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作品名:この父を許せ! 作者:異邦人

最終回 1
この父を許せ!
痛ましくも、この世から消えた
      小さき魂たちに捧ぐ

  序章                        亀野利子

 正月の慌ただしい華やぐ雰囲気も、ようやく収まり、二月に入ると、テレビは毎日のように、今年一番の寒気が流れたと、気象情報を伝えている。
 大柄な身体をゆったりと、椅子に腰掛け、仕出し弁当の昼食を済ませる。
 茶筒から、茶葉を取り、急須に適量入れる。
 ゆっくり、ポットの湯を注ぐ。
 大振りの湯飲み茶碗に、なみなみと入れる。
 お茶は依頼人から、歳暮に贈られた有名産地の銘茶だ。
 だが、上品な飲み方はしない。
 盆栽の五葉松を眺めながら、自分好みに、口の中で味わって飲む。
 気持ちが落ち着く。
 飲み干した茶碗を机の上に、置いた途端、タイミングをはかったように、所長室に女事務員が入って来た。
「先生に、ぜひ、お逢いしたいとおっしゃる方が、お見えですがー」
 若い事務員は、当惑した顔でいう。
「誰? どなた?」
「それが、名前をおっしゃらないのです。昔の知り合いで、逢えば分かるとおっしゃるのです」
「そうか、とにかく、お通ししなさい」
 白いものが交じった、口ひげを、撫でながらいう。
 事務員と入れ違いに,入って来た客を見て、弁護士は首を傾げた。
 誰だったか思い出せない。
「忘れたろうね。中学を卒業して、五十年も経っているからね」
「中学を…」
 と、いわれて、
「おッ!」
 と、大声が出た。
 懐かしそうに、目を細くした笑顔に、記憶が戻る。
「君か!久し振りだな。どうしたの?急に来てさ!」
「実は、あんたに頼みたいことがあって、お邪魔したんだ」
 いきなり、片手にぶら下げていた、茶色の布地のバックから、分厚い紙包みを取り出すと、パッと、机の上に置いた。
「何?その包み?」
 訝しがる弁護士に、
「預かって置いてくれ! あんたに頼む用件の報酬だ」
 真剣な表情だ。
「中学の同級生だもの…力になるよ」
「有難う。あんたが弁護士になっているのを知っていたからね。頼もうと思って訪ねたんだ」
 事務員がコーヒーを運んで来た。
「実は…」
 と、話し出した。
 時々、嗚咽しながら、熱心に語るのを、じっと、耳を澄ませて聞いていた弁護士は、
「分かった!卑下することはない。人間だもの。過ちはある。自分に任せなさい。きっと、君の長年の苦労に報いて上げる」
 弁護士は、眉を上げ、キッパリと答える。
「済まん。これで、肩の荷がおりたよ。すべて、あんたに任せるから、よろしく頼む」
 丁寧に頭を下げるのを見て、
「心配するな。昔、君に助けられたことは、決して、忘れていないからね」
 弁護士は、懐かしそうにいう。
 両親を早く亡くし、たった一人の肉親の伯母の手で育てられた。
 中学生になると、牛乳配達をして、年金暮らしの伯母の家計を助ける。古い借家で内風呂がないため、その夜も、かなり離れた銭湯に、足が弱くなった伯母を連れて行く。
 その帰りだった。
 人通りのない薄暗い街灯の辺りで、
「助けて!」
 と、叫び声がする。
 よく見ると、制服姿の中学生が、大男の大人に、頭をポカポカ殴られている。
 とっさに、伯母の握っていた杖を
「伯母さん、借りるよ!」
 と、いうなり、杖を取ると走った。
 見れば、同じ中学三年の同級生だ。
 いきなり、持った杖で、大男の向う臑を力いっぱい殴る。
「痛い!いたい!何を…この野郎!」
 バタンと仰向けに倒れた大男は、怒鳴ったが、両方の臑を強く殴られているので、痛くて立ち上がれない。
「逃げろ!」
 同級生にいって、伯母を抱えるように手を引いて逃げた。
 あとで分かったのだが、男は、街の不良で、かねてから酒造会社の社長の息子に目を付け、塾帰りを襲ったのだ。
 親は、ジュースやパン代位の小遣いしか渡さない主義だ。
 その時も、百円玉が四、五枚、ズボンのポケットに入っているだけだった。
「もっと出せ!まだあるだろう!」
「大金持ちの息子のくせに、ケチなガキだ!出さないと、殴り殺すぞ!」
 と、おどし、頭を殴ったり、足を蹴飛ばしたりした。
 父親は、息子を助けてくれたことに、感謝して、家庭の事情を知ると、今春、中学を卒業したら、すぐ、就職するというのを止め、高校進学の費用を出してくれた。
 その時、助けた同級生が、今、目の前の椅子にいる。
 弁護士は、人懐こく細めた目を見て、半世紀前の顔を重ねる。
 自分は、東京の高校や大学を卒業した。弁護士になってからは、弟が家業を継いだので、両親が亡くなったとき位しか、家族揃って郷里に帰ることはなかった。
 彼は、伯母が急死したため、高校を中退して地元を離れ、隣県の町工場で働いていたという。
 同じ職場で知り合った娘と結婚して子供が生まれ、幸せに暮らしているという噂はあったが、それ以後、消息は絶えた。
 故郷で、中学校に通っていた記憶も薄れ、ほとんど、思い出すことはなかった。余りにも悲惨な旧友の身の上話に、思わず、両眼に涙がにじむ。
 自分に逢うために、わざわざ、新調のスーツーを着て来たのか?
 ふと、足元を見ると、粗末な古ぼけたスニーカーを履いている。
 履物までに、気を配る心のゆとりがなかったのだろうか?
「必要だろうから、戸籍謄本と、昔、住んでいた住所のメモを入れてある」
 バックから、白い封筒を出す。
「携帯の番号も書いてあるからね。調査が終わっても知らせなくていいよ。こちらから、時々、連絡するからね」
 現在の住所は教えない。
「無理を頼んでご免な。あんたを信用している!」
 差し出した手を握る。
 中学生の頃は、牛乳ビンの入った重い木箱を配車から運んで鍛えた身体は、大きい方ではないが逞しかった。
 白髪の多い短く刈った頭、くすんだ顔には深いしわがあり、身体全体が痩せている。
 握手した手は細かった。
 弁護士は、自分と同年なのに、随分、老けていると感じる。
「きっと、君の願いをかなえて上げる。おそまきながら、恩返しするからね」
「有難う。恩返しなんて、恐縮するよ」
 照れる。
 肩をすぼめ、力無い足どりで去った後ろ姿を見送りながら、どこか身体が悪いのではないか?時々、咳をしていた。
 弁護士は吐息をつく。
 「中学三年の時、組替えで一緒だっただけで、街の不良から助けてくれる迄、ろくに話をしたことはないクラスメートだったが、縁はつづいていたのか!」
 職業柄、彼の依頼の件は、そんなに難しい仕事ではない。
 自分を信頼して、多額な金を置いていった旧友の純朴さに、必ず応えたい。
 急いで調査に取りかかねばならぬー

