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作品名:除獣怪 ―ノケモノノケ― 水行区編 作者:ススム

第9回 第五暦・陽 亀の甲
「おっ、ようやく晴れたみたいだな」
 およそ一月ぶりとなる青い空を仰ぎ見て俺は大きく伸びをする。
「あら、ついに明けましたか?」
 縁側に立つ俺の横合いから千和がひょっこりと顔を出した。
 そのまま俺たちは久方ぶりの陽光に感激すら覚えながら、並んで腰を下ろした。、
「今年の梅雨は本当に長かったですわね。ずっと終わらないのではないかと思うほどでした」
「ただ長いだけならいいんだがな。ろくに外出できないほどの豪雨が続いて気が滅入るったらなかったぜ」
「まあ、その程度で済んだことも幸いに思いませんと。水行区の被害に比べれば金行区(こちら)は平和なものですわ」
 千和の言う水行区の被害とは今回の長梅雨に伴って起きた地盤沈下のこと。
 元々、あのあたりは三か月前に川の氾濫もあり地盤が緩くなっている状態だったらしい。
 先の水害の復旧がようやく落ち着きを見せたところでの今回ということで、確かにそれを思えば俺たちは幸せ者だ。
「子の処の寺子屋なんて建て直したばかりだというのにひどく壊れてしまったとか」
「ああ。竹恵さんから聞いたぜ。『せっかく娘を通わせようとした矢先だったのに』って悔しがってたな」
 そういえば、あの子――いたちもきっと子の処の寺子屋に通っているはずだ。
 寺子屋さえ再開すれば、あんな風に一人寂しさを抱えることもなくなるだろうに。
「お兄様。いつまでもじめじめした気分を引きずっていては、せっかくの天気も意味をなくしますわよ」
 俺が暗い顔をしているのに気付いてたか、千和は努めて明るい声を出しながら立ち上がる。
「お茶でも淹れてきますわ。それで心もすっきり晴らしましょう」
 そう言って、千和は台所の方へ向かう。
 そうだ。確かに千和の言う通り。俺が頭を抱えたところで天の采配(さいはい)ばかりはどうすることもできない。
 起こってしまったことをあれこれ考えていても詮の無いことか。
 と、俺が水行区のことについては諦めて整理をつけようとしたとき。
「あ〜、たいへんですわ〜」
 台所から千和の叫び声が聞こえてきた。どことなくわざとらしい叫び声が。
「……何だ? どうした?」
 いかにも聞いて欲しそうだったので俺は暗黙の要求に従い質問する。
「お茶葉を切らしてますの」
「ああ。梅雨で閉じ込められて長いこと買い物にも行けてなかったしな」
 一体何事なのかと思いきや予想以上にどうでもいい答えだった。
 しかし千和はいかにも一大事といった真剣な表情で続ける。
「ええ。今すぐ買ってこないといけませんわ。お兄様のためにお茶が必要ですから。お茶を飲まないとお兄様はうじうじしたままですから」
「いや別に……」
「でも私にはお洗濯を始めお家の仕事をたくさんやらないといけませんの。ですから買い物には行きたくてもいけませんの」
「だからお茶なんて急がないから……」
「ああ。こんなときに代行屋がいてくだされば買い物を頼めますのに」
「………………」
 いや普通に頼めよ。俺、普段から結構家事手伝ってるぜ?
 何かそんな言い方されたら俺が代行屋を理由にいつも家でゴロゴロしてる実質無職のろくでなしみてえじゃねえか。
 それとも何だ。丸っきり依頼が入ってこない俺を気遣ってこんな大根芝居を打っているのか?
「俺が代わりに行ってこようか?」
 妹の意図が分からないまま、言って欲しい言葉は嫌というほど分かるのでまたもそれに従う。
「本当ですか? 流石お兄様ですわ」
「いや全然、流石っていうところがないと思うけど」
「それではお願いします。お茶葉と……お味噌とお塩とお米とお醤油、それとお酢も」
「随分一片に買い込むな!」
 つまりあからさまな力仕事を押し付けるのは気が引けるから遠回しに頼んだってことか?
 別にそれでも普通に頼んでくれてよかったけどな。力仕事は得意だし嫌いでもない。
「分かったよ。しかしそれだけ揃えようと思ったら丑の処のまだら市場に行くのが手っ取り早いな」
「ええ。ここからですと『水行区の子の処にあります寺子屋の前を横切って』行く市場ですわね」
 なるほど。俺はようやくのこと千和の狙いが分かった。
「なら、行ってくるぜ。戻るのは少し遅くなるかもしれないけどな」
 その気遣いに感謝をしつつ、しかしやはり演技の拙さに呆れつつ俺は千和の描いた絵に乗っかる形で屋敷を出る。
 そして水行区の子の処――その中で中心部に位置する寺子屋の跡に到着した。
「話に聞いていた通り……いやそれ以上だな」
 原型を全く留めていない完全倒壊。周辺の地面は目算で五・六尺近く陥没していた。
 怪我人や死人は出ていないという話だったからもっと軽微な被害を予想していたが何ともひどい。
 埋め立て作業が必死で行われているが中には夜通しで作業している者もいるのだろう。彼らには明らかに疲れが見て取れた。
 この様子だと寺子屋の再開はいつになるか分からないな。
 俺は再び市松梅子やいたちの顔を思い起こす。
 彼女たちのために俺ができることなど何もない。
 そう割り切ったつもりだったがもしも寺子屋の復旧を手伝うことで力になれるのならば、俺は労を惜しむつもりはなかった。
 生憎、力仕事は嫌いじゃない。
 よし、そうと決まれば善は急げだ。
 俺は陥没地に足を踏み出そうとした、そのときだった。
「そこで何をやっている?」
 重くて固い、冷淡な声が俺の鼓膜を震わせた。
 そこにいたのはこの水行区を統べる北の城門守護四士――船島巌流(ふなしま がんりゅう)その人だった。
 相変わらず目の前にいるだけで圧し潰されそうなほどの重圧を感じる。
「何って水行区が地盤沈下にあったって聞いたからな。復旧作業を手伝おうと思っていたんだよ」
