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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第10回 五章 彷徨(前編)


 六月中旬、梅雨が近付くこの季節。
 もはや涼しいのは朝方だけで、日中は外を歩いただけで汗が出るほど暑い。
 さらには、この暑さに湿気が加わるのだから気が滅入る。
 VFシステムによるミッションが開始されてから約二ヶ月が経っていた。
 今日は土曜日。僕のミッションはお休みの日。
 この日、僕はアイシャと二人で剣道の試合を見にきていた。
 会場は四つのコートで試合が同時進行できる総合体育館。スタンド席になった二階の観客席から試合を観戦する。
 会場では小学生から壮年まで様々な年齢の選手たちが試合を行っていた。
 僕たちが注目しているのは高校生女子の部。
 中でも、一年生でありながらついに決勝戦まで駒を進めた茅森優(かやもりゆう)だった。
 決勝の相手は一七〇センチを超える長身の選手だ。
 優はそれより頭一つ分低い。二十センチ以上の身長差がありそうだ。
 手を伸ばせば、背伸びをすれば、簡単に届く距離二十センチ。しかし、刹那の見切りが勝敗を分ける武道の試合において、その差はあまりに大きい。技術が同程度の者同士であれば、それは残酷な結果となって現れる。
「始め!」
 審判の合図後、二人は蹲踞(そんきょ)の姿勢から立ち上がり、正眼の構えで相対する。
 相手選手は、これまで長身を生かして序盤から積極的に攻め込んでいくスタイルだった。しかし、この試合では逆に一歩下がり、大きく間合いをとった。
 そして、ゆっくりと天空に向かって竹刀を掲げる。上段の構えだ。
 この決勝まで温存していたのか。これは手強いぞ。
 二十センチ以上の身長差があろうとも、相手選手に油断や驕りはないようだ。
 優は正眼に構えたまま、徐々に間合いを詰めていく。
 間もなく相手選手の射程距離。
 どうしたって先に届く方が有利――と思った瞬間、稲妻のような突きが相手選手の喉元を捉えた。
 は、速い!
 技の起こりが全く見えなかった。気付いたら技が決まっていた。
 やや遅れて審判の白旗が挙がる。
 それから、わぁっと歓声が上がった。
 相手選手は尻餅をついて呆然としていた。
 まさかいきなり突きがくるとは思っていなかったのだろう。
 突き技は、中学までは試合での使用が禁止されている。高校生になってまだ二ヶ月あまりの一年生が、これほど鋭い突きを放ってくると予想できなくても無理はない。
 二本目。
 突きを警戒してか、相手選手は正眼の構えをとった。
 正眼は攻守ともに最も安定した構えだ。
 しかし、リードされている側が守りに入るようでは、もはや勝敗は見えていた。
 相手選手が面を打とうと竹刀を振り上げた瞬間、その脇を電光石火が駆け抜ける。
 優の抜き胴が決まった。


 閉会式が終わり、選手一同が解散してからしばらく。
 僕とアイシャは優と合流すべく、体育館のすぐ横にある公園に移動した。
 やがて、半袖の制服に着替えた優がミニのツインテールを揺らしながら駆けてくる。
 その手にはトロフィーと賞状があった。
「優さん、優勝おめでとうございます」
「アイシャさん、ありがとうございます」
 二人とも笑顔で言葉を交わす。
 アイシャと優は初日こそ激しく論争したものの、その後はまずまず良好な関係を築いてくれた。
「おめでとう、優」
「明季さん、ありがとうございます。見に来てくれて嬉しいです」
 優は嬉しそうに頬を染めた。
「驚いたよ。剣道やってるとは聞いてたけど、これほどの腕前だったなんて。練習がんばってるんだな」
「うちのお父さんが剣道の先生で、小さい頃から徹底的に教え込まれてたんです。昔は無理矢理やらされて嫌いだったんだけど、今じゃ感謝してます。ミッションで、お役に立てるかもしれないから」
 治安の悪化した未来では危険に遭遇する可能性が高い。それ故、テスターにとって武道・格闘技の経験は必要不可欠といってよかった。僕と海は合気道、柴波は空手、優は剣道、その他のテスター候補者もなんらかの武技を身に付けているという。
 体育館の玄関から出てくる人がまばらになってきた。
 もう選手観客の大半は帰ったのだろう。
 その中から、大会審判と同じスーツを身に付けた中年男性がこちらへ歩いてきた。
「優」
 男性は低い声で優を呼ぶ。
「お父さん」
「その方たちが例の?」
「うん」
 優は母親似なのだろう、たくましい体格と表情の父親が、こちらに対し一礼した。
「はじめまして、優の父親です。話は娘から聞いております」
 ピンと伸びた背筋、遥か年下の僕たちに対する礼儀正しい態度。さすが優を育てただけのことはある。今となっては数少ない本物の武道家のたたずまいだ。
 アイシャが歩み出て、礼を返す。
「VFシステム開発研究所のアイシャです。こちらはテスターの一人、野川明季」
 僕も軽く頭を下げた。
「まずは場所を移しましょう。ここでは落ち着いてお話ができませんので」
 アイシャが提案する。
 しかし、父親はそれを制した。
「いえ、それには及びません。私を含め、家族一同の返事はもう決まっておりますので」
「では、優さんのことは……」
「はい。娘の意志を尊重することにしました。我が娘が人類の未来を変えるための力になる。親として師として、これほど誇らしいことはありません。どうか優のことをよろしく頼みます」
 父親は深々と頭を下げた。
 こうして家族からの了承を得た優は、正式にテスターとして活動することになった。