 何処をどう歩いたのか、どれ程の距離を歩いたのか、両足の感覚がない。
 人通りのない暗い夜道を歩いている。
 折から降り出した、雪が頬を濡らす。一途に死ぬことばかり考える。
 赤ん坊だけは、しっかり、胸に抱き締めている。
 神社に行こう。あそこなら、太い枝の大きな木が沢山ある。
 ところどころにある外灯を頼りに、町はずれの鎮守の森に向かって、歩きつづける。
 降りしきる雪の中を、睫毛まで白くして、ふらつきながら、鳥居に辿り着く。
「坊や、お母ちゃんのところに行こう。もう、寒い思いもひもじい思いもしなくていいからな」
 薄いおくるみに包まれた赤ん坊は、すやすやと、父親の両腕の中に眠っている。
「かんにんな、父ちゃんが馬鹿だった!」
 喉を振り絞るようにいう。
 境内の楠の下に、倒れるように座る。
 朝から、赤ん坊は水しか飲んでいない。拝殿の方から明かりがもれている。
 急に赤ん坊が、痩せて大きく見える目を開けた。
「トウタン!」
 まだ、ものがいえない回らない口で、
「トウタン!」
 もう一度、か細い声でいうと、ニッコリ笑って、すぐ又、目をつむり、眠り込んでしまった。
「坊や!」
 ハッと我に返える。
 赤ん坊の細い首に両手を掛けていた。
「坊や、父ちゃんは余りにも愚かだった。初めてものをいった言葉がトウタン(父ちゃん)と、父を呼んだのだ!」
「この子を死なせる権利は、親だってない!折角、この世に生まれた我が子の命を、親のエゴで失くしてよいのか!」
 悪夢から覚めたように、頭を激しく振る。
 喉元に、熱いものが込み上げる。
「この子の運に任せよう。生きてくれ!このまま、お母ちゃんのところに逝っても、お母ちゃんは喜ぶまい」
「坊やよ。トウタンは強く生きる、お前のために、きっと、再起する!」
 何時の間にか雪がやんでいた。
 だが、師走の冷たい風は、容赦無く父子に吹きつける。
 シャツは、赤ん坊のおむつに替えた。 
 シャツの上に着ていた黒いセーターを脱ぐ。
 夏服を重ねた赤ん坊に、セーターをかぶせて着せ、おくるみで包み直す。
 自分はジャケット一枚になる。
 境内を出る。
 鳥居の前の広い道の向こう角に、駄菓子屋兼用のタバコ店に、灯が点っている。
 ズボンのポケットをさぐり、五円玉を一つと、一円玉二つを握る。
「今晩は」 
 ガラスの引き戸を開けて入る。
「いらっしゃい」
 と、奥の方から、五十歳位の小柄な女主人が出て来た。
 店の正面の丸い柱時計が七時をさしている。
「済まんが、その…棒のついたアメを一つくれんかね」
「小銭が、これしか持ち合わせがないんだがー」
 おずおずと、てのひらの五円玉と一円玉を差し出す。
 ビンに、一本十円の紙片が張ってある。
 女主人は目を見張ったが、黙って小銭を受け取り、ビンの中から、アメを一本取る。
「有難う。起きたら、しゃぶらせようと思ってね」
「よく眠っているわね。でも、そんななりじゃ、風邪を引くじゃないの?」
 じっと、父子の姿を見ていたが、何を思ったのか、肩に掛けていた毛糸のえんじ色の肩掛けをはずした。
「これで、くるんで上げなさいな。この寒い晩に、赤ん坊を連れて歩くのは無茶ですよ」
 肩掛けを赤ん坊に、ふわりと掛ける。
「残ったのでね」
父親が、パンの入ったケースを見ているのに気付いて、二つあった菓子パンを紙に包んで渡す。
「可愛い赤ちゃんね。大切に育てなさいね」
 女主人は、そっと、小さい頭を愛おしそうに撫でた。
「有難う。奥さんの親切は、決して忘れません」
 なんべんも頭をさげて外に出る。
 思いがけない人の情けに、目頭が熱くなる…
 ガラス戸が閉まり、カーテンが引かれる。
 店内の電燈が消えたー 

