小説&まんが投稿
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:夜見た夢 作者:異邦人

最終回 1
夜見た夢
                 亀野利子

 コツ コツ コツ 靴の小さい音がリズミカルに響く。
 この道は、破滅に向かっているのだろうか? 
 コツ コツ コツ 靴の小さい音…

 帰宅が遅くなってもかわない。
 妻は、今夜も留守だ
 息子と娘は、結婚して別居している。 
 夫婦だけになると、別行動が多い。
 不満はない。
 大学の駐車場に、車を置いたまま外に出る。
 十一月半ばの風は、コートを着ていても、肌寒いが、上気した頬には、春風のように心地よい。
 コツ コツ コツ…
 今迄、気にしていなかった靴の小さい音が、耳に弾んで聞こえる。
 十数分歩く。 
 暮色の濃い繁華街は、昼間に負けない程、ライトの明かりが広がっいる。
 商店街の中程に、元教え子の親が経営する老舗旅館がある。
 電話してあるので、母親の女将がすぐ、離れの部屋に案内する。
 あのひとは珍しく、私服のワイン色のパンツスーツ姿で待っていた。
 赤い椿の花の活けてある床の間を、背に座る。
 笑顔を交わす。
 酒は、付き合いの程度だが、女将が運んで来た銚子二本は、自分が全部飲む。
 あのひとは、盃に唇をふれるだけだ。
「お願い、飲んで下さいな」 
 目の前に置く。
 アルコール類に弱くて、すぐ、顔か赤くなるから嫌だという。
 板長が特別に作った自慢の肉料理も。余り食べない。
 本当に少食だ。
 きゃしゃな小柄な身体で、介護のきつい仕事がよく勤まると思う。
 食事か済み、お茶を飲む。
 一重の目が微笑んでいる色白の顔を、じっと見る。
 大学の付属病院の医師である自分は、高齢者施設や学校などに,講演を頼まれる。
 時間の都合がつけば、気軽に話に行く。 
 六月のあじさいの花の盛りの頃だった。
 特別養護老人ホーム「マイハウス絆」に招かれる。
「施設長が出張中で、失礼致します」
 深く、頭を下げたグリーン色の上着に、ベージュ色のパンツの制服を着た女性が、あのひとだった。
 名刺を交換する。
 大学教授と、附属病院の内科部長の肩書の名刺を渡す。
 あのひとは、介護福祉士で、施設のリーダーであることを知る。
 リビング兼用の談話室で「長生きと健康」について、一時間程話する。
 三十人余り集まった入所者は、車椅子が多いが、他の施設よりも明るく活気があった。
 リーダーは、事務室の応接ソファーに案内する。
「三時のおやつと同じ物ですけれど…」
 コーヒーと、客用に大ぶりのカステラの皿をすすめる。
 介護の方針や、職員の健康についてアドバイスする。
「先生のお話は、分かりやすくて元気が出ると、皆さんが喜んでいます」
 笑顔が、暖かい感じがする。
「また、呼んで下さい。何時でも来ますよ」
 口が軽くなる。
「有難うございます。今後共、どうぞよろしくお願い致します」
 コーヒーを飲む。
互いに忙しい身体だ。
事務員が入って来たのをしおに、ソファから立ち上がる。
「糸くずが…」
 リーダーがすばやく、スーツの肩から十センチ程の白い糸を拾う。
「お世話する癖が出て…済みません」
 恥ずかしそうに下を向く。
「有難う。よく気がつきましね」
 苦笑しながら礼をいう。
 昨夜、遅く帰宅した妻が、出勤時にもまだベッドで寝込んでいた。
 起こすのも面倒だ。
 自分でパンを焼き、簡単に朝食を済ませた。
 服も前日着た紺のスーツを、ブラシもかけずに着た。
 居間のどこかに、糸くずが落ちていたのか?
 短い時間だったが、初対面のリーダーの優しい人柄が心に残る…

