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作品名:もう一度、抱きしめて 作者:

第7回 気づき
「おかえり」
 だしの香りに誘われるようにキッチンを覗き、エプロンの後ろ姿に声をかける。ピタッと野菜を洗っていた手が止まり、それから元気な笑顔がこちらを振り向いた。
「遼一さん! お仕事は終わったんですか?」
 ほんの少しだけ驚いたように目を見開いて、慌てたように手を拭いている。「ああ、一区切りついたからな」歩み寄り腰に手を回せば、ぱあっと明るい表情になった。
「お疲れ様です。今、夕食の支度をして……んっ」
 なんの前触れもなしに唇を重ねたにもかかわらず、きちんと目を閉じて受け止める、俺の「お嫁さん」。頬をほんのりと染めて軽く目を伏せ、まるで誘っているかのよう。
「……ご飯、もう少しでできますから」
 ーーこっちの方が美味そうだけど。
 なんて。もし言ったら、お前は困ったように笑うだろうか。それとも、顔を真っ赤にして照れてしまう? またそんなことを、と拗ねてしまうかもしれないし、はたまた、呆れられるだろうか。
 なんなら試してみてもいいかもしれない。
「今日はなに作ってくれるの」
 顔にかかっている髪にそっと触れると、耳にかける。照れたような表情に艶が混じって、むくむくと感情は大きくなった。
「同僚に教えてもらって、焼きつくねを作っているんです。栄養満点だし、お弁当のおかずにちょうどいいかなって思って。あとは焼くだけですから、少しだけ待っていてくださいね」
 栄養満点。その言葉が、俺の身体のことを思って発せられたものだとすぐに理解した。胸の中心がむずむずとして、そして同時に温度を上げてゆく。熱く大きくなった感情が心の器から今にも溢れてしまいそうで、そんな野暮なところは見せまいと、繕った微笑みの裏に必死で隠すと額へと唇を寄せた。
「……さすがは俺の奥さんだな。食卓の用意して待っている」
 遥香の反応を試すのは、またの機会だ。今それをしてしまっては、最後までことを終えなければ収まらないほど、下衆た感情を遥香に晒してしまう。
「っ……はい、お願いします」
「ああ」
 短く返しながら、やわらかく笑ってこちらを見上げる遥香と何気なく目を合わせる。瞬間、時が止まったような感覚に陥った。
 さあっ、とかすかな音がして、一切の音声が耳元から消え去った。
 お前は……なんて幸せそうに笑うんだ。
 儚く、まぶしいほど美しいその表情を向けている相手は、お前の知っている俺じゃないというのに。愛する婚約者を一瞬にして忘れてしまった哀れな一人の男が、疑うことを知らない純粋なお前を、真っ白で綺麗な心を、欺きもてあそんでいるというのに。
 どうしてお前は、そんなにも素直なんだ。
「……メアリにも、ご飯やらないとな」
「あ……」
 消えかかりそうな、どこか掠れたような声が追いかける。
 喜んで応えそうになる気持ちをぐっと抑えこむと、さりげなく目をそらして、腰に回した腕をするりと解く。微笑みはそのまま、かすかに名残惜しさを含んだ視線が、その指先に絡むが……
「おーい、メアリさん?」
 それに応えることはできないのだと自らに言い聞かせ、キッチンを後にした。
 遥香に、背を向けて。


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