「ふん。代行屋は随分と暇らしいな」
 全く期待はしていなかったが巌流は感謝の色一つ見せることはなく、どころかかなり傷付く言葉をぶつけてきた。
「ひ、暇じゃねえよ。今だって依頼を受けているところだぜ」
 依頼者は身内だけど。ぶっちゃけただのお遣いだけど。
「ならば貴殿は貴殿の仕事に専念することだ」
「そうしたいのは山々だがな。こんな疲れ切った連中をこき使っている状況を見て何もしないほど、俺は人でなしじゃねえんだ。どこかの誰かと違ってな」
「それはどこの無能のことかな?」
 巌流がさっと手を上げると、たちまち大量の若者たちが復旧の現場になだれ込み作業の引き継ぎを始めた。
「人手は十分に足りている。労働時間や健康状態の管理体制も問題はない」
「……まあ、さっきの発言は取り消すがそれでも何か手伝えることが――」
「ない。むしろ勝手に場を荒らされては迷惑だ。それとも十字郎殿には、どうしてもここに近付きたい理由でもあるのかな?」
 巌流は意味深に訝(いぶか)しむようなことを言うが、何を言いたいのか俺には全く分からない。
「どういうことだ?」
「何。犯罪者は現場に戻ってくるとよく言うからな」
「ますます分からねえよ。はっきり言え」
 焦らしてくるような巌流の言葉に俺は痺れを切らして問い質す。
 次の瞬間、巌流は驚きべき言葉を口にした。
「この事件は天災ではなく人災だということだ」
「は? 人災……だと? これが?」 
 俺は今一度、陥没している地面を見る。これを人の手でできるとは到底思えない。
「何言ってるんだ? こんなものをどうやって、いやそもそも何で寺子屋を壊すんだよ? そんなことをして何の得がある?」
「幕府の権威を失墜させるためだろう。ここは水行区の中心。まして子供の集う場を守れぬとあれば、幕府への町民たちの不信が募ることは必死」
 正直、巌流の話は根拠のない絵空事にしか思えず俺には付き合い切れなかった。
「で、俺がそれをやったってか。馬鹿馬鹿しい。証拠でもあるのかよ」
「私が何も知らないとでも思っているのか?」
 俺はどきりとした。もちろん寺子屋倒壊事件にはまったく関与していないが、同じくここ子の処にある北門に侵入未遂をした前科はあったからだ。
 もしそれがばれかけているとすれば。俺は動揺を悟られぬように何とか平静を装う。
「何の話だ?」
「ふん。ともかく私は幕府に歯向かうものには容赦はしない。それを肝に銘じておくことだ」
 前回と似たような忠告を残して巌流は現場指揮の仕事に取り掛かり始めた。
 俺は一先ずほっと溜息を吐くと、続けて巌流から聞いた話について思考を巡らせる。
 この事件が人災。それも幕府の権威失墜を狙っての破壊工作。
 これが巌流の妄想でないとするならば俺の中に浮かんでくる人物が一人いた。
「まさか琥珀が……?」
 詳しいことは分からないが、琥珀が幕府直轄の天賀御庭番に反感を抱いていること・何やら色々と暗躍していることは間違いがない。
 だが同時に梅子を助けてくれたあいつが自分の目的とためとはいえこんなことをするとも思えない。
 まあ地賀琥珀について何も分からない以上、ここから先は考えたって仕方がないか。
 どうあれ、犯人探しにしても復旧作業にしても巌流に任せるより他はないのだ。
 今一つすっきりしないが俺は千和からの依頼をこなすことにしよう。
 そんな風に思考を切り替え市場を目指そうとしたとき、見覚えのある顔が俺の視界を横切った。
「あ〜やっと交代だぜ。疲れた〜」
「浮悌(うきやす)? お前、こんなところで何やってるんだ?」
「あれ、十字郎さん? こんなところで会うなんて奇遇だな〜」
 泥だらけの顔に似合いもしない健康的な汗を垂らしながら、彦田家次男――彦田浮悌は俺に白い歯を見せた。
「何って復旧作業の手伝いだよ」
「言っちゃあ何だが意外だな。お前、そんな博愛精神に溢れた奴だったのか?」
「いやいやまさか。俺が好き好んでこんなことをやるはずがねえだろ」
 浮悌の言葉に俺はある種の安心感を覚える。
 よかった。やっぱりこいつは俺が知るいつもの浮悌だ。
「じゃあ何だってこんなことを?」
「それがよ〜、『女遊びも大概にしろ』って親父にどやされちまって無理矢理ここに放り込まれたんだぜ。ひでえ話だろ」
「うん、確かにひどい話だな」
 というか、あの梅雨の中でも花街通いに精を出していたお前は流石だよ、浮悌。
「まあ、それも何とか一段落ついたけどな。十字郎さんは?」
「俺はただの通り道だよ。この先の市場に用があってな」
「ああ、まだら市場か。あそこに行くんなら都合がいい。俺もちょうど用があったからよ。一緒に行こうぜ」
「それはもちろん構わないが、何の用があるんだ?」
「いやここのところクソ親父のせいで女の子たちのところに行けてないだろ? だからお詫びの品を色々と買っておこうと思ってな」
 親父さんの思いも虚しくバカ息子は全く懲りた様子はなかった。
 未の処の女の子たちにしてみれば、これ以上ないくらいにいいお客さんだがな。
 そんなわけで、俺と浮悌は肩を並べて丑の処のまだら市場に向かうこととなった。
 道すがら気になったことがあったので俺は口に出す。
「このあたりはそれほど被害はないんだな」
「ああ。というか、被害らしい被害はほとんどあそこだけだってよ。まるで寺子屋の周りだけ狙いすましたかのようにずっぽりさ」
 狙いすましたかのように、か。
 巌流から聞いた話を浮悌に振って意見を聞いてみようかと一瞬思ったが即座に思い直した。
 何か色々な意味であまり意味はなさそうだ。
 そうしているうちに俺たちは目的地に到着する。
「さてと、じゃあ俺は工芸品とかお菓子とか売ってるとこにいくからここで一旦別れようぜ」
「お、おう」
 着いて早々に浮悌は俺を置き去りに去っていこうとしたが、寸前で踵(きびす)を返してこちらへと戻ってきた。
