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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第37回 あした海になる (テーマ:海)
小説コンテストサイト「時空モノガタリ」」
時空モノガタリ
待井小雨さん

待井久仁子というペンネームで「小説&まんが投稿屋」というサイトで、童話やホラーやよくわからない物語を投稿しています。 ご興味を持っていただけたら、よろしくお願い致します。
性別
将来の夢
座右の銘
投稿済みの作品


 とぷりと水の音がした。
 吸い寄せられるようにして、私は音の方に首を向ける。閉めきられた障子の向こう、縁側の先は池のある庭だ。
「どうしたの」
 母が怪訝な顔で振り返る。
「いま――潮の香りが」
 ……したような気がして。
「するわけないでしょう、そんなの。ここから海まで何時間かかると思ってるの」
 そんなことより、と母は言う。
「ちゃんと、おばあちゃんの顔を見ておきなさい」
 うん――と白い布団で眠る祖母の顔を見る。
 はじめは夏風邪をこじらせたのだということだった。そのまま体力が落ち、眠る時間の方が長くなったという。
 入院も拒み、家にいたいと祖母は希望した。おそらくもう永くはないだろうと、親戚や普段離れて暮らしている私達も見舞うこととなった。

「まだ寝ないの」
「今日は私が看ることにしたから」
 時間はとうに深夜に差し掛かっていた。看病というほどのことはもはや何もできないけれど、今晩は私が看ることにする。
 あの潮の香りが気にかかっていた。
 祖母が眠りにつく前。現も夢も境の分からないような状態で、祖母は障子を開けて、と呟いた。
 池が見たいの――と。
 そのまま眠ってしまったので誰も障子を開けはしなかった。
 祖母の布団を離れ、障子を開く。夜の中、黒い庭がそこにはあった。月明かりが差し込んで、白い祖母の顔を一層青白く彩る。
「おばあちゃん、見える?」
 暗い庭には何の影も見えない。不安だけが私の心をざわざわと揺らしていた。

 もうずいぶんと昔、祖母に抱き上げてもらえるほどに小さかった頃、不思議な話を聞かされた事がある。
 娘時代に避暑で海辺に言ったのだと、元気だった頃の祖母は語った。
 ――とても綺麗な娘さんがいてね。私はその人のことが大好きだったの。
 ――どこのお嬢さんかも知らなかったけれど、毎日一緒に遊んだわ。綺麗な貝に耳を寄せあったり、波打ち際で寝転んで空を長いこと眺めていたり。
 手を繋いだままで、と祖母は微笑んだ。まるで恋を語るようだと、幼いながらに感じていた。
 ――避暑を終えてこの家に戻らなくてはいけなくなって、私はひどく泣いたのよ。あなたと一緒にずっといたいって。……けれど無理だと。
 異質なほど美しい人は言った。
 ――だってあなたは人間なのだもの――って。
 ――自分は人ではなく、海のものだとその人は言うの。
 とぷりと、記憶の中の池が音を立てる。祖母の語る話に、あの時の私は淡い憧れと、得体の知れないものへの畏れを抱いてはいなかったか。
 ――あなたは人間だから、息をするものだから海には連れていけないと言われた。じゃあどうすればいい、どうすればあなたと一緒に行けるの、って必死になって訊いたわ。
 そうしたらね、と祖母は夢見るような瞳で続けた。
 ――あなたが息をしなくてもよくなったら迎えに行くわ、って。
 そう言ってくれたのよ――。

 庭を見つめて立っていると、背後で布の擦れる音がした。寝ていたはずの祖母が私に問いかける。
「――ねぇ?」
「……どうしたの、おばあちゃん」
 目が覚めたの、具合はどう、そんな言葉が頭をよぎる。けれど、どれも声には出なかった。
 月明かりで冷たいほどに白い顔をした祖母が口を開く。
「私は明日、海になるのよ」
 そう、微笑んで。
「え――」

 ――はっと、目が覚める。
 夢を見ていたの……と額をおさえる。
 時計を見れば母が退室してから一時間ほどしか経っていない。祖母が起き出した気配もなかった。
 祖母の口元に手を伸ばす。微かに息が当たるのを感じて安堵した。
 けれど、明日。
 明日、おばあちゃんは海になる――。
 暗いままの庭をじっと睨む。そこにある、池を。
 この池は海に繋がっているんだよ、と言っていた祖母。そんなの嘘だわ、ちっともしょっぱくないもの、と水を舐めて答えた私。
 あの時私を窘めてくれた祖母は、確かに「こちら側」にいてくれたのに。
 池が海に繋がっているはずはない。潮の匂いなどするはずもない。不安を抱いたまま夜が明けるのを待った。
 ――そして空が白み始めた頃、不意に強い眠気に襲われた。瞳を閉じれば引きずり込まれるようにして、ずるずると眠りの淵に落ちていく。
 祖母の布団に倒れこんだ。そこに眠る人の手をせめて握りたいのに、体がすでにいうことをきかない。
 …………。
 ……ぴちゃ――ちゃぽん。
 とぷり。
 耳だけが、水の音を拾う。生き物もいない池から聞こえる、水の音を。
 祖母の願いは果たされるのだと、悟る。希う想いが果たされる時が来たのだと。
 待って、とも連れて行かないで、とも言えなかった。私の祖母が、私の祖母ではないものになることをただ思い知らされる。
 とぷん――と一際大きく水が鳴って。

 ……きつい潮の香りが、部屋を満たした。


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