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作品名:奇跡 − 突然、寝たきりになった時、周囲の反応は − 作者:異邦人

第1回 九十二歳のスピットが書く移ろふ愛の形
 奇跡のクリスマス
ー突然、寝たきりになった時、周囲の反応はー

                          亀野利子

 はじめに私は、日本に生まれたことを、幸せに思い感謝したい。
 私は六十歳を過ぎた頃から、腰に違和感を覚え、腰痛が持病となったが、突然、両肩と両腕に激痛がおそい、身じろぎも出来なくなった。
 息子に背負われ、自宅近くの病院に入院した時、後期高齢者の医療費の適用を受けた。そのため私は安心して、長期の入院生活が続けられたので、本当に有難く思ったのだった。
 入院直後から、おむつをさせられた私のために、息子夫婦が、親類の夫婦と楽しみにしていた海外旅行をとりやめ、そのお金で私を個室に入れてくれた。私は、九十歳を過ぎても介護保険を使ったことがなく、長期の入院生活の経験がなかった。
 若い頃、子宮外妊娠の誤診で一ヶ月余り入院したことがあったが、その時は、院長一家や、看護師達の家族的な治療を受けたせいか、病院にはいやな思い出はなかった。
不思議なことに私は、三年か五年毎に、必ず、腰の痛みが強くなった。息が苦しいなどといって、病院に息子に連れられて行ったが、その度に、折角来たのだからと、どの病院も、血圧やら、尿、血液や採られ、レントゲン撮影からCTまで撮って、全身の健康診断をされるのだが、その度に、どこも悪くなく、珍しいと太鼓判を押され、薬一服出されず、帰宅していた。両膝が痛む時でも、市販の貼り薬をはって置けば、自然に治った。腰や両足のリハビリも必要なかったのだ。
 だが、今度は違っていた。あらゆる角度からレントゲンを撮りCTを撮り、全身をくまなく検査しても、身体は健康なのである。両膝のレントゲン写真を診て、主治医の院長は「この程度は、年を取れば、誰でもなるし、おかしいなあ、歩けないはずがないのに」と首を傾げたが、実際私は立つことも、歩くことも出来なかった。
 三十七度代の熱は続き、両肩、両腕の痛みは疼痛をともなって、連日、私はベットから起き上がれず、水さえ、吸い口から人手に飲ませて貰う有様だった。
 炎症の反応があるのに、その炎症が身体のどこにあるのか判明せず、リウマチだろうかと疑い、その薬を飲まされ、それの効果がないと分かれば、次の病状を疑い、次、次といろいろな投薬をされ、最後にこれは去年保険がきくようになった、十四万円もする薬だが、これはきっと効果があると、院長が自信をもって、1週間毎に間を置いて飲むという、高価な薬も、私には、顔から背中、両手、両足迄、発疹の副作用が出たのだ。
 さすがに、院長は専門に診て貰おうといって、日本赤十字病院の皮膚科と連絡をとった。傍で聞いていた娘と息子は「皮膚科は駄目です。発疹は薬害で、あんなに母は、両肩や両腕ばかりでなく、今は、全身に激痛が広がり、寝たきりになっているのに、痛みの原因を日赤病院で調べて貰って下さい」と、強く主張した。
 院長は、日赤病院といろいろと相談していたが「これから日赤に行きなさい。救急車を呼ぶから、先方がすぐ受け付けてくれるようにしてあるからね」「発疹が治ったら又、戻っておいで」という言葉に送られて、私は、意味がわからぬまま、車椅子から救急車に乗せられた。
 その時、この病院に来た時、主治医と共に、私の担当になった男子の看護師が、何も知らぬまま、書類を抱えて通りかかった。私が日赤病院に搬送されるのを知って、慌てて救急車の傍まで駆け寄り、見送ってくれた。優しかったこの 男子看護師には、礼をいっただろうか、ハッキリした記憶はないが、あとで傍にいた人に聞くと、看護師は涙ぐんで救急車が走り去る迄、見送っていたといった。
 日赤病院では、待機していた三人の医師が、つぎつぎと「皮膚科です」「整形外科です」と名乗った。三人目の「主治医です」と名乗った三十歳半ばの医師の笑顔と、目が合った時、私は何故か、運命的な出会いを感じたのだった。
 私が最初に入院した病院は、民間だが、かなり大きな総合病院で、養護施設を、いくつも持ち、特に、高齢者の医療に力を入れていたので、息子が、何かと便利だろうと、選んだのだった。
 しかし入院したとたん、私は人間としての尊厳を失っていることを知った。生まれたばかりの赤ん坊同然の扱いを受け、一切、医療方針に縋って、自分の意思は、通らぬことを知った。
 最初にそれが分かったのは、個室だから、ノック位はしたと思うが、いきなり、パッと布団をはねのけられて、パジャマのズボンを下ろされた時、私は何が起きたのかと、咄嗟に分からず「何をするの!」と思わず叫んだ。
 消灯しているので、廊下からもれてくる薄暗い中に、ベッドの傍に立つ看護師は「おむつの交換よ」と、ニコリともせず、手早くおむつを取り替えると、そそくさとズボンをはかせ、掛布団をかぶせると、無言のまま行ってしまった。