「何だ十字郎さん。そんな雨の中うち捨てられた子犬みたいな目をして。もしかしてここに来るの初めてなのか?」
「……いや、多少不安になったのは認めるがそんな目はしてねえよ。初めてでもねえし」
「あ〜あ〜強がりはいいから。それ貸してみろよ」
 そう言って、浮悌は俺の手から買い出し内容の書かれた紙を強引に抜き取る。
 それに目を通すとたちまち困惑の表情を滲(にじ)ませた。
「うわ〜、これを一片に買いに行かせるとかちわわちゃんも鬼だな。よし……まずこっちだ」
「お、おいちょっと待てよ」
 俺はすっかり浮悌の調子に引き摺られる形でその後を追う。
 浮悌は効率よく売り場を回り値引き交渉まで請け負ってくれたばかりか、梅雨明けで混み合う市場の中で俺が逸れないよう手まで引いてくれた。
 何だこいつ。こんなにも頼もしい奴だったのか。それでも妹をやる気はないがな。
「これで全部だな」
「ああ。ありがとな。随分と助かったぜ」
「礼ならちわわちゃんに俺のいいところを話すことでしてくれ」
「分かったよ……」
 それを自分から言わなきゃ完璧なんだがな。
「頼んだぜ。絶対だぜ。それじゃあ帰ろうぜ」
「ああ、戻るとするか」
 そうして俺が元来た道を引き返そうするのを、どういうわけか浮悌は慌てて引き留めてきた。
「おいおい十字郎さん。まさかその大荷物抱えて徒歩で戻るつもりか!?」
 俺は浮悌が何に驚いているのか分からず呆気に取られる。
「もちろん、そのつもりだけど」
「馬鹿だな。金行区に戻るなら堀舟を使えばいいだろ」
「堀舟? 何だそれ?」
 聞き慣れぬ名前を受けて俺は説明を求める。
「堀舟ってのはそのまんま水堀の上を通る舟だよ。逆暦(ぎゃくれき)のみだが定期的に巡航してんのさ」
「逆暦?」
「逆暦っていうのは十二支を逆に辿る経路のことだよ。ちなみに十二支通りに進むときは順暦(じゅんれき)」
 なるほど。そんなものがあったとは。
 これまではひたすら歩きで町を回っていたから知らなかった。
 流石に将軍様のお膝元だけあって田舎では考えられないものが色々あるぜ。
「おっ、ちょうど来たみたいだぜ」
 言われて浮悌の指す方向を見ると、堀の角から想像していたよりも十倍以上もでかい屋形船が姿を現し田舎者はまたも度肝を抜かれた。
「でかっ!」
 こんな馬鹿でかいものに今まで気付いていなかったとは。水堀の上を通る舟っていうのは盲点だったからな。
 やがて屋形船(万年丸と船体に刻まれている)は丑の処の淵につけられ、俺と浮悌、他の乗船者たちが一斉に乗り込む。
 それから積荷も運び込まれるが、その量もまた規格外のもので俺は目を丸くする。
「こんな大量の積荷どこに持ってこうってんだ?」
「土行区だよ。この舟は元々、土行区への積荷を運搬するためのもので人の送迎は昼間だけの臨時なのさ」
「そうか。一区分の物資やら食糧やらを積み込もうと思えば、このくらいの大きさになるわな……ん?」
 そのとき俺はある事実に気付く。
「ということは、この舟の人間は土行区に立ち入りが許されているってことだよな!?」
「……ああ、まあな」
 俺の言葉に浮悌はなぜか気のない声で応える。
 だが今の俺には浮悌の顔色に気を配る余裕などはなかった。
 重要なのはこの舟に土行区へ入れるもの――すなわち親父に会った可能性があるものが乗っているということだけだ。
「この舟の船頭って誰なんだ?」
「あそこにいる甲蔵(こうぞう)ってジジイだよ」
 浮悌の指先を辿ると、そこにいたのは文字通りに舟の舳先(へさき)に立ち、この巨船をあろうことかたった一人、ただ一本の櫂(かい)で舵を切る豪快な老人だった。
「あの爺さんか?」
「ああ、ただ――」
 浮悌の言葉を最後まで待たず、俺は老人に駆け寄ると周囲への迷惑も省みず大声で言った。
「いきなりすまない。俺は狛走十字郎。狛走一黙斎の息子だ。あんた、土行区に積荷を運ぶ仕事をしてるんだよな? 何でもいい。親父について何か知らないか?」
 これまでは城門守護四士にしかできなかった質問。
 ところが北は取り付く島もなく南にはのらりくらりと躱されて西と東には未だに会えず仕舞い。
 そんな中で図らずも訪れた好機に俺は逸る気持ちを抑えられなかった。
 甲蔵爺さんは俺の期待のこもった眼差しを、しかし一瞥したきりすぐに前方を向き直す。
「………………」
 それから何事もなかったかのように舵を切り始めた。
 聞こえなかった? いや、今明らかにこっちを見たよな。
「なあ、聞こえてんだろ? 親父は温応城の警備に就いているって聞いたんだが本当か?」
「………………」
「もしかして、幕府に口止めされているのか?」
「………………」
「おい、答えられないなら答えられないでもいいから、せめて何か――」
 甲蔵爺さんはもう俺の方を見向きもしない。
 痺れを切らしてその肩に手を伸ばそうとしたとき、逆に俺の肩に背後から伸びてくる手があった。
「もう止めとけ、十字郎さん」
 浮悌はそう言って周囲を見るよう身振りで促す。
 そのとき俺はようやく船中の注目を浴びていることに気付き、途端に気恥ずかしさが顔を出す。
 結局、守護四士以上に何も引き出せないまま、すごすごと引き下がる羽目になった。
「しかしあの爺さん、徹頭徹尾だんまりだったな。やっぱりあの質問はまずかったのか?」
 集まっていた視線が散ったのを確かめてから、俺は今更ながら後悔の言葉を口にする。
「いいや、そうじゃねえよ。あのジジイは誰に対してもああなんだよ。仕事は確かなんだが逆に仕事に必要なこと以外は一切しねえ。絵に描いたような仕事人間なのさ」
「ふ〜ん。公私混同しないのは好感がもてるけどな」
 俺がそう返すと、浮悌は今一度周囲の目を確認してから声を潜めて付け足した。
「それだけじゃねえ。あいつは昔、漁師だったんだが何かの事件を起こして幕府に仕えることになったって噂だ」
