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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第11回 五章 彷徨(後編)


 ふと窓の外を見る。もう真っ暗だ。
 腕時計で確認したところ、ミッション開始から約二時間が経っていた。
 ここを出てから行く当てもない。宿泊施設を探すか。
 少し歩けばビジネスホテルくらいはあるだろうが、制服姿の優を連れて入るのはまずいだろう。どこかで服を買って着替えさせれば……いや、無理か。この時代の商店は、午後七時にはほとんどが閉まる。もう間に合わない。
 いよいよ最終手段を視野に入れなければならないだろうか。
 そう考え始めた時だった。
「た、大変です!」
 先ほどの青年二人が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「何事だ?」
 アフマド氏が立ち上がる。
 青年たちは息を切らしながら、この建物の入口の方を指した。
「お、表に、日本人が大勢押し寄せています! 武器を持って」
「なんだと!」
 アフマド氏が声を上げるのと、近くでガラスの砕ける音がしたのは同時だった。
 続いて、怒鳴り声が響く。
「いかん! 奥へ逃げなさい」
 アフマド氏が事務室の奥にある扉を指した。
 足音がすぐそこまで迫ってきている。
 僕たちは事務所の奥の方にある扉へ向かった。
 事務室の扉に鍵をかけた青年たちがあとに続く。
 扉の先は礼拝堂だった。
 広さは学校の教室くらいで、赤い絨毯が床を覆っている。キリスト教の教会堂と違い、祭壇もなければ像もなく、座席すらない。あるものといえば、メッカの方角を示す壁のくぼみと、その横においてある木製の小さな台だけだ。
 シンプルなのは好ましいことだが、今はそうも言ってられない。障害物のない空間では地の利を生かして戦うことができないからだ。複数の敵が相手となれば、あっという間に囲まれてしまうだろう。
 事務室の扉が破られる音がした。残る防壁はこの礼拝堂の扉のみ。
 ここを破られたら一巻の終わりだ。
 部屋中をくまなく見回すが、逃げ道は窓しかない。
 しかも高い位置にあるため、年配のアフマド氏が脱出するにはそれなりに時間がかかりそうだ。
 ドンッ、と丸太か何かを叩きつけるような大きな音がして、礼拝堂の扉がメキメキときしむ。
 こうなったら、この人たちを見捨てて逃げるか……。リセットすればすべて消える。胸は痛むが、優を犠牲にしてまでこだわることじゃない。
 ここは割り切るしか――
「先に逃げてください! ここはわたしたちが食い止めます!」
 突然、優が叫んだ。
「お待ちください。逃げるなら、あなた方が先に――」 
「早く! 二人で協力してアフマドさんを運んでください!」
 優はアフマド氏の声を無視して、二人の青年に向かって叫ぶ。
 青年たちはうろたえながらも優の指示に従い、二人でアフマド氏を促した。
 先に逃げる気はなし、か。あるいは現実とこの世界を混同しているのかもしれないが、こうなった以上、腹を括るしかない。
 直後、乾いた衝撃音とともに、礼拝堂の扉が破られた。
 木刀やバットを持った男たちがぞろぞろと入ってくる。
「いたぞ!」
「逃がすな!」 
 男たちは、窓から脱出しようとするアフマド氏たちに襲いかかろうとした。
「待ってください!」 
 そこに優が立ちふさがる。僕も横に並んだ。
「なんだお前らは!?」
「乱暴なことはやめてください。あの人たちは話し合いによる解決を求めています」
 優の言葉に、男たちは矛を収めるどころか、さらに怒りをあらわにする。
「今さら何が話し合いだ!」
「お前ら、なぜ日本人のくせにあいつらをかばうんだ!?」
「金でももらってるのか!?」
 僕はともかく、優みたいな娘が金で取引しているようには見えないだろうに。
 そんなこともわからないくらい頭に血が上っているらしい。
「邪魔するなら、ただじゃおかないぞ!」
 ダメだ、言葉は通じそうにない。やるしかないのか。
 僕は懐から鉄扇を取り出す。
 優も竹刀袋からカーボン竹刀を取り出した。
「退いてください。それ以上近付くなら、こちらも応戦します!」 
「うるさい、どけぇ!」
 優の警告もむなしく、男たちは一斉に襲いかかってきた。
 優をやらせるわけにはいかない。僕が前衛に――
 そう思って踏み出そうとした瞬間、疾風が脇を駆け抜けた。
「がっ!」
 気が付いたら、先頭の男の脳天を優の竹刀が打ち据えていた。
 男は力なく床に崩れ落ちる。
 な、速――
 床に落ちた金属バットがまだ音を立てているうちに、優の竹刀は次の男の即頭部を打っていた。
 二人目もあっさり崩れ落ちる。
 なんて速さだ!
