の閲覧が終わった後、僕は次の話題を切り出した。
「アイシャ、あれから考えたんだが、やはり野川市長……いや野川候補か、彼の演説は聞いておくべきだと思う。見た目だけでなく、彼の本質も変わったのかどうかを確かめておきたいんだ」
 アイシャは険しい表情をする。
「その件でしたら柳所長に伺ってみたのですが、やはり容認できないとのことです。彼がサイクルシティの市長のように革新的な政策を進める政治家であれば、あの時と同じようにテロリストの標的となる可能性がないと言いきれません。もちろん、彼に接触することも許可できません」
「そうか……」
 所長命令では仕方がない。
 もし本当にテロが起きれば、巻き込まれて死ぬ可能性だってある。そうなれば五感の一つを失うことに……。味覚、嗅覚ならまだしも、視覚、聴覚、触覚を失えばテスターとして死んだも同然。さすがにリスクとリターンが吊り合わないと判断されたか。
 しかし、あきらめるには惜しいので、代案を提示する。
「では秘書の金城ならどうだろう? 彼に接触して直接話を聞くというのは?」
「秘書の方ですか。それなら……。ですが、どうやって話を聞くおつもりですか? いきなり話しかけても怪しまれるだけでしょう」
「その点は問題ない。僕の容姿なら野川候補の親族の者と言えば、まず疑ってこないだろう」
 なにせ本物の親子だけに顔や雰囲気が似ている。どんな関係かと聞かれて親子と答えるわけにはいかないから、そのあたりはうまくごまかす必要はあるが。
「ただ、問題なのは話しかけるタイミングがわからないことだ。野川候補と一緒にいる時はもちろん、仕事中では話を聞いてもらえるかどうかわからないからな。かといって突然、彼の家を訪ねるのも変だし……。仕事が終わった直後とか、ちょうどいいタイミングを見つけなきゃいけないが、一日一度しかアクセスできない僕じゃ難しい。そこでだけど、海に彼が一人になる時間帯を調査するよう頼んでもらえないかな?」
 海とは接触が禁止というだけでミッションの依頼は禁止されていない。海の方が効率よく調べられることは、彼女に任せた方がいい。
 とはいえ、前例のないことなので多少は渋られるだろうと覚悟していたが……。
「わかりました。今から柳所長に聞いてみます」
 意外にあっさり返事をしてくれた。
 アイシャは軽くお辞儀をして、テーブルを離れる。
 それにしても、まさか海にミッションを依頼する日が来るとはな。自分で頼んでおきながら不思議な気分だ。
 いやむしろ、どうして今までその発想にたどり着かなかった? 
 長いこと会っていないせいでどうにも実感しづらいが、僕たちの目的は同じなのだから、必要に応じてミッションの依頼をしてもいいはず。
 それだけ余裕がなかったのだろうか。逆に言えば、今はそれだけの余裕があるということだ。ここは僕がテスターとして成長したのだと前向きに捉えておこう。
 三分くらいして、柳所長に電話をかけにいったアイシャが戻ってきた。
「所長の許可が出ました。さっそく、午後のミッションで海さんに調査してもらうそうです」
「ありがとう。できれば、海にも礼を伝えておいてほしい」
「わかりました。わたしの口から伝えておきます」


 時刻は午前十一時半。そろそろ昼食の時間だ。
 ……よし、いくぞ。今日こそ、アイシャのことをいろいろ教えてもらうんだ。
 記憶障害のある彼女に対し、どこまで踏み込んでいいものかとずっと悩んでいたが、昨日の出来事のおかげで吹っ切れることができた。
 だから、勇気を出して誘ってみる。
「アイシャ、よかったらこの後、一緒にお昼ご飯を食べに行かないか?」
 すると、アイシャはパッと目を輝かせてくれた。
「はい、もちろんです」
 返事を聞いた瞬間、身体中を歓喜が駆け抜ける。
 よかった、まずは一歩前進だ。でも、まだ安心はできない。アイシャのことを聞くにしても、あまりしつこくならないよう細心の注意を払わなければ。
 なるべく自然な会話を心掛ける。
「何が食べたい? 今日はアイシャが好きものを食べに行こう」
「え、いいんですか?」
「うん。前にアイシャが誘ってくれた時は僕が選んだから、今日はアイシャに選んでほしい。アイシャは何が好きなのかな?」
「えーと、わたしが好きなのは……」
 アイシャは言葉の途中で、なにやら迷い出す。
 そんなにいろいろあるのか。
なんだろう、やっぱり洋食かな。それとも日本食か。
 しまった、この近辺に店がない料理だったらどうしよう。トルコ料理とかタイ料理とか言われたらお手上げだぞ。アイシャならその辺は察してくれると思うが……。
「そうですね、好きなものはたくさんありますが、今一番食べたいのはお好み焼です」
 そうきたか。


 研究所の玄関付近で、白とライトグレーのシンプルなワンピースに着替えたアイシャと合流する。それからバスに乗って駅近くにあるお好み焼き亭に向かった。もちろん、自分たちで焼いて食べる店だ。
 平日の昼休みにお好み焼きを焼いて食べる人は少ないだろうから、きっと空いていると思っていたが、着いてみると半分以上の席が埋まっていた。僕たちのすぐ後からも続々と客が入ってくる。
 油断した。あと五分遅かったら危なかった。
 どうやらランチメニュー目当てで来る客が多いようだ。初めて来る店なので知らなかった。次からはちゃんと調べて来よう。
 ともかく、案内された二人用のテーブル席に向かい合って座る。
 注文をしてから十分ほどで材料が届いた。
「せっかくですし、お互いが作ったものを交換しましょう」
「うん。でもアイシャ、お好み焼きの作り方は?」
「知ってますよ。家で作ったことがありますから。和香さんから教わりました」
「そっか。じゃあ、僕もがんばらなきゃな」
「はい。がんばってください」
 アイシャは意気揚々と、僕が食べることになるお好み焼きを作り始めた。
 だいぶ慣れているようで手際が良い。そして、形が恐ろしく精密だった。まるで機械で作ったように真円に近い。アイシャの性格がよく出ていた。
 一方、僕はというと――
「う〜ん」
 はっきりいって円形にはほど遠い。楕円形とも台形とも言えない奇妙な形になってしまった。しかも、ひっくり返すのに失敗して斜めに割れてしまう。
「ごめんアイシャ、失敗した。これは僕が食べるよ」
 当然の責任と思ったのだが、意外にもアイシャは不満そうな表情をした。
「交換するって約束だったじゃないですか」
「いや、でも、こんな形だし。そんなきれいなのと交換は申し訳ないというか……」
「ダメです!」
 アイシャは両手でヘラを使って、僕が作ったものと自分が作ったものをすばやく入れ換えた。
「これはもうわたしのものです。誰にも渡しません」
 そう言って、さっさと味付けを始めてしまう。
 口を挟む隙もなかった。
 ……まあ、本人がそう言うならいいか。味は変わらないしな。
 アイシャがおいしそうにお好み焼きを食べる姿は、僕のちっぽけな見栄を吹き飛ばしてくれた。
 ついでに一つ気付いた。
 アイシャ、箸は普通に使えるんだな。
 勝手ながら、ステーキのようにナイフとフォークを使ってお好み焼きを食べる姿を想像していたのだが、箸の扱いは日本人の僕から見ても違和感がないほどだった。
 きっとがんばって練習したのだろう。
 今後もアイシャを誘うためには、最低限恥ずかしくないテーブルマナーを身に付けておかなきゃな。


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