「何かの事件って?」
「さあ。そこまでは知らねえけど。本人の雰囲気とも相まってどことなく不気味だから、俺はあのジジイあんまり好きじゃねえんだよ」
 それから浮悌はこの話はおしまい、とばかりに頭の後ろで手を組んで船の縁に体を預けた。
 俺はもう一度、気付かれぬように甲蔵爺さんの顔を窺(うかが)う。
 確かに頑固一徹で近寄りがたそうな雰囲気はあるが悪人には見えない。
 まあ、悪人に見える悪人がどれだけいるのかという話だが。
 そんなことを考えている間に、舟は早くも丑の処を横切って子の処に差し掛かった。
「うん、待てよ。おい浮悌!」
 俺は目前に現れた異常に気付き浮悌を揺り起こす。
「何だよ、十字郎さん。どうしたってんだ?」
「どうしたもこうしたも、このままじゃ舟が玄武橋に激突しちまうぜ。もしかして四分の一区間ごとに舟を乗り変えるのか?」
「何にも知らねえんだな、十字郎さんは」
「何にもは知らなくねえよ。知らないことだけだ」
 浮悌は溜息混じりに、今日何度目かも分からない説明を何だかんだで丁寧にしてくれた。
「舟は乗り変えねえよ。確かにこの舟の大きさだと橋の下は潜れねえが、実はあの橋は跳ね橋になっているのさ」
「跳ね橋?」
「ああ、見てれば分かるぜ」
 言われた通りに見ていると舟は減速し始め玄武橋の手前で停止した。
 それから甲蔵爺さんは舟から飛び降りると、橋の下を何やらいじり出した。
 やがて玄武橋はゆっくりと中央から二つに割れ始めた。
「これが跳ね橋か」
「そう。ちなみに東西南北の橋のうち、朱雀橋だけは跳ね橋じゃねえんだ。もちろん最初に作ったときは跳ね橋だったんだが、楠永(くすなが)が勝手に改造したせいで――」
 橋が上がるのを待つ間に浮悌の捕捉説明が始まっていたが、俺の意識は別のところに引っ張られていた。
 他の乗船者は慣れたものとばかりにめいめいに寛(くつろ)いでいたが、ただ一人俺と同じように甲蔵爺さんを見つめていた男がいたのだ。
 その姿はひどく目立ち、自然と俺の目が次に追ったのはその男だった。
 そして驚いたことに俺はその男を知っていたのだ。頬がこけ飛び出した無精ひげを生やした鼠のような風貌。
 乾座の裏口、それから子の処の長屋と俺は二度この男の顔を見ている。
 単なる偶然……と言えばそれまでだが。
「おい、十字郎さん! 聞いてんのか」
 そのとき浮悌の声に俺ははっと我に返る。
「あ、悪い。聞いてなかった」
「まったく。誰のために説明してると思ってんだよ」
「だから悪かったって。ちょっと知っている顔を見かけたもんで――」
 俺はもう一度、あの男がいた場所に視線を戻したがすでに男の姿はなかった。
「知っている顔って?」
「いや、本当に顔を知っているだけの奴なんだけど」
「何じゃそりゃ」
 それから浮悌と無駄話に花を咲かせている間に舟は戌の処に到着する。
 出たのは朝だったのに気付けば日が暮れかかっていた。
「今日はありがとな、本当に」
「いいってことよ。それじゃあまたな、十字郎さん」
 夕日のせいか、謎の名残り惜しささえ感じながら俺は浮悌と別れの言葉を交わす。
 ああ、そうだ。最後に言っておかなければならないことがあるんだった。
「なあ一つだけ教えて欲しいんだけど」
「何だよ、またか。もういいぜ。何でも聞いてこいよ」
「いや、大したことじゃないんだがな。お前、このまま申の処の自分の家に戻るのか?」
「いいや、家には寄らず未の処まで乗っていくつもりだぜ」
 やっぱりな。
「浮悌。お前、まだら市場で――」
「ああ――!!」
 気付いたみたいだな。最後の最後で俺からも一つ教えることができたみたいでよかった。
 そう、浮悌は俺の買い物に付き合っているうちに自分の買い物のことをすっかり忘れていたのである。
 てっきり諦めて手ぶらで未の処に向かうのかと思っていたが、そんな俺の想像を彦田浮悌は悠々と越えてきた。
 何と出航直前の船から飛び降りると、水行区目掛けて全速力で駆け出していったのだ。
「まさかそこまでするとはな……」
 俺はもはや感心さえしながら狛走家の門を潜る。
「お帰りなさいませ、お兄様。お茶葉は買えましたか?」
「ああ、茶葉も味噌も塩も米も醤油も酢も買ってきたよ。これお釣りな」
 俺は千和に余った銭を渡すと、次に買ってきたものを運び込むことにした。
「千和、これはどこに置いたら――」
 指示を仰ごうと千和を見ると、どうしたわけか俺から銭を受け取った姿勢のまま目を丸くして固まっていた。
「どうしたんだ?」
「いえ、正直驚いておりますの。お兄様がこんな上質で、それも私が普段から使っているものをこの金額に収めて買ってきてくださるとは思っておりませんでしたから」
 俺は妹にどれほど見くびられているのだろうか。いや、実際に一人じゃこれを買い揃えられなかったのは事実だが。
「実は浮悌に会ってな」
「ああ、それで」
 その一言で千和はすべてを察したようで今度は俺が逆に驚かされた。
「いや、まだ終わってねえよ。浮悌の奴が意外にも市場に大分詳しくてな」
「そんなことは存じておりますわよ。さてお兄様。お疲れ様でした。今度こそお茶を淹れて差し上げましょう」
「………………」
 よかったな、浮悌。お前の好感度はそれほど低くもなさそうだぞ。
 俺としてはちょっと複雑だが。
 千和がお茶を淹れてくれている間に今度は寺子屋の現状について報告した。
「ってな感じでな。まあ巌流始めみんな復旧を頑張ってたけど、寺子屋再開の目処はまだまだ立ちそうもないな」
 せめて手伝いをさせてもらえればこのもどかしさもいくらか解消できるんだが、肝心の巌流に嫌われている現状では無理な話だった。
「心配なさることはありませんわ、お兄様。きっと何とかなります」
 俺の悩みを何のそのとばかりに千和は楽天的なことを言う。
