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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第28回 まほろばの手前で (テーマ:自転車)
 あの坂道を真っ直ぐに行けば父母のいる場所に辿り着く。山から見下ろすのは岬の町。――まほろばは海の向こう。

 小学校に上がる春、祖父母の家に自転車が届いた。使用人をそっと呼び出す。
「自転車が届いたって本当ですか」
 両親を亡くして引き取られたばかりのこの家で、僕は心の拠り所を見付けられずにいた。厳格な祖父母の元で、僕の暮らしは激変した。狭いアパートは蔵を持つ屋敷となり、都会のぎゅうぎゅうとしていた世界は低い山に囲まれた静かな籠となった。
「はい、ひと月程前に」
「誰からですか?」
「さあ、そこまでは」
 すみません、と残して祖父母に見咎められぬよう去っていく。
 僕はどきどきしながら外を見た。――自転車に乗れたなら、きっとあの山も超えられるだろう。その先の海も見えるはずだ。そうしたらそうしたらきっと、両親の待つ幻の国にだって行けるのかもしれない。そんな期待を抱いた。
 いつ僕の元に自転車が運ばれてくるだろう。どのくらい練習をしたら乗れるようになるだろう――わくわくとしながら待った。
 けれどその期待が叶えられる事は無かった。
 ――自転車は蔵に仕舞われました。
 使用人にそう告げられた。錠で閉ざされた蔵の扉は、いくら動かそうとも開くことは無かった。

 山の反対側にある小学校へは車で送り迎えをされた。車は難なく山を越えて岬の町へ向かう。その先の海を焦がれるように見つめて六年間の通学を終えた。
 ……自転車に乗る機会を与えられもしなかったのだと――乗る人のないままの自転車を思った。

 中学に入ったある日、帰宅すると「来客がありまして」と留められた。促されるままに庭から自室へ向かおうとして、祖母の激昂する声に振り返る。高い女性の声もした。
 ヒールを履いた女性が家から出てくるのが見えた。華やかな風貌のその人は、二十代にも三十代にも見えた。
 女性が振り返り、その視線が僕とかち合った。彼女は僕の姿に驚いたような顔をして、すぐに鮮やかな笑顔を見せた。僕は咄嗟に目を逸らし、逃げるように自室に入った。
 夜、何かの音に目を覚ます。これは――何度も開こうとした蔵の錠の音だ。飛び起きてパジャマのまま庭に出る。
「……誰かいるんですか?」
 かけた声に驚きもせず、蔵の前の影は振り返る。
「あら、起きてしまったの? あたしが起こそうと思ってたのに」
 時間にも場所にも不似合いな明るい声を上げたのは、昼の女性だった。
「……何をしていたんですか」
「取りに来たのよ」
 女性はいとも簡単に扉を開けて中に入る。しばらくすると埃だらけの自転車を押して出てきた。愛おしげな手つきで埃を払うと、サドルの位置を高くして自転車にまたがった。
「おいで」
「えっ」
 強く手を引かれ、後ろの荷台に座らされる。
「乗りなさい。あたしと行くの」
「なんで」
「何でじゃないわ。……どうしてこれに乗ってくれなかったの。自転車でならきっと来られるだろうって思って、奮発して贈ったのに」
「……何の話を」
 問いながら、蓋をしていた想いが揺れて胸が痛んだ。――誰が自転車をくれたの――? そう問うた幼い日の僕。
 つかまって、と言われ無意識に従っていた。気付けばヒールまで持たされて、こぎ出した自転車に運ばれていた。
「手紙と地図も送ったのに。自転車で山を越えられるようになる頃にはあたしの――叔母さんの所に来てくれるんだわって、待ってたのに」
「おば……さん?」
「そうよ。もっとしっかりつかまって」
 腰に回した手に力を込める。夜気に冷えた体温が柔らかい叔母の体に温められていく。
「ねぇ、あたしと暮らしてよ」
 頭を寄せた肩の向こうから、叔母が言った。
「本当はあんたがこれに乗って来てくれたら言うつもりだったの。来てくれなくて、あたしとは嫌なのかなって諦めた」
 ――知らない間に祖父母に握り潰されていた、この人からの僕への愛情。
「でも我慢出来なくなっちゃった。あたしの家の子になって」
「……僕はもう小さくもないし、可愛い甥っ子ではないかもしれないです」
「そうね、可愛い盛りなんて過ぎてるものね。でもいいわ。一番難しい思春期と反抗期、あたしに頂戴」
 坂道は自転車を押して進んだ。あの人達より先に迎えに行きたかった、ずっと想ってた……そんな話を聞きながら。
 下りに差し掛かる頃には日が昇り始めていた。あそこがあたしの家、と叔母が差した岬の町に太陽の光が反射する。
 ひどく眩しかった。
 ……海の向こうにまほろばなど無いのだと、諦めを覚えた頃の自分を連れてきてやりたい。隣に手放しで情を注ごうとする人がいるのだと教えたい。
「おいでよ」
 その声にいつしか頷いていた。
「……自転車の乗り方を教えてくれるのなら。
 そう理由を付け足すと、叔母は「つきっきりでも」と笑って僕に手を伸べた。


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