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作品名:天邪鬼の帰る場所 作者:橘 紫綺

第14回 第五章『なにやら複雑な心中』B

「与依! 待て!」
 与依は、家の裏手の山の中に駆け込んでいた。
 本来、裏手の山は女人禁制となっているにも拘らず、その足には迷いがない。
 それも当然。昔の与依ならいざ知らず、今の与依は『天邪鬼』に魅入られているのだ。
 入るなと言われれば、いくらでも入るだろう。
 昼にも拘らず薄暗い森の中だが、そんなものは気にもならない。
 普段ならば感じるはずのひんやりとした空気すら、今の歴には関係なかった。
「与依!」
 何度目かの呼び掛けにすら与依は答えず、ただただまっすぐにひた走る。
(何でだよ!)
 けして縮まらない与依との距離に、歴は心の中で悲鳴をあげていた。
 歴はすぐに捕まえられると思っていた。
 だが、与依は捕まらない。捕まえられそうで追いつかない。
 手を伸ばせば着物の袖が掴めそうで、掴めない。
 もう少しと言うところで、木の根なのか石なのか、足を取られて転びそうになる。
 踏み倒された草草で作られた獣道に手を付き、かろうじて体勢を立て直す。咄嗟に付いた手に、踏み潰された草の汁が付くが構っていられない。
 その間にも与依は距離を稼ぐ。
 歴は意味が分からなかった。ここまで本気で自分から逃げる与依の気持ちが。
 歴はずっと与依のことだけを考えて生きて来た。自分の妹のように思って来たし、与依の父親がいなくなってからは、守らなければならない存在だと思って来た。
 だから、どれだけ拒絶されようとも、村中が与依を疎もうとも、自分だけは与依を見捨てまいと頑張って来た。それなのに、与依は常に歴を避けて来た。
 それも仕方がないと初めは思っていた。つい最近まで本気で思っていた。それこそ与依が深に心を開くのを眼にするまでは――
「与依! 待て!」
 ゴロゴロと頭上で不穏な音が鳴り響く中、歴は無理矢理叫ぶ。
 喉の奥が引き攣ったように痛かった。空気を求めて肺が悲鳴をあげていた。
 それでも与依は立ち止まらない。
(おいらの何が、そんなに気に入らない!)
 ムクムクと、それまで感じたことのない与依に対する怒りが湧き起こって来る。
 確かに、自分はまだ子供で頼りがいがないかもしれない。
 それでも自分で出来る範囲で頑張って来たつもりだった。村の連中が与依を責めれば、間に入って仲裁し、頭を下げて許してもらい、時には体を張って庇ったりもした。
 与依の家に嫌がらせする奴がいれば懲らしめて、壊された部分を補修したりした。
 食事の材料も毎日運んだ。どんなに無視されても必ず声をかけるようにしていた。
 家の畑仕事を手伝いながら、毎日毎日与依の様子に気を配っていた。
 それもこれも、与依の父親との約束があったからだ。
 自分がその約束を反故にしてしまったら、それこそ与依は完全に独りになってしまう。
 それだけはなんとしても阻止したかった。
 だから歴は、どんなに報われなくとも頑張って来たのだ。
 その想いが与依に伝わっていないわけではないことを知っていたから。
 時々、畑仕事から帰って来ると、木の実や薬草が置いてあったり、食材を入れた笊に花が添えられて置かれている事があった。面と向かって何かを言われる事がないとしても、与依なりの感謝の印だと受け止めて、歴は嬉しくなったのだ。
 それなのに――
(どうしておいらに捕まりたくない?!)