 私はおむつを替えて貰う度に、身じろぎも出来ないとはいえ、なんともいえない情けない気持ちになり、おむつを早くはずしたいと切実に思った。痛み止めの薬が効いているうちは、身体が少し、動かせるので、看護師にそのことを話した。看護師は、室内トイレの使えない私のために、簡易トイレを持って来て、ベッドの傍に置いてくれたので、看護師の手助けを借りながら、自分で用をたすことが出来るようになり、好きなお茶も自由に飲めるようになって、随分気持ちが楽になった。
 後の日赤病院もそうだったが、この病院も、看護師は簡易トイレを頼んだ看護師と、持って来た看護師も違うし、リハビリに連れて行った看護師と、迎えに来た看護師も別々だった。検温や血圧を計る看護師だけは、一日専任で、朝九時から夕方五時迄何回も来た。お茶を持ってくる人、食事を運ぶ人、食器を下げる人も、勿論、皆、別々の人達で、私はなかなか、看護師達の顔も首にぶら下げている名札の名前を覚えられなかった。
 看護師とは、互いにプライバシーは語らず、医療以外の会話はほとんどなかったが、それでも、入院が長くなると、親しみを持ってくれて、自分のことを話してくれる看護師や理学療養士達がいた。
 だんだん、病棟の様子が分かってくると、私のような高齢者の医療に考えさせられるようになった。
 リハビリに車椅子で移動する時など、かいま見る、ベットに横たわっている患者達が目に入った。どこに行くのも看護師が付き添い、車椅子を押しているので、ゆっくり出来ないけれど、何かの用事で傍を離れた時など、ベットから起き上がって話しかけてくれる患者や、持っている手をつけていない飲み物などをくれる患者がいた。ほとんど大部屋で、六人、五人、四人、三人、二人とカーテンを閉めると、窓がないので、昼間でも暗く、患者は皆、年老いた人達だった。
 私の部屋は四階にあり、窓も広くとってあるので、明るく、洗面所もトイレも簡単だが、応接セットも備えてあった。部屋を好きなように使えたので、他人に見せたくない自分の姿を隠せたので、有難かった。
 リハビリに行き、目にした光景も私には驚くことが多かった。杖を振り上げ若い理学療養士を威嚇する高齢者や、家族の心尽くしか、綺麗な花模様のパジャマを着せられて、さぞ若い時は美しかったろうと思う八十歳位の老女が、両手を合わせて、何かを頼んでいたりするのを見ると、老いるということは、理性を失うということかと、悲しくなった。
 痛みが和らいでいる時は、入浴をさせて貰うが、その時も、私は衝撃を受けたのだった。私のように車椅子に乗せられてくる人達や、杖をついてくる人達を、二、三人位の介護士が、手早くパジャマやおむつを脱がせ、浴場に手を引いて連れて行く。浴場には、やはり、三人程の男女の看護師がいて、洗い場の椅子に腰掛けさせて、頭にシャンプを振りかけ、ザァとシャワーで流す。身体も石鹸をなすったタオルでチョチョとこすると、シャワーを通り一遍でかけ、湯船に入れる人は、手すりの傍に連れて行き、入れない人は、バスタオルを持った脱衣所の介護士に渡し、充分に身体を拭きもせずに、濡れたままのお尻におむつをはかせ、着替えのパジャマに着せ替えさせるのだが、頭にドライヤーをかけても、まだ、髪が乾いていないのに次の順番に移るのだった。
 つぎつぎと車椅子や杖の列が続くのを、五、六人で世話をしているのだ。入浴を済ませた人達は、迎えの看護師等に付き添われて、病室に戻って行く。
 何よりも私は脱衣所や浴場が寒いのに困った。看護師達は、防水着をまとい長靴を履き、動き回れば、汗が出る程暑いのだ。私の場合も初めは同じだったが出来るだけ、自分でしようとするのを見て、手伝ってくれるようになり、湯船の中にも、ゆっくり入らして貰えるようになった。
 医療スタッフには、いろいろな人がいた。割合、男子看護師は親切で、仕事も丁寧だった。女子の看護師は、経験豊かな古参の看護師は、気配りもあり、仕事に忠実だったし、学校を出たばかりの若い看護師も熱心に勤務していたが、なかには、融通自在に、手を抜いて適当に済ませるスタッフもいた。だが、打ち解けてみれば、それぞれの性格ゆえにするのだと思った。
 どちらの病院も退院する時は、心に残る人達がいたが、仕事の割合に報われることは少ないと聞く。労働にふさわしい報酬と、人数を適宜に増したら、働く者も、看護を受ける者も和やかな交流が出来るのではないだろうか。
 私の病状は一向に快くならなかった。痛みは全身に広がり、食欲も失ってしまった。まもなく、私は日本赤十字病院に転院させられたのだが、さすがに日赤病院の医療スタッフは、規則正しくてきぱきと、治療を行い、必ず一回毎、係りは替わるが、患者に看護師は付き添い、患者を一人にすることはなかった。
 日赤病院の主治医は、鎮痛剤を使用せず、先の病院で飲まされた数々の薬を、一つ一つ剥がした。初めから徹底的に痛みの原因を調べたのだった。
 各科の医師に、精密検査を依頼して、データーを集めた。しかし、私の身体には異常が見付からず、どこにも悪いところがなかったのだ。
 私は、日赤病院に移ってから、あの激痛は、嘘のように消えていた。結局、精神的なことが大きく作用しているのだろうという結論だった。唯、食欲なく、身体は痩せて、点滴でやっと栄養を取っていた。
 あの苦しい激しい痛みとの戦いは、なんだったのだろうかと。痛みから解放された今も、私は不審でならない。だが立つことも歩くことも出来なかった私を、身の回りのことが出来る迄、回復に導いて下さった先生方や、スタッフの皆さんには、心から深く感謝している。

