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作品名:ディス・ユートピア 作者:alone

第15回 dys utopia vi
 大きく広がっていた川幅は次第に狭まっていき、滑らかだった川面は激しく乱れる。きらきらと輝いていた水面は、今ではチカチカと陽光を乱反射させて眩しい。上流に近づいている。川沿いを覆っていた背丈の低い草は密度を薄めていき、地面は粒子を荒く大きくしていた。砂から小石、そして岩へ。足場は凹凸を目立たせ始める。その一方、河川に沿って森が現れ始めてもいた。川のせせらぎに鳥の囀りが混ざる。先ほどまでの《悪魔狩り》が夢だったみたいだ。
 足を止めて息を吸えば、川面に冷やされた空気が肺の中を浄化する。鼻腔に残った《悪魔》の悪臭はきれいに洗い流される。心地いい清涼感があとを引いた。
 瞼を下ろして耳を澄ます。《聴覚》により聴力を引き上げる。川のせせらぎは土石流の流れのように激しく波打ち、鳥の囀りは音響兵器のように脳の髄を刺す。溢れる音の奔流の中から目的の音、《悪魔》の出す音を探す。息遣い、足音、鼓動、なんでもいい。どこかに《悪魔》が潜んでいないかを探る。
 しかしそれらしき音は感ぜられなかった。
 ここら辺には居ないようだ。そう思い、僕は《聴覚》を切ろうとする。が、そのとき、耳は予期せぬ音を拾った。
 仄かな音の響き。《聴覚》がなければきっと聞き逃していたであろう大きさ。
 無性に惹かれた。身体の奥深くが反応を示している。求めていた。僕は、この音を求めていた気がする。
 音を選り分ける。川のせせらぎを除け、鳥の囀りを排す。その音だけに耳をそばだてた。
 全神経を注ぐ。仄かだった響きは次第に明瞭な形を与えられ、確かな響きとして輪郭を定められる。《聴覚》によって引き上げられた聴力だが、この音を今では明らかな鼓膜の震えとして認識できている。
 鼓膜が震えている。僕は聴けている。何度も聴いたあの音を、《聴覚》ではなく、この耳で。
 音は連なり、調べを奏でる。ひとつの楽曲を成している。偶発的な産物ではない、誰かの手により生み出された音色。
 間違えるはずがなかった。聞き間違えるはずがなかった。それは確かに、何度も聴いた旧時代の残響。今は亡き、音楽。
「――ピアノだ」
 僕は呟き、走り出した。音が鳴る方へ、ピアノの奏でに導かれ。
 どれくらい走っただろう。夢中で駆けていて分からなかった。けれど聴こえてくるピアノの音は、確かにその大きさを増している。
 目の前で川が大きくカーブを描く。右手に伸び、森の陰に隠れている。川に沿ってそのまま走り、陰に隠れていた川の姿を見つける。そして同時に、一軒の家を見つけた。
 僕は足を緩め、歩きだす。心臓が激しく脈打っていた。呼吸は荒く、生温かい蒸気を吐き出す。興奮していた。走っていたからだけじゃない。胸の内からハッキリと湧き起こってくるものがある。抑えられない。身体を巡る血流に乗って全身に広がっている。
 ピアノの音色は止んでいた。だが方向から言ってあの川沿いに建てられた家から聞こえて来ていたのは間違いない。僕は家に近づき、恐るおそる窓から中を覗こうとする。
《ユートピア》では音楽を聴くなんて物好きだけがすることだ。僕以外に聴くような人間はほぼ居やしない。では《ユートピア》の外ではどうか? でも外にいるのは人間じゃなく、《悪魔》。《悪魔》は文明を奪うと言うが、奴らのような卑しい生物が音楽を解するはずがない。なら、この家の中にいるのは何者なのか? もしかすると、《ユートピア》では居場所のない音楽好きな人が、ひそかにここで音楽を匿っているのかもしれない。音楽に興味を示してくれない、その他大勢の人たちから。そんな淡い期待が僕のなかに浮かんでいた。
