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作品名:きみの翼にシロップを。 作者:砂漠のキコリ

第10回 COURSE:W 〜生まれざる者〜 -B
「あ……――――」
 イスカの喉から、声にならない声が漏れる。心臓がどくん、と大きく跳ねた。
 アトリの左の肩口が、杭に深々と抉られていた。目を覆いたくなるような量の血が迸り、真紅の雨となったその一滴が、イスカの頬にまで跳ねる。
 アトリはぐらりと体勢を崩すと、そのまま地面に倒れ込んだ。表情は見えない。
 ジェイ・ジェイは足もとに転がった彼女を見下ろして、嘆かわしそうに額に指先を当てる。
「オォ〜〜〜っと、俺としたことが! 殺しちまうと血がマズくなるんだったな」
「……あ、あ」
「まあ、いい、ちょうどよかった。補給を行っていないんだろう、副隊長?」
 ジェイ・ジェイ隊長はアトリの手首を掴み、ぐったりとした彼女を引きずり上げた。
 頬にべったりと血をつけたまま、朗らかに笑う。
「――メシにしよう」
 イスカは咆哮した。
 激烈に地面を蹴飛ばし、限界を超えた速度で駆ける。瞬きのあいだにジェイ・ジェイ隊長の懐へ潜り込むと、あごに膝を撃ち込んだ。反対側の足で頬を蹴る。最後にアクロバティックなサマーソルトキックをもう一度あごへ見舞うと、ようやく彼は苦痛の声を漏らした。
「ぬ、ぬゥ……!!」
 アトリから手を離し、たたらを踏む。
 その憎たらしい顔面に両足で蹴りをぶち込むと、イスカはその反動で宙返り。
 滑るように着地するや否や、アトリの傍らにひざまずいた。
「アトリ! アトリっ! 返事をして……っ」
「…………」
 当然というべきか、彼女からはなんの反応もない。まるで悪夢を見ているかのように、苦しそうに呻きながらまぶたを閉じている。
 肩の傷は目を覆いたくなるようなありさまだ。人体のどこにこれほどの血が……とおぞましくなるほどの血液が零れ出し、石造りの祭壇に池を広げている。
 ふたりに覆いかぶさるように、傍らからぬう、と巨大な影が落ちた。
「反抗的な女は嫌いでね」
 ジェイ・ジェイ隊長は左こぶしを振り向く。
 腕を交差して受け止めたものの、イスカは骨にまで響く痛みに顔をしかめる。弾むボールのように吹き飛ばされた。しかし流れるように受け身を取ると、跳ね起きざまに腕を薙ぐ。
 その手のひらの先で、いつの間にか握られていた小太刀がブゥン、と振動。
 警備機械兵の一体を、飛び抜けざまに切り裂いていったのだ。膝を損壊させられて体勢を崩し、その一体が身を起こす前にイスカは傍らを踊る。
 流麗なステップとともに、高周波で切り刻まれた空気が螺旋に歪む。
 交錯しつつの三回転で、機械兵の右腕と、左脚と、首を落とした。信号を途絶えさせて、その一体は前のめりに倒れ込む。ジェイ・ジェイ隊長は「ほう」、と己の左腕を見下ろした。
 先ほど投げつけられた小太刀が抜き取られている。イスカが、おそらく彼の攻撃を受けるとともに掻っ攫っていったのだ。めまぐるしい早業。
 イスカは霞むほどの指捌きで腰の後ろを探り、もう一本小太刀を抜き放った――二刀流。
 不調を意識してなどいられないほど視界が真っ赤に燃えていた。脳が痺れ、電流のようなノイズが四肢の動きを妨げる。それでも構わず、イスカは迫りくる機械警備兵たちを相手に大立ち回りを演じた。刃を振るうごとに鉄片が飛び散り、剥き出しの肌を浅く裂く。
 頬をぶん殴られた。意識が飛びそうになるのをかろうじて堪え、イスカは殴ってきた腕を逆に捉える。あたかも蛇のような動きで、機械仕掛けの巨大な腕に絡みつく。
 全身を駆使しながら背中から肩まで一気に駆け上がると、後頭部を腿で挟む。
 あらためて抜いた小太刀を、交差しつつ側頭部へ。
 二本の切っ先が反対側へと突き抜け、機械兵の中枢装置を十字に分断した。
 ぐらりと、巨体が傾ぐ。
 警備機械兵が倒れ込むとともに、イスカも地面へ投げ出されていた。大の字になって激しく喘ぐ。その周囲には、滅多切りにされた機械の塊が散乱していた。
