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作品名:バーチャル・フューチャー(仮想未来) 作者:hitori

第1回 序章 仮想未来
 

 今、人類は存亡の危機にある。
 そんなことを言われても、多くの人は実感が湧かないだろう。
 少し前までの僕もそうだった。平和なこの時代に人類滅亡を口にする者など、ただのオカルトマニアか詐欺師くらいのものと思っていた。
 もし近い将来に人類が滅亡するとしたら、やはり核戦争を想像する人が多いだろうか。
 そういう世界を描いたフィクションが山ほどあるのだから、たぶん違いない。
 でも、そういう作品の舞台となるのは、核戦争が起こって荒廃した後の世界がほとんどだ。なぜ核戦争が起きたのかを追求した作品は少ない。
 皆そんなことになるとは思っていないのだ。
 人類はそこまで愚かではないと信じているのだ。
 今はそうかもしれない。
 だが、五十年後百年後に同じことが言えるだろうか。
 人口爆発による食料難。
 自然破壊による環境悪化。
 枯渇していく資源の争奪戦。
 これらの問題が、歳月をかけてじわじわと人類を追い込んでいく。
 いよいよ追い込まれた人間が、核ボタンに手を伸ばすことはないと言い切れるだろうか。手元にある最強破壊兵器を使うことなく、潔い死を受け入れるだろうか。
 そんな先のことを考える人間は少ない。
 所詮、自分が死んだ後の話に過ぎないのだから。
 でも、それは歴史的に見ればとても短い時間だ。
今≠ニ言っても差し支えないほどに。
 そう、今%ョき出さなければ人類の未来は――


 ――コンコン。
「失礼します」
 木製の扉を軽く叩いた後、僕は所長室に入った。
 部屋の主、柳正道(やなぎまさみち)所長が応接ソファに腰掛けている。
 そのすぐ後ろには、若い女性秘書が立っていた。
 僕が来たらすぐ話に移れるよう待っていてくれたようだ。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
 秘書に促され、柳所長の向かい側のソファに腰掛ける。
 正面で姿勢よく座る中年男性は、僕と同じダークグレーのオフィススーツにノーネクタイの服装だ。髪型はオールバック風。そして表情は――よくわからない。
 彼がサングラスを外したところを見たことがないからだ。
「野川君、体調はどうかね?」
 まるでマフィアの幹部みたいな外見とは裏腹に、口調はとても穏やかである。
「問題ありません」
「それでは本日より、VFシステムによるミッションを開始することになる」
 VFシステムとは『バーチャル・フューチャー・システム』の略称で、その名のとおり仮想未来を実体験することができる装置のことだ。
 そして被験者は僕、野川明季(のがわあき)。
 ここに呼び出されたのは他でもない。人類の破滅的未来を変えるためのミッションが、いよいよ今日始まる。
「以前にも聞いたことだが、改めて問おう。VFシステムの使用はテスターの肉体と精神に多大な負荷をかける。最悪の場合、廃人となる可能性もある。それでも、やってもらえるか?」
 テスターとはVFシステム被験者のことだ。
「覚悟はできています」
「そうか。頼もしいな」
 今さら迷いなどない。僕にテスターとしての適性があると知った時、すでに命は捧げるものと覚悟した。
 もっとも、決断をしてからしばらくは眠れない日々が続いたものだが。
 柳所長は顔をわずかにうつむける。
「この目が健在なら、私自らミッションを行うところだったのだがな……。君にばかり負担をかけて申し訳ないと思っている」
 柳所長はVFシステム開発の過程で視力を失った。詳しい原因はわかっていないが、システムの試験運用の際、それは起きたという。
 すでに五十近い年齢だというのに、無茶をする人なのだ。
「なんでも一人で背負い込もうとするのは所長の悪い癖です。もっと若者を頼ってください」
 僕が言うと、柳所長はゆっくり顔を上げた。
 サングラスのせいでわかりにくいが、微かに笑みを浮かべているように見える。
「そうだな。君のような部下を持ったこと、誇りに思うよ」
「大げさですよ。それに僕はまだ何もしていません」
「そうだな。我々はようやくスタートラインに立ったばかりなのだな」
 VFシステムの完成は柳所長にとって長年の悲願だった。それがようやくミッションを実行できる段階まで到達して、感慨深いものがあるのだろう。
 しかし、現時点では未来は何も変わっていない。ここから先は僕の仕事だ。
「では、そろそろブリーフィングルームへ移動してもらおうか。そこに君をサポートするナビゲーターがいるから、その者の指示に従ってミッションを進めるように」
「はい」
 僕はソファから立ち上がる。
 それから扉に向かおうとしたところで、ふと尋ねる。
「ところで所長、ナビゲーターはどんな人でしょうか?」
「君より少し年下の女性だ。日本人ではないが言葉は通じるから安心してくれ。詳しいことは会って自分で確かめるといい。少し変わった子ではあるが、ナビゲーターとしての能力は私が保証する」
「はあ……」
 柳所長の人選を疑うつもりはないが、なんとなく不安な気がした。