 優は止まらない。一瞬たりとも居着くことなく、次々と男たちを仕留めていく。その姿は舞のように美しくすらあった。
「ぐぅ!」
 ほんの二十秒程度で五人の男が床に転がる。
 まだ立っている男たちも、警戒して迂闊に攻めてこなくなった。
 優はその隙にバックステップで距離を取り、呼吸を整える。
「おーい、こっちは脱出したぞ。あなたたちも早く!」
 背後から青年の声。
 よし、これならなんとかなる。
「優、先に脱出しろ。あとは僕が引き受ける!」
 優はほんの一瞬迷う素振りを見せたが、すぐに「うん!」と大きく返事をして、踵を返した。
「逃がすか!」
 僕は迫りくる男に、広げた鉄扇を投げつける。
 そして、男がひるんだ隙に床に落ちていた木刀を拾い、上段に構えた。
 本来、背の低い僕に上段の構えは向かない。加えて剣道は小学生の頃に二年間やっていただけだから、技術も優には遠く及ばない。
 だが時にはハッタリも必要だ。この男たちに勝つ必要はない。時間を稼ぐために、今この瞬間だけ強そうにみせればいい。
 上段は攻撃的な構えだ。予備動作なしで剣を振り下ろせるこの構えと対峙すれば、剣道の経験者でなくとも相当な威圧感を受けるはず。
 案の定、敵は攻めてくるのをためらった。
 やはりな。こいつらは青浄会と違って、自分がやられる覚悟なんてできちゃいない。
 こういう連中は、手痛い反撃を受ける可能性をチラつかせてやれば途端に萎縮する。
 僕はその場から動かない。彼らが攻めて来ない限り、動く必要がない。
 ただ、その時を待つだけだ。
「お兄ちゃん!」
 よし。優が脱出したようだ。もはや長居は無用。
 木刀を手放し、一目散に逃げ出した。


 僕が礼拝堂の外に出た時、そこにアフマド氏たちの姿はなかった。
 優が先に逃がしたのだと言う。
 正直ありがたかった。これ以上彼らを守ってやる余裕はない。それに、僕たちだけなら見逃してもらえる可能性もある。
 もっとも、それは甘い考えだったわけだが……。
「いたぞ、あの二人組だ!」
 新たな追っ手が現れる。
 明らかに礼拝堂では見かけなかった顔だ。どうやら写真を撮って情報をばらまいた奴がいるらしい。ネットによる情報共有は健在ということか。
 逃げても逃げても次々と追っ手が現れる。
 男性だけでなく女性もいた。公園の前で会ったあの女性もどこかにいるかもしれない。
 優の走るペースが極端に落ちてきた。もう限界のようだ。
 僕だってそう長くはもたない。
 このままでは、じきに捕まってしまう。
 そうなれば何をされるか……。
 現代なら、おとなしく捕まりさえすれば無傷で警察にでも引き渡されるだろうが、あの恐ろしい形相の追っ手たちにそれは期待できない。
 最悪、なぶり殺しにされるかもしれない。僕だけでなく、優まで。
 そんなことは……そんなことだけは絶対にあってはならない!
 しかし、あの人数相手に戦って勝つことは不可能。
 もはや望みは一つしかない。
 アイシャ、頼む、早く助けてくれ! アイシャ!
 祈ってどうにかなるものではないことくらいわかっている。
 それでも、祈るしかなかった。絶望によって思考が停止状態に陥りつつあった。こんな時になって、極限状態に追い込まれた人間の心とはこんなにも脆いものなのかと知る。今奇跡が起きれば、僕は神を信じるだろう。
 だがそれでもいい。
 ゼウスでもアッラーでもヤハウェでもいい。
 助けてくれ!
 すると祈りが通じたのか、視界の端にアイシャの姿が映った。
「アイシャ!?」
 声を上げながら足を止める。
「えっ!?」
 優も驚いて止まった。
 まさか、ここにアイシャがいるはずがない。でも、今それらしき姿が……。
 振り返ってみると、建物の狭間に小柄な女性がいた。
 プラチナブロンドのロングヘアに白い肌をした西洋人。
 よく似た雰囲気ではあるが、アイシャではなかった。
 当たり前だ。疲労と願望が錯覚を起こしたに過ぎない。
 女性がこちらに手を差し伸べてきた。
「二人とも、わたしに付いてきてください」
 なんだ、助けてくれるのか? 
 だとしたらありがたいが、信用していいのか? 
 この女性が僕たちを助けるメリットは?