 四十年後の農村で青浄会の破壊活動に巻き込まれてから一ヶ月。
 農村を調査するのは一旦中止にして青浄会について調べてみたが、どうやら全国的な組織ではないようなので、地域を変えて農業の調査を再開した。
 結果は、あの支部長が言っていたとおり、台風や気候変動による被害がひどく、ずっと不作が続いている地域が多かった。にも拘らず、政府や企業は金になるバイオ燃料を優先してトウモロコシ畑を増やす努力をしているとか。不思議な話だ。
 次に、漁業と畜産業を調査する。
 結論からいえば、日本の漁業は壊滅的な状態だった。
 海洋汚染、異常気象、近隣諸国による乱獲、燃料の高騰、後継者不足など、ありとあらゆる悪因が重なり、もはや利益を上げることが困難となっていた。養殖業は続いていたが、よほど裕福な家庭でない限り食卓に天然の魚介類が並ぶことはなくなったという。 
 同様に、畜産業も危機的状況だった。
 牛や豚は完全に高級食材。比較的飼料が少なく済む鶏だけは、かろうじて庶民の手に届く価格に留まっていたが、常食できるような価格ではない。もちろん、卵、バター、牛乳の価格も跳ね上がっていた。
 また、これまでのミッションで気付いたことがある。
 四十年後には、日本人の平均身長が目に見えて落ちていた。現代では小柄な方である一六五センチの僕が割と大きな部類に入るくらいだ。断定はできないが、漁業、畜産業の衰退によってタンパク質の摂取量が減少したことが原因ではないかと考えられる。


 そして翌日、日曜日。
 第一ブリーフィングルームに、僕とアイシャと優の三人が集まった。
 優は半袖のブラウスにキュロットスカート。
 アイシャは半袖のメイド姿、ヘアスタイルはいつもどおりポニーテールだ。
 僕はといえば、暑いのでミッションが始まるまでスーツの上は着ずにカッターシャツ姿でいる。もちろんノーネクタイだ。
 これは常々疑問に思っていることだが、暑いのに無理をしてスーツの上を着る必要はあるのだろうか。外交の仕事や海外の人たちが注目する行事ならともかく、日本人同士の場で西洋の形式をそこまで厳しく守る必要はない気がする。わざわざ暑い服を来て、その分エアコンの設定を強くして電気を多く使っているのだから間抜けとしかいいようがない。そのあたりは四十年後の人たちを見習って、もっと柔軟にやってほしいものだ。
 まずはアイシャが、正式にテスターとなった優にシステムの基本機能の説明をする。
 内容は僕の時と同じだが、アクセス後の負担のことが付け足されていた。
 アクセス後に掛かる負担は、アクセス中に掛かった身体的負担に比例すること。
 ただし、何もしなくてもアクセスしただけで一定の負担はあること。
 アクセス時間が長いほど負担が増すこと。
 僕がミッションを進めていく中でわかったことだ。
 その後、アイシャが改めて言う。
「本日はミッションを始める前に重大な発表があります」
 唐突だな。
 アイシャが隠し事をすることはない。昨日今日決まったことなのだろう。
「このたび、開発部の尽力によってVFシステムはバージョンアップを果たしました。今後は二人同時にアクセスすることが可能となります」
 驚きの発表を聞いて、僕は無意識のうちに優を見ていた。
 優も同時にこちらを見てきた。
 二人同時という言葉を聞いて、初めに浮かんだ相手がお互いだったからに違いない。
 そんな僕たちの反応にも、アイシャは表情を変えず続ける。
「もう察していただけたかと思いますが、この新機能を使っていただくのは明季と優さんのお二人です」
 それを聞いた優はとても嬉しそうだった。
 満面の笑みを浮かべて、小さくガッツポーズまでしていた。
 ふふ、そういうところはまだ子供なんだな。
 優の様子が微笑ましくて、自然と顔がほころぶ。
 同時に思う。いざとなったら僕が優を守ってやらなきゃな。
 アイシャがコホンと咳払いする。
 優がハッと我に返った。
「ですので、優さんのスケジュールは明季に合わせていただきます。明季が土曜日にミッションを行う場合は優さんも土曜日、日曜日の場合は日曜日です。もし学校の行事等でミッションに参加できない時は早めにおっしゃってくださいね」
「わかりました」
 優は高校生なので平日はミッションに参加できない。よって土日以外は、これまでどおり僕一人でアクセスするということは説明されるまでもない。
「それから、優さんのナビゲーターはわたしが兼任します。よろしいですね?」
「はい、よろしくお願いします」
「衣装については、何か希望があればお聞きしますが、どうしますか?」
「……あ、いえ、今のままでいいです」
 優はきっぱりと答えた。
 まあ、そうだろうな。おそらくアイシャは優についても調査したのだろうが、女の子が年上の女性に着せたい衣装などそうそうあるはずもない。
「そうですか……」
 なんとなく、アイシャの表情がおもしろくなさそうに見えたのは気のせいだろうか。
「ではもう一つ。呼び名のことですが、たった今からわたしのことはアイシャとお呼びください。敬称は要りません」
「え、呼び捨てになっちゃいますけど、いいんですか?」
「構いません。ミッションは一秒を争う急な場面に遭遇することも考えられます。そんな場合に備え、さんや君≠ネどの敬称を省くことで時間の短縮を図るのが目的です。ですから、わたしもこれからは優≠ニ呼びます。いいですね?」
「わかりました……アイシャ」
 ぎこちない優の声。
 慣れるまでは違和感がありそうだ。いや、そもそもアイシャは本名ではないから呼び捨てにはならないのか? 本当は、なんていう名前だろう。
「では次に、新機能についての説明に入ります。まずモニターに表示される映像ですが、お二人の視点が二つのモニターにそれぞれ表示されます。また、録画も二人同時に行われますので、一度のミッションで二つの映像を残すことができます」
「なるほど、それは便利だな」
 一度に二人分のデータが集まれば、より精度の高い情報収集ができる。同じ光景でも別視点から見ることによって新たな発見ができる場合もあるだろう。優がミッションに慣れてきたら別行動もありかもしれない。
「通信に関しては一人の時と同じです。お二人とも、いつでもこちらと会話ができます」
「それなら、僕と優がはぐれてしまってもアイシャを介してすぐに連絡が取れるな」
「はい」
 アイシャの返事を聞いて、優がホッとした表情になった。
 説明は続く。
「次に、リセットは必ず二人同時に作動します。どちらか片方だけを戻すことはできません。死亡した際も同じです」
 どちらか片方でもやられたらゲームオーバーか。やっぱり別行動はしない方がいいかもしれない。
「最後にもう一つ。アクセス終了の際に受ける負担のことですが、これはお二人の適性率の平均値を等分して受けることになります。つまり、一人でアクセスした時に比べ負担がおよそ半分で済みます。二人同時アクセスの最大の利点ですね。ただし、どちらか片方が死亡した際の負担も等分されてしまうので注意してください」
 なるほど、それで優をテスターとしての登録するのが認められたのか。半分の負担なら成長に阻害が出ないと判断されたということだ。
 いや、正確には半分ではないか。二人の適性率の平均を等分するということは、数値の高い方が損をする。実際に優が受ける負担は本来の半分以下になるはずだ。
 しかし、86.8%の僕と77.9%の優ならそれほど問題はないが、数値がかけ離れていたとしたら、二人同時アクセスは必ずしも利点にはならない。 特に99.8%の海なんて、ほとんど一方的に相手の負担をもらうだけだ。
「新機能についての説明は以上ですが、何か質問はありますか?」
「いや、特にない。――優は?」
「わたしも大丈夫です」
「何が気になることがありましたら、またいつでも聞いてくださいね」
「はい」
 優が返事。
 いつもながらアイシャの説明は丁寧でわかりやすい。きっと事前の準備に時間を費やしているに違いない。
 話が一段落つくと、アイシャはカウンターに行って資料を持ち替え、再び僕たちのところへ戻ってきた。
「それでは、本日のミッションの説明を始めます」
 僕はコクっと頷く。
「今回お二人にアクセスしていただくのは四十年後の都心部です。今回は優にとって初ミッションですので、これといった指示は出しません。自由に街を歩き回ってみてください。もちろん、危険には極力近付かないように」
「わかった」
 僕の返事の後、優も頷く。
「次に、ミッションを行うにあたって、明季と優の関係を決めておかなければなりません」
「関係ですか?」
 優がアイシャの顔を見ながら首を傾げた。
「はい。もしあちらの世界でお二人がどういう関係なのか聞かれて、即答できなかったら不自然ですから」
 言われてみればそのとおりだ。
 実際には同じテスター、つまり同僚だが、正直にそう答えるわけにはいかない。
 アイシャは僕と優を交互に見ながら言う。
「年齢差から考えて、お二人は兄妹という関係が最も自然でしょう」
「妹ですか……」
 優が不服そうな顔をする。
「それ以外に何かありますか?」
 アイシャが冷たく問うと、優はムッとなって言い返す。
「先生と生徒でいいじゃないですか?」
「先生と生徒が街中で二人、何をしてるんです? 警察に職務質問でもされたらどう答えるおつもりですか?」
「うう……」 
「兄妹なら、たまたま学校帰りと会社帰りに出会って一緒に帰宅するところ――ということにしておけば何も不自然ではありません。時刻もそのくらいに設定しますので」
「……わかりました」
 優はしょんぼりする。
 む、今度はアイシャが優勢だったか。時刻の設定というカードが決め手だったな。
「それから、兄妹なので敬語は使わないようにしてくださいね」
「はい……」
 力のない返事。なぜそこまで残念がる?
「では優、今から明季のことをお兄ちゃん≠ニ呼んでみてください」
 ――ん?
 突拍子もない指示に、僕は驚き目を開く。
 言われた本人はそれ以上に驚いていた。
「ええ!? ここでですか?」
「そうです。本番前の練習です」
 平然と返すアイシャ。
「わ、わかりました」
 優はゆっくり伏し目がちにこちらを見る。
 そして、口元をわなわなさせてから、