 窓ガラス越しに部屋の中を覗く。薄暗い室内には家具や調度品が整然と並んでいる。全体として旧時代の名残りを感じさせるが、どこか落ち着いた雰囲気も覚える。テーブルにイス。花瓶には花。隣に観葉植物。青々とし表面には張りがある。棚にはかたい装丁の書物。もの悲しそうに並ぶデッドメディア。中を見回しているとようやく、タンスの向こうに目的のものを見つけた。一台のピアノ。知識情報でみたものとは形が異なるうえに小振りだけれど、開けられた蓋から覗く白と黒の鍵盤はそれがピアノであることを物語っていた。
 血流が滾る。全身が欲望の声を喚く。僕は駆り立てられた。弾いてみたい。
 窓に触れてみる。鍵がかかっていて動かない。《触覚》を使い、室内から鍵を開けると、静かに窓を開けて中に入る。部屋には木の匂いが漂い、しんと静まり返っていた。
 ピアノに向かい立つ。並ぶ白と黒の鍵盤を見下ろす。ゆっくりと腕を上げて指先で白の鍵盤に触れる。すべらかな表面。円を描いて撫でる。そして優しく押し込んでみる。
 ポーン――……。一音の響き。しかしたった一音でも、全身に電気が走ったような快感があった。
 別の鍵盤を試してみる。別の音が響いた。あの曲で聴いた音だ。すぐに脳裏を音楽の調べが過ぎった。音が音楽に結びつく。喚起された音楽が脳内で快哉を叫ぶ。
 別の音を、他の音を――。次々に鍵盤を押していく。驚くことに鍵盤ひとつにつき、ひとつの音が割り当てられている。決して音が被ることはない。
 堪らなくなり両手で鍵盤をたたいた。ひとつの鍵盤からはひとつの音しか響かないが、別の鍵盤どうしを同時に押せば新たな響きが創出された。奥深い。目の前にはたった可算個の鍵盤しかないのに、作り出される響きは無限大だ。興奮しないはずがなかった。……だが心の奥底では、物足りなさを感じてもいた。
 僕の作り出す響きは、ただの音であって音楽ではない。弾いてみてわかった。この興奮はピアノに触れられたことから生じているものであり、生で音楽を聴けたことによるものではない。現に心の奥底は冷めている。ただの音ではもう満足できないと言っている。
 鍵盤をたたいていた手元から熱量が抜け落ちていく。夢中で動いていた腕は鉛を詰められたように重くなった。動きが鈍くなり、響く音の間隔は広がっていく。そして遂に鍵盤に掛けていた手は表面から滑り落ち、一音の響きを残して黙り込んだ。
 強く渇望していたものが目の前にある。しかし、僕にはピアノを歌わせることは出来ない。僕が作る音はただの文字。決して言葉にはならず意味を持たない。無感情な空気の震えに過ぎない。
 心地よかった昂揚感は消え失せ、今では失望感が心を蝕んでいた。脳内であとを引く音楽の残響が僕の心の酸化を早めた。錆びた心は今にも砕け、粉々に散ってしまいそうだった。
 音の波によって掻き乱されていた室内の空気が、僕の心に呼応するように沈静していく。ふたたび静寂が下りようとしていた。空気は質量を増して重くかたくなっていく。
 しかし、それをある音が邪魔をした。形容しがたい不快な異音が。
 金属の喘ぎのような鋭く生々しい高周波音。これには聴き覚えがあった。ついさっき嫌というほど浴びた《悪魔》の声だ。すぐさま声をした方を見た。すると家の玄関に背の低い《悪魔》が立っていた。白濁した眼をギョロギョロと動かし、僕のことを見つめている。
 殺せ――思考のプロセスを越えた反射的な命令が脳によって下される。