 所長室を出た後、僕は案内役の秘書に付いていく。
 二階の廊下を歩きながら、明るい陽射しが降り注ぐ窓の外の景色に目を向けた。
 季節は春。満開だった桜が、もうじき散ってしまう時期。
 街には多くの人々が行き交っている。
 制服の胸にリボン記章をつけた中学生が目に付いた。今日は入学式の日か。
 キョロキョロと何かを探しているビジネススーツの青年がいた。会社へ行く道に迷った新入社員だろうか。
 いろんな人がいて、皆それぞれの人生を歩んでいる。それぞれの悩みを持っている。
 しかし、この中に人類の未来を本気で憂いている者はどれほどいるだろう。
 人類は今、破滅に向かって暴走しているのだと認識している者はどれほどいるだろう。
 おそらく、ほとんどいまい。
 皆、地球のことより今日の予定の方が大事なのだ。
 だからこそ、人々に深く認識してもらわなければならない。
 このままでは、人類に明るい未来はないということを。
 階段を降りて一階に着く。
 それから少し歩いたところで、秘書は足を止めた。
 目の前には関係者以外立ち入り禁止≠ニ表示された扉がある。
「野川さん、これをお受け取りください」
 秘書が一枚のIDカード差し出してきた。
「これは?」
 受け取りつつ尋ねる。
「この扉の先は地下へ通じる階段となっています。ブリーフィングルームは地下一階にありますので、今後はこのカードを使って出入りしてください。ただし、この先は機密事項を取り扱う区域ですので、カードを持たない者を許可なく入れないようにしてください」
「わかりました」
 僕は扉の差し込み口にIDカードを挿入する。
 ピッという電子音がした後、赤いランプが緑色に変わった。
 扉を開くと、地下へ通ずる階段が現れる。
 照明は最低限道を歩ける程度しかついておらず、先は暗い。
 階段を降り、無機質な廊下をしばらく進むと、第一ブリーフィングルーム≠ニ表示された扉が目に入った。
 秘書が立ち止まる。
「ここが野川さん専用のブリーフィングルームです。細かい説明はこの中にいるナビゲーターがしてくれますので、わたしはこれで失礼しますね」
 一緒に入ってくれないのか……。せめて紹介くらいはしてほしかったのだが。
 秘書は軽くお辞儀をして去っていった。
 扉を前に、いよいよ緊張する。 
 ナビゲーターか。どんな人だろう? 今までミッションのことばかり気にして、ナビゲーターを務めてくれる人のことはあまり考えていなかった。日本人ではないと言っていたが、ただでさえ人付き合いの苦手な僕が文化も慣習も違う人とうまくやっていけるだろうか。寛容な人ならいいが……。
 なんて深く考えても無駄か。もうじきわかることだ。
 とにかく、僕のせいで日本の印象が悪くならないよう気を付けなければ。ここは日本人の代表になったつもりでいこう。
 決心し、扉を開け放つ。
 その瞬間、自分の目を疑った。
「え……?」
 目の前に女性が立っている。
 白い肌、プラチナブロンドの長い髪、青い瞳の西洋人。
 だけど、それより目を見張ったのは女性の服装だ。
 黒いワンピースの上に純白のエプロン、そして白いドレスカチューシャ。
 メイド……服?
 僕は反射的に一歩後退し、扉の表示を確認しようとする。
 それより早く、高く柔らかな声が響いた。
「ここが第一ブリーフィングルームで間違いありませんよ」
 目の前の女性に視線を戻す。
 すると、メイド姿の女性は両手を前で組み、丁寧にお辞儀をした。
「野川明季さんですね。はじめまして、本日よりあなたの専属ナビゲーターを務めさせていただく、アイシャと申します」
日本人と変わらないくらい流暢な日本語だ。
「え……ああ、こちらこそ、はじめまして」
 慌ててお辞儀を返す。
 この子がナビゲーターなのか。少し変わった子だと柳所長は言っていたが、まさかメイド姿とは……。
 改めて、アイシャと名乗った女性を見つめる。
 身長は僕より十センチほど低く、どちらかというと小柄だ。年齢は二十歳前後といったところか。緩いウェーブのかかったブロンドヘアを頭の後ろで結い上げる、いわゆるポニーテールの髪型が、西洋人でありながらどこか和風な雰囲気を醸し出している。
「どうぞ、お入りください」
 アイシャに促され、部屋の中に入る。
 広さは学校の教室くらい。落ち着いたベージュを基調とした壁紙に、木製のテーブルと椅子、観葉植物、それにカウンターまである。まるで、ちょっとしたカフェのような雰囲気だ。
「こちらの席へお掛けください」
 アイシャは言いながら、僕が座りやすいよう椅子を引いてくれる。
 姿だけでなく、態度も所作も本物のメイドみたいだ。
「紅茶を淹れますので、少々お待ちくださいね」
 アイシャは軽くお辞儀をしてから踵を返し、カウンターへ歩いていった。
 いったい、何がどうなっている? 


