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作品名:Freshness(フレッシュネス) 作者:鈴木翔太

第21回 21


 いきなり話題は移るけれど、日常とは素晴らしいものだと思う。
 何くわぬ語らい、変わらぬ隣人、縮まらぬ距離。
 時と場合によっては焦れったくなることもあるが、ロレーヌ・プロヴァンスはそうした自分が享受するありふれた生活に、おおむね満足していた。
 小さな不平不満を並べたてれば両手の指では収まりきらないとはいえ、好意を寄せる相手のそばまで、その気になれば二分とかけずに会いに行ける幸福に比べれば、どうということはない。その結果、ふたりで紡いだ思い出の総数も、彼の実の両親に劣らぬものとロレーヌは確信している。
 自分がフレイルと過ごしてきた十年来の実績の前では、たかだか一ヶ月程度の付き合いしかないトモダチなんか、警戒にすら値しない存在だ。
 調理場で包丁を手に微笑んだロレーヌは、洗い終えた野菜に向けて真っ直ぐに白刃を振り下ろす。テキパキと一口大に切り揃えたそれらを鍋に移すなり、解凍された鶏肉に魔の手を伸ばした。
 フレイルもいちばん困ったときには、自分を頼りにしているはず。
 今日だって図面を見せたら、あのふたりのときとは比べものにならないほど喜んでくれていた。
 ロレーヌはわずかに虚ろな眼で鶏肉に刃を差し込むと、下拵えしやすいように静かに切り込みを入れていく。徐々に口元を緩めるロレーヌの姿は、一般的な調理風景にはそぐわない危うさをまとい、他人からはおぞましい黒魔術でも始めかねない雰囲気だと言われたことがある。
 そう口にした相手からすれば、
「カレールゥを考えた人は天才ね。何か権威ある賞を贈られたらいいのに」
 といった自然な呟きをも、別の物事を指す隠喩かと勘ぐりたくなったりするのかもしれない。自分にすれば不本意な話ではあるけれど。
「ロレーヌ、ご飯の準備はあとどれくらいかかりそう?」
「まもなく完成。お母さんは器を磨いて待っていて」
 リビングから声をかけてきた母親に返事を済ませ、手を離せないロレーヌが相手をたしなめるように言うと、母親はこれを聞き入れて、間のびした返事で食器の水滴を拭った。
 ロレーヌはそうした母親の様子をちらりと横目で見て、「愛らしい人だな」と心から素直に思う。母親の持ちえている、いかにも女性的な柔らかく朗らかな佇まいを、いずれ自分も身に着けられるだろうかと、ロレーヌは杞憂にも似た溜め息をついた。
 端的に言ってしまえば、母親は若い頃、きっと異性から好かれたに違いない。
 間近にいると胸の内が安らぎに包まれて、温かな笑顔にしてあげたいという衝動に駆られる、天性の魅力ともいうべきものが母親の人柄には見受けられた。
 七つのときに他界した父親もこの魅力に心を射られ、婚姻を結んだのだろう。玄関に飾られている写真立てのなかの父親は、決して長くはなかったけれど、母親と過ごした日常に幸福を覚えていたはずだ。
「ロレーヌ、綺麗に拭きとれたわ。お母さん、食器拭きの達人になれるかも」
「達人……?」
「そうよ。あなたも私を超えたら、プロヴァンス流免許皆伝ね」
 嬉々として言葉にする母親の姿に、ロレーヌは――意味はよくわからないが――微笑み返して、料理を食器に盛りつけていく。
 普段より少し早めの夕食となるが、これにはちゃんと自分なりの考えあってのことだった。
「うんっ、美味しい。あなたも料理上手になったわね」
「カレーは誰が作ってもこんな味だよ。お母さん」
 女性の手料理としてカレーで褒めはやされるというのは、華麗に一週回って嫌味ではなかろうかと思いつつ、ロレーヌは自分も夕食を口に運ぶ。
 想像どおりの味が広がるのを感じながら、母親の食事にじっと注視した。
 悔しいことに、母親は食事をとっているだけで絵になるのだ。手にしているスプーンがまるで錫杖のごとき威光を放ち、本人はあたかも浮世に舞い降りた弁天のような優美さに満ちあふれている。いつの日か映像データで目にした、極東の寺院に祀られている女神像を思い出し、ロレーヌは思わず手を合わせて母親を拝んだ。
 同じ血が流れているはずなのに、どうして、こうまで差があるのだろう。
 自分の認識において、母親と家を離れた姉の存在は人目を引く美女であった。そしてそれは己にとって自慢である反面、自らのコンプレックスの種となった。自分ひとりが大事な要素を取りこぼしてきたような欠落感と劣等感に苛まれ、現在においてまで化粧道具や装飾品、丈の短い衣服などに手を伸ばすことは、ついぞしてこなかった。
 ロレーヌも年頃を迎えた花の女子学生である。当然、そうしたものに興味を惹かれることは何度もあった。スクールでオシャレな衣服を身に着けた生徒や、髪型について語らう生徒などを目にすれば、足を止めて長いあいだ眺めていた経験もある。