 様々な考えが頭の中を駆け巡る。
 しかし、迫りくる足音と怒号が余計な選択肢を一気にかき消した。
 僕たちは女性に続き、狭い路地へと入っていった。


 女性に案内された先はキリスト教の教会堂だった。
 教会堂といっても、ステンドグラスや壁画、イエス・キリスト像など華美な装飾が一切ない。祭壇と固定座席があり、壁に大きな十字架が張り付けてあるだけの簡素な造りだ。
 財政難で装飾ができなかったのか、あるいは聖書の教えのみを拠り所とするプロテスタントの教会堂なのか。
 どちらにしても助かったことに変わりはない。
 僕は神と神が遣わしてくださった天使に深く感謝した。
 その天使――目の前の女性を改めて見ると、まだ十四、五歳の少女だったことに気付いた。小柄な体型に、ベージュのワンピースがよく似合っている。
「二人とも、お怪我はありませんか?」
 少女が心配そうに尋ねてきた。
「大丈夫。なんともないよ」
 僕が答えた後、優も頷いた。
「よかったぁ。わたしはマヤといいます。ここはわたしがお世話になっている教会です。ここなら彼らも追ってきませんから安心してください」
 日本人と変わらないくらい流暢な日本語だ。この子も移民者なのだろうか。
「助かったよ。でもどうして、事情も聞かずに僕らを匿ってくれるのかな?」
 質問する僕の顔を、マヤはじっと観察するように見つめてくる。
「あの……?」
 もう一度声をかけると、彼女はハッと気付いたように反応した。
「あ、ごめんなさい。さっきネットを見てだいたいの事情は知ってます。この近くだったから、あなたたちのこと放っておけなかったんです」
「ネットで?」
「はい。ついさっき、トップ欄に記事が上がってきたんです」
 なんてことだ。トップ記事ということは、こんな短時間で全国のお尋ね者になってしまったのか。
「でも、それならなおさら、どうして僕たちを? ネットでは犯罪者かそれに近い扱いになってるんだろう?」
「そうだけど……。わたしは、あなたたちが悪い人とは思えなかったんです。アフマドさんたちとお話されてたんですよね? ネットではスパイとか売国奴とかいう声が大多数だったけど、話し合いに賛成する声も上がってるんですよ」
 もうネットで議論が交わされているのか。 なんて情報伝達の速さだ。
「わたしも話し合いで解決する方に賛成なんです。暴力で無理矢理解決しても、また新たな問題が発生するだけです。だからあなたたちを助けなきゃと思って、この辺りを探してたんです」
「そうだったのか……。じゃあ、見つけてもらえて運がよかったんだな」
「はい。よかったです」 
 マヤは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしくて暖かい感じがした。
「ところで、君はアフマドさんたちとは知り合いなのかな?」
「はい。わたしは移民者ではありませんがこんな外見ですから、学校ではどちらかというとアラブ系の友達が多いんです。あ、わたしの友達のおじいさんがアフマドさんなんですよ」
「そうなんだ。でも、君はクリスチャンじゃないのか?」
「え、そうですよ?」
 マヤは「それがどうしたの?」という感じで首を傾げる。
 この反応からすると、少なくとも日本国内でキリスト教とイスラム教までもが対立しているわけではなさそうだ。
「マヤさんは、歳はいくつなんですか?」
 ようやく息が整ってきた優が聞いた。
「十五歳です。この春から高校生ですよ」
「じゃあ、わたしと同い年だね」
「そうなんだぁ。でも、この辺りでは見かけない制服だね。もしかして遠くの学校に通ってるのかな?」
「うん。わたしは優っていうの。よろしくね」
「うん。こちらこそよろしくね」
 優につられて、自然とあいさつを返すマヤ。
 素早く名乗ることで学校名を聞かれるのを防いだか。少し強引だが、詳しいことを聞かれてはまずいので仕方がない。
 マヤが僕に目を向けてくる。
「お兄さんは、優ちゃんのお兄さんですか?」
「そうだよ。全然似てないけどね」
 ここにきて兄妹設定が生きた。
 さすがはアイシャ、こういう状況も見越していたようだ。
「でも外見はともかく、性格は結構似てるよね?」
 フォローのつもりなのか、優が僕に話を振ってくる。
「まあ……そうだな」
 ここはそう答えるしかない。でも、性格については満更嘘でもない。
 いつだったか、似ていると言ったのは僕の方だったのを思い出した。
 そんな僕たちを、マヤは疑うことなく気遣ってくれる。
「そうだ、喉渇いてませんか? よかったらお水を用意しますよ?」
 ありがたい申し出だ。ここへ来るまでにずいぶん走らされ、かなりの水分を消耗している。遠慮などしてはいられない。
「じゃあ、お願いするよ」
「少し待っててくださいね。あ、どこでも好きな席に座っててください」
 ――そうして、マヤを待つこと数分。
「どうぞ。本当なら教会の中は飲食禁止だけど、こんな時だからお水くらい神様も許してくれるはずです」
 穏やか笑顔で、冷たい水の入ったコップを差し出してくれる。
 僕と優はそれをありがたくいただき、ようやく一息付くことができた。
 その間、マヤは深刻な表情でカードのように薄い板に指先を走らせていた。
 名称はわからないが、この時代の携帯型情報端末機器だ。
 四十年も経っているというのに、形状や操作方法は現代のスマートフォンとそれほど変わらない。機能については、通話やメッセージのやり取りがさらに簡単な手順でできるようになっていること以外よくわかっていない。
 例によって画面がぼやけて見えないので調査が難航しているのだ。
 もっとも、未来の人たちがそれを扱う様子を見れば、基本機能に劇的な変化がないことくらいはわかる。中空にディスプレイが出現するとか、手を動かさなくとも思考で操作できるとか、そんな夢のようなアイテムは実現されていない。
 これもまた成長の限界の一つなのだろう。
 しばらくして、マヤの表情がパッと明るくなった。
「よかったぁ。アフマドさんたち、無事に逃げ切れたみたいです」