 正午で外来の診察が終わると、久し振りに、時時寄る近くの書店に出掛ける。
 店内をざっと回り、医療関係の本を二冊購入する。
 昼食は、職員食堂で済ませることが多いが、外に出たついでだ。
 書店の隣りのラーメン店に入る。
 チャーシュー麺を注文する。
 側を通りかかった女性が足を止めた。
「まあ!先生」
 あのひとだった。
 先に出口の方に行きかけた、同じ年頃の女性が戻ってくる。
 施設長ですと、紹介される。
 丸顔の大柄な施設長は、
「先日は、留守を致しまして、申し訳ございません」
 詫びる。
「生憎、名刺を持って居りませんので」
 頭を下げる。
「結構ですよ。自分も名刺を持っていません。ハハ…」
 その時はあのひとと、笑顔で挨拶をしただけで別れた。
 二度あることは三度あるというか、数日後、また、街中であのひとに出会う。
 四国の玄関口の県庁の所在地だといっても、地方都市だ。
 商店街などを通れば、よく知人に逢う。
 その日も、昼食を外でとるつもりで、職員食堂に行かず、車に乗る。
 真っ直ぐ行けば街はずれに、特養施設「マイハウス絆」がある。
 初めて逢った時から、リーダーの優しい心遣いに惹かれた。
 ラーメン店で再会してから、あのひとの笑顔が頭から離れない。
 偶然の出会いを期待して、昼食を外でとるようになる。
 今日も会えなかったなと、思いながら引き返そうとした時、
 スーパー前のバスの停留所に、あのひとが暑い日差しのなかに立っている。
 白のブラウスに黒のパンツの地味な服装で、片手に小さいレジ袋を下げている。
 急いで、ドアを開ける。
「また、お逢いしましたね。乗りませんか」
 高ぶる感情をおさえて、声を掛ける。
 あのひとは、自分を見て驚くが、すぐ、嬉しそうに
「有難うございます。助かりますわ」
 ためらわず車に乗り込む。
 化粧っ気のない顔に、汗が滲んでいる。
 寝たっきりの入所者の欲しがっている物が、スーパーの百円コーナーで見付かったので、早く帰って喜ばして上げたいと、バスを待っていたのだという。
 喫茶店に誘う。
「夜勤で仕事は、朝の八時に終わったのですけれど…」
 と、聞いたからだ。
「施設長が留守が多いので、どうしても雑用に追われて、休めませんの」
 屈託なく笑う。
 急速に、頻繁に逢うようになる。
「どうして、何時までも黙っていらっしゃるの?」
 無言で、あのひとを見詰めている自分を、不審そうに首を傾ける。
 五十三歳の自分より五歳上だと、後で知るが年齢を感じない。
 初めて逢った時から、リーダーの包み込むような暖かい微笑みが心に残った。
 交際が深まってから、半年が経つ…
 旅館の部屋を選んだのも、静かな場所で、あのひとの気持ちを確めたい。
 自分は、重大な決心をしている。
 あのひとの明確な返事が聞きたい。
「妻と離婚しますよ」
 突然の宣告に、静かにお茶を飲んでいたあののひとは、茶碗を音を立ててテーブルに置く。
「何故?なぜですの」
「何故って、君と一緒に暮らすためですよ」
「先生の離婚など望んでいませんわ」
 顔が青ざめる。
「……」
 意外だった。
 共に暮らすことを喜んでくれると思っていた。
「何時までも、友達つきあいを続けるつもりなの?」
 声が高くなる。
「……」
 今度は、あのひとが黙る。
 妻との離婚に自信がある。
 社交ダンスに夢中な妻は、日頃から独りなら、毎日、好きなようにダンスの練習が出来るのにと、いうのが口癖だ。
 別れるといえば、喜んで承諾するに違いない。
「付き合って半年になるんですよ。このまま、友達でいるつもりなの?」
 あのひとは俯く。
 控え目な態度が、今は苛立つ。
 互いに、時間を都合して逢う。
 喫茶店や、公園で、短いひとときを過ごす。
 この頃は、この旅館の割烹料理の店の方で逢っている。
 何時も向かい合って座る。
 テーブルの上で、かすかに触れる手の温もりが、心を伝える。
 美しく華やかに、化粧している女性が多いが、きめの細かい色白の素顔のあのひとが新鮮にうつる。
 女に無頓着だった自分が、施設に働くリーダーの女性に惹かれた…
 日増しにその気持ち゛強くなる。
 大学で講義をしている時や、病院で診察している時は、忘れているが、ふとした合間に、あのひとの姿が心に浮かぶ。
 僅かな時間を利用して逢う。
 あのひとも、自分の誘いに短い時間だが逢いに来る。
 逢っても、たあいのない世間話をする程度だが、二人いるだけでも楽しい…
 だが、突然、目覚めたように妻と離婚して、あのひとと一緒になりたい!
 その一念で心が勇む。
 何時までも、黙ってうなだれているあのひとを引き寄せる。
「僕と結婚すると、確かに答えて欲しい!」
「……先生より年上ですもの、この年で結婚は無理ですわ。それに、施設のこともありますもの」
「年齢なんか関係ない!僕も年をとるんです。特養のことは施設長に任せなさい」
 施設長といった時、あのひとは眉を微かにひそめる。
「君は独身だ。僕は離婚するのだから、難しい問題はないはずだ。君さえ決断したらスムーズにゆくよ」
「先生のお言葉は、本当に嬉しいですわ。でも…」
 目に、涙を浮かべている。
「何がでもです!勇気を出しなさいよ」
 全身の血が熱く身体中を駆け巡る。
 突如として、男の本能が燃え上がる。
 しゃにむに、あのひとを抱きしめる。
「先生、駄目!駄目ですわ!もう少し考えさせて下さい」
 あのひとは、自分の腕の中で身悶える。
「今更、何を考えるのです。僕は君の身体に聞く!絶対、君を離さないからね」
 燃え上がる興奮をおさえることが出来ない。
 あのひとの身体を仰向けにする。
 ネクタイを取る。
 上着を脱ぎ捨てる。
 ベルトをはずす。
 下着を一緒に、あのひとのパンツをおろす。
 身を閉じたあのひとは、無抵抗になり、自分の唇を受け…
 すべてが終わり、放心状態の自分に、あのひとはしっかりした口調でいう。
「先生のおっしゃる通りにします」
 頬を赤らめたあのひとを、ひしと抱きしめる。
 今まで、味わったことない嬉しさが込み上がる。
 だが、この時、既に二人の生活が一変していることに、神ならぬ自分達は気付かない。

「先生、もう遅うございますよ。お泊りなさいませ」
 タクシーを呼んで貰った女将が、しきりに引き止める。
 二人の仲を察している女将は、息子の大学時代の恩師に気を使う。
 相手の女性が、特養施設のリーダーだと知っている。
「僕はいいけれど、このひとが仕事を気にしてねハハ…」
 照れる。
 日付けがかわる時刻だ。
 暖かい部屋から出た身体に、冷たい風が容赦なく吹く。
「風邪を引かないようにね。これからのことは僕に任せて下さい」
 チョコ色のダウンジャケットの衿に、首を埋めたあのひとは頷く。
 タクシーの運転手が後ろを向き、発車の合図をする。
 車の窓に顔を寄せ、あのひとは微笑みながら、手を振る。
 自分も、力いっぱい手を振る。
 タクシーは勢いを増して、みるみる遠去かる。
 自分の車で送るといっても、あのひとは
「人目について、先生に迷惑をお掛けしたくないの」
 あのひと自身も、施設の人達に男と一緒の姿を見せたくないのだろうと思い、女将にタクシーを頼んだ。
 タクシーの走り去ったあと、暫く立ちつくす。
 夜半の風の冷たさが身に汐みる。
 車を大学の駐車場に、取りに戻る足が重い。
 コツ コツ コツ小さい靴の音が淋しく耳に入る。
 タクシーの窓に顔を寄せ、手を振っていたあのひとの顔が消えない。
 また、すぐ逢えるのに…

