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作品名:虹の羽根のイオライン 作者:橘 紫綺

第14回 すれ違う人@

 ああ、また今日も朝が来た。
薄暗い路地裏で、そう思いながら体を起こすことはしない。
 起きることに意味がないから、そのまま女の子は向かいのレンガの壁を見る。
 視界がずれたせいで、白い縦長の世界が見えなくなった。だから代わりに眼の前の壁を見ている。
アリが列をなして歩いているのが見えた。垂直の壁も地面と何ら変わりなく登って行く。アリにしてみれば全てが地面なのだろう。
 一体あのアリは何を考えているのだろう。
 そんなことを考えながらアリの動きを眼で追う。だが、首を動かさなければならないところまで行ってしまえば、追うことを諦める。そこまでして見る意味がない。
 そのまま暫くジッとしていると、声が聞こえてくる。壁の向こうにいるヒトの声。
 子供の声。大人の声。女の人の声。男の人の声。老人の声。赤ん坊の声。
 怒っている声。慰めている声。笑っている声。泣いている声。真面目な声。ふざけた声。
 ああ、人の声だ……
 女の子は思い出す。建物の中にいるのが人だということを。縦長の白い空間を行き交うのが人だったということを。自分もそれらと同じ人であるはずだということを。
 だとしたら、どうして自分は建物の中にいないのかと思う。
 建物の中……『家』の中。寒さや雨から守ってくれる『家』。暑さや風から守ってくれる『家』。虫や獣から守ってくれる『家』。暖かく、涼しく、安全な場所。美味しい物が出て、沢山の服があって、柔らかい布団があって、お風呂があって、石鹸の匂いがする安心出来る場所。『家』にまつわる記憶の蓋が外れたかのように、女の子の中に知識が溢れる。
 忘れたままだったらどんなに良かっただろうか。知らなかったらどんなに楽だっただろうか。何もない自分が、何も得られない自分が、惨めな生き物だと自覚させられ、女の子の眼から涙が溢れ出た。
 どうして自分はここにいるのだろう?
 どうして自分は『家』の中にいないのだろう?
 何か悪いことをしたのだろうか?
 悪いことをしたら『家』を出すぞと怒っていた。誰かがそう怒っていた。
 だから自分は出されたのだと思った。何かとても悪いことをして、それを謝らなかったから。反抗ばかりしていたから。だから自分は出されてしまったのだ。
 だったら……謝ろう。女の子は思った。
「ごめんなさい」そう言えば、人は許してくれるもの。心から謝れば、人は許しあうもの。
 だから女の子は謝ろうと思った。一体何をしたのかまでは思い出せない。
 だとしても、心から謝れば、自分も『家』の中に入ることが出来るはず。
 だが、問題があった。一体誰に謝ればいいのだろう? どの家の、どの人に謝ればいいのだろう? 自分は一体どこの家の子だったのだろう?
 見渡す限りレンガの壁。建物だけは沢山建っている。
女の子は自分の『家』が分からなかった。遠くから歩いて来た記憶はないのだから、きっとこの辺りの『家』のはず。とりあえず、近い所から回ってみよう。
 そう思うと、女の子は起き上がってみた。殆ど骨と皮しかないような細い腕を地面について、震えながら体を起こした。物凄い重労働だった。起き上がるだけで、ゼェゼェと息が乱れた。そこから立ち上がるのにはもっと時間が掛かった。立とうと思っても立てなかった。足が震えて、力が入らず、何度も何度も転んだ。満足に立てないことが悔しくて、涙が溢れた。それでも女の子は諦めずに挑んだ。その場で立てず、レンガの壁を利用した。
 レンガの壁まで這いずって、壁に手を掛けて、寄り掛かるようにして少しずつ体を持ち上げていった。何度となく倒れ掛かって、ようやく女の子は立ち上がった。だが、油断は出来ない。壁に寄り掛かってですら、女の子の足は自分の体重を支えきれないでいた。
 ガクガクと膝が震え、すぐにでも座り込みそうになる。
 それを必死の思いで壁に爪を立てて堪える。爪が割れて剥げ、痛みに全身が悲鳴を上げた。大きな涙がボロボロとこぼれ出た。
 でも、これは罰なのだから仕方がないと言い聞かせる。悪いことをしたら罰を受ける。それが人の世の中なのだ。だから、自分がこんな目に遭っているのも自業自得なのだ。
 自分が何か悪いことをしたから、こんな目に遭っているのだ。
 だから、それを許してもらうために謝りに行くのだ。
 そうやって言い聞かせて、女の子は壁伝いに歩き始めた。
 何度も何度も地面に膝を付き、息を荒げて、ずっと一緒だったタオルケットを手放すことなく、ゆっくり、ゆっくりと、必死に足を進めた。一歩一歩進むごとに、白い縦長の明るい空間が近づいて来る。途方もない道のりを、白い世界に向かって一歩ずつ進めたなら、眩い光に思わず目を瞑った。光が溢れ、色が溢れていた。