 すっかり忘れていたが、まさか態度に出すわけにはいかない。
「そうか。よかったな」
 この場の空気に合わせて適切な返事をしておく。
 優はというと、泣きそうな顔で喜んでいた。
「よかった……よかったぁ……」
 演技でこんな表情ができる子じゃない。間違いなく本心だ。
 その名のとおり優しいな、優は。
 マヤが優に尋ねる。
「優ちゃんとお兄さんは、アフマドさんと知り合いだったの?」
「ううん、今日知り合ったばかりだよ。学校の帰り道でたまたまお兄ちゃんと一緒になって歩いてたところを、ムスリムのお兄さんたちに声をかけられたの」
「へえー、そうなんだ。でもどうして優ちゃんたちだったんだろ? やっぱり優しいオーラが出てたのかな?」
「そ、そんなんじゃないよ。わたしたちが署名をはっきり断ったからだって言ってた」
「署名っていうと、あの強引な人たちだね」
「知ってるんだ?」
「まあね。わたしの学校の人も何人か連れていかれたって聞いたから。あれは署名活動とは名ばかりの決起集会だよ。現におかしいでしょ。署名を集めてたはずのに、いきなり問答無用で襲いかかってくるなんて」
「言われてみれば……」
「少なくとも優ちゃんたちは何も悪くないんだから、気を落とさないでね」
「うん、ありがとう」
 マヤの優しい言葉に、優は安堵の表情を浮かべた。 
 礼拝堂に攻め込んできた連中は、はじめ僕たちのことを知らなかった。あの襲撃は最初から計画されていたのだ。僕たちの行動が引き金になったわけではない。
 だがどちらにせよ、四十年後の日本では、テロリストだけでなく民衆までもが暴力的な手段を使うようになってしまった事実に変わりはない。
 僕は言う。
「でも、襲撃してきた日本人だけが悪いとは言い切れない。もちろん移民者の人たちもだ。どちらも、こんなことになる前はずいぶんとつらい目に遭ってきたはずだ。本当に悪いのは……」
 そこで言葉が途切れた。
 本当に悪いのは、いったい誰なんだ?
 こんなことになった原因は当時の政府が移民政策を実行したせいだ。
 だが政府の人間は、曲がりなりにも民衆によって選出された政治家たちだ。
 では無知な民衆が悪いのか?
 民衆がもっと知恵をもっていれば、他の政党・政治家を選んでいれば、少子高齢化によって膨れ上がった社会保障費をどうにかできたとでも言うのか?
 そもそも少子高齢化の原因は何だ?
 子供をあまり産まなくなった世代が悪いのか? それとも、後先考えずに子供をたくさん産んだ世代が悪いのか? 
 日本の人口が急激に増え始めたのは明治時代以降だ。江戸末期の時点で約三千万人だった人口が、わずか百数十年で四倍にも膨れ上がった。日本ではつい最近まで人口爆発が起こっていたのだ。
 土地や資源が有限である以上、人口増加は必ずいつかは止まる。そうなった時に人口のバランスが崩れるのは必然であり、その時代を生きる人々が痛みを被るのもまた必然。
 その必然を移民政策によって無理矢理和らげようとした結果がこれだ。
 次世代に、本来国内で起こるはずのない争いの種を撒き散らしてしまった。
 では、潔く痛みを受け入れていればよかったのか?
 その時代の人々に「抗うな、不運を受け入れよ」と言えるのか?
 誰もそんなことを言えはしない。しかし――
 そんな混迷の最中にあっても、マヤは前向きだった。
「誰が悪いかなんて今は考えても仕方ありません。それより、これからのことを考えましょう」
「そうだな」
 優に負けず劣らずしっかりした子だ。この子に会えたことは本当に幸運だった。
 ふと、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
 ようやく警察が動いたようだ。
「もうしばらくすればひとまず騒ぎは収まると思いますから、そしたらお父さんに頼んで車で迎えに来てもらいます。家はここからそう遠くないですよね?」
「うん……まあ、そんなに遠くはないかな」
 とっさにそう答えるしかなかった。駅から歩いてきたのだから遠いはずはない。
 これでまた新たな問題が発生してしまった。まさかこの状況下で「やっぱり歩いて帰る」とは言えない。迎えが来るまでに何とかしなければ……。
 何も知らないマヤは、明るい表情で優の隣の席に座って話しかける。
「ねえ優ちゃん。せっかくだし、また優ちゃんと会いたいから、連絡先交換しない?」
 まずい! 心臓が跳ねる。
「ごめん、ええと、その……実は、さっきの騒動で鞄ごといろいろ無くしちゃって……。今はちょっと……」
「そっか、大変だったんだね」とマヤ。
 ぎこちないながらも、うまく回避してくれた。
「じゃあさ、今度の日曜日の朝九時くらいに、またここに来られるかな? 毎週その時間はわたし礼拝でここに来てるから、その時、改めて、ね」
「うん、それなら大丈夫だよ」
「じゃあ待ってるからね」
 二人は笑顔で約束を交わす。決して守られることのない約束を。
 胸を締め付けられる思いがした。
 この二人なら、きっといい友達になれただろうに……。
 マヤがこちらを向く。
「よかったら、お兄さんも来てください。今後のこととか、いろいろお話しましょう」
「わかった。予定を開けておくよ」
 そう答えるしかなかった。心が痛い。
 それでも、会話は続く。
「そういえば、お兄さんのお名前はなんていうんですか?」
 名前くらい教えても問題ないだろう。
「僕は明季」
「え……?」
 途端、マヤの表情が固まった。
「どうしたの、マヤちゃん?」
 優が尋ねると、マヤはハッと我に返る。
 それから、また僕の顔を観察するようにじっと見つめてきた。
「どうしたの? 僕が……何か?」
 マヤはなぜか言いづらそうにうつむき加減になった。
「あの、実は、わたしがお兄さんたちのことを助けようと思ったのは、もう一つ理由があるんです」
 そこまで言って、しばらく沈黙。
 ……静かだ。サイレンの音はいつの間にか止んでいた。
 この会話に区切りが付いたら、そろそろお迎えの電話をする頃合だ。
