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作品名:Masquerade 〜マスカレード〜 作者:alone

第1回 父親の手紙
――明日はきっと来る。

 そんなものは金持ちの言葉だ。俺たちとはまったくの無縁。俺たち貧乏人には関係のない言葉だ。
 俺たちは今日を生き抜くだけで精一杯なんだ。明日のことを考えている余裕なんてない。明日なんて確約されたものじゃないのだから。


 空が白み始める。カーテンがないうえ、割れた箇所さえも塞げていない窓から薄らと日光が差し込んでくる。時計なんてないから今の時刻は分からないが、日の出がその日の始まりを告げてくれるので特に困ることはない。
 いつものように顔に眩しさと温かみを感じて、目を覚ました。綿が抜けてただの布きれ同然と化した綿布団から身を起こす。
 起きて早々と襲ってくる空腹感。毎朝毎朝よく飽きずに襲ってくるものだ、と思いながら、空腹感を気持ちで抑え込む。いくら気にしたって、口にできるものなんてどこにも無いのだから、そうせざるを得ない。奥歯を噛み締め、空腹感を押し殺した。
 底が擦り切れたうえに所々破れてしまっている靴を履く。もう何年履いているのかなんて思い出せない。ろくにサイズも合っておらず、かかとがはみ出してしまう。でも、素足で歩くのを避けられるだけでも救いだった。
 靴を履き終えれば、さっそく出勤の時間がやってくる。労働時間は朝早くから夜遅くまでの12時間以上。それだけ働いて、大人一人がなんとか生きていけるほどの給料しかもらえない。家族を養うなんて難しすぎる。
 しかし、俺も一人暮らしではない。病床に伏した父親が居るのだ。
 その寝たきりになっている父親の元に寄り、言葉をかける。
「父さん。今日も頑張ってくるよ」
 父さんは瞼を微かに震わせ、うっすらと開けた口から声にならない息を漏らした。何を言いたいかは解らなかったが、無視することなく「うん、行ってきます」と返す。
 父親の傍から立ち上がり、そのまま家を後にする。家の戸を開けて外に出ると、特徴的な臭さが鼻を覆う。
 ここは底辺の貧しい労働階級が暮らす場所。衛生環境なんてろくなものじゃない。産業革命をきっかけに乱立された工場群は、その工業用水を垂れ流しにしており、加えて煙突からは絶えず煤煙を上げている。汚水のためにネズミなどの小動物の死骸が至る所に転がり、病原菌繁殖の温床と化し、さらに煤煙による呼吸器障害で、多くの人が慢性的な喘息に悩まされていた。
 しかし、それだけには留まらず、生活設備もろくに整っていないここでは、道端に人間の排泄物や吐瀉物が散在していた。さらには、生活で発生したゴミが路上に捨ててあったりもし、人が住む街というよりゴミ溜めと言った方が適しているほどであった。
 悪臭が充満している道を進んで行く。道端には小動物の死骸などが転がり、腐り始めている。そして、今日は一人の男が酒瓶を抱いて壁にもたれているのを見つけた。近くを通っても、その生死は判断できない。だが、どうせ生きていた所で、もう先は長くないようにも見えたし、死んでいた所で、死体なんて珍しいものでもなかった。だから、俺はその横を素通りしていった。
 助けないなんて感覚がおかしくなってるんじゃないかって思うやつも居るだろうが、そんな余裕なんてないんだ。他人を救えるほどの余裕なんて持ち合わせていない。今日を生きるので必死なんだ。俺の身ひとつに、俺の命だけじゃなく、父さんの命もかかっているんだから。赤の他人に気を回す余裕なんてどこにも無い。
 悪臭がこもった道を抜け、大きな通りに出る。そこに面する建物は、どれもこれも工場ばかりだ。毎日労働者を集め、安月給で酷使する場所だ。
 多くの労働者が自分の働いている工場に向かう流れに加わり、俺も自分の雇われている工場に向かった。

 工場に着き、過酷な労働が始まる。不衛生な環境に多くの労働者が詰め込まれ、昼夜を問わず働かされている。一晩中働かされていた人々がシフトチェンジで帰って行くのを横目に見ながら、俺も作業にとりかかった。
 何十分も何時間も同じことを繰り返し続ける。流れ作業にすることで、個々人の作業の単純化が図られているのだ。単純ゆえの退屈さが、肉体的疲労に精神的な苦痛を加えているのは言うまでもない。
 どこかで誰かが激しく咳き込んでいる。ひどい咳だ。おそらくだが肺炎でも患ってしまっているだろう。
 あまりに咳がひどいために、彼は手を止めてしまい、彼の作業ラインが滞ってしまう。それに気付いた管理係が彼の元に行き、殴りつけた。殴られた男は必死に謝りながら、首にしないでくれと懇願している。
 その様を彼の作業ラインの連中は迷惑そうに眺めていた。というのも、一日のノルマを達成できなければ、その作業ラインの担当者は減給なうえに罰を与えられるからである。そのため、彼らは早く作業が再開されることを望んでおり、目の前で苦しむ男がどうなろうとどうでも良かったのである。それは彼らに限ったことではなく、他の作業ラインにも当てはまる。俺は咳き込んでいた男を見ていたが、他に気にかけたような奴はほとんど居なかった。皆が皆、自分のことに必死であり、他人のことを考えてる余裕なんてないのだ。
 男は管理係のズボンを掴み、必死に嘆願している。その様をウザく感じたのか、管理係はその男を蹴り飛ばし、他の奴に指示して工場から追い出した。これで労働力が一つなくなってしまったかに思えるが、管理係が外に出ると、すぐに他の奴を連れて帰ってくる。新たな労働力が補給されたのだ。
 これがこの世界の常だった。人なんていくらでもおり、労働力には困らない。昇給を要求する者が居れば、首にして新しい者をより安い給料で雇えばいいし、会社に来れなくなれば、呼び出すことなく路上で募集すればすぐに志願者が現れた。労働力は腐るほどあり、人間なんて消費財となっていた。
 俺もその一つであるから、今の給料で妥協するしかない。今の環境や状況に文句をつけることなく、黙々と作業をこなしていくだけだった。

