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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第9回 束縛金魚 (テーマ:幽霊)
 金魚を食べた。
 誰もが寝静まる深夜にそっと、金魚鉢に手を浸す。捕らえた金魚をつるりと飲み込んだ。尾ひれが食道をくすぐり、余韻がいつまでも残った。

 翌日の夜、とんとんとん、とドアを叩くものがある。
 昔ながらの無駄に広くて古いこの家は、あちこち隙間があって風が通る。そのせいで部屋のドアが揺すられたのかと、気にせず読書を続けた。
 するとまた、とんとんとん――と音がする。やっぱり誰かが叩いているのかしら、とドアを開ける。
「あるじ様」
 そこには昨夜食べたばかりの金魚がかしこまった様子で宙に浮いていた。
「まあ、ひらりではないの!」
 可憐なこの金魚を、私は「ひらり」と名付けて可愛がっていた。
 暗闇に浮かぶ金魚を、私はほうっと溜め息をついて眺めた。宙に垂れる尾ひれが、枝垂れ落ち咲く桜の枝のように見事だった。細部で色合いを変える紅色は、背後の黒に蠱惑的に映えている。
「夜分に申し訳ありません」
「いいのよ、入ってちょうだい」
 うきうきと室内に招き入れた。
「それでは、失礼します」
 ひらりは中に入り、私と向き合った。
「あるじ様、わたしは文句を言いに参ったのです」
「まぁ、文句? どのような事かしら」
 ひらりの呼び声に心が弾む。
「……どうしてわたしを食べたりなどしたのですか」
 じとっと私を睨んでくる目は、バランスの良い位置に配置されている。ひらりは金魚の中では器量よしの部類だ。何より尾ひれが素晴らしい。ひらりの尾ひれは他のどんな金魚よりもうんと美しく立派な造作をしている。
 尾ひれが喉を通る心地が蘇る。冷たくなった水餃子を口に含んだような感覚だったわ、と思う。けれど薄いひれはもっと繊細。噛んでひらりの体を損ねてしまうのが嫌で、そのまま飲み込んだ。
「とても美味しかったわよ。味ではなくね、喉ごしが良かったの」
「味の感想など訊いてはいません。何故と問うているのです」
 ひれを動かし口をぱくぱくさせて私への文句を言ってくれる様子は、生きていた頃よりも表情豊かだ。
「まずね、私はお礼を言いたいわ。ひらり、会いに来てくれてありがとう。あなたがお化けになって出てきてくれるんじゃないかって、実は期待していたの」
「何なのですか、お礼など。わたしは文句を言いに来たのですよ。幽霊なのですよ。ええ、化けて出てきたのですよ」
 ぷんすか、という擬音でもつきそうな様子で言う。
「ひらり、あなたは病気になっていたの。金魚がかかる病気よ。食べられる前の最後の頃、苦しかった事を憶えてはいない?」
「びょうき……?」
 祭りで掬ったにしては、ひらりは長生きの金魚だった。可憐で丈夫で、私の自慢だった。なのに、病気になってしまった。
「年寄り金魚だし、近い内に死んでしまうと言われたの。とても悲しかったわ」
 ある日金魚鉢でお腹を見せてぷかりと浮いている――そんな姿は決して見たくはなかった。
「それで私は、あなたを食べる事にしたのよ」
「そんなの……病気になった金魚など食べずとも、土に還してしまえば良いではないですか」
「死んだ姿なんて見たくなかったと言っているでしょう」
 はじめの勢いを失い、ひらりはどこか消沈したように見える。
「……わたしはあるじ様を恨んでいるのです」
 それにしては瞳が惑う色を浮かべている。
「だから会いに来てくれたのね」
「地縛霊です。ええと……長年棲んだ金魚鉢に縛られているのです」
「あの金魚鉢は二ヶ月前に買い替えたばかりよ」
「では、金魚鉢を満たす水に縛られているのです」
「水は定期的に変えていたわ」
 ひらりはひれを力なく垂らした。
「ーー何であれ、わたしはやはり、あるじ様と離れがたいのです。食べられた事への恨みでせっかく出てこられたのに、それがわたしを慈しんでくれた故だと知ってしまったら、何を化けて出る為の理由にすればいいのでしょう。何に縛られてここにいればいいのでしょう」
 それはつまり、ひらりはお化けになっても私と一緒にいたいという事だ。ひらりを手のひらで掬い上げ、顔を近づけた。
「心配しなくていいのよ。あなたは私に縛られているの。恨みなんて無くても、充分私に執着しているのよ。それに死んだのが私の体内なのだもの、縛られる理由としては一番よ」
 ひらりは目をぱちくりさせた。自分の事を食べてしまった飼い主に執着しているだなんて、このこもどうしようもないものだ。
「あなたは幽霊になっても私の中で泳ぎ続けるのだわ」
「ずっとですか」
 可愛い私の金魚は、希望を見出してひれを元気にぱたぱた動かして訊いてくる。
「私という金魚鉢から、命の水が零れ落ちるまでずっとよ」
 力強く答えると、ひらりは手のひらから飛び上がってくるりと回転し――ぱしゃりと音を立てて私の中に飛び込んだ。
 喉元を涼しく通る尾ひれの心地が蘇るようだった。


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