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作品名:ノベライズド・ライフ 作者:alone

第2回 第一章 この世界は A
「ここまで来れば、ひとまず大丈夫」
 中庭を囲んで四角形をしている校舎の廊下を駆け抜け、さっきまでいた俺の教室とは正反対の位置まで来ると彼女はそう告げた。
 走っていた速度を緩めて廊下の真ん中で立ち止まり、彼女がこちらに振り向いた。俺は理解できない状況の連続に堪りかね、胸のうちに積み重なった疑問を一気に吐きだす。
「さっきの怪物は何なんだ?! クラスの連中が急にいなくなったと思ったら突然現れて襲われた。死ぬかと思った、本当に! 君が助けてくれなきゃ今頃どうなってたか。
 君は知ってるのか、あの怪物のこと? 黒いモヤモヤに唇がついてて、口のなかには眼があった。眼が! 口のなかにだぞ!! あんな気持ち悪いやつ見たことないよ。いま思い出しただけでも総毛立っちまう。
 一体なにが起こってるんだ。もう訳が分からないことばかりなんだ。教えてくれよ。みんなどこに行ったんだ? あの怪物は何なんだ? それに君だって何者なんだ?」
 早口で一気に捲し立てた。興奮で乱れた呼吸にあわせて肩を上下させながら彼女の答えを待つ。しばしの沈黙。彼女は振り返ったときのままにじっと俺を見つめていた。
 だが彼女から返ってきた答えは、期待に反して実に呆気ないものだった。
「終わった?」
 たった一言。それだけ。
 あまりの返事に俺は気抜けして目が点になる。全身から一気に力が抜けていく気がした。いや実際に脱力したらしい。
 彼女が俺の手の中から手を引き抜いた。いまの今までずっと彼女の手を握りっぱなしだったみたいだ。他のことに気が散っていてまったく気付かなかった。
「やっと離してくれた。強く握ってくるから痛かったんだから」
 そう言うと彼女は数回手を振ってから、もう一方の手で軽く揉んだ。どうやらだいぶ強く握ってしまっていたようだ。
「ごめん。全然気づかなくって」
「いいよ別に。いまの状況じゃ仕方ない」
 それから彼女は廊下の窓の方に顔を向けた。どうやら正反対にある教室を窺っている様子だ。俺もあの怪物の動向が気になって見てみる。廊下には黒い影は見受けられない。まだ教室内にいるみたいだ。
 とりあえず今のうちに少しでも疑問を解決しておこうと彼女に質問する。
「それで……君は何者なんだ? あの怪物のことも知ってるみたいだけど」
「ひとに名前を訊ねるときはまず自分からじゃない?」
 彼女は顔を動かさず黒目だけこちらに向け、子供に言い聞かせるような口調で言った。身長は俺より十センチは低いくせにどこか上から目線だ。俺は少々ムッとしながら名乗る。
「俺は明浜 稔(アケハマ ジン)。この高校の二年生だ」
「ジン、ね。よろしく」
 それだけ言うと彼女は視線を反対側の教室に戻した。ひとに礼儀を説くくせに自分は守るつもりがないらしい。俺の名乗り損じゃないか、と思いつつもなんとか怒りを飲み込み、彼女を促す。
「それで、君の名前は?」
 すると彼女は窓の外を見つめながら淡々と答えた。
「私はツィカ。観察者(オブザーバー)よ」
 観察者? ……ってなんだよそれ! せっかく彼女の名前がツィカだって分かって疑問がひとつ片付いたと思ったのに、また新しい謎を掘り当てただけかよ。
 思うように進まない現状に悶々としながらも、とにかく次の質問をと考えていた矢先、ツィカは唇のまえに人差し指を立て、静かに、と声を殺して言った。
 黙ってツィカの見ている方に視線を向けると、ちょうど教室から黒い球体が出てきたところだった。彼女に指示されるがまま柱の後ろに隠れて様子を窺う。遠目からでも球体の表面を滑るように動いている紅い唇の姿が見て取れた。そこに傷の痕がもうないことも。どうやら回復するらしい。
「どこか隠れられる場所はない?」
 ツィカが囁くような声で訊いてきた。
 このまま廊下に居続ければすぐに見つかってしまうことは俺にだって分かる。でも隠れるのに相応しい場所はと急に訊かれてもすぐには思いつけなかった。日常的に学校でかくれんぼでもしていれば別だろうが、あいにく高二にもなってそんな趣味はない。隠れるという尺度で学校を評価するのは初めてのことだ。
 模範解答は知らないが、とりあえず廊下より教室にいる方がマシだろうと安直に考え、俺は目の前の教室の扉に近づいた。