「何とかなるって、何の根拠があってそんなこと」
「だってほら」
 千和はお茶を淹れ終わった湯呑を俺に差し出しながらその『根拠』を示した。
「お兄様の湯呑に茶柱が立ってますから」
 確かに、並々と注がれたお茶の中心で一本の茶柱が浮き沈みを繰り返していた。
 いや茶柱って……そもそもそんなものを根拠にする時点で能天気過ぎると思うが。
 しかし今日一日で何度も何度も同じことを考えあぐねている俺にとって、千和のお気楽さは見習うべきものなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、俺は妹に淹れてもらったお茶を早速口にする。
 垂直に立っていた茶柱は当然ながら湯呑の傾きに合わせて倒れ、俺が茶をすするとその流れに乗って口元に運ばれてくる。
 危うく口の中に入れそうになって慌てて湯呑を口から離した瞬間、俺の中に閃きの電光が迸(ほとばし)った。
「そうだ。昔親父が……」
「どうされました、お兄様?」
 心配してくれる千和をよそに俺は思考を進めた。
「この湯呑、お茶が減ってる」
「それはお兄様が飲まれたからですよ。あの、本当に大丈夫ですか?」
「いや、そうじゃなくて。玄武橋……寺子屋……後はあの先には確か……分かった! かもしれない」
「えっと、何がでしょう?」
 千和からの問いをまたも無視して、俺は己の中に沸き起こる衝動のままに駆け出した。
「ちょっと出掛けてくる!!」
 それだけ言い残して俺は一目散に走った。
 今ならまだ間に合う。
 俺は金行区を南下して火行区方面へ、浮悌に教えてもらった名前で言えば逆暦の経路を進む。
 そう、甲蔵爺さんの乗った舟を追いかけたのである。
 しかし予想以上に舟は動いていた。
 息も絶え絶えで追い付いたときには火行区を端から端まで走り切り、日もすっかり暮れていた。
 すなわち、俺が今いる場所は火行区の巳の処。
 ちょうど、朱雀橋を跨いで(これだけ跳ね橋じゃないんだったな)舟を乗り変えたところだった。
「おい、ちょっと! ちょっと待ってくれ!!」
 甲蔵爺さんは舵を切ろうとしていた矢先、目の前に現れた俺を見てその固い口をようやく開く。
「夜間は人の送迎はやっとらん」
 それは浮悌から聞いて重々承知していた。
 だからこそ日が沈む前に追いつきたかったのだが、ここではいそうですかと引き下がるわけにもいかない。
「固いこと言うなよ。せっかく人が面白い話を持ってきたっていうのに」
 俺の言葉に甲蔵爺さんの鉄面皮がわずかに興味にうずいた、ように見えた。
 その変化を逃すまいと俺は畳み掛ける。
「寺子屋倒壊事件の犯人があんただって話さ」
「………………」
 数瞬の沈黙の後、甲蔵爺さんはくいっと顎を上げ俺の乗船を促した。
 そして舟が動き出したのを見てから俺は自分のたどり着いた真相を口にする。
「さっきも言ったが今、水行区を騒がせている寺子屋周辺の地盤沈下。あれはあんたの仕業なんだろ?」
「………………」
 甲蔵爺さんは黙々と舟を漕ぐ。まあ、ここですんなりと自白するとは最初から思っちゃいないが無反応は予想外だ。
 なら反応せずにおれないようにするまで。俺は返事を待たずに独り言のように推理を続ける。
「巌流からあれが人災だって話を聞くまで俺はちっともそんな可能性は考えなかった。あれを人間の力でできるとは到底思えなかったからだ。
 ただ何か別の力を借りればどうか? 例えば跳ね橋の動力とか」
 舟は火行区を過ぎ、堀の角を折れて木行区に入る。
 それからほどなく見えてくるのは東門とその前に掛かる青龍橋だ。
 昼間、北の玄武橋を前にしたときと同様に舟は一旦静止する。
「舟が橋の下を通るとき、跳ね橋を上げるのはあんたの仕事だ。今ちょうどやっているように」
「跳ね橋の力を使い」
 顔色にも声色にも変化は見られないが、甲蔵爺さんは俺の話にやっと反応した。
「寺子屋を壊すと言っても具体的にどうする?」
「そうだな。寺子屋の大黒柱に縄でも巻きつけて、それを跳ね橋の力で巻き上げたらどうだ?」
 俺の幼稚な発想を受けて甲蔵爺さんの仏頂面が失笑に変わる。
「馬鹿を言え。百歩譲ってそれでうまくいくとして、そんな長いものが横たわっていて誰も気付かないはずがなかろう」
 その完璧とも言える振りに俺はしてやったりとばかりに用意していた言葉をぶつける。
「道の上なら確かにそうだな。だが、道の下ならどうだ?」
「………………」
 甲蔵爺さんは再び沈黙するが、それまでの沈黙とは意味が違うはずだ。
「このお堀の水は木行区の卯の処にある跳月山(はねつきやま)って山から流れる賀ノ川(かのかわ)って川から水を引いているらしいな。
 そして、給水用の水門はここ青龍橋の跳ね橋の上げ下げによって開閉する仕組みになっている」
 ちょうどそのとき、跳ね橋が上がり切り堀の水がわずかに増した。
 甲蔵爺さんは一旦舟に戻り橋の下を通過させると、再び跳ね橋を下ろし始めた。
 それを待つ間に俺は話を続ける。
「で、排水の方はどうかといえば玄武橋下の水門で同じようにしているそうだな。排水先はこの町の唯一にして最大の港――出水港(いずみこう)。
 そのために子の処には港(海)と橋(堀)を結ぶ地下水路がある。そして、寺子屋はこの地下水路上にくる位置関係にある」
 子の処の中心を真っ直ぐに貫く地下水路。これが道の下に横たわる見えない『縄』というわけだ。
「あんたは前回の洪水で寺子屋が壊れたとき、工事のどさくさに紛れて地下水路に細工したんだ。寺子屋の真下で水路が滞るようにな。
 後は港が荒れている日を選んで普段は調節する跳ね橋を全開にするだけ。
 そうすれば排水用の地下水路を水が逆流し、茶をすすったときの茶柱のように寺子屋の柱を倒せるって寸法だ」
「確かに面白い話だ。しかし、儂がそれをやったという証拠があるのか? 
