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作品名:果てしなくつづく空の下で 作者:異邦人

最終回 愛おしき人よ
                 亀野利子
 意外だった。
 アパートのオーナー夫婦は立ったまま、薄汚れた布団に、寒さにふるえながら横たわっている、痩せ細った男年寄りをののしる。
「本当に迷惑しているだ!」
「全く、部屋代を半年もためてさ、電気を止められても出て行かないんだからね」
「民生委員に頼んで、区役所に相談に行って貰ったのだが、このまま、居座られるのはご免だよ」
 口汚なく罵声をあびさせられている姿に、我が身を伏せて抱きしめたい、思いもよらない衝動にかられる。
「申し訳ありません。必ず、後始末をさせて頂きます」
 咄嗟に立ち上がり、スーツの内ポケットから、名刺入れを取り出す。
 区役所で、初対面の係員にさえ、名前と息子ですと名乗っただけだった。
 オーナー夫婦の暴言は、自分にいわれているようで、我慢できない。
 職業を知ったら、真面目な相手だと平静になってくれると思う。
「…中学の先生?」
オーナーは目を見張る。
「…息子です。ご迷惑をお掛けして済みません」
父という言葉がどうしても、口に出ない
オーナーは、同じようにつん立っている民生委員に、中学教師の肩書の名刺を渡す。
「立派な息子さんが来て下さったのだから、もう、安心だね」
白髪頭の民生委員は、ホッとしたように頷く。
「生活保護の申請は、取りあえずあずかっとておきます。息子さんと相談して善処して下さい。お世話さまでした」
 三十歳前位だろうか?天然パーマを五分刈りした長身の福祉事務所の係員は、オーナー夫婦と、民生委員に頭を下げる。
「先生、大変でしょうが、あとをよろしくお願いします。お困りの事があったらいって下さい。お力になります」
職業を知って親近感を持ったのか、係員の親切な態度に、張りつめている気持ちが和む。
「私は、これで失礼しますよ。同じようなケースがもう一つありますのでね」
 と、いって民生委員は、
「先生、オーナさんと話合って、円満に解決して下さい。遠いところを来て頂いて、本当に助かりました」
 軽くお辞儀をすると、これで一件落着とばかりに、せわしげに部屋を出る。
 オーナーはいう。
「あちらで、お茶を飲みながら話しませんか」
 断わる。
「ご迷惑をお掛けしました。部屋代と、その他の雑費などを清算して下さい。今日中に地元に帰りたいと思います」
「まあ、まあ、先生、お急ぎにならなくても、ごゆっくりして下さいよ」
 オーナーの妻はあわてる。
「このまま、今迄通り、この部屋に住んでも結構ですからね。へへ…」
 オーナーは、愛想笑いをする。
「息子さんがわざわざ、親御さんのことを心配して来て下さったのだ。身元保証人になって下さったら、私共は安心ですからね」
「これもやっぱり、ご縁があったのだ。すぐ、明細書を持ってきますよ。ハハ…」
 オーナー夫婦は、笑いながら、掌を返したように、いそいそと、部屋を出て行く。
 目をつむったまま、一言もいわない顔をじっと見る。
 これが、母を刃物でおどし、自分達兄妹に暴力をふるった父か!
「お父さんを許して上げて!お父さんは悪い人でないのよ」
 亡き母の言葉が甦る。
 悪い人ではない?
 だが、妹は父を許さない。
 自分も、父親のことを思い出した事がない。
 二十年振りに見る父は、これが自分を生んだ親かと思う程、人相が変わっている。
 気儘に、好きなように暮らしていたはずだ。
 二階の北向きの六畳間、破れて変色している畳、押し入れもない。
 小さい窓一つしかない部屋は、昼間なのに薄暗い。
 窓際の食器棚の前の小さなテーブルの上下に、汚れた茶碗や皿や、カップ麺のからが投げ出してある。
 片隅に、こわれかけたダンボールから、下着や古びた服などがはみ出ている。
 あまりのみじめさに、哀れが胸をつく。
 痩せ細った手が、掛け布団のはしから出ている。
 立春が過ぎたといっても、火の気のない部屋は、冷えびえとしている。
「…済まない…」
 か細い声でいう。
 自分は知らぬままに涙を流していたのか。
 頬を伝わって落ちた涙が、くぼんだ目から流れる父の涙と重なって、手を濡らす。
「お父さん!」
 再会して、初めて父と呼んだ!
「お父さん!」
 二十年振りに父と呼ぶ…
「お父さん!」