 今日も12時間以上の労働を終え、帰路に着く。月明かりだけが頼りな薄暗い道を行き、悪臭が鼻に絡みつくのも無視して家に到着する。衣服に付いた煤を叩き落とし、家の戸を開けて中に入る。
「父さん、今帰ったよ」
 起きているかどうか分からない父親に声をかける。返事をしてくれているかもしれないが、俺に聞き取ることは出来なかった。
 寝たきりの父さんの元に寄り、服のポケットからパンを一つ取り出した。
「毎日パンばっかりでごめんね。いつかもっと良いもの食べさせてあげるから、今はこれで我慢してよ」
 そう言いながら俺はパンを二つに割いた。一方は自分のであり、もう一方はもちろん父親のだ。
 見た感じで小さい方に俺は噛り付き、大きい方を父親のために取っておく。食いちぎった一口分のパンを丁寧に噛み締める。咀嚼を意識し、少しでも腹の足しにしようとした。
 パサパサとしていたパンが歯ですり潰され、唾液と混ざり合ってドロドロになったところでやっと呑み込む。
「父さん、晩ご飯だよ」
 片手に持っていたパンを差し出す。だが、父さんは無反応だった。寝ているのだろうか?
「父さん、起きてよ」
 自分のパンを脇に置き、空いた手で父さんの肩を軽く叩いた。しかし、変わらず反応はない。
 何だか嫌な予感がした。それが現実になるのを否定するように、声を上げる。
「父さん?」今度は少し強めに肩を叩いた。また反応はなし、だ。
「父さん!」強く肩を揺すった。合わせて父さんの身体を揺らされる。けれど、その様子にはまったく変化がなかった。
 信じたくはないが、あることが頭を過ぎる。恐る恐る耳を父さんの胸に近づけ、押し付ける。
 無音。何も聞こえない。心臓は役目を終えてしまっていた。
 俺は頭を上げ、悔しさで顔を歪めた。
 いくら死がこの世界では日常茶飯事だと言われても、今回だけは割り切れなかった、切り捨てられなかった。身内の死を簡単に受け入れられるだけの余裕なんて、持ち合わせちゃいなかった。
 悔しさから視線を床に落とすと、偶然にも視線の端で、父親の枕の下から何かがはみ出しているのを見つけた。今朝はそんなもの無かったのに、と思いながら、それに手を遣る。枕の下に手を入れて少し浮かせ、それを取り出した。
 それは折りたたまれた紙であった。ゆっくりと開いてみると、そこには父親の字が綴られていた。病気で弱った身体で無理して書いたのか、その字はお世辞にも綺麗なものではなかったが、なんとか読むことはできた。


 マルクレイへ
 この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世には居ないだろう。お前に心配をかけまいと思い黙っていたが、自分の身体の死期が近いのは分かっていたのだ。
 今までお前には苦労ばかりかけさせてしまった。まだ若いお前に満足な生活ひとつ送らせてやれないなど、父親として失格だ。本当にすまなかった。
 父親として何かひとつでもお前のためにしてやりたいと思い、こうやって筆を取った。お前は幼かったから覚えていないかもしれないが、私たちはかつて貴族だったのだ。しかし、私が事業で失敗してしまい、貴族の座を追われて現在のように没落してしまった。自らの無能さのために、子供に迷惑をかけてしまったことは悔いても悔い切れない。
 そこで、私はある人物に頼み込み、お前の面倒を見てくれるよう約束をしておいた。彼の名前は、ゲルトラウス・デ・クラウディスティン。ヴェレンツェ通りを抜けた先にある、一際大きな屋敷に住んでいる。
 彼の元を訪れなさい。お前はまだ17歳と若いのだ。まだ人生をやり直すことが出来る。こんな貧しい生活からは抜け出すのだ。
 最後に、頼りない父親で本当にすまなかった。これからはまともな人生をお前が歩んで行けることを、あの世から見守っている。


 手紙を読み終え、少々の混乱を覚える。自分が貴族だったなんて分からなかったが、思い出してみると煌びやかな映像が一瞬一瞬ではあるが頭を過ぎった。これが当時の記憶なのだろうか。
 だが、これではっきりと実感を覚える。父さんは死んだのだ。この遺言がすべてを物語っている。
 父さんが目の前で死んでしまっているというのに空腹感が湧き起こり、片手に持っていた父親のためのパンに噛り付いた。
 父親が死んだというのに必死にパンを食べている自分。自嘲的に苦笑いを浮かべてしまう。
 また一齧り。塩気が効いている。けれど、食べる度にその濃さは濃くなっていった。
 あれ、何でだろう……? 今度は視界がぼやけてきた。
 空いている手を目元にやると、濡れているのが分かった。そう、俺は泣いてるんだ。
 そのことに気付くと、涙が堰を切って溢れ出した。またパンを齧ろうと持ち上げた手も、だらりと床に垂らし、一人ボロボロと涙を流し続けた。


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