 私が寝たきりになった時、家族の中で、一番ショックを受けたのは高校三年生の孫娘
だった。杖をついて、ヨチヨチ歩きのおばあちゃんだったけれど、自分の嫌なことは、皆引き受けて、助けてくれたおばあちゃんが或る日、突然、植物人間のようになって、入院してしまったのだ。
 来年、大学受験を控え、多感な思春期の孫娘は、今迄に、親類や知人の病気見舞いに行ったことは何度あったけれど、実際におむつをして、ベットで「痛い、痛い」と、朦朧としたなかで、泣いている身内の人間を見たのは、生まれて初めてだった。人間は、年を取るということは、最後は、こういう姿になるのかと、驚きと、おばあちゃんが可哀想という気持ちでいっぱいになっていた。
 息子は、母親が九十歳になっても、腰痛以外は、特別に病気をしたことがないので、最後は枯れ木が倒れるように、静かな終末を迎えるものと信じていた。それが、原因不明の激痛のために、身じろぎも出来なくなったのは、本当に意外なことだった。急病の母を抱えて、これからどう介護していったらいいのか、一時、途方に暮れたのだった。
 今迄、夫婦、子供、母親と四人が、バラバラの生活だった。嫁は、ずっと共稼ぎで、勤め先から帰ると、家事を手早く済ませて、二階の自分の部屋に閉じこもり、パソコンやったりテレビを一人で視ている。高校生の娘は、部活から遅く帰宅して、夕食を済ませると、二階に上がり、メールやパソコンをやっている。
 食事は皆、別々に自分の好きな物を作って、勝手に一人で食べていた。第一、食べ物が孫と嫁はパン食に、主に洋風の料理を好んだ。息子は母親に似て、和食好みで、母親の食事と一緒に自分の分も作って、母親の話し相手をしながら食べていた。
 息子は器用なたちで、パソコンで料理法を習い、いろいろな珍しい惣菜を、有り合わせの材料を使って、上手に作った。私は「外食するより、お前のおかずの方が美味しい」と、喜んでいた。息子が仕事の都合で、食事の支度が出来ない場合は、嫁が栄養のバランスを考えて、出勤前の忙しい時でも、私がすぐ箸が取れるように、食卓に並べてくれていた。私が腰痛のため、身の回りのことさえ、人の二倍も三倍もかかるためであった。
 一般的な家庭とは程遠い生活環境であったが、別に、不自由はなく、不満もなかったのである。母親が入院後は、看護師達が世話してくれるが、退院後はどうやって看病したらいいのかと、思案した息子は、居間に妻と娘を呼んで相談した。
「おばあちゃんが、無事に病院から帰って来たら、二人共、手助けしてくれるかな、勿論、俺が主に面倒見るけれどね」
「ブザーが鳴ったら、すぐ、おばあちゃんの部屋に飛んで行くよ」
真っ先に返事したのは、高校生の孫娘だった。嫁も「分かったわ」と、言葉少なく答えた。無口な嫁だったが、私の入院中は、本当によく尽くしてくれた。洗濯物なども「私がするより綺麗に洗ってくれている」と、私が喜ぶ程だった。
 私の部屋には、非常時に備えて息子が二階の各部屋や、一階の居間のすぐ隣にある私の部屋に通じるブザーを付けてくれていた。前は電話で皆の部屋に連絡が出来るようにしてあったが、万一の時を思って、私の手が受話器に届かなかったらと、心配して、手元に置けるブザーに替えてあった。