 タクシーを施設の少し手前でおりる。
 玄関横の事務室に明かりがついている。
 午後九時に、事務室や玄関ホールは消灯する。
 不思議に思い、私用の入口に行かず、玄関のブザーを押す。
 事務室から、サブリーダーが飛んでくる。
 事務長も急ぎ足で出てくる。
「リーダーの帰りを待っていました」
 背は低いが、女としてはしっかりした身体付きのサブリーダーがいう。
「遅くなってご免なさいね」
 詫びながら事務室に入り、自分の机の前の椅子に腰をおろす。
「何か、急な用があったの?」
 サブリーダーは、夜勤明けの朝の八時に事務長は、定時の五時半に勤務は終わっている。
 二人共、防寒着姿だ。
「施設長に、呼ばれたのですよ」
 四十歳過ぎの五分刈り頭の事務長がいう。
「何時頃帰ったの?」
 施設長はほとんど、仕事を休んでいる。
 帰宅するのは珍しい程だ。
「九時過ぎでした。リーダーの居所が分からないから、一寸、出て来て欲しいと電話がありましてね」
 事務長は、寝床に入っていたが、急用が出来たのかと、車を飛ばして来た。
 サブリーダーも来ている。
 施設長は、
「当分の間、留守にするから、リーダーを助けて、『絆』を守って頂戴」
 と、いうだけで、詳しい説明はなく、ママさんの部屋に行ったと思うと、すぐ出て来た。
「くれぐれも、よろしくお願いね」
 いうが早いか施設長は、外に待っていた乗用車に乗って行かれましたよ、と、事務長がいう。
「黒い車の運転席に、あの建築士さんがいました」
 サブリーダーが、口もとを歪める。
「言伝けはなかったの?」
「リーダーに、手紙を置いて行かれました」
 サブリーダーが、事務机の引き出しから、白い角封筒を出す。
 はやる心をおし静め、大きく息を吸う。
 手紙は,便箋一枚に走り書きしてある。
    あつこ、ご免。
    彼についてアメリカに行くわ。
    ママと「絆」をお願いね。
    彼の仕事が終わったら必ず
    帰るから、それ迄頑張ってね。
 頭から冷水を浴びさせられたように、身体が震える。
 予期していたことが現実になる。
 うろたえてはならない。
 恩になった施設長母娘のために、特養の「マイハウス絆」を続けなければならない。
 ふと、足許に、封を切る時落ちた小さい花に気付く。
 赤い可憐なポインセチアの花… 
 施設長が好きなポインセチアの花言葉を思い出す。
 ――私のこころは燃えている 
 私の気持ちとそっくりよハハ…と笑いながら、幸運を祈るという意味もあるのといって、ポインセチアの鉢植えを、受付の机や、玄関ポーチ両側に並べていた。
 花を手紙と一緒にしまう。
「暫く、施設を預かることになったけれど、あなた達に、今以上に力になって頂きたいの」
 交互に二人を見る。
 涙が滲む。
「事情は、大体分かっていますよ。しかし、あんなに、福祉に熱心だった施設長にしては、あまりにもお粗末な結果ですな」
 事務長は,憮然とした表情だ。
「施設長の気持ちは、理解出来ますけれどね。リーダーに、ママさんや『絆』を押し付けて、勝手な行動をする施設長は、全く無責任ですよ」
 三十歳半ばのサブリーダーは、憤慨する。
「『絆』を理想的な特養施設に成長させたいですね。私達で頑張りましょう」
 事務長は力強くう。
「リーダーをしっかりサポートしますからね。元気を出して下さい」
 三人の子供を持つシングルマザーのサブリーダーの言葉は頼もしい。
「有難う。お陰で元気が出ます。折角、お休みなのに、済みませんでしたね。これからの事は、明日、詳しく話合いましょう」
「ファイト!ファイト!」
 事務長が大声でいう。
「前進あるのみ!」
 サブリーダーが叫ぶ。
「有難う。本当に有難う。めそめそしてご免なさい」
 そっと、濡れた頬を拭う。
 寒風が、街路樹の枝をゆさぶる深夜の通りを帰宅する、事務長とサブリーダーの車を見送る。
 事務室の明かりを消して、片隅の来客用のソファに、崩れるように身体を横たえる。
 耐えていた悲しみが胸を突き上げる。
     トモコ、ひどすぎるわ
    私に重すぎる仕事を置いて
    黙って行ってしまうなんて   
    ひどいわ
何故、相談してくれなかったの
    私にも、好きなひとがいるのよ!

 暗闇の中に、リーダーは声をしのばせて泣く…

 リーダーと施設長は、幼稚園から大学迄、一緒の仲の好い友達だった。
 病弱だった父親が、リーダーと妹が小学生の頃亡くなり、美容師の母親がリーダー姉妹を育てる。
 リーダーが高校三年、妹が高校一年の時、雇われ美容師の母親が心臓病で倒れ、働けなくなる。
 リーダーは、大学に行くことを諦めて、就職する決心をする。
 リーダーの家庭の事情を知った施設長は、
「学費のことは、私に任せてよ」
 自分の父親に、リーダー一家の援助を頼む。
 父親は、いくら娘の小さい時からの親友でも、金銭のことだ。
 一旦は、
「よそさまの家の世話はせぬ方がよい」
 と、施設長の願いを退ける。
 母親は、リーダーの母親と懇意にして居り、特に一人娘の施設長が、我がことのように泣いて頼むのに、心打たれる。
「優秀な成績の娘さんですし、お母さんも病気が快くなれば、また、お店に出て美容師の仕事が出来ますからね。助けてあげましょうよ」
 しぶる父親を説得して、姉妹の学費と、一時は、生活費も援助した。

 施設長は大学を卒業すると、両親の強いすすめで見合結婚をするが、半年余りで、性格が合わないと、あっさり離婚する。
 商事会社に勤めていたリーダーは、同僚と結婚する。
 すぐ、妊娠したが流産する。
 その後、子供に恵まれなかったが、真面目で優しい夫との結婚生活は幸せだった。
 リーダの母親は、母親と同じ美容師になっている妹と同居していた。
 妹は、美容学校の同期生と結婚していたが、夫が、実家の美容院を継ぐため、郷里の札幌に転居する。
 母親は、妹夫婦と一緒に札幌に行く。
 リーダーは、夫が脳梗塞で入院していたため、母親と暮らせなかったことに、胸が痛んだ。
 夫は、十年近く患って亡くなる。
 リーダーと施設長は、互いの境遇が変わり、住むところが離れていても、同じ市内だ。
「あつこ」
「トモコ」
 と、中年になっても、幼い頃の名前を呼び合い交際していた。
 独りになったリーダーは、施設長によって転機がおとずれる。