 そして、自分に注がれる嫌悪の気配。汚らしいものを見る表情。それらに晒され、突然の恐怖に襲われた。場違いな世界に入り込んだ異物。排除される恐怖。自分の知らない世界。清潔な世界と、みすぼらしい自分。あまりにも残酷な現実と直面し、女の子は恥じ入った。違う意味で足が震えた。体が震えた。涙が出て来た。怖くて怖くて仕方がなかった。
 こんな思いをするぐらいなら、あの場所であのまま座り続けていた方がどれだけマシだったか分からない。
 何故自分はこんなにもみすぼらしいのだろう?
 何故自分はこんなにも汚れているのだろう?
 何故自分はこんなにも蔑まれているのだろう?
 怖い。怖い。だれか助けて!
 誰にともなく助けを求める。行き交う人の眼が怖かった。光り輝く日の光が怖かった。
 早く安全なところに! 一刻も早く安全なところに!
 『家』に行けば……! 『家』にさえ入ることが出来れば……!
 女の子は、自分に向けられる突き刺さる視線から逃げるように、渾身の力を籠めて駆け出した。階段を這うようにして上り、玄関を叩く。何度も何度も叩く。後ろで誰かが何かを騒いでいる。何を騒いでいるのか意味は分からないが、早くしなければ捕まってしまうと思った。何に捕まるのか、捕まるとどうなるのか、そんなことは知らない。
 それでも、捕まるわけには行かないとだけ、強烈に思った。
 ドアをドンドンと力の限り叩くと、やがてドアが開き、綺麗な女の人が出て来た。
 余りに綺麗で、女の子は一瞬言うべき言葉を忘れて見蕩れた。
 だが、綺麗な女の人は露骨に嫌悪の表情を浮かべると、怒鳴りつけて来た。
 ああ、謝らなければならない!
 女の子は慌てて謝罪の言葉を口にした……つもりだった。
 だが、長い間声を発していなかったせいで、声は言葉になっていなかった。
 それでも、何度も謝ろうとした。何度も何度も。何度も何度も謝ろうとした。
 だが、綺麗な女の人は言った。
「どっかに行って、汚らしい!」
 何かが体の中を貫いて行った。
 謝る人を間違えた……。女の子は突き飛ばされて落下している最中にそう思った。
 反射的に頭を庇って階段を落ちる。悲鳴が上がる。
 女の子は、転がるように路地裏に逃げ帰った。ボロボロのタオルケットに包(くる)まって、ガタガタと震えていた。怖くて怖くて泣き出したいのに、涙は出ても声は出なかった。
 自分は謝る家を間違えた。だから自分は蹴飛ばされた。正しい家に謝れば、きっとそんな仕打ちはされない。そうやって自分に言い聞かせながら女の子は眠っていた。
 真夜中に、目を覚ますと大雨が容赦なく女の子を打っていた。冷たかった。寒かった。
 だが、身を隠せるものは何もなかった。そのとき、綺麗な女の人の言葉を思い出した。
「どっかに行って、汚らしい!」
 自分は汚い。だから皆あんな目で見ていたのだ。
 そう思った女の子は、強く叩き付けて来る雨を使って、体を擦った。頭を洗った。タオルケットでごしごし、ごしごしと何度も何度もあちこちを擦った。とても疲れる作業だった。綺麗になっているのかいないのか、そんなことも分からなかった。
 だが、少しでも『家』の人に認めてもらうために綺麗になっていなければならなかった。
 だから女の子は、自分を磨いた。くたくたに疲れ果てて眠りこけてしまうまで。
 そして再び目を開けると、雨は綺麗さっぱりやんでいた。地面は水浸し。泥と化していた。そんな場所でうつ伏せに倒れていた女の子は泥だらけになっていた。
 だとしても、鏡の一つもないその場所で、自分がまだ汚いままだと気付かない女の子は、再び壁伝いに足を進め、別の『家』へと向かった。そして、再び絶望を味わった。
 蹴飛ばされて罵られて、何か酷い臭いのするものを浴びせかけられた。
 人が騒いでいた。怖くなって逃げ出した。
 路地裏のいつもの場所で、いつものタオルケットを頭から被り、丸くなって震えていた。
 そして気が付くと、女の子は自分が熱いのか寒いのかよく分からないことに気が付いた。
 体は火照っているのに、震えが止まらなかった。寒くて寒くて、でも熱くて仕方がなかった。そんな体験はこれまで一度たりとてしたことがない。
 一体これは何なのだろうかといぶかしんだ。熱を出しているとは思いもしなかった。
 また、熱を出していると知ったところで、それがどういうことを意味するのか教えてくれる者がない以上、焦ることもなかった。焦りはしないが、やっぱり寒かった。
 どうすれば暖かくなるのか分からなかった。
 寒い寒いと、タオルケットに包まりながらガタガタ震えていると、頭の中にオレンジ色の塊が現れた。それはゆらゆらと揺れて、赤い色や黄色い色も交えて大きくなっていった。
 女の子は闇の中にあるゆらゆらと揺れているそれに手を触れてみた。
 それはとても暖かかった。冷え切った体に染み渡るかのように暖かかった。
 一体これは何なのだろうと考えた。どこからこんな物が現われたのだろう?
 何にしても、暖かいことに救われた。
 もう震えてはいなかった。幸せだと感じていた。後は『家』に入れたら何も文句はない。そう思っていた。


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