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作品名:除獣怪 ―ノケモノノケ― 水行区編 作者:ススム

第3回 第二暦・陽 戌の歩
 昨夜の黒装束から受けた傷を庇いながら、俺はゆっくりと起き上がった。
 正直、快適な眠りだったとは言い難い。
 体もそうだが、それ以上に精神的に苦々しい夜だった。
「本当は昨日のうちに町を出て行くつもりだったんだけどな……」
 そんな風にぼやいたところで仕方がない。色々と想定外過ぎたのだ。
 さて、しかしこれから俺は何をどうすればいいんだ?
「お兄様〜!!」
 いつまでも布団の中の住人ではおれないらしい。
 妹の千和の声に急かされて、俺はすぐに身支度を整えた。
「あら、もう起きてらしたんですの?」
「うん、まあ」
 その手にある抜身の日本刀への突っ込みは、もうしまい。
 きっと朝飯でも作っていたのだろう。
「もうしばらくお待ちください。今、朝食を作ってますので」
「おいちょっと待て! まさかマジで日本刀で飯を作ってんのか!?」
 俺が冗談で考えていた推測がまさかの的中したのかと、俄(にわ)かに焦ったが
「何を仰いますの、お兄様。これはお兄様がぐうすか寝てらしたときのために用意したものですわ」
 と、千和は否定した。
「そうか。ならよかった」
 いや、よくはないが。
 それから作り手に反して味も見た目もまともな朝食を二人で食べた。
「そういえば、家のことは全部お前がやってんだな」
「はい」
「ふ〜ん」
 俺の知る限りでは、狛走家はそこそこ大きな屋敷でありながら手伝いなどは一人も雇っていない。
 それは今に続くまで同様らしい。
「御馳走様」
「御粗末様でした。さて、お兄様」
 食後の茶を淹れながら千和は言う。
「何だ、妹よ?」
「本日これから、何か御予定はございますか?」
 寝起きの際に浮かんできた自問が、今度は他人の口から迫ってくる。
 そもそも俺がこの町に戻ってきた目的はクソ親父を一発殴ること。
 ところが肝心の親父が消息不明。ここで諦めて町を出るという道も十分に『あり』なんだが。
 それは例の黒装束のことがなかったらの話だ。
 昨夜、あいつに完膚なきまでに叩きのめされて、俺はこの町が自分のいた十年前から変わったことを痛感した。
 そして、その変化に追いつくために俺自身も変わってみせる。そう誓った。
 ただこれは長期的な目標であって、短期的に、具体的に何をするのかはとんと決めていない。
 というわけで、寝起きの俺と目の前の妹に対する今の時点での返答はこうだ。
「ござらないな」
「やはりそうでしたか」
 千和はなぜか得意気になって、腰に手をやると偉そうに胸を張った。
 やばい。何か嫌な予感が……。
「温応の町は十年前から道も建物もかなり変わっていますの。今日は私がお兄様に、今の温応町を案内して差し上げますわ」
 もちろん、お兄様に拒否権などあるわけがなかった。
 半ば無理矢理な形で、俺は屋敷の外に引っ張り出されることとなった。
 とはいえ、町の変化を知るというのは第一歩としては存外悪くない。
 千和にどういう意図があるのかは読めないが、単純に好意ととってもよさそうだ。
「まず最も大きな変化は、何といっても町の区分けですわ」
 まだ幾ばくも歩かない内に早速、千和の案内が始まった。
「区分け?」
「ええ。お兄様とお母様が出て行かれてすぐに、前将軍様が行われた改革ですわ」
 前将軍――猫川囲杉(ねこかわ いすぎ)公。
 確か歴代でも屈指の名君だと、俺の暮らしていた田舎まで聞こえるほど評判のいい殿様だったか。
 ところが将軍の座に就いてからわずか五年で夭折(ようせつ)し、今の猫川囲狩(いがり)公が第十三代を襲名したとか何とか。
 俺が知っていることといえば、このくらいだった。
「囲杉公は温応町を中央と東西南北の五つの区に分けたんですの」
 続けて千和は一つ一つの区についての説明をした。
 温応城がそびえ立つ中央が土行区。
 東が自然を多く残し四季の彩り豊かな木行区。
 西が俺たち武家の屋敷が軒を連ねる金行区。 
 南が雅(みやび)で豪奢(ごうしゃ)な公家たちの暮らす火行区。
 北が町人商人が賑わい活気に溢れる水行区。
