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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第16回 わらうひと (テーマ:お笑い)
 妻の病室で寝入ってしまった。その眠りの中で夢を見る。

 夢には奇妙な面を被った人物が佇んでいた。ひょっとことおかめを組み合わせたような、滑稽な面だ。
「君は何か、芸人のようなものなのか」
 つい、声をかけてしまった。面の人物は軽妙な声音で「そうですとも」と答えた。
「私は言うなれば、お笑い芸人のようなものですよ。あなたを笑わせるためにやってきました」
 妙な拍子をつけて身振り手振りも大仰に、そんな事を言う。私はお笑い番組の類は好まなかったし、笑い所の分からないお笑い芸人と言う存在にも興味はなかった。けれど今の私には、この芸人の力が切実に必要だと思った。
「それならば頼む。どうか私を、笑わせてほしい」
「何だかえらく真剣なご様子。そんなに力が入っていては、笑えるものも笑えないのでは」
 ひょっとこ風にすぼめた口で諭される。それはそうなのだろうが、白髪が頭の半分以上を占めているような歳で、己の性格など変えられない。
「こんな私でも笑える芸を見せてほしいんだ」
 腰を深く折って頼み込む。面の人物はおかめ風に膨らんだ頬の辺りを困ったようにさすった。
「実はですね、私の持ちネタはこの面だけなのですよ。滑稽な面を一目見たらそれでもう可笑しかろうと思った自信作で」
「……その面以外、何もないのか」
「面目ありません」
 可笑しげな面はそのままに、佇まいのきちんとした様子でその場に正座をした。私にも座るよう促す。
 いつの間にか急須と茶が置かれているので、それをすすって言葉を探した。
「……妻が入院をしているんだ。長くはないだろうと宣告された」
 手を取って見つめているうち、寝入ってしまっていた。
「私は気難しい方だと自覚している。ろくに笑いかけた事もない。……せめて最後くらいは、笑顔で礼を言ってやりたいと思った」
 面の人物も静かに茶をすすっている。
「けれど……そもそも妻が死にそうだという時に笑えるはずがない。頬を引っ張ったりつねったり、笑い声をあげる真似事をしても上手くいかない。妻が目を開けていられるうちに安心しろと笑顔を見せてやりたいのに」
 ひどく頑なな表情筋に嫌気がさして、こんな夢まで見ている始末だ。
「それはどうにも、困りましたねぇ」
 面の下の顎に手を当てて軽く嘆息する。その仕草に憶えがある。とても身近な人間だ。私が困っていると言うのに、何て事のない様子で答える佇まい。
「私もね、あなたが簡単に笑えるだなんて思ってないんですよ」
 最初の妙な拍子付けはどこへやら、至って普通に会話を始める。
「お笑い番組の類は好かない、なんて言って一緒に見てもくれない。笑うのは体にいいんですよって言っても知らない顔して」
 私と違い、笑い上戸の妻は笑う事自体が好きだった。私を笑わせようとこっそり何か企んでもいたようだから敵わない。
「よほど馬鹿馬鹿しければあなたもつい笑ってしまうんじゃないかと、隠れてこんなお面まで作ってみたのに。あなたの顔の筋肉はとても頑固なのだわ」
「お前……」
 両手を伸ばし、正面に座る人物の面をそっと外す。
「――けれども私はね、笑おうとして上手く出来なくて、頬をぴくぴくと不器用にひくつかせるあなたが大好きでしたよ」
 いつも通りに微笑む妻の顔がそこにはあった。伸ばしたままの両腕に、妻がそっと小さな手を添えてくれた。
「それに私はいつも笑いかけてもらっていました。眉間に皺が寄ってようがしかめっ面だろうが、私には全部笑顔に見えましたもの」
 それでは駄目なのだ。きちんと笑顔で、後の事は心配するなと安心させて――何より礼を、これまでの礼を……。
「まあ、そんなこどものような目をして」
 親指で目から溢れた物を拭われる。夢の中の手はこんなにも暖かいのに。
「……先に逝ったりなどするな」
「無理を仰らないで下さいな」
「まだ笑ってやれてない。私の笑顔を見ない内は、どこにも逝かせたりはしない」
 白髪だらけの頭を撫でられる。本当に、頑是ないこどものようだ。
「あなたの笑顔なら毎日見ていたと言ったでしょう。私と一緒にいて幸せだったなんて事、知ってますよ。たくさんの気持ちをいただいて生活していたんですから」
 伝わっていたか――伝わっていたのかと、妻の言葉を噛みしめる。
 あ――と妻が顔を上げた。
「いけない、もう起きて。ばたばたと音がするでしょう? お医者様たちだわ」
 意識の外側から不安を掻き立てる気配がする。
 手にしていた面を取り落した。からんと乾いた音が響く。
「――このお面」
 妻は面を拾い上げ、取り乱す私の焦燥を丸ごとくるむような柔らかな笑みを浮かべた。
「本当に自信作なんです。部屋に隠してありますから、帰ったら探してみて下さいね」

 それは私の心にぬくもりを灯し続けてくれるような、見惚れるほどに美しい笑顔だった。


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