 しばらく待っていると、カウンターから戻ってきたアイシャがトレイに乗せたカップとお皿をテーブルの上へ置いた。
「どうぞ、ホットのアールグレイティーです。それから自家製のクッキーです。甘さ控え目にしてありますよ」
「ありがとう」
 僕はゆっくりとカップを口に運ぶ。アールグレイ香りが嗅覚にほどよい刺激を与えたあと、口、喉を通過し、じんわりとお腹にしみ込んだ。   
 アールグレイの薬湯を思わせる独特の香りと口当たりは人によって好みが別れるところだが、僕はこの上なく好んでいる。しかも使っている茶葉はかなり上質なものだ。
 今度はクッキーを口にしてみる。まだ温かい。焼きたてだ。
 ――サクサク。
「うん、おいしい!」
 一口サイズのクッキーはアイシャの言うとおり甘さ控えめで、余計な添加物が入っていない本物の味だ。紅茶にもよく合う。
 アイシャはトレイを抱えたまま、ずっと脇に立ってこちらを見つめている。
 何か言いつけたら、すぐに対応してくれそうだ。
 なんだか、本当にご主人様になったような気分だな。
 ……って、何を和んでるんだ僕は! 
 ここにはミッションのために来たんだ。お茶しに来たわけじゃない。
「あの、アイシャさん。ミッションは――」
「その前に」
 本題に入ろうとすると、アイシャが途中でさえぎってきた。
「わたしのことはアイシャとお呼びください。さん≠ヘ要りません。それから、今後あなたのことは明季と呼ばせていただきます。よろしいですね?」
 いきなりお互い呼び捨てか……。
「それは構わないけど、どうして?」
「ミッション中、一秒を争う緊急の場面に出くわすことも考えられます。そんな時、名前にさん≠付けて呼ぶのは余計な手間となりますので」
「なるほど、そういうことか」
 アイシャは続けて言う。
「もちろん非礼は承知しています。ですが、普段から呼び合ってないと、いざという時に対応できませんので、どうかご協力ください」
「わかったよ、アイシャ……でいいんだな?」
「はい、明季」
 知り合ったばかりの女性にファーストネームで呼ばれるとは、なんだかこそばゆい。
 もちろん、ミッションを行う上で必要なことであるからには異存はないが。
「ところで、アイシャのフルネームは?」
 尋ねると、彼女は急に表情を曇らせた。
「ごめんなさい、わからないんです。実はわたし、三年前までの記憶しかなくて……。アイシャという名前も本名ではありません」
「そうか……」
 デリケートな問題だ。今は深く追求するべきではないな。
 もう少しアイシャのことを知りたいところではあるが仕方ない。
「それじゃあ、そろそろミッションの話を――」
「お待ちください」
 本題に入ろうとしたところ、またもアイシャにさえぎられた。
「ミッションの前に大切なことがあります」
「大切なこと?」
「はい。柳所長からお聞きしたと思いますが、VFシステムによる仮想未来へのアクセスは、精神に多大な負荷を伴うことが予想されます。そのため、テスターのストレスケアには最大限の配慮をさせていただいているのです」
「それで部屋が落ち着いた感じになってるのか。それに、紅茶もクッキーも僕の好みだった」
「はい、あらかじめあなたの好みを調べさせていただきました」
 やはりな。紅茶には砂糖もミルクも用意されていなかった。
 普通なら「お砂糖とミルクはいかがなさいますか?」と尋ねるか、テーブルに用意してあるはずだが、平然とそのまま出してきた。 
 そしてそれは正解だ。僕はいつも紅茶には何も入れずに飲む。知っていなければできないことだ。どうやって調べたのかはわからないが、たいした調査能力だと思う。
 アイシャは続けて言う。
「ですが、一番大切なのは、あなたとわたしが信頼関係を結ぶことです。共にミッションを遂行し、心を打ち明けることのできるパートナーの存在は、何より心の支えになるでしょう」
 違いない。だけど――
「君が優秀なサポート役だということはわかった。でも、人として信頼できるかどうかは別だ。それは、一朝一夕でどうにかなるものじゃない」
 あまりあちらのペースに呑まれたくないので、あえて冷たく言ってみたが、彼女に動じる気配はなかった。
「そうですね。でも、ミッションは本日から開始されますので、のんびり時間はかけていられません。そこでです……」
 アイシャは不意にゾクッとするような妖しい笑みを浮かべ、すぐ前まで近付いてきた。
「今回は、ちょっと強引に心を開いてもらおうと思っています」
「強引って……どうやって?」
 嫌な予感に口元が引きつる。
 するとアイシャはテーブルにそっと手を付き、僕の顔を覗き込むように首を傾け、問いかけてきた。
「明季、どうしてわたしがこの服を着てきたのか、おわかりになりますか?」
「それは……」
 言いかけて、口を紡ぐ。 
「ちゃんと答えてください。本当は、薄々気が付いているのでしょ?」
「いや、そう言われても……」
「とぼけてはいけません。先ほどわたしは言いましたね? あらかじめあなたの好みを調べたと」
「ぅ……」
 まともに声が出せない。急激に心拍数が上がり、体温が上昇していく。
 まさか……まさか、そんなことまで――
「好きなんでしょう? メイド服」  
 一瞬、息が止まった。
 なぜだ!? なぜわかった?
 いや、それより、なんとかごまかす方法はないものかと頭を働かせるが、すぐに無駄と悟る。
 アイシャの勝ち誇たような表情。あれは確実に何か証拠を得ている顔だ。
 僕はガクガクと口を震わせながら言葉を出す。
「ど、どうやって、そのことを?」
「もちろん調べたんですよ」
 アイシャはテーブルに置いた手を離し、直立の姿勢に戻った。
「報告書にそんなことは書いてないはずだ。それに、そのことは研究所の誰にもしゃべってない!」
「あなたのことをよく知っている人から聞いたんです。知っていること全部、包み隠さず教えてくれましたよ」
「ぐ、いったい誰が?」
「あなたと同い年の、明るくて元気な女性です」
 すぐによく知った女性の顔が浮かぶ。
「あいつか、余計なことを……!」
 いや、勝手に人の趣味を話すあいつもあいつだが、このアイシャという女性、そこまでするのか。
 顔を上げてアイシャをにらみつける。
 しかし、アイシャの顔が微笑みから険しい表情に変わっていたことにハッとした。
 アイシャが、さっきと同じようにそっとテーブルに手を置いて、こちらを見下ろしてくる。
「余計なことではありません。いいですか明季。わたしたちは信頼し合わなければならないのです。ですから、あなたはわたしに対し着飾ったり取り繕ったりしてはいけないのです。心をフルオープンにしてください」
「いや、初対面でいきなりそれは……」
 僕は座ったままのけぞる。
 僕がのけぞった分、アイシャは迫ってくる。
「逆ですよ。初対面だからこそ打ち明けやすいのでしょう? 柳所長がわたしたちを組ませたのもそのためです。すでに関係を持っている人に突然心を打ち明けるのは、かえって難しいのです」
「……まあ、一理あるな」
 納得する態度を見せると、アイシャはテーブルから手を離し表情を笑顔に戻した。
「ご安心ください。あなたの趣味嗜好についてはいっさい口外しません。ここだけの秘密にしておきますから」
「そ、そういうことなら、できる限り打ち明けさせてもらうよ」
 もう開放されたい。ここは話を合わせた方がいいな。
「ではもう一つ、お答えください。明季は最初にわたしの姿を見た時、なんて思いましたか?」
 アイシャが自分の胸に手を当てて尋ねてきた。
「う、うん、とても似合ってると思った」
 率直な感想を言った。間違いなく本心だ。
 容姿はもちろん、細かい心遣いまで再現するアイシャのメイド姿は生半可なコスプレイヤーとはわけが違う。服にしても、その辺のコスプレショップに売っている安物ではない。一瞬、貴族の屋敷にでも迷い込んだかと思ったくらいだ。
 しかし、アイシャは納得していないようで、顔をムッとさせる。
「そんなお世辞みたいな感想ではダメです。嘘はついていませんが、まだ着飾っていますね。ちゃんと本心をあらわにしてください」
「うう……」
 確かに、最初にアイシャを見て思ったことは「似合ってる」ではなかった。
 しかし、それを初対面の相手に言えと?
「もう一度お尋ねします。わたしのこの姿を見て、なんて思いましたか?」
 アイシャは鋭い眼でじーっとこちらを見つめてくる。
 どうあっても、ちゃんと言うまで解放してくれそうもない。
 僕は熱くなった顔を隠すようにうつむき、小さく小さく口を開いた。

