小説&まんが投稿
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:★Freshness(フレッシュネス)★ 作者:鈴木翔太

第21回 21


 いきなり話題は移るけれど、日常とは素晴らしいものだと思う。
 何くわぬ語らい、変わらぬ隣人、縮まらぬ距離。
 時と場合によっては焦れったくなることもあるが、ロレーヌ・プロヴァンスはそうした自分が享受するありふれた生活に、おおむね満足していた。
 小さな不平不満を並べたてれば両手の指では収まりきらないとはいえ、好意を寄せる幼馴染のそばまで、その気になればすぐ会いに行ける幸福感に比べれば、諸事のわずらわしさ程度どうということはない。これにより幼少期からかさねた思い出の総数も、彼の実の両親に劣らぬものとロレーヌは確信している。
 フレイルと過ごしてきた十年来の共有財産のまえでは、たかだか一ヶ月程度の付き合いしかないトモダチなんか、警戒にすら値しない存在なのだ。
 調理場で包丁を手に微笑んだロレーヌは、洗い終えた野菜に向けて真っ直ぐに刃を振り下ろす。テキパキと一口大に切り揃えたそれらの具材を鍋に移すなり、解凍された鶏肉に魔の手を伸ばす。
 フレイルもいちばん困ったときには、自分を頼りにしているはずだ。
 今日だって図面を見せたら、勉強会のときとは比べものにならないほど喜んでくれていた。
 ロレーヌはわずかに虚ろな眼で鶏肉に刃を差し込むと、下拵えしやすいように静かに切り込みを入れていく。徐々に口元を緩ませるロレーヌの姿は、一般的な調理風景にはそぐわない危うさをまとっており、他者からおぞましい黒魔術でも始めかねない雰囲気だと言われたことがある。
 そう口にした相手からすれば、
「カレールゥを考えた人は天才ね。何か権威ある賞を贈られたらいいのに」
 といった自然なつぶやきも、別の物事を指す隠喩かと勘ぐりたくなったりするのかもしれない。こちらにすれば不本意な話であるけれど。
「ロレーヌ、ご飯の準備はあとどれくらいかかりそう?」
「まもなく完成。お母さんは器を磨いて待っていて」
 リビングから声をかけてきた母親に返事を済ませ、手が離せないために相手をたしなめるように告げると、母親はこれを聞き入れて、間のびした返事で食器の水滴を拭った。
 そうした様子をちらりと横目で眺め、愛らしい人だなと、心から素直に思う。
 母親の持ちえている、いかにも女性的な柔らかく朗らかな雰囲気を、いずれは自分も身に着けられるだろうかと、ロレーヌは杞憂にも似た溜め息をついた。
 端的に言ってしまえば、母親は若い頃、きっと異性から好かれたに違いない。
 隣にいると胸の内が安らぎに包まれ、温かな笑顔にしてあげたいという衝動に駆られる、天性の魅力ともいうべきものが母親の人柄には見受けられた。
 七つのときに他界した父親もこの魅力に心を射られ、婚姻を結んだのだろう。玄関に飾られている写真立てのなかの父親は、決して長くはなかったけれども、母親と過ごした日常に幸福を覚えていたはずだ。
「ロレーヌ、綺麗に拭きとれたわ。お母さん、食器拭きの達人になれるかも」
「達人……?」
「そうよ。あなたも私を超えたら、プロヴァンス流免許皆伝ね」
 嬉々としてしゃべる母親の姿に、ロレーヌは――意味はよくわからないが――微笑み返して、料理を食器に盛りつけていく。
 普段より少し早めの夕食となるが、これは自分なりの考えあってのことだ。
「うんっ、美味しい。あなたも料理上手になったわね」
「カレーは誰が作ってもこんな味だよ。お母さん」
 手料理として、カレーで褒めはやされるというのは華麗に一週回って嫌味ではなかろうかと思いつつ、ロレーヌは自分も夕食を口に運ぶ。
 想像どおりの味が広がるのを感じながら、母親の食事にじっと注視した。
 悔しいことに、母親は食事をとっているだけでも絵になるのだ。手にしているスプーンがまるで錫杖のごとき威光を放出し、本人はあたかも浮世に舞い降りた弁天のような優美さに満ちあふれている。いつの日か映像データにて視聴した、極東の寺院に祀られている女神像を思い出し、ロレーヌは思わず両手を合わせて母親を拝んだ。
 同じ血が流れているはずなのに、どうして、こうまで差があるのだろう。
 自分の認識において、母親と家を離れた姉の存在は人目を引く美女であった。そしてそれは己にとって自慢である反面、自らのコンプレックスの種となった。自分ひとりだけ大事な要素を取りこぼしてきたような欠落感と劣等感に苛まれ、現段階においてまで化粧道具や装飾品、丈の短い衣服などに手を伸ばすことは、ついぞしてこなかった。