製材会社の社長だった施設長の父親が、得意先の客を招待した宴で、杯を手に持ったまま逝ってしまう。
 母親は、父親の急死に泣くだけで、相談相手にならない。
「ママ、心配しなくてもいいわよ。私がうまく処理するからね」
 悲嘆にくれる母親に代わって、施設長は、てきぱきと父親の残した会社の後始末をする。
「私は、商売に向かない」
 すぐ、製材会社を同業者に譲渡する。
 外国産の安い木材の輸入で、地元材はおされ、山材を持っていた父親の会社は赤字がつづいていた。
 施設長は猶予せず、山林共会社を手放したため、少しまとまった金が残る。
 多忙な毎日だったが、やっと、日常生活に戻る。
 リーダーは、施設長が会社を整理するため、外を飛び回っているので、葬式以来、ずっと、施設長の家に泊まり込み、施設長の母親の面倒と、家事を手伝っていた。
 施設長がいう。
「老人ホームを作ろうと思うの」
「……」
 いきなりいわれて、リーダーはびっくりする。
「これから、高齢者が増加する一方だといわれているでしょ、ママの様子を見て考えたの」
 施設長の母親は、夫を亡くしてから、腑抜けのようになっている。
 話しかけても、返事をすることは少なく、自分から喋ることはほとんどない。
 身だしなみのよい母親が、施設長にいわれなければ、顔さえ洗おうとしない。
 施設長は、母親は例にいう。
「いろいろなお年寄りがいると思うの。高齢者が喜んで入れるような施設を作りたいわ。あつこ、手伝ってくれるわね」
 施設長に一方的にいう。
「いい考えだわ。ぜひ、協力させてね」
 リーダーの頭の中に、札幌で妹一家と暮らしている母親のことがあった。
 妹から、時時、母親の近況を知らせてくる。
 お母さんは、お姉さんのことを心配しています。
 お姉さん、札幌に来て、お母さんや私達と暮らしませんか。
 お姉さんが、こちらに住むようになったら、お母さんは大喜びすると思います。
 しっかり者の母親が妹夫婦について、札幌に移ったのは、脳梗塞で半身不随になった夫の看病をしている娘の生活を察してのことだと思う。
 リーダが母親のことをいって、淋しそうな顔をすると施設長がいう。
「あつこが札幌に行ったら、私は独りぽっちりになるのよ。お母さんのことが気になるなら、こちらに呼びなさいよ。寒い北海道より、生まれた暖かい四国の方が、お母さんは喜ばれると思うわ」
 反対する。
 一人っ子の施設長に、頼りになる親類はいない。援助して貰った費用は、母と妹と三人が働いて、施設長の両親に返したが、苦境を助けて貰った恩がある。
 施設長と、一生、親友で離れないと誓っている。
「私達もう、五十歳になるのよね。自分達の老後のためにも、老人ホームを作りたいわ。ママやあつこのお母さんも暮らせるしね」
「でもね、今は私達、再婚する気がなくても、胸を焦がすような相手が現れたら、考えが変わるかなハハ…」
 陽気な笑い声を上げる施設長の目は、夢に溢れ輝いていた…

 僅か、定員十名のグルーブホームから出発した施設は、行動力のる積極的な施設長の奮闘で、入所者五十名の社会福祉法人「マイハウス絆」に発展する。
 施設長は、つぎつぎ、プランを作り実行に移す。
 介護職員の研修のため、各方面から講師を依頼する。
 大学附属病院の内科部長を招いたのも、その一例だった。
 この医師との出会いで、リーダーの心が変わるー
 施設は、志しを同じくする働き盛りの事務長と、サブリーダーに恵まれ、職場は活力があった。
 施設長とリーダーは共に、自宅を売却して、施設の建物の一端に私室を増築する。
 苦労はあったが、入所者から、我が家より「絆」で暮らす方が楽しいといわれる程、経営は順調だった。
 ところが、特養を開設してから七年目頃から、施設長の態度がおかしくなる。
 以前程、仕事に力を入れない。
「私達は、お金を貰って仕事をしているんです。利用者は、自分の将来の姿だと思って大切にケアなさい」
 全職員を叱咤激励した、福祉に対する気迫はどうなったのか?
 事務長が、
「介護食の講習を考えています」
 と、話しかけても、
「ああ、いいわね。やりなさいよ」
 生返事をする。
「用事があるから外出するわ。詳しいことは、リーダーと相談しなさい」
 と、急いで外に出て行く。
 施設長の行き先は分かっている。
 増築を依頼した時の建築士の許に行くようになって一年が経つ。
 今は、事務長も職員達も知って居り、リーダーも感付いている。
 施設長母親は、夫の死後、うつ病から、急速に認知症にすすむ。
 職員達からママさんと呼ばれている母親を、車椅子に乗せて、談話室兼用のリビングに連れて行っても、誰とも話さない。
 施設長は今迄、用事を後回しにしても、必ず、私室で母親の食事の介添えをした。
「リーダー、お願い。ママのおひる見て上げてね」
「外出するわ。事務長や、サブリーダーの相談にのって上げてね」
「今夜は遅くなるわ。ママをお願いね」
 遅くなるどころか外泊が続く。
 増築をした際、施設長の母娘やリーダーが住みやすいように、無理な注文を出しても、いう通り設計してくれ、工事費も低くおさえてくれた建築士に、施設長は感激する。
「彼ね。若い時、アメリカに留学したことがあるのよ。東京にいた時は、大きな建築賞も受賞しているの」
「無口で人付き合いが下手だから、才能があっても損するのね。都会に嫌気がして郷里に帰って来ても、やはり、住宅やリフォームの仕事位いかないのよね」
 施設長は、リーダーと顔を合わせると、熱ぽっく語る。長髪、痩身の建築士は、施設長と同年の五十八歳で独身だという。
 最近、建築士はアメリカ在住の先輩から、手掛けている市民活動センターのプロジェクトに、温もりのある日本古来の伝統的な建築を現代のデザインに加えたいから、協力して欲しいと、熱心に国際電話をかけてくる。
「私も、彼が建築家として実力を発揮出来るいいチャンスだと思うの」
 リーダーは、施設長の話を聞く度に、不安が大きくなるが、まだ、信じていた。
 高齢者の福祉のために働くといった施設長が病む母親を捨て、親友に施設を預け、鳥が飛びたつように、建築士とアメリカに行く…秘そかに、案じていたことが現実になる。
 おとなしい控えめなリーダーは、自分の心の変化を施設長に内明けられないでいた。
 講演を依頼した医師との交際は、友達付き合いの域を出ていないせいもあった。
 先生は好きだけど…それ以上の心の発展を無意識におさえていたかも知れない。
 今夜、自制していた想いが一足とびに一心同体に結ばれる。
 あと戻りは出来ない。
 先生と一緒になっても、「絆」の仕事は続けらると自分にいいきかせて、時期が来たら、施設長に話をするつもりだった。
 リーダーが先生と結婚を決心した時に、、施設長は、愛する男性と手をたずさえて異国に旅立った。
 運命は皮肉にも、二人に胸を焦がす程の相手を、同時にめぐり逢わせたのだ。

