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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第3回 母の年越蕎麦 (テーマ:蕎麦)
 年老いてから、母の喉は食べ物を通しづらくなった。
 硬めに炊いたご飯をおかずと一緒に口いっぱいに頬張るのが好きな人だったのに、もう何年もおかゆのようなご飯を食事にしている。
「今日は……どうかな」
 味見をした物をベッドの母に運ぶ。自宅で二人、暮らしていた。
 おかずも柔らかく煮込んだ物が増えた。歯応えを楽しむ食事はもうとれない。喉につかえてしまえば命にかかわる年齢になっていた。
 もともとが食を楽しみにして生きていたような人だ。その頃と同じように食べられない事に落ち込んだせいで、私が美味しく出来たと食べさせても、美味しいとも不味いとも言ってくれなくなった。栄養を取るためだけの行為に成り果てている。
 それでも、麺類は好んで食べてくれていた。麺類は喉を通りやすく、食欲がなくても口に入れやすい。夏はもちろん重宝したし、冬は年越し蕎麦を楽しみにできた。どの家庭でもそうであるように、我が家でも年越しには蕎麦は欠かせない物だった。
 口数の少なくなった母が今でも唯一「美味しい」と言ってくれる食事だ。年末には気合いを入れて「美味しいお蕎麦作るからね!」と張り切っていた。
 ――それなのに、母は麺類でさえも喉につかえさせるようになった。
「細く長く続く長寿を願う」
 年越し蕎麦にはそんな意味があるのだという。
 母は長い麺はもうすすれない。むせたせいでショックを受けて一層食への興味を失っていた。それでも年越し蕎麦くらいは食べてもらいたい、と工夫を凝らす。
 細く長い麺をたん、たん、たん、と切っていく。短くするために、食べやすいように、もう喉につかえないように。せめてお出汁は味わいの深い良い物を、と試行錯誤した。短くてもお蕎麦である事に変わりはない。
 私たちの年末の、欠かせない大切な食事。細く長く、これからも続く人生を。
「お母さん、お蕎麦できたよ」
 おつゆのいい香り。立ち上る湯気も暖かい。ねえお母さん、美味しそうでしょう?
 微笑んで母の口元に蕎麦を運ぶ。母は頷いて蕎麦をすすった。――途端、盛大にむせる。蕎麦の入った椀がひっくり返った。
 ……母はそのまま入院し、この年、年越し蕎麦を食べる事は出来なかった。
 幸い退院するのは早かった。あっという間に過ぎる一年。気付けば年越し蕎麦の用意をする季節がまた来ていた。私は蕎麦をひたすら刻む。細く、短く、短く、短く。
 せっかくの美味しい蕎麦を、長く続けという願いを込めた食べ物を、どうして私は切り刻むのだろう。もう既に先細りに短くなった母の人生を、私は更に刻んで短くしている。だけど母が喉に詰まらせてしまうのだもの。
「……ねえ、美味しい? 美味しい? ねえ! 美味しくないの!?」
 詰め寄って問うてももぐもぐ口を動かすばかりで返事が分からない。食べづらいのか。食べにくいのか。こんなに細かく切ったのに!
 もう訳が分からず、家にある色々な薬を蕎麦と一緒にしてすり潰す。残り少ない母の命を、私はすり潰しているのだ。美味しくもない食べやすくもない食事を食べさせ続けて母の楽しみを奪っている。
 もう唐揚げを一緒に頬張れない。お餅を何個食べたか競い合えない。太っている事を気にしていた母はどこにもいない。骨のように痩せた老婆は私の食事を食べてくれない。
 熱い蕎麦を母が冷ましてくれて食べたのはいつの頃――。細く長い蕎麦は私たちの食卓にもう上らない。
「……ねえ? これだけすり潰したのよ。ただ飲んでくれればいいの」
 静かに母にそれを運ぶと、母はじっと椀を見つめて口を開ける。その口に、レンゲに乗せたどろどろの蕎麦を入れた。……何の薬を入れたのだかも、分からない。
 美味しい? と訊く気はもう無かった。続いて二口、三口、とのろのろと時間をかけて食事を続ける。椀の中の蕎麦が終わる頃、母がぐっと唸った。何の成分が効いたのだろう……虚ろにそう思った。んぐ、んぐ、と唸りながら私の手を掴む。咄嗟に振り払おうとしたその手が――思いの外優しく、包むような暖かさである事に驚く。
 ぐぐぐ、と呻きながらも済まなそうにただ一言。
「お、おいし……」
 と、母は言った。
「お母さ――」
 我に返ると同時に、血の気が引いた。
「あ――いや、いやっ、いやっ!」
 無我夢中で母の口をこじ開けて、胃の中の物を吐き出させようと手を突っ込んだ。正しい吐かせ方など思い出せなかった。指を喉に入れ、背中を叩き、蕎麦を吐かせる。
 溶けた蕎麦が布団にぶちまけられる。私がすり潰した母の人生。どろどろに溶けた母のこれからの生。
 吐いた物が気道に入り込んだのか、母の呼吸が詰まって止まる。泣き喚きながら滅茶苦茶に背中を叩き続けた。――けれど、母の呼吸は戻らないままだった。
 吐瀉物にまみれた両手で母を抱きしめて、私は途方に暮れていつまでも座り込んでいた。


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