 今ので最後の一体……! もう指一本たりとも満足に動かせなくなっていた。
 そんな彼女の傍らへと、満を持して近寄っていく機械の足音がひとつ。
 言わずもがな、ジェイ・ジェイ隊長である。
「やはりお前は優秀だな」
「あッ……」
 左足首を掴まれた。
 十五歳の華奢な体は、野菜よりもたやすく引っ張り上げられる。
 つかの間、ふわりと宙を舞った。
 そのままの勢いで地面へと――力任せに叩きつけられる! イスカの後頭部と背骨に激烈な痛みが走り、「がはっ!」と息が搾り取られる。怖ろしいことに、背中側で石床が砕けた。
「げほっ、げほ! かはっ……!」
 咳き込むイスカを見下ろして、ジェイ・ジェイはなんらかの欲望を満たしたのだろうか。
 覆いかぶさってきた。片方の手でイスカの首を絞め、けたたましく笑う。
「ほうら、こうすれば形無しだ! 脆いもんだなぁ、お姫さん!」
「くっ、う……!!」
「お前は最高だよ、自分の価値に気づいていない。考えてみな? 両手両足、頭から足の先まで、すべて生身(、、、、、)でできた女なんてマグナポリスでお前しかいない!! そうだろう?」
 考えたこともなかった、とイスカは朦朧とする頭で思う。
 森人のような翼もなく、かと言って胸を張って機族とも名乗れないこの身体は、ずっと自分にとってコンプレックスでしかなかった。しかし《全身機械》のジェイ・ジェイ隊長は違ったのだろうか。これまでイスカが、ほんのわずかでも露出のある服を着るたびに、その肌色に執着していたというのだろうか。……ぞわりと肌が粟立つ。
 ジェイ・ジェイは首を絞める手のひらに、いっそう体重をかけてきた。
「安心しな、お前はここで眠っているといい。あとのことは俺がうまいこと処理してやるよ。――そうだ! お前はあのアウラに洗脳されていたってことにしよう。こう、脳みそを……ビビビッ! って焼かれておかしくなっちまったんだ。な?」
「……うっ……く…………!」
「なんだその反抗的な目は? いっそのこと本当に一服盛るか?」
 ジェイ・ジェイの唇が醜悪に歪んだ。イスカの霞む視界に、それは悪魔のごとく映る。
「……いィ〜いアイディアかもなあ。お前はあのアウラのせいで深刻なダメージを負った。俺は記憶も定かでないお前を献身的に支え、やがて夫婦の契りを交わす! くっはははは! そうしたら俺もめでたく《S級》の市民になって、ゆくゆくは次期総督だ!! そのために今まで目を掛けてやってたんだからよ! ヒハハハハァ!!」
 先細っていく意識のなかで、イスカは瞬間、はっと目を見開いた。
 アトリの腕がゆっくりと持ち上がっていた。震えながらこちらに手のひらを向けようとしている。ジェイ・ジェイ隊長は気づいていない――
 小刻みに痙攣する指先から、直後、衝撃波が拡散。
 それは強烈な磁力そのものだった。ジェイ・ジェイ隊長を横殴りに弾き飛ばす。
「ぐおッ……!?」
 体が自由になるや否や、イスカは弾かれるように跳ね起きた。
 搾りかすのような気力をかき集め、上体がねじ切れんばかりの勢いで――小太刀を薙ぐ。
 斬線が閃く。
 それはジェイ・ジェイ隊長ではなく、その傍らを両断した。剥き出しになっているユーグリエールの枝。なめらかな切り口が刻まれたかと思えば、直後、そこから猛烈なガスが噴出。
 一気に膨れ上がった白霧が、ジェイ・ジェイ隊長の全身を包み込んだ。
「くッ、くうゥ――!? め……目くらましのつもりかアァ!!」
 構わずに霧中を突っ切り、ジェイ・ジェイ隊長が掴みかかってこようとする。
 その動きが、不自然にギチッ! と硬直した。
「……な、何ッ!?」
 彼は己の体を見下ろして、その原因に気づく。
 機械の体の表面にみるみると錆が広がり、関節の動きを阻んでいた。もはや伸ばした腕を引くことさえままならない。それがユーグリエールを循環し、霧状となった強酸によるものだとは及びもつかないだろう。彼はその彫りの深い顔立ちを、底無しの恐怖に歪めた。
 煌びやかであった金属質の皮膚が、見る影もなくなっていく。