「なるほどな〜。それであっちこっち家が移されたりしたわけね」
「そういうことですわ。もっとも、この辺りはあまり変わらなかった地域ですけれど」
 それは俺が迷わず屋敷に戻って来れたことからも分かる。
 歩みを止めることなく千和は話を続けた。
「さらに中央を除く四つの区が、三つの処(ところ)に分けられてますの」
 円形の温応町を時計に見立てて、干支の名を冠した名付けになっているということらしい。
「ちなみに私たちの屋敷のあるところは金行区戌の処。すなわち、温応城からみて西北西に位置するということですわ」
「うん。うん? ああ、そういうことか。多分、分かりやすいんだろうけど、慣れるまでかかりそうだな」
「地図で見れば瞭然ですわよ」
 と、千和は俺に今の温応町の地図を差し出してきたので、それを広げてみる。
「分っかりやすっ!」
 これなら初めから地図を渡してくれれば、『こんな感じで今このへん』で全部終わるぞ。
「私の話が不要だったと言いたげですわね、お兄様」
「いや、どう考えても不要だったろ。そもそも俺みたいな奴に分からせるための地図だろうが」
「ふむ。それもそうですわね」
 この辺、千和も何が何でも俺の意見を力尽くで封殺しようとはしない。
 というか、こいつは基本的に内弁慶なので外での危険度はそれほどでもないのだ。
 ともあれ、大凡の地理は把握できた。
 ここから先は地図では読めない、実際に暮らしている千和だからこそ話せることだ。
「で、今私たちがいるところが一つ南に下った酉の処。温応城の真西に当たる場所でして、城に通じる門がありますわ」
「あれ?」
 俺は地図を確認しながら千和に尋ねる。
「昨日、俺が入ろうとした門はここじゃないよな。屋敷に一番近いのは地図だとここになってるけど」
「そう、お兄様が昨夜無謀にも忍び込もうとして大失敗したのは北門ですわ」
 その棘のある言葉に耳が痛くなりながら、そういえば千和がやってくるまで意外と時間があったことを思い出す。
 きっと千和は先にこちらの西門に来てから俺がいないことに気付き、北門の方へやって来たのだろう。
 今日いきなり町の案内を買って出たのは、昨日のように無駄足を踏まされないようにするためなのかもしれない。
 俺としても迷子は御免だ。そして何より、城へと通じる門の位置はこれからも重要になるだろう。
 俺は地図とにらめっこして、門の場所をしっかりと頭に叩き込む。
 といっても、驚くほど単純だ。東西南北それぞれに一つずつ。
 門とその前にある堀越えの橋の名前もまんま東門・青龍橋、西門・白虎橋、南門・朱雀橋、北門・玄武橋だ。
 囲杉公は分かりやすさを大分重視して町の区分けを行ったらしい。新参者にはありがたいことだ。
「城門のことは理解できたようですわね」
 なぜか偉そうな態度の千和だが、俺の理解が早いのはお前じゃなくて囲杉公と地図のおかげだからな。
 とは、さすがに口には出さない。
 こんなことを言われれば千和じゃなくたってブチ切れる。屋敷に戻ったら絶対に殺される。
 俺が素直に頷くと、千和は話を進めた。
「よろしいですわ。それでは、ここで城門守護四士のことにも触れましょう」
 飛び出してきた言葉に俺は即座に食い付いた。
 昨夜からずっと、その話を待っていたのである。
「昨日も言ってたな。そのシューマイだがシシマイだかってのは何なんだ?」
「基本的にそのまま捉えればそれでいいですわ。城門を守護する四人の士、のこと。
 ただし、城門だけでなくそれぞれの区を警護し、同時に統治もしている方々ですの」
 奉行所の役さえも区によって異なっているのか。だったら、もう別の町みたいなもんだな。
 そんな感想を抱きながら、俺はそいつらのことを考える。
「じゃあ北門には北門を守護する、西門には西門を守護する、その守護四士さんがいるってことだよな」
「ええ。申し上げておきますが、昨日は偶然にも守護四士の方と鉢合わせなかったから、助かっただけですのよ」
「そんなにやばい奴らなのか?」
「まあ、北門の守護四士様は特に厳格な方ですから」
 どうやら脅しではない純粋な事実として、命拾いしたことは確からしい。
「そういえば、あいつは? あの黒装束は何者なんだ?」
