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作品名:ディス・ユートピア 作者:alone

第2回 this utopia i
   ―― this utopia ――

 暗い、暗い、闇の底。
 底? いや、ここは底じゃない。もっと深い場所があるはずだ。
 でもそこのことは、覚えていない。忘れてしまったわけじゃない。ただ覚えておくことができないだけ。そこはもう意識を保てない深さ。意識の触れられない、無意識の領域だ。
 だからここまで。ここが、僕が存在していられる、ぎりぎりの境界線。視覚を切って、触覚を断って、味覚も嗅覚も無くして、その他の感覚も消した状態。僕が、僕の身体の存在を忘れてしまう、一歩手前。
 そこで僕は、《聴覚》を使って音楽を流す。僕の大好きな、旧時代が遺した音楽を。
 邪魔するものは何もない。不要な情報はすべて、受け取られることすらない。外のものを何もかも遮断して、僕は僕の奥深くに潜っている。僕という存在を感じさせるのは、今では音楽の刺激だけ。作曲者も演奏者も知らない、遠い昔に奏でられた残響だけ。
 でもそこで突然、僕は引き上げられた。深く暗い意識と無意識の臨界から。音楽だけが満たす世界から。
 あまりに突然のことで全身が弾かれたように跳ねた。きっと熟睡状態で急に水を掛けられたら、意識はこんな風に覚醒させられる。心臓が跳び上がって、血が塊で血管に押し出されて、血圧は急上昇。心臓に悪い起き方だ。一体誰がこんな酷いことをするんだ。
 僕は口の端を歪めて、ゆっくりと瞼を開いた。すると目の前に見つけたのは、ノアの姿だった。ため息交じりに僕を見下ろしている。
「急にどうしたの?」
 横になっていた身体を起こしながら、僕はノアに訊ねた。
「どうした、じゃないよ。何か大切なこと忘れてるだろ?」
「大切なこと?」
 大切なこと? と頭のなかで繰り返し、僕は思い出そうと努めてみた。けれど、あんな起き方をしたわりには、頭のなかは霧がかかったみたいに朧だった。それでも漠然と「大切なこと」と検索をかけてみたけど、引っかかるものは何もなく、目的のものが何であるかすらも分からない。適当に思いつくことを次々に切り替えていってみても、やはり結果は変わらない。ふと頭の奥で、まだかすかに音が鳴っていることに気付いた。けれど、もう音楽としての体(てい)を成してはいない。ただの耳鳴りと変わらなかった。
 会話を断絶させていた沈黙を溜め息で吹き消して、ノアがゆっくりと口を開いた。
「今日は演習の日だよ」
「あっ……」
 完全に忘れてた。視界の端に現在時刻を呼び出してみると、集合時刻からはもう三十分以上も経過してしまっていた。ついでに視界の端には他に、多数のメッセージを受信している旨が表示されている。感覚を切ってしまっていたので、いまの今まで気づきもしなかった。
 僕はがくりと頭を落として、嘆息を長々と漏らした。
「はぁ……きっとサディアス先生、カンカンなんだろうな」
「まあ、そうなるよな」
 ノアも被害を受けるだろうから他人事とは言い切れないわけだけど、もうすでに諦めているようで、無感情な響きのある言葉しか返さなかった。それがまた重りとなって僕の精神に吊り下がり、気が重くなる一方だった。
「あぁー今回は一体何されるんだろう……。前は酷かったからなぁ」
 弱音を吐いてしまうと、思い出したくない前回の出来事が脳裏を過ぎった。平衡感覚の訓練だと称して、サディアス先生に空中であらゆる方向に振り回されたときのことだ。今でも思い出すだけで吐き気が込み上げてくる。ぐるぐると回されるなかで吐き気に襲われるが、サディアス先生に吐き気という感覚さえも操られ、吐くことは叶わない。延々と吐き気の波が押し寄せてくる。生き地獄。その言葉が相応しいと思える状況だった。
 少しして脳に刻み込まれていた吐き気は消えていったが、代わりに僕は溜め息を吐きだした。力ない足を下ろして立ち上がると、重い足取りで情報遺産管理塔の出入り口へと向かう。隣にはノアも並んでいた。
「そんなに嫌なら遅れないようにすればいいだろ。音楽なんてもん、聴くのを止めればいいじゃん」
「無理だよ」
「なんで?」
「止められないんだ」
 僕の答えを聞いて、ノアは呆れ返り、馬鹿だな、と言って笑みを零した。それを見て僕も笑いたかったけれど、サディアス先生のことが頭を過ぎり、笑みは歪んで苦笑に変わってしまった。


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