 ロレーヌも年頃を迎えた花の女子学生である。そうしたものに興味を惹かれることは何度もあった。オシャレな衣服を身に着けた生徒や、髪型について語らう生徒などを目にすれば、足を止めて長いあいだ眺めていた経験もある。
 ――だけれど、それでも自分がみんなと同じように気軽にそうしたものに手を着けることは、なんとも言いがたい抵抗があった。
 アレらは可愛い娘が纏うからいいのであって、自分みたいなのが下手に真似をしたところで、惨めになるだけに決まっている。
 ロレーヌには女性としての自信がほとんどなく、ときおり垣間見せる苛烈なる態度や暗示のような自己啓発も、すべては余裕のなさの裏返しからくるものだ。
 母親の可憐さ。姉の気高さ。どちらも、おいそれと習得できるような美点ではないことは承知のうえだけれど、だとすれば自分の美点とは果たしてなんだ?
 そのままの自分を愛してくれる相手など、いるのだろうか。
 こんなにも心の醜い自分を想ってくれる相手など、いるのだろうか。
「フレイル……」
 身勝手だとそしられても仕方のない願いだと自覚しながら、ロレーヌは期待を込めて幼馴染の名を口にしていた。
 彼のことは好きだ。彼の純心さが、素直さが、自己を偽らない姿がたまらなく愛おしかった。
 フレイルのかたわらにあると、母親のそれとは異なる安心感があった。
 彼の飾ることのない挙動に、歯に衣着せぬ言動に、心地よさを感じた。
 いくつかの欠点はあるものの、それ以上に胸を満たす感情の奔流が、それらをどこかへと押し流すのである。
「あら、フレイルくん? 彼がどうかしたかしら?」
「っ! ううん、なんでもない」
 母親の言葉に幻想のフレイルを打ち消し、ロレーヌはやや早口に返事をした。
 すると相手は含みある笑みを浮かべ、腰かけている椅子をこちらに近づける。
「なーに、隠し事するの? 彼と何かあった?」
「何かって、お母さんこそ、なにを期待してるのよ」
「それはほら、いろいろよ。手を握った、とか。間接キスしてみた、とか」
 実際問題、その程度のことはすでに済ませているロレーヌは、母親の例題に少々呆れてしまう。――といっても、フレイルの性格とこなした時期のせいで、前述の行為には色っぽさのかけらもなかったのだけれど。
 スクール小等部でのあれこれを思い返し、こそばゆい気持ちになりながらも、平静を装って母親に話しかける。
「フレイルは一人だと栄養バランスの偏った食事しか摂らないから、そのことを心配していただけだよ。もっと悪いときは、食べない日もあるみたいだし」
 相手を煙に巻くために口唇から転がり出した台詞ではあったが、これは実際のフレイルの行動パターンであり、彼を気にかける理由のひとつでもあった。
「フレイルくんは、お家で一人暮らしだものね。自炊は面倒くさいんでしょう」
「――――なら、わたしがいるのに」
「えっ?」
「……個人的な独り言。気にしないで」
 一個人の人格面を形成するにあたって、生まれた土地や身近な人々の存在は、とても重要な意味合いを持つとロレーヌは感じていた。
 たとえば、フレイルの自由奔放で天衣無縫な一面などは、間違いなく彼の両親から受け継いだ要素であろう。
 フレイルの両親は、とにもかくにも夫婦仲がいい。実の息子とその友人がいる前で手をつなぎ合っていたりするのは序の口で、ひどいときはたがいの目と目を交わし、第三者の話を聞き逃すことさえあった。
 そうした熱々っぷりなもので、フレイルが便利屋業務を開始すると一安心し、今は新婚さながらに旅の空にある。この時も観光を満喫しているところだろう。
 本来ならば誰かが制止をかけるべきだったのであろうが、瑞々しい鮮度≠ノ目がない息子は両親の決定に異議を唱えることなく了承し、近隣住民から信頼を置かれているダグラスが留守を預かることで、愛し合うふたりにはなんら障害がそびえることはなかった。
「それにしても、お隣のご夫婦は素敵ね。男女の理想形と言ってもいいくらい」
「一人息子を放っておく両親の、どこが素敵なの? 無責任なだけじゃない」
 こちらが吐き捨てるように言うと、母親は意外そうに手を止めた。
「子供を信じているから、家を任せられるんじゃないの。家族としての絆が前提になければ、あんな思い切りのいいことはできないわ」
 母親の確信があるかのような言葉に、ロレーヌはしばし頭を悩ませた。
 確かに……子には親から受け継ぐ要素がある、という考えを押し進めるなら、相手の口にすることもわからないではない。
 フレイルは誰彼かまわず見境に信用するところがある。そして、他人の感情の変化を察して、心を寄り添うことのできる少年だ。もしも、この要素が両親より手わたされたすえ彼自身が芽吹かせた鮮度≠セとすれば、今しがたの説明にはきちんと筋がとおる。
 もしも……もしも、こういった現象が、自分にも当てはまるとしたら……!
