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作品名:もう一度、抱きしめて 作者:

第9回 逃げた先の夜景
(……気づいてないよな?)
 ドアに背を預け、息を吐いた。そして、始終不思議がるような顔をしていたのを思い出す。怪しまれても仕方がないくらいには不自然な動きだったろうと思いながらも、あいつなら気づかないか、と楽観的に考える自分もいた。彼女の鈍さは天下一品だ。
(それにしても……)
 身を起こすと、やおら足を踏み出す。胸ポケットの辺りへ意識せず手を伸ばし、タバコの箱に触れた。そして、取り出さなかった。
 どこへ行くでもなく適当に廊下を歩き続けながら、先ほどVIPルームで見た二重の景色が、ぐるぐると頭の中を巡る。繰り返しその映像を見せつけてくる無意識に対し、ぐっと力を込めて顔を歪めてみても、その影は一向に薄れない。そればかりか、音まで伴い始めた。
 満面に笑みをたたえ、ドアを開けてから一瞬の迷いすらなく俺を最初に見つけると、そのまままっすぐ歩み寄ってくる彼女……会いたかった、やっと会えた、そうはっきり顔に書いてあるのだ。
『遼一さん』
 他のメンバーに軽く挨拶しつつ俺の目の前まで来ると、こちらを見上げて……
(違うだろ、あれは幻の……)
 実際には、おそるおそる覗きこむようにして現れたのだ。かくれんぼをしている子どもが、なかなか見つけてもらえないときにするように、そろりと。それこそが、先ほど起こった出来事だ。それが、なぜーー
 くしゃ、と乱暴に前髪を握る。感触とも呼べぬ感覚が手のひらに生まれ、どうしようもない虚しさに包まれた。鳩尾のあたりがムカムカとした。
 途絶えることなく頭の中に繰り返し流れる映像を意識の外に追いやれないまま、気がつけばバルコニーにまで来ていた。先客はない。ふらふらと歩いてゆき、柵に身をもたせかける。無意識にまた、懐へと手を伸ばすが……そこにあるものを、取り出す気にはなれなかった。
 軽く息を吐く。その唇に人差し指が触れ、また遥香の表情を思い出した。ドアからこちらをうかがい見る彼女……半ば開きかけたその口元は、驚きと喜びを同時に表現していた。
(……遥香)
 心の中で、そっと呼びかけてみる。目を閉じ、頬に風を感じれば、すぐ隣にかの温もりがあるような気がした。
 そういえば、と思う。
 名前の響きが、目覚めて初めて呼びかけたときから比べて、ほんの少しばかり変化した。
(遥香……)
 ほんの些末な違いで、必ずそうだという自信はないが。吟味するようにじっくりと頭の中名前を呼ぶだけで、なんとなく満たされたような気分になる。
 その理由は考えなかった。少しでも考えたら、後悔するような気がしていた。



 しばらく風に当たっているうちに気分も落ち着き、ぼんやりと夜の街を眺めた。
 この景色は、いつ見ても変わらない。無機質な光の集まりが、多くは一定の位置に留まり、あとの残りが漂い彷徨っている。
 つまらない景色だ。
 一番高くに灯る光が、さらに高くを目指し空へ近づこうと。天には永遠に届かないというのに。
 深い海底に沈んだら、もう水上へは戻れないのと同じだ。腕を大きく振るって水を掻いても、足をばたつかせ必死にもがいても。肺をふくらませて口いっぱいに含んだ空気をいたずらに消耗するだけで、やがて沈みゆく。
 そう、一度沈んだらもう、戻れないのだ。
「……遼一、さん?」
 ひかえめな声に、はっとして振り返ると、逆光で表情の読めない人影。息が詰まり、咄嗟に応えるのを忘れる。
「こんなところにいたんですね。偶然」
「……まあな」
「ふふっ、また考え事ですか?」
 隣まで来ると、同じように柵に肘をかける彼女。かすかに潤んだ目元に、ふと視線が吸い寄せられる。後ろからの光にぼんやり浮かび上がる横顔。赤く染まる頬が、どうやら上機嫌なように映った。
「……そういう遥香は、酔い覚ましか」
「あ、ばれちゃいました? ……なんだか、ふわふわしてきちゃって。そんなに飲んだつもりはないんですけど、遼一さんが戻ってこないから、慌ててここまで来たんです」
 半ばおぼつかない口元。隙ばかりを見せる彼女は、やはり楽しそうに遠くを見ている。
「それに、遼一さん、ここにいそうな気がしたんですよねー」
 鼻歌でも歌い出しそうににこにことして、光の海を眺めている。海の中を、自由に泳ぐ視線……どこからやって来て、どこへ向かうのか。フワリフワリと漂うように、泳ぎ続ける。
「俺が……?」
 ぼんやりと返しながら、鼓動がゆっくり音を立てるのを感覚した。大きな音だ。無数の人工的な光に、呼応するように高く鳴る。
「はい。だって、この夜景……遼一さんにぴったりです」



 しばらく話していたと思う。不意に身を起こした遥香が、一歩下がってこちらを見上げた。
「私、お手洗いへ行ってきます。先にVIPルームへ戻っていますから、遼一さんも遅くならないうちに戻ってきてくださいね」
 酔いはだいぶ覚めたようだ。しかし未だ赤く染まったままの頬に気づいて、声をかける。
「お前は、転ばないようにな」
「分かっています……そんな子どもじゃありませんから」
 楽しそうな笑い声を残して建物内へと消える背中を見送り、軽く掲げた手を元に戻すとまた夜の街を俯瞰した。
 数え切れないほどの光は、先ほどまでと変わらぬ無機質さで輝いている。
 多くは一定の位置に留まってちらちらと光り、あとの残りが自由に漂い彷徨っている。
 やがて、光の粒はかすかに滲み始め、徐々に視界全体が歪んでいった。最初、自分の身に何が起こったのか分からなかったが、小さな震えを、いつのまにか握りしめていた拳に感じて、ようやく理解する。
 わずかに上を向けば簡単に堪えられる程度だ。遥香に急かされているし、戻らなくてはと思うが。
 もう少し、もう少しだけ、このつまらない景色を、眺めていたかった。


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