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作品名:ロスト・ネーム 作者:鈴木翔太

第53回 53


   Memory2-12

 突然だが、みなさんは貝や蟹を食べたことがあるだろうか?
 あれらの生物は身体を守るため、強固な殻に柔らかな皮下組織を隠している。その殻を剥ぎ取るためには、一部分に重点的に力をくわえていては効率が悪い。殻のまわりに満遍なく力をくわえて、最後にグイッと押し上げることで、奴らの鎧を綺麗に取り除くことができるのだ。
 ――クレメンツ少年は、パイソンが解析した効率的な怪物の装甲破壊方法に、そうした生物への対処の仕方を思い出していた。
 パイソンが空間から引き出した武器を操り、装甲のまわりを順番に銃撃。
 弾丸を補充するのではなく、弾切れや誤作動を起こしたなら、すぐさま別個の銃器を拾う。パイソンの前に立ち、各種銃器を操る腕は、その重量と射撃反動に悲鳴を上げ始めていた。
 鱗のように細かに生え揃った殻。
 あれらをすべて奪い去るには、あとどれだけの攻撃が必要になるのか。
 撃ち抜くのは中心点だ。人間で言う胸腺――そこが狙い目!
 クレメンツ少年の頭のなかには、パイソンが集約した情報群が、ダイレクトに送りこまれてくる。そこから見出せる勝機、相手の弱点は胸腺だけだった。
 胸腺とは、ご存じのとおり――人体の胸腔に存在し、胸小葉と呼ばれる二葉からなる、胸骨の後ろ、心臓の前に位置した、心臓に乗るように存在する臓器だ。本来であれば免疫系と呼称される、病原性の生物による感染を防ぐ生体の機構に関与する。
 胸腺中のリンパ球が最も多いのは思春期(つまりは当時の私程度の年代)で、ピーク時の胸腺は三十から四十グラムに達するが、そのあとは急速に萎縮して、脂肪組織に置き換わる。そのため胸腺は、最も老化の早い器官と言われている。
 その胸腺に未知の物体が送り込まれた結果、ウクルに何が起こっているのか、みなさんは想像できるだろうか。
 胸腺の血管系は、皮質側においては上皮性細網細胞による細胞突起で囲まれているうえ、毛細血管は内皮と厚い基底膜をもっており、特にタンパク質はここを通りぬけられないのが通常だ。
 されども、ウクルの内側にある何かは、その場所からおぞましい液体を分泌。成熟した胸腺細胞は免疫応答をおこせない未熟なものがほとんどであるために、液体の効能に成す術もない彼の肉体は、異なるものへ置き換えられてしまった。
 なんと恐ろしい物質だろう、と私は考える。
 己自身が異なる何者かにすり替えられてしまう恐怖。それは、これまで生きた日々のすべてを、目の前で打ち砕かれるも同然の出来事だ。
 ウクル・ストライフの肉体は、内部に巣食った得体の知れぬ何かに、はかなくも喰い潰されてしまったのだ。
 思い返せば、前兆はあった。なぜ、私は気づけなかった?
 胸腺の近くは横隔神経や反回神経が通っている。神経が麻痺すると、横隔膜が上がったままになり息切れしやすくなり、反回神経が麻痺するとしわがれた声になるといった声門関係の症状がでる。と、医学書で読んだことがある。
 ウクルはこちらと顔を合わせたときから、救援信号を送っていたのだ。
 私はそれに、まったく気づくことができなかった。
 彼が抱え込んでいた恐怖は、いったい、どれほど深いものであったことか。
「救う、アンタを! せめて人間として、アンタを――ッ!」
 自分の両腕などくれてやる。目の前にいる人物を助ける。
 祈るようにして、両手に構えた引鉄に力を込めた。
 怪物となったウクルは吠え猛り続けた。
 ――そして、この戦いは唐突に終わりを迎える。
 私が相手の胸部の装甲をくり抜き、無防備となった皮膚組織に鉛弾を放とうとした瞬間、床面から隆起した刃がウクルの肉体を貫通したのだ。
 ウクルは胸部から濁流のごとき血液を噴出し、苦悶の叫びをこだまさせる。
 巨大な杭のごとく相手を貫通しているのは、よく見れば刃などではなかった。それは太く強靭な樹木だった。少なくとも、私にはそう見えた。
 どの地点から伸びているかはわからないが、下階から急速に発達した樹木が、私の助けたかった人物に致命傷をあたえたのだ。
「うっ、ウクル!!」
「よせ、ニレオ。これではもう助けられぬ」
 ウクルに近づこうとするクレメンツ少年に、パイソンは静かな声で言う。
 彼の語る言葉は、誰しもが頷くほかない状況判断である。
 樹木はウクルの肉体を、胸腺ならびに心臓までを刺し連ねている。体内に寄生していた何かが死滅した時点で、ウクルの肉体は人間時のそれだ。こんな一撃に耐えられるわけがない。
 そのうえ、ウクルは変化が解けるまでのあいだに、激痛に悶え苦しんでいる。
 近づけば一瞬で、生え揃った鋭い爪たちの餌食となるだろう。
「目に焼きつけよ、ニレオ。これがこの街に隠れひそむ邪悪」
 パイソンが私の隣に歩いてくる。彼の眼は、かすかに涙で潤んでいた。
「小生は、このような企みを憎む。生命を侮辱する者を憎む」
 ウクルが悶えながら、鮮血をまき散らしながら、嘆きを叫びながら、あるべき人間の姿に縮んでいく。
「…………」
 私はパイソンが取り出した武器のうち、大剣を手にし、樹木を断とうとした。
 しかし大剣は重く、樹皮は堅い。疲弊した自分では、満足に斬り分けることはできない
「……この、…………ちくしょうッ!」
「手伝おう。ウクルを下ろすのだな?」
 パイソンが、私の腕を支えるようにして、大剣を握る手を掴む。
 雨でも降りだしたのだろうか。わずかな水音が、どこからか聞こえてくる。


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