 東京から、四国の玄関口の市に帰ってから、はや、二ヵ月余り経つ…
 おだやかな寝息をたてて眠っている、ふっくらとした父の顔を見ると、浮浪者のように痩せ細って倒れ込んでいた、同じ人間だとは思えない。
 突然、東京の日雇い労働者や、路上生活者の多く住むことで知られている区役所から届いた通知に、二十年前、別れた父親の消息を知る。
 用件は、生活保護の申請についての調査だった。
 申し込みの理由は、病気とある。
 引き取って貰えるか。
 それが無理なら、身元保証人になって貰ったら、現在、住んでいるアパートにつづけて住めるので、生活保護を支給出来る。
 妹のところにも、同じ通知が届いている。
「関係ないわ。返事を出す必要はないわよ」
 妹は、一蹴する。
 母と自分や妹を追い出した人間だ。
 自分も、最初は無視するつもりだった。
 ふと、破り捨てようとした書面の、終わりの文字に目がとまる。
 事情はお察しします。
 病気で働けず、困窮して居られます。
 ご一考下さいませんか。
 活字でなく、丁寧な筆跡に、係員の優しい人柄を感じる。
 区の福祉事務所は、どうして、音信不通の自分や妹の居所が分かったのか?
 父は、自分達の現在の生活を知るはずがない。
 どんな生活をしていたのか?
 おそらく、母が亡くなったことも知らないだろう。
「お父さんを許して上げて!お父さんは悪い人ではないのよ」
 母の生前の言葉が、頭に残っている。
 心が動く。
 行ってみよう。
 妹のスマホにメールを送る。
 妹の返事はたった一行!
「勝手に行っていいわ」
 勝手に上京する。
 福祉事務所の五分刈りの若い係員は、
「遠くから、よく、来てくれましたね。有難うございます」
 我が事のように喜び、詳しく説明する。
 民生委員の連絡で、父親の存在を知る。
 アパ−トの住んでいる部屋で、寝込んでいるのを、部屋代を催促に行った、オーナーが見付ける。
 民生委員のところにとんで行く。
 オーナーの知らせで、民生委員は、救急車を呼んで病院に運ぶ。
 医師から、血圧が高く、糖尿病もあり、極度の栄養失調のため、身体が衰弱しているが、入院する程の重症ではないといわれている。
 アパートのオーナーは、部屋に戻ることを拒絶する。
 民生委員はやむ得ず、福祉事務所に相談に行く。
 係員は、病院から退院をせまられているので、取りあえず、もとのアパートの部屋に帰られるよう、オーナーを説得する。
「福祉の方で、解決してくれるのなら・・・」
 と、オーナーは、しぶしぶ承知する。
 父は、一週間振りに、係員の車で退院する。
 本人は、身寄りのない独り者だと、いい張り、何も喋らない。
 オーナーは、父親は一年前迄は、製薬会社の倉庫の商品の出し入れの仕事をしていたという。
 四、五年前、同じ会社の同僚が借りていたこの部屋に、ころげこみ同居するが、同僚が会社を辞め、アパートを出て行ったあとも、父親はそのまま、部屋に住む。
 半年前から、部屋代がとどこおり、今は電気さえとめられている。
 係員は、父親が働いていた製薬会社を訪ねる。
「履歴書は、まだ、残っていはずです」
 事務員が、書棚から履歴書をさがしてくる。
 二年余り臨時で働いていたという。
 本籍が分かる。
 郷里の市役所を通じて、本人は離婚しているが、子供が二人いることが判明する。
 長男は、中学校教師で、長女は同じ市内で美容師をしている。
「オーナーさんは、部屋をあけてほしいといっているのですが、住所が安定していないと、生活保護は難しいのです」
 係員は、自分を見ていう。
 このまま放っておけば、行く末はのたれ死だ。
 布団の中で身じろくもしない父を、福祉に任せるのはしのびない。
 嫌悪していた父親なのに、これ以上、哀れな姿を他人にさらすのは辛い。自分の心の変化をわれなり不思議に思う。
 妹なら、
「罰が当たったのだわ」
 と、つんばねるだろう。
「連れて帰ります。皆さんに迷惑をかけて申し訳ありません」
「それが、一番幸せですよ。なんといっても肉親ですからね」
 笑顔でいう係員の、肉親だから・・・
 肉親?
 そうか、自分達は血のつながった親子か!

 ベッドで眠っている父は、ベランダのガラス戸越しに、昼下がりのやわらかな日差しを、いっぱい浴びている。
 サイドテーブルの上に、リンゴやバナナの果物籠の側に、あれ程、父を拒否していた妹が持って来た赤や白のチューリップの花が、花瓶に飾ってある。
 僅か二ヵ月余り前の出来事が、昨日のように思う。
 アパートのオーナーに、部屋代や電気代に、部屋の後かた付けを頼む礼をふくめた、金額を渡す。
「薄情だと思うかも知れないが、部屋代だけが、私共の収入なのでね」
 白髪のうすくなった頭を下げる。
 風呂もない、炊事場もトイレも共同の、十室の古ぼけた二階建ての、木造アパートが、オーナー夫婦の唯一の財産だ。
 責める気にはならない。
 遅い昼めしになったが、出前を注文したのでと、オーナーがうな重を運んでくる。
 数日前、退院した父が、寝てばかりいるので、放っておけず、握りめしやカップ麺を上げていたと、いい訳をする。
 父が急に、くるまっていた布団から、勢いよく起き上がる。
「うなぎを喰うのは、何年振りかな」
 目を光らせて、うな重を持ち上げる。
 ろくに噛みもせすに、うな重を食べる父に、父は呆けているのではないか?
 やつれ果てて寝ていた病人の父の、変わり身の早さに不安になる。
「これも、食べなさいよ」
 半分を父に分けようとすると、
「いや、いや。これで充分だ。これ以上喰うと腹の具合が悪くなる」
 満足げにからになった重箱を置く。
 正常な言葉に、自分の思い過ごしに苦笑する。
 金銭の迷惑さえかけなければ、オーナー夫婦は親切だ。
 父の身なりをととのえるため、オーナーの妻が、スーパーに同行してくれる。
 下着や服などの衣類に、靴下まで揃える。
 感謝デーで半額になっている、暖かそうなダウンジャケットとも買う。
 外に出ると、あたりが暗くなっている。
 スーパーの売り出しの旗が、音をたてて風にはためいている。
 火の気のない寒い部屋に戻る。
 父は、布団の中に入っていた。
 オーナーが、風呂に入れると案内にくる。
 目をしょぼつかせていう、父を起こす。
 オーナーの住まいは、アパートのすぐ隣の小さな家だ。
「背中を流してあげようか?」
「いや、ひとりで入る」
 オーナーの妻が、タオルとひげ剃りの簡易かみそりを渡す。
「ああ、いいお湯だったよ」
 ひげを剃って、さっぱりした顔の父は、肩までのびた白髪を撫でつけながら、風呂場から出てくる。
 新しい下着や服を着た父は、そわそわして落ち着かない。
「どうしたの?気分でも悪いのかね」
 かぶりを振る。
「ここを早く出たい」
 小さい声でいう。
 父は、自分が福祉事務所の係員に、連れ帰るといったのを、布団の中で聞いている。
 オーナーは、今夜は泊まって、明日帰ったらいいとすすめる。
 元気そうにしていても、病人の父が心配だ。
 だが、父はもう、沓脱ぎのところに立っている。
 かかとの折れたつん掛けのような、靴をはいた父の足もとを見て、しまった!スーパーで、靴下は買ったが、靴まで気が回りない。
 オーナーにだまって、自身の散歩用の運動靴を、父の足もとに置く。」「サイズが合わないかも知れないが、大丈夫だよ」
「済まんな。有難う」
 父は、初めてオーナーに礼を言う。
 父は、嬉しそうに、ゆるい運動靴をはき、子供がせがむように、早く出たいと目くばせする。
 父の思い通りにして上げよう。
 自分は、JRで上京したが、父の身体を思うと、空の便の方がいい。
 今なら、二十三時過ぎの最終便の飛行機に乗れば、一時間余りで地元に着く。
 発つ前に、親切に応待してくれた、福祉事務所の係員に、ひとこと、礼をいいたいと、スマホから、福祉事務所に電話する。
「丁度、帰宅するところでした。成田まで送って上げますよ」
 勤務が終わったからと、係員は、軽自動車をとばしてくる。
 オーナー夫婦に、何度も頭を下げて別れを告げる。
「東京に来た時は、又、寄って下さいよ。これもご縁ですよ。親孝行な息子さんでよかったね」
 オーナーは、父の細い両手を握る。
 オーナーの妻は、涙ぐんでお辞儀をする。
 迷惑をかけなければ、皆、善人なのだ。
 人の情けが身にしみる。
 出発までに、まだ時間がある。
 空港の待合室で、係員は、武田信一と名乗る。
 二十八歳だという。
 武田青年は、
 実は・・・と、意外な告白をする。
 僕も、先生と同じような境遇で育ったんです。
 先生と僕の立場がよく似ているので、身内のような気がしましてねハハ・・・
 眉尻を下げて笑う。
 僕の父は酒乱で、酒ばかり飲んで働かず、母が働いて、一家の生活を支えていました。
 僕も中学生の頃から、新聞配達のアルバイトをしていました。
 父は、どん底の生活なのに、酒がなくなると、暴れ、母や僕に乱暴するのです。
 母と僕は、父の寝ているすきに、家を出て、姿を隠しました。
 母は、僕が高校二年の時に、無理していたのがもとで、倒れ、亡くなりました。
 僕は、高校を退学するつもりでしたが、成績がよかったのを惜しんで、担任の先生が、学費を出してくれ、大学も奨学金と、先生の援助で卒業しました。
 幸い、公務員の試験に合格して、区役所に就職しました。
 福祉事務所に勤務を希望したのも、この区が、ホームレスや定職のない日雇い労働者の多い街で有名だったからです。
 少しでも、弱い人間の手助けをしたいと思ったのです。
 三年前、年の暮れもせまった十二月半ばに、路上生活者の調査をしたのです。
 ビルの建物の横に、コンクリートの上に段ボールを広げて、破れて汚れた毛布をかぶって、寝ている父を発見したのです。
 胃が酒を受けつけなくなり、酒は飲めなくなっていましたが、父は痴呆症になっていました。
 今は、特別養護老人ホームに入っていますが、暴れて手がつけられなくなるので、介護士さん達が、
「息子さんこなくなりますよ」
 と、いうと、おとなしくなるのだそうです。
 それで僕は、仕事でどんなに遅くなっても、必ず、毎日、一寸でも父に顔を見せに、ホームに寄ることにしています。
 僕は、まだ独身なので自由がききますのでねハハ・・・
 明るく笑う武田青年の目は、うるんでいる。