 どんな事情があるのかはわからないが、今は少しでも時間を使ってくれた方がありがたいので、僕は黙ったままひたすら次の言葉を待った。
 やがて、彼女は口を開く。
「お兄さんが、わたしのお父さんにとても似ているの」
「え……?」
 マヤの発言を理解するのに少し時間がかかった。西洋人のこの子の父親が僕と似ているなんてことがあるのかと思ったが、考えてみればないこともない。
「もしかして、君のお父さんは日本人なのかな?」
「ええと、日本人なんだけど、お父さんはハーフなんです。だから、わたしはクウォーター、四分の一は日本人なんです。わたしの目、黒いでしょ?」 
 今まで気にしていなかったが、よく見てみればそうだ。
「わたしのマヤっていう名前も、日本と北欧のどちらでも通用する名前なんですよ」
「北欧?」
「はい、わたしの祖父が日本人で、祖母が北欧出身なんです」
 不意に嫌な予感がした。これ以上、この子の話を聞いてはいけない気がした。
 ハーフ、北欧、僕に似ている――
 まさか、そんなことが……!
「それでね、ハーフのお父さんが、また北欧出身のお母さんと結婚したから、わたしは四分の一になっちゃって――」
「あ、あの!」
 突然、マヤの言葉を打ち消すように優が声を上げた。
「御手洗い、借りてもいいかな?」 
 マヤは一瞬キョトンとしてから、
「あ、うん。御手洗いはあっちだよ」
 と言って、その方向を指した。
 優は早足で歩いていく。
 もしかして、ずっと我慢していたのか。いや、仮想未来ではトイレに行く必要はなかったはず。現にアクセス開始から三時間以上経つというのに、もよおす気配はない。本体の方は眠っているのと同じ状態なので七、八時間はもつらしいが。
 となると、優も不穏な空気に気付いたということか。
 これ以上話を聞かないよう席を外してくれたのだ。
 サイクルシティの時のように、知ってはいけないことを知ってしまわないように。
 視界から優の姿が消える。
 すると、それを待っていたかのようにマヤの顔付きが変わった。
「お兄さんと優ちゃん、本当はどういう関係なんですか?」
「え?」
 突然の問いに思考が停止する。
「あの子、お兄さんの妹じゃないですよね?」
 さっきまでと違いマヤの口調は冷たい。
 予想外の展開に心臓の鼓動が高まる。言い訳を考えるが思い付かない。
 おそらく何を言っても無駄だ。なぜかはわからないが、この子は確信を持っている。
「……どうして、わかったんだ?」
 もはや嘘は付けなかった。
「野川明季に妹なんていませんでしたから」
「苗字は言ってないはずだが……。僕のことを知っているのか?」
「いいえ。でも、野川明季のことならよく知ってます」
「そうか、それでさっき僕の名前を聞いて驚いてたのか」
 ここは四十年後の世界。僕はもう死んでいるはずだが、僕のことを知っている人間がいても不思議ではない。この子もその一人なのだ。可能性が限りなく低いとはいえ本名を名乗ったのは迂闊だった。
「お兄さんたちは、いったいどこから来たんですか?」
 もちろん、彼女は出身地を聞いているのではない。
 僕たちがこの世界の住人でないと薄々勘付いているようだ。
 こうなった以上、隠しても仕方ない。むしろ事情を明かして匿ってもらった方が良いと判断して、僕はゆっくり口を開いた。
「信じられないかもしれないが、僕たちは四十年前の世界から来たんだ」
「四十年前……。そっか、それで……」
 マヤは驚くどころか、どこか納得したような様子だった。
「僕たちは未来を調査するためにここに来た。でも、自分の未来を知ってしまうのはよくないことなんだ。だから、君の知っている野川明季やお父さんの話はこれ以上しないでほしい」
「わ、わかりました。そうですよね、歴史が変わっちゃったら大変ですものね」
 マヤは慌てて口に手を当てた。
 かなり危うい発言を聞いてしまったが、まだ彼女と僕の関係がはっきりしたわけではない。もしかしたら、この子と僕の血がつながっているなんて憶測でしかない。システムエラーで映像や音声が残ってない可能性もあるし、あの時のミッションのようにはならないことを願う。
 マヤは口から手を離し、寂しそうな顔をした。
「でも残念だな、せっかく優ちゃんとお友達になれたと思ったのに……」
「ごめん、嘘付いて……」
 胸が痛かった。今まで仮想未来では幾度となく嘘を付いてきたが、こんなに心苦しいのは初めてだった。
 それでも、マヤは微笑んでくれた。
「いいんです、お兄さんが意味もなく嘘を付く人じゃないのはわかってます。もちろん優ちゃんも。だから嘘を付いたことは許します。その代わり……」
マヤは僕のすぐ前まで近寄り、目を輝かせながら言った。
「わたしたちのためにステキな未来を作ってくださいね。約束ですよ?」
 胸に込み上げてくるものがあった。
「うん、わかった。約束するよ」
 声に少しだけ嗚咽混じってしまった。
 マヤは満面の笑みを浮かべる。
「ほんと? じゃあ、わたしもがんばらなきゃね。わたしね、民族とか宗教とか関係なく、みんな友達になれたらいいなって思ってるの。ううん、みんな友達にするのが、わたしの夢。そしたら戦争とかなくなるでしょ?」
 ……
 …………
 ……なんだ? 急に眠たくなって……。
「そのためにもね、もっとみんなが優しくなる方法を考えるの!」
 …… 
 …………
 ……それはいいな。僕も同じこと考えてたよ……。
「あ、ごめんなさい。なんだかお兄さん、他人って気がしなくて、馴れ馴れしくしちゃって」
 ……
 …………
 ……そんなの全然構わない。全然……。
「お兄さん、どうしたの?」 
 …… 
 …………
 ……本当に、どうしたんだ? 眠い。声が出ない。
 ……それに、だんだん暗く……。
「お兄さ……」
 ……もう……立ってられない。
 ……待て、待ってくれ。もう少しだけ、この子と話がしたい。
 ……もう少しだけ――


 気が付いたら暗闇の中で座っていた。
 なんだ? 何が起きた?
