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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第23回 やすらぎの世界へ (テーマ:優しさ)
 天気のいい日にしようと決めていた。

 太陽の光が家の中を明るく照らしている。私は中学生の娘の部屋のドアをノックした。
「唯、起きたの?」
「起きてるよ」
 屈託なく笑う唯が部屋から出てきて、私も笑い返す。
「朝ご飯はおにぎりがいいな」
「そんなのでいいの? フレンチトーストとかだって、言ってくれれば作るのに」
 せっかく今日はどんなものでも作れるよう、色々な材料を用意していたのに。
「いいの。お母さんのおにぎり好きだもん。お味噌汁と卵焼きも食べたいな」
 家族は唯と私の二人きり。いつもよりゆっくりと朝食をとった。
 食事を終えて着替えると、唯は鏡の前に座った。私はヘアブラシを持って芝居っ気たっぷりに問いかける。
「どんな髪型にしましょうか、お姫様?」
「ゆるい三つ編みがいいな。このリボンをつけてね」
 娘の髪にリボンを結ぶのなんて久しぶりのことだ。中学生になってから私が髪を編んであげる機会はすっかりなくなっていた。けれど今日は、一緒に選んだリボンを私が結んであげている。そんなことがとても嬉しく、くすぐったくも感じられた。
 洋服も一緒に買いにいったものだ。シンプルながら可愛らしい形の白いワンピースは、娘によく似合う。ありきたりな表現だけれど、私には本当に天使のように思えた。
 ソファに座ってはちみつたっぷりのミルクティーを一緒に飲んで過ごす。飲み終わると唯は上半身だけ横になって、私の膝に頭を乗せる。
「小さな子どもみたいね」
「いいの。今日はうんと甘えることにしていたもの」
「そうね――お母さんも、今日は唯をうんと甘やかすことにしてた」
 柔らかなブランケットで唯を包む。良い香り――と唯が嬉しそうに呟いた。「お母さんの香りだね。この匂い、大好き」

 微睡みはじめた唯をベッドに運ぶ。時間はまだ昼前だった。
「この時間帯が好きだな……。太陽が眩しくて、まだこれからだって気持ちでいられる時間」
 だから晴れた日の午前中がいいの、と唯はずっと言っていた。
「お母さん、絵本を読んでくれる?」
 傍らに座る私の袖を引き、そんな風に甘えてくる。私はリクエストに応え、唯が昔好きだった絵本を持ってきた。幼い子供に向けた、悲しみも怒りも出てこない、愛しさと楽しさに満ちた物語。
「ね、お母さん」
 読んでいる途中で声をかけられた。
「……なあに?」
「私ね、お母さんのお腹にいた頃、きっととても幸せだったのだと思うの。憶えてなんてないけれど……、ずっとゆらゆらと暖かくて、守られていて嬉しくて。私、ここにいれば大丈夫なんだなぁって、この人のこと大好きだなぁって、そう感じてた」
 憶えてないけどきっとそう、と微笑むと、唯は私が布を巻いて持ってきていた物に手を伸ばした。布を取って包丁を取り出すと、唯はそれを私に握らせた。
「……きっと、お母さんのお腹に還っていくような心地だと思うの」
 名前も知らない大きな刃物なんて怖いだけだから、お母さんが毎日使っている包丁がいい――そう乞われて私は昨夜のうちに包丁を研いでおいた。
「死んだ先は天国なのかな――それとも何もないのかな」
 うとうととしながら問うてくる。
「――私は、お母さんのお腹の中に還るんだって思う事にしたの。……生まれる前の場所なんてみんな知らないけれど、怖いとは思わないでしょう? だから誰も知らない死の先も、きっとお母さんのお腹の中と同じだって信じているの」
 そう言って、ああ――とため息のようなあくびのような息を吐いた。ミルクティーに入れた睡眠薬が唯を眠りの淵に誘うのだ。私は唯の柔らかな髪を撫で、その眠気を更に誘ってあげる。
「……私は、お母さんに生んでもらったから、……お母さんに殺してほしい、の」
 だから、――お願いね――と、唯は眠った。
「ええ……おやすみなさい、唯」
 包丁を握る手に力を込め、荒くなる息を必死で整える。躊躇わないよう思い切り、唯の心臓目がけて包丁を振り下ろした。

 ――――。
 私、もう嫌だよ――と唯は言った。
 長く続くいじめに耐えかねてのことだった。
 毎日屈辱に耐えて傷つき、苦しい、怖くてたまらないと私に縋り付いて唯は泣いていた。教師に助けを求めても勘違いだと突き放されるだけで終わらないいじめに、唯はとうとう死にたい、と私に言った。他者のいる世界はもう辛いのだと。
 お母さんのそばで死にたいの。だからどうか、その手で……。
 ……最期はただ、あたたかな――幼い頃に甘え続けて過ごしたような、そんな日がいい――。
 ベッドに広がる血を見つめる。
 ……あの子の願いの通り、私はできただろうか? 恐れも不安も感じずに私と過ごした幼いあの頃のような気持ちで、あの子は逝けただろうか……?
 唯が還ると言ってくれたお腹を撫でる。
 ねぇ、どうだったかしら――そう問いかけて。


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