 人間は不思議ですね。
 大嫌いだった父が、今は愛おしいのです。
 鶴のように痩せた父の姿が、長身の僕の体格にそっくりなのです。
 勿論、僕は父のように細くありませんが・・・
 この人が、自分を生んでくれたから、自分はあるのだと思うと、可哀想で、馬鹿な父親だと思っても、抱きしめたくなる程、愛おしいのです。
 虐待された子供時代を忘れられず、老いや病気で生活保護の申請の調査で、長年、行方不明の親の消息が分かっても、絶対、許さないといって、親を突き放すケースが多いのです。
 僕は、生んでくれたからこそ、ものごとを判断出来る自分が存在するのだと思うと、やはり、痴呆症になっていても、僕の顔を見て、嬉しそうにする、血肉を分けた父が愛おしいしいのです。
 武田青年は、何度も、生んでくれた親が愛おしいといった。
 武田信一と、これからは、親類同様に付きあおうと約束して、固く握手をして別れた成田空港を思い出す。
 暖房をしてあるせいか、のどがかわく。
 サイドデーブルの上の果物籠から、りんごを取る。
 りんごにかぶりつきながら、妹が持ってきた花瓶にさしてあるチューリップの花を眺める。
 私に父親はいないと、かたくなに、父を拒絶していた妹の心変りを思う・・・

 父は、すやすや、眠りつづけている。
 地元に帰った翌日、父を知り合いのクリニック連れて行く。
 東京の病院から、渡されたという紹介状を見せる。
 医師は、血圧が高く、糖尿と神経痛があるが、外来で治療は出来るが、栄養状態が悪いので、食事に充分気をつけるように注意する。
 父と二人の生活が始まる。
 父は、母の亡くなった事を知る。
「済まん、,あんたに幸せになって貰いたいばかりに、邪険にして追い出した事が、無駄だった!」
 仏壇の前で、大声を上げて泣き出す。
「わざと邪険にした?どういう事なの」
 側にいた自分は驚く。
「・・・」
 父は答えず、号泣する。
 泣きつづける父に、問うのは無理だ。
 気持ちが落ち着いた時に、改めて尋ねよう。
 立ち上がる。
「座ってくれ!すべてを話する」
 父は、頬に流れ落ちる涙を、上衣の袖でぐいと拭き、母の位牌を見ながら、堰をきったように語る・・・