「か、可愛いと思った……」
 
 しばらくの沈黙の後、おそるおそる顔を上げる。
 アイシャは、いたく満足したご様子だった。
「ふふ、声が小さいのが気になりますが、まあいいでしょう。その調子でこれからも本心を語ってくださいね」
「……善処するよ」
 なんだかもうどうでもよくなってきた。
「それでは明季が素直になったところで、本題に入るとしましょう」
 アイシャは空になったカップとクッキーの皿をトレイに乗せ、カウンターへ持っていった。 
 ようやくか。長かったな。まさかミッションの前に、こんなに疲弊させられるとは思ってもみなかったよ。
 でも、おかげで一気に打ち解けることができたな。内気な僕の性格を見抜いた上での行動だとしたら、たいしたものだ。
 かなり強引ではあったが……。
 

 カウンターからアイシャが戻ってくる。
 その手にはトレイの代わりに薄手の冊子があった。
 VFシステムのマニュアルだ。
「ではこれより、VFシステムについて簡単な説明をさせていただきます。すでにマニュアルを読んで内容は把握していると思いますが、念のため示し合わせておきましょう」
 僕がコクっと頷くと、アイシャはマニュアルを開いて説明を始める。
 内容は以下のようなものだ。

・VFシステムは仮想未来を体験する装置であり、データによって構成された未来の世界にテスターの意識を飛ばすことでこれを実現する。

・現段階でアクセスできるのは日本国内のみである。日本の領海より外へは、いかなる手段を用いても出ることができない。

・時間は現実世界と同様に進行する。仮想未来で一分が経過すれば現実世界でも一分、一時間であれば一時間が経過する。 

・視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等の感覚は現実世界と同じように働く。よって、暑さ、寒さ、痛み、匂い、味など、現実と同じように感じる。ただし、仮想未来で負傷したとしても現実世界の身体に傷が付くわけではない。

・現実世界同様、仮想未来においても空腹は感じる。仮想未来で飲食をして空腹感を満たすことは可能だが、現実世界の身体に栄養は届かない。反対に、現実世界の身体に栄養を摂取させても仮想未来での空腹は満たせない。

・仮想未来へのアクセスはナビゲーターがリセットボタンを押すことで、いつでも終了させることができる。テスターの意思で終了することはできない(例外あり)。

・リセットすれば仮想未来で起きた出来事はすべてなかったことになる。仮にもう一度同じ時間軸にアクセスしたとしても、出会った人の記憶、動かしたもの、壊したもの等すべてが元に戻っている。

・仮想未来にある物を持ち帰ることはできない。持ち帰ることができるのはテスターの記憶のみとなる。

・現実世界から持って行けるものは身につけている衣服を含め五キロ程度。仮想未来で持ち物を紛失、破損等しても現実の持ち物に影響はない。

・仮想未来へのアクセスは肉体と精神に大きな負担が掛かる。どの程度の負担が掛かるかは個人差もあり、現時点では未知数。

・仮想未来で死亡した場合、アクセスは強制終了となる。その際、身心に掛かる負担については現時点では解明されていない。
 
「――以上、ここまでがVFシステムの基本事項です。何か質問はありますか?」
「一つだけ。この(例外あり)というのは、テスターの意思でアクセスを終了させる方法があるということなんだな?」
「はい。一つだけあります。ただしこの方法は大変危険ですので、あくまでも最終手段とお考えください」
「わかった。それで、その手段というのは?」
「自ら命を絶つことです」
 アイシャは口調を変えることなく事務的に言った。
 胸に嫌なものが込み上げてくる。
 予想はついていたが、はっきりと言われたくなかった。
「仮想未来で死亡すれば強制終了されるのだから、それを逆手に取った方法ということか。身体に掛かる負担がわからない以上、よほどのことがない限り使わない方がよさそうだな」
「そうですね。データの世界でも現実と同じように苦痛は感じますから、どうか無茶はなさらないでください」
 僕は小さく頷いた。
「他に質問はありますか?」
「いや、大丈夫だ」
「では、本日のミッションについての説明に移ります」
 ここまでは確認、ここからがいよいよ本題だ。 
「今回アクセスしていただくのは今から四十年後の日本。場所は某地方都市の中心街付近。季節は十一月の上旬です。今回は明季にとって初のミッションですので、チュートリアルのようなものと思ってください。特別これという指示はありません。小一時間ほど未来の様子を見て回りましょう」
「わかった」
「システムの説明はアクセスルームにて行いますので、付いてきてください」  
 僕は席を立ち、アイシャに続いてブリーフィングルームと隣接する位置にあるアクセスルームへと移動した。
 こちらはブリーフィングルームと違い、狭く無機質な空間だ。
 壁際の中央にある一人掛けソファのように大きな椅子はテスター用の座席だろう。
 その座席から見て右手に大型のモニター、左手にはナビゲーター用と思われる机と椅子があった。
「明季、こちらへお掛けください」 
 促され、テスター用の座席に腰を下ろす。
 飾り気がなく、いかにも実験用といった感じの椅子だ。メイド姿のアイシャがいなかったら電気椅子に座らされるような気分になっただろう。
「アクセスはここに座った状態で行います。それから、こちらをご覧下さい」
 アイシャが壁に設置された大型のモニターを指す。
「このモニターには、明季が仮想未来で見たものが映し出されます。正確には顔の向いている方角が、ですね。眼球の動きやまばたきは関係ありません。もちろん、すべて録画されますので視線には気を付けてくださいね」
「あ、ああ……」
 これは言われなかったらまずかった。
 うっかり女性でも見つめようなら後で何を言われるか。
「次に通信ですが、特別な手順は必要ありません。そのまま声を出していただければ、いつでもこちらと会話ができるようになっています」
「アクセス中もアイシャと会話できるのか。それは心強いな」
「ただし、わたしの声は明季にしか聞こえませんが、明季の声は周りの人にも聞こえますので注意してください」
「わかった」
 一人でしゃべっていたら、おかしな奴だと思われるからな。
「最後に、リセットはいつでもできますので、危険を察知した場合はすぐにおっしゃってください。もちろん、わたしの判断で終了させていただく場合もあります。ただしモニター視点の都合上、背後や頭上からの襲撃には対応できませんので充分注意してください」
「襲撃か……」
 ゴクリ、と固唾を飲む。
「未来の世界がどうなっているかはわからないが、現在よりも治安が悪化している可能性は高いんだろうな」
「そうですね。現在の常識は通用しませんので、どうか用心してください」
 四十年後の世界が安全だという保証はどこにもない。極端な話、アクセスしたらいきなり戦場のど真ん中という可能性だってある。
 四十年。僕の人生のおおよそ二倍。世界が、国が、人が変わるには充分な時間だ。
「説明は以上です。そろそろミッションを開始しましょう」
 いよいよか。
 緊張して身体が浮いたような感覚になる。手が震えてきた。 
 その時、バニラみたいな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「明季、少しじっとしていてください」
 アイシャが正面から両手を掲げてこちらへ迫ってくる。
 ち、近い! と、緊張したのも束の間。
 頭にフルフェイスのヘルメットのようなものを被せられた。ただし、バイザーがないので目の前が真っ暗だ。下の隙間から自分の下半身だけが見える。
「これは?」
「映像と音声を送受信するための装置です」
 そういうことか。
 いつの間にか手の震えが止まっていた。別の意味で緊張したおかげかもしれない。
 まさか今のも狙ってやったのか?
「明季、心の準備はよろしいですか?」
 僕はコクっと頷く。
「それでは、これよりミッションを開始します」