「お、お兄…………ちゃん……」
 
 と、消え入るような声で言った。同時に小さな顔が真っ赤になる。
 か、可愛い。でも妹って感じはしないな。
「もう一度言ってください」
 アイシャの抑揚のない口調に、優はますます萎縮してしまう。
「お、お、お兄ちゃん……!」
「そんな恥ずかしそうに兄を呼ぶ妹がいますか? もう一度」
 そのあと二十回くらいやり直しをさせられて、優はようやくまともに発音ができるようになった。
 これは練習してなかったら危なかったな。
 ちょっとかわいそうな気もしたがミッションのためだ。仕方がない。
 しかし……もしかしてアイシャ、この前の論争のこと根に持ってないか?
「まあいいでしょう。くれぐれもミッション中、言い間違いのないように」
「は、はい」
「それにしても、優は演技が苦手なようですね。慣れていただくためにも、今後は普段から明季とは兄妹のつもりで接してください」
「え……! 普段からって、これからずっとですか?」
「もちろんです。わたしたちが普段から名前で呼び合うのと同じです。演技ができない以上、自然にしてしまうしかありませんから。何か問題でもありますか?」
「いえ……」
 アイシャの鋭い視線に対し、何も言い返せない優。
「明季もです。たった今から優のことは本当の妹と思って接してください。いいですね?」
「わかったよ」
 僕が答えると、アイシャは満足そうな表情をした。 
「それでは、ミッションの準備をしましょう」
 優はぐったりしていた。
 僕の初ミッションの時もそうだったが、テスターをこんなに消耗させていいのか? 
 やり方がおかしくないか?