 父は、施設育ちだった。
 秋の深まった十一月の初め、乳児院の門前に、バスタオルに巻かれ、ナイロンの風呂敷に広げた新聞紙の上に、へその緒をつけたまま置かれていたという。
 名前も、市役所の戸籍課長が、乳児院の玄関わきに、枝を四方にのばした大きな松の木から、
 姓を松木に、強く大きくなれと、強大と付けた。
 乳児院から、児童養護施設に移り、高校に通う。
「あんたのお母さんは、高校の同級生だった」
 母をあんたと呼ぶように、父は、再会した時から、自分をあんたと呼ぶ。
 追い出した我が子に遠慮している。
 級友達が、施設から通学しているのを、かげで、
「あいつは捨て子だ」
 と、いっているのを知っていたが、本当のことなので、陰口を知らぬ振りをして、耐えた。
 父は、背丈があり、しっかりした体格の上、眉が濃く、鼻筋が通り、容貌に恵まれている。
 成績も上の方なので、女生徒に人気があった。
 それが、わずらいになる。
 学級委員の選挙で、委員に選ばれた父は、盗難事件にまきこまれる。
 委員を落選した生徒が、教科書にはさんであった千円札が無いといい出す。
 父はその時、腹工合が悪く、トイレから戻り教室にいた。
 千円札が無いと騒いだ生徒は、電気工事会社の社長の息子で、父親は地域の有力者だ。
 生徒は、クラスのリーダーで、取り巻きの生徒が多数いる。
 仲間の生徒達は、
「あいつが、教室に一人いた」
 口を揃える。
 父は、職員に連れて行かれ、担任の教師か厳しく問いただされる。
 泥棒の汚名をきせられた、父を救ったのは、
「お母さんだ・・・」
 父は、声をつまらせる。
 母は、校庭で無くなったはずの千円札を、ヒラヒラさせて、
「あいつの泣き面を見て、せいせいしたよ。今日はおごるからな」
 仲間と大笑いしている、社長の息子をみつける。
 父を信じていた母は、いきなり飛び出して、千円札を取り上げ、職員室に走り、父の潔白を説明する。
 社長の息子は、委員に選ばれなかった悔しさと、母が父に、親切にするのを嫉んで、嘘をついたことがばれる。
 父は母を好きだったが、自分の出自を思い交際はしなかった。
 高校を卒業した父は、施設を出て、建設会社に就職する。
 二十歳の成人式に、安物だがスーツを買う。
 はじめて結ぶオレンジ色のネクタイを、どんなに誇らしく思ったことか。
 自分で働いた金で、身なりをととのえて、成人式に出るのだ。
 東京の大学に進学した泥棒呼ばりをした生徒も、高価なスーツ姿で来ている。
 母も、華やかな振り袖を着て、高校時代の友達と、楽しそうに話をしている。
 父は、離れたところから、母をみていた。
「ところが、お母さんは俺を見つけて走って来た」
 父は、懐かしそうに、口元に笑みを浮かべる。
「成人式に逢えると思っていたが、お母さんが側に寄って来た時は嬉しかったよ」
 父は、目を細める。
 交際が始まり、互いに連絡を取り合って逢うようになる。
 母は、地元の大学に通って居り、卒業したら、父と結婚するつもりでいる。
「無理だと思うよ。境遇が違うからね」
 母は、酒造会社の社長のお嬢さんだ。
 施設育ちの父は、結婚には悲観的だった。

 その日、父は会社を休んで、公園で待つ母と逢う。
 あたりは、薄暗くなっている。
 満開の藤棚の下のベンチで、父と母は、将来を話していた。
「親が反対しても、絶対、正吾くんと結婚する」
 母は、真剣だった。
 母は幼時、母を早く亡くしているせいか、家庭では孤独だった。
 結婚を諦めていた父は、嬉しいあまり、思わず母の両手を握った、その時、
 いきなり、頭の後ろを殴られる。
 激痛で、両眼に火花が散る。
 淡い街灯の明かりで、つつじの植込みにかくれていた、若い男二人に気付かない。
 一人は、野球のバットのような棒を持っている。
「早く逃げて・・・警察に・・・」
 いい終わらないうちに、両肩、手足に力いっぱい殴られる。
 不意におそわれ、相手は二人だ。反撃することも出来ず倒れる。
「金を出せ!」
「女といちゃつきやがって、早く、金を出さんか!」
 怒鳴られても、手がしびれて動かせない。
「ジャケットのポケットに・・・」
 聞くが早いか、皮のジャンバーの男が、上衣のポケットから財布を引きずり出す。
 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
「やばい!やばい!」
「早いとこずらかろうぜ!」
 男二人は、父を蹴とばして、棒を投げ捨てて、逃げる。
 母の携帯からの110番への通報で、街の不良がつかまる。
 アベックを見付けては、ゆすり、小遣い銭かせぎをしていた、連中だと分かる。
「お母さんの父親から、入院費と、仕事を休んだ賃金の代わりにと、余分に金を渡され、今後一切、お母さんと付き合わないでほしいと、いわれた時は、施設育ちの自分が悲しかったよ」
 父はまた、目に涙を浮べる。
 勤め先の建設会社を辞めて、夏目漱石の『坊ちゃん』で有名な温泉のある隣県の市に移る。
 母は、家族の反対を押しきって、大学を中退して父のもとにくる。
 父は、タクシーの運転手になる。
 お嬢さん育ちの母に、不自由をさせたくないと一生懸命働く父の姿に、母は幸せだという。
 しかし、子供は、なかなか生まれない。
「もう、子供は駄目か?」
 父と母は思うようになる。
 ところが、父が四十五歳の時に、
「あんたが、生れたのだ」
 父は、笑顔になり、声が弾む。
 寒さの厳しい二月の初めだった。
「生み月に入っていたお母さんは、初産なのに、あかあかと燃えているストーブの側で、あんたを産み落とす」
「分けが分からないままに、ストーブの上で煮ぎたっているやかんの湯に、くぐらせた鋏で、へその緒を切ってなぁ。
 血まみれの赤ん坊のあんたを、着ていたシャツを脱いで包み、救急車を呼んで、日頃、診て貰っていた病院に、お母さんを運んだのよ」
「駆けつけてくれた産婦人科の先生が、シャツに包まれた赤ん坊と、寝間着姿のお母さんを見てな、こんな出産は初めてだと、あきれ顔で、感心されてなぁ、ハハ・・・」
「生まれたのは男の子だ。嬉しくてな。余り、信心深くないのに、この時ばかりは、神様を拝んだ」
 父は、神棚に五つ、名前を書いて上げ、目をつむって手に取った名前が正吾だった。
 名前の話は、小さい時、母から聞いたことがある。
 三年後に妹が生まれる。
 親子四人のつましいが、幸せな生活がつづくはずだった・・・

