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作品名:除獣怪 ―ノケモノノケ― 水行区編 作者:ススム

第8回 第四暦・陰 戌の病
 演武芸大会から一週間、俺たちは再び天賀御庭番および温応幕府について探索する日々に戻った。
 この中には今では当たり前のように忠吉も含まれている。
 未だに単独任務を許すまでには至っていないが、それは奴が未熟だからであって信が置けないからではない。
 初めのうちは少なからずしていた警戒や監視も、あの男の前ではだんだんと馬鹿らしくなっていった。
 母上はそもそも何もしていなかったので、自然と忠吉は任務時以外は自由に動けるようになった。
 この日の未明、忠吉の不在に気付いたとき俺は奴に気を許し過ぎたことを後悔する。
 ざっと見たところ、なくなっているようなものはない。
 奴は夜中の内に着の身着のまま屋敷を抜け出したようだ。
「母上、どうしますか?」
 俺は状況を見極めた後に母上の指示を仰いだ。
 母上は欠伸(あくび)をしながら、気の抜けたように言う。
「別にあんたのしたいようにすればいいさ」
「俺のしたいように?」
「そう。始末したければすればいいし、捨て置くのでも連れ戻すのでも好きなようにしていい」
 忠吉を引き込んだ張本人の割に、まるで興味をなくしている風だった。
 使えない道具に未練はないということか。
 いや、思えば母上は最初から一貫して忠吉のことは俺に一任していたな。
 奴の処遇についても最終的には俺に結論を出させていた。
 あのときと今と、状況はほとんど同じと言っていい。
 違いがあるとすれば、これまで過ごしてきた時間の有無。
「翌朝までには戻ります」
 とりあえず俺は忠吉を見つけることを決める。
 もちろん、この時間帯に外へ行くには黒い装束は脱いでいかざるを得なかった。
 艮(うしとら)峠を越えている間に明け方に達していた。
 それでも町人たちが本格的に目を覚ますには早く、俺は人目を気にすることなく水行区の町を歩くことができた。
 忠吉の居場所は大方見当がつく。その目的も分かり切っている。
 俺は迷いなく思い浮かべていた場所へ歩を進める。
 やはりだ。忠吉は子の処、自分がかつて暮らしていた家の傍で見つかった。
 長屋がひしめく中、路地の隙間に体を滑り込ませ顔半分だけを覗かせながら自分の昔の家を見つめている。
 その姿は不審者以外の何者でもなかった。
 見張りの仕方は散々教えたはずなんだがな。演武芸大会のころからまるで進歩した様子はない。
 周囲への警戒もまるでなっていなかった。
「動くな」
 俺もいとも容易に忠吉の背後に忍びより、着物の袖ごしに苦無の刃を押し当てる。
「そ、その声は琥珀さ――」
「振り返るな。俺の許可なく喋るな。破れば今すぐお前を殺す」
 俺の脅しを受けて忠吉は大人しく……なるはずもなかった。
 本人としては努力しているのだろうが、呼吸は激しく乱れ全身に滝のような汗を流しながら震える唇から訳の分からない言葉を漏らし続けている。
 真剣にやっているこっちが滑稽に思えてくる。
「なぜ勝手に里を抜け出した? ここで何をやっている? 答えろ」
「も、ももももも申し訳ございま、っございません。一目、一目家族に会いたくて……」
「それだけか?」
「い、いえ、家族に伝えなければと思って。危険が迫っていることを。ですが、いざ会おうと思うと合わせる顔がなくて」
 俺は忠吉の答えに大きなため息を漏らしてから、苦無の柄を再び握り直した。
「いいか。お前は自分のやっている事の重大さを何も理解していないようだが、忍にとってここまであからさまな命令違反は本来即死罰の対象だ」