 いよいよミッション開始といきたいところだが、その前にまだやることがある。
 戦闘準備だ。僕はもう準備を済ませてあるので、あとは優。
 アイシャが、優のために用意された装備一式をテーブルの上に置く。
 まずはその中から、きれいに折りたたまれた服を優に差し出した。
「今後ミッションを行う際は、こちらの服を着てください」
「これは、わたしの制服?」
 優に手渡されたのは、紺色のブレザーと白いカッター、それからチェック模様のスカート。昨日試合会場で見た夏服とは違う、冬の制服のようだ。
「見た目は同じですが、こちらは防刃防弾仕様に仕立ててあります」
 優はアイシャから受け取った制服の手触りを確かめた。
「確かに、ちょっとザラついてて重たい感じですね。でも、これで銃弾が防げるなんて不思議です」
「防げるといっても、致命傷を防げるだけです。まともに受ければ骨にヒビくらいは入るでしょう。決して万能ではありませんので、極力銃や刃物を向けられるようなシチュエーションにならないよう努めてください」
「はい」
 優は緊張した面持ちで返事をした。
「次に、護身用の武器です」
 僕の時のように複数の武器が並ぶのでなく、初めから優の武器は決まっていた。
 竹刀だ。もちろん、生身で携帯するわけにはいかないので竹刀袋も用意されていた。
 優は竹刀を手に取り、感触などを確かめたりする。
「これはカーボン竹刀ですね」
 カーボン竹刀とは、その名のとおりカーボン素材でできた竹刀で、竹製のものより丈夫で簡単には壊れないのが利点だ。ただし値段も高い。
「制服を着ていれば竹刀を持っていても剣道部員と思われるだけなので怪しまれることはないでしょう。いざという時、袋から素早く取り出せるよう練習しておいてください」
「わかりました」
 優はカーボン竹刀を袋にしまい、紐を結んで口を閉じた。さすがに手馴れた動作だ。
 それにしても、優が正式にテスターになったのは昨日のことだ。たった一日でこれだけのものを用意できるはずがない。ひょっとしたら成績上位の候補者は、いざという時いつでもアクセスができるよう、あらかじめ装備が用意されているのかもしれない。
 優が着替えるため、僕とアイシャは先にアクセスルームへと移動する。
 新機能が追加されたVFシステムだが、椅子とモニターが二つになっている以外、外観に大きな違いはなかった。
 五分くらいして優が来る。
「優、こちらの席に座ってください。それから、そのままではヘルメットが被れませんので、髪をほどいてください」
「はい」
 優は僕の隣の席に着いた後、ツインテールをほどき、アイシャにヘアゴムを渡した。
 髪をほどいたところは初めて見るが、意外と大人っぽくなるんだな。
 そんな見た目とは裏腹に、優は緊張している様子だ。竹刀袋を抱える両手が少し震えていた。僕が初めて仮想未来にアクセスする時もそうだった。
「優」
 ほんの二ヶ月ほどではあるが、テスターの先輩として声をかけてあげる。
「大丈夫だ、アイシャがちゃんとサポートしてくれるから。それに僕もついてる」
「はい」
 それから優は、アイシャがナビゲーターの席に向かった隙を見てささやきかけてきた。
「あ、あの、明季さ……お兄ちゃん。手、つないでもいいかな?」
「うん」
 僕は快く返事をし、控えめに差し出された優の小さな手をそっと握ってあげた。
 暖かい手だ。優の表情が幾分穏やかになる。
 ナビゲーターの席から戻ってきたアイシャは一瞬表情をムッとさせたが、何も言わずにヘルメットを被せてくれた。
 これですべての準備が完了。いよいよだ。
 優の手に力がこもる。
「それではミッション開始します」