「あの方は、おそらく幕府お抱えの忍集団――天賀(あまが)御庭番の忍だと思いますわ。私も話に聞いていただけで、見たのは昨日が初めてですけども」
「幕府お抱えの……ねえ」
 俺は千和の言葉に、どこか腑に落ちないものを感じた。
 あいつはそんな公的な立場ではなく、私的な事情で俺に向かってきたように思えたからだ。
 まあ、千和もそれに関しては詳しいわけではないようだし、どちらの考えも推測の域を出ない。 
 ただ仮に、温応城に力尽くという手段で押し入ろうとするのならば、障害となるのは城門守護四士なる連中だけではない――ということだ。
 などと思索に耽(ふけ)っているうちに、酉の処を通り過ぎ申の処に俺たちは足を踏み入れていた。
 と、ここで前方から軽薄そうな雰囲気の少年が歩いて来た。
 年の頃は俺より二つか三つほど下だと思われる。
 高そうな着物に身を包み、二本差しで堂々と道の真ん中を歩いていることからみて、それなりの家格を持つ侍なのだろう。
 少年はこちらに気付くと、にやにやと頬がだらしなく緩ませる。
「よお、ちわわちゃんじゃん。相変わらず可愛い顔してんね」
 見た目を裏切らない軽佻浮薄(けいちょうふはく)な物言いだ。
 ふと千和の方を窺(うかが)うと、露骨に嫌そうな顔をしていた――のはほんの一瞬で、見間違いだったかと思うほどのものだ。
 すぐさま凛とした、少なくとも俺には見せたことのないよそ行きの顔になる。
「おはようございます。浮悌(うきやす)様」
「堅苦しいなあ。んな畏(かしこ)まる必要ねえじゃん? もっと砕けてくんねえかな」
 浮悌という名前らしい彼は、そんな風に千和に促してから次に射抜くように俺を睨み付ける。
「で? この男、誰?」
 ここまであからさまに敵意を向けられて黙っていられる性分ではないが、それは横合いから殺意が飛んできてなければの話だ。
「こちらは十字郎お兄様。先日戻って来られたんですの。お兄様、こちら彦田(ひこた)家次男の浮悌様ですわ」
 千和の仲介を受けて、俺は浮悌と言葉を交わす。
「どうも」
「へえ、ちわわちゃんの兄貴か。それよりちわわちゃんさ、今から一緒に遊ばねえ?」
 俺が千和の肉親と分かると、それで即座に興味を放棄したらしい。
 浮悌は俺を蚊帳の外に千和との会話に戻る。
 千和はその誘いに対して、何とか角が立たないように断りを入れようとするが、浮悌は中々にしつこい。
 自分が軽んじられる分にはともかく、妹を困らせるのには我慢がいかず、俺は二人の間に割り込もうとした――そのとき。
 ぬっ、と浮悌の背後に壮年の男が迫っていた。
 そのあまりの威圧感に俺も千和も凍り付き、異変を感じたのか一拍遅れて浮悌は振り返る。
「ち、父上!? なぜこちらに……」
 男を一目見た途端に、浮悌は先程とは別人かのように言葉遣いを改めた。
 ところが、そんな誤魔化しはまるで通じた様子はない。 
 彦田家当主はおもむろに息子の頭を鷲掴みにすると、静かに言葉を紡いだ。
「また遊郭からの朝帰りか、浮悌? 本当にどうしようもない奴だな」
「も、申し訳……」
「それは構わん。好きにしろ。もう貴様には何の期待もしてはいないからな。だが」
 次の瞬間、当主は空いた方の手で浮悌の頬を張った。
 高らかに音が鳴り響き、往来中の視線を我が物としながら、彦田家当主はまるで動じることもない。
 続けて膝蹴りで息子の腹を突き上げ、名前の通りに体を浮き上がらせる。
 そのまま、浮悌は悶絶(もんぜつ)し落ちたらしい。当主が手を離すと、抵抗なく地面に崩れ落ちた。
「戌なんかと口を利くなと何度言えば分かるのだ」
 完全に気を失っている浮悌を見下し、今更のようにそう言った。
 そして、ふんと鼻を鳴らしてこちらを一瞥(いちべつ)する。
「一黙斎(いちもくさい)の伜(せがれ)……帰ってきたのか」
 一黙斎――親父の名前だ。
 思えば当然といえば当然かもしれないが、身内の中では誰も親父のことはそう呼ばない。
 だから、その名を耳にするのは随分と久しかった。
 当主の言葉が俺に向けられたものでないことは分かっていたが、仮にそうだったとしても、今の一連の光景を見た後では何も言えない。
 ましてや、昨日千和にしたように『帰って』という文言に噛み付くことなどできるはずがなかった。