 明かりを消した事務室に、忍び泣き声が消えてゆく…
 どれ程、泣いただろうか?
 個室の並ぶ廊下のあたりから、騒がしい足音がする。
 リーダーは、赤く充血した目を気にしながら、ソファから立ち上がる。
 八十歳過ぎの女の入所者が、若い介護士を足を引き擦りながら、杖を振り上げて追い回している。
 リーダーを見付けると、
「おお!リーダーさんよ。この娘はわたしが家に帰るのを邪魔してな、杖でわたしを殴るのよ」
 顔を歪めて、自分が介護士を追い回していたことを相手に擦り替える。
「田辺さんは、お家に帰るところだったの。悪かったわね。でも、もう遅いわ。朝早くお家に帰りましょうね」
 リーダーは、田辺さんの肩を優しく撫でる。
「一眠りしたら、すぐ、夜が明けますよ」
「リーダーさんの顔を見たら安心したわ。ああ、眠とうなった」
 家に帰ることを、けろりと、忘れた田辺さんは、穏やかな表情で、杖を振り上げて追い回していた若い介護士に、手を預けて自分の部屋に戻って行く。
 何処かの部屋で、呼び出し音が鳴る。
 男の介護士が、急ぎ足で廊下を曲って行く。
 元気を出さなくてはと、自分を励ましながら、リーダーは私室の引き戸を開ける。
 南向きに洋間が三間ある真ん中は、施設長の母親の部屋だ。
 出入口の右側に、洗面所、トイレ、風呂場がある。
 左側に、キッチンコーナーと私用の玄関がある。
 どの部屋もベランダがついている。
 白いカーテンの上に、日除けの厚手の茶色のカーテンが掛けてある。
 ガラス戸越しに、施設の玄関や門が見渡せる。
 娘の施設長と母親の境は、薄色のピンクのレースのカーテンで仕切られて居り、昼間はほとんど、あけ放してるが、施設長が留守にするようになってからは、締め切ったままだ。
 リーダーの部屋との間は、ドアになっている。
 洗面所で顔を洗う。
 鏡に写る顔は青白い。
 施設長の母親の部屋に入る。
 ベットの側にる寄る。
 よく眠っている。
 胸のあたりまで、ずり落ちている布団を直しながら
「ママさん、これからはあつこと何時も一緒よ。安心してね」
 仰向けに寝ている、まっ白い髪の頭がかすかに動く。
「あつこチャン」
 やっと、聞きとれた声だった。
 特養の「絆」のことも、娘の施設長の名前も、口に出さない母親がリーダーの名前を呼んだ。
「ママさん、起こしてご免なさい」
「……」
 母親は、口を閉じる。
「ママさんは、私の名前を思い出して下さったのね」
 嬉しさに、布団の中の手を握る。
 子供の頃から、娘同様に可愛がってくれ、辛い時も助けてくれた、施設長の母親の老いた姿に胸が塞がる。
「リーダーさんや」
 か細い声が呼ぶ。
「ママさん、トモコは用事が済み次第、すぐ帰りますからね。心配しないで下さいね。トモコの留守の間は、あつこがお世話しますからね」
 母親の両眼から涙が落ちる。
 今迄母親は、言葉を失ったように、問いかけられても、唯、頷くかかぶりを振るだけだった。
 リーダーの名前を呼び、職業名も覚えている。
 頭の何処かに、一瞬、正常に戻るところがあるのだろうか?
 施設長が、いなくなったのも分かっているのだ。
 頭脳の全部が病んでいないのだと、リーダーは確かに思う。
 施設長の母親の無言の涙を見た時、リーダーは、決心しなければならない事を悟る。
 母親の寝顔を見届けて、自分の部屋に行く。
 ベッド脇の椅子に座る。
 亡き夫の言葉がよみがえる。
「一緒に逝けたらなあ」
 あの世へ共に行けたらといった夫の言葉は、長年、看病した自分への勲章だと思った。
 最大の褒美の夫の言葉に、心が満たされた。
 恋愛も、再婚も考えたことがない。
 夫亡き後の生甲斐に、施設長に誘われた高齢者福祉に尽くすつもりだった。
 附属病院の医師に出会ったことに、リーダーの気持ちが変わる。
 初対面の時、リーダーを見つめる医師の曇りのない澄んだ目が心に残る…
 二度、三度、逢ううちに、医師の優しさに惹かれる。
 本当に好きだった。
 好きだったから、先生に、身も心も許した。
 悔いはない…
 あまりにも遅くおとずれた、燃ゆる想い…
 だが、リーダーには、施設長から押しつけられた仕事がある。
 特別養護老人ホーム「マイハウス絆」には、五十名の入所者と、三十名の職員がいる。
 施設長の勝手な頼みでも、施設長母娘に救われた恩義を思えば、「絆」を見捨てることが出来ない。
 施設を利用する高齢者は皆、事情を抱えている。
 健康なうちはいいが、足腰が弱れば独り暮らし難儀になる。
 家族がいても、仕事を休んで親を介護することは難しい。
 田辺さんのように、杖を振り上げて暴れたり、乱暴な言葉をいう男の入所者や、寝たきりの入所者もいる。
 親が、老いれば子も年を取る。
 老老介護が増えている。
 どのような人生をおくってきた人々でも、今日の世相をきずいた高齢者だ。
 社会が恩返しをするべきでないだろうか?
肉親に頼らなくても、長生きをして幸せだと、誰もが安心して老後を託す特養こそ、存在価値があると思う。
「マイハウス絆」の使命感のために、自分の燃えゆる想いを消さなければならない不運が悲しい!
 唯一度の互いの身体で愛を交わしたのは夜見た夢だったのだろうか?
リーダーは、妻子ある先生と、年上の自分を考えると、かろうじて理性を取り戻す。
 先生に、別れを告げずに、姿を隠くそう。
 逢えば先生との想いは、再び炎のように燃え上がることを恐れる。
 サイドテーブルの上の小箱を取る。
 黄色いひまわりの花模様の紙に、大切に包まれた一枚の名刺を取り上げる。
 肩書の下の「三沢文彦」の名前を見詰める。
 初めて逢った時に、肩についていた糸くずを取って上げた時のはにかんだ先生の顔が思い出される。
 先生、三沢先生!
耐えていた涙が、名前の上に落ちる。
 逢えば逢う程、異性にうとい純粋な先生のひたむきな愛情に、波風のなかったリーダーの心は惹かれた。
 逢いたくても逢えない哀しさ…
 愛は、こんなにも切ないのか?
 名刺をひしと胸に抱く。
 諦められない事を諦める事の辛さよ…
苦しさよ!
 リーダーは、サイドテーブルの上に顔を伏せ嗚咽する。