 気が付いたら路地裏に立っていた。
 すぐ横に優もいる。手はつながれたままだ。
 僕はそっと手の力をゆるめたが、優が離そうとしなかったので、そのまま握っていることにした。
 まずは辺りを見回す。時刻の設定が午後四時半なので少し薄暗い。
 もちろん周囲に人の気配はない。遠くから街のざわめきが聞こえてくるだけだ。
『明季、優、何か異常はありますか?』
 アイシャからの通信。
「問題ない」
「こ、こちらも問題ありません」
 優も慌てて返事をした。初めての感覚に戸惑っているのだろう。
『それでは、行動開始してください』
 いよいよ初の二人ミッション、スタートだ。
「行こう、優」
「うん」
 僕は優の手を引き、少し赤みがかった日差しの方へと進む。
 路地裏から通りに出ると、まず目に飛び込んできたのは人。
 視界を埋め尽くすほど大勢の人が行き交っている。
 やはり外国人が多い。褐色の肌や顔立ちから、東南アジア系か中東系と思われる人が多く目に付く。頭にスカーフのような布を被った、一見してイスラム教徒とわかる人も目に付いた。
 本当にここは日本かと疑うほどだが、割合でいえば日本人の方が遥かに多い。
 高齢者ばかりでなく、若い人もちゃんといる。優と同年代の学生もいる。
 人が多過ぎて景色を観察している余裕がない。
 僕と優は、はぐれないよう手をつないだまま駅前の広場まで移動した。
「ふう、すごい人だね」
 優がため息をつく。
 少しぎこちないが、ちゃんと兄妹設定を忘れず敬語を避けている。
「そうだな。人口が減って少しは混雑も解消されるかと思っていたが、その分外国人が増えて現代とあまり変わらないみたいだ」
「あの外国人さんたち、旅行者じゃないよね?」
「観光地でもないのにこの人数はありえないだろう。旅行カバンも持ってないし、移民者だろうな」
 優の手に少しだけ力がこもる。不安なのだろう。僕もそうだ。
 外国人を敬遠するつもりはないが、これだけ多いと不安にもなる。
 十人に一人は外国人かもしれない。
『お二人ともいつまで手をつないでいるのですか?』
「ぁ……!」
 アイシャの指摘に、僕と優は弾かれるように手を離した。小さく声を上げたのは優だ。
 おかしいな、アイシャが見ているのは僕と優の正面を捉えた映像。つないだ手の位置は見えないはずだが……。勘で言ったのか?
 アイシャはそれ以上何も言ってこない。
 まあいい、観察を続けよう。
 高層ビルがひしめき合う都心部の駅前広場を、僕たちはゆっくりと歩き出す。
 バス停があり、地下へと下る階段があり、なんだかよくわからないモニュメントがあり、基本的な街の構造は現代とも八十年後ともそれほど変わらない。
 建物は太陽熱を反射する目的で白く塗装されているものが多いが、この時点ではまだすべてではない。道路は現代と変わらない色だ。
 車はほとんどが電気自動車だ。都心部とはいえ磁気自動車はまだ走っていない。
 タクシーの窓から運転手が顔を出している。自動運転システムもまだ使われていない。
 ロボットは見かけない。障害物の多い空間で自在に動き回るほどの技術は実現できていないということだ。
 僕は何度も見たが、優にとって直接見るのは初めて光景だ。
 優は目を輝かせながら周囲に見入っていた。
 少し歩いたところで地図を見つけた。駅周辺の路線と観光地などを示す地図。
 八十年後にあったホワイトとグレーを分ける境界線はない。
 この時代にあの壁はまだないはずだ。
 ちょうど周囲に人がいないので尋ねてみる。
「アイシャ、これからどうする? グレーエリアがあったところまで歩いてみようか?」
 ……
 …………
「アイシャ?」
 ……
 ……………
「アイシャ、どうした!? 返事をしてくれ!」
 もう一度呼び掛けてみるが、やはり反応がない。
「優、そっちは?」
 優も慌ててアイシャに呼び掛ける。
「だめ、反応がない」
「どうなってるんだ、システムトラブルか?」
 それならまだいい。もしアイシャの身に何かあったのだとしたら……。
 最悪の事態が頭に浮かび、胸が苦しくなってくる。
「お兄ちゃん、どうするの?」
 そう言われても、どうしようもない。
 アクセス中の僕たちにできることは何もない。
「とにかく、下手に動くのは危険だ。通信が回復するまでここで待とう。研究所には所長と和香さんがいる。いざとなったらなんとかしてくれるはずだ」
 ひたすらアイシャの無事を祈るしかできないのが歯痒かった。