 不意に泣きたくなって、唇を噛み締めて堪える。
 その頬に、ポツリと冷たい雫が落ちる。
 ポツリ ポツリと雨粒が落ちて来ると、瞬く間に視界が白くなった。
 地面は泥濘、足が取られる。
 自分が泣いているのかどうかすら分からないまま、夢中で足を動かせば、視線の先で与依の体がグラリと傾いだ。
「与依!」
 泥濘に足を取られたのだろう。だが、左手を突いて倒れるのを堪えると、与依は再び走り出した。それも獣道を外れて茂みの中へ。
「っち!」
 歴は舌打ちを一つ吐いて、自らも茂みの中へ飛び込み、一気に距離を詰めようと試みる。
 獣道のない場所は、普段から誰も入らない場所になる。当然、歩くときに邪魔になるような小枝など伐採されてなどいない。
 視界を覆う激しい雨。ぬかるんだ地面に重くなっていく着物と冷えていく体。そして、行く手を阻む木々や草草――
 嫌でも速度が落ちた。目の前に飛び出して来る草や枝を払い除け、右腕を翳して顔を庇いながら突き進む。鉈を持ってくれば良かったと頭の片隅で思いながら、足に纏わりついて来る丈の長い草を蹴り千切れば、むき出しになった腕や顔に小さな痛みが何度も走った。
 邪魔だった。何もかもが邪魔だった。どいつもこいつも邪魔だった。
 歴はただ、昔のように与依と一緒にいたかっただけなのだ。
 それを、寄ってたかってあらゆるものが邪魔をする。与依までもが邪魔をする。
 いい加減、心の底から、本気で、頭に来た。
「もう、いい加減にしてくれ!!!」
 立ち止まった歴が、喉が破けるほどの大音声で怒りを爆発させたのと、ドン! とどこかに雷が落ち、大地を震わせたのは同時だった。
 歴と雷。一体どちらの効果だったのか、ビクリと体を震わせて、与依の足が止まる。
「本当に、もう、いい加減にしてくれ……」
 限界に近い状態で走っていたところで、いきなり大声をあげたせいで、喉も肺も悲鳴をあげていた。呼吸が苦しく、膝が震える。何よりも、歴の心が震えていた。
 歴の心も限界に達していた。自分はけして我慢強い方でも、要領が良い方でもない。心が広いわけじゃないし打たれ強いわけでもない。
 ただ、それらを全て無視してでも、歴は与依を守りたかっただけなのだ。
 それなのに与依は、三年かけても心を開いてくれなかった。
 どれだけ自分の無力さ加減を味合わされたか分からない。打ちのめされたか分からない。
 それでも、与依のことを託されたのは自分だけなのだからと、己を奮い立たせて、藁をも掴む思いで深に助けを求めた。
 そう。村の誰にも助けを求められなかったのは与依だけではない。歴もそうだったのだ。
 だから歴は深に頼った。自分ではもうどうすればいいのか分からなかったから。
 そしたら、その日のうちに与依は笑うようになって戻って来た。
 一体何があったのか分からなかった。
 ただそのときは、与依が元に戻るかもしれないと思い、素直に喜びを感じていた。
 深に対してだって感謝の気持ちを抱いていた。
 だが、現実は違った。与依は深にしか心を開かなかった。
 三年かけてもどうにも出来なかった自分。それをあっさりと成し遂げてしまった深。
 大切にして来たものを横から掻っ攫われたような気がした。
 でも、それを恨むのはお門違いだということも分かっていたから、歴は努めて表に出さないように振舞って来たのだ。
 それなのに、与依は自分の望んだように逃げる。逃げて逃げて、どこまでも逃げて。
 その内、深が村を出るときに、勝手に付いて行ってしまうのだろう。
 そう思ったら、馬鹿馬鹿しくなった。
 そこまでして自分のことを嫌うのなら、もう、どうでも良いと思ってしまった。
 三年も頑張ったのだから、与依の父親も許してくれるだろう。
 たとえ許してくれなかったとしても、自分にはもうどうにも出来ない。
 だから、もう、いい――
「もう、好きにすればいい」
 叫ぶ力も残っていなかった。激しい雨音に掻き消され、与依まで届いていないかもしれない。だが、それならそれで構わないと思っていた。
 どうせもう、与依には自分など必要ないのだから。
 あちこちの枝で散々引っ掻き回された髪が、雨に濡れて顔に張り付く。
 顔を上げて、与依の様子を見る気力すらなかった。
 帰ろう。
 歴は生まれてこのかた味わったことのない虚無感を抱きながら、初めて与依に背中を向けた。だとしても、それがどれほどの効果を与依に与えるかなど、考えもしなかった。