 ――しかし、それでも自分自身がみんなと同じように気軽にそうしたものに手を着けることは、なんとも言いがたい抵抗があった。
 アレは可愛い娘が纏うからいいのであって、自分みたいなのが下手に真似をしたところで、惨めになるだけに決まっている。
 ロレーヌには女性としての自信がほとんどなく、ときおり垣間見せる苛烈な態度や暗示のような自己啓発も、すべて余裕のなさの裏返しからきていたのだ。
 母親の可憐さ。姉の気高さ。どちらもおいそれと習得できるような美点ではないことは承知のうえだけれど、だとすれば自分の美点とは果たしてなんだ?
 そのままの自分を愛してくれる相手など、いるのだろうか。
 こんなにも心の醜い自分を想ってくれる相手など、いるのだろうか。
「フレイル……」
 身勝手だとそしられても仕方のない願いだと自覚しながら、ロレーヌは期待を込めて幼馴染の名を口にしていた。
 自分は彼のことが好きなのだ。彼の純心さが、素直さが、己を偽らない姿がたまらなく愛おしかった。
 フレイルのかたわらにあると、母親のそれとは異なる安心感があった。
 彼の飾ることのない挙動に、歯に衣着せぬ言動に、心地よさを感じた。
 もちろん彼にもいくつか欠点はあるが、それ以上に胸を満たす感情の奔流が、それらをどこかへと押し流すのである。
「あら、フレイルくん? 彼がどうかしたかしら?」
「っ! ううん、なんでもない」
 母親の言葉に幻想のフレイルを打ち消し、ロレーヌはやや早口に返事をした。
 すると相手は含みある笑みを浮かべ、腰かけている椅子をこちらに近づける。
「なーに、隠し事するの? 彼と何かあった?」
「何かって、お母さんこそ、なにを期待してるのよ」
「それはほら、いろいろよ。手を握った、とか。間接キスしてみた、とか」
 実際問題、その程度のことはすでに済ませているロレーヌは、母親の例題に少々呆れてしまう。――といっても、フレイルの性格とこなした時期のせいで、前述の行為には色っぽさのかけらもなかったのだけれど。
 スクール小等部での出来事を思い返して、こそばゆい気持ちになりつつも、ロレーヌは平静を装って母親に話しかける。
「フレイルひとりだと栄養バランスの偏った食事しか摂らないから、そのことを心配していただけだよ。もっと悪いときは、食べない日もあるみたいだし」
 相手を煙に巻くために口から転がり出した台詞ではあったが、これは実際のフレイルの行動パターンであり、彼を気にかける理由のひとつでもあった。
「フレイルくんは、お家で一人暮らしだものね。自炊は面倒くさいんでしょう」
「――――なら、わたしがいるのに」
「えっ?」
「……個人的な独り言。気にしないで」
 一個人の性格を形成するにあたって、生まれた土地や身近な人々の存在は、とても重要な意味合いを持つとロレーヌは感じていた。
 たとえば、フレイルの自由奔放で何者もいとわない一面などは、間違いなく彼の両親から受け継いだ要素であろう。
 フレイルの両親はとにもかくにも夫婦仲がいい。実の息子とその友人がいる前で手をつなぎ合っていたりするのは序の口で、ひどいときはお互いの目と目を交わし、第三者の話を聞き逃すことさえあった。
 そうした熱々っぷりなもので、フレイルの両親は息子が便利屋Freshnessを開業すると安心したらしく、息子を残してふたりで旅行に出てしまったのだ。
 本来ならば誰かが制止をかけるべきだったのだろうが、瑞々しい鮮度≠ノ目がない息子は両親の決定に異を唱えることなく了承し、近隣住民から信頼を置かれているダグラスが留守を預かることで、愛し合うふたりにはなんら障害がそびえることはなかった。
「それにしても、お隣のご夫婦は素敵ね。男女の理想形と言ってもいいくらい」
「一人息子を放っておく両親の、どこが素敵なの? 無責任なだけじゃない」
 こちらが吐き捨てるように言うと、母親は意外そうに手を止めた。
「子供を信じているから、家を任せられるんじゃない。家族としての絆が前提としてなければ、あんな思い切りのいいことはできないわ」
 母親の確信があるかのような言葉に、ロレーヌはしばし頭を悩ませた。
 確かに……子には親から受け継ぐ要素がある、という考えを押し進めるなら、相手の口にすることもわからないではない。
 フレイルは誰彼かまわず見境に信用するところがある。そして、他人の感情の変化を察して、寄り添うことのできる少年だ。もしもこの要素が、両親より手わたされたすえ、彼が芽吹かせた鮮度≠セとすれば、今しがたの説明にはきちんと筋がとおる。
 もしも……もしも、こういった現象が、自分にも当てはまるとしたら……!