 十一歳差の姉の姿を心に思い描き、ロレーヌは自らの鼓動の高鳴りを感じた。
 当時は父母ともに健在だったことを考えると、姉がこちらへと託した信などはたかが知れているが、それでも姉に自分を頼る想いが少しでもあったとすれば。
 遠方に発ってから一度も手紙をよこさず、父親の死にさえ何もリアクションを見せなかったのが、妹ならば母親を支えられると考えてのことだとすれば。
「お、お母さん……」
「うむ、わたしがお母さんであるぞ」
 娘の心情の変化を予見してか、母親はおどけてキュッと顔を引き締める。
 このまま相手の道化ぶりに便乗してしまおうかという考えが脳裏をよぎるが、ロレーヌは逃げ腰な己の意志に鞭を打ち、思い浮かんだ台詞をそのまま伝えた。
「お姉ちゃんも、わたしを信じてくれているのかな? わたしなんかを、頼れる相手と想ってくれているのかな?」
 素直な気持ちを言葉にするのは、想像よりも勇気が必要なものであるらしい。たどたどしくなった口調にロレーヌは、緊張に震えていることを自覚した。
 さらに奥に潜んでいるのは恐怖だ。相手の返答を聞かなくてはならないのに、不安の足音に両手で耳をふさぎたくなる。
 なまじ期待をしてしまっているのがかえって恐ろしい。希望とは劇薬なのだ。望みがあればこそ、高みから払い落とされたときの絶望も大きくなる。
 圧倒的に不利な逆境に立たされているほうが、むしろ静穏にいられようというものである。最初から結末が確定していれば、取り乱すことも心折られることもないのだから。
「ロレーヌ。そんな当たり前のことを尋ねないの」
「っ!」
 母親はテーブルについている娘の左手に触れて、穏やかに言葉をつむぎ出す。
「あの子は家族のなかでも、一番にあなたを想っているはずよ。たった一人の妹なんですから、誰よりもあなたが可愛くて仕方がないのは当然でしょう?」
 やさしく連なっていく声音は、心に居座る欠落感と劣等感の一角を、緩やかに解きほぐしていくようだった。かつて母親の腕に抱かれ聞いた子守唄のような、心を癒される安らぎの調べに、自分は胸中に込みあげるものを感じる。
「あなたに任せれば安心と思っているから、あの子は職務に専念できてるのよ。あなたはもっと自身に胸を張りなさい、ロレーヌ」
 ――母は強し。とは、何者が言い残した言の葉であっただろうか。ロレーヌはこの格言の意味を理解して、小さく頷いてみせた。
 長らく娘を育て、見守ってきた母親の言うことだ。
 こんなに説得力があり、なおかつ心強いものはほかにはない。
「わたし、フレイルのところにお裾分けに行ってくる」
「そう、言ってらっしゃい」
 ほかに伝えるべき言葉があることはわかっていたが、発展途上なロレーヌではさきほど振り絞った素直さが限界だった。
 なんら追求をしない温かい視線に見送られながら、カレーが入った鍋を掴み、隣にあるフレイル宅に足を向かわせる。
 このやりとりを皮切りに、ありとあらゆる物事が一気に好転していくような、そんな淡い期待を胸にたぎらせて……。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 723