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作品名:時の隙間の小さな話 作者:待井久仁子

第1回 最後の花火 (テーマ:祭り)
 屋台の並ぶ河原への道、浴衣の人々を抜けた先――父が待っていてくれる。
 お父さん! とはしゃぎ呼びながら父に飛び付く。腰で結んだ兵児帯の先が揺れた。
「――ああ、来たな」
 るり、と私の名を呼んで父は微笑む。私は伸ばされた父の手を握った。
 浴衣似合うかな、と私は白地の浴衣を見せびらかす。すると父はほんの少し悲しげにする。
「……別の色の着物を着ているのを、見たかったかな」
 ……そうか。私は気を取り直して話しかける。
「――人が、たくさんだね」
「花火大会だからね」
 たくさん上がるの――と問えば「大きいのがたくさん」と微笑み頷いてくれる。「お前の為の花火なんだ」
 たくさんの花火が? 嬉しくなって私は父の顔を見上げる。私の為に夜空に花が咲くなんて、まるでお姫様みたい。
「お父さんのお姫様はずっとるりだけだ。……何が食べたい? 何を買おうか」
「何を買ってもいいの?」
「何だって買っていいよ。……るりが満足するのなら、いくらでも」
 満足してしまうのは嫌だなと思う。満ち足りてしまったら、終わってしまうのでしょう。
「……何が?」
 不可思議なほど柔らかく問われる。何がだろう、何が終わってしまうんだろう。――ざわざわと人の波が揺れて、歩く流れが変わり始めた。
「もうすぐ花火の時間だから、皆見やすい所へ行くんだね。お父さん達も移動しようか」
「――ううん、いい」
 父が引く手を反対に引っ張り、立ち止まった。取り残されたようなこの場所に父といたい。色とりどりの屋台の光、宝石のように煌めくメロン味のかき氷、りんご飴。夢に浮かぶ雲のような綿飴。
「お姫様はどうしたのかな」
 父はしゃがんで私と視線を合わせた。……お母さんは、と訊いた。
「お母さんは、まだ来られないの?」
「……できれば、喜んで聞いてもらいたいことなんだけど、……お前に、弟が産まれたんだよ。産まれたばかりだからお母さんは離れられないんだ」
 そう……。そうしていずれ、忘れられてしまうんだろうか。よく分からない悲しみと喪失にぼうっとなった。その時――どぉん、と音が聞こえた。「始まったな」
 父が空を見上げる。ひゅー……。
「ほら、次が上がるぞ。――るり?」
 どぉぉん、と鳴る音に、私は急に恐ろしくなって耳を塞いだ。先程まで花火を楽しみにしていたというのに。どうした、という問いかけに涙が滲んだ。耳を塞いだまま首を振る。困らせたくはないのに、私は反射的に拒絶した。「聞きたく、ないの……」
 だってこれは、私の為に上がる花火なのだから。聞いたら満ちてしまう。
 るり、と呟いた後、父は黙ってただ私を抱き上げた。屋台に囲まれた道を歩く。ごらん、金魚がいるよ、尾がひらひらしてとても綺麗だ。どのお面が欲しい? お父さんはこれを被ろうかな。返事をしないで縋り付く私の耳元に、そうして優しい囁きばかりを落として、父はからころと下駄を鳴らしながら歩いた。
 いつのまにか父は私を抱いたまま、近くの神社の石段に座っていた。屋台の食べ物やおもちゃが、腰掛けた周りに置いてある。
「こうしてずっと、いくらでも買ってやりたかったのにな」
 カロロン、と音がする。ラムネのビー玉の音だ。飲むかい、と向けられたラムネを受け取り、ゆっくりと飲んだ。空になった瓶からビー玉を取り出してもらい、掌に載せて転がす。
 父が不意に「もう時間なのかな」と言った。――ビー玉を乗せた私の掌は透けていた。
「どんどん、ここにいられる時間が短くなってゆくんだね」
 優しく悲しげな声。私はじっと掌を見つめる。
「――お馬に、乗ってきたの。……お父さんとお母さんが用意してくれたお馬に乗って」
 急いで急いで、やって来た。会いたくて、ずっと甘えていられると信じていた場所に少しでも早く来たくて駆けてきた。
「ずっと甘えていてほしかったよ」
 父は声を絞り出し、私をぎゅっと抱きしめる。
「違う浴衣が着たかった。……赤とか青とかで、たくさんの柄が入っているのが着たかった……っ」
 ……うん、と涙交じりの返答。私が着ているものは、本当は浴衣なんかじゃない。柄すらもない、白一色の無地の着物。本当はもっと、……華やかな成人の晴れ着姿も見てほしかった。せめて――小さな子供の兵児帯を卒業できるまでは守られていたかった。
 手をほどき、父の掌にビー玉を落とす。弟にお土産、と言い添えて。弟はきっと、可愛いだろう。……もしかしたら、亡くした娘の事さえ薄れていくほどに、子育ての日々は満ちて過ぎるのかもしれない。私はもう、自分が生身の体で二人と手を繋いだのがいつの事だったのかすら、憶えていない。
 ひゅー……。私は目を瞑り、花火の打ち上がる音に聞き入る。――どぉぉん。魂に響く音だ。
「まだ、」
 と父が手を伸ばした瞬間にもう、私は失せて。ーー後には何も残らない。


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