 空いた両腕に、僅かに赤ん坊のぬくもりが残る。
「どうか、無事に育ってくれ、必ず迎いにくる!」
 涙を流しながら、鳥居の傍に、我が子を置いた。
 赤ん坊の首に、生前、妻が子育て観音の寺に、祈禱して貰った、お守り袋が掛けてある。
 お守り袋の中に、赤ん坊の生年月日と名前が、父親の名前と共に、本籍が書いてある紙片が入っている。
「父ちゃんは、死に物狂いで働いて、金を貯めて、きっと、坊やを探し出すからな」
 人の往来のほとんどない道でも、時折り、自動車やトラックが通る。
 まだ、七時過ぎだ。
 一刻も早く人目に付くよう、神の加護を必死に祈りながら、足早に鳥居から離れた。
 ここ数日、ミルクも充分に与えられなかった。
 今朝は、父子共水だけ飲んだ。
 生後十ヶ月の赤ん坊は、泣く力もないのか、抱かれた父親の腕の中で眠ることが多かった。
 タバコ店の横にあるダンボールの空き箱を見付け、箱のままだと、這い出して転がったら危ないと思い、平らにしてその上に置いた時も、すやすや眠っていた。
「トウタン!」
 生まれて初めて、父親を呼んだあのか細い声が、今も耳に残る。
 首に巻いていたタオルは、せめて、夜風を防いでやりたいと、赤ん坊に頬かぶりをしてやった。
 冷たい風が全身を刺すように吹きつける。
 身震いをしながら、あてもなく歩く。
 町内の様子は分かっている。
 長年、住み馴れた町だ。
 このままでは、凍え死にしてしまう。
 何処か、今夜だけでも、身体を休ませるところはないかと、思案しながら歩く。
 何時の間にか、足が、住宅街の中の小公園に来ていた。
 入口に、電話ボックスがある。
 ボックスに飛び込む。
 部厚い電話帳の上に、尻餅をつくように座る。
 やっと、寒風が防げた。
 ホッと、息をつくと、空腹が襲う。
 ジャケットのポケットに、タバコ店の女主人がくれたパンが入っていることに、気付く。
 棒アメを、眠っている子に握らせ、パン一つを胸元に置いてきた。
 食べることが出来なくても、棒アメは、乳児でも口に持っていくことが出来よう。パンは、赤ん坊を見付けてくれた人が、一時しのぎに食べさせて欲しい。
 朝から、水しか飲ませていないのだ。
 勝手な願いをこめて、二つくれた、一つを置いてきた。
 手に持ったパンに、むしゃぶりつく。
 何日振りに、固形物を口にしたことか?
 パンは、あっという間に腹に入った。
 飲み物が欲しい!
 電話ボックスから、少し離れて自販機が並んでいる。
 飲みたくても無一文だ。
 こんなみじめな思いをするのも、みんな、ギャンブルに狂った結果だ。
 一緒に暮らしていた伯母が、心臓の発作で、あっけなく息を引き取った。
 唯一の肉親だった。
 一人になった。
 勉強する気がなくなり。高校を中退する。
 担任の教師が止めたが、決心は固かった。
 教師は、隣県の知人の経営する機械メーカーに、就職を世話してくれる。
 伯母と仲が良く、何かと助け合っていた一人暮らしの隣のおばちゃんが、別れを惜しむ。
「おばちゃんが転んで怪我をした時、伯母さんやボクが優しく看病してくれたことを、忘れんよ、有難うね。時々、おばちゃんのことを思い出してな。おばちゃんも僕のこと、忘れないよ」
 涙を流して名残りを惜しんでくれた。おばちゃんの言葉が、せめての慰めだった。
 小さい頃から、手先が器用で、機械いじりが好きだった。
 高校の先生の紹介で、入社した会社で経験を積み、技術の腕を上げる。
 会社に重宝がられ、仕事が面白く精が出る。
 同じ会社の事務所で働く、施設育ちの事務員と結婚する。
 互いに、独りぽっちりの身の上が、寄り添い、孤独な境遇を忘れさせた。
 唯、なかなか、子宝に恵まれなかったが、十数年振りに男の子を授かる。
 しかし、幸せな日々は、つづかなかった。
 思い出すと、胸をかきむしられる程、苦しくなる。 
 妻が、娘時代からの持病のぜんそくで倒れ、頭の打ちどころが悪かったのか、意識が戻らないまま、帰らぬ人となった。
 赤ん坊は、まだ、生後五ヶ月だった。
 妻の急死で、奈落の底に突き落とされたように、呆然とした日がつづく…
 仕事が、手に付かない。
 会社も休みがちになる。
 赤ん坊の世話を人に頼み、パチンコ店に入り浸りになる。
 通りかかったパチンコ店に足を入れたことが躓きのもとだった。
 ジャラ、ジャラ、ジャラと、落ちるパチンコ玉の音にひかれ、毎日のように店に通う。
 初めての一回目に出た、多量の玉は、以後、ほとんど出なくなる。
 負けの毎日だった。
 それでも、ジャラ、ジャラの音のするパチンコ台の前だけが、妻を失った悲しみを癒してくれる気がした。
 ローンが残っている妻と暮らした思い出の家も差押えられ、アパートの小さな部屋に移る。
 妻が貯めていた金も使い果たした。
 子守り賃も払えなくなる。
 部屋代も滞り、遂にアパートを追い出される。
 僅か、半年たらずの成りゆきだ。
 初めは、会社も同情して、励まし、説得してくれた。
 仕事もせず、ろくに出社もしない有様に、愛想を付かされ、会社を解雇される。
 やけになった心境は、恥を忘れた。
 町はずれの崩れた空き家の傾いた物置小屋を見付け、僅かに身の回りの物と、生活用品を持ち込み、暮らし始める。
 年の暮れがせまっているのに、乳飲み子を抱えてどうしたらいいのか、途方にくれる。
 パチンコ仲間に金を借りに行って、断わられて小屋に戻ったところ,母屋の空き家同様、物置小屋は崩れ落ちていた。
 瓦礫の中から、哺乳ビンさえ取り出すことの出来ない有様だった。
「坊や、父ちゃんとお母ちゃんがいるところへゆこう!」
 死に神が宿った瞬間だった。
 赤ん坊が、生まれて初めてトウタンと呼んだ小さな声に、ハッと、息を吹き返したように、正気に戻る。
 死に神が、離れたのだ!
 うたたねをしていたのか、ガタガタと身体か震えている。
 ガタン!と大きな物音がした。
 公園の前の道の向い側の、家の前に人が倒れている。
 歩行器に縋って、立ち上がろうとしている女年寄りの姿が目に写る。
 思わずボックスを飛び出す。
「転んだのですか!」
 声をかけ、両手を差し出して起き上がらす。
 歩行器の傍に、ゴミの入った袋が転がっている。
「ありがとう。助かったよ。ゴミ袋を出そうと思ってね。足がもろいものだから、ちょっとした弾みでも、すぐ躓くのよ。本当に有難うね」
 と、嬉しそうに礼をいう、相手の顔を見て、
「あッ!おばちゃんだ!」
 大きな声が出た。
 相手も驚く。
「おお!隣の伯母さんところの、牛乳配達をしていた、ボクじゃないか?」
 といって、いきなり縋りつく…
「おばちゃん、元気でいたのだね」
「ボクに逢うとは、夢にも思わなかったよ」
 同じ年頃の伯母と姉妹のように、仲良しだった隣県で、隣の家で一人暮らしをしていたおばちゃんが、腰が曲り、一回り小さくなって歩行器に縋っている。

 タバコ店の女主人は、店を早仕舞いした。
 防寒着を身にまとい、裏口から外に出た。
 向いの神社に、朝夕、お参りするのが日課になっている。
 先程の見すぼらしい父子のことが、気になっている。
 特に、父親の胸に抱かれた赤ん坊が忘れられない。
 今日一日、無事に過ごさせて頂いた感謝を、神社にお礼参りに行く。
 道路を渡ったところでかすかに、赤ん坊の泣く声がした。
 急いで、声のする鳥居の前に行く。
 ダンボールの上に、自分がやったえんじ色の肩掛けに包まれた赤ん坊がいた。
 棒アメは指から落ち、胸元のパンは、身体を動かしたのか、地面に転がっている。女主人は、急いで、赤ん坊を抱き上げた。
 ピタリと、赤ん坊は泣き声をやめた。
「トウタン!}
 回らぬ口で、か細い声が父親を呼ぶ…
 女主人は素早く、あたりを見回すと、赤ん坊を抱いたまま、一目散に我が家に駆け込んだ。
 その時、運命は、捨てられた子に微笑むー