「……明季。……明季!」
 この声は、マヤ?
「明季、聞こえますか? 返事をしてください」
 バニラみたいな甘い香りがしたかと思うと、急に視界がまぶしくなった。
「意識はあるみたいですね。明季、わたしのことがわかりますか?」
 だんだんと光に目が慣れてくる。声もはっきりと聞こえるようになってきた。
 ……ああ、思い出した。ここはアクセスルームだ。ようやく戻ってこられたのか。
「アイシャ、よかった、無事だったんだな」
 普段と変わらないアイシャの姿を見て安堵した。
 アイシャは顔をしかめる。
「わたしのことより、明季は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。僕はなんともない。優は?」
「優も無事です。意識も戻ってます」
「そうか……。優、大丈夫か?」
 すぐ隣に座る優に声をかける。
「うん、大丈夫だよ」
 優は目を開けて、ちゃんとこっちを見ていた。 
「よかった。初めてのミッションだってのに、大変だったな」
「うん……。でもお兄ちゃんがいてくれたから、怖くなかったよ」
「そっか……」
 弱々しくはあったが、優は笑顔を見せてくれた。
 長かった……。長かったな。
 優にとっては初めてのミッションが、こんなに長くなるとはな。
 ともかく、無事に帰って来られてよかった。
 あ、そうだ。
 あとで優に、マヤと約束したこと教えてあげなきゃな。


 メディカルチェックを受けた結果、特に異常は見当たらなかった。
 疲労困憊、それだけだ。
 過去最長のアクセスだった上、精神的にも肉体的にも負担の大きいミッションだったが、優と負担を等分したおかげで大事にはいたらずに済んだ。
 少しふらつく足でブリーフィングルームに戻る。
 そこにアイシャの姿はなく、代わりに二人の人物がいた。
 一人はスーツ姿の和香さん。
 もう一人は白衣を着た小柄な中年男性。
 ほとんど話したことはないが、この研究所にとって柳所長や和香さんに並ぶ重要人物だということは知っている。
 VFシステムの開発者であり、現在は開発整備主任を務める呉国男(くれくにお)。
 四十九歳。同年代の柳所長とは古くからの付き合いだと聞いたことがある。
 その呉主任が僕に謝罪してきた。
「今回の不手際はわしの責任だ。すまなかったな」
 年齢の割にしわがれた声。
 ギョロッとした三白眼に痩せこけた頬、さらにスキンヘッドという、どこか骸骨を思わせる容貌は、決して口にはしないがちょっと不気味だ。
 わしという一人称といい、実年齢より十歳は老けて見える。
 時々廊下などですれ違っても会釈すらしない無愛想な人だが、さすがにこれだけの失態とあって顔も見せないほど無作法ではないらしい。
「体調に問題はなかったかな?」
「はい、特には。いつもどおり疲れただけです」
 そう答えると、彼は微かに安堵するような表情を見せた。
「そうか。貴重なテスターを二人も失うようなことがあっては研究所の……いや、社会にとって大きな損失だからな。このような事態は今後二度と起こさぬよう徹底させてもらう。システムに不具合が出た原因は二人同時アクセスのために追加された機器にあると思うが、詳しくは現在調査中だ」
 見ると、アクセスルームの扉が開いており、何か音がしていた。
 早くも復旧作業が始まっているようだ。
「午後のミッションにはさすがに間に合わないが、明日までには直してみせるから安心して休んでくれたまえ」
「はい」
 無愛想だが責任感はある。思っていたより話せそうな人だ。
 せっかくの機会なので、僕は前々から気になっていたことを尋ねてみる。
「呉主任、今回の事とは関係ありませんが、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なにかね?」
「VFシステムのことです。これほどのシステム、いったいどうやって作ったのですか?」
「それは、VFシステムの仕組みが知りたいということかね?」
「そうです」
「ふむ……」
 呉主任は少し間を置いた後、小さく口を開いた。
「まあ簡単に言ってしまえば、VFシステムはバーチャル・リアリティ・システム≠ニ未来予測演算器≠組み合わせたものだ。それ以上のことは機密なので話すことはできん」
「そうですか……」
 しつこく聞くつもりはないし、聞いたところで細かい仕組みなど理解できないだろうが、とにかくすごいことだけはわかった。
 バーチャル・リアリティ・システムと未来予測演算器。
 どちらか片方だけでも歴史的発明だというのに、それを超えるシステムをすでに完成させているとは恐るべき科学者だ。