 気が付いたらビルの狭間に立っていた。
 まるで瞬間移動したような感覚だ。
 周囲に人の気配はない。
 どこかの路地裏のようだ。高いビルに囲まれた位置だけに、晴天の昼間だが薄暗い。
『明季、聞こえますか?』
 不意に、頭の中にアイシャの声が響いた。まるでテレパシーだ。
「ああ、聞こえている」
 その場で声を出す。これで通じるのだろうか?
『周囲は安全でしょうか?』
 通じたようだ。
「少なくとも、今この場は」
『身体の感覚はどうですか? 体調に変化はありませんか?』
 試しに手足を動かしてみる。
「特にないな。驚くほど現実世界と同じだ。この身体が仮の物だなんて信じられない。ただ、中空に向かってしゃべるのに違和感はあるが」
『それは慣れていただくしかありません』
 携帯電話を耳に当てながら話すのはやめた方がいいだろう。この時代の人たちにとって僕が持っている機器は四十年も前のモデルだ。不自然この上ない。
「それで、まずはどうすればいい?」
『行動を開始する前に情報を集めましょう。明季、スマートフォンは持ってますね?』
 尋ねられてハッとする。インターネットにつなぐことができれば、この時代の情報を一気に集められる。安全を確保する上でも最優先事項だ。
 僕は意気揚々とスマートフォンを取り出し、ブラウザのアイコンにタッチした。     
 ――が、ネットには接続できなかった。
「さすがに四十年も前の機種では無理があるか」
 こうなると、この時代でネット環境に触れるのは難しそうだ。
 おそらくネット社会は現代より遥かに発達しているはず。身分証明のできない僕が自由にネットを閲覧できる可能性は低い。
『仕方ありません。ひとまずネットはあきらめましょう』
「そうだな、地道に見て回るか」
『では適当に歩いてみてください。気になることがありましたら、どんどんおっしゃってくださいね』
 僕はスマートフォンをしまい、陽光の差す方へ歩き出した。
 この先に四十年後の世界がある。そう思うと、また少し胸が高鳴った。
 路地裏から出る。
 そして、視界に広がった光景は――
 なんということはない。ただのコンクリートジャングルだった。
「パッと見た感じは現代とあまり変わらないな。四十年も経っているとは思えない」
 僕は思ったことを率直に言った。
『そうですね』
 アイシャも同感のようだ。
 視線を下げる。
「アスファルトがデコボコだ」
 今度は上を見る。
「建物も老朽化して傷んでいるものが多い。維持管理が行き届いていないようだ」
『やはり経済的に余裕がないということでしょうか』
「あ、でも、建物の屋上に太陽光パネルがある。――あっちも、あっちにもだ」
『太陽光パネルの普及が進んでいるようですね』
「見たところ普及率は三割から四割といったところか。残りは風力か、原子力か……」
 しばらく歩くと大通りに出た。大通りの道路はきちんと整備されていた。
 不意に自動車が目の前を通過する。
 音もなく突然現れたのに驚き、一歩退いた。
「車のエンジン音がない。電気自動車か?」
 その場でしばらく車道を眺めていたが、エンジン音のする車は一台もなかった。
「電気自動車ばかりだ。ガソリン車はもう使われていないのか」
『さすがに四十年後ともなれば、その可能性が高いでしょうね。高級車なら一部残っているかもしれませんが』
 ガソリン車がなくなれば排気ガスによる大気汚染は激減する。そこはいい点だが、世界に十億台は存在するといわれるガソリン車すべてが動かぬ鉄の塊となってしまう。
 それをどうやって処分するのか、想像もしたくない。 
『明季、中心街のある北の方へ向かって歩いてみてください。人が近くいる時は返事をしなくて構いませんので』
「わかった」 
 歩いているうちに、だんだんと人通りが増えてきた。
 すれ違う人々を怪しまれない程度に観察する。
『外国の方が多いですね』
 自分も外国人のアイシャが言う。
 見たところ褐色肌の人が多い。中東や東南アジアから来た人たちだろうか。
 一見してイスラム教徒とわかる、頭にスカーフのような布を巻いた人たちが目立つ。
 外国人を除けば、服装は現代とあまり変わらないようだ。髪型も同様。細かな違いはあるが、江戸時代から明治時代に変わった時のような大きな変化ではない。
 スーツ姿の社会人も普通に見かける。ネクタイをしている人がほとんどいないのが現代と違うくらいか。僕の服装や髪型も特に注目されていないようだ。
 次に、街を観察する。
 人が多い割には店が少ない。特に飲食店がほとんど見当たらない。
 食料や燃料が高騰したことで、外食産業が廃れてしまったのだろうか。
 しばらく歩いて、ようやくコンビニを発見した。現代でも見かけるチェーン店の看板が出ている。
『明季、あのお店に入ってみてください』
 言われたとおり店に向かう。
 出入り口は自動ドアではなく、アルミ製の開き戸だった。
 扉に営業時間が表示されている。
 ――午前六時から午後八時。
 もはや二十四時間体制は維持できなかったか。夜勤の人にとっては不便かもしれないが、コストパフォーマンスと防犯性を考えれば妥当と言える。
 節電のために照明を抑えているのか、店内はやや薄暗い。
『新聞や雑誌があるか確認してください』
 なるほど。もし見つかれば、ネットほどではないが多くの情報を集めることができる。 ――だが見当たらない。
 おそらく、四十年の間に電子メディアが主流となったのだろう。森林破壊によって紙の大量使用ができなくなったという理由も考えられる。新聞にいたっては現代でもすでに落ち目だ。
 仕方なく他のコーナーを見て回る。
 ATM、日用雑貨、文具、この辺りは現代のコンビニと同じだ。
 しかし、どこを見て回っても冷蔵庫がない。
 冷蔵庫がなければ当然、弁当やパックの飲み物、アイスクリームもない。 ここにある食料は、インスタント食品、缶詰、缶飲料など長期間保存できるものばかり。
 ……これも時代の流れか。
 ここは四十年後の世界。世界人口は九十億か、百億を突破しているか。
 食料自給率の低い日本で、大量に廃棄食品が出る現代のような販売方法などできるはずもない。当然、価格も高騰しているはず。例えば……。
 ふと見かけたカップ麺を手に取る。パッケージは現代とほとんど同じだ。
 気になるお値段は、一五〇〇円!
 皮肉めいた笑いがこみ上げてくる。
 およそ十倍か。狂気だな。 
『明季、お金は持ってますか?』
「ん? ああ」
 小声で答える。
『試しに何か買ってみてください』
「いや、でもこの値段……」
『大丈夫です。そこでいくら使っても現実のお金は減りません』
 そうだった。
『買ってからすぐに食べられるものにしてください』
 試食もしろってことか。 
 少しだけ迷った後、災害用非常食のようにアルミパックに入ったバターロールを棚から取り、レジへと向かう。
 さて、このお金は使えるか。現代でも四十年前の硬貨を見かけることはあるのだから、いけると思うが……。
「一二〇〇円です」
 現代のコンビニではあまり見かけない年老いた店員が言う。
 僕はなるべく発行された年が新しいお札と硬貨を選び、店員に差し出した。 
 しまった、四十年も前の紙幣にしてはきれいすぎる、と出してから気付いたが、店員は特に不思議がる様子もなく、会計を済ませてくれた。
「おしるし(テープ)でよろしいですか?」とは聞いてこなかった。もうレジ袋など存在しないのだろう。手渡されたレシートも、現代の半分もないくらい小さい。 
 ふと、そのレシートを見る。
 消費税二百円。ということは税率二十パーセント。
 食料品にこれほどの税をかけるとは……。軽減税率は導入されていないのか。
 あるいは軽減されてこの税率なのか。だとしたら恐ろしい。
 レジも簡素なものだ。
 電子レンジや給湯器はなく、ソフトクリームやフライドポテトなどの販売もない。
 タバコは、ほんの少しだがまだある。一箱五千円。
 商品が置いてあるということは、その値段でも吸う人がいるということだ。恐るべきは依存性といったところか。
 僕はパンとレシートを片手に店を出た。
『どこか人目につかないところで食べてみてください』
 アイシャの指示に従い、大通りを曲がって細い路地に入った。
 まずはパックの裏面を見て原材料を確認。
 表示してある内容は現代とあまり変わらない。相変わらずわけのわからない添加物がたくさん入っている。バター入りマーガリンも健在だ。
 アルミパックから出したバターロールという名のマーガリンロールを一口食べてみる。
『どうですか?』
「うん、不味くはないがおいしくもない。現代の物と同じ、合成パンだ」
『でも一応お金さえあれば、それなりの物は食べられるみたいですね』
「こんな擬い物がそれなりとは言いたくないが……。それにしても、コンビニもずいぶん変わったな」
『そうせざるを得ないくらい経済力が低下してるんでしょうね。まあ、現代が贅沢すぎるとも言えますが』
 僕はバターロール(マーガリンロール)を食べ終えると、パックを捨てようとゴミ箱を探したが、どこにもない。おそらく維持費削減のために撤去されたのだろう。ちなみに灰皿もない。
 仕方なくパックを小さく折り畳んでポケットに入れた。
『明季、そこは仮想世界ですから、ゴミなんて律儀に持ってる必要はないんですよ?』
「わかってるけど、その辺に捨てるのは僕の主義に反する」
『ふふ、明季は真面目ですね』
「そうしないと気が済まないだけだ」
 そう言って再び中心街へ向かって歩き出した。 