「おばちゃんは、どうして、この町に住んでいるの?」
 隣県に住んでいたのに、不思議だ。
「それがね、息子が会社を定年になったので、同郷の嫁の実家が、跡継ぎが無くて、長年、空き家になっていたのを修理して、東京から帰って来たので、同居することにしたのよ」
 時々おばちゃんは、声を詰まらせていう。
「あんたの伯母さんが亡くなって、ボクも学校をやめて、隣りの町の会社に行ってしまって、おばちゃんは本当に淋しかった!」
 一人息子が、一緒に住もうといってくれたが、馴染みのない東京なんかに行きたくない。町内の人達が親切にしてくれるので、一人暮らしをつづけていたという。
 息子が老いた母親のことを心配して、転居したのを機会に、引き取られた。
 息子夫婦に、子供がいないので、今は、二人で気楽に旅行を楽しんでいて、今度も、海外ツアーに夫婦で行っている。
 誘われたけれど、足腰が弱っているし、知らない外国など行きたくないので、留守番をしている。
 ゴミ出しを嫁に頼まれていたので、収集日の明日の朝、忘れたら大変なので、歩行器を押しながら、すぐ横のゴミ置き場迄、持って行くつもりだった。
「夜遅く、外に出るのに危ないよ。気よ付けなくてはね」
「それが、年寄りは、なかなか眠れないのでね、つい、ゴミのことが気になったのよハハ…」
「ところで、ボクは、なんで今頃、こんなところに居たの?」
 牛乳配達をしていた頃は、少年ながら、がっちりしていた体格が、見るから痩せ細って見すぼらしい、うす汚れたジャケット姿だ。
「おばちゃんに、ボクなんて呼ばれると照れるな。自分はもう、三十五歳だよハハ…」
 苦笑する。
 ふと、亡き伯母と仲良しだったおばちゃんに、すべてを打ち明けて、助けて貰おうと思いたつ…
 その時、運命は、悔悟して立ち直ろうとする父親に、救いの手を差しのべるー

 早朝のバスで、大阪に行く。 
 事情を知ったおばちゃんは、共に泣いてくれた。 
 風呂に入れ、食事をさせ、泊まらせる。
 翌朝、早く発ちたいというので、息子の下着や、あまり着ていないスーツに、寒かろうとダウンコートを羽織らせる。
「おばちゃんは、年金のほとんどを息子に渡しているのでね、余りお金は持っていないけれど、いる物は息子夫婦が買ってくれるので、小遣いは、ほとんど使うことがないのよ。だから、ボクに皆上げる」
「おばちゃんが転んで怪我をした時、亡くなった伯母さんとボクが、面倒をみてくれたことを忘れないよ。ボクが余った牛乳を販売所から貰って来て、おばちゃんに何時も飲ませてくれてさ、伯母さんと二人で笑いながら飲んだことを思い出すわ」
 別れの時、縋るように抱きしめてくれたおばちゃんの言葉が、胸に沁みた。
 赤ん坊のことは伏せた。
 九十歳近いおばちゃんに、捨てた我が子のことを打ち明けるのは惨酷すぎる。
「おばちゃんの恩は、決して忘れないからね。きっと、戻ってくる」

 一先、簡易旅館に落ち着く。
 早速、工場の集まる地区に出掛ける。
 住民票も身元保証人もない身だ。
 求人広告で見当をつけて、面接に行く。
 保証人の事で駄目になる。
 根気よく、広告を頼りに歩く。
 場末の小さな機械部品メーカーの事務所の、窓ガラスに
 《急募、経験者優遇》
 の、紙が張ってある。
 覗くと、事務所に誰もいない。
 すぐ隣りの工場から、ガーガーと機械の音がする。
 工場のドアにも《急募、経験者優遇》の張り紙がある。
 ドアを開けて、中に入る。
 工場の真ん中に、作業着の胸に、社長の名札を付けた初老の男性が、一心に、機械に取り組んでいる。
 奥の方で、四、五人の従業員が、火花を散らして溶接していたり、研磨機を回転させている。
「今日は」
 と、声を掛けたが、チラリと見ただけで、部品を削るのをやめない。
 うまくいかないのか、失敗した部品のリングを、傍の箱に投げ入れる。
「一寸、やらせて下さい」
 思わず、相手を強く横に押しやり、機械に向かう。
 精密部品には馴れている。
 手は、何時の間にか、001ミリの緻密な作業に没頭する。
 単純そうに見えても、加減が難しい作業に我を忘れた。
「たいした腕だ!ぜひ、うちで働いてくれ。待遇は任せて欲しい。悪いようにはせんからな」
 同業者に、熟練工を引き抜かれ、困っていた社長は、顔一面に喜びを表わして、肩をたたく。
 会社の近くのアパートの一室を借りてくれ、毎日、工場に通う。
 残業は進んでした。
 無駄金は一切使わず、食べ物さえ倹約する。
 朝食抜きで、会社の賄いの昼食と夕食を済ませる。
 朝食抜きを知った賄い係が、社長に告げる。
「朝めしも用意してやれ」
 社長の好意で、三食の心配はなくなる。
 衣類も、会社から支給される作業着で過ごす。見兼ねた同僚が古着類をくれると、喜んで普段着にした。
 休日も、厭な顔をせず進んでする。社長も従業員達も、そんな彼を、何か事情があるのだろうと、あまり気にしない。
 なにしろ、仕事の腕が別格の上、頭が低いから、誰からも憎まれない。
 必死に働く。
 給料は、半分は定期貯金にして、残りは財産株を購入して、銀行の貸金庫に預けた。
 三十年の歳月が流れるー
 年齢を感じるようになる。
 身体の調子が思わしくない。
 以前程、気力がなくなっている。
 坊やは、どうしているだろう?
 無事に成人していると信じて、無我夢中で働いた。
 体力の限界を知る。
 元気なうちに、坊やを捜したい。
 人の情けで育てられたろうか?
 それとも、施設で大きくなっただろうか?
 逢いたい!
 世話になった人達にも、礼を尽くしたい。坊やに、有り金全部を渡して、父親の非情を許して欲しい! 
 逢いたい!
 彼の頭に、
「トウタン…」
 と、回らない口で、初めて自分を呼んだ赤ん坊のままの我が子の顔が浮かぶ…
「トウタンは、必ず、坊やを見つける!}
 思いたつと、じっとしていられなくなる。郷里の中学時代の同級生を思い出すー
 確か、東京で弁護士をしているはずだ。
 図書館で、弁護士会の名簿で、同級生の法律事務所の住所を見付ける。
 熱がある。
 熱さましを飲んでも下がらない。
 咳が出る。
 身体は、もう、無理がきかない。
 病気で倒れる前に、我が子を見付けたい!
 気を張りつめて、やっと、弁護士法律事務所に辿り着く。
 常着のままでは、軽蔑して、相手になってくれないだろうと、危惧して、初めて買った服装で、身なりを調えた。
 だが、弁護士は、昔を懐かしがり、親身になって話を聞いた。
 これで、思い残すことはない。
 吉報を願うのみだ。
 涙が両頬に流れる…
「坊や!トウタンはきっと、お前を捜し出す。許してくれ!」