 だが僕の身体は動かなかった。理由は自分でも分からなかった。あれほど満ちていた《悪魔》への憎悪が嘘みたいだ。情けも容赦も捨てたと思っていたのに、なぜだかこの《悪魔》には憎悪が刃を向けなかった。
「ピキュリカミアルコリアナキレ」
《悪魔》はふたたび高周波音で語りかけてくる。意味はまるで分からない。それが言葉であるかすらも。
《悪魔》は首を傾げるような動きをした。傾いた顔のなかで独立的に牙がウネウネと動く。先から薄黒い唾液が滴り落ちる。粘度の高い音が床で跳ねた。
《悪魔》はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。窓から入りこむ薄明りが《悪魔》の身体をてらてらと光らす。湿り気のある光が下品に踊る。
 僕は後じさりして窓の方に逃げた。《悪魔》はその白濁の眼に僕を映しながらピアノの前に立ち、そこで止まる。僕に危害を加えるつもりではないみたいだ。この《悪魔》には敵意がない。その考えのおかしさに、僕はまだ気付けていない。
《悪魔》はおもむろに手を出し、ピアノの鍵盤に優しく触れた。そして毛皮を撫でるように滑らかに三つの音を続けて弾いた。
「カペチルティアキケキャチチャ」
 小さな《悪魔》がまた話しかけてくる。言葉の意味は相変わらず分からない。でもその表情は笑っているように見えた。この異常な状況が作り出した幻覚かもしれなかったが。
《悪魔》がふたたび鍵盤を弾く。先ほどよりも音の数が多かった。心の奥底がわずかに震えた気がした。気のせいか? いや、違う。
「チャキプリなテニアチコキキチの」
《悪魔》の声にノイズが入った。高周波ではない話し声。一瞬ではあったが女の子の声のようだった。だが辺りを見渡してみてもこの《悪魔》以外には誰も見当たらない。頭のなかでも誰の声もしていなかった。
 また《悪魔》がピアノを弾いた。今までとは比べ物にならない情報の量。これは単なる音の行列じゃない。そこには感情や表情が刻み込まれている。連鎖する音の調べが紡ぎだそうとする物語がある。
 音楽だ! 脳内に電撃が走った。一瞬、目の前が色を失いモノクロの様相を呈する。そこに《悪魔》の姿はなかった。ピアノにはひとりの人間の女の子が向かっている。
 驚きから瞬きを繰り返すとすぐに視界は色を取り戻した。目に映るのはやはり《悪魔》の姿。人間なんてどこにもいない。
 音楽は止まらない。《悪魔》はまるで僕のことを忘れてしまったようにピアノに没頭している。その手元は柔らかな動きを滑らかにこなしていた。あの嫌悪される姿をした身体からどのようにしてそんな穏やかな響きが生み出せるのかが不思議だった。そしてじっと鍵盤を見つめているとあることに気付いた。大きさが合わないのだ。
《悪魔》の指はまるで一本一本が死んで膨張した生物のように膨れているのだが、その大きさは明らかに鍵盤の幅よりも大きい。ある音を出そうにも、隣り合う鍵盤に触れてしまうことは避けられないはずだ。だのにこの《悪魔》は器用にも素晴らしい音楽を奏でている。なぜだ? 僕は《悪魔》のピアノを注視した。
 するとまた、世界が色を失った。
《悪魔》の醜い手の動きが消え、細く長い人間の手の映像がうつる。柔らかそうな白い手が鍵盤のうえを跳ねていた。幻覚か? 疑いを持つが瞬きをすると映像はもとの醜さに戻っていた。
 困惑する僕を弄ぶように音楽の潮流が耳から脳へと流れ込んでくる。膨大な情報量。処理しきれず掻き混ぜられる。《悪魔》がまた何か喋っている。
「おにいキュロピチャテリシチヤなの」
 音楽の純粋な響きに混じって人の声がする。《悪魔》がヒトの言葉を話して、いる……?