 一睡もせず夜が明ける。
 施設の繁多な朝が始まる。
 仕事が一段落すると、リーダーは自分の部屋に、事務長とサブリーダーを呼ぶ。
 隣室のベッドに横たわっている施設長の母親に、はばかって声をひそめる。
「六月に、講演に来て頂いた大学付属病院の先生の事で、あなた達にお願いがあるの」
「大学の附属病院の内科部長のことは、一度だけでしたが、よく、覚えていますよ」
 事務長が答える。
「医療や長生きの話でしたが、よく分かると,皆、喜んで聞いていましたからね。私も側でお話を伺っていました」
 サブリーダーも口を揃える。
「あなた達に、詳しく説明をしなければならないのですけれど、いろいろと事情があるの。申し訳ないけれど、要点だけでごめんなさいね」
 ためらいながらいう。 
 先生から連絡があったら、リーダーは退職したと伝えて欲しい。行き先はいわなかったので知らない。
 もし、訪ねて来て直接、居所を強く尋ねられても、聞いていない一点張りで断って下さい…
 口ごもりながらいうリーダーの頼みを、黙って聞いていた事務長とサブリーダーは顔を見合わせる。
 やはり、そうだったのか?
 噂は本当だったのね。
 少数だが、職員の間で、附属病院の医師とリーダーが、喫茶店や公園で親しそうに話をしていたのを見たと、ケアステーションで束の間の休憩の時に話していた。
 病院の先生とリーダーの間に、何かあったのだろうか?
 事務長とサブリーダーは、尋ねることに気がひけ頷き合いながら事務長がいう。
「承知しました。リーダーは退職しましたと、先生から、電話や、また直接いらっしても、行き先は聞いていないと、返事をします」
「有難う。無理をいって済みません」
 リーダーは、涙ぐみながらお辞儀をする。
 施設長が帰る迄、「絆」を守らなければなないの。少しの間、あなた達二人に私の代わりに、頑張って欲しい。
 それ迄仕事を休み、ママさんの世話をして私室で過ごしている。
「外部から、一時、身を潜めたいの。他の職員達に先生のことは内密にして下さいね」
 淋しそうにいうリーダーに、事務長やサブリーダーは、
「リーダーの頼みはよく分かりました。必ず、先生にお断りします」
 何も気付かないように、二人は部屋を出る。
 独りになったリーダーの頭の中は堂堂めぐりする。
 歳月は、自分の燃えゆる想いを消してくれるだろうか?
 永遠に逢えないと思うと、一層、断ち切れない想いが胸にせまる。
 一晩中、眠れなかった頭が痛む。
 自ら、覚悟したことなのに…

 昨夜、妻は帰宅していなかった。
 時時、あることなので気にせず出勤する。
 つづけて外泊をすることはない。
 今晩、離婚のことをゆっくり話合う。
 今日は正午迄、外来の診察がある。
 診察着をはおり、椅子に腰をおろす。
 患者でなく古参の看護師が慌てて入ってくる。
 早口にいって。
「奥様がお見えです」
 入口のカーテンを乱暴にあけて、真っ赤な半コート姿の妻が駆け寄る。
「あなた!あなた!」
 目が吊り上がっている。
 若い看護師が大型のキャリーバックを運んでくる。
 咄嗟に、椅子から立ち上がる。
「どうした!急用でも出来たのかね」
 妻は、強く頭を横に振る。
「あいつが!あいつがね、騙したのよ!」
「騙した?誰が騙したのかね」
「私を捨てて逃げたの。あなた!私から離れないで!」
 妻は普通でない!
 若作りに厚化粧した顔が、五十歳過ぎの女の顔に戻っている。
 当惑している二人の看護師に、
「用事が出来たから、他の先生に交替をして貰うからね」
 そっ気なくいって、声を上げて泣く妻の片手を掴み、大きなキャリバックを持つ。
「此処で待っていなさい。すぐ戻るからね、動いたら駄目だよ」
 玄関から外に連れ出す。
 厳しい声に、妻はおびえて大きく頷く。
 事務局に行く。
 事務局長に代診を依頼する。
 白衣を脱ぎ、ロッカーからコートを取る。
 患者が大勢いる待合室を、足早に通り駐車場に急ぐ。
 妻は、病院の広い玄関ポーチの真ん中に、つん立っていた。
 妻とキャリーバックを車に押し込み、飛ばして家に帰る。
 妻の醜態を誰にも見せたくない為、慌ただしく帰宅したが、居間の椅子に腰かけた妻は、唯、唯、
「あなた!あなた!」
 と、叫んでいる。
 湯を沸かしてコーヒーを入れる。
「飲みなさい」
 妻の前にカップを置く。
 自分も熱いコーヒーを飲む。
 ほっと一息つく…
 妻は、両手でカップをかこむように持って、旨そうにコーヒーを啜る。
 目を吊り上げ、わめていたのが嘘のように、顔を和ませている。
 暖房を入れた居間は、暖かくなっているのに、真っ赤な半コートを着たままの妻の側に寄り、コートを脱がす。
 妻の横の椅子に腰をおろす。
「どうして、急に、大きなキャリバックなんか持って、病院に来たのかね。詳しく話してご覧」
「あいつね、あいつがね!私を騙したの。私にお金を持ってこさせて、全部、取り上げたの。若い女と一緒にいなくなったの。私を騙したあいつなんかもういらない」
「あなた!あいつからお金を取り戻して!」
 大声を上げる。
「落ち着きなさいよ。誰からお金を取り戻して欲しいの?」
 夫が叱らないと知ると、妻は一気に喋べる。
 前後が合わない話だが、どうにか、事情が推察出来た。
 あいつと口汚くののしる相手は、妻が熱中して通ってる社交ダンスの教習所の教師だ。
 教師が親切に指導してくれるので、ダンス仲間が羨ましがる位、ダンスが上達して嬉しかったという。
「もっと、広い場所に移ったら、沢山、生徒が集まる。
 と聞いて、移転費用を出したのが手初めに、次、次、、クラスが上がる度に金を渡す。
「奥さんに助手を頼みたい」
 贔屓にしてくれる。
「僕は、本当は社交ダンスより、モダンダンスがやりたい」
 モダンダンスには、テーマや物語があり、身体で表現出来る楽しさがある。
「活動するのには、地方都市では無理だ。
 僕は本格的にモダンダンスをやりたいけれど、奥さんと別れるのが一番辛い。一緒に東京に行こう。友人が住居を用意している。この教習所は解散するよ」
 家出をすすめる。
 妻は若いダンス教師と、抜き差しのできない関係になっている。
 急速に、上京が決まる。
「当分の間、収入はないから生活費が必要だ」
 という相手の指図通り、当座の貯金は無論、定期預金から夫婦の保険迄、解約した金を渡す。
「奥さんが、モダンダンスが出来るようになったら、格好いいと思うよ」
 と、おだてられ、モダンダンスがどんな踊りなのかも分からないまま、いわれたままに行動する。
 東京に出発する前夜、二人はホテルに泊る。
 その頃、自分は妻が家出していることも知らずに、あのひとと、旅館の離れの部屋で過ごしていたのだ。
「一番早い飛行機だからね。遅れないようにね。僕はこれから、管理人のところに預けてあるスーツケースを取りに行ってくるからね。待合室で待っていてよ。すぐ、行くからね」
翌朝、ダンス教師は一足早くホテルを出る。
年下の相手に気遣って、目いっぱいに化粧して、濃いピンク色のワンピースに、真っ赤な半コートに身を包んで、タクシーを飛ばす。
空港の待合室に待っていても、
「すぐ、行くからね」
といったダンス教師は姿を見せない。
成田行きの飛行機は飛び発った。
教師のスマホに電話する。
意外にも、スマホは解約されていた。
無我夢中で、教習所のあったビルの管理人のところに、タクシーを乗りつける。
白髪頭の背中をまるめた管理人は、手紙を預かっているといって、渡してくれる。
開けるのももどかしく、封をちぎる。
   奥さんにはやはり、モダンダンスは無理です。
    僕一人でやります。
   今迄のことは忘れて下さい。
    ご主人と仲好く暮らして下さいね。
      お幸せに
             さよなら