 父は、年をとるにつれ、昔、不良達に殴られた手足が痛み出す。
 身体中に、激痛が走る。
 医師から出される痛み止の薬や、張り薬で、運転をつづける。
 五十歳を過ぎた頃、ハンドルを握れない程、身体が痛む。
 父は、タクシー会社を辞める。
 母が、働きに出る。
 商事会社に就職したが、事務より給料のいい清掃の仕事を選ぶ。
 母の手が荒れの見て、父は決心する。
「子供達を連れて、実家に帰ってくれ。これから子供の教育費がかかる。詫びて帰れば、家に入れてくれるよ。別れるのは辛いが、子供達の将来や、あんたのことを思えば、耐えられる」
「私のために、あなたの身体が駄目になったのですもの。心配しないで下さいね。会社の方も親切にして下さるし、働くのが楽しい位よ」
 母は、父を慰める。
 母のきしゃな身体が、日増しに痩せるのが目立つ。
 父は、何を考えたのか、暴言を吐くようになる。
 初めのうちは、
「子供達を連れて、出て行け。もう、顔を見るのも嫌だ!」
 口だけ荒っぽかったが、だんだん、手当たり次第に物を投げつけ、暴力を母や子供達迄にするようになる。
 それでも、母は父をかばう。
「お父さんは悪い人ではないのよ。本当は、心の優しい男らしい人なの」
 身体には手を上げなかったが、鍋や茶碗や皿を投げ、食卓をひっくり返して、暴れる父は男らしい人間か!
 子供こころにも、暴れる父が憎らしかった。

 あれは、十二月三十一日、大つごもりの夜だった。
 母が給料の他に、ボーナスが出たといい、自分もアルバイトの牛乳販売店から、特別に、お年玉が出る。
 母は、お正月を迎えられると、いそいそと、年越しそばや、正月の煮しめや、数の子や黒豆などを用意する。
 父は、外出している。
 父は、酒を飲まないが、時時、母に金をせびって、パチンコ店に出掛ける。
 今日もパチンコ遊びをしているのに違いない。
 普段は、父の顔を見るのさえ恐ろしいと思っているのに、今夜は、父の帰りが待ち遠しい。
 父は、案外早く帰宅する。
 雪が降っていたのか、頭に真っ白い雪をのせたまま、のそりと部屋に入ってくる。
 じろりと、御馳走の並んだ食卓を見る。
「お帰りなさい」
 母の迎える声は優しい。
「馬鹿!何度いったら分かるんだ!」
 叫びながら、台所に走り、手に出刃包丁を持ってくる。
「出て行け!子供達を連れて、すぐ出て行け!」
 母の胸に、出刃包丁を突きつけて、怒鳴る。
 楽しい食事を期待していた自分は、あっけにとられる。
「兄さん、何をボヤボヤしているの?家を出るのよ。早く、鞄を持って逃げるよう・・・」
小学六年生の勝気な妹は、隣の部屋に駆け込む。
「あなた、あんまりです!」
 さすがに母は、青さめた顔に、涙を流しながら、身をひるがえす。
 母は、妹に手を引っぱられながら逃げる。
 教科書をつめた鞄をひっさげて、慌ただしく玄関に向かう自分に、
「早く行け!二度と戻るな!」
 父は、ふところから取り出した物を、足もとに投げる。
 ハッと思い、見ると、いちごの絵のついた二枚の板チョコだ。
 夢中で拾い、運動靴をつんかけて、外にとび出る。
 鞄を持った妹は、よろめく母を片手で支えて待っている。
 雪が積もっている。
 雪の積もった道路に、運動靴の足がスッポリ埋まる。
 妹も母も、雪に足をとられながら、歩く。
 冷たい雪の降る中を、着の身着のままの母子三人は、一時間余り歩き、会社の同僚の家にたどり着く。

 父は、独りになると、母子が戻らないように、運転手仲間が東京で働いているのに、頼って上京する。
 身体の痛みの薄らぐうちは、タクシードライバーで働く。
 手足の痛みが強くなると、仕事を休まなければならない。
 職やすま居を転転と変える。
 最後になった製薬会社の倉庫の仕事も、つづけられなくなる。
 友達の運転手が出たあとも、アパートの部屋に残る。
 僅かな持ち金も、使い果たし、部屋代や電気代が払えず、インスタント麺やパンなどの粗末な食事さえ出来ない。
 このまま、死ねたらどんなにラクか!
 餓死を覚悟して、寝ているところを、部屋代を請求に来た、アパートのオーナーに見つかる。
「何故、浮浪者のような生活になっても、生きていたのは、それは・・・」
 父は、改めて母の位牌を見つめる。
「それは、あんたのお母さんの優しさが忘れることが出来ないからだ。子供達がまともな教育を受け、立派に成人した姿を想像してな」
「この同じ空の下に、お母さんやあんた達兄妹が、幸せに暮らしていると思うと、それだけで満足だった」
 父は、大きく溜息をつく。
「寄る年波には勝てぬ。気力も体力も無くなり、この儘、この世から消えても悔いはないと思うようになった」
「お母さんが、あんたにめぐり逢わせてくれたのだと思う。親らしいことを何一つしていないのに、あんたが、引き取ってくれた」
「有難う。・・・済まない・・・」
 父は、自分の両手を握って放さない。
「お父さんを許して上げて!お父さんは悪い人ではないのよ」
 生前の母の言葉がよみがえる。
 父の寝顔を、じっと見る。
 ネットで習う料理で、血圧の高い、糖尿病のある父の食事に気を遣う。
 クリニックの外来に通い、身体の痛みも薄らいでいるせいか、顔色もよく、ふっくらと肉付き、くぼんだ目も、痩せて、とがっていた鼻も、昔の整った容貌をしのばせる。
 心地よげに眠りつづける父の側を離れ、隣の居間に行く。

 居間は、冷え冷えとしている。
 二十年前、寒さにふるえながら、母の同僚の家に着いた、大つごもりの夜を、今でも、はっきりおぼえている。
 母が働く会社の事務員の上野さんは、母と身の上が似ているうえ、年齢も同じだった。
 事務から清掃の仕事に変えた母に、同情して、親しく付き合ってくれる仲だった。
 上野さんの夫は、喘息持ちで働けない。
 上野さんが、夫とひとり娘を養っている。
 雪の降る中を、凍えながら訪ねてきた母子に、驚くが、喜んで家の中に入れてくれる。
 上野さん一家も余裕のない暮らしだ。
 夫婦の年越しそばを、自分と妹に食べさせる。
 上野さん夫婦は、我が娘と兄妹が美味しそうに、そばをすすっているのを嬉しそうに眺めている。
「みいちゃんは、お兄ちゃんが好きなのね」
 上野さんのひとり娘のみいちゃんとは、幼馴染みだ。
 上野さんが、仕事で居残りの時などに、よく学校の帰りに、みいちゃんを保育園に迎いにゆく。