「なッ、なんだよこれは……!? やめろッ、お、俺の体がッ…………!!」
 ジェイ・ジェイ隊長はままならない全身を強引に動かした。関節から破片が弾ける。手のひらを見下ろせば指先までびっしりと錆が這っていた。瞳が激しく拡縮し、揺れる。
「ヒッ、ヒィ! ヒアアアア!? や、やめろオオオオ! 俺さまのッ、俺さまのメタリックボディがああああァァ――――――――――ッッッ!!」
 その絶叫が、なんらかのノイズとして届いたのだろうか。
 倒れ伏していた機械警備兵の一体が、ぎこちない動きで銃口を上げた。アトリを照準している。頭部の奥で瞬くグリーンの光点が、直後、敵意の赤色に変わる。
 イスカは地面を蹴った。
「――アトリっ!!」
 ほぼ同時に、砲弾がぶっ放される。
 狙いがわずかに逸れていた。イスカがアトリに跳びついた瞬間、そのすぐ傍らで地面が盛大に爆ぜる。膨れ上がった爆風が、傷だらけのふたりを宙へ舞い上げた。
 ヘルヘイヴ・ゲートの祭壇を飛び出して――
 開放的なその空間から、絡み合った枝の隙間を抜けて一直線に落下した。黒い葉に似たマグナポリスの街並みが、手を伸ばしても届かないほどに遠ざかっていく。猛烈な風がふたりの体をなぶる。耳もとで轟音が唸り、ジェイ・ジェイ隊長の悲鳴はもはや聞こえない――
 イスカはしっかりとアトリの頭を抱きしめた。もはやそれしかできない。
 このまま遥か数千メートルの下に――あるいはユーグリエールのいずれかの枝に激突して死ぬのかと覚悟した矢先、イスカの視界を純白が埋める。
 アトリが翼を大きく広げていた。
 いったいどこまで死力を絞り尽くすつもりなのだろうか。空中に血をまき散らしながら懸命に空気を叩く。わずかながら落下の勢いが殺された。がむしゃらに翼を羽ばたかせる。その毛先からも血が跳ねる。根もとから羽がもげてしまうのではないかと思うほどだ。
 イスカは「もうやめて」と、彼女に訴えることすらできなかった。
 ただひたすらにアトリにすがりつき、激突の恐怖に耐える。
 血に濡れた純白の羽根が、一枚一枚、花吹雪のごとく千切れて空を埋める。
 やがて、前触れもなく二枚の翼が翻った。イスカを抱きすくめるようにくるむ。
 イスカは、何が待ち受けているのかを悟った。
 わずか二秒後、ふたりはいよいよどことも知れぬ地面に激突した。木屑が跳ね飛び、千切れた羽根とともに砂ぼこりが膨れ上がって、猛烈に視界を埋める。
 その衝撃で、ふたりはばらばらに投げ出されていた。
 イスカは受け身もままならず、したたかに倒れ込む。ささくれ立った樹皮が浅く肌を裂く。全身が砕けそうなほどの痛みだが……骨に異常がないのは奇跡か。どうやら地底樹の底面に当たる森人たちの国(エリオンフィールド)ではなく、その中途のどこかに墜落したらしい。
 体力も、気力も、もう指一本動かすぶんさえ残されていない――
 それでもイスカは手のひらを地面に突っ張り、遅々と上体を持ち上げた。
「……ア、アト、リ……っ」
 彼女は、少し離れた場所に倒れ込んでいた。
 純白の羽は土に汚れ、華やかな衣裳も見る影はない。しかし、もっともイスカの心臓を締めつけるのは彼女の髪を濡らす血痕だ。すでに乾いたものと、新たに滲み出すもの――
 立ち上がれなくとも、イスカは歯を食い縛って這いずり寄った。口中に砂が交じる。
 全身を軋ませながらようやくアトリのもとまで辿り着くと、うつ伏せの彼女を起こす。
 瞳は閉じられていたが――
 胸もとは、まだ上下していた。しかし、呼吸が非常に細い。肩を掴んだ手のひらにべっとりと血が付着した。頬に指を這わせれば、機族の自分よりも体温が低くなっている。
「ア、アトリ…………?」
 返事はしてくれなかった。
 このまますべての血液が流れ出せば、いずれ彼女は死ぬ――
 こんな時、イスカはいつもどんな表情をしていいのか分からなかった。
 脳裏に、これまで目の当たりにした《死》が目まぐるしく浮かんでは過ぎ去っていく。『こりゃダメだな』ジェイ・ジェイ隊長はそう言って、寿命を迎えた幻燈虫を踏み潰した。『規律に従ってください』ストレンチアはそう言って、心臓に当てられる杭を拒みもしなかった。