 翌日、弁護士は早速、行動を開始する。
 中学時代の同級生から、依頼された調査で、本籍地のある四国の玄関口の市に飛ぶ。
 空港からタクシーで、市役所に向かう。
 市民課の受付で、名刺を出して、戸籍課の課長に面会を求める。
 四十歳前後の長身の課長が、席を立って来た。
 課長は、東京からわざわざ来た弁護士を別室に案内する。
 同級生の子供の名前を口に出した途端、課長は、ビックリして大声を上げた。
「林野雄一君は、私一家と親類同様の付き合いです」
 弁護士は、余りの奇遇に驚く。
 それでは話が早いと、詳しく事情をいう。
 課長は、深く頷きながら、当時の様子を語った。
「叔母は、一人息子を小さい時、赤痢で亡くしましてね。それ以後、子供に恵まれなかったのです。叔父に早く先立たれてから、一人でタバコ店を細々と続けていました」
 雪が降った夜だったという。
 小銭を持って棒アメを買いに来た、見すぼらしい父子が気になったが、店を早仕舞いにして、朝夕、店の前の神社にお参りするのが日課だった叔母は、その晩も、一日、無事に過ごさせて頂いたお礼参りに、神社に向かった。
 鳥居の傍で段ボールの上に、見覚えのある毛糸の肩掛けに包まれた、赤ん坊に気付く。
 赤ん坊は、とぎれ、とぎれに、か細い泣き声を上げている。
 咄嗟に、前後も考えずに、赤ん坊を抱き上げると、家に飛んで帰ったという。
 叔母は、三歳で急死した我が子が生まれ代わった気がした。
 赤ん坊のお尻に、青あざが広がっているのを見付けて、亡くなった息子の背中に、てのひら程の青あざがあったといって、
「我が子の生まれ代わりだ」
 と信じて、育てる決心をした。
「私の父は…叔母は、父の妹ですが…赤ん坊のことを相談すると、父は、首にぶら下げてあったお守り袋の中に、名前と生年月日と、父親の名前や本籍地を書いた紙片が入っていたので、赤ん坊の身元は分かったのですが、一人暮らしをしいる、叔母の境遇を考えて、捨て子であることを隠すことにしました」
「両親を亡くした親類の子供を、これから我が子同様に育てるのでー」
 と、近所や知人に、披露した。
 叔母は、甥の課長から、雄一の父親のことを聞かされると、夢ではないかと思った。
 雪の夜、五円玉一枚と、一円玉二枚を持って、棒アメを買いにきた、三十歳半ばのやつれた父親の姿を、ハッキリ、思い出す。両腕に抱かれた赤ん坊の顔が、傍にいる雄一に重なる。
「主人に亡くなられて、淋しく暮らしていた時でしたのでね。赤ん坊を見付けた時、我が子があの世から戻った気がしたのです」
 兄に相談すると、力になってくれた。
 赤ん坊は、手塩にかけた甲斐があって、すくすく育った。
 おとなしい、あまり手のかからない子供だったが、歩きはじめた頃、突然、泣き出した。
 何を思うのか、
「トウタン!トウタン!」
 と、いって泣く。どんなにあやしても泣き叫ぶ!
 丁度、課長の父親が来たので、一緒になだめすかしたりするが、赤ん坊は、大声を上げて泣きつづける。
 ところが、一時間余り、声が嗄れるかと思う程、泣いたと思った時、ピタリと泣き止む。
「それからですよ。一度も泣き顔を見せずに、大きくなりました」
「思う存分、泣いて泣いて泣き止んだ時、幼いこころにも何か覚悟したのでしょうね」
「機械いじりが好きで、いくら大学に行くようにすすめても、高校を卒業すると、すぐ、自動車会社に就職したんです」
 会社でしっかり技術を身につけると、五年前独立して、タバコ店をやめた跡地に、自動車の修理工場を建てた。小は、自転車からオートバイ、大は軽は勿論、乗用車から大型トラックなどの修理専門の経営が当たり、今は、十数名の従業員が働く会社の社長だという。
 その日の夕方、弁護士は、宿泊先のホテルに設けた部屋に、甥の課長と、息子夫婦に連れられた、元タバコ店の女主人を招いて、夕食を共にした。
 母親は、八十歳を越していたが、足腰がしっかりしている。
 髪を黒く染め、小柄なせいか年より若く見え、穏やかな優しい人柄が滲み出ている。
 弁護士は、雄一を一目見た時、初対面でない気がした。
 人懐こい目を細めた表情が、父親にそっくりだ。
 背丈は、父親より高いががっしりした体格をしている。
 雄一は、従兄と思っている課長から、自分の出生を聞かされても、驚かなかった。
「自分が、母の実の子供でないことは、中学に入学した頃知りました。クラスメートと喧嘩をした時、『お前は貰い子なんだぞ!両親のいないみなし児だ!今の母親が貰って、お前を育てたんだハハ…』といって、
「高笑いされた時から、母に苦労をかけたくないと、進学を諦めて就職したんです」
 母親の方を見て微笑む。
「まあ!知っていたの?」
 母親は驚く。
「分かっていたよ」 
 息子ははにかむ。
 彼の心の中には、母親に秘密にしている言葉があった。
「トウタン!」
 父ちゃんという言葉だと思うが、ものごころがついた頃から、頭にこびりついて離れない。
 今、自分に逢いたがっている父は、このトウタンと覚えている、実の父親なのか?
 逢いたい!
 貰い子でなく、捨て子だと知らされても、恨む気持ちは起きなかった。
 どんな事情で自分を捨てたのか、理由を知るよりも、生んでくれたからこそ、今日の自分がある。
 子供はまだないが、妻を見せて、他人の母親に育てられたが、一人前になって、幸せに暮らしている姿を見せて上げたい! 
 思わず、涙が頬に落ちる。
 目ざとく、それを見た弁護士は、雄一の肩をたたく。
「雄一君、人間は過ちを犯すものだ。しかし、君の父親は、君に償うために、半生を仕事に打ち込んだのだ。お父さんは、立派に立ち直って、我が子に詫びるために、君を捜していらっしゃるんだ」
「お世話になった方達にも、感謝したいといっておられる」
「一先、東京に帰るが、お父さんに連絡して、君達夫婦とお母さんとの面会する日を決めますからね」
「先生、有難うございます。よろしくお願いします」 
「母を連れて、夫婦で、父に逢いに行きます」
 弁護士は、父親に捨てられた子が、こんなに素直に父親に遇いたがっていると思うと、贖罪のため働きつづけた父親の心労が報われたと、感慨無量になる。