 みいちゃんは、二歳の時、公園のすべり台から落ちて、骨折した左足をひきずって歩く。
 ひとりっ子のせいか、自分になついていて、顔を見ると、
「みいちゃんは、お兄ちゃんが大好き!」
 と、抱きついてくる。
 甘えられると、もう一人、小さい妹が出来たようで、自分もみいちゃんが可愛い。
「お兄ちゃん、みいちゃんね、お名前が書けるようになったの」
 紙と鉛筆を持ってくる。
 上野美鈴と正確に、漢字で書く。
「みいちゃんは、難しい漢字で名前が書けるのだね。上手だなぁ・・・」
 頭をなでで褒める。
「みいちゃんは、来年一年生になるの」
 みいちゃんは威張る。
 その夜は、上野さんの家に泊まる。
「お兄ちゃんらと寝る」
 みいちゃんは、自分と妹の間に入って寝て、遅く迄お喋りをする。
 おかっぱ頭の目のくるくると大きいみいちゃんの両頬に、笑うとえくぼが出る。
 翌朝早く発ち、母の実家に帰る。
 祖母は、母の幼時に亡くなっている。
 祖父は、隠居して居り、老舗の酒造会社の社長は叔父だ。
 子供のいない叔父夫婦は、みじめな姿で戻って来た姉母子を歓迎する。
 自分が高校生の時、父と別れたことが、心の深い傷になっていた母は、身体が弱り急死する。
 叔父は、自分を跡継ぎにするつもりで、教育に熱心で、大学に通わせる。
 妹は、
「早く自立したい」
 と、美容学校に入学する。
 今は、美容師として、チェン店の雇れ店長になり、店の二階で自活している。
 自分は大学を卒業すると、教員の採用試験を受け合格する。
 叔父は、中学教師となった自分を、跡継ぎにすることを諦め、叔母の甥を養子にして、会社に入社させる。

 居間の寒さに気付き、身ぶるいする。
 慌てて、電気ストーブをつける。
 カップに、インスタントコーヒーを入れ、ポットのお湯を注ぐ。
 熱いコーヒーを飲みながら、みいちゃんのことを思い出す。
 父の投げたいちごの絵のついた板チョコは、お腹がすいている妹は、雪の道を寒さにふるえながら齧っていた。
 自分も空腹で食べたかったが、みいちゃんを喜ばせたいと我慢をして、ポケットに入れていた。
 いちごの絵のついた板チョコを、みいちゃんに握らせる。
「お兄ちゃん、またきっと、みいちゃんに逢いに来てね」
 目に涙をいっぱいためて、しがみついたみいちゃんを忘れられない。
 あの時、上野のおばさんは、電車賃にしてねと、母にお金を持たせる。
「お互いに頑張ろうね」
 母と抱き合う。
 母は実家に落ち着くと、叔父から当座の生活費を渡してくれたお金の中から、四月に小学校に入学する、みいちゃんの入学祝のランドセルと、別に、余分のお金をそえて、礼状と共に送る。
 上野さん一家とは、母が亡くなってから、年賀状もこなくなり、疎遠になっている。
 みいちゃんは、どうしているだろうか?
 懐かしくて、大学を卒業した時、葉書を出す。
 葉書は、すぐ、宛名先不明で戻ってくる。
 居間を見回す。
 自宅があってよかったと、つくづく思う。
 三部屋と、居間と台所の平屋だが、妹にすすめられて、数年前、購入する。
「兄さん、何時迄も独身でいられないでしょ。生活が安定していても、家がなければ、お嫁さんはこないわよ」
 妹の忠告で、いつか持ち家を買いたいと、教師になってから無駄使いせず貯金をしていたので、現金で家を買うことが出来た。
 我が家があったから、父を迎えて、一緒に暮らせる。
「お前も、早く結婚したらどうだ。のん気にしていたら、相手がいなくなるぞ」
 妹は、三十二歳だ。三歳上の自分は三十五歳になる。
 縁談は、時時、持ち込まれるが、気がすすまずいたが、そろそろ、身を固めなければと、思うようになっている。
「早く、相手をみつけて、結婚しろよ」
 妹にいう。
「独りの方がいいわ。変な相手と結婚して、お母さんのように苦労したくないわ」
 勝気な妹は、自立心が強い。
 小さい時から、両親に批判的だ。
 妹は、父に逢うことを拒む。
「私に,父親はいない」
 頭から拒絶する。
 父が、顔を見せない妹に、逢いたがっているのは、口にださなくても分かる。
 自分も、最初は、子供の頃の父の仕打ちを恨んだ。
 東京の区の福祉事務所の問い合わせを、無視するつもりだった。
 ふと、目についた調査書類の末記に、活字でなく自筆で、一行、そえられた係員の弱者に対する心情に、考えが変わる。
 妹を説得する。
「仕事が出来なくなった、お父さんの代わりに、働きに出るお母さんの日増しに身体が弱ってゆくのと、この儘では、子供達を学校に通わすことが出来なくなり、共倒れになると、お父さんは決心して、お母さんのために、身体が駄目になったお父さんを、見捨てられないと、別れないお母さんを裕福な実家に帰すため、お父さんは、暴言や暴力をふるい、しまいには、刃物まで持ち出して、無理に、お母さんや子供達を追い出したんだ」
「お母さんは、子供の頃、母親を亡くしているせいか、涙もろくて優しい」
「お父さんが結婚前に、公園で、お母さんと逢っている時、街の不良二人におそわれ、身体中を棒で殴られた。後遺症が年を取ってから、全身に出るようになったことを、お母さんは申し訳ないといって、別れるといわない」
「・・・」
 妹は無言だ。
「お母さんの衰弱している身体を案じ、子供達に、まともな教育を受けさせてやりたい一心で、お父さんは心を鬼にする」
「同じ空の下で、母子三人が暮らしていると思えば、辛さに耐えられると、お父さんはいったのだよ」
「・・・」
 妹は、無言をつづける。
「木の股から、生まれた人間はいないよ。親が生んでくれから自分達があるのだ。虐待した非情な親を許せずに、老いて、路上に迷う親を見放す人もいる。人、それぞれの思いがある。批判はしない。だが、お父さんの場合は、お母さんや子供達の将来を思って、心を鬼にしたお父さんの生き方は、納得出来るではないかね」
 妹は、尚、黙っている。
「お父さんは、暴力をふるったけれど、直接、お母さんや子供達の身体を殴ったことはなかった」
「手当たり次第、物を投げていたが、方向違いに投げる。初めは、お父さんは目が悪いのじゃないか。よく見えないから見当違いに投げているだと思ったが、あれは、わざと母子に怪我をさせないために、投げていたのだ」
「・・・」
 妹は無言・・・
「覚えているか?大つごもりの夜、頭に雪をかぶったまま、部屋に入ってきて、年越しのささやかな料理ののった食卓を見て、お母さんに別れる意志のないことを察して、刃物でおどして、家に帰るように迫ったのだ」
「お前が、雪の夜を寒さにふるえながら齧っていたいちごの絵のついた板チョコは、パチンコでやっと手に入た、お父さんのせめてもの子供達へのお年玉だった」
 妹は、うなだれる。
「お母さんが『お父さんを許して上げて、お父さんは悪い人でないのよ』と、いっていたことを、お前も聞いているはずだ」
 妹は、頭を上げる。
「兄さん、ご免なさい。お父さんのことを誤解していたわ。お父さんは、みじめな生活からお母さんや私達を救いたかったのね。お母さんは、お父さんの本心を知っていたから、別れたくなかったのよ」
 真実を知った、妹は変心が早い。
 父は、逢いに来た妹の両手をおし頂く。
「晴子、お父さんのこれ迄のことを許してくれ、本当に済まなかった」
「正吾や晴子に、親孝行をして貰えるのは、お母さんが、あの世から、お父さんを守ってくれたのだ」
 父は、妹の手を握ったまま、感無量だ。
「それにしても、大きくなったなぁ、すっかりいい娘さんになって、お父さんは嬉しいよ」
「いやだわ。お父さん、子供でないわ。もう、三十を越しているのよ」
 嫌悪していた父を、素直にお父さんと呼ぶ。
「あら!」
 急に、大声を上げる。
「どうした?」
 目を見張る自分に、
「兄さん、私の耳を見て・・・お父さんの耳にそっくりだわ」
 いわれて、妹の耳を見る。
 父も、自分の耳に手を当てる。
 父の耳は、米粒が二つ三つ載る程、耳たぶが厚い。今は、少したれ気味でしわがあるが福耳だ、妹の耳に気付かなかった。
 小さい金の輪のピアスをした妹の耳は、父によく似ている。
 妹は涙ぐむ。
「お母さんや私達兄妹のために、自分を犠牲にしたお父さんの気持ちを思うと、お父さんを愛おしくなるわ」
 愛おしい!
 東京の武田青年も非情な親でも、自分を生んでくれた、血肉を分けた親だと思うと、愛おしい、といった。
 父親の存在を否定していた妹が、目覚めると、手作りの総菜を持って、頻繁に父に逢いにくる。
 美容院の定休日には、朝から来て、父の身の回りの世話をする。
 テーブルの上のスマホが、メールを知らせる。
 常連のお客さんから、上等の牛肉を頂いたの、お父さんに、すき焼きをして上げるわ。夕食の仕度は私がするからね。
 隣の部屋で、父の起きた気配がする。
 襖を開ける。
「コーヒーを持って行くからね」
「そこに行って飲むよ」
 父は、ベッドから下りる。
「晴子から、夕食に、お客さんから貰った牛肉ですき焼きをして上げる と、メールがあったから、今夜はすき焼きだよ」
「ご馳走だな。お母さんにも食べさせて上げたいな」
 カップを口から離し、つぶやく。
 父の心の中に、何時も亡き母がいるー

