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作品名:もう一度、抱きしめて 作者:

第6回 ささいな決意
 帰宅から一週間も経つと、ほとんど普通の生活を送れるようになっていた。医者にも、経過は良好、何の心配もないと言われた。記憶の話もしたが、おおよそ無理はするなと言われただけで、得られるものはほとんどなかった。
 アルバムで見た場所……あそこのどれかを訪れれば、何か思い出すだろうか。
 これまでにも、短時間で行ける範囲の場所へは、一人で足を運んでみた。時折手応えはあり、思い出しかけて頭痛に襲われるものの、視界が真っ白になって何も分からぬまま、結局その場を離れることしかできずにいた。それも当然のことで、遥香と出会う前から知っている場所ばかりだからだろう。
 やはり、思い切らなければならないのか……
「遼一さん……どうしました?」
 先にベッドに入り待っていると、電話を終えた遥香が隣に潜りこむなり心配そうに言った。「そんな難しい顔、初めて見ました」
「ちょっと考え事」
 誤魔化しながら、彼女の髪に手を伸ばす。指に絡めるようにしてなでると、気持ち良さそうに目を細めた。メアリの首元をくすぐったときと、まるで同じ表情をする。
 こういった、恋人らしい些細な動作にも、かなり慣れてきた。違和感もほぼ感じない。
「本当に大丈夫ですか? 何か悩み事でもあるんじゃ……」
「ああ……今日メアリが、原稿データを消したんだよな」
「えっ? それは大変じゃないですか、どうしたんですか? 全部やり直しですか?」
 目を見開いて見上げる姿に、ぱっと視線が止まる。
 遥香にも、記事を書いていてデータが消えてしまった経験があるのだろう、事の深刻さをよく知っている目をしていた。しかし、不意に引き寄せられ、そのまま目を離せなくなった理由は、それではなかった。
「そう、全部思い出して打ち直し……」
「うわあ……それは、お疲れさまでした」
「……なわけないでしょ。自動バックアップがあったから戻したよ」
 笑いながら返すと、ポカンと口を開けたあと、ホッとしたように表情を緩め抱きついてきた。
 今日はずいぶんとよく甘えてくる遥香につられて背中へ腕を回しながら、なぜ、先ほど彼女を注視したのか、考えた。自分のことながら、まったくその理由が分からなかった。ただなんとなく、目が止まった。おそらくそれだけのことだろう。
 そう無理やり結論づけると特に気に留めないようにして、髪を優しく梳くようになでた。遥香も身を預けてすっかり眠る態勢だ。
「……近いうちに、旅行にでも行くか」
 かすかな眠気がおとずれて、少し判断が鈍った頃、そんなことを告げていた。遥香も、眠たそうに目を合わせてきてそのまま、いいですね、とつぶやいた。
「どこへ、行きましょうか」
「久しぶりに岩手もいいな」
 心の中に初めから用意していた答えを口にする。遥香は、ふわっと微笑んで胸元に顔をうずめてきた。
「また、あそこへ行きたいです、なんでしたっけ」
「イギリス海岸か?」
「そうです……今度は岩、歩けないかもしれないけど、それでも、また遼一さんと行けたら……あ、でも」
「……?」
 まどろみの中での会話は、とても心地よかった。遥香のやわらかな声を聞くうちに、まぶたが徐々に重たくなってくる。
「しばらくは、取材が重なるので、休みが取れるのは、少し、先になっちゃうかもしれない、です」
「ああ……お前の都合がついたときでいい」
「ふふ、はい……遼一さんの調子も、もう良いみたいだから、早く、終わらせます、ね……楽しみ……」
 声が小さくなっていき、途絶えたと思ったらすぐに、穏やかな寝息が耳に届いた。やおら目を向けると、あどけなさの残った寝顔。この顔は、毎日見ているが、未だに慣れていなかった。
「……『また』、か」
 見慣れない寝顔、その頬に触れると、かすかに反応があった。しかし目を覚ます風はなく、規則的な息の音が、胸の内にまで浸透し届いてくる。深くまで届いて、心地よいような、どこかざわめく震動を胸に広げた。
 岩手へ旅行したときの写真は、今日見つけたばかりだ。ほんの数枚だったが、だいたいどこをどういうルートで訪れたかは予想がついていた。
「お前の中には、全部のストーリーが入っているんだよな」
 二人でそこへ行けば、記憶の差の分だけこちらの反応に違和感が出る可能性がある。記憶を共有していないために、喜びや感動を分かち合えないことは当然。もしかすると、思い出の場所で遥香に最大のショックを与えてしまう事態になることすら、考え得るのだ。
 しかし、リスクをおかしても二人で行く必要がある。いつまでも今のままの生活を続けていくのは無理だ。
 遥香が休みを取れるまでの間に、もしも記憶が戻ったら……いいや、そんな不確かなことを望んでも、叶わず後悔するだけだ。だったら。
「……教えてくれ、俺たちの間にあった、いろんな出来事」
 前髪を指でそっとよけ、白く輝くその額へ唇を寄せる。そして、二人で思い出の地を訪れたときに思い出すことができれば十分だと願った。鼻をくすぐるシャンプーの匂いは、驚くほど心を落ち着けてくれる。
 もしかすると、身体は覚えているのかもしれない。たとえば抱き合ったり、キスをしたりしていて、もうずっと前から知っているような感覚に陥るのだ。目を閉じても、彼女の腰の位置、肩の高さ、手首を掴んだ感じ……すべて思い起こせるのではないかというほど、よくなじんでいる。
 その、この身になじんだ肩へ腕を回し、そうっと抱きしめる。懐かしいような、それでいて新鮮な感触が、全身を淡く包んだ。
「……mon fiancee」
 言葉にしてみると、ほんの一瞬だが、実感が湧くような気がした。婚約者……悪くない響きだ。そんなことを考えているうちに突如眠気が強まり、思考がぷつっと途絶えた。


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