 そして、かつて命を賭してイスカを守ってくれた母は――
『父を責めてはなりませんよ……』
 事切れる寸前、娘の耳もとにそう囁いていた気がする。
 そうではなかった! 誰かの死を見送るたび、イスカの胸には得体の知れない感情が生まれて心臓をかきむしっていた。それが何を意味するのか、今まで分かる由もなかった。
 アトリは処刑を待つばかりの部屋で、ぽつりと言った。
『……死にたくない、なあ』
 きっとそれを、聞いた瞬間だ。
 イスカの胸のうちで、どうしても芽吹いてくれなかった感情が、言葉になったのは。
「……死なないで」
 ぽつりと、アトリの寝顔へとイスカは零した。
 ひとこと呟いた途端、まるで水を得たように感情が膨れ上がる。とめどなく肥大化したそれはあっという間に喉を駆け上がり、堰を切ったように唇から零れ出した。
「死な、ないで……嫌っ……いやだ、死なないで……!」
 ぽとり、とアトリの頬に透明なしずくが落ちた。
 それが自分の瞳から流れた熱い涙だと理解もできず、イスカはようやく言葉を覚えた赤ん坊のようにただひたすら繰り返した。ひとこと発するごとに、体に熱がよみがえる。
 アトリの肩を抱いた。
「嫌だ! 嫌だ、死なないで!! ボクを……わたしを置いていかないで!!」
 アトリのまぶたがうっすらと開いた。イスカはそれに気づくこともできない。
 彼女に覆いかぶさるようにすがりついた。首もとが真っ赤に濡れる。
「お願い、生きていて……っ! わたしとずっと一緒にいてよ……!」
「……イスカちゃん」
 アトリの右腕が持ち上がり、イスカの後頭部を抱き寄せた。
 その声で、ようやくイスカはハッ、と顔を上げる。
 息がかかるほどの近くで、彼女の瞳と見つめ合った。
 囁くような声で、アトリは言う。
「イスカちゃん……わたしを……喰べて…………」
「え、えっ……?」
「血……わたしの血、飲んで……?」
 息をするのも苦しそうだ。
 それでも彼女は、精いっぱいににこりと笑う。
 血にまみれた花のごとく――
「……そう、すれば、わたしたち……ずっといっしょ!」
 イスカのまぶたが堪えようもなく傷んだ。また視界が滲む。
 アトリはイスカの頭へ添えた手に、なけなしの力を込める。
「ほ、ら……もったい、ない、よ?」
 左の肩口に引き寄せられた。
 生命の泉が今もなお溢れ、アトリの髪と、地面へと吸い込まれている。イスカは破れんばかりに唇を噛み締めると、まるで恋人のように、彼女の首筋にキスをした。
 吸う――
「あ……」
 死の淵にありながら、アトリはほんのひと時、頬を火照らせた。瞳が熱っぽく潤む。
 そしてイスカは、ひとくち血を舐めた瞬間に目を見開いていた。
 霞んでいた視界が一気に鮮明になる。全身の神経が繋ぎ直された感覚だ。四肢の末端まで一気に熱が駆け抜けて、電流のごとく脳裏にスパークを散らす。
 イスカは一心不乱にアトリの血を貪った。唇を真っ赤に染めて吸う。舌がふやけるほどに舐める。美味しい、美味しい――こんな極上の食事を今までしたことがなかった。肌が見えるまで綺麗にしても、紅の水は後から後から湧き出してくる。
 そして、これをすべて飲み干したあとに――
 アトリは死ぬのだ。
「うっ、く……」
 いっそうの感情のこもった涙が、大粒でイスカの瞳から零れる。
 それはアトリの肩口に落ち、血と交じった。イスカが吸わなければそれはどんどん地面へ吸い込まれていく。イスカは一滴も零さないようにと舌をつけた。しかしそうして飲めば飲むほど、アトリは刻一刻と死へ近づくのだ。――美味しい。死なせたくない。でも飲まなければ。飲みたくない。お願い、お願い――イスカの胃のなかで、血と感情がごちゃ混ぜになった。
 もう喉を動かすのも限界になって、イスカはただ彼女にすがりつく。
 無為に零れていく血の池へと、滂沱の涙を零した。
「うぅ……うああ……!! うああああぁああぁぁ――――――――――っっっ!!」