「チャピキだからキチシィチョピだよ」
 それは確かに女の子の声だ。僕は頭を抱えた。流れ込んでくる音楽の奔流に呑み込まれていた。幻聴なのか考えることすらままならない。判断をする思考がまるでまとまらない。僕の意識はもうぐちゃぐちゃだった。高速回転する刃に粉砕されて掻き混ぜられている。
「やめろ! やめてくれ!」
 僕は喚いた。眼のなかがチカチカと明滅する。脳内が痛みもなく疼いた。音楽が止まる。だが頭のなかはまだ五月蠅い。パチパチと脳髄が爆ぜた。神経が燃えるように熱い。《悪魔》が僕を見る。白濁色の淀み。そこに青の虹彩と黒の瞳孔を見た。小さな瞳。柔らかな鼻。可愛らしい歯。前歯がない。人間だ。人間の小さな女の子だ。僕を見ている。口を開いた。
「おにいちゃんだいじょうぶ?」
 はっきりそう聞こえた。僕は目を見開いた。
 ――瞬間、僕のなかで、何かが壊れた。
 僕は抑えられなかった。身体のうちから溢れ出て来るものを制御しきれなかった。それは感情であり、力であり、思考であり、記憶だった。頭のなかでかつての記憶が錯綜する。古い町並み、通りを歩く人々。その姿は黒く塗りつぶされる。《悪魔》だ。誰かが囁く。誰の声だ。何かが頭の中に棲みついている。《悪魔》だ。声は繰り返す。拒絶できない。記憶の町並みが吹き飛んでいく。《悪魔狩り》の記憶。人々が叫ぶ。断末魔の叫びだ。鮮血を吐き出し、内臓を零れ落とす。折れた骨が肉を突き破り、肉片が飛び散った。町並みに黒々とした血が迸った。
《悪魔》だ――また声がした。
 人々の声は消えた。高周波音が幾重にも重なって響き渡る。不快だ。気分が悪い。さっさと止んじまえ。
 壊した。全力で町を壊した。《悪魔》は吹き飛び、四散し、バラバラに千切れた。人じゃない。情けも容赦もいらない。奴らには生きる価値なんてないんだ。
 女の子が近づいてくる。頭を抱えて震える僕の目を覗き込んだ。でも僕の目には映っていない。僕の脳がそれを許さない。
 瓦礫のなかに人の頭や四肢が飛び散っていた。いや《悪魔》だ。《悪魔》の汚い肉片が飛び散っていたんだ。そしてスカイがすべてを均した。瓦礫も肉片も平らに均した。あとに残ったのは真っ赤な大地。真っ赤? 違う。そんな憶えはない。思い違いだ。あとに残ったのは《悪魔》の悪臭。くそ忌々しい悪臭だ。人なんて殺しちゃいない。《神様》のために《悪魔》どもを狩ったんだ。
 そう、《神様》のために!
 血走った瞳を忙しなく動かしながら僕は、《神様》のために、とうわ言のように呟いた。必死に自分自身に言い聞かせる。何度も何度も繰り返して。
「大丈夫?」
 誰かが言った。音楽的な響きのある声音だった。反射的に目が動いた。焦点が結ばれた。瞳が姿を映した。まさしくそれは――
 人間の女の子だった。
 僕は言葉にならない叫び声をあげた。記憶が目まぐるしい速さで再生された。人間の身体が千切れ四散し弾けとんだ。音が聞こえた。人の死の音だ。また誰かが吹き飛ばされた。高めの音が鳴った。赤ん坊が圧し潰された。低めの音が聞こえた。次々に人が死んでいった。人の死が音楽を奏でた。血塗れの音楽。血生臭い音楽。無残な死体が見えた。ねっとりと死臭が鼻を舐めた。口には鉄錆びの味が広がった。手は血肉に濡れそぼっていた。《拡張感覚》が暴走している。感覚の壁はもう溶けて消えていた。すべての感覚が死に収斂しようとしていた。必死に抗って声の限り叫んだ。喉が焼き切れそうになる。なのに声は聞こえない。誰かの断末魔が代わりに聞こえた。もう訳が分からなかった。脳みそがぐちゃぐちゃになっていた。熱した鉄の棒で掻き混ぜられたみたいに。
 しばらくして、僕はひとり呆然と立ち尽くしていた。
 周りには何もなかった。テーブルもイスも花瓶も観葉植物も本棚もピアノも何も。それどころか家があったという痕跡すら残されていなかった。僕の立っている場所は今では更地になっていた。
 僕は自分の手に視線を落とした。そこにもう血の色は見えなかった。しかしまた一人の女の子を殺してしまった。暴走した《拡張感覚》によって分子レベルでミンチにしてしまった。家ごと一緒くたに粉々に切り刻んでしまった。
 深い罪悪感が込み上げてきた。哀悼と謝罪の想いを込め、瞼を閉じる。
 そこに彼女がいた。女の子の姿は瞼の裏にくっきりと焼き付いていた。
 そして失われた小さな青い瞳を向けて、今でも僕のことをじっと見つめていた。


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