 父親は、こちらからいう迄は連絡しなくてもいいといっていたが、弁護士は帰京すると、すぐ、父親の携帯にメールする。
 息子さんは見付かった。立派に成人している。逢いたいといっているので、面会の日を知らせて欲しい。
 父親からは、一週間経っても返事がなかった。
 もう一度、メールをしようかと思案しながら、別件の調査資料に目を通していると、女事務員が入って来た。
「大阪の機械メーカの社長さんとおっしゃる方から、従業員の林野さんが、先生に来て頂きたいといっているとの電話がありました」
「仕事中に倒れて、救急車で病院に運んだが、危篤状態なので、至急来て頂きたいと、慌てた様子で、こちらの返事も聞かず、電話を切りました」
 事務員から、入院先の病院の住所と、電話番号のメモを渡され、弁護士は、意外な展開に、他に気を回す余裕はなかった。
 弁護士の法律事務所には、若手の弁護士が五名所属している。
 丁度、その一人が事務所にいた。
「急用で大阪に行く。後を頼むよ」
 別件の調査の書類を渡す。
 慌ただしく、身支度をする弁護士を見て、後事を託された弁護士や事務員たちが
「先生、大丈夫ですか?」
 口を揃えて心配するのを聞き流して、男の事務員の運転する車に乗り込む。
 乗用車は、粉雪の舞う寒風の中を、ひたすら高速道路を走るー

 弁護士と、車を運転した事務員の二人は、ナースセンターで教えられた病室に足早に入る。
 ベットの傍に、目立たないフレームの眼鏡を掛けた中年の医師と、若い看護師がいた。
 もう一人、白髪の高齢の男性が立っている。
「最善を尽くしていますが、衰弱が激しいので、かなり難しい状態です」
 肺炎になっているが、詳しいことは後で、説明します、という医師の後から、
「お話は無理ですから、気を付けて下さいね」
 と、看護師がいって病室を出て行く。
「私は、林野君が働いている会社の社長です」
 社長が、小さい声で名乗った時、
「来てくれたのか…」
 ベットの上から、かすかな声がした。
「雄一君はすぐ来るからね。しっかりしてくれ!」
 一週間前に事務所に突然来た時も、顔色が悪く痩せていたが、ベットに寝ている雄一の父親は、酸素マスクをつけ、何本も点滴の管につながれている。
 顔は蒼白に、目は落ち込み頬はげっそりとこけている。
 僅かな間に、あまりにも変わった姿に、弁護士は息をのむ。
「ありがとう…」
 父親は、かすかに頷く。
「育ての母親もくるよ。君のことを覚えている、もとタバコ店の女主人だ」
 弁護士は、病人の耳元に口を寄せていう。
「…タバコ店の…」
 遠い彼方を見るように、父親は目を見張ったが、すぐ閉じた。
「立派に成人して、結婚している。嫁さんも一緒にくるからね。君の長年の苦労は報われたんだ!」
 苦し気に、息を吐きながら、頷く。
 ドヤドヤと、病棟の廊下にふさわしくない足音を立て、ドアを開け、甥の課長を先頭に、母親の手を握った雄一夫婦が入って来た。
「雄一君、おとうさんだ!}
 弁護士の言葉に、雄一はベットに駆け寄る。 
「お父さん!雄一です。分かりますか?目を開けて下さい。雄一です。お父さんの息子の雄一です!」
 泣きじゃくりながら、点滴の管につながれた父の手を握りしめる。
「す、すまない…ゆるしてくれ…」
 とぎれ、とぎれにいう父親の目から、大粒の涙が流れるー
「オクサン…アリガ…トウゴザイ…マ…ス」
「ボウや…トウタンをカンニな…」 
 酸素マスクのがはずれ、首ががくんと横に落ちる。
「お父さん!しっかりして下さい!」
 母親が、病人にしがみつく。
「トウタン!トウタン!」
 雄一は初めて、幼ごころに覚えていた父を呼んだ。
 意識が混濁したのか
「おお!いたのか…」 
 苦渋に満ちていた父親の顔に、何を見たのか、一瞬、笑みを浮かべたが、その儘、動かなくなった。
 社長が慌てて、ナースセンターにコールする。掛けつけた医師や看護師達が集中治療室に運び、救急治療が始まった。
 