 十一歳差の姉の姿を心に思い描き、ロレーヌは自らの鼓動の高鳴りを感じた。
 当時は両親ともに健在だったことを考えると、姉がこちらに託した信などはたかが知れているが、それでも姉に自分を頼る想いが少しでもあったとすれば。
 遠方に発ってから一度も手紙をよこさず、父親の死にさえ何もリアクションを見せなかったのが、妹ならば母親を支えられると考えてのことだとすれば。
「お、おお、お母さん……」
「うむ、わたしがお母さんであるぞ」
 娘の心情の変化を察してか、母親はおどけてキュッと顔を引き締める。
 このまま相手の道化ぶりに便乗してしまおうかという考えが脳裏をよぎるが、ロレーヌは逃げ腰な己の意志に鞭を打ち、思い浮かんだ台詞をそのまま伝えた。
「お姉ちゃんも、わたしを信じてくれてるのかな? わたしなんかを、頼れる相手と想ってくれているのかな?」
 素直な気持ちを言葉にするのは、想像よりも勇気が必要なものであるらしい。たどたどしくなった口調にロレーヌは、緊張に震えていることを自覚した。
 さらに奥に潜んでいるのは恐怖だ。相手の返答を聞かなくてはならないのに、不安の足音に両手で耳をふさぎたくなる。
 なまじ期待をしてしまっているのがかえって恐ろしい。希望とは劇薬なのだ。望みがあればこそ、高みから払い落とされたときの絶望も大きくなる。
 圧倒的に不利な逆境に立たされているほうが、むしろ静穏にいられようというものである。最初から結末が確定していれば、誰も取り乱すことも心折られることもないのだから。
「ロレーヌ。そんな当たり前のことを尋ねないの」
「っ!」
 母親はテーブルについている娘の左手に触れて、穏やかに言葉を紡ぎ出す。
「あの子は家族のなかでも、いちばんあなたを想っているはずよ。ただひとりの妹なんですから、誰よりもあなたが可愛くて仕方がないのは当然でしょう?」
 やさしく連なっていく声音は、こちら側が抱える欠落感と劣等感の一角を、緩やかに解きほぐしていくようだった。かつて母親の腕に抱かれ聞いた子守唄のような、心を癒される安らぎの調べに、自分は胸に込み上げるものを感じる。
「あなたに任せれば安心だと思っているから、あの子はひたすら職務に専念できているのよ。あなたはもっと自身に胸を張りなさい、ロレーヌ」
 ――母は強し。とは、何者が言い残した言葉であっただろうか。ロレーヌはこの言葉の意味を理解して、小さく頷いてみせた。
 長らく娘を育て、見守ってきた母親の言うことだ。
 こんなに説得力があり、なおかつ心強いものはほかにはない。
「わたし、フレイルのところにお裾分けに行ってくる」
「そう、言ってらっしゃい」
 今の母親相手には、もっとほかに伝えるべき言葉があるように思われたが、現段階のロレーヌではさきほど振り絞った素直さが限界だった。
 なんら追求をしない母親の温かい視線に見送られながら、自らの手で作った料理の入った鍋を掴み、隣にあるフレイル宅に足を向かわせる。
 この出来事を皮切りに、ありとあらゆる物事が好転していくような、そんな淡い期待を胸にたぎらせて……。


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