「死!? しばばばばばば……琥珀様、そ、そこを何とか命だけは……」
「勝手に喋るなと言ったはずだ」
 忠吉が多少なりとも静まるのを待ちながら、俺はこいつの処遇について考えあぐねる。
 結局、俺が無理矢理に忠吉を引き戻そうと突き放そうと、こいつ自身の覚悟が伴っていないままでは再び同じことを繰り返すだけだろう。ならば――。
「忠吉。お前が選べ」
「………………」
「忍を続けるか。やめるか。お前が自分で決めろ。ただし、もし続けるのならば家族のことはすべて忘れると誓え。やめるのならば地賀の里で見たもの聞いたもの、すべてを忘れると誓え。もちろん、あのことに関して忠告することも許さん。どちらもできないと言うのならば俺の手でお前を始末する」
 俺は忠吉の背からそっと苦無を遠ざける。
「一日、時間をやろう。日暮れ頃にもう一度この場所に来い。そのとき、答えを聞かせてもらう」
 そのまま、俺は忠吉の方を振り返ることなく路地の奥へと進み町の表側へと出る。
 さて、後はすべてあいつ次第。忠吉が答えを出すまでの間、俺は時間を潰す必要ができた。
 といっても、ここで一度里の方に戻って母上に経過を報告してもよかったはずだ。
 何も、この恥ずかしい格好のままで町の中をうろつく必要など一つもない。
 だが気付けば俺の足は東ではなく西に向けて動いていた。
 着いた場所は金行区は戌の処、桃侍御三家・狛走(こまばしり)家の屋敷だ。
 屋敷の前には何やら看板が立っていた。普段なら不審に思うだろうそんなものも、今の俺の視界にはまともに入らない。
 どうしてここへ来てしまったのか。これでは俺も忠吉のことなど何も言えないではないか。
 すぐに引き返そうとしたとき、如何にも頭の軽そうな男の声が飛んできた。
「おっ! 朝早くから外に出てみれば何て幸運。こんな美人に会えるなんて。やっぱり早起きは三文の得。いやいやいや、お嬢さん。もちろん、君の魅力は三文何かじゃ収まらない。とても値のつけられないもんだってことは分かってるぜ。おっと、その顔は突然現れた美男子が何者か分からず戸惑って、いやさときめいているねえ。お答えしよう。俺は彦田浮悌(ひこた うきやす)。君の名前は? よかったらこれから一緒に朝の散歩と洒落こまないかい?」
「………………」
 まあ、色々と突っ込みたいところではあるが。とりあえずうざい。
 自称美男子・彦田浮悌の歯の浮くような口説き文句はなおも続いていた。
「おや、どうしたい固まって。緊張しているのかな? まあ焦ることはないさ。じっくり関係を深めていこう。さあまずは名前から」
 何がまずは、だ。お前と関係を深める予定など俺には全くない。
 俺が黙っているのにも構わず、浮悌はなおもしつこく名前を聞いてきた。
 くそっ。こいつは俺の心の弱さを諫(いさ)めるために天が遣わした邪神か何かか?
 もういい。分かった。これが未熟な俺に下される罰だというのならば甘んじて受けようじゃないか。どうせ偽名だ。
「私はお寅といいます」
 まさかこの安直極まりない名前をまた名乗ることになろうとは。
「おっ! やっと教えてくれたか。いや〜声も綺麗だね。お寅ちゃんか。お寅……寅……う〜ん」
 浮悌は俺の名前を聞くと何やら考え始めた。
 まさかこの男、この少ない手掛かりから俺が木行区寅の処の忍だと勘付いているのか!?
 いや、いくら何でもそれはありえない。しかし、この真剣な顔付きはもしかすると――。
「たいがーちゃん!」
 突然、浮悌が上げた叫び声に俺の思考は遮られた。
 というか、何だって? たいがー?