 雄一の父親は、命を取りとめた。
 数日の昏睡状態から、意識が戻る。
「奇跡です。一旦、呼吸が停止したんですからね」
 額に汗をにじませた主治医が、安堵の微笑を浮かべていった。
 父親は、順調に快復に向かう。
 雄一夫婦と母親は、病院の近くのホテルに泊り、毎日、父親の病室に通った。
「もう、大丈夫です」
 と、医師にいわれて、息子夫婦は仕事の都合があるので、帰郷することになった。
 母親は、病人の様子を見守りたいといって残る。
 ふっくらした頬に、赤味がさし、点滴の管も片手に一本だけになり、トイレにも行けるようになる。
 母親は、毎日病院に来て、食事や身の回りの世話をする。
「僕は、これで帰りますが、治ったら、もう働くのをやめて、家に帰って貰いますからね。お父さんが元気になって帰ってくるのを、楽しみに待っています」
 雄一は、父親の手を握り、何度もいう。
 自分には、生みの親がいたのだ、血を分けた親がいたというだけで、捨てられたことなど頭になかった。
 生んでくれたからこそ、人として幸せを求め、努力が出来る。
 生母が亡くなっていても、自分には両親がいるのだ。
 雄一は、贖罪のために、半生を働き通した父親に、唯、感謝する…
 母親は、退院迄付き添うつもりでいる。
 我が子の背中の青あざは、残っていたのに、雄一のお尻の青あざは、誕生日が過ぎた頃に消えて無くなってしまったが、青あざのあったのが何よりも証拠だと、我が子の生まれ代わりだと信じて育てた。
 棒アメを買いに来た父子が気になって、赤ん坊に肩掛けをやったのも、深い縁につながれていたのだと思う。
 朝夕、神社にお参りしていたお陰かと、母親は、過ぎ去った遠い昔を懐かしむ。
「あの時、赤ん坊を道連れに、死のうと思ったんです」
 それが、トウタンと初めて回らぬ口で、自分を呼んだ時、ハッと我に返り、死に神が離れた。
 親を信じ安心して、腕の中で、再び眠った我が子を見た時、
「折角、この世に生まれた命を、親でも奪うことは出来ない」
 亡き妻の悲しげな顔が、目に浮かぶ…
「妻に、心の中で誓いました。必ず、再起する。迎いにくる迄、坊やを見守ってくれ!」
「運命は、親子を見捨てずに、奥さんに逢わせてくれたのだと思います」
 父親は、しみじみいう。
「深いご縁があったのですね」
 といって、
「不思議に思っていることがあるのですけれど…」
 と、母親は口ごもった。
「なんですか?いって下さい」
 不審げに、父親が問う。
「あなたが、意識を失くされる直前に、『おお!いたのか』と、苦しそうな表情にかすかに笑みを浮かべられたのですけれど、覚えていらっしゃるでしょうか」
 父親は笑顔になった。
「実は、もうろうとさ迷っている自分に、花畑で花を摘んでいる雄一の母親がまだ来ては駄目よと、手を横に振ったのです」
「まあ!お亡くなりになった、奥さんが、あの世から来ては駄目よと、手で、合図をなさったのですか?」
「自分は、そう思っています。あの世から妻は、親子を見守っているんだと思います」
 父親は、感慨深そうにいう。
「私も、あの世があると信じています。雄一は、我が子の生まれ代わりだと信じています」
「奥さんには、心から感謝しています。生みの親以上に、雄一を大切に育ててくださった、ご恩は決して忘れません」
 涙ぐむ父親に
「奥さんとおっしゃるのをやめて頂きたいわ。こんな年寄りに似合いませんよ」 
 と、笑う。
「では、お母さんと呼びましょうか」
「そう呼んで下さい。その方が嬉しいですよ」
 雄一夫婦は、優しく大事にしてくれるけれど、隠居同然の暮らしはものたりない。
 雄一の父親の看病で、生甲斐が出来たと、母親は、毎日、充実した気持ちだ。
 父親は、病棟の廊下を母親に付き添われながら、点滴台を押して歩行練習をする。
 退院の日は間近だ。
 その時は、雄一夫婦が迎いにくる。
 弁護士も、父親から託された用件を片付けて、病院にくる。
 会社の老社長もくる。
 雄一宅で、皆集まり、盛大に父親の全快祝いをする予定だ。
 廊下の窓ガラス越しに、つぼみの膨らんだ桜の大きな木が見える。
 やがて咲く桜の花を思い浮かべて、二人は笑顔を交わす。 
 春はもうきている…

 弁護士は忙しかった。
 中学の同級生の依頼の件で、掛かりきりだった。
 勤め先の社長から、雄一の父親が倒れる前、腹巻の中から、小袋を出して、東京の弁護士に連絡して、来て貰って欲しい。
 袋の中に、手紙と依頼状とが入っている。すべて任せると伝えて下さいと、頼まれたという。
 給料の半分を定期に、あとの半分は資産株に投資して、かなりの金額になつている。
 銀行の貸し金庫の鍵が入っていた。
 名義を雄一に切り替え、自由に使えるようにする。
 育ての母親は勿論、もう亡くなっている伯父の息子の戸籍課長にも、充分な礼金を用意する。
 残念なのは、隣市に住んでいた時、雄一の伯母と肉親のように仲の良かった、隣りの家のおばちゃんは、既に亡くなって居り,子のない息子夫婦も亡くなっている。
 旧住所の市に、おばちゃん一家の墓が、市の公園墓地に雄一の父親の伯母の墓近くにあった。
 住んでいた町内会の会長は、おばちゃんは亡くなる迄、伯母さんの墓にお参りしていたといった。
 息子夫婦も、母親が亡くなった後も、遺言通り、伯母の墓にお参りしていたという。
 だが、息子が先に亡くなり、三年前、その妻も逝った。
 無縁墓になる寸前だったと、市の係員がいう。
 滞っていた伯母やおばちゃん一家の墓の管理費を支払う。
 長年住んでいた町内の集会所で住人達に集まって貰い、伯母やおばちゃん一家の供養をすることを了解して貰う。
 寺に預け放しになっていた雄一の生母の遺骨も一緒に、寺の住職に永代経を頼み、町内会で法要する手配をする。
 父親が高校を退学した時、前途を心配して、知人の機械メーカに就職を世話してくれた担任の教師は健在で、老妻と共に、全快祝いに喜んで、出席するといった。
 手紙に書いてあった指図通り、用件はすべて終了した。
 弁護士は、久し振りに家業を継いでいる酒造会社社長の弟一家に挨拶に行く。
 弟夫婦と両親の墓参りをする。
 仕事を抱えての帰郷だ。
 ゆっくり出来ないが、初老の弟の嬉しそうな顔を見ると、肉親のいる幸せを思う。
 メールを大阪の病院に、快復に向かっている中学の同級生に送る。
 すべて順調に運んだ。
 詳細は、君が全快して、青い静かな瀬戸の海の橋を渡って、懐かしい故郷に帰った時にする。
 喜びを共にしたい…
 弁護士は、一路、東京に帰る。