 ふと、気付くと、乗用車は通ったことのない道を走っている。
 梅雨があけ、日差しは強くなっているが、街路樹のみずみずしい緑が新鮮だ。
 新学期から、一年生の担任になって、一層多忙な毎日がつづく。
 ようやく、生徒も新しい中学生生活にも馴染み、自分も、気持にゆとりが出来る。
 部活は、体育の学級主任が、父親と同居した自分に便宜をはかってくれ、顧問を引き受けてくれる。
 煩雑な校務が、少しラクになる。
 
 朝早く妹から
【お得意さんから。娘さんの婚礼の着付けを頼まれたの。遅くなるわ。今夜は行けないからね】
 メールがくる。
 今日は、学校を定時に出る。
 夕食のことを考えていたせいか、何時も通る道をはずれて、先へ、先へと車は知らない道路を走っている。
 気分転換になっていいや、と、久し振りにのんびりした気分になる。
 スーパーが目に入る。
 何時も、自宅近くのスーパーで買い物をするのだが、たまには、違う店で買うのも楽しい。
 総菜の材料を買うつもりで、乗用車を駐車場に置く。
 夕方が近いせいか客が多い。
 缶詰の棚の前で足をとめる。
 ホワイトアスパラガスの缶を取る。
 父は、缶詰のホワイトアスパラガスにマヨネーズをかけて食べるのが好きだ。
 真向いの陳列台で、菓子類の整理をしている、女店員と目が合う。
「いっらしゃいませ」
 笑顔で会釈する。
 長い髪を後ろで結び、二重の目の大きい可愛い顔だ。
 どこかで逢ったような気がする。
 錯覚かも知れない。
 ピンク色の制服の胸に付けた名札の、上野の姓に、たちまち記憶が戻る。
 もしやと思い、持っていたアスパラガスの缶詰を、わざと音を立てて、一メートル先に投げる。
「まあ!」
 女店員は、すぐ、小走りで缶を拾ってくる。
「有難う。うっかりしていた」
 店員の顔をじっと見る。
 みいちゃんは、公園のすべり台から落ちて、骨折した左足をひきずって歩いていた。
 間違いない。
 左足を、かすかにひきずっている。
「…みいちゃん」
 店員は、驚いた表情で自分を見詰める。
「…お兄ちゃん?お兄ちゃんなのね」
 みいちゃんは、側に駆け寄る。
「お兄ちゃんのことを、毎日、思っていたの。お店で、いちごの絵のついた板チョコを見る度に、お兄ちゃんに逢いたいと思っていたの」
 みいちゃんは、小柄な身体をふるわせて泣く。
「自分も、みいちゃんはどうしているかと,思っていたよ」
みいちゃんを抱き寄せる。
 籠を持った買い物客が、抱き合っている二人を、不審そうに見て通る。
 店内で長話は出来ない。
「早退できないかね、ゆっくり話がしたい」
「店長にお願いするわ。待っていてね」
 みいちゃんは、店の奥に走って行く。
 アスパラガス缶と、サバの水煮缶を持つ。
 真向いの菓子の陳列台に並んでいるチョコレートの中から、いちごの絵のついた板チョコを、一枚取り上げる。
カードで、支払いを済ませて外に出る。
 夕陽が沈みかけている。
 空は、あかね色に染まっている。
 果てしなくつづく、空の下で、人間のドラマが生まれる。
 みいちゃんと再会したことに、運命を感じる。
 無意識に、車を通ったことのない道を走らせる。
 偶然、入ったスーパーで、二十年前別れた成人した幼女と出会う。
 この頃、特に若い女性に成長した、みいちゃんの面影を重ねることが多い。

