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作品名:ロスト・ネーム 作者:鈴木翔太

第28回 28


 それはとても、幸せな夢だった。
 温かくて、愛しくて、恋しい夢だった。
「…………此処は?」
 何もない場所に、ひとりで蒼が佇んでいる。
 すると突如として空間が色づき、一部がとある店に変化していった。
 店の名は木蘭艶紅(ムーランルージュ)。本格的な中華料理が食べられる店で、そのなかでも旨味が詰まった小龍包は人気料理だ。
 中華飯店ならではの刺激的な香辛料の匂いが漂い、着物姿の女性が額に汗し、厨房内で調理器具を振るっている。
 その場にいるのは、まぎれもなく三池満依だった。
 完成させた料理を皿に移し、両腕と頭にお盆をのせ、客席まで運んでいく。
 そして、満依の歩み寄るその客席には、もうひとりの蒼が座っていた。
 彼女はもうひとりの蒼と、楽しげに会話をしている。
「――ふっ、ははっ、そういうことか…………」
 蒼は乾いた笑い声を発して、この光景を見つめた。
 これは、自らの追い求める幻想であるようだ。愛しい恋人がかたわらにあり、ささやかな会話を楽しめる。なんでもない内容だ。
 そうしたなんでもないものを、文字どおり、夢に見るほど欲していることに、蒼流星は己自身を嘲笑った。くだらない夢想に逃避するとは、未熟千万である。精神鍛錬がまるで足りていないということらしい。
 こんなものになど用はない。早く目を覚まそう。
 厨房にあった包丁を手に取り、首にあてがう。それから両の目蓋を閉じると、迷いなく刃を深々と突き立てた。
 痛みを感じないところは、さすがは都合のいい夢想。
 空間が瓦解するのを眺めながら、現実に引き戻されていくのを実感する。
 夢は夢に溶け、跡形もなく散失した。


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