「そう、たいがーちゃん。いや、たいがちゃんかな。うん、たいがちゃんて呼ぶことにしよう。決定」
 勝手に決めるな。そもそもたいがーって何だ。
 俺の無言の抗議を、もちろんこの男が察するわけもなく終始こいつの思うがままに話は進む。
「早速だけどたいがちゃん。まずはどこへ行こうか。俺の屋敷のある南の方? それとも乾座のある……あれ、ちょっと待てよ。もしかしてたいがちゃんって」
 浮悌の顔付きがまた変わった。だがさっきとは違い明らかに何かに気付いた表情だ。
「この間の演武芸大会のとき、ちわわちゃんの隣にいた子だよね?」
 この発言を受けて俺の方も思い出す。この男、演武芸大会の昼の部でかなりひどい猿芝居をしていた奴だ。
 しかしこの流れはまずいな。忍であることがばれたわけではないと分かって一瞬安堵したが、これに気付かれただけでも十分致命的だ。
「いや〜やっぱりそうか。見覚えあると思ったんだよ。たいがちゃんほどの美人なんてそうそういないからさ。何? ひょっとしてちわわちゃんの友達なの?」
 やはり予想していた通りに話が転がっていく。どうにかしたいが、ここで否定して後から千和にそれが伝わると余計にややこしくなる。 
「ええ、まあ」
「そっか、よかった」
 そのとき浮悌の顔からは寸前までの性欲丸出しの気持ち悪い笑みが消え、優しげな微笑みを湛えていた。
「ちわわちゃんってさ社交的に見えて本当に心を許せる相手がいないっていうか。男だらけの武家社会の中でかなり無理しているところがあってさ。それで一年前からはこんなにでかい屋敷で一人ぼっちで暮らしてきただろ? ずっと心配だったんだよ。でもたいがちゃんみたいな友達ができたみたいで本当によかった。俺がこんなこと言うのも変だけど、これからも仲良くしてやってくれよ」
 何だ、こいつ意外といい奴じゃないか。それでも男として見る気はないがな。
「はい。もちろん」
 俺はこの男との会話の中で初めて気持ちよく言葉を返すことができた。
「じゃあ早速ちわわちゃんと三人で遊ぶことにしよう。お〜い、ちわわちゃ〜ん。起きてる〜?」
 俺が浮悌を見直したのは本当に数瞬の出来事だった。こいつ、とんでもないことをしてくれたな!
 俺が逃げる間もなくすぐに戸が開く音がして、中からは日本刀を持った千和が飛び出してきた。
 そして、何の迷いもなくその太刀を浮悌目掛けて振り下ろす。
「うっおおお! 相変わらず刺激的だな〜、ちわわちゃんの求愛は」
 浮悌はそれを予想していたかのような動きで白羽取りした。
 千和はそれでも刀を引くことなく押し続けながらに優雅に挨拶をする。
「あら、浮悌様。おはようございます。よろしいんですか、私なんかとお話していてはまた錦斗雲(きんとうん)様にお叱りを受けますわよ」
「ふ、ふん。あんなクソ親父の一人や二人。その程度の障害で俺たちの愛は妨げられはしないのさ。って、ちょっと待って。ちわわちゃん! もう限界。本当、冗談じゃなくやばい! 斬れる斬れるって!!」
 浮悌の眉間すれすれまで届いたところで、ようやく千和は刀を引いた。
 今のを見た限りだと誰より千和に心労を与えていそうなのは浮悌に思えるが。
 俺がそんなことを思いながら二人のやり取りを見ていると、ようやく千和がこちらに気が付いた。
「え、お寅さん? どうしてここに? もしかして、遊びにいらしてくれたんですか?」
「そ、そうそう。俺もね。三人で一緒に遊ぼうと思って」
 浮悌の横槍に千和は白眼視で応える。 
「浮悌様。もしやお寅さんを口説こうとしたりしてませんわよね」
「もちろんしたさ。こんな美人を口説かないなんて逆に失礼ってもんだ。おっとちわわちゃん嫉妬かい? 心配しなくても俺の本命は君一人だぜ」
「お生憎様でしたわね」
 言って、千和は俺の方に歩いてくると何とそのまま抱きついてきた。
 あまりの行動に固まる俺と浮悌。そのままの姿勢で千和は続けた。
「私の本命はこちらのお寅さんですの。もちろん彼女の本命も」
「う、嘘だろ。ち、ちわわちゃんが……たいがちゃんまでもがまさかそっちの人間だったとは」
 浮悌は衝撃のあまりうずくまっていた。まあ気持ちは分かる。
 俺はさすがに気の毒になって少なからず同情の念を浮悌に送っていた。
 ところが、こいつは俺のそんな気遣いなど全くの無碍(むげ)にした。
「それはそれであり!!」
 親指を立てて力強く言い放つ浮悌。いや、ありなのか。
 今度固まるのは俺と千和の番だった。どっちにしろ俺はさっきから固まりっぱなしだ。
「だが今に二人とも俺の魅力の虜(とりこ)にしてやるからな。待ってろよ」