 息をはずませて、みいちゃんが戻ってくる。
 スーパーの近くの喫茶店に入る。
 コーヒーを頼み窓際のテーブルに、向い合って座る。
 白いブラウスに、茶色のパンツの地味な服装のみいちゃんは、後ろで結んでいた長い髪を、両肩にさげている。
 たしか、みいちゃんにえくぼがあった。
 店内のみいちゃんにえくぼはない。
「お兄ちゃんに逢えるなんって、夢を見ているみたい」
 嬉しそうに笑う両頬に、小さいえくぼが浮ぶ。
「昔の可愛い、みいちゃんを思い出すよハハ…」
 笑いが込み上がる。
「嫌なお兄ちゃん。私は、もう二十七歳になるのよ」
 幼い口調から一人前の娘の喋り方になる。
「ご免、みいちゃんは結婚しているの?」
 苗字は変わっていないが、もしやと気になる。
 二十七歳になっているのだ。
 結婚していて当り前だと思うがー
「ううん!」
 みいちゃんは、激しく首を横に振る。
「そうか」
 何故か嬉しい。
「みいちゃんは、どうして、ここに住んでいるの?」
 夏目漱石の「坊ちゃん」で、有名な温泉地に住んでいた。
 自分達一家も、父に追い出される迄暮らしている。
「実はね。お兄ちゃん達がいなくなったあとね、私達の家も大変だったの」
 みいちゃんは、涙ぐみながら話する。
 喘息の持病の父親は、みいちゃんが小学生の時に亡くなる。
 母親は、会社勤めをつづけ、みいちゃんに高校を卒業させる。
 みいちゃんが就職して、数年経った頃、母親の様子がおかしくなる。
 みいちゃんを片時も離さないので、働けない。
 痴呆症と診断され、途方にくれる。
 特別養護老人ホームに、預かって貰おうと思ってもあきがない。
 市の福祉課の紹介で、この市の特別養護老人ホームにやっと、入所出来、みいちゃんも、スーパーで働き、アパートに住んでいる。
 四国の玄関口の市は、
 お兄ちゃんのお母さんの実家があることを、知っていたので、長い間、住んでいた土地を離れても、寂しくなかったという。
「何時か、お兄ちゃんに逢えるような気がしていたの」
「みいちゃんは、苦労したんだね。これからは、お兄ちゃんが相談相手になって上げるよ」
「お兄ちゃんは、子供はなん人いるの?」
 思いがけないことをいう。
「子供?子供はいないよ。結婚していないからね」
 みいちゃんは、椅子からとび上がり、身体を大きくゆする。
「嬉しい!」
「嬉しい?自分が独身なのが、そんなに嬉しいのかね」
「だって、お嫁さんの候補者になれるもん!」
 自分が、今迄、結婚に気のりしなかったのは、心の中に、みいちゃんがいたからだ。
 みいちゃんも、幼い時から、自分を慕っている。
 偶然の出会いでない。
 互いに想う心が、二人を引き合わせた。
 運命のめぐり逢わせというべきか…
 父は、独り身の自分を案じていると思う。
 妹は、自分のことは棚に上げて、早く、結婚しなさいと、いう。
「みいちゃん、お兄ちゃんのお嫁さんになるかね」
「えッ!本当?お兄ちゃんと結婚出来るの?」
 みいちゃんの大きな目から、涙がこぼれる。
「施設にいるお母さんにも、逢いに行くからね」
 親切で、優しかった上野のおばさんに、娘の結婚は理解出来なくても、世話になった礼を伝えたい。
 ムード音楽が流れている。
 テーブルが、客で塞がりかけている。
 レジでコーヒー代を済ませ、みいちゃんを促して店を出る。
 星が出ている。
 父が待っている。
 夕食の仕度が気になる。
「これから、お兄ちゃんの家に行くかね」
「うん」
 ためらわず答える。
「父がいるけれど、心配いらないからね」
「お父さんと、一緒に暮らしているの?今も、暴れるでしょう?」
 みいちゃんは不安になる。
「いや、仏さまのようになっている。詳しいことは、いずれ、ゆっくり話するよ」
 みいちゃんはうなずく。
 スーパーの駐車場に向かって歩く。
 通勤用の自転車を、スーパーに置いたまま、みいちゃんは乗用車に乗り込む。
 助手席に置いてあったレジ袋を、みいちゃんの膝にのせる。
 レジ袋の中から、板チョコを取り出す。
「……」
 無言のまま、みいちゃんに渡す。
 みいちゃんは、目を大きくする。
 みいちゃんは、にっこり笑う。
「お兄ちゃん、お口をあけてね」
 いちごの絵のついた板チョコを、半分に割る。口いっぱいにほのかな甘さが広がる。
 みいちゃんの、肩をひき寄せる。
 父と妹の喜ぶ顔…
 成田空港で、握手して別れた武田青年ー
 結婚式に、武田信一を招待しよう。
 夜空に輝く 
 星はまたたく
 未来へ
 明日へ
 乗用車は勢いよく
 発進する…




  読んでくださいまして
  有難うございます
  密かに、励まして下さる
  方に、何時も深く、
   感謝申し上げて居ります。
    本当に
      有難うございます。
  身体が激痛のため  
  自由になりません。
  読むご縁を下さいました
  方々の、限りないご多幸と、
  ご健康をこころより
    お祈り申し上げます。
             合掌
 






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