「とりあえずここに――」
 と扉に手をかけた瞬間、ツィカが声を荒らげた。
「そこはダメ!」
 だがツィカの制止は間に合わず、俺は扉を開けてしまった。
 そこは教室ではなかった。それどころか何もない。目の前はただただ黒一色だ。漆黒の空間が奥行きもなくのっぺりと広がっている。そこには無が満ちていた。
 その黒さはまるであらゆる光を吸収するブラックホールのようで、触れたら最後、自身の存在さえも塗り潰されてしまうように思えた。恐怖心が胸のうちに広がっていく。が、触れてみたいと思う好奇心も湧き起こりつつあった。異性の美しい身体を思わせる蠱惑的な魅力が抗いようもなく俺の手を誘っていた。
 恐怖と好奇心が葛藤を繰り広げる。だが俺は徐々に手を伸ばしていってしまう。心の天秤は好奇心へと傾きつつあった。光も這い出せない黒さに触れてみたい衝動に駆られつつあった。
 しかし、あと少しというところで扉が閉じられた。見ればツィカがひどく焦った様子で傍らに立っていた。
 俺はツィカに憤りを覚えた。だがすぐに我に返り、自分がしようとしていたことの恐ろしさを理解する。もしツィカが止めてくれていなければ、俺はあのまま自らの存在そのものを進んで消していたかもしれないのだ。それが死と同義の結果を招く行為であることに気づくことすらなく。
「間に合って良かった」ツィカが安堵の色を瞳に浮かべて言った。「ここは綴られていない場所だから、入ったら最後、戻れなくなるところだった」
「綴られていない場所?」また疑問がひとつ増える。「それってどういう――」
「今はあっちの方が問題よ」
 ツィカが廊下の窓に顔を向けた。続いて俺も見てみれば、あの黒い球体が今まさに反対側の廊下を突き進んで俺たちの方に向かってきていた。さっきのツィカの声で感づかれたみたいだ。
「時間がない。とりあえず逃げましょう」
 言うが早いかツィカは走り出した。遅れて俺も走って付いていく。進む方向はいうまでもなく黒い球体の来ている方とは反対だ。さいわい四角形を描く校舎の廊下は繋がっており、袋小路に追い込まれる心配はなかった。しかしこのままずっと追いかけっこを続けているわけにもいかない。体力は無尽蔵ではないし、そもそも黒い球体の方に疲労という概念があるとも思えなかった。
 背後をちらと見ると角を曲がってきた黒い球体の姿を一直線上に捉えた。殺気立った視線がまっすぐ俺を射抜く。心臓が一度大きく跳ねあがった。スピードが速い。このままじゃ追いつかれる。
 俺たちはようやく角を曲がり、黒い球体とは別の廊下に移る。だが窓越しに確認してみると、黒い球体はもう廊下の半分に差し掛かろうとしていた。この調子だと校舎を一周回らないうちに追いつかれることになるだろう。どこかに隠れる必要があった。
「あそこに隠れましょう!」
 ツィカが前方を指差して声を上げた。言われてその方向に顔を向けると、見慣れた二つのシルエットが姿を見せている。赤い女の子と青い男の子のマーク。トイレだ。
 ツィカは何の躊躇いもなく青い男の子のマークの下に駆け寄り、男子トイレのドアを押し開けた。俺も追いかけてトイレに入り、ドアを閉めるとすぐに内側から身体ごと押し付けて開かないようにする。同様にツィカもドアに身体を押し付けて足を突っ張らせた。
 焦燥と緊張が全開の蛇口から出るように次々に湧き起こってくる。今にも許容量を超えて溢れかえってしまいそうだった。どうにか心を少しでも落ち着けようと淡い期待や希望を思い浮かべようと努めるが、肯定的な感情は易々と塗り潰された。
 まるで穴の開いた舟を水没させまいと必死に水を掬って捨てているかのような気分にさせられる。事実を認めたくないがために無意味な行為に必死になって縋りつくが、結末は初めから定まっていて覆しようがなく、下らない抗いは延命措置にすら成りえない。もしトイレに入るところを見られていたら、もしセンサーか何かで居場所がすでに割れていたら、こんな風にドアを押していたって何の価値もないのだ。あの威力を前にすれば一瞬にして俺とツィカはずたずたに引き裂かれ、どちらがどちらの肉かも分からない合挽き肉が出来上がる。そんな救いのない考えが脳裏を過った。否定的な感情には際限がなかった。