 そして仮にあの日、儂が必要以上に水門を開けてしまったのだとしてもだ。それが事故ではなく故意であったと如何にして証明する?」
 甲蔵爺さんのもっともな弁明にも俺は返す手をすでに用意している。
「言っただろ。あんたがやったことはもう一つ。寺子屋真下の地下水路の細工だ。水路が滞っていたのも事故だったってあんたは主張するんだろうが残念だったな。
 人為的に細工した跡を見つけているから巌流にはあれが人災だって分かったんだ。
 巌流は人員の配置や仕事内容の把握に余念がない。あれがあんたの仕業だって分かるのは時間の問題だぜ」
「………………」
 俺の渾身の手を前にして甲蔵爺さんに更なる反撃の芽は残されていなかった。
 反論の兆しが消えた甲蔵爺さんに、俺は今回の事件の動機を問い質す。
「何でこんなことをした? やっぱり、長年こき使われた幕府への仕返しか?」
「いいや。この仕事は存外気に入っている」
「じゃあ何で?」
 他に一体どんな理由があって甲蔵爺さんが寺子屋を壊そうと思ったのか、俺には皆目見当がつかなかった。
 それもそのはず、甲蔵爺さんがその嗄(しわが)れた声で次に発した言葉は想像を絶するものだった。
「月だよ」
「月?」
「ああ、そうだ。毎日の仕事終わり、この堀に映り込む月を見るのが儂の最大の楽しみだった。
 ところが先の洪水で寺子屋が崩れた折、増築して建て直すことが決まった。寺子屋の影で月が遮られる。それが許せなんだ」
 そのあまりに身勝手な理由に、俺は気付けば叫び出していた。
「ふざけんなっ! 許せねえは俺の科白だ。てめえみてえな奴は、この俺が月に代わって成敗してやるっ!!」
 ガコンッ!!
 ――と青龍橋の跳ね橋が降り切った音を合図として、俺は甲蔵爺さんに斬りかかる。
 ところが怒りで冷静さを失っていた俺はこの場が船上であることを失念していた。
 突然に走り出したせいで舟は傾き、危うく転倒しそうになるのを何とかたたらを踏んで堪える。
 しかし甲蔵爺さんはこの好機を逃しはしなかった。 
 豪快な水飛沫を上げながら堀の中から櫂を引き抜くと、それを俺の頭上目掛けて振り下ろす。
「ぐっ……!」
 間一髪で刀で受け止めたものの、この一合の衝撃で再び舟は大きく揺れる。
 ただでさえ不利な体勢の中、不規則に揺れる足場は俺を一層の窮地に追い込む。
「くそっ……たれ!」
 まともに利かない踏み込みを捨てて、俺は純粋な腕力勝負で甲蔵爺さんの櫂を押し返そうとする。
 だが絶妙な拍子で甲蔵爺さんは自らも引き、俺は勢い余って再び前方に体勢を崩す。
 その隙を狙って甲蔵爺さんの櫂は俺の鳩尾(みぞおち)を突き上げる。
「うっ……おっっっえぇ……」
 痛打をはるかに上回って込み上げる嘔吐(おうと)感。
 俺は堪らず両手で口を塞ぐ。その結果、当然のこととして刀は俺の手を離れ重力に従った。
 しまった、と思ったのも束の間。甲蔵爺さんは追撃の手を緩めることなくむしろ激化させた。
 くるりと反転して勢いを付けた櫂の柄を、今度は俺のこめかみに叩きつけたのだ。
 俺の体はなすすべなく真横に吹き飛び舟の縁に叩きつけられた。
「ううっ……」
 衝撃で頭の中に星が飛ぶ。
 それが消えたと思ったら、今度は視界がぐにゃぐにゃと歪み出した。
 もはや揺れているのは舟なのか俺なのか。平衡感覚が完全に殺され立ち上がることさえできない。
 しっかりしろよ、狛走十字郎。これしきでやられてたまるかよ。
 俺の中に残された力は精神力――つまりは根性のみ。
 それを必死で絞り出して何とか己を鼓舞する。
 この苦し紛れが功を奏したか、よろめきながらも何とか地に足をつけることができた。
 よし。これなら戦える。まだいける。
 引き続き戦意を昂(たかぶ)らせながら俺は脇差しを構えた。
 未だに体はふらつく。少し気を抜けば再びおねんねだ。
「さあ、来やがれっ!」
 虚勢という名の発破で自分自身を支えながら俺は叫んだ。
 そんな軽く突けば転がるような俺を前にして、甲蔵爺さんは掌を前に突き出して言った。
「待て」
 誰よりも俺が言いたい(本心では)科白が、あろうことか甲蔵爺さんの口から飛び出したのだ。
 どういうことだ? この場面で甲蔵爺さんが攻撃を躊躇(ためら)う要素など微塵もないはず。
 そんな俺の疑問に甲蔵爺さんの続く言葉が答えを示す。
「一時休戦だ。舵を切る」
 言われて舟の外に目を向けてみれば、いつの間にやら木行区を渡り切り水行区に差し掛かろうとしていた。
 なるほど。このまま戦い続けていれば堀の壁に激突だったということか。
「あ、ああ。仕方ねえな」
 俺は内心で安堵しながらに強がりを口にする。
 甲蔵爺さんは先程まで俺をしばき倒すのに使っていた櫂を、再び水の中に差し込み本来の使い方で舟を動かす。
 さて、今のうちに吐いとこ。
 胃の中のものを盛大に吐き散らしながら俺は対案を考える。
 とにかく問題はこの足場だ。こっちはまともに直立もできない。一方であっちは歴戦の船乗り。体幹がぶれる気配がまるでない。
 その上で戦い方は嫌に堅実で隙がない。じわりじわりと確実に俺の力を削ぎ取ってくる。
 あれだけ有利な場面にもかかわらず勝ちに逸るどころか冷静に周りの状況を把握していた。付け入る隙が全くない。
「さあ、もうよいぞ」
 結局、まともな案を思い付かないままに束の間の休戦協定は解かれた。
 おかげで大分回復できたが、半端に冷静になったせいで悪い考えばかりが頭を支配する。
 どうする。どうする。
「来ないのならば、こちらから」
 水という鞘から引き抜かれた櫂が襲い来る。俺はとにかく無暗に動くのをやめて迎撃に備える。
 だが本差しでやっとの一撃を脇差しで受け切れるはずもなく、いともたやすく後退させられる。
 重心が動き舟は揺れる。構えが崩れる。そこを逃さず相手は仕掛ける。
 今度はそこまで大きく体勢が崩れていたわけでもないので何とか躱したが、やはり十全な回避には程遠い。
 わずかでも動けばどうしても舟の揺れで体も傾く。駄目だ。このままじゃさっきの二の舞。
 とうとう諦観が俺の脳裏に過り始めた――そのとき。
 真黒い影が俺と甲蔵爺さんの間に割り込んだ。