 それから謎の高笑いとともに浮悌は姿を消した。後には俺と千和だけが抱き合ったままに残された。
「あの、そろそろ」
 俺はいつぶりか、自分でも分からなくなるほど久しぶりに口を開いた。
 千和ははっと我に返りようやく俺を解放する。
「あっ、すみません。浮悌様を遠ざけるためとはいえこんな、お嫌だったでしょう?」
「いえ、そんなことは」
「お嫌じゃなかったんですか? まさかお寅さんって本当に……申し訳ありません。私にはそういう趣味はありませんの」
「違います」
 俺はきっぱりと否定する。いかにお寅が作り物の人格とはいえ、そんな属性を付与されては敵わない。
「そう。ではやはりお寅さんも殿方に想いを寄せられるんですのね。たとえば、今気になる方などおいでますの?」
 そんないかにも年頃の娘らしい会話を試もうとする千和だが相手が悪いとしか言えない。
 恋だとか愛だとか、そんなものする暇があるわけがなかった。俺は改めて千和を羨ましく同時に妬ましく思った。
 羨ましく? まさか生まれたときから忍として生きていながら、未だに普通の人生に未練があるとでもいうのか。
 馬鹿馬鹿しい。俺は自分の中に不意に沸き上がった感情に対して唾を吐く。
「そういった方は今はおりません」
 そして、未来永劫現れることはない。
「そうですか。でもお寅さんでしたらその気になれば引く手数多でしょうから焦る必要はありませんわね」
「そんなことはありませんよ。私なんて。それよりもそろそろ」
 これ以上、この場に留まり続けては色々な意味でまずいと俺は千和と別れようとした。
 が、そんな俺の手を千和の小さな手が追ってくる。いとも容易く捕まえられる。
「そうですわね。そろそろ行きましょうか。せっかくお寅さんの方から遊びにいらしてくれたんですもの。時間がもったいないですわ。金行区は初めてですわよね? 私が案内して差し上げますわ。さあ、行きましょう」
「いえ、私は……」
 こんな小さな手を振り解くことなどわけないはずなのに。
 友達との会話など遊びなど、とうの昔に諦めたはずなのに。
「ん? 何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も」
 この笑顔にはどうしたって逆らうことができないのだ。
 千和にあちこちと連れ回されているうちに日はかなり傾きかけていた。
 まさにあっという間の出来事で、千和も同じように感じていたのか差し込む西日に驚いたように言った。
「あら、もうこんな時間ですのね。最後に一か所だけ行きたいところがあるんですけどよろしいですか?」
 日暮れまでにはまだいくらか余裕がある。
 次が最後というのなら構わないだろうと俺は首肯した。
 千和が訪れた最後の場所。それは何と乾座だった。
 一体、こんな場所に何の用があるというんだろう?
 今日は演武芸大会はおろか、小さな催し一つすら行われていないというのに。
 劇場の中に入ると千和はおもむろに舞台に上がった。そして無人の劇場で何やら舞を躍り始めた。
 それはいかにも素人の動きでとても客を呼べる代物ではない。ただとても、今日一日そうであったように彼女はとても楽しげだった。
「あの千和さん?」
 俺は千和のしたいことが分からず戸惑い気味に話しかける。
「お寅さんもどうですか? 一緒に舞台に」
「はあ」
 訳が分からないが俺は誘われるままに千和と共に素人舞踊を披露する。
 それも一段落すると千和は息を切らせながらに言った。
「ありがとうございます。お寅さん。私、一度でいいからこの舞台の上で誰かと一緒に芸をしてみたかったんです」
「また来年にでも演武芸大会に出ればいいじゃないですか。時間だって自由だっていくらでもあるんですから」
 俺は千和の物言いに少し苛立ちを感じ皮肉気味に言った。
 そう、俺には許されていない時間も自由も千和には無限にある。
 やりたいことがあるならいくらでもやればいい。
「そう……ですね」
 千和は少し困ったように微笑んだ。俺の言葉に棘を感じて萎縮(いしゅく)したのかもしれない。
 だとしても、これくらいは許して欲しいものだ。
 こっちはお嬢様のわがままに一日中付き合ったのだから。
 だがいつまでも一緒にいるというわけにはいかない。
 俺が約束の時間に遅れては示しがつかない。今度こそ千和に別れを切り出すことにした。
「申し訳ありませんが、そろそろ――」
 そのとき、ごつっと鈍い音が劇場内に反響した。
 それが千和が舞台に頭を打ち付けた音だと分かるのに、かなりの時間を要した。
 どういうことだ、一体? さっきまであんなに元気過ぎるくらいに動き回っていたのに?