 焦燥が緊張の糸をきりきりと張り詰めさせていく。いつ切れてしまうか分からない不安から救いを求めて黒目が忙しなく動き回った。しかし目の前にあるのはただのトイレであって何の役にも立たない。焦燥ばかりが募っていき、緊張の糸が張力を増していく。許容量の限界はもうすぐそこだった。
 しかし、忙しく巡らせていた視線がツィカの姿を捉えた瞬間、時が止まったかのような錯覚を覚えた。なぜだか最初は分からなかったが心のうちを探ってみると、あれほど湧き起こっていた焦燥が止まっていることに気づいた。開けっぱなしだった蛇口を誰かがしっかりと閉じてくれたみたいだ。それとも料金未払いで水道局に止められただけかもしれない。そんな下らない冗談を考える余裕すら生まれていた。
 目がツィカに釘づけになった。白くきめ細かい肌。綺麗に整った目鼻立ち。特にその瞳は、銀河を掬い取ったように美しい。
 ツィカを観察しているうちに、張り詰めていた緊張の糸がしだいに緩まっていくのが分かった。心が落ち着きを取り戻していく。ツィカを見ていると、不思議と安堵感が込み上げてきた。
 だがあの音を耳にして、ふたたび緊張が奮い起こされた。ヘビが威嚇するような歯擦音。あの黒い球体が近づいてきている。
 生唾を飲み込んで手足に力を込める。通り過ぎろこのまま通り過ぎろ、と必死に心で念じた。
 音の大きさが頂点を迎える。すぐ傍らに黒い球体の存在を感じた。俺たちを探してギョロギョロと動き回る巨大な眼。その様がまざまざと瞼に浮かぶ。
 額に脂汗が滲んだ。拳をかたく握りしめる。皮膚に爪が食い込むことも気づかずに。
 黒い球体の威圧感が肌を刺す。俺は奥歯を噛みしめた。今にも歯の根が合わなくなりガチガチと歯を打ち鳴らしそうだった。恐怖が止めどなく溢れてくる。
 一気に注がれた恐怖の量に対処しきれなくなりそうだった寸前、黒い球体の威圧的な存在感が消えていくのが分かった。不気味な歯擦音が遠ざかっていく。どうやら気が付かずに通り過ぎてくれたみたいだ。手足から一気に力が抜けていく。ツィカと顔を見合わせ、互いに安堵の息を漏らして笑みを浮かべた。
「賭けだったけど見つからなくて良かった」ツィカが静かに話す。「見つかっていたら一巻の終わりだったわ」
「はぁ……ほんと生きた心地がしなかったよ」
 俺はトイレであることも忘れて、その場に座り込んだ。
「でしょうね。でもずっとここにいるわけにもいかない」
 そう言ってツィカは周囲を探りながらトイレの奥の方へと進んだ。
「えっ。ここに隠れてる方がいいんじゃない? 見つかってはないことだしさ」
「そういうわけにもいかないわ」
「なんで?!」
「ここは出入り口がひとつしかない。もしもの場合に逃げることができないでしょ。それに、あいつを迎え撃つには狭すぎる」
「ああ、なるほど……って、え? 君はあの怪物と戦うつもりなの?」
「そうよ」ツィカは今さらなに当然のことを訊いているの、と言うように平然と答えた。「そうしないと元の空間に戻れないでしょう?」
「知らないよ、そんなこと!」俺は小馬鹿にされているようで苛立ったが、抑え目に声を荒らげた。「じゃあ教えてくれ。あの怪物が何で、君は何者で、この世界で一体いま何が起こっているかを! 君は知っているんだろ?! 観察者とかいう君なら、この訳が分からない状況だって説明できるんだろ? どうなんだよ!」
 俺は疑問を怒声に交じりにふたたび捲し立てた。しかしツィカはトイレの清掃用具置き場で何か使えるものがないかと調べている様子で、俺の話はまた軽く聞き流されていた。
「ツィカ!」
 俺は彼女の名前を呼びかけ、どうにか話に集中させようとする。
 ようやくツィカがこちらを向いた。黒目がちな瞳が俺を見つめる。そこに宿る綺麗な銀河に吸い込まれそうだと思ってしまう。
 ツィカが優しい笑みを湛えた。
「やっと私の名前を呼んでくれた」
 そう言われて俺は気づかされた。ツィカは俺のことを『ジン』と呼んでくれていたのに、俺は彼女のことをずっと『君』と呼んでいたことに。
「いつになったら呼んでくれるんだろうって思ってたの。地の文ではずーっと前からツィカって呼んでるのに、口には出してくれないから」
 地の文……?
「まだ分からない? まあ無理もないかな。自覚できれば良かったんだけど、いまは贅沢いえる状況じゃないから教えてあげる。この世界はね、実は、小説のなかの世界なのよ」


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