 影はそのまま甲蔵爺さんの不意を突き一撃を加える。
 反撃に転じようと櫂を振り被る甲蔵爺さんだったが、侵入者の姿はすでになく何と舟の外へと身を投げ出していた。
「お、おい! 琥珀っ!!」
 俺は堀へと転落した黒装束の名を叫ぶ。
 ところが、俺が視線を向けたときにはまたも琥珀の姿はそこにはない。
 何と俺の隣を横切って再び船上に飛び乗ると、やはり先程と同じく甲蔵爺さんに一撃を加え、またしても反撃の届かぬ船外へと姿を消す。
 これがひたすらに繰り返される。この驚くべき光景を可能にしているのは琥珀が使う二つの忍具――水蜘蛛(みずぐも)と鉤縄(かぎなわ)。
 足につけた水蜘蛛によって水上での一瞬の踏み込みを作り、舟の縁に引っ掛けた鉤縄で己の体を引き上げる。
 なるほど。舟の外に出てしまえばどれだけ揺れようと影響はない。こんな攻略法があったとは。
 まあ、俺にはどうしたって真似できない攻略法だが。というか、身軽にも程があるだろ。
 琥珀の一撃一撃は正直軽い。しかしこうも連続で畳み掛けられては堪らない。
 ついにその大樹のような足腰が揺らぎ始めた。その隙を逃さず琥珀は爺さんの足元の舟板を叩き割り、だめ押しとばかりに腹部を苦無の柄で殴り付ける。
 さしもの甲蔵爺さんも落ちたようだ。がっくりと力なく頭(こうべ)を垂らす。
 どうやら何とかなったみたいだな。――と俺が一心地ついたのも束の間、琥珀は何と苦無を反転させるとその刃を甲蔵爺さんの首元に向けた。
「ちょっと待て、琥珀!」
「邪魔だ。どけ」
「それ以上はやり過ぎだ。そもそもお前、どうしてここに――」
 慌てて止めに入った俺に対し、琥珀は苦無の矛先を今度はこちらへと変えた。
 いや、今度も――か。三度目ともなっても、俺の体は依然恐怖に震える。
 そんな俺に琥珀は冷淡な眼差しを向けた。
「半端な覚悟でこれ以上こちら側に踏み込むな」
 その、確かな『覚悟』がこもった言葉に俺は何一つ言い返すことができない。
 そのとき、俺の緊張を緩和するお間抜けな音が夜空に響いた。
「な、何だ? あの汚ねえ花火は?」
「ようやくか。本当に鈍臭い男だ」
 花火かどうかも怪しいような、ともかくしょぼい音と光を確かめると琥珀はなぜか苦無を引いた。
 どうやらあれは何かの合図だったようだ。
「狛走十字郎」
 そして初めて俺の名を呼んだ。
「次に半端な覚悟で俺の前に立ってみろ。そのときは必ずお前を殺す」
 そんな捨て科白とともに琥珀は船外へと消える。もちろん、今度は鉤縄の先を舟縁ではなく対岸に引っ掛け撤退した。
「………………」
 琥珀がいなくなっても、俺はその場から一歩も動くことはできなかった。
 首元にはまだ、琥珀の苦無の残滓(ざんし)がこびりついている気がした。
「半端な覚悟……か」
 琥珀の言葉を反芻(はんすう)していた俺の思考を、不意に聞こえてきた物音が遮る。
 見れば、甲蔵爺さんが意識を取り戻していた。どうやら甲蔵爺さんの鋼の肉体には、やはり琥珀の攻撃は軽すぎたようだ。
 といっても、全く影響がないということもないはず。
「おいおい、まだやる気かよ。いい加減、大人しく捕まっとけ」
 俺は自分の保身半分、甲蔵爺さんの心配半分で声を掛けるが、今更この爺さんがこんな言葉で止まるはずもなかった。
「お前にだけは……捕まるわけにはいかん」
「俺にだけは?」
「そうだ。あの男の息子の……お前にだけは」
「っ!!」
 朦朧(もうろう)とした意識からの油断か、ともかくようやく甲蔵爺さんの固い口から洩れた親父の情報に俺は飛び付く。
「どういうことだ? 親父とあんたとの間に一体何があった?」
「あの男は――『かわって』しまった……」
「かわって?」
 その意味を再度問い直そうとするも、甲蔵爺さんはお喋りは終わりとばかりにすでに櫂を構え直していた。
 くそっ。結局、琥珀が乱入する前と状況は全く一緒だ。あいつの戦法はやっぱり真似のしようがないし。
 そのとき、思わず後退した俺の足にカランッとある物体がぶつかって音を立てた。それを見て俺は咄嗟に閃く。
 甲蔵爺さんのお決まりの唐竹割りを俺は脇差しで受け止める。
 このまま揺れる足場に体勢を崩されればこれまでと同じだったが、今度の俺の体幹はぶれることはない。なぜなら――。
「二刀かっ!」
 そう。さっきのごたごたの間に俺の本差しはいつの間にか足元に転がっていた。
 それを拾い上げ、一本を迎撃に。もう一本を三本目の『脚』として甲板に突き刺したのだ。
 足場さえまともならこっちのもの。片手打ちになっちまうが、それでも甲蔵爺さんには力負けしない自信がある。
 俺はようやくまともに甲蔵爺さんに一撃を叩き込むことに成功する。
「くだらん」
 ところが甲蔵爺さんはそんな俺の浅知恵を容易く打ち破ってきた。
 俺の間合いから出ると櫂を堀の中に突っ込み思い切り振り切ったのだ。
「おうわっ!」
 舟はこれまで横方向に揺れていたが今回は縦の揺れ。
 俺の作戦はそちら向きの揺れには対応できなかった。俺は呆気なく前方に倒れ込む。
 だが、支柱に使っていた刀も全くの無駄ではない。こいつのおかげで完全に倒れるのだけは何とか防げた。
 甲蔵爺さんもすぐには仕掛けてはこれない。櫂を水中から引き出している間に、俺は何とか体勢を整える。
 止めとばかりに一際勢いを伴って襲い来る櫂。俺は無我夢中で二本の刀を前へと振る。
 くそっ。やっぱりちょっと遅いか。
 甲蔵爺さんの櫂が先に届きかけた刹那、なぜかその動きがわずかに鈍る。
「ここだぁ!!」
 その間に俺の二刀が甲蔵爺さんの鳩尾に炸裂した。
 甲蔵爺さんの体は宙に浮き、船尾側へと吹き飛ばされる。
 今度こそは当分、起き上がってはこれないだろう。
「ふう。何とか勝ちを拾えたか。手強い爺さんだったぜ」
 それにしても、最後にどうしてあんな隙を――。
 俺は疑問に思いながら、甲蔵爺さんの視線が何となく後ろの方に逸れていたのに気付き振り返った。
 そうして眼前に飛び込んできたものにその答えを知る。
 玄武橋が今にも手が届きそうな距離まで迫っていたのだ。
 そうか、甲蔵爺さんはこれに気付いて舟を止めようと――ってそんなこと考えている暇もねえ!
