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作品名:ロスト・ネーム 作者:鈴木翔太

第13回 13


   O.O.S.『受け継がれるもの』

 外科医、ニコムス・クレメンツは、医院長室でカルテの確認をしていた。
 ニコムスは病院に集うすべての医師を統率せねばならないため、日夜時間との闘いに精神を擦り減らしている。学会に提出する小論文も書き上げねばならず、やり遂げるべき激務を思えば、意識なく溜め息がもれる。
 気がつけば働き続け、あと数年で還暦を迎えようという歳になってしまった。
 本音をこぼせば、ニコムスは今すぐにでも引退したいのだ。もう目は霞み、節々は悲鳴を上げ、頭髪も同年代の者たちに比べ、明らかに変色が目立つ。
 にもかかわらず、今日も自分が黙々と担当職務をこなさざるをえない理由は、ブレイゾンシュタットに生きる住人たちの願いを聞き届けてのこと。
最高の名医≠ヘ、苦難にあえぐ人々を見捨てることなどできなかったのだ。
 しかし、それが必ずしもニコムスにとって重責のみに終わるものかといえば、断じてそんなことはなかった。ニコムスにとっては、慕ってくれるみなの存在は喜びであり、慕われるだけの行動を示せた事実は、これ以上ない誇りであった。
「姿を見せるのなら、きちんと正面から来たらどうなのだ?」
 ニコムスはやおら仕事の手を休めて、後方に広がる空間に話しかけた。
 空間にとけ込むように同化している相手は、言葉に笑みを含めて歩み寄る。
「『姿を見せて』はおらんだろう? ああ、それにしても、相変わらずの仕事量のようだな。これだけの働き、さぞ裕福な暮らしのはず。奥方もご満悦であろう」
「ヨルアのことは関係あるまい。どうした? そちらで何かあったか?」
「ないこともないが……今日は、そうした用件で立ち寄ったわけではないのだ」
 声のほかには靴音だけを鳴らして、相手は部屋のなかを歩きまわり、どうやらニコムスの正面に移動したようだった。
「貴殿の嫡子――ニレオと申したか。そろそろ頃合いであろう。代替えの手筈は済んでおるのか、ニコムス・クレメンツ」
「うっ、うむ……」
 ニコムスは低く唸るようにして、机に肘をついて両手を組む。
 相手からこの話を持ち出されたこと自体は、別段、驚くような事柄ではない。はるか昔より引き継がれた契約を考えれば、およそ形式的な問いでしかない。
「私としても、本来ならばそうある予定だったんだがな……。家のバカ息子は、怠け者でなぁ。私の話をまったく聞こうとせんのだ」
「俗にいう、反抗期というヤツなのではないか?」
 相手はどこか楽しそうな声で、こちらの言葉に応じた。
「貴殿の困り顔からして、どうやら自らの血脈の真実さえも、ニレオは知り得ていないようだな。ちょうど、かつてのニミナのようだ」
「私のご先祖について思い起こすのはかまわんが、いったい何を急いでいる? クレメンツの血脈はつつがなく受け継がれている。ほどなく、あいつとて自らの才能に気がつくこととなるだろう」
 訝しげに虚空を見つめ、ニコムスは相手を問い質す。
 この男は、いつだろうとこれだ。ふらりと現れたかと思えば、こちら側が納得できるだけの説明もせずに、一方的な内容だけで会話を押し進めてくる。
「うむ――そうなのだが。どうもここ最近、街の気配が妙でな。数年前より、徐々に怪異の影が増幅しておる。嫌な予感がするのだ」
「『予感』……? はははっ、これは面白い。お前から『予感』だなんて、曖昧な言葉が出てくるとは思わなかったよ」
 深くしわの刻まれている顔を和らげ、ニコムスは膝を叩いて笑った。こと相手から聞かされる単語のなかで、これほどお粗末なものはほかにないだろう。
「ふはははっ。まぁ、そう言ってくれるな。小生とて、好きこのんで用いたくはない語句よ。なにせ、我が沽券に関わるゆえ」
 哄笑を禁じ得ないことは、相手もまた同じである様子だった。双方はしばらく笑い合ったあと、不意に面持ちを引き締めて、場の空気を張り詰めさせていく。
「つまるところ、その怪異を調べるため、愚息の力を借りたいということか?」
 ニコムスの声音は、鋭利な刃物のように冷ややかになる。
 そして、これもまた別段、驚くような事柄ではなかった。
「……ニコムス。貴殿の胸中は、小生とて想像にかたくない。なれども、理解を示してはもらえぬか。おそらくは此度の一件、何者かの邪な試みに相違ない」
 もの静かに語る相手の姿が虚空より染み出でて、その全体像が浮かび上がる。相手の姿は言葉を投げかける老練の医師よりも、かなり若い。
 エナメルと革で仕立てられた軽装に身を包んだ青年は、一点の曇りない眼で、ニコムスを真摯に説得する。
「クレメンツの血脈であれば、その邪さに対抗できるやも知れぬ。だから――」
「ならば私で良かろう! なぜニレオを差し出さなくてはいかん!?」
 医師は声を荒らげて猛抗議した。己自身が死地に赴くのならば納得もできる。己自身が進んで苦難に身をさらすのであれば、なんら恐れるものはない。
 しかし正しく現世の向こう側≠ノついて理解していない息子を、そんな危険きわまりない出来事にかかわらせるのは死んでもご免である。
「理解しておるはずだ、ニコムス。貴殿が向こう側≠ニ対するには、いささか以上に老いた。貴殿と共に駆けた日々は小生にとっても誉れであるが、死に逝くだけの老爺を頼るわけにはいかぬのだ」
「……ぬ、ぐぅ……ッ……」
 ニコムスには言い返しようがなかった。
 言い聞かせられずとも、頭では理解できていた。
 このような老いぼれが、怪異に対せるはずはないのだ。このような老爺には、向こう側≠フ深淵は耐えきれるものではないのだ。
「どうしろと、言うのだ……?」
「ニレオに血族の歴史を語り継がせよ、ニコムス。なに、心配は要らぬだろう。ほかならぬ貴殿の嫡子、貴殿の意志を継ぐ男児だ。その意味合いを理解すれば、必ずや邪を打破せし者となろう」
「あんな馬鹿に勤まるのだろうか。ニレオは理知を弁えたうえで、それをあえて無視する奴だ。心配でならんよ」
 ニコムスは組んだ両手に額を乗せ、とても深い溜め息をついた。
「己の息子を信じるのだ。小生もまた、貴殿の信ずる後継者を信じよう」


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