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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第32回 竜宮の亀 (テーマ:浦島太郎)
 夏の日差しが射すアスファルトの路上に、亀が引っくり返っている。
 海は遠く、近くに水場は無い。子供の悪戯だろうかと、俺は掌ほどの大きさの亀に歩み寄った。
「大丈夫か」
 車通りのない道だから轢かれる事はあるまいが、そのままにしておく気にはなれなかった。
「やめて下さい」
 手を触れる寸前、当の亀から声が上がった。
「助けないで下さい。私にどうか、触れないで下さい」
 俺は目を丸くした。
「しゃべっているのはお前なのか」
「わたくしです。どうか触れずにお見捨て下さい」
 口の動きと言葉が一致している。本当にこの亀がしゃべっているようだ。
「そうは言うが裏返しでは苦しそうだ。自力では起き上がれないのだろう?」
 手を伸ばすと「やめて下さい!」と強く止められた。
「……お前は人が嫌いなのか? 助けを借りるのさえ嫌なほどに」
 車どころか人も通らない。日陰も無い。俺は影を作って熱気から庇おうと亀の傍に座った。すると亀は逆さまの目で俺を見て、とろみのある涙を流した。
「嫌いなはずなどあるものですか。……なぜ人間の若者はそのように無防備に心優しいのです。なぜ私のようなちっぽけな亀を助けようなどとして下さるのです」
「その状態じゃ苦しそうだと思っただけだ。せめて水のある所まで連れて行ってやりたい」
「そのような心持ちの方を嫌いになれましょうか。助けてもらっては好きになってしまう。友人になってほしいと願ってしまう」
「友人か、嬉しいな」
 動物相手でもそう思ってもらえるのは光栄だ。では、と手を伸ばすと「やめて下さい」と再度言われた。
 つー……と糸を引くように亀の涙が地面に落ちる。こんもりとした、小さな珠のような水滴だった。
「……私は竜宮の亀です。浦島太郎をお連れした亀です」
「浦島太郎って、昔話のか?」
「はい。私は浦島太郎を酷い目に遭わせてしまいました。取り返しのつかない罪です。助けてもらって嬉しくて、友人になりたいと願ってしまって、彼の全ての時間を奪ったのです」
「しかしそれは乙姫の仕業だろう? お前にも罪はあるだろうが、引き留めたのは乙姫だ」
 罪の重さを量れば乙姫の方が重いように思う。亀はいいえ、いいえ、と首を振った。
「乙姫様はお優しい方です。全て私を憐れんでの事でした。――万年もの時を生きる私はいつも寂しいと嘆いておりました。誰もかれも私ほどに生きてはくれない。それが辛くて嫌でした」
 ならばここに永遠の都を造りましょう――乙姫はそう微笑んだと言う。
 白の砂に輝く城。鰭を翻す舞姫の魚たち。楽を奏でるタコや貝。皆で楽しく暮らしましょう、と。
「浦島太郎を後先も考えずに連れ帰った時も、乙姫様は優しく仰って下さいました」
 ――心配しないで。私に任せておきなさい。
「数十年しか持たぬ人間の体を海に留めて命の流れを閉じ込めて、乙姫様は永い夢を見せて下さいました。乙姫様と力を合わせ、魚たちの命も本来よりもうんと永らえさせました」
 ゆっくりと亀の涙が溜まり続ける。珠は膨らみ、その球面に海の底の幻影が浮かぶようだった。
「やがて浦島太郎が帰りたいと言うと解放し、命を消耗させた魚たちは崩れて竜宮の砂に還りました。そして私は再び地上に出て、私を救って下さる方を海へとお連れするのです。何度も何度も」
 何度も何度も――と亀は繰り返す。
「……乙姫様は何度代替わりをされたでしょう。竜宮はどれほどの魚たちの命で埋めつくされたでしょう。私はもう嫌なのです。耐えられません。百年では足りない。千年でも足りない。なぜ誰も万年生きてはくれないのですか。なぜ永久に傍にいてはくれないのですか」
 いつしか亀は泣くことをやめ、じっと俺を見つめていた。
「お捨て置きください、どうか。やっとここまで来たのです」
「……竜宮城は、今は」
「潰えました。潰えさせました」
 幽玄の宴、白く輝く海の都、極彩色の魚に迎えられる優しい浦島太郎。亀を救い続けようとした美しい乙姫――。
「そうか」
 立ち上がると直射日光が亀の全身に当たった。亀の傍を離れて木陰に入り、裏返しの亀を見つめた。
 真夏の日差しは亀に降り注ぐ。涙の水たまりは痕を残して蒸発し、亀の体の水分も早送りをするように奪われていく。
 水を、と動きかけたが、強く睨まれ足を止める。
 苦しげに体を揺らす亀の頭が焼けた道路に付き、力無く垂れた手足も熱された路面に焦がされてゆく。
 じゅわあ、じゅわあ、と音さえ聞こえそうだった。
 何かを求めるように亀の口が動く。それを聞いてやりたかったが、亀は結局何も言わなかった。
 干からびた肉と甲羅だけを残し――亀は死んだ。
 甲羅だけでも海に還そうと拾い上げた時、微かな風が吹いた。ほんのわずかなその風に吹かれて甲羅も皮も粉々に舞う。
 そうして亀は一片も残さず、消えてしまった。


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