 それから三十分。
 向こうからの連絡を期待して、僕たちは広場のベンチでじっと待ち続けた。
 だが、未だに反応はない。
 こんな状況では会話が弾むはずもなく、ほとんどの時間を街の観察に費やしていた。
 この場所から見える光景にも、いい加減飽きてきた頃だ。
 人が多いだけあって警察官の姿をよく見かける。国家の治安を守る警察官も、仮想未来においてはミッションの妨げになりかねない厄介な存在だ。
 僕は隣に座っている優に小さく声をかける。
「優、そろそろ場所を移そう。あまり長居して警察に目をつけられたら面倒だ」
「そうだね」
 僕たちは駅前広場をあとにして、住宅街の方面へと歩き出した。
 不安な時、迷った時、人は無意識のうちに過去に見たものや経験したことを頼りにする。気が付けば、僕たちは以前映像で見た柴波が進んだルートをたどっていた。
 ナビゲーターのサポートがない状態、つまり危険が迫ってもリセットしてもらえない状態が不安というのもある。だがそれ以上に、これだけ時間が経っても音沙汰のない方が不安だった。もしかしたらアイシャの身に何かあったどころか、研究所そのものが占拠されてしまった可能性もある。
 だとしたら僕たちだって危険だ。アクセス中、本体の方は完全に無防備。今この瞬間にも本体が傷付けられているかもしれない。
 いや、どうなんだ? 本体を傷付けられると、この仮の肉体にも影響が出るのか? もしそうなら今のところは無事ということになるが、それもはっきりとはわからない。そんな事態は想定したことがなかった。
 ただ一つはっきりしているのは、本体が死ねばすべて終わり、現実からも仮想未来からも消えてなくなるということだけだ。まさか仮想未来の中で残留思念となって生き続けるわけでもあるまい。
 自殺して強制リセットという手段もあるが、まだそれを使う段階ではないと思う。
 今はとにかく、ここで事件に巻き込まれないように注意しなければ。
「お兄ちゃん、あれ」
 優の声で我に返り、視線の先を見る。
 公園に大勢の人が集まっていた。
 何十人もの老若男女が一ヶ所に密集している。みな日本人のようだ。
「なんだあれは?」
 どう見てもスポーツ大会やお祭りイベントの雰囲気ではない。
 人々の顔に不満と憤りが表れている。
 よく見ると、公園に机が設置されており、人々が順番に何かを書き込んでいた。
「署名活動じゃないかな?」
 優がつぶやく。
 署名なら駅前でやった方が集まりそうなものだが、何か事情があるのだろうか。
「なんの署名かは知らないが、近付かない方がよさそうだな。今は非常時、君子危うきに近寄らずだ」
 視線を正面に戻し、早足で公園の前を通り過ぎようとする。
 その時。
「すみませーん、ちょっとお時間いいですか?」
 背後から声をかけられた。
 ち……。心の中で舌打ちをする。
 振り向くと、二十代半ばくらいの活発そうな女性が。
「今、わたしたち移民排斥運動をやってるんですけど、よかったら署名に協力してもらえませんか?」
 明るい声で恐ろしいことを言う。
 まずい、これは絶対関わっちゃダメだ。
「申し訳ないが、今急いでいるので……」
「その制服、見たことないけど、どこの学校?」
 女性は僕を無視して優に話しかけていた。
「あ、えっと……」
「家はこの辺りなんだよね? 遠くの学校に通ってるのかな? そっちはお兄さん?」
 女性はこちらの都合などお構いなしに次々とまくし立ててくる。
 しかも、いつの間にか優の腕をつかんで逃げられないようにしている。
「この辺に住んでるなら、あいつらには迷惑してるよね? ね? お兄さんも、みんなで協力してあいつら追い出そうよ」
 女性が優の腕を引っ張って強引に連れていこうとするので、僕は慌てて制止した。
「待ってください! 追い出すって、どういうことですか?」
 女性は動きを止め、訝しげな表情をする。
「どういうことも何も、そのまんまだよ。移民の連中を日本から追い出すの。あなたたちも日本人なら協力してよね」
 あからさまに女性の態度が悪くなっていく。
 僕たちの非協力的な態度が信じられないと言わんばかりだ。
 日本人と移民者の間に、そこまで深い溝ができているのか。
 だが署名をするわけにはいかない。名前を書くだけなら構わないが、住所なども書かなければいけなかったら大変だ。この辺りの細かい地名がわからない。でたらめを書いたら間違いなく怪しまれる。
 それにだ。さっきから公園に入る人はいても出てくる人がいない。
 どうも署名しただけでは済まないようだ。
 女性は優の腕を離そうとしない。
 かといって強引に外すわけにもいかないので、僕は非常手段を使うことにした。
「わかりました、じゃあ署名します」
 と言って油断させてから女性に近付き、フッと耳の穴に息を吹きかけた。
「ひゃ!」
 女性の身体がビクンと跳ね上がる。
 力が緩んだ。今だ!
「優、逃げるぞ!」
「うん!」
 女性の手から優の腕がするりと抜ける。
 あとは全力疾走あるのみ。
 悪く思わないでくれよ。自分の腕からならともかく、人のを無傷で外させるとなると、このくらいしか手段がないんだ。
 二百メートルくらい走ったところで速度を緩め、後ろを振り返る。
 よかった、追ってこなかったみたいだ。
 角を左に曲がり視界から公園が消えると、僕たちは足を止めて呼吸を整えた。
「ふうー、危なかったな。まさかあんな強引な勧誘に捕まるとは」
 あの女性、ちょっと和香さんに似ているなと思ったがそれは口にしない。
「わたしは、むしろお兄ちゃんが耳にフッてしたことに驚いたよ」
「これも護身術の応用だよ。力ずくで外したりすると、転倒させてしまうおそれもあるからね。ましてや怪我でもさせたら大変だ。意表をついて思考力を麻痺させて、その間に脱出する。おかげで、怒って追ってくる様子もない」
「へえー、そこまで考えてるんだ」
 兄妹設定にも少し慣れてきた感じの口調だ。
「極力、人を傷付けず事を荒立てず、場を収めるのが武道の本質だからな」
「そっかぁ。よかったら今度、お兄ちゃんが習ってた武道教えてくれる?」
「じゃあ代わりに、僕には剣道教えてくれるかな?」
「うん!」
 優はパアッと表情を明るくし、大きく頷いた。


 通信が途絶えてからおよそ一時間。
 だいぶ陽が傾き、夕暮れの時間帯になってきた。
 留まるのに適した場所がなかったので、僕たちはひたすら歩き続けた。
 これが現代ならファミリーレストランや喫茶店など留まる場所には事欠かないだろうが、この食料難の時代にそういった飲食店はめったに見当たらない。あっても混雑しているか料金が高くて入れなかった。
 ゲームセンターやカラオケ、映画館といった娯楽施設もない。デパートやショッピングモールもない。大型スーパーらしき店はあったのだが、中は倉庫のように所狭しと商品が積まれており、休めそうなスペースはどこにもなかった。
 それ以外にあったのは居酒屋と高級レストランくらいだ。当然、そんなところに入れるはずがない。
 住宅街から繁華街、繁華街からまた住宅街へと景色は変わっていく。
 もうそろそろ八十年後なら壁のある地点の近くまで来ているだろうか。
 先日、壁の地点を現代の地図と照らし合わせてみたところ、そこは国道だった。三車線の大通りがホワイトエリアとグレーエリアの境界線になっていた。
 つまり、その大通りのこちら側とあちら側とで何かが違っているのだ。現代の日本では地図を見ても実地調査をしてもそれはわからなかった。しかし、四十年後の世界なら何かしら兆候が見つかるかもしれない。
 ――かもしれないが、それには少なからず危険が伴う。今は近付くべきではない。
 もうそろそろ進路を変えようか。
 そう思ったところで、優が小声で話しかけてきた。
「お兄ちゃん、前を向いたまま聞いて」
「どうした、優?」
 言われたとおり、前を向いたまま小声で対応する。
「誰かに尾行されてる」
「なに……」
「三十メートルくらい後ろを歩いてる二人組なんだけど、もう十五分以上前からずっと同じ距離を保ってる。さっき赤信号で止まった時、なぜか追いついて来ずに遠くで待ってたから気付いたの」
 まったく次から次へと……。
「どこのどいつか知らないが、関わっている余裕はないな。優、次の角を左に曲がったら全力疾走だ」
「うん」
 さっき公園から逃げた時に確認したが、優はかなり足が速い。百メートルを十二秒台で走る僕に、ほとんど遅れをとらずに付いてきた。尾行に気が付いた勘の良さといい、おとなしい顔をしてとんでもないハイスペックだ。
 まるで海……いや、この子は物事を論理的に考える力も備えている。それにまだ十五歳だ、適性率が上昇する可能性もある。ひょっとしてあと二、三年もすれば、この子が最高のテスターになるのではないだろうか。
 曲がり角が近付いてくる。
 角には塀に囲まれた家があるので、曲がった瞬間に相手の視界から消えることができる。曲がった先がどうなっているかはわからないが、行き止まりでもない限り逃げ切るのはたやすいはずだ。たんぱく質不足で筋力が低下傾向のこの時代で、僕たちに追いつける人間はそうそういないだろう。
 角に差し掛かかった瞬間、二度目の全力疾走。
 景色は相変わらずの住宅街で隠れられる場所がない。だから、角があれば曲がり、なるべく姿を消すように走る。決して後ろは振り返らない。
 優のペースが落ちてきたので、それに合わせる。
 それから、もう一つ角を曲がったところでスピードを落とし、振り返って背後を確認した。
 追っ手の姿はない。振り切ったようだ。
「ふうー」
 足を止め呼吸を整える。
 優は膝に手を置いて、ハアハアと息を切らしていた。
「優、大丈夫か?」
「うん。それより、ここは……?」
 優に言われ、辺りを見回す。
 人々がこちらに注目していた。明らかに日本人ではない、褐色の肌と彫りの深い顔をした人々。
「アラブ系移民者の集落か」
 夢中で走ってきたため気が付かなかった。
 通りには大勢の人々が行き交っている。
 ここは集落のメインストリートのようだ。小さな商店が立ち並んでいる。
「まずいな。移民者と日本人が対立している以上、ここにいるのは危険かもしれない」
「お兄ちゃん……」
 優が不安そうな顔をする。
「いくらなんでも歩いてるだけでいきなり襲ってくる可能性は低いはず。とにかく、目立たないようにしよう」
「うん」
 僕たちは、肩をぶつけたり通行の邪魔になったりしないよう、注意して歩き出す。
 そうして少し進んだところで突然、通りにいる人たちが次々と同じ方角を向き、小さな絨毯のような物を地面に敷き始めた。
「なんだ……?」
 驚いて辺りを見回す。