 歩いているうちに、さらに人通りが増えてきた。
 そろそろ中心街に着くはずだが、高層ビルが見えない。
 代わりに木がたくさん見える。ここからでは人混みのせいでそれしかわからない。
 この先に公園でもあるのか……。
 ぼんやりと考えながら、長い信号を待って横断歩道を渡る。
 途端、見たこともない光景が視界に広がった。 
「ここは……!」
 自然公園? いや、都市か? 
 不思議なことに、僕の目には両方が混ざり合って映っていた。
 言うならば、緑溢れる都市。
 歩道の脇や車道の中央分離帯に申し訳程度に植木が設けてあるのとはわけが違う。自然公園の中に都市があるといっても大げさではないくらいだ。
 現代のように所狭しとビルが並ぶのではなく、木があり川があり、その景観を壊さぬよう、うまく合間を縫って歩道や建物がある。
 建物もいわゆる高層ビルではなく、二、三階建てくらいのものが多い。
 歩道はアルファルトではなくレンガが敷き詰められていた。
 二車線の道路はあるが、交通量は少ない。
 空気が澄んでいる。道路一本隔てて別世界だ。
「すごい……」
 ふと木の上を動くものが目に付いた。
「あ、リスだ! リスがいる」
 まるで夢のようだ。普通、都市は人間の都合によって作られる。だけどここは、自然に合わせて都市が作ってある。
 景色を見るのに意識を奪われ、足元がおぼつかない。
『明季、落ち着いてください』
「あ、ああ……」
 アイシャの声にハッとする。 
 僕は人のいないところまでフラフラと歩き、改めて周りの光景を見た。
「すごいな。こんな都市は見たことがない」
『ええ、わたしも、まさかこんな光景を目にするとは思ってもみませんでした』
「でもおかしい」 
『何がですか?』
「たった四十年で人類がここまで進歩するとは思えない」
『厳しい評価ですね』
「人類の短期志向的な性質はよく理解しているつもりだ。今見ているこの光景、都市と自然が一体となったこの光景は、人類が極めて高い精神レベルに達していなければ作れないものだ。経済や科学の発展ではなく、精神的進化を果たした人類でなければな」
『四十年では短いのでしょうか?』
「短いだろうな。この領域に到達しようと思ったら、人類が一度滅亡の危機に追い詰められ、そこから立ち直った時、その時こそようやく可能になるかもしれないくらい高度な街作りだ」
『では、目の前のこの光景は?』
 アイシャの疑問はもっともだ。
 そして、その疑問に答えなければならないことに、僕の胸中はひどく曇りがかった。
「もし世界中の都市がこんな光景なら、もうミッションを行う必要もないんだがな」
『どういうことですか?』
「おそらくこれは一種のモデル都市、人類繁栄の理想像を限定的に再現した都市だと思う」
『モデル都市……』
 そう、ここはただの実験場。この実験を発案し実行した人物の先見性と行動力は見事なものだが、人類全体が進歩したわけではない。素直には喜べない。
 だが、次のアイシャの言葉は、雲間から差し込む陽光のように明るかった。
『だとすれば、わたしたちは今とてもすごい光景を見ていることになりますね』
「え……?」
『だって、仮想未来に来たわたしたちが、そのまた仮想未来を見せられているのですから』
 その一言で、僕の胸中を覆っていた雲は一気に霧散した。
 同時に自然と顔がほころぶ。
「そっか、そういう考え方もありか。この光景は人類が進歩している証でもあるんだな」
『遅まきながら、ではありますけどね』
 前向きだが決して楽観的ではないアイシャの言葉に、僕は平静を取り戻した。
「そうだな。でも、ここはあくまでも限定空間だ。現実はあっち、あの横断歩道を渡る前の向こう側が四十年後の日本の姿だ。いや、農村部に行けばもっとひどいかもしれない」
『他の都市や農村部も調査しなければなりませんね』
「先は長いな」
『一緒にがんばりましょう』
 風が心地いい。いつまでもここにいたい気分だ。
『明季、そろそろ一時間が経ちます。アクセスを終了しますか?』
「できたら、もう少しこの都市を回ってみたい」
『わかりました。では、あと三十分ほど延長しましょう』
 快く返事をくれるアイシャ。
 さて、どこを見て回ろうか。
 考えながら、歩き出そうとした時――
 突然、雷が落ちるような轟音が背後から響いた。
「なんだ!?」
 僕は平衡感覚を失い、地面に手を付く。
『明季!』
「大丈夫だ!」
 アイシャの呼びかけに対し、真っ先に大声で答える。
 大丈夫だ、身体に損傷はない。あまりの大音量に耳がキーンとするだけだ。
 しゃがんだまま振り返る。
 見ると、数十メートル先にある三階建てのビルから黒煙がもうもうと立ち上がり、火の手が上がっていた。
「爆破テロか!」
 立ち上がり、辺りを見回す。
 茫然と立ち尽くす者、悲鳴を上げる者、逃げ出す者。
 ついさっきまで平和だった街が、恐怖に包まれていた。
『明季、ここまでにしましょう!』
「待て! もう少し様子を見よう」
 人波に逆らい、爆発のあった建物の方へ早足で進み出す。
 いったい何があったんだ? なぜこんなことが?
 歩くうちに人波は途絶え、建物の付近まで来る。
 警察はまだ到着していない。静かだ。
 と、その時。
「うまくやったな!」
「ああ、これで市長はくたばったはずだ」
 建物の陰から、柄の悪い二人組の男が嬉々と叫びながら走ってきた。
 派手な服に派手な髪型。テロリストというより暴走族のような雰囲気だ。
 二人組の男がこちらに気付き、足を止める。
「なんだあいつは?」
「警察じゃないな。よくわからんがぶっ飛ばすぞ」
 男たちの正体や目的はわからない。 ただ殺気立っているのは一目瞭然だった。
「死ね!」
 二人のうちの一人が、叫びながら殴りかかって来る。
『明季!』
「大丈夫――」
 僕は身体を一歩退きながら殴りかかってきた男の手首を両手で捕らえる。
 そして、その手首を軸に腕を捻り、男を投げ飛ばした。
 直後、もう一人の男が怒りの形相でつかみかかって来る。
「こいつ!」
 今度は、男が向かってくる勢いに合わせて、手のひらで顎を突き上げる。
 男が大きく仰け反ったところで一歩前に踏み出し、そのまま地面に押し倒した。
 固いレンガの地面に叩きつけられた男たちは、うめき声を上げ白目をむいた。
 僕は油断することなく、二人が動かなくなるのを確認する。
 武道における残心(ざんしん)だ。
『お見事です。合気道の経験者とは聞いていましたが、これほどの腕前とは』
 さすがのアイシャも、それは調査しきれなかったようだ。
 なにせ合気道には試合がない。試合がなければ戦績もなく、客観的に実力を評価する指標がない。実は僕自身も、たった今自分の実力を知った。
 だが、この二人に後れをとるようなことはないと瞬間的に確信できた。道場の練習相手と比べれば二人ともあまりに遅く、動きが見え見えだったのだ。
 ――複数の足音が近付いてくる。
「おい、なにしてんだ!?」
「二人やられてるぞ!」
 明らかにこの二人の仲間と思われる男たちが、ぞろぞろと集まってきた。
 七、八人はいる。
『明季、ここまでです』
 今度は提案ではなく言い切るアイシャ。
 男たちが怒号を上げながらこちらに向かってくる。
 だが彼らの手が届く前に、僕の意識は暗転した。


