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作品名:クロード・レヴィに捧げる弾丸 作者:葦原瑞穂

最終回 12
 波打ち際に、束の間、霧の立ち込めた沖合の彼方に、身を捨つるほどの祖国が見えた。

 気がした。
 したのだ。確かに。

 タバコの煙が舞台の上からゆっくりと二階席に向かって広がり、照明のライトを吸収しながら、濃すぎる霧の演出となって散っていった。
 演出家が灰皿を頭の上にふり上げて怒鳴る。

「何やってんだバカっ! 客席から舞台の顔が全然見えねえじゃねえええかっ! そもそもお前ら消防法知ってんのか!」

 だが確かに、そこには一縷の、我らが寄って立つ国土の、その無窮の尊さが具現していたのだ。
 いたのだ。
 確かに。
 気のせいじゃなければ。

「もういい。帰れ。帰れって言ってんだこのトーヘンボク! お前らみんな要らんっ! やめちまえこの●●●! 」

 我々は、ぞろぞろと、無能じみた群像エキストラのように舞台袖に歩いて行った。
 そっと舞台上をふり返ると、パイプ椅子に沈み込んだ老演出家が、火事後のすすき野のような惨憺たる頭からくゆる煙を燻らせて、物悲しげに自身の台本に目を落としていた。


 帰れと言われて帰る演者も演者だが、身を捨つるほどの、その、何か、それを、確かに感じたはずにも関わらず、付和雷同に虚心退散した自身も自身である。
 何かこうたまらなくなって、その、もののあはれな老人に一言かけてやりたくなり、そそと連中の群れから抜けて再び舞台の階段を上がった。

 物憂い熱を帯びた白熱の照明が、盛夏の太陽を演出し、それをぶ厚く遮る涼しげな霧の只中に、波の静かにさんざめく音が聞こえる。

 幸いというか、不幸にしてここにマッチはないが、パチ屋でもらったライターはある。
 しかし、シンセイか、パットか、せめてピース。それらはない。
 あるのはマールボロ、ケント、パーラメントにクールマイルド――。
 こんなものを持って行ったら、またそら怒号の餌食である。

「あんた、ちょっと――」

 ふいに背後から声をかけられ、向くと主演の女優が上半身半裸の腰巻姿で立っていた。

 巫女だかイタコだか祈祷師だかの、その拙劣なカリカチュアである。
 舞台上でストリップ寸前の、公然猥褻一歩手前から半歩先までを晒すのであるが、本人は学校をやめて家出してきたという年端もいかぬ少女である。

 少女――。
 身を捨つるほどの――。

 その時、ふいに得心がいった。
 そうである。
 見えたのは確かに少女のそれだった。

 それが束の間、霧深き舞台の中央遥かに、主に私の角度からのみ見えたのだ。

 とっさに、熱した頭に冷や水のごとき、肌を刺す冷気が滴り落ちた。
 霧に惑わされているのではなかった。

 老演出家は、全員平等に怒鳴り散らしたが、実際は私一人のみを目の敵に怒鳴っていたのだ。
 奇しくも今日、終戦記念日である。
 演出家の年離れた兄は、大陸だか南島だかで戦死したという。
 私の父の大叔父とて異国のどこかで戦死しているが、あえて口には出さなかった。
 確かに見えたのだが、記憶はおぼろで損をした気分は拭えなかった。

 だが――、そう、その感覚は、主に嗅覚に残っていた。
 束の間、それは本当に束の間だったが、あの七十一年前の夏の日に、祖国遥かな異国の戦場で、我らの祖先が目にした光景と同じ潮の香りだったのだ。

「先生っ! 」

 私は、孤独な老いた演出家に向かって叫んだ。
 演出家は、白日夢に揺蕩うような曖昧な目つきで私を見た。
 私の中には、初演を迎えるまでもなく、この舞台が大成功に終わるであろうという確信に満ちた予感が芽生えていた。
 我らの祖先が、正しいやり方でこの国を思ったのと同じように、我々は我々のやり方でこの国の弥栄を願うのだ。

 少女が駆け寄ってきて私の肩を掴んだ。
 腰巻の裾がはだけ、多くの部分が露わになった。
 演出家は、得たりとばかりに曖昧な状態から覚醒し、ヤニにくすんだ眼鏡の奥でその眼球を剥き出した。

「あんた、やめてっ! 」

 少女が叫んだが、私は既に舞台の演出家に駆け寄り、その両手をしっかと握り締めていた。

「先生……」
「お前、まさか……まさか、ついに……? 」
「ええ、確かにこの目で――! 」
「そうかっ! そそ、そうかっ! 」
「ええ見ましたとも! 見えましたとも! あれは、あの色かたちは確かに――」


お――。


 その言葉を発しかけた時、少女の握ったガラスの灰皿が、私の後頭部を打っていた。
 目の前が眩み、平衡の感覚が失われた。
 まるで夜の海に身投げるような、どうでもいいような感じがして、すべもなく私は昏倒した。


 潮騒の、ぐるぐると遠ざかる中で、やがて濃霧に消えゆかんとする意識の中で、私は、私の父の大叔父と、演出家の兄は同一人物なのではないかと、孤独に一人勘繰っていた。


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