  終章

 開け放した窓から、五月のさわやかな風が入ってくる。
 穏やかな午後の日差しは心地よい。
 弁護士は、熱い茶を飲む。
 四季を通じて、熱い茶を好む。
 慌ただしい毎日だった。
 中学時代の同級生が訪れた時から、僅か四ヶ月たらずの間に、自分に、心境の変化のあったことを知る。
 子捨てという悲惨な事件を通じて思う。
 現に、法律事務所の後輩の弁護士が、虐待の末、幼児を殺した若い母親の刑事事件を扱っている。
 幼児ばかりでない。生まれたばかりの赤ん坊の夜鳴がうるさくて眠れないといって、口をふさぐ若い母親や、無職の父親がイライラするといって、泣く幼な子の小さな頭を、何回も殴り、身体を激しくゆさぶり、死なせてしまう。ろくに食事も与えず、幼児を部屋に閉じ込めたまま、遊びに出掛けて、衰弱させた未熟な両親などのことが、頻繁に新聞やテレビで報道されている。
 すべて、自己本位の勝手から、幼い命を、親の手でこの世から葬ってしまう。
 戦後の世相が、あまりにも物質的な豊かさを求めた結果だ。
 自分さえよければいいと、他をかえり見る余裕のない気持ちが、子殺しや子捨てにつながる。
 しかし、と、弁護士は思う。
 林野雄一の例がある。
 林野雄一の父親は、捨てた我が子への贖罪のため、半生を死に物狂いで働いた。
 捨てられた子は、我が子の身代わりだと思って、大切に育ててくれた、育ての母親によって、立派な社会人として成長する。
 子は生んでくれただけでも幸せだ。
 生きていればこそ、今日の自分があると、捨てた父を恨むどころか、生みの親を慕う。
 雄一の父親が、旧住所の隣家のおばちゃんに救われたのも、人との縁があり、町内会で、妻や伯母の法要を営めたのも、地域の縁ががあったからだ。
 機械メーカーの下請け会社に、就職出来たのも、身に付けた技術があったからだ。
 子は、機械いじりが好きだという。
 父親は、手先が器用で、機械に強かった。
 血は争えないものだ。
 病院の満開の桜に見送られて、故郷に帰った父親は、すべての報恩の行事を終える。
 弁護士と、手を取り合って、ハッピーエンドを喜ぶー
 父親が、弁護士の事務所を訪ねて来たのも、故郷に、少年の頃の思い出があったからだ。
 人との縁、地域の縁に生かされている。
 一人ではないのだ。
 林野雄一の話は特別ではない。
 幼い生命を救われるのは、周囲の理解と優しさだ。
 弁護士は、茶を啜りながら、机の上の林野雄一からの手紙を取り上げる。
 いろいろと、大変な世話になりました。
 お陰さまで、自分達一家は、毎日、
 ハッピーに暮らしています。
 どうぞ、ご安心下さい。
 先生のご恩は決して忘れません。
  有難うございます。
 父は、すっかり元気になり、うちの修理  
 工場で働きたいといって、ききません。
 もう少し、身体の様子をみて、大丈夫の
 ようでしたら、父の好きなようにして貰います。
  母は、退屈して所在なげに暮らしてい
 ましたが、父が働き出したら、会社に食
 堂があるのに、毎日、弁当を作るといっ
 て、楽しみにしています。
  父は、八十歳を過ぎた母の事を心配し
 て、身体が弱ったら、恩返しに世話をさ
 せて貰うといっています。
  二人の楽しげな会話を聞いていると、
 本当に、いい茶飲み友達だと、妻と喜ん
 でいます。
  申し遅れましたが、先生の発想の「親
 と子を守る会」は大賛成です。
  大阪で、父が働いていた会社の社長さ
 んも、会社の経営が安定しているので、
 息子に代を譲り、余生を先生の「会」のお
 手伝いをしたいと、先日、メールがありま
 した。
  父も、実例の本人として、尽力させて頂
 きたいと申しています。
  自分も、ぜひ、協力させて下さい。
 弁護士は繰り返し読むと、会心の笑みを浮かべる。
 雄一の父親と同じ六十半ばだ。
 これからは、社会の一隅を照らす仕事をしたい。
 事務所を若い弁護士達に任かせ、同志を募り、捨て子や不幸な死をなくす運動に半生を尽くしたい。
 仮の名称の「親と子を守る会」の設立資金はある。
 父親が、初めて法律事務所に来た時、報酬だといって、部厚い紙包みを置いていった。
 紙包みの中から、調査費を経理に納め、多額な残金は、所長室の金庫に入れてある。
 林野雄一はいった。
 生んでくれたことを感謝している。
 捨てられても、生きていたからこそ、今日の自分がある。
 父親はいう。
 トウタンと赤ん坊が初めて、回らぬ口で、自分を呼んだ時、親でも、子の命を奪う権利はないのだ。
 命がけで働いたのも、金を貯め、子に償いたかったからだ。
 我が身の愚かな行状から、無一文になり、父子心中を考えたのも、金故だ。
 せめて、子を捨てた詫びに、まとまった金を作りたかった。
 身勝手な親に代わって、育ててくれた世間にも、僅かでも礼を返したかった。
 弁護士は思う。
 子を虐待する親も、自分も親から虐待された者が多いという。
 貧しさ故、学校にも通わず、自分の力だけで生きなければならない、不遇な境遇に、回りが気を配り、精神的にも経済的にも助け合いの気持ちで、暖かい手を差しのべれば、子捨てや、残酷な死に、幼い子等を追いやることはない。
 未熟な母親が望まぬ出産をした赤ん坊や、貧困故、育てられない親に代わり、一時的に育てる施設を作り預かれば、小さい命は助けられる!
 林野雄一のように、身元を明らかにしたものを身に付けてあれば、匿名で預けても、後日、親子は再会出来る。
 子にも、自分の出目を知る権利がある。
 弁護士は、若者のように、全身に熱い血をたぎらせる。
 やるぞ!
 親代わりの施設を全国に作るのだ。
 同志と力を合わせれば出来ないことはない。
 痛ましくも、この世から消された小さき命よ
 決してその死を無駄にはせぬ。
 この運動が、人々に警鐘となることを信じる。
 安らかに眠れ!
哀しくも愛しき小さな魂たちよ!


 読んで下さって
有難うございます
 何故、作中の人物に名前を付けることが少ないのか、それは、私でありあなただから…
 何故、場所を明記することが少ないのか、それは、私の住んでいるところであり、あなたの住むところだからです。
  善を信じます 
  善の中に悪を知る
  善の中に善は残る
 生きる目的は愛だと思います。
 愛のために、苦しみ嘆き悲しむ。
 愛によって、勇気が湧き力が出て強く生きられる。
 物語の主人公達に、何時も励まされ、そして、慰められるのです。

 独りを好みますが、書くことで、
    社会につながる喜びを感じます。
      読んで下さって
         本当に
          有難うございます。

 読んで下さいまして、
  誠に有難うございます。
 お陰様で、九十三回目の
(1921年大正10年10月30日生)
 誕生日を迎えることが出来ました。
 不自由になった身体を、子供達に
 支えられて、生かされている事を
 神仏のご加護故と、深く感謝致して
居ります。
 読むご縁を下さいました方々の限り
ないご多幸とご健康をこころより
 お祈り申し上げます。
                合掌 
 


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