 驚きつつも、念のため確認だけはしておく。
「では、その機密を知っているのは呉主任と整備スタッフの方々だけ、ということでしょうか?」
「いや、スタッフが知っているのは自分の担当区分だけだ。全容を知るのはわしだけよ。柳にも、月山(つくやま)君にも教えておらん」
「月山?」
 聞き覚えのない名前に首を傾げると、和香さんが答えてくれる。
「わたしの旧姓よ。呉さんとは、わたしが正道さんと結婚する前からの付き合いなの」
 それから、和香さんは呉主任に顔を向ける。
「呉さん、いい加減その呼び方やめてよね。まぎらわしいんだから」
「ふむ……つい癖でな」
 反省してなさそうな態度だ。このやりとり、もう何十回もやってるんだろうな。
「では、わしも作業に加わるのでな。月山君、あとは頼んだぞ」
 呉主任は踵を返し、アクセスルームに歩いていった。
「もう……また間違えてるし」
 苦笑交じりの声。もう半分あきらめてるな。
 アクセスルームの扉が閉まり、ブリーフィングルームに僕と和香さんが残される。
 和香さんがここに来たのは、僕と呉主任の二人きりでは空気が重たくなると気を遣ってのことだろう。彼女は目の見えない柳所長に代わってこういう現場に立ち会ってくれる、ナビゲーターであると同時に副所長的な存在でもあるのだ。
「優はもう帰ったんですか?」
「ええ、さっき高羽君に頼んで家まで送ってもらったわ」
 それを聞いて安心した。
「よかった。そういえばアイシャは?」
「アイちゃんなら食堂でお昼ごはん食べてるわよ。明季君はどうするの? お昼ごはんまだでしょ」
「はい」
 ふと壁の時計を見る。時刻は午後一時を過ぎていた。
「でも、今は食欲がなくて」
「そ。後でちゃんと食べなきゃダメよ」
「はい」
 話が途切れたところで、僕は重要なことを尋ねる。
「ところで、ミッションの映像は録れてたんですか?」
 和香さんは首を横に振る。
「ダメね。始めの方しか録れてなかったわ。通信が途切れるまでのところしかね」
「そうですか……」
 残念そうに言ったが、本心は逆だった。
 これでマヤのことは知られなくて済む。あのことは、今はまだ話すべきではない。
 優には後で口裏を合わせるよう言っておこう。
「もちろん、説明は明日にでもしてもらうからね。大事なことは忘れないうちにメモしておいてね」
「はい」
「疲れてるでしょ。家まで送るわ」
 

 和香さんの車は、現代ではまだ少ない電気自動車だ。
 四十年後の世界では当たり前のように走っている電気自動車も、現代においてはコスト、航続距離、充電設備など、まだまだ改善点は多くスタンダードには程遠い。
 エンジン音が小さいため車内はとても静かだ。
 家に着くまで十五分あまり。この人の性格からして無言はありえない。
 妙なことを聞かれる前に、僕は先手を打った。
「そういえば前々から気になってたんですが、柳所長はどうして北欧を訪れたんでしょうか? 観光旅行ではないですよね?」
「そうね」
 和香さんは一瞬だけこちらを見てきた。
「ひとことで言うと、北欧諸国の社会作りを学ぶためよ。日本でも情報は得られるんだけど、やっぱり現地調査は欠かせないっていうのが正道さんの考えでね」
「北欧諸国というと、社会保障を重視する福祉国家でしたね」
「そ。税負担は重いんだけど、その代わり充実した社会保障が受けられる制度ね」
 知識としては知っているが今は話を長引かせたいので、あえて詳しく聞いてみる。
「税が重いとなると国民に嫌がられそうな気がするんですが、そんなに優れた制度なんでしょうか?」
「制度というよりは、国が国民に対して誠実なのが良いところね。選挙で勝つために特定の年齢層を優遇したり、GDP(国内総生産)を上げるために企業の違法行為を許したりしない、公平公正ってところがね。アメリカ主導のグローバル資本主義じゃ格差は広がる一方だし、共産主義はソ連や中国の例を見てのとおり理想とは程遠い。正道さんもわたしも、現状では北欧モデルが最も理想に近いと思っているわ」
 運転中のため前を向いたままの和香さんに、僕は返す。
「そうですね。僕もそう思います。人間よりお金を大事する社会なんて、悲し過ぎますから」
 赤信号で車が停まる。走行中よりさらに静かになった。
「ふふ」
 和香さんが、こちらを見て小さく笑う。
「ほんとはそのくらい知ってたんでしょ?」
「あ、いえ……それは……」
 声を詰まらせると、和香さんは口元をムッとさせた。
「もしかして、わたしにプライベートな質問されるのが嫌で話を長引かせようとしたのかしら?」
 なぜわかる? この人には、人の心が読めるのか?