 よりにもよって、さっき舟は加速したばかり。この勢いでぶつかったら一溜りもない。
「おい、爺さん! 起きろっ! 起きてくれ!!」
 俺は必死に甲蔵爺さんを揺り起こそうとするが、まるで気付く様子はない。
「だ、駄目だ……。もう間に会わねえ」
 ぐっ、南無三――俺は目を固く閉じ終わりを悟った。
 続けて襲い来る衝撃。船体は大きく振動する。だが、どういうわけかそれはすぐに治まった。
 何が起こったんだ? 俺は恐る恐る目を開けた。
 すると舟は橋にぶつかる寸前で止まっていたのだ。
「え、あ、あれ?」
 助かったことよりも不可解さに当惑してしまう。
 そのとき、俺は玄武橋の橋桁に何者かの人影があるのに気付いた。
 見間違えようもない巨体。そこにいたのは北の城門守護四士――船島巌流だった。
 両腕を広げ船首を抱え込むような体勢で硬直している。
 いや、まさかとは思うが。でもそれしか考えられない。
 あの野郎、体一つで舟の激突を止めやがった!
「化物だらけかよ、この町は……」
「誰かいるのか?」
 思わず零れた微かな声に巌流は鋭く反応した。
 まずい。ここで見つかると色々と面倒だ。早く隠れないと……って、隠れる場所なんかねえよ。
 一難去って、もう今日はこれで何難目か分からないが、ともかく今度こそは逃げられないか。
 ついに観念した俺の耳に、それまでの巌流からは考えられないような、柔らかい声音が届く。
「参ったな。月が隠れて何も見えん」
 まばゆい月光に照らされる中で、巌流が俺を見逃してくれたことに気付いたのは大分経ってからだった。

                       ◆

「それでお兄様。甲蔵様の処分はどのようになるんでしょうか?」
 全身ボロボロの状態で何とか狛走家まで戻り着いた俺は、千和の手当てを受けながら事の顛末を話していた。
「どのようにもならないんじゃないか。結局、幕府としては寺子屋を壊されたこと自体が失態になるわけだし、その犯人をどうしょっぴいても町民の不信は募るだろうからな。
 寺子屋倒壊は事故として片づけるはず――だから、理由がなくなる以上は甲蔵爺さんにも罰を下せないはずだ」
 つまり今回の件で俺は幕府の弱みを握ったことになる。巌流が俺をあの場で見逃したのは口封じ代ってわけだ。
「そうですか。何だか今一つ釈然と致しませんわね」
「確かにな。でもまあ、あの爺さんをどうしたところで壊れた寺子屋が元に戻るわけでもないし、俺は一発ぶち込めたからもう満足だ」
 千和はそれでもまだ納得のいってない様子だったが、気持ちを切り替えるためにだろう自分から話題を変えた。
「それにしても、お兄様。たったあれだけの情報でよく甲蔵様が犯人だと分かりましたわね」
「ああ。それは簡単だよ。昔、親父に似た話を聞いたことがあったんだ」
 十年前。俺は親父から事あるごとに武勇伝を聞き出そうとしていた。
 その中の一つに今回の事件とそっくりのものがあったのだ。
「十年前って親父は言ってたから、今から数えて二十年前か。ある漁師が今回と同じ手口で寺子屋を倒壊させたって話。もちろん、犯人の名前は伏せてたが」
「その漁師というのが甲蔵様?」
「そういうことだろうな。ああ。つまりあれはそういうことか」
 千和に話をしているうちに、俺の中にあった一つの疑問が氷解した。
「何がですか?」
「いや、爺さんが言ってたんだよ。『俺にだけは捕まりたくない』って。二十年前、親父に捕まった過去を息子の俺で繰り返すのが嫌だって意味だったんだろう。
 月がどうとか意味不明なことを言ってたけど、本当の動機は親父が消えた今なら過去の手口をばれずにやれると思ったからなのかも」
「だとしたら不運でしたわね。ちょうど、お父様のお話を覚えてらしたお兄様が戻ってきたときで」
「……ああ」
 そうだ。親父の話を覚えていたから、だ。
 俺は親父の功績の上澄みを掬い取っただけ。やったことは同じでも実態は大きく違う。
 それこそ、本物の月と水に映り込んだ月くらいに。
「お兄様?」
 首を傾げる千和を尻目に、俺は胸中に黒く渦巻く感情の正体をいつまでも探っていた。


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