 ともかく考えるのは後だ。俺は千和を抱えて舞台から客席に運ぶと応急処置を施す。
 昔あいつから……土竜から聞かされた知識。それが役立っていることに複雑な思いを抱きながら。
「大丈夫ですか?」
 意識はあるらしい千和に俺は語りかける。
 千和は辛そうにしながらも、それでもこんなときでも笑顔を忘れていなかった。
「はい。すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって。ちょっと無理をし過ぎました」
「すぐに医者に――」
「いえ! 大丈夫です。いつものことですから」
「………………」
 俺は無言で待った。千和が話すのを。あるいは話さないのを。
 果たして、千和は口を開いた。
「十年前にお母様がある病に罹(かか)りました。それは大変な難病で療養のためにお兄様とともに田舎へ行くことになりました」
 それで狛走十字郎は町を離れていたのか。だが、それが戻ってきたということは千和と十字郎の母親はもう……。
「それから一年ほど後です。私がこんな風に急に意識を失ったり胸が苦しくなったりするようになったのは。私は家族のみんなにこれ以上心配事を増やしたくなくて、内緒でお母様を診てくださったお医者様のところへ行きました。その結果は……」
 千和は息を呑むようにして言葉を詰まらせたが、やがて続く言葉を紡いだ。
「その結果はお母様と全く同じ病気だということでした。お医者様では完全に治すことはできないと、家族の方とよく話し合いなさいとそう言われました」
「千和さんのお母さんは今は?」
 分かっているのに、分かり切っているのに聞かずにはおれなかった。
「亡くなったそうです。ついこの間。ですから、そう私ももって後一年……もっと早いのかもしれませんけど」
 俺は何て馬鹿だったんだろう。
 女を捨てたとか、普通の人生を諦めたとか、そんな覚悟など千和と比して何と矮小なものか。
 まして彼女には時間など、自由などあるはずもないのにあんな……。
「お気になさらないでください。お寅さんみたいな素敵な人が私なんかのために気に病む必要なんてありませんもの」
 そうか。千和があまり人と深く接しようとしなかった理由。そんな中で俺に話しかけ親しくしようとした理由。
 きっと千和はいずれ死んでしまう自分を誰かの思い出の中に残すのが嫌だったんだ。だから家族以外の人間には上辺だけの態度を取った。
 そして俺も同じ。理由は違えど、この姿のときは本心を包み隠していた。
 お互いに一枚の壁を隔てた上での付き合い。しかしだからこそ寄りかかることができた。
 自分の秘密が相手を傷つける心配をしなくてよかったから。だがもうその関係も終わりだ。
 千和の壁が取り払われてしまった今、彼女の本心に触れてしまった今。
 俺は、俺たちは相手に寄りかかることができない。
「聞いてくれてありがとうございます。できればこの話は誰にもしないでいただけますか?」
「…………はい」
 俺は誓った。この日、ここで千和から聞いた話のすべてを、そして千和と過ごした時間のすべてを忘れることを。
「今日はとっても楽しかったです。本当にありがとうございました。さようなら」
 千和は最後まで笑っていた。
 俺は自分が今どんな顔をしているのか、分からなかったし知りたくもなかった。
 ちょうど夕日が半分地平にかかる刻限。忠吉は朝とは違い少しは覚悟を秘めたらしい様子で路地に立っていた。
「決めました、琥珀様。おらは……おらはやはり巌流様を許せません。あの方に一矢報いたく存じます」
「ならばお前は家族のことを忘れるということだな」
 俺が最後の確認を取ると忠吉はさすがに心苦しそうな面持ちになりながらも、その言葉に淀みはなかった。
「はい。今のままのおらでは家族のところへ戻っても何もできません。彼のように代わりとして立つことさえ……」
 彼? 代わり?
 俺は忠吉の言葉の意味を判じかねたが、ともかくこの一日の間でこいつの方にも色々とあったらしいことを察した。
 忠吉は続ける。
「どのみち、おらはすでに巌流様の意に背いた大罪人。迷惑しか掛けることはできませんから。だから家族のことは忘れます。家族にももうおらのことは忘れてもらった方がいいかと」
「そうだな。もう二度と会うべきではない」
 忠吉の答えに対して俺は何も言わないつもりでいたが気付けばひとりでに口走っていた。
「会ったところで、互い辛くなるだけなのだから」
 地平に暮れていく日の中を、昼の世界から夜の世界に移り変わる町を、俺と忠吉は無言で後にした。


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