小説&まんが投稿
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第15回 春の化け物 (テーマ:タイムスリップ)
 秋の早朝、日直すら登校してこない時間帯に榎本は教室に現れる。
「あ――おはよう、須田君」
 榎本は教室の戸を開けて、一瞬驚いた顔をする。独り言のように「わぁ、また来られた」と呟いた。
「榎本。おはよう」
「いつも早いね。誰も登校してないじゃない」
「そっちこそ」
 そう返すと、榎本は肩をすくめてみせる。
「僕はホラ、時間とか選べないから」
 そういうものなのか、と言うと、そういうものみたい、と返された。
 誰もいない教室で、榎本は僕の前の席に座る。窓の外で銀杏の葉が落ちた。
「秋も綺麗でいいな。僕のところでは、やっと明日入学式なんだ」
「へえ」
 榎本は眠りについている間だけ、時を超える。
『おはよう。……ここ、どこだろう? 受験した高校の教室にそっくりだ』
 そんなぼんやりとした風情で教室に入ってきた榎本は、中学の卒業式を終えたばかりなのだと言った。対する僕はひどく動揺し――最初は恐れてもいた。
『ここはお前の教室だよ。……今、秋だ』
 榎本は驚いたようだけれど、面白がってすぐに馴染んだ。春から秋にかけての出来事を知らないらしい榎本の様子に、彼が時を越えている事を僕も理解した。目を覚ますと、ここでの事を忘れてしまうらしい。
「卒業式は雪が降ってさ。ものすごく寒かったんだ。でもおかげで、心に残る景色になった」
「榎本は空とか植物とか、好きだよな」
 それはここで話すようになって初めて知った事だった。僕らは同じクラスだけど、会話をした事がなかった。
「桜が一番好きだな。この高校を選んだのだって、近くの桜並木を歩きたいからだし」
「毛虫も落ちて来るけどな」
 それは嫌だけれども、どうにか我慢してみせよう、と真面目くさって言う。
「だからさ、入学するのがものすごく楽しみで。そのせいか上手く寝付けなくって」
「遠足前の小学生かよ」
 他愛のない会話に屈託なく笑う彼は朗らかで、誰にも好かれそうな人柄に思える。この高校に通うのを何より楽しみにしていたという彼はしかし、その数ヶ月後に自殺を図る。
 榎本はクラスでいじめに遭うのだ。
 ほんの数ヶ月の間に彼の尊厳は踏みにじられ、希望は嘲笑の内に握り潰され、日常は耐えがたい屈辱の日々に変貌する。
 頬を紅潮させて僕と話す榎本は、本来のこの秋という季節には教室に存在しない。夏の終わりに榎本は死を望んだ。
「僕と須田君は同じクラスなんだよね」
「ああ」
「良かった。ねえ、僕達は友達になれるんだろう?」
 何の疑いも無く向けられる言葉に頷きかけ……自分のしてきた事が鮮明に蘇り、吐き気が込み上げた。強くかぶりを振る。
 榎本の瞳が戸惑いに揺れる。その傷ついた様子に胸が痛んだけれど、頷いてはいけないと思った。
 ……僕は榎本と友達になるどころか、いじめに耐える彼を無視し続けたのだ。
 誇りを無理矢理に剥ぎ取られる日々に、榎本の瞳は精気を失い、唇は言葉を発しなくなっていった。クラスの誰もがそんな彼から目を背け、耳を塞いだ。僕らは彼の本当の笑顔を知らなかったし、知ろうともしなかった。
 紫に腫れたあの唇は、誰に助けを求めていただろう。好きな事も得意な事も誰にも語れないまま、彼は死を選んだ。
 気を置かずに話せる相手だと知る事すら、本当なら赦されない。なのに共に過ごす時間が心地よくて、忘れかけていた。
 ――彼と友達になりたいだなんて、望めるはずもないのに。
 今になって絆を結んだところで、僕が彼を救わなかった事実は変わらない。彼の人柄に惹かれたとしても、その口から紡がれる穏やかな話を聞いていたくとも、それを求める資格が無い。
「……僕、ここでの事忘れちゃうかもしれないけど、勝手に友達って思うのも駄目かな……?」
「……駄目だ」
 僕の方に、友情を結ぶ権利がない。ここで語らい合った「須田」は、彼が明日から通う学校のどこにもいない。榎本がこれから出会うのは、悲痛な叫びに振り返りもせず他者の顔を貫き通す卑しい人間だ。そんなものに名前など要らない。
 榎本が心をすり潰されるような言葉に震え、トイレの水を飲まされ嘔吐しても何もしなかった僕に……彼と友達になれたかもしれない可能性なんてあってはならない。
「それでも僕は、須田君と友達になれるって思っていたい」
 何も知らずに僕に伸べてくれる手を振り払う。ずっとここで静かな時間を一緒に過ごしていたかった。――だけど、榎本を死に追いやる罪人に、この手を取る事は赦されない。
「憶えていなくていい。……僕と過ごした事なんて忘れてしまえばいい。友達には、なれないから」
「……どうして」
 哀しげな榎本の姿が薄れていく。
「――お前が、化け物に会うから」
 本来の時の中、榎本の春からの日々が動き出す。
 その、期待に満ちた日々を汚く塗りつぶす醜い化け物。

 ……それが僕だ。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 1943