 そんなはずはないので、僕は言葉を濁す。
「いえ、決してそういうわけでは……」
「じゃあ明季君、こっちからも直球な質問していいかしら?」
 それが狙いか。しかも直球ときた。
 だが質問の内容もわからないうちから突っぱねるわけにもいかない。
「はぁ、どうぞ」
 力なく返事。
 信号が青に変わって車を発進させてから、和香さんは口を開いた。
「明季君の中で、アイちゃんと海ちゃんと優ちゃん、誰が一番リードしてる?」
 ほんとに直球だな!
「いや、それはちょっと……」
「あら、答えてくれないの? それとも、もしかして三人の他に……ハッ! わたしはダメよ! わたしには正道さんがいるんだから」
「違います」
 きっぱり言うと、和香さんはものすごくつまらなさそうな顔をした。
「もう、そんなにはっきり言わなくてもいいのに」
「からかわないでください。だいたい、そんなこと聞いてどうするんですか?」
「あなたたちの人間関係を把握しておくのも、ミッションを計画する上で大事なことなのよ。ま、わたしが興味津々なのもあるけどね」
「ハァ……」
 この人は本当に取り繕わない人だな。だからこそ信用できるわけだが。
「絶対、他の人には言わないって約束してくれますか?」
「もちろんよ。正道さん以外、絶対誰にも言わないわ」
 柳所長には言うのか。まあいい。
「一番気になっているのは…………アイシャです」
 小さく告げると、和香さんは正面を向いたまま顔をにんまりさせた。
 あくまでも安全運転だ。
「あらあら、アイちゃんなのね。よかったら理由を聞かせてもらえるかしら?」
「その代わり、アイシャのこと教えてください」
「女の子のこと詮索するなんて、あんまりいい趣味とは言えないわね」
「趣味とかじゃなくて、アイシャは僕のこと海から聞いていろいろ知ってるじゃないですか。僕だけ知らないのは不公平です」
「それもそうね。いいわ、教えてあげる。でも明季君の話す方が先よ。どうしてアイちゃんのことが気になってるの?」
「それは、なんとなくとしか……。僕にもよくわからないんです」
 また赤信号で車が停まる。
 和香さんは顔をこちらに向け、三十六歳とは思えない小悪魔のような表情をした。
「それ、わたしが当ててみせましょうか?」
「え? いや、それはやめてほしいです」
 拒否するも、和香さんには通じない。
「ダメよ。そうやって逃げてばかりじゃ」
「そんなつもりは……」
「じゃあ、ちゃんと聞いててね」
 しまった、まんまとはめられた。
 信号が青に変わる。
 車を発進させると同時に、和香さんは話を再開する。
「海ちゃんも優ちゃんも、とっても優秀な子よね。だから明季君は、同じテスターとしてあの子たちと比べて自分が劣っていると思われるのを怖がってるの。その点アイちゃんはナビゲーターだから優劣は関係ない。とっても気が楽よね」
 悔しいが和香さんの言うとおりだ。
 優があれほどハイスペックなのを知ったのは昨日今日のことだが、海に関してはずっと前から引け目を感じていた。一緒にいて比べられるのが、とてもつらかった。
 和香さんは僕の胸をえぐるような話を容赦なく続ける。
「同じ分野で負けたくないっていう男の子の意地があるのよね。でも勝ち目がなさそうだから、つい居心地のいい方へ逃げちゃう。それがアイちゃんのところ。どう、間違ってる?」
「……いえ、そのとおりです」
 もはや取り繕う意味もない。全部お見通しだ、この人は。
 僕自身すらよくわかっていない深層領域まで把握している。
 だが不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。
「ごめんね、疲れてる時にこんなこと言って。でもね、海ちゃんだって悩んでるわ。悩んで悩んで、きっとこれから成長するはずよ。だから明季君にも成長してほしいの」
 まるで、先生が生徒に諭すような口調。
「それで、引け目なんて吹き飛ばしてみせて」
 本当に僕のためを思ってなければ、こんなことは言ってくれない。
 だからつらくはなかった。
 やっぱり和香さんには敵わないな。
 そうこう話しているうちに、十五分が過ぎてしまった。
 僕の住むマンションの前に、車が停まる。
「あら、もう家に着いちゃったわね。アイちゃんのお話、どうする?」
「今度、本人に聞いてみます。趣味のこととか、好きな食べ物のこととか」
「それがいいわね」
 和香さんは穏やかに微笑んだ。
「それじゃあ、最後に一つだけアドバイス。明季君が地雷踏まないように、アイちゃんが一番嫌ってることを教えてあげるわ」
 それは貴重な情報だ。
「ぜひ聞かせてください」
「それはね、嘘をついたり、ごまかしたりすることよ。明季君、あの子とはどこまでもまっすぐ向き合ってあげてね」
「はい」
「じゃ、おつかれさま。また明日ね」
 車から降りる。
 急にお腹が空いてきた。まずは腹ごしらえだな。
 食は力の源だ。今日はしっかり食べよう。
 よく噛むのを忘れずに。


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