 気が付いたら暗闇の中で座っていた。
 ……ここは、どこだ? 
 なぜ何も見えない? 
 さっきの男たちは? 
 いや、ミッションはもう終わったのか? 
 そうだ、ここはアクセスルーム……。
 現状を把握するのに数秒かかった。
「明季、気分はいかがですか?」
 アイシャがゆっくりとヘルメットを外してくれる。
 急に飛び込んできた照明の光が目をくらまし、アイシャの顔がはっきり見えるようになるまで、また数秒かかった。
「長い夢から覚めたみたいな感じだ。頭がボーッとする。それにだるい。乗り物に酔った時みたいな吐き気もある」
 そう言って立ち上がろうとすると、アイシャが制止してきた。
「あ、無理はしないで。しばらく座ったままでいてください」
 その方がよさそうだ。ある程度予想はしていたが、これはつらい。
 これでは仮想未来へのアクセスは一日一回が限度だろう。
「それにしても、いきなり爆破テロが起きるとはな」
「怪我がなくてよかったです。ごめんなさい、もう少し早くリセットすべきでした」
 アイシャは申し訳なさそうに顔をうつむける。
「いや、アイシャは悪くない。続行するように言ったのは僕なんだから。つい夢中で我を忘れてたよ。あんなきれいな街で、なぜテロを起こす必要があったのか、どうしても知りたかった」
「いずれはそれも調査しなければなりませんね。ですが、もう少し慣れるまでは慎重にいきましょう」
「そうだな」
 今日はまだ初回だ。とりあえず充分な成果といえるだろう。
「ところで、これからどうすればいい?」
「別室でメディカルチェックを受けていただきます。異常がなければ、本日の業務は終了です」