 俺たちは浮悌を肩に担いで去っていく彼の姿を、黙って見送る。
 見る間に辺り一帯の空気が和らいでいくのを感じた。
「何だってんだ、あのおっさんは。あ〜、怖かった」
「彦田家当主・彦田錦斗雲(きんとうん)様。あの方は、ある意味では城門守護四士の方々よりも気を付けた方がよろしいですわよ」
 千和のそんな忠告も今更過ぎた。
「言われなくても気を付けはするが。でも気になるな。息子の方は分かりやすかったけど、何で父親にも初対面で睨み付けられなきゃならねえんだ?」
「どうも、御自分ではなくお父様が将軍様に招かれたことを……その、妬んでいらしっしゃるのではと。あくまで噂ですけど」
「ならあの態度は親父のとばっちりかよ。冗談じゃないぜ」
 親父のことを嫌っているというのなら、俺としてはむしろ仲良くできそうなんだがな。
「お父様がおられたころは彦田家の方たちとは、懇意にさせて頂いていたんですのよ」
 昔懐かしむように、といっても一年前程度のはずだが、千和は宙を仰ぐ。
「今となっては昔と変わらず接してくださるのは、次男の浮悌様くらいのものですわ」
 聞いてみれば、千和は浮悌を無碍(むげ)にしようとしていたのではないらしい。
 一緒にいるところを錦斗雲様に見つかってはまずいからと、浮悌を気遣う意味で断ろうとしていたというのだ。
 確かに、あの仕打ちは胸がすくを通り越して同情してしまう。
「あまり好ましい御仁でないことに変わりはありませんけども」
 そう付け加えることも忘れてはいなかったが。
「…………というかお前、気になる相手とかいるのか?」
 長らく家を空けていた兄として、相応しい質問かどうかは千和の判断に委ねる他なかったが、特に嫌がる風もなく答えてくれた。
「同じ桃侍御三家(ももざむらいごさんけ)に嫁ぐのであれば、風見(かざみ)家の雉ノ丞(きじのじょう)様のような、品のある方がよろしいですわ」 
 口振りを聞く限り、本気で思いを寄せているというよりは冗談交じりの絵空事のようで、俺はどこか安心した。
 妹の可愛さと可愛くなさを知る身としては、どちらの意味でもこいつを外に出すのは反対だからだ。
 さて、ともあれ彦田家親子と遭遇した衝撃からも立ち直り、俺たちは再度南へと歩を進めた。
 お次は温応城の南南西・火行区は未の処。先刻の彦田浮悌は、ここのお得意さんらしい。
 つまりそういう夜の店が多く、今の時間帯はどこも眠りに就いていた。
 兄妹で並んで歩くには気まずいのもあって、ほとんど素通りする形で南門朱雀橋を擁する午の処に到着する。
 第一印象は、とにかく『紅い』の一言に尽きる。
 屋根も柱も、何もかもが赤墨を引っ掛けたかのように朱塗りに染めてある。
「うへえ、何だこりゃ気持ち悪い」
 やたらと多い鳥居を潜りながら、俺は正直な感想を吐露する。
「先に話した通り、それぞれの区はそこを受け持つ守護四士様を頭として成り立っています。ですから、守護四士様のお考えが否応なく反映されるのですけど、火行区は殊(こと)にそれが顕著なのですわ」
「つまり、この身の毛もよだつ光景は南の城門守護四士様の趣味ってわけか」
 一体どんな奴なんだ?
 自然と沸いてきたこの疑問に応えるように、甘美な笛の音が風に乗って運ばれてきた。
 その音に吸い込まれるようにして、周りの貴族たちはふらふらとそちらへ集まっていく。
 決して慌ただしく走ったりはしないが、それ故に却って人の流れに抗えず、俺たちは一緒になって場所を移した。
 野次馬根性といえば言葉が悪いが、笛の音に誘われた者たちは俺たちの他にも大勢いた。
 そして、この輪の中心にいる男こそが、俺の会う初めての城門守護四士だった。
「あいつは……?」
「焔暦寺楠永(えんりゃくじ くすなが)」
 答える声は千和のものではなく、本人直々の名乗りであった。
 俺が輪の淵で漏らしたほんの小さな呟きが中心に届くほどに、この場はたった一つの音に、男に支配されていたのである。
 支配者――楠永は笛を唇からそっと遠ざけると、まっすぐにこちらを向いた。
 女はもちろん男でさえも見惚れるような美貌に、俺はしばしの間放心する。
 楠永がにこやかに笑いかけてきても、微動だにできな――ん!?
 何だ、いつの間に俺は表情が確認できるほど近くに寄っていたんだ?