 頭の中にあるのはもう、与依が深と共に村を出て行くのだろうな、という可能性だけ。
 約束と責任感だけで、必死に与依を守って来たことの下らなさを噛み締めるだけ。
 頬を滑り落ちるのが、雨なのか涙なのかも分からない。そんな事などどうでも良かった。
 歴はただただ虚しくて、鉛のように重くなった足を一歩二歩と踏み出したときだった。
「きゃあっ!」
「!!」
 聞き間違いようのない与依の悲鳴に、弾かれたように振り返る。
「……与依?」
 振り返ったそこに、与依の姿は見えなかった。
 じわじわと嫌な予感が歴を包み込む。
「……与依?!」
 気が付くと、歴は走っていた。
 微妙に視界を遮る小枝達を乱暴に払い除け、少しでも視界を広くしようとしたが、歴は与依の姿を見つける事が出来なかった。
 あるのは自由に立ち並ぶ木々と、群生している草草。そして、踏み折られた下草のみ。
 ドクドクと鼓動が速まり、薄ら寒いものが背筋を駆け抜ける。
「与依!」
 歴はあらん限りの声で与依の名前を叫んだ。
「与依! どこだ!」
「……き…………れき!」
「!!」
 小さいながらも、はっきりと与依の声が聞こえると、歴は駆け出した。
 そして、見た。地面に開いた大きな穴を。幅にして三尺。
 何故こんなものが? さっきまでそんなものなかったはずと思いながら穴の縁を覗き込めば、
「……歴……」
 顔を蒼褪めさせた与依が、必死に土壁にしがみ付いていた。
「与依!」
 歴はその場にうつ伏せになり、与依に向かって手を差し出した。
 その手を掴もうと、与依も精一杯手を伸ばすが、あと少しが届かない。
「れきぃ……」
 今にも泣きそうな顔で与依が名前を呼んで来る。
 雨のせいで土は脆くなっている。早く助けなければ、このままだと与依が落ちる。
 焦りだけが膨らんだ。下手に身を乗り出せば、与依もろとも穴に落ちる危険性が増す。
 だが、このままでは確実に与依だけが落ちてしまう。
 迷いは一瞬。歴は身を乗り出して、更に手を伸ばしたが――
『!!』
 与依がしがみ付いていた土壁が、ごそりと崩れた。
 共に、絶望に目を見張る。
「歴ぃ!」
「与依ぃ!」
 互いの名前を叫んだ。
 しかし、伸ばした手は相手の手を掴むことなく虚しく宙を掴み――そして与依は、
「……あれ?」
 何とも間の抜けた声を上げて、混乱したように歴と足元を見比べていた。
 歴も、いつまでも小さくならない与依の顔を見て、混乱を覚えていた。
「えーっと、与依?」
 思わず問い掛ける声にも戸惑いが籠もる。対して与依は、
「えーっと、何だろ? そんなに深い穴じゃなかったみたい」
 誤魔化し笑いを浮かべて頬をかいた。お陰で頬っぺたに泥が付く。
 そんな与依を見て、歴は一瞬にして力が抜けた。
 自分が見捨てたばっかりに、永遠に失ってしまうかと思ったのだ。
 ぐったりとして手を投げ出していると、ふと、笑いが込み上げて来た。
 もうどうでも良いと思って見捨てたのに、助けを求められたら駆け出して、そこで本当に失うかもしれないと思ったら後悔して、でも、与依が自分に助けを求めた事が嬉しくて、失わずに済んだ事が嬉しくて、単純だな。おいら。と思ったなら、笑いが止まらなくなった。
「ちょ、ちょっと、歴。何笑ってるの! おらは恥ずかしくないんだから、さっさと引っ張ったらどうなのさ」
 深くはないと言っても、両手をあげて地上まで三尺ほどある。
 自力で登るのは少し難しいだろう。
「ああ、分かった分かった。今引き上げてやる。しかし、何なんだろうな、この穴」
 と、問い掛けながら歴が身を乗り出せば、
「知らねぇだ。落とし穴になってた……って、ちょっと待って、何か下にあるから」
「そんなのいいから、手ぇ出せ。動物の死体だったらどうすんだ」
 相変わらず臆病なのか度胸があるのか分かったもんじゃないと、昔を思い出しながら促せば、
「どうもそういうのじゃないみたいだ。ほら」
 と言って、与依が拾い上げたのは、女物の着物のようだった。
 他にも、木箱やら玩具やら、どこかで見たような扇子やらが次から次へと地上へ放り上げられると、歴はふと、それらに見覚えがあるような気がして来た。
「なぁ、これってもしかして――」
 これまで来た旅人が身につけていたものじゃないか――と、続けようとした瞬間。
「見つけちまっただか」
 背後から冷たい声がして、歴はそのまま気を失った。


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