 脳波、脈拍などの測定を中心としたメディカルチェックは三十分ほどで終わった。
 気だるさは残るものの、特に異常が見当たらなかったことに安堵した。
 次回からはもう少し時間が短くなるらしいが、ミッション後には毎回チェックするらしい。
 時刻は十一時半。
 食欲がないので僕は家に帰ることにした。
 アイシャはこれからどうするのだろう。まだ仕事が残っているのだろうか。
 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、背後から声が。
「野川君」
 振り返ると、そこには車椅子に座った柳所長がいた。
 秘書が背後でグリップを握っている。
「ミッションご苦労だったな。調子はどうだ?」
「多少だるさは残ってますが、問題ありません」
「そうか。それで、アイシャとはうまくやっていけそうかな?」
「そうですね、たぶんうまくやっていけると……思います」
 少し声を詰まらせる。実はちょっと自信がない。
 柳所長はそれを見透かしたように、「ハハッ」と小声で笑った。
「さっそくあの子に振り回されたようだな」
「ええ、それはもう」
 この様子だと、柳所長はアイシャのことをよく知っているようだ。
 それならもう少し前情報がほしかった。
「だが、あれはあれでいい子なんだ。よろしく頼むよ」
「はい」
 今度は、はっきりと返事をする。
 会って間もないが、アイシャは信頼に足る人間だと思う。ミッションとは別のところで苦労させられそうな気もするが、うまくやっていけそうという言葉に偽りはない。
「ところで野川君、駐車場に迎えが来ている。早く行ってやるといい」
「迎え?」
 おかしいな、迎えを頼んだ覚えはないんだが。誰だ?


 駐車場に行くと、白いハイブリッドカーの脇に私服姿のアイシャが立っているのが目に付いた。胸元にリボンの付いた空色と白のワンピースが可愛らしい。ヘアスタイルはポニーテールのままだ。
「明季、よかった。異常はなかったみたいですね」
「ああ。ところで、迎えが来たと聞いたんだけど」
「この車ですよ」
 アイシャは、すぐ横のハイブリッドカーを指す。
「え、もしかしてアイシャが運転を?」
「いいえ、わたしは運転免許を持っていませんので」
「じゃあ誰が――」
 言いかけた時、運転席のドアが開いて、すごく見覚えのある女性が出てきた。
「やっほー」
「海、どうしてここに?」
 車から出てきたのは同級生の三波海(みなみうみ)。
 化粧気のないあどけない顔にパッチリした目。ヘアスタイルはサイドポニーテールで、前髪を白猫のヘアピンでとめている。服装はパーカーにジーパンにスニーカーと、相変わらず見た目より動きやすさを好んでいるようだ。
 海とは小学校から大学までずっと同じ学校に通った仲だ。ただし、海は就職が決まらないまま大学卒業を迎えてしまった。要するに、この春からニートだ。
 その海が答える。
「アイちゃんから電話もらったの。あ、アイちゃんとあたし、もう友達だからね。連絡先も交換したし」
「いつの間に?」
「ん〜、もうずいぶん前かな。あと、明季のこといろいろ聞かれたから、知ってること全部話しちゃったけどいいよね?」
 重大なことを満面の笑みを浮かべて言う。
「やっぱり、海だったか」
 僕は深いため息をついた。
 なんて言ってやろうかと思っていたが、あまりにも悪気のない態度だったので怒る気が失せた。相変わらず子供みたいに陽気な奴だ。性格が小学生の頃から変わってない。
「とにかく二人とも乗ってよ。お昼食べに行こ」
 海に言われ、僕が助手席、アイシャが後部座席に乗った。
 車内は新車特有の鼻につく匂いがした。
 見覚えがないと思ったら新車のようだ。
「この車は、海のなのか?」
「そうだよ。昨日うちに届いたばっかりの新品だよ」
「どうやって買ったんだ? お金は?」
「ん、前金で買っちゃった」
「前金?」
「そ、契約料の前金でね」
 嫌な予感がした。
 前金だけで新車が買えるほどの契約。アイシャとの接点。
 まさか――
「明季、実はあたしもね、テスターやることにしたんだ」



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