『アッラーフ アクバル』
『アッラーフ アクバル』

 不意に、そこかしこに設置されたスピーカーから低い男性の声が響いた。

『アッラーフ アクバル』
『アッラーフ アクバル』
 
 声が響く中、人々は敷物の上にひざまずく。

『アシュハド アンナ ムハマダン ラスールッ=ラー』
『アシュハド アンナ ムハマダン ラスールッ=ラー』
 
 そして一斉に、額を地面にこすりつけるように頭を下げる。

『ハイヤー アラッ=サラー』
『ハイヤー アラッ=サラー』
 
 ここまで見ればさすがにわかる。イスラムの礼拝だ。
「お、お兄ちゃん……!」
 優が袖をつかんでくる。
 僕たちはイスラム教徒ではないから礼をする必要はない。
 しかし、この状況で二人だけ突っ立っていたら彼らにどう思われるか。
 僕たちも礼をすべきか?
 いや、明らかにイスラム教徒でない僕たちが形ばかり真似するのは、かえって彼らを刺激するかもしれない
「優、こっちだ!」
 僕はとっさに優の手を引き、建物の塀と塀の隙間に連れ込んだ。

『ハイヤー アラ=ル=ファラー』
『ハイヤー アラ=ル=ファラー』 

 ここなら彼らの視界に入らないはず。かなり狭い隙間なので身体と身体がほとんど密着状態になってしまうが、背に腹は変えられない。
 優もそれは理解しているようで、僕の胸に顔をうずめたままじっと黙っていてくれた。
 さわやかな柑橘系の香りがする。
 いくら見た目が幼くても優は高校生。こんな状態で緊張するなと言われても無理だ。
 心臓が激しく動く。これだけ密着してれば、優にははっきり聞こえているはずだ。
 いや、でも今の状況なら、彼らに襲われるかもしれないから緊張しているとも言えるか。……うん、そうだ。優ならそう解釈してくれるはず。
 そんな状態が二分くらい続いたところで、スピーカーからの声が止まった。
 終わったのか?
 礼拝をしていた人たちは一斉に立ち上がると、手慣れた動作で敷物をたたみ、日常へ戻っていく。さっきまでの雰囲気が嘘みたいだ。
「終わったみたいだな」
「う、うん」
 僕と優は塀の隙間から出る。
 密着状態だった身体がスっと離れた。
 鼓動はまだ高鳴っている。
 優は顔を真っ赤に染めてうつむいていた。
「ごめん、優。とっさだったから、ああするしかなくて……」
「ううん、わたしも正しい判断だったと思う……」
「そっか」
 優がそう言ってくれるなら、この話はこれ以上しない方がよさそうだ。
 改めて周囲の様子を確認する。
 物めずらしそうな視線こそ感じるものの、僕たちに関わろうとする者はいない。
「もう、大丈夫かな?」
 優がまた袖をつかんできた。
「たぶん……。でも、まだ油断はできない。早くここを離れよう」
「うん」
 さっきの尾行者と遭遇する可能性があるので、来た道を引き返すことはできない。
 とりあえず、この通りをまっすぐ行くしかなさそうだ。
「すみません」
 突然、背後から声をかけられビクッとした。
 振り返ると、そこには二人の青年が。二人ともアラブ人と思われる容姿だ。
「あっ」
 優が声を上げる。
「お兄ちゃん、この人たち、さっき尾行してきた人たちだよ」
「なに!?」
 僕は優を手でかばいながら、二人から距離を取った。
「待ってください! 我々は、あなた方に危害を加えるつもりはありません」
 青年の一人が言った。ほとんど日本人と変わらない流暢な日本語だ。
「だったら、どうしてつけてきたんですか?」
「つけたことに関しては謝ります。申し訳ない。どうしても、あなた方と話がしたかったのです」
「話? どうして僕たちなんですか?」
「あなた方は、さっき公園で署名しなかったでしょう? よかったら理由を聞かせてくれませんか?」
 厄介事に巻き込まれたくなかっただけなのだが、ここはそれっぽいことを言っておいた方がよさそうだ。
「僕たちは日本人ですが、だからといって日本人が全面的に正しいとは思っていません。移民者の側にも言い分はあると思います。だから署名はしませんでした」
 すると、青年たちは歓喜の声を上げる。
「おお、やはり思ったとおり、あなた方は他の日本人とは違う。突然で申し訳ないのですが、ぜひ相談したいことがあります。我々と共に礼拝堂まで来てもらえないでしょうか?」
 どう見ても敵対心はなさそうだ。態度も礼儀正しい。
 もう日も沈んでいる。下手に外をうろつくより安全かもしれない。
「優、こう言ってるが、どうする?」
「大丈夫だと思う。襲うつもりなら、さっき声かけてきた時に後ろから襲えたんだし」
 確かに。これで意見が一致した。
 僕は青年たちの方を向く。
「わかりました。僕たちでよければ話を聞きましょう」