 まるで一つの生き物かのように、辺りの貴族たちは俺と千和を自然と楠永の近くへと寄せていた。
 楠永が俺たちに気を向けたと分かるや、悟らせることもなく彼らは動いていたのだ。
 それだって、きっと無意識でやったことに違いない。
 神にも等しい楠永の求心力……のような、とにかく得体の知れない力に、未だに息継ぎさえ満足にできないでいた。
 しているうちに、楠永の方から口火を切った。
「僕に何か用かな? そういう目をしていたけど」
「あ、いや……」
 自分がひどく不敬を働いているような気にさせられ、呂律(ろれつ)もうまく回らない。
 こういうとき、頼りになるのはやはり千和だった。
「お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません、楠永様。十字郎お兄様は昨晩、十年ぶりに田舎町から温応に戻ってらして、楠永様の笛の音が珍しかったのでございます」
「君は確か狛走家の……そうか、なら君が狛走十字郎。一黙斎さんのご子息か」
 楠永は千和から俺の方へ向き直って言った。
 親父の名前が出たことで、俺の口はようやく滑らかに動くようになる。
「親父のこと、何か知っているのか!?」 
「うん。知っているよ」
 事もなげに首肯する楠永。
「頼……お願いします! ぜひ教えてください」
 俺たちが揃って頭を下げる前に、楠永は即答した。
「分かった」
 が、そこで言葉は終わりではなかった。
「僕に勝てたら、教えてあげるよ」
「えっ?」
「僕の力を見たかったんだろう? そういう目をしていたよ」
 楠永の提案から、俺は昨夜の黒装束を思い起こした。
 まさしく、犬も歩けば何とやら。こういう男と戦いたくて、俺はこの町に残ったんだ。
「お願いします」
 俺の応答に、楠永は楽しげに笑う。
「じゃあ始めよう。そうそう、君が負けたときは一つ僕の願いを聞いてもらうよ」
「ああ、それでいい」
 まるで怯まなかったと言えば嘘になるが、それ以上に俺の心は楠永と手合せできることで熱く燃えていた。
 またも天の意志に従うように人の波が引いていく。朱雀橋の上には俺たち二人だけが残った。
 一つ深呼吸をしてから二つ目の呼吸の間に刀を抜く。そうして、楠永の準備が整うのを待った。
 ところが、楠永はそれまで右手に持っていた笛を掲げたままに動きを止めた。
「どうしたの? 礼も審判もいらない。いつでもかかっておいで」
「何の真似だよ、それは? その笛で俺の相手をするってのか?」
 空いた方の左手はだらりと下げた、何とも気の抜けた構え。
 子供のチャンバラごっこでも、もう少しましな形を取るだろう。
「腰のそれは飾りか?」
 楠永が差している柄にも鞘にも華美な装飾の施されている刀を、俺は顎で指し示す。
「飾りさ。これは宝剣だからね」
 俺の挑発にまともに返答し、楠永は続ける。
「心配はいらないよ。君の剣は僕には届かない」
「………………」
 俺はもう一度、さっきよりも深く息を吸い込む。
 落ち着け。惑わされるな。冷静に。向こうの狙いは俺から平常心を奪うことにある。
 うん、大丈夫だ。脇差にも満たない笛など、間合いの差で抑え込める。
 このまま、この距離から仕掛ければ――いける!!
 間違いなく、俺の踏み込みの方が早かった。俺の剣は確実に楠永を捉えられるはずだった。
 これが平面の勝負だったなら。
「――上っ!?」
 いや、上だって同じことだ。あんなところから届くはずはない。
 このまま切り上げれば俺の勝ちだ。そのとき、すっかり忘れかけていた肩の傷が途端に悲鳴を上げた。
 俺の腕は上がらずに、傅(かしず)くように楠永に頭を差し出すだけになる。
 ちょん、と小突くに止めて楠永は俺から一本を取った。
 歓声は上がらない。どよめき一つ起こらない。
 笛の鳴るのと同じように、楠永の織り成す美技に周りは酔いしれるばかりだった。
「それでは十字郎くん、僕の願いを聞いてもらおうかな」
 楠永は二度目の敗北に意気消沈とする俺を、意に介することなく話を運ぶ。
 というよりも、この勝負そのものが初めから楠永の思惑通りだったと言っていい。
 あるいは、俺に声をかけたときからそれは始まっていたのかもしれない。
 俺の怪我や勝気に逸っていること、すべてを見抜いた上で勝利までの道筋を組み上げていたのだ。
 完全なる位負けだ……。このとき、俺は黒装束と戦ったときを上回る敗北感を覚えた。
 正直、無理矢理に頼み込めば親父のことが聞き出せるかもしれないとも考えたが、約束は約束だ。
「…………分かった。俺は何をすればいい?」
 これから何をするのか?
 奇しくもこの敗北で、俺はその答えをもたらせることになった。そして、同時に知ることになる。
 焔暦寺楠永――この男の策謀は、まだ終わっていないということを。


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