 アトリはずっと、ひたすらに優しくイスカの髪を撫でている。
「おいしい……? イスカちゃん…………」
「うぅ、ぐっ、ぅ……!!」
「これからも、生きてね……」
 イスカはハッ、と目を見開いた。睫毛から涙が散る。
「いっしょに……いようね……――――」
 イスカの髪から、ずるりと、彼女の手のひらが滑った。
 力なく、手の甲が地面へと落ちる――
 イスカは慌てて彼女の顔を覗き込んだ。まぶたが閉じられている。
「アトリ?」
 それまでが生易しいぐらい、顔色が真っ白になっていた。
 彼女の熱と、肌の色は――
 そのすべてが流れ出して、地底樹に還ってしまったとでもいうのだろうか。
「アトリっ……アトリ、だめ! 目を開けてっ!」
 彼女は何も答えてくれない。その唇はもうイスカの名前を呼んでくれない。花のような笑顔を見せてもくれない。繋いだ手のひらから、何よりも温かい感情を伝えてはくれない――
 イスカは彼女を抱き起こした。翼の毛先は、血と泥で固まっている。
 華奢な体は想像もできないほど重い。魂のない人形のようだった。
「アトリ……アトリっ……嫌、嫌ぁ……っ!!」
 イスカはもはや、彼女を抱きしめたままどうすることもできなかった。活力はよみがえったはずなのに、膝に力が入らない。もう二度と、ここから立ち上がれないような気がした。
 そこへ、彼方から猛々しい駆動音が近づいてくる。
 ヘッドライトが暗闇を切り裂いた。
「……これはッ」
 獣のような駆動音を立てているのは、難所踏破用の四輪バイク(バギー)だった。ハンドルの真ん中では、どこか見覚えのある機械人形のミニチュアがこちらにライトを向けている。
 それにまたがって険しい顔つきをしているのは、《時計仕掛けの魔女》――鵺だ。今ようやく知るが、イスカたちが墜落したのは彼女の居城・ニーベルゲンの間近だったのだ。
 鵺はヘルメットを脱ぎ捨てて、こちらに駆け寄ってくる。
「アトリ姫っ、ひどい怪我じゃないか……!」
 イスカはとっさに、アトリを庇うように抱いた。相変わらず彼女はぴくりともしない。
 脳裏に隊の仲間・ストレンチアの死に際がよみがえった。
「ま、待って! アトリを捨てないでっ!」
「……は」
 鵺は思わずといった表情で立ち止まった。
 彼女のオッドアイからは、イスカの姿が手負いの子猫のように見えているのかもしれない。
「お願い、お願い……っ、アトリを捨てないで……捨てちゃやだ……っ!」
 鵺はぎりっ、と。歯を食い縛ったように見えた。
「――馬鹿者!!」
 大声でイスカを震え上がらせると、構わずに踏み込んでくる。
 アトリを強引に奪い取り、再び地面に寝かせた。肩の傷を確かめて息を呑む。
「急所ではないが、このままではマズいな……!」
 手巾を取り出して肩口へと当てる。あっという間に赤く染まった。次いで着ていたジャケットを脱ぐと、アトリの肩口から斜めにして縛りつけようとしている。
 イスカは目の前で何が起きているのかも分からず、ただ見つめるのみだ。
「な、なにをして、いるの……っ?」
 鵺はほんの少し、もどかしげにこちらを一瞥した。
「……怪我をしたら痕を塞ぐ。病気になったら薬を飲む!」
 ぎゅっ! ときつく結び目を絞る。
「きみたちの一族はそんなことも忘れてしまったのか!」
 鵺はバギーへと取って返すと、後部座席から荷物を投げ捨て始めた。ミニチュア人形が慌ただしくその足もとを照らす。ふたり分のスペースを確保すると、鵺はハンドルを握った。
「ここでは応急処置にしかならん。一刻も早くニーベルゲンへ連れて行かなければ」
 いまだへたり込んで動けないイスカを、鵺はきっ、と睨む。
「彼女を助けたければ、急げ!!」
 イスカの両足に感情の火花が弾けた。
 もう一歩も動けないと思っていたはずなのに、気づけばイスカは、アトリを抱きかかえてバギーへと飛び乗っていた。



〈つづく〉


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