 アラブ系移民者の集落といっても街並みまで中東を再現しているわけではなく、インフラも建築物も日本の街とたいして変わりなかった。この辺りは住宅街なので鉄筋コンクリートのマンションや木造アパートがほとんどだ。
 その中でただ一つ、異彩を放つ建物があった。イスラム教徒がモスクと呼ぶ礼拝堂だ。
 建物自体は近代的な西洋建築に違いないが、ところどころアラビア風のデザインが見受けられる。屋根がドーム状になっているのが最も特徴的だ。
「どうぞ、お入りください」
 青年たちの案内で事務室に通される。
 アラビア語の本がずらりと並んでいる以外は何の変哲もない部屋だ。
 部屋の隅に来客用の椅子とテーブルがあった。
「我々の代表者を呼んできますので、こちらに掛けてお待ちください」
 青年たちが部屋を出てから数分後。
 立派な口髭をたくわえた六十歳くらいの男性が姿を現した。
 身に付けている真っ白な服と被り物のおかげで、一目でアラブ人だとわかる。
「よく来てくれましたな。我々はあなた方を歓迎します」
 さっきの青年たちに比べると若干言葉が訛っている。おそらく、若い頃は祖国にいたのだろう。
 男性は、テーブルを挟んで僕たちの向かい側に座った。
「私はこのアラブ系住民地区の区長を務める、アフマドと申します。先ほどは同胞の者が失礼をいたしました」
 アフマド氏はゆっくりと頭を下げた。
 尾行のことを言っているのだろう。
「いえ、どうかお気になさらずに。やむにやまれぬ事情があってのことなのでしょう?」
 特に実害を被(こうむ)ったわけではないので穏やかに返答する。
「おお、察していただけますか」
「苦労はお互い様です。こういう時こそ、人は協力し合わなければならないと思っています」
「なんとお心の広い。まだお若いというのに、まるで古き良き時代の日本人を見ているようですな」
 声が震えている。アフマド氏は今にも嬉し泣きしそうな表情だった。
 そんな大げさなと言いたいところだが、ここは四十年後の世界だ。現代とは事情が違うのだろう。
「ところで、相談があると聞いて来たのですが?」
 僕が尋ねると、アフマド氏は表情を引き締めた。
「はい。我々は移民排斥運動をする方々との、話し合いの場を設けたいと思っています。ですが、こちらがどれだけ呼びかけようと彼らは一向に応じようとしません。そこで、あなた方に仲介をお願いしたいのです」
 信じられないな、温厚な日本人が話し合いに応じようともしないなんて……。
 先ほどの『古き良き』という言い方といい、日本人はそんなに変わってしまったのか。
 僕は少し考える振りをしてから言う。
「話し合いによって解決の道を探るのは賛成です。ですが、あなた方は日本人に何を要求するつもりですか?」
「我々の要求は、この日本に今後も住まわせていただくことだけです。過去には参政権の取得や行政特区の設立など、ずいぶん無茶な要求をして紛争になりかけたこともありました。しかし、今はもうそのようなことは望んでいません。ただこの国で働くことと、小さなコミュニティーを形成することを許していただきたいだけなのです」
 なるほど、やはり移民者と日本人の間で衝突はあったのだな。しかし、文化の異なる人たちをむやみに受け入れれば、そうなることは最初からわかっていたはず。その上で治安の維持よりも労働力と税収の確保を選んだというのに、あとになってから一方的に出ていけというのは身勝手な話だ。
 しかもこの時代、中東ではもうかつてのように石油をはじめとした資源は採れなくなっているだろう。今さら祖国に帰ったところで、住む場所や職を見つけるのは難しいに違いない。
 アフマド氏は続ける。
「我々は過去の行いを反省しております。ですので、どうかそちらからも歩み寄っていただけるよう、お伝え願いたい」
 もちろん、今の僕たちに約束などできるはずもない。
 八十年後の映像に移民者の姿はほとんどなかった。彼らの願いは届かなかったのだろう。心苦しいが、とりあえず返事だけはしておかなければ。
 一応、振りではあるが優にも意思を確認しておく。
 優は無言でコクっと頷いた。
「わかりました。できる限りのことはやってみます」
「おお、ありがとうございます。ありがとうございます」
 アフマド氏は祈るように手を組み、深く頭を下げた。
 罪悪感がチクリと胸を刺した。


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