頭に血がのぼる。
行き先を何度聞いても、薄笑いを浮べて手ぶりを振る。
「いいませんでしたよ。ただ、若い女と一緒でしたがね」
スーツケースは預かっていなかったが、手紙を奥さんが来たら渡しくれと、置いて行ったという。
管理人は、ダンス教師と若い女との関係を知っているのだ。
「奥さん、悪いことはいわない。あんな女たらしの男の事は忘れてしまいなさい。立派なご主人がいるのに、浮気は禁物ですよ」
真顔で忠告する。
女がいることなどは、夢にも思わなかった。
やっと、男に騙されていたことに気付く。
奥さんが、モダンダンスが出来るようになったら、格好いいと思うよー
格好いいといったのは誰だ!
 何がお幸せにだ!
バカ! バカ! バカ!
「あんな、にやけ男なんかもういらない。女に呉れてやる!」
「あいつ!あいつは、私を騙して私達の大事なお金を、全部取り上げて、女と行く方をくらましたのよ。あいつ!あいつが!」
悔しそうに、身震いする。
妻の話を聞いて、唖然とする。
なんという愚かなことを・・・
だが、自分とあのひととの事を思うと、妻に怒る資格がない。
「どうして、そんな馬鹿な事をしたのかね」
自分の膝の上の泣き崩れた、妻の背中をさすりながら問う。
「淋しかったの」
しゃくりあげながらいう。
「淋しかった?」
思いがけない言葉だった。
自分が如何に、お人好しだった事を知る。
自分と同じように妻も、家庭生活に不満はないと思っていた。
一歳下の妻とは、見合結婚だが、ものおじしない明るい態度に好感を持った。
「あなたは、研究を続けて下さい。家庭は私に任せて下さいね」
結婚後、妻は何事も独断で処理する。
雑用が耳に入らないため、自分は、人並み以上に活動が出来た。
妻は、二人の子供達に、父親と同じ職業につかせたいと、教育に熱心だったが、息子はカメラマンの道を選び、恋愛結婚をする。
娘は、大学を卒業すると、高校の同級生の会社員と結婚する。
妻は愚痴をいわない。
請われて、四国の玄関口の市の大学に赴任する時も、
「あなたと、のんびり暮らすわ」
むしろ喜ぶ。
付属病院の内科部長を兼務している為、病院に夜遅く迄残る時が多い。
日中、独りでいる妻が気晴らしに、社交ダンスを習い始める。
持ち前の明るさを取り戻した妻は、ダンスに熱中する。
自分の目の前で、楽しそうにステップを踏み、
「また、クラスが上がるの。今度の試験にパスしたら、全国大会に出られるのよ」
と、誇らしげにいう。
妻が、遅く帰ってくるようになった。
「独りなら、好きなように練習が出来るのにね」
と、いう。
「ハハ・・・僕のことはいいからね。しっかりやりなさいよ」
笑ったが、妻の様子が少しずつ変わった。
泊る時がある。
「先生がとても熱心で、徹夜で教えて下さるの。だから、私も頑張らなくてはね」
妻に、側に居て貰いたい時もあったが、仕事が充実して居り、余り苦にならない。
疲れた。眠いといって、自分の出勤時にもベッドから起きない時がよくある。
化粧も濃くなり、服装も派手になっている。
「暇だから、ダンスやおしゃれを楽しんでいるのだろう」
と、別に気にせずにいた。
妻が若いダンス教師に惹かれていくのと同じように、自分もあのひとと付き合い始めていたのだ。

「東京に帰りたい!」
突然、妻が膝から顔を上げていう。
「娘と一緒に暮らしたい!」
驚く。
「何をいうの!大学や病院は急に辞められないよ」
「東京に帰って、娘達と暮らしたいの。あなた、一緒に帰ってね」
 東京の大学から二年間の約束で来ているが、来年の五月迄、任期が残っている。
いくら、途中で辞められなといっても、
「いや、いや!帰る。帰る。あなたと一緒に帰る!」
と、叫ぶ。
「何故、聞き分けがないんだ!」
声を荒げる。
「東京に帰る。あなたと一緒に帰る!」
わめく。
目が吊り上がっている。
妻は正気でない。
東京の自宅には、娘夫婦が留守番に住んでいる。
娘に電話する。
手短にいきさつをいう。
「帰っていらっしゃいよ。私達と暮らしたら、きっと落ち着くわ」
専業主婦で子供のいない娘は、母親との同居をむしろ歓迎する。
娘との電話を聞いていた妻は、しがみつく。
「あなた!私の側から離れないでね」

慌ただしい毎日だった。
あのひとの事を気にしながらも、側を離れない妻を車に乗せて、大学や病院に休職願いの手続きをする。
上京の仕度をする。
身の回りの物をスーツケースに収める。
妻は、大きなキャリーケースに自分の物を詰め込んであるので、荷作りは簡単だ。
おとなしく、椅子に腰掛けている妻が、急に大声を上げる。
「あいつが、私達のお金をみんな取ったの」
「私を騙して逃げたのよ」
「あなた!私達のお金を取り戻して!」
また、わめく。
「金の事はもういい。なんとかなるからね。心配しなくてもいいよ」
なだめる。
妻はこっくり頷く。
化粧をしていない顔は、年より老けて見える。
ものおじしない明かるい妻は何処に行ったのか?
男に持ち逃げされた金は、確かに自分達の全財産だ。
妻の手許には、僅か数千円があるだけだ。
幸い、自分に別口の銀行預金がある。
妻には、俸給やボーナスなどの正規な金を任かせていた。
職業柄、いろいろな名目の交際費がいる。
理由をいって、妻から金を出して貰うのが煩わしい。
講演の礼金や、雑文などの原稿料を、別口にした。
いずれ、古巣の東京の大学の医局に戻る。
勿論、妻は別の口座を知らない。
たいした金額ではないが、当分は生活の心配はない。
 妻は発作的に、何度も淋しかったという。
 自分は、うかつにも妻の淋しさに気付かなかった。
 何事にも自分に相談なしで、処理する妻に安心していた。
 しかし、自分も満足していた研究生活に、孤独がひそんでいたのか?
 あのひとに・・・福祉施設に働く女性に惹かれたのも、妻が男の優しさに溺れたように、自分も、服についた糸くずを取ってくれたあの人の心遣いに、優しさを感じたのだー