 私には、四人の子供がいる。長女はアメリカ人と結婚して、既に、五十年近くアメリカで暮らして、商社マンの一人息子一家は別居して居り、長女夫婦は小規模の農場を人に任せて、穏やかに暮らしている。次女は隣市に住んでいる。早く結婚して、すぐ離婚してしまったが、女手で、二人の息子を育てた。長男は独立して、別居して居り、新築した家で次男一家一緒に暮らしているが六十過ぎても、働いていた。隣県に住む末娘の三女は、会社員に嫁いで、男女二人の子供はまだ学生だった。
 私が入院すると、アメリカにいる長女は、連日のように電話を掛けてきて、母の安否を尋ねた。次女と三女は、泊り込みできて、毎日病院に通った。特別なことがない限り、正月やお盆位しか、訪ねて来なかった姉妹が、母親の入院で頻繁に顔を合わせるようになったのだ。
 孫娘は、今迄は友達と一緒のことが多かったが、部活の休みの時などは、病院におばあちゃんに逢いに来た。祖母の老いて衰えてゆく姿に、世間知らずの孫娘は何か感じたのだろうか。
 息子一家は、私が入院してからは、居間に下りて来て、今迄通り、互いに勝手なことをしているが、母親の病状が会話になり、嫁も積極的に話をするようになった。
 私が何よりも案じたのは、一家の経済的なことであった。息子は働いていた会社を、年金が支給される迄まだ、四、五年はあるというのに、退職してしまったのである。
「心配しなくてもいいからね。退職金もあるし、積立金もあるからね。あと、四、五年もすれば、年金も貰えるし、お母さんは、大船に乗った気持ちでしっかり、病気を治してよ」
 と、息子はいう。余り頼りになる大船だと思えなかったが、介護のために、仕事を辞めてしまった息子の孝心に私は胸を熱くした。私にも遺族年金があるので、お金のことはあまり考えないようにしようと思う。
 息子は、三十数年も勤めた会社なので、淋しくもあり、未練もあったと思う「お母さんが快くなって、又、戻りたい時は、何時でも大歓迎だよ」といってくれた社長に「その時にアルバイトでもさせて下さい」と、依頼したといった。
 私は、一人の青年医師に、主治医として出会い、今は、心の大きな支えになっている。これからも、痛みから救ってくれた主治医を頼りに、残された少ない日々を、どうしたら生きる喜びが持てるかと思索したい。

 やがて、もうすぐ、クリスマスがくる。
 まだ、暑さのあるなかを、息子に背負われて入院した私は、たどたどしながらも、自分の足で車を降り、自宅の玄関に入れたのだ。
 季節は既に、師走月を迎えていた。寝たきりを覚悟していた私に、家族は「奇跡だ!」という。私も奇跡だと思う。しかし、この痛みから解放される迄に、私の心の中には人知れぬ苦悩はあったのだが、今は、書かない。
 アメリカにいる長女から「お母さん、クリスマスイブにケーキが着くからね。日本のケーキ屋さんに、特別に大きなケーキを注文してあるからね。皆で、お母さんの退院祝いをしてね。私達が行けないのは残念だけど」と、電話があったが長女も夫も二人共心臓病を患い、長途の旅行は無理だった。
 クリスマスには、次女一家や三女一家も揃う。
 居間には、次女と三女がお金を出し合って買ってきた、等身大のクリスマスツリーが、はやばやと、夜となれば、明かりが華やかに美しく瞬く。「お母さんの子供の頃には、どこの家にもクリスマスツリーなんかなかったのよ。唯、キリスト教会には、大きなツリーが毎年、飾ってあってね。お母さんはそれを見たくて、信者でもないのにカードを貰いにいったのよ」と私がいったことに、娘二人が、退院祝いに贈ってくれたクリスマスツリーの、あの死さえ思った激痛を、決して、忘れることが出来ないけれど、いろとりどりに明るく点滅する灯は、私を慰めてくれる・・・・・

 おわりに、高齢化社会や年金のことを考えると、胸が痛くなるのだが、意志があっても、黙して何も語れぬまま、ベットで毎日を過ごしている超高齢者は、理と情の伝統の日本に生まれ、激動の昭和を生き抜き、経歴はともあれ、今日の日本を支えた人達である。いささかの尊敬と愛憐の思いを寄せて頂けたらと願う。
 病室の掃除を担当していた女性が「若い時から、ずっと働いてきたので、年金を貰えるようになったら、手足の動く内に、夫と老後の楽しみを見付けて、静かに暮らしたい」と、いったことが強く印象に残っている。、


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