 すぐ、戻るつもりでいる。
 あのひとに、勤め先を休むことを知らせなければならない。
 旅館で逢ってから、たった数日しか経っていないのに、長い間、逢っていない気がする。
 電話することも出来ない、妻との修羅場だった。
 やっと、落ち着きを取り戻した妻が、思い出すのか、時時、
「あいつが!あいつが!」
歯切しりして大声を出す。
あいつなど、人をののしる言葉を使う妻ではない。
全財産を失なっても、一言も自分にあやまらない妻は、唯唯、
「あいつが!あいつがお金を持って逃げたのよ」
と、ヒステリックに叫ぶ。
心の傷ついた妻を、希望通り東京に連れ帰り、娘と相談して、治療をさせねばならない。
上京する前に、あのひとに逢って、事情を理解して貰わねばならない。
しかし、あのひとのスマホは解約されていた。
どうした事か?
いなくなるはずがない。
不安が頭に広がる。
妻は、一時も自分から離れない。
「挨拶に行くところがあるからね。決して、騒いでいけないよ。おとなしく待っていなさい」
「いや、いや、あなたがいなくなったら大変だわ。私も一緒に行く」
妻は離れない。
「大丈夫だよ。一緒に東京に帰りたいのなら、いうことを聞きなさいね」
子供をあやすようにいう。
妻は、こっくり頷く。
一度だけ、医療の話に来たところだ。
別れの挨拶にくる必要はないが、あのひとのいるところだ。
安否を知りたい。
騒ぐ気持ちをしずめ、車を、特養施設「マイハウス絆」に向かって走らせる。
「静かにしていなさいね」
妻の頬に、軽く手をふれ安心させて、車を下りる。
「絆」の事務室の引き戸を開けて、いきなり入いる。
事務長が、机の前から立ち上がる。
「お久し振りでございますね。何か急用でも!」
女事務員が部屋から出て行く。
入所者は、各自の個室で昼寝でもしているのか、昼下がりの施設はもの音もない。
「突然、失礼します。リーダーさんにお逢いしたいのですがー」
率直にいう
「・・・リーダーは、事情があって退職しました」
事務長は、申し訳なさそうに声が小さい。
「退職?辞めたのですか?」
一瞬、聞き違いをしたのではないかと、耳を疑う。
「急に、やめるはずはないと思いますがね」
施設に関係ない自分が、事務長を問い詰ている。
「それが・・・私達にも、はっきりと退職の理由をいわずに、事情が出来てどうしても仕事を辞めなければならないといわれて、すぐ、此処を引き払われたのです」
事務長は、目を合わさない。
頭の中が混乱する。
「施設長にお目にかからせて下さい」
「施設長は、公用でしばらく留守を致して居ります」
「留守?施設長のお母様がいらっしゃいますね」
あのひとから、施設長の母親も同居していると、聞いた事がる。
「それが・・・ママは認知症のため、ぜんぜん、おひとの見分けがつきません。ほとんど、ベッドに寝たっきりですので・・・」
暖房が入っているといっても、寒い冬だ。
それなのに、事務長は精悍な顔に汗をにじませて、しきりに両手で拭く。
おかしい?何か」隠している!
「リーダーさんに伝えたいことがあるんです。何処に行かれたかご存知だと思います。教えて頂けませんか」
応接ソファに目が止まる。初対面の時のあのひとの笑顔が目に浮かぶ・・・
「実際、リーダーに急に辞められて、私共も当惑しているのです」
「施設長もいない。リーダーもいない。では、特養の運営はどうなるのですか?」
部外者の自分が詰問する。
「・・・」
事務長は、頭を下げ続ける。
「お願いします。行き先を知らない事はないと思います。私を信用して教えて下さい。お願いします」
ひたすら、懇願する。
愛する事は、こんなにもみじめな思いをしなければならないのか!
自分は今迄、これ程、他人に頭を下げた事があったろうか?
「済みません。本当に、私共はリーダーから行き先を聞いていないのです。申し訳ありません」
事務長は困惑しきっている。
妻が、広い駐車場に何台も置いてある送迎用のワゴン車を、キョロ、キョロ見回しながら、玄関に入って来た。
「あなた!あなた!」
相変わらず、大声で呼ぶ。
「私が訪ねて来たとだけは、リーダーさんから連絡があった時に知らせて下さい。お願いします」
妻の手を取る。
我ながら、悲痛な声だった。
「分かりました。お役にたてないで済みません」
事務長のほっとした声を後ろに聞き、車に乗せる。
半年前に、一度来ただけの施設が名残り惜しい。
建物の中に、あのひとがいるような気がする。
南向きの窓のつづくあたりを、何度も振り返る。
コツ コツ コツ 靴の音が空しい!
コツ コツ コツ 重い足を引きずりながら車に乗る。
未練がましく、ゆっくり、車を発進させる。
何故、突然、姿を消してしまったのか?
身も心も、やっと一つになった喜びも、束の間、訳を話せずにあのひとは去った。
スーツの内かくしに、何時も、名刺入れにあのひとの名刺を大切に入れてある。
         立花敦子!


          こころに誓う
          必ず、捜す
          敦子!
          君を決して諦めない
          何年かかっても
          きっと捜し出す
 闘志を燃やす。
冷たい雨の降り出した中を、車のスピードを上げる。

実は、りーダーは自分の部屋のベランダのガラス戸越しに、乗用車の遠去かるのを、分厚いカーテンのかげで、涙を流して見ていた。
先生が振り返る度に、飛び出して先生の胸に抱かれたいと、何度思った事か!
未練を絶ち切れない自分が哀しい!

      先生にお遭いしたかった
      お目にかかれば、きっと離れなくなります
      理由を告げずにお別れする
      私を許して下さい
      恩人の施設長母娘の為に
      特養の入所者の幸せの
      ために一生働きます
      どうぞ、私のことは
      夜見た夢だと
      忘れて下さい 
      こころから愛した 
      先生との思い出を胸に
      強く生きます


  エピソード
 この世に、男と女がある限り、愛が生まれ
 別れがある。
  喜びがあり、悲しみがある。
  愛は幸せか、不幸せか?
  この主人公たちに
  後日談があるが、書かない。
  ふたりの心に、思い出がある限り、
  奇跡はおとずれるー


 読んで下さいまして、誠に有難うございます。
 痛みのため、身体が自由になりません。
 何時も励まして下さる 
 方がいらっしゃるような気が致します。
 お蔭様で元気が出ます。
  有難うございます。
 厚く、御礼申し上げます。
 読むご縁を下さいました
 方方の限りないご多幸と
 ご健康をこころより
  お祈